@raixxx_3am
第一印象からして、最悪だったのだ。
という前触れで始まる場合、得てしてその印象は翻るものかと思われるのだが、極まれに驚くほどに一貫してぶれない人間がこの世には存在する。
そのひとりが、桐嶋周にとっての瀧谷忍という人物だ。
つまんねえな、分かってたけど。
間接照明の薄ぼんやりとした明かりに照らし出された、北欧風だかなんだかよくは知らないが、木目の床に、おしゃれっぽい抽象画、どこもかしこもアイボリーを混ぜたような薄ぼんやりとくすんだ色合いで統一された調度品をぐるりと見渡しながら、何度目か分からないため息を緩やかに吐き出すようにする。
知り合いのそのまた知り合いの店の開店祝いだか、リニューアル祝いだかーどちらかもよく分からないけれど、とりあえず顔を出せば一食分浮くから、と人数合わせで潜り込んでいるーだなんて、向いていないに決まっている場所に顔を出しているのだから、そんなの当たり前だけれど。
紹介される顔ぶれを前に、適当な愛想笑いでいなして、
出来るだけ人畜無害な風を装って、出来るだけ人波からはぐれられる場所を探して移動して、その合間に胃の中に必要分の幾ばくかのカロリーを詰め込んで。
それにしたって、食べつけないものを流し込みすぎた。肉と野菜と香辛料とハーブがアルコールの海の中でたゆたいながら無様な踊りでも踊っているかのようだ。
砂時計から落ちる砂がどんどん身体の奥に積もっていくようなあやふやで心許ない気分のまま、そろそろ抜け出す算段でもつけようかと思ったところで、突如視界を、見慣れないその影が覆う。
「ねーねー、シュウってどんな名前?」
物怖じ、という概念が全くと言って存在しなそうな気安さで、突如無遠慮な親しさがこちらへと飛び込んでくる。
男にしては少し長めの、毛先を無造作に遊ばせた髪型に、少しゆるめだけれど適度な清潔感のある、如何にもファッション雑誌のスナップから抜け出してきたような女の子にウケそうな服装、黒目がちで少し潤んだように見える、くるくるとよく動く焦げ茶色の瞳。
何かに似ていると思ったらあれだ。子どもの頃に見せられたディズニー映画のバンビだ。
男にこんな第一印象はどうだろうかと思いながら、ひとまずは様子見とばかりに、目を合わせないようにしながらちらちらと様子を伺えば、絶対零度のつもりのまなざしにひるむことなどない、能天気としかいえない口振りが返す言葉はこうだ。
「ねー、聞いてんじゃん。シュウゾウ? シュウタロウ? シュウジ?」
「……あまね」
観念したかのような心地で、アルコールと香辛料で少しヒリつく感触の残る口元を拭いながら周は答える。
「円周率の周」
「いい名前なのにね。勿体なくね?」
何が、と問い返したくもなるが、いちいち相手をするのも面倒なのでちらりと視線だけ投げ返せば、いやに得意げなにやにや笑いが返ってくる。
どうして笑えるんだろう。見知らぬ他人の前で、こんな風に無防備に。
自分のことは棚に上げて、無意味な苛立ちにさっと感情を掬われるのを感じながら、手元のおしぼりを捻るその仕草と共に、目の前の男と目を合わせないように、なだらかなカーブを描く、少し厚めの耳のあたりをぼんやりと眺める。
いかにもピアスなんてぼこぼこ開けていそうなのに、一つも飾りがついていない素のままなのが不思議だ。こういう奴に限って、痛いのがヤだとか、親に貰った身体に穴を開けるだなんて、とか言うんだよな。ああ、あるある。
飲みつけないアルコールのせいか、紗がかかったような薄ぼんやりと曖昧な心地のまま、ホッチキスで閉じたように重い唇を押し開くようにして周は言う。
「ていうかおまえ、なんで俺の名前」
「おー、忍。こっちいたの」
「あー、りょうちゃん! ちょっとぶりだねー、ちっす」
人なつっこい安価な笑顔と共に気安くぶんぶんと手を振って答える仕草を前に、答えを聞く必要がなくなったと、どこか安堵にも似た気持ちがこみ上げる。ああ、成るほど。そちら様でしたか。
「何おまえら、一緒だったの? てか、初めてじゃなかったっけ、ここふたり」
「別に」
「まー俺がナンパしたんだけどねー?」
ぎろ、と横目でだけ視線を返せば、全くへこたれる様子のないにやにや笑いが即座に返される。
ってことは――たどり着いた一つの可能性が、ぐらりと視界を揺らす。
だから何だっていうんだ。よりによってこんな、如何にも関わりたくないタイプの人種に。
「なー忍、そういやさー」
どうやら古くからの馴染みらしい遠慮のない親しさで、亮二は尋ねる。
「向こうにエリカちゃん居たよ、顔出しとかなくていいの?」
「まーじかー」
途端に、気安いその笑顔は見る見るうちに曇る。
「何おまえ、またなんかやらしかたわけ?」
ちくりと棘を刺すような言葉を前に、肩を竦めるようにしてへらへら笑いを浮かべながら目の前の男は答える。
「や、あの子のツレとちょっと? なんかさ、女の子ってその辺の連帯間いろいろあんじゃん」
「おまえさ、ジゴージトクって言葉知ってる?」
けらけらと気安く笑う姿に、無様に感情がさらわれるのを抑えきれない。何だよ、やっぱりそうなんじゃん。
身勝手な空回りは心を軋ませて、惨めさを際だたせる。
自分は「そう」はなれないだなんて、こんな劣等感、いちいち感じる必要ないのに。それでも、染み着いた思考の癖はそう簡単には修正など出来ないのだ。
「そろそろ帰るわ、俺」
「えー」
がたり、とわざとらしく音をたてるように立ち上がれば、まるでおもちゃを取り上げられた子どもみたいな率直さで傍らの男は抗議の声をあげる。
「会ったばっかじゃん、じゃあ俺も周と一緒に帰る」
「……おまえ」
なんで当たり前みたいな気安さで呼ぶんだ、その名前を。わかりやすすぎるほどの不服さを表情に張り付ければ、けろりとした様子で続けざまに告げられる言葉はこうだ。
「周でしょ、名前。シュウってあだなよりそっちの方が全然いいじゃん」
ねー周? さも当然とばかりに親しげに呼ばれる馴れ親しんだはずの名前に、どこか違和感を味わう。肉親くらいしか呼ばない忌み嫌う名前をなぜ、この男は当然のごとく呼ぶのだろう。それも、ついさっき会ったばかりとは思えない親しげな様子で。
「シノブって……」
観念したかのような様子で、周は口を開く。
「忍者のニンであってる? 字」
「だよー。瀧谷忍。忍って気に入ってるから、そっちで呼んでよね」
女みたいな名前、とは思わないのだろうか。ひとかけらも曇りを感じさせないその口ぶりに、無様に感情が揺らされる。
「ねー周、一緒に帰ろうよ。駅どっち? 地下鉄?」
ガタリ、と音を立ててその場を立ち上がる仕草につれて、チャリ、と腰にぶら下がったチェーンが音を立てる。星形のカラビナの先にぶら下がるのは幾種類かの鍵と、黒猫のキャラクターのキーホルダーだ。
ああ、こういうの苦手なタイプだ。チェーンで鍵とか財布とか、じゃらじゃらさせてるヤツ。
偏見はよくないと思いながらも、わざとらしいくらいにふっと息を吐き、周は答える。
「地下鉄だけど、おまえは?」
「あ、一緒だぁ」
何か企んでいるのか、逆説的に全く何も考えていないのか――へらへらと軽いその笑顔は、腰にぶら下がったおどけたような黒猫の表情ととどこか似ていることに、今更のように気づく。
「……さっさと出たいんだけど、もういい?」
答える代わりのように、目尻を下げたいやに親しげな笑い顔が返される。
「りょうちゃんまったねー、朱美ちゃんとかにもよろしく言っといて。またあそぼって」
「ん、気ぃつけて帰れよ。シュウもな。こいつ、夜道で刺される可能性あるからさ」
「えー」
不満げに唇を尖らせて答える言葉に、傍らでびくりと微かに肩を揺らしてしまう。
そんなヤツなのかよ、こいつ。うわあ、心底メンドクサい。
世の中には得てして、出来るだけかかわり合いになりたくない人間とそれでも関係性が発生してしまう事態が存在する。
それでも、それを永続的に繋ぎ止めるかどうかは、結局は自分次第なのだ。
たったこの一晩の、そのほんの一瞬限り。
そう決めたはずのこの奇妙な男との関係は、それでも、周の思いもよらぬ方向に動き始める。
「ただいまー」
返事をする相手など居るはずもないのに、習慣付いてしまった定型句を吐き出しながら、紐もほどかないまま乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てる。
ただいま冷蔵庫、ただいま洗濯機、ただいま型落ち機種をセットで買ったパソコンとプリンター、ただいまエアコン。ただいま、その他大勢の構成員たち。ただいま、狭苦しくも住み慣れた我が家。
大学入学と同時に実家を出て一人暮らしを始めて、四年目になる。炊事も洗濯も掃除も、決して楽しいとは言えないけれど、それなりに苦にならずに日々の生活習慣としてきちんとこなしているつもりだ。
やることがないことに気づいて唐突な虚無感に襲われるくらいなら、日常の雑事に追われているくらいの方がちょうどいい。
約七畳、家賃六万の1K。一国一城の主だなんていい気になるつもりはないけれど、それなりに快適に暮らしているつもりだ。四年の生活の中で、他人をあげたことは数えるほどしかない。うしろめたいことなどあるわけもないけれど、とかく、他人に踏み入られることは昔から好きじゃない。
「そいやシュウって一人暮らしだよね。いいなー、女連れ込み放題じゃん」
「貸さねえからな」
「えー、なんでそんな言い方すんのー。シュウくんこわーい」
気安いコミュニケーションのつもりで投げかけられる軽口を冷たくかわしても、態度はそう変わらない。
高校生と大学生の経験値なんてほんの数年しか変わらないのに、どうしてこう人づきあいのこころえ方が如実に変化するのだろう。何かにつけてつるみがる高校生のべたついた人間関係と違って、連携プレー・集団責任を押しつけられない大学の人間関係はずっと気楽だ。
ゼミの発表グループ、学籍番号順で割り振られた組み合わせで機械的に組まされた連中とは、気安くつき合える気の良い奴らばかりだったこともあってか、選択授業が離れてからも、こうして学食で顔を合わせては他愛もない話をして暇を潰す程度の人間関係を保っている。
「てかさ、シュウってよく見るとイケメンなのにあんま遊ばないよね。カノジョとかつくんなくていいの? 一人だといろいろ不便じゃん? 洗濯とか飯とか、あと、風邪ひいた時とかさー」
ごく当たり前、とでも言わんばかりに投げかけられる言葉を前に、わざとらしい渋面を張り付けるようにして周は答える。
「彼女はオカンじゃねえだろ。自分の世話くらい自分でするっつうの」
「てかタモツさ、よく見るとってシュウに失礼じゃね? 自分のツラ鏡で見て出直した方がいいぞそれ」
タモツ、と呼ばれた彼の肘のあたりを、気安い仕草で傍らの男は小突く。その仕草に合わせて、机の上に置かれたプラカップのコーヒーの水面が微かに波打つ。
全くもって不自然なところなどない、日常の動作。こんなことがどうしようもなく怖くて周には到底出来ないだなんて、もし知られてしまったら、その場で舌を噛み切ってやりたいだなんて、こいつらには知る由もないのだろうけれど。
「クールだもんね、シュウは」
「平熱は低いけどな」
まーたまたー。おどけたような笑い顔を浮かべたまま、ニット帽からはみ出した癖毛の黒髪をいじる少し骨ばった指先をぼんやりと眺める。
「あれかー、まだしばらくは右手が恋人ってヤツ?」
場を和ませるつもりなのか何なのか、香りのとんだ薄いインスタントコーヒーを啜りながらかけられる言葉を前に、ひとまずは力ない苦笑いを浮かべながら周は答える。
「ばかやろう、俺は左手派だ」
そもそもそんなに不自由してねえよ、がっついてるおまえらと一緒にすんじゃねえ。
昼間にふさわしくない会話に反旗を翻したくとも、ぼろを出してしまうのが怖くて、適当に軽口を投げ返して「普通」を装うくらいしか出来ない。
自分を慰める、と書いて自慰とはよく言ったものだ。
生理現象として予期せぬタイミングで夢精などしてしまったら片づけに手間取る羽目になるから――そんな理由で、気が向いた折り不定期にかつ、機械的な搾取のようなやり方でしか、周はここ数年していない。
「普通」の男のようにそれらの行為に執着出来れば、ざっくばらんな日常会話にも難なく参加出来たのかもしれないのに。出来る限り欲望の対象を思い浮かべず、快楽にのまれることを拒否しながら排出を促す行為は排泄となんら変わらない。行う度、自分が浅ましい生き物であることに嫌悪感を覚える。
それなのに、男である限りはそれが耐えがたい楽しみであるように振る舞わなければいけない。こんなおかしなことがあってたまるだろうか。
あいつならどうせ不自由してないんだろうな、知らんけど。
ありきたりな下ネタがいつの間にかアルバイト先の人間関係の愚痴に移り変わるその頃、一週間ばかり前に出会った男の姿が何故か不意に頭の隅をよぎる。
いやにこちらをじっと見る癖のある、くるくるとよく動く薄茶色の瞳、物怖じしない態度、少し鼻にかかったような「周」と呼びかける声、仕草につれてぴょんぴょん揺れるふわふわ柔らかそうな赤みを抑えた茶色の髪、チャリ、と微かな金属音を立てる腰に下げたチェーンの音色、スエットの袖口からちらりと顔を覗かせた、手首の浮き上がった骨。
どうしていちいち思い出してるんだろう、こんな時に。まぁ、それだけ(悪い方向に)印象づけられた出会いだったからにほか成らないのだけれど。
それ以上でもそれ以下でもない。今更ながら、良い言葉だなと周は思う。
例のおかしな男――瀧谷忍といった――とは、あれっきりもう顔を合わせることなどないだろうという周の期待を裏切り、乗り換えに使うターミナル駅がどうやら同じらしく、程なく再会を果たしていた。
「あーまーねー!」
こちらを見つけた途端、大声をあげてしっぽをぶんぶん振る大型犬のごとく妙な人なつっこさで手を振って近づいてくる。ていうかよく覚えてんな、一度会ったきりなのに。人違いだったらどうすんだよ、恥ずかしくないのだろうか。
呼びなれない名前を大声で呼ばれたことにこさばゆさを隠せずに居れば、当の本人はといえばまったく怯むことなどない様子で気安くこちらに近づいてくる。
「ああー、やっぱそっかあ。良かったぁ、俺視力いい方だけど人違いだと気まずいもんねー。やっぱこの駅通るよね、もしかしたら今までもずっとすれ違ってたんだろねー?」
人通りの激しい駅ナカのコンビニの前、せわしなく通り過ぎていく社会人や主婦、学生たちの雑踏に紛れてしまわないようにと、以前にも耳にした少し鼻にかかった、それでもよく通る声でじっとこちらを見据えたまま、まるで随分昔から見知った旧友のような親しげな態度で目の前の男は話しかけてくる。まだ知り合ってたった二度目なのに。
「どうせどっかでまた会うだろうなって思ってたけど案外早かったねー、うれしー」
社交辞令というにはふさわしくない態度で笑いかけられて、思わずざっと感情が泡立つ。誰にでもこうなのだろう。何のために? 何とも思っていないはずの、寧ろ自分を警戒しているであろう相手に気安く笑いかけられるこの男の神経が周にはわからない。
「……なんでそんななの」
不躾を承知で、おもむろに周は尋ねる。くるくるとよく動く薄茶色の瞳は、それでも怯むことなくこちらの姿をじっときつく捉えている。
「前会っただけじゃん、いっぺん」
「だからもっぺん会いたかったんだけど?」
なにが、とでも言いたげに、耳にかけた髪を指先でいじるその仕草と共に忍は答える。
「りょうちゃんの知り合いのシュウってこの人かー、へーって思ってさ。知り合ったんなら話したくなるし、ちょっと話したらまたもうちょいゆっくり会いたくなるじゃん。普通っしょ、そういうの」
この男の「普通」と自分のそれはどうやら違うらしい。目の前に提示された事実を前に、どこかくらくらするようなそんな居心地の悪さが突きつけられる。
「つまんなくない、俺と会っても」
「つまんないかそうじゃないかは俺が決めるし」
そゆとこ良くないよ、否定から入るみたいな? 唇を尖らせ、どこかいじけたように答えるその仕草に無様に感情がぐらつく。
「なんかごめんね、呼び止めちゃって。俺、用事あるから行くわ。近くなんだしさ、よかったらまたあそぼーよ。そだ、番号聞いてもいい?」
「忘れたから、今日」
ポケットに押し込んだ四角い端末の感触を前に、見え透いた嘘を吐く。
分かりやすすぎるそんな態度を前に、一行も怯まない様子で投げかけられる答えはこうだ。
「そっか、じゃありょうちゃんから聞いても良い?」
「……いいけど」
無様に目を逸らすようにして電光掲示板の方にちらちらと視線を泳がせるこちらを前に、一向に怯むことなく忍は答える。
「じゃあまたね、周。どうせ会うっしょ、どっかで」
へらへら笑いと共に答える男の背後では、次々に移り変わる電光掲示板が映し出すファッションビルの改装売りつくしセール情報と、足早に次の目的地へと急ぐ行き交う人たちの影がいやにちらつく。
「また」
機械的に答えながら、油を差し忘れたロボットみたいなひどくぎこちない仕草で手を振れば、満面の笑みと共に親しげにぶんぶんと手を振りながら遠ざかられる。
悪い気分なわけではない。でも、だからこそ感情の処理が追いつかない。
どうしてあんな風に、どうして自分なんかに。どうせ誰にでもああなんだろ? それに何の意味があるんだか。
すっかりその影が潰えたその後も、どこか胸に切り抜きを施されたようなそんな虚しさだけが残る。
日常の雑事を一通り終え、夕食の片づけを終えてようやくひとごこちのついた頃、充電が半分近く減ったままのスマートフォンに着信が入っていることに気づく。亮二からのショートメールだ。(既読機能の煩わしさから、LINEは導入してすぐにアカウントを消した。仲間内でもそれは了承済みだ)
――『忍から連絡来たんで番号教えたよ、事後報告でごめんな』
別にそのことには何の問題もないのだけれど。画面をタップして、すぐさまするすると返事を返す。
――『いいけど、あいつ何なの』
送信ボタンを押してすぐ様、手の中の端末は振動音と共に無機質な機械音声を轟かせるように鳴り響かせる。
「おー、もしもしシュウ? ばんは。いまだいじょぶ?」
「いいけど、まぁ」
こちらが答えるよりも先に話題を持ちかけてくるのは、出会った頃からの亮二の癖だ。どこか遠慮がちな様子で、ひび割れて少しくぐもった機械越しの半透明な声色で亮二は続ける。
「いや、なんかおまえら今日会ったって聞いたから教えたんだけど? なんかやばかったの?」
「……そうじゃないけど」
ずる、とソファ代わりに腰を下ろしたシングルベッドの上、シーツを握りしめる指先にわずかに力を込めるようにしながら、周は答える。
「妙になれなれしいっていうか何ていうか……ああいう人種ってあんまりみたことないから、どうしたらいいかわからん」
「ああー……」
承知した、とでも言いたげな深く吐息が吐き出される様子が、受話器越しに鼓膜をさわさわとくすぐってくる。
「ちょっとそういうとこあんだよ、あいつ。良い意味で気安いっつうか、人たらし? みたいな」
「どこで会ったか聞いてもいい?」
微かに息をのむ気配を忍ばせながら、亮二は答える。
「一年くらい前かなー。ダーツバーでさ、あいつらグループが隣に居て。お兄さん巧いね、どうやって投げんの? コツとかあるんです? って、あの感じでさくっと尋ねてきたのね」
「……すげえ想像つくわ。それ」
当たり前のような振る舞い、気安い笑顔、手の上げ方まで――行ったこともない店の様子と共に、見る見るうちに、その日の光景が浮かぶのが不思議だった。
こんばんは。名前は? ここで会ったのも縁だから。
ごく当たり前のような気安さで、隣あっただけの人間に接触を図れるそういった類の人間がこの世には居るのだ。周にはにわかには信じられない話だけれど。
「まあさ、それでたまに呑み行く時とか誘ってたのね。あいつさ、ああいう感じだから居るとなんかこう、場が回りやすいみたいな? そういうのあんじゃん。ムードメーカーっつうか。そっか、シュウはなんだかんだであん時初めてかぁー」
口ごもる態度をよそに、どこか気まずいような口ぶりで亮二は続ける。
「なんつうのかなぁ……あいつ、よく見てるとこあんだよ。ああいう仲間内で居てもさ、ぐるっと周りみて、なんとなく輪からはずれてるヤツとかつまんなそうにしてるヤツが居たら自分からさっと話かけてんの。なかなか出来ないよね、そういうの」
「同情されてんの、俺」
「シュウにはそう見えた?」
表情など見えなくとも、いじけた子どもを宥めるかのようなうんとやわらかなその口ぶりを前にすれば、心のふちをそっとなぞられたかのようなこさばゆさがこみ上げる。
「……あのさぁ」
刻一刻と時を刻む壁時計の秒針をきっと睨みつけたまま、ふっと息を吐き、どこか覚悟を決めたような心地で周は尋ねる。
「変なこと聞くけど。そうじゃないよな、あいつって」
ほんの僅かな間をおいての気まずい沈黙の後、うっすらと苦笑いを潜めた響きを携えて返ってくる言葉はこうだ。
「……だと思うけど、女の子大好きだし。てか、人間全般に興味がある、みたいな」
「わけわかんねえ」
シュウならそういうと思ったわ。あきれたような、それでも、確かにそこに潜めた温もりを感じさせてくれる言葉を前に、僅かに胸をなで下ろすような心地よさを味わう。
亮二のこういった気遣いと適切な投げやりさを潜めた距離の置き方を心得てくれた態度は出会って間もない頃から好きだ。あいつとは大違いなところが。
人付き合いが好きかと問われれば即座に首を縦に振ることは躊躇われるが、だからといって他人を一切拒絶して生きてきたつもりは周にはない。
それなりの注意と警戒心を払いながらも、中学高校と通り一遍の友人関係は築いてきたつもりだ。それは、大学に入ってからも変わりない。携帯には男女共に幾人かの連絡先が入っているし、誘われれば、複数人でも一対一でも、休日を過ごす相手くらい居ないわけじゃない。
趣味も育った環境も違うやつらとどうやって交流を深めていって他愛もない笑い話や日常のあれやこれやを聞き流すような間柄になったのかなんて、そんなこといちいち覚えているわけもない。
一緒に居る必要がなくてもいくらでも共に居られるのが友達だ、という言葉をいつか、聞いたような気がする。それなら、今目の前に居る男との関係を定義する言葉は何だろう。目下のところの懸案事項はそれだ。
「ごめん、ちょっとだけLINEみていい?」
「どーぞ」
いつものようにぶっきらぼうに答えれば、カーディガンのポケットから取り出したスマートフォンの画面をうつむいた姿勢でぼんやりと眺めるそのつむじのあたりに、視線をふらりと泳がせるようにする。
別にいちいち断らなくてもいいのに。バイト先の同僚もゼミの顔なじみも、大抵のやつらは話をする間も半分くらいの時間はスマフォの画面を見ながらが常で、話半分にしかこちらの話など聞いていない。
そのぶん気楽だと、そう言ってしまえば確かなのだけれど。逆に、こんな風にいちいち相手に断りながらまっすぐ向き合ってこられると窮屈だ。いかにも軽薄さを張り付けたように見える態度とは正反対に感じられるから、余計に。
「りょうちゃんだ。ロト当たった人が奢ってくれてるけどおまえも来る? って」
「あっそ」
亮二の性格なら手当たり次第声をかけているのだろう。もしかしたら自分のところにも同じような連絡が届いているのかもしれないが、いちいち確かめるのも面倒だ。
チェーンの居酒屋のキャンペンメニューを特に興味もないまま流し見しながら素っ気なくそう答える周を前に、どこか不満げな様子で忍は答える。
「周といちゃいちゃしてるから今度ねって送っていい?」
「語弊のある言い方すんじゃねえよ」
「はいポチっと」
僅かに眉根を寄せて訴える抗議の声など気にも止めない様子で、長くしなやかな指先がスマートフォンの画面をタップする。
「てかいかなくていいわけ、おまえは」
たこわさをちょいちょいとつつく周を前に、何でもないと言いたげなあの気安い笑顔を向けながら、目の前の男は答える。
「だって周と居たいじゃん」
どうしてそんなことが気安く言えるんだろう。何度会っても、何時間くだらない話をしても、この男のこういう他人を喜ばせようとする何気ないサービス精神が周には到底理解出来ない。
「お待たせしましたー、砂肝炒めにつくね串、塩キャベお持ちしましたー。メニューすべてお揃いですか?」
「あ、はい。どうもどうもー」
間を呼んだように現れた金に近い茶色の髪をひっつめた少し派手目の化粧を施した女の子の店員に向けるにやけたような愛想笑いを目にした途端、どこか安堵にも似た気持ちがこみ上げるのを感じる。
そうだよ、それでいいんだよ。おまえは「そっち」なんだから。
「ていうかおまえさぁ」
塩昆布のぱらぱらと散らされたキャベツを付属のトングで取り分けながら、周は尋ねる。
「俺とじゃなくて、女の子と居なくていいわけ? えーとなんだっけ、まゆかちゃん?」
いつか誰かの噂話にちらりとあがった名前を出した途端、わかりやすすぎるくらいの苦笑いと共に、「あー」とうなり声に似た声をあげられる。
「イタイとこつくねえ」
イタイのかよ、そりゃ失敬。胸のうちでだけそう呟く周を前に、グラスの底に溜まった水滴を指先でくるくるなぞるその手を止めないままに忍は答える。
「もー会わないって決めたばっかでさ」
「別れたんだ」
「だいぶ前だけど」
噛み合わなさに首を傾げるこちらを前に、卓上の七味をぱらぱらと砂肝にふりかけながら、目の前の男は言う。
「たまーにね、寝るだけってので続いてたわけ。半年くらいかなぁ」
「はぁ」
セフレと切れたからって暇つぶしかよ、わぁこいつらしい。
口には出さないまでも、侮蔑の感情を隠せないまま口元だけを僅かに歪ませるようにすれば、そんなこちらの態度など予想済みとでも言わんばかりのにやついたいつものあの笑顔が返される。
「今さぁ、不潔とかって思ったっしょ」
言わないのがらしいよねえ、周は。いやに嬉しそうに笑いながら、ぱくぱくと旺盛に砂肝に箸をつけるその姿を前に、感情が無様に揺さぶられる。
伝わってるなら意味ないだろ。なんで平気な顔が出来るんだよ、そうやって。
「言い訳みたいであれだけど、たぶん周の思ってるようなのじゃないよ」
食べな、と取り分けように出した箸で砂肝をこちらの皿に載せながら、忍は続ける。
「たまーにね、何もしないで一緒に寝るだけって、そういう感じだったわけ。なんかこう、人肌恋しいみたいなそういうのってあるじゃん。したいわけじゃなくて、ただくっついてたくて。でもね、そゆのももう全部なしって決めたわけ。向こうになんか、好きな奴が出来たみたいで。さすがにさ、相手いんのにずるずる俺なんかに頼ってちゃダメっしょ。何もしてあげらんないんだし」
何の気なしに答えそのそぶりには、それでも、隠しきれない寂寥感にも似た態度が淡くにじむ。
「……よくあんの、そゆの」
串の先に残したつくねをマヨネーズの山にちょいちょいと突き刺すようにしながら答えるこちらを前に、どこかぎこちなく見える笑みを浮かべたまま、忍は答える。
「あの子だけかなー、今んとこ。なんていうか、相性がいいっていうの? だからって、ずっと上手くいくとは限んないよね」
戻らないものを慈しむかのようなその態度には、いつものにやけた愛想笑いの下に覆い隠した本音が僅かに滲むようだ。
「体よく利用してたんだよね、要するに。つきあってた時の最後のほうからずっとそう。そりゃ飽きられるわなーって感じだよね。正直安心したとこあるもん、もう会えないって言われて。なんか結局、向こうから都合よく切ってくれんの待ってたみたいな」
うわー、俺サイアクじゃんね? 自虐的にケラケラと笑うそんな態度を前に、それでも、責める気持ちより、どこかちくりと胸を突き刺されるような甘く鈍い感傷を味わう。
「……要は寂しかったんだろ。おまえも、その子も」
「だからって、理由にしちゃいけないよね」
瞳を細めながら投げかけられる言葉を前に、心の芯が微かにぐらつくような心地に襲われる。
「寂しくない奴なんて居るわけねえじゃん、当たり前だろ。お互い様なんだから、おまえだけ悪者になりたがる必要ないだろ」
照れ隠しのように、ぱり、ぱり、と音を立ててキャベツをむさぼる。
「優しいね、周は」
「……どこがだよ」
「まーたまたー」
茶化すようなそんな口ぶりに、無様に心の奥を揺さぶられてしまう。
知らないから言えるんだよ、そういうこと。胸の奥でだけそうひとりごちれば、がらんどうの心に空しくすきま風が吹きすさぶ。
優しいだなんてそんな言葉、自分には何よりもふさわしくないのに。
優しいのは忍の方だ、と周は思う。ちゃんと人を好きになれるのが、何よりものその証だ。
結局誰だってみんな、自分しかかわいくないに決まってる。自分のことなんてひとつも好きになんてなれないくせに、自己保身に走って上辺を取り繕うのに必死な自分自身が何よりものいい例だ。
壁を作っているのは紛れもない、自分自身なのに--こんな風に意味もなく八つ当たりをしてしまう自身の狡さが誰よりも嫌いだ。
わざとらしい不機嫌を張り付けたような表情を浮かべながら、周は答える。
「面倒なんだよ。他人に寂しさ埋めてもらおうなんて思えるほど器用じゃないだけっつうか」
おまえとは違って、という喉元までせり上がった言葉をそのままぐっと飲み込む。
なんでこんな話してるんだろう。知り合って大して間もないのに。
「カッコいいなぁ周は」
グラスを傾けながら注がれるにやにや笑いを前に、居心地の悪さと、それでもどこか穏やかなぬくもりを受け止めずにはいられない。こんな気持ち、ほしくないのに。
「茶化すんじゃねえよ」
「茶化されてるって思いたいんだ?」
くに、と奥歯で砂肝を噛みしめながら答えれば、いやに余裕ぶった答えが即座に返される。
こういう物言いの癖は好きじゃない。試されているようで。それなら会わなければいい、そのはずなのに。
「ね、周」
くるくるとよく動く澄んだ薄茶色のじっとこちらを見つめて話すその癖、ふわふわと揺れるやわらかそうな髪、きまぐれにシルバーリングがはまっていたりいなかったりする、少し節くれた長い指。それになにより、今では殆ど呼ばれないその名前を呼ぶ、少し鼻にかかった甘えたように聞こえるその呼び方。
こいつとこうして居ると、普段使わない感情がフル稼働するのを感じる。だからすごく疲れるのに、こうして居るのが嫌なわけじゃない。
「なんで」
掠れた声で、ぽつりと囁くように呟く。独り言めいた響きのその言葉は決して目の前の男に聞かせる為のものではない。雑踏に紛れて消えてしまうことを期待して、唇をわずかに震わせて響かせただけだ。
なんでおまえは俺なんとか居たがるんだよ。おまえが決めてくれよ。
そんなこと、言えるわけあるはずもない。
――『あ、その日ならだいじょぶ。二時半に駅ナカの本屋ね』
――『了解、じゃよろしく』
なんとなく近くに立ち寄ることがあったから。前に話題に出た映画のDVDを渡したいから。貸したものを返したいから。
ただの暇つぶしならお互い幾らでも相手が居るはずなのに(そもそも、予定を合わせるのに多少手こずることだってあるくらいだ)、何故だか繰り返し、忍と顔を合わせる機会は依然と続いていた。
楽しみかどうかなんてことは、正直言って未だによくわからない。それでも確かに、あの気安い笑顔に迎え入れられるその度、心の奥底で何かがほどけていくかのような、不可思議な錯覚に襲われていたのは確かで。
わからないのなら、このままにしておいたほうがいいのだろうけれど。
「桐島くんさー」
スマートフォンの画面を暗転させたところで、ロッカー前で身支度を整えていた安西さんは横目だけでちらりとこちらに視線をやりながら、そっと声をかけてくる。
「なんかさ、最近ちょっと感じ変わったよね。もしかして彼女出来たとか、そういうの?」
女の子にこういうの聞いたらセクハラーとかなんとか言われちゃうんだよね、物騒だよねえ。ごそごそ、かさかさと衣擦れの音を響かせながらかけられる言葉を前に、「男でもそう変わらないんじゃないすかね」と無愛想に投げかける。
安西さんは大学に入った当初から続けているコンビニバイトの先輩で、普段は劇団員をしながら幾つもアルバイトを掛け持ちしているらしい。とかく、コミュニケーション手段のつもりか何なのか、合コンに来ないか、常連のOLがかわいいと思わないか、誰か特定の相手とつきあう気はないのかと、色恋絡みの与他話を降ってくることが多い。
学校とバイトと就活で手いっぱいだから、あまりそういったことに積極的な方ではないから、恋愛絡みでした苦い経験を引きずっているから――その都度適当な言い訳をあげつらねて、「またまたぁ」だなんて愛想笑いをかわすことは、最早通り一遍のコミュニケーションと化している。
それでも、今回加わったバリエーションはこの一年程のつきあいの中でも最新のアップデートだ。
「……そういうのないですけど、別に」
「そうかなぁ?」
食い下がらず、それでも、どこか配慮を忘れない、大人びたその空気を纏わせたまま安西は続ける。
「なんかこうさ、やわらかくなったっていうの? 前よりも気が抜けたっていうか……あと、なんかちょいちょいメール? LINE? やってるじゃん」
「そんなに無愛想でした?」
仮にも接客業なのに。恐らく話の趣旨からはピントがずれていることは自覚した上で、どこかおぼつかない心地のまま制服のジャンパー越しに肘のあたりをさするこちらを前に、くしゃりといつものあの心の奥をほどけさせたような笑顔を浮かべながら、安西は答える。
「ほら、桐島くんいつだったか言ってたじゃん。前にいろいろあったんで、つきあうとかは考えらんないって。別にさ、俺があれこれ口出しすべきじゃないのはわかってんだけど、なんていうか、自分のこと型に押し込むのってよくないでしょ。だからそのなんていうの、桐島くんが安心して一緒に居られる相手が出来たんならいいなって、勝手にそう思ったのよ。おっさんはね」
「……どうも」
話半分の言い訳に使ったつもりの言い分をきちんと覚えて気を使ってくれていたことに、今更のように後悔の念にも似た気持ちがこみ上げる。
引き結んだままだった唇を僅かにゆるませるようにして、周は答える。
「別にそういうのじゃないです。今メールしてたのも、知り合いだし」
ふぁ、とあくびをかみ殺しながら、暗転したままのスマホの画面を眺める。そんなに間の抜けた顔でもしていたのだろうか。ただの愛想など欠片もない業務連絡を交わしていたにすぎないのに。
「あと、安西さんはおっさんじゃないですよ。三つしか変わんないじゃないですか」
「二十代の三つは十年ぶんくらい違うって、その辺、若者にはわかんないよねえ」
ごめんね、休憩中なのに。そろそろ店出るわ。またね。
パンっ、と制服の裾を叩く、仕事に入る前によくするお決まりのその仕草の後、スタッフルームを後にしていくその姿を、どこか無感情のままぼんやりと見送る。
ああ、そういえばそんな話もしていたか。まさかいちいち覚えていて、指摘されるとは思いもしなかったけれど。どこか整理のつかないもやのかかったような感情と共に、何の気なしにかけられた言葉に潜む思いやりが改めてひしひしと迫ってくる。
飾り気のないそのぬくもりを前にしても、どこか裏腹の居心地の悪さを覚えずには居られない。
「安心」
誰でもほしがるに違いないそれは、誰かに分け与えてもらえないと手に入れることの出来ないものなのだろうか。
それが本当なら、そんなもの、周には一生手に入れることができない代物に決まってる。
いっそ値段を付けてコンビニで売り買い出来るようになればいいのに。それなら年中安定のロングセラー商品になること間違いなしなのだから。
「時々突飛なこと言い出すよね、周は」
こんな時に浮かぶのも、やわらかそうな髪を僅かに揺らしてけらけらと笑うあの気安いにやけ笑いで。
何でだよ。
いらだち混じりに、暗転したスマートフォンの画面をじろりと睨み付けながら呟けど、当然答えなど返ってくるはずもない。こんなの無意味な八つ当たりに過ぎないのに、行ったり来たりの波が心をかき混ぜて、居心地が悪いことこのうえない。
なんでそんなにあっさり入り込んでくるんだよ、俺の生活の隙間に。
「なにげに頭いいんだよ、あいつ」
いつだったかに亮二に聞かされた言葉が、ふいに頭の片隅をよぎる。
「十人中八人が名前いや「あー」っていうようなガッコ通っててさ。確か人文なんとか学部。なんか、卒業後も院行くらしいよ」
聞かされた学校名は、確かに周にも聞き覚えがあった。受験の時に散々見せられた偏差値ランキングでもかなりの上位に入っていた大学だ。
「てかその、十人中八人って半端な言い方なんなの」
わざとらしく眉をしかめるようにそう尋ねるこちらを前に、煙草のフィルターをくしゃくしゃと指先でひねりつぶすいつもの癖と共に、亮二は答える。
「まぁあれだよ、二人くらいはその辺疎い奴がいるかもしんないじゃん?」
俺みたいに、という言葉は、ひとまずは曖昧な苦笑いでさらりと受け流す。
「頭いいのな、おまえって」
「そーかなぁー?」
謙遜とは言えない様子の、ただ率直に疑問を投げかけるような子どもじみた受け答えがさわさわと胸の内側をなぞる。
「でも周に褒められんのって珍しいよね。ちょーうれしい」
にーっといつものあの得意げな笑顔を浮かべたまま、プラスチックのマドラーでちょいちょいとカフェモカの表面に描かれたチョコレートソースの模様をかき回す男の姿を前に、どこか曖昧な心地のまま、ホットコーヒーをゆっくりと胃へと流し込む。
いやみかもしれない、とは考えはしないのだろうか。どうせ見下してバカにしてるんだろう、とかなんとか。
まぁでも、こいつのこういった底なしの前向きさ加減に、幾ばくかの眩しさにもよく似た、あやふやな感覚を揺らされるというのは、幾度となく繰り返してきたことなのだけれど。
「そういや周って就職は?」
「こないだ内定式終わったとこ。まだ実感湧かねえけど」
「そーゆーもんだよねえ」
おまえは、と何気なくそう尋ねてみせる。本当は聞かされてはいるけれど、何か盗み聞きでもしていたようで居心地が悪いから。
「してないんだなぁ、それが」
わざとらしくおどけたような様子でポーズなど取って見せながら答える態度を前に、おおげさに肩を竦めながら返ってくる言葉はこうだ。
「春から院生って名のニート、みたいな」
「立派じゃん、まだ勉強する気だっていうんなら」
生活の基盤作りの為だけに、躍起になって働き口にありつくのに必死だったこちらに比べればよっぽど――それも、親元からの支援という名のゆるやかな支配を一方的に断ち切る為の。
「まーでもさぁ、ずるずるガッコにしがみついてる生き霊みたいな感じしない? 院生って。周りみんなばりばり社会人になろうってのに、俺だけ学生延長コースかよ、みたいな。まぁ、勿論納得してはいんだけどね。なんかこうさ、俺だけまんまとボーナスステージに潜り込んでずるずるやってる間、みんな立派な大人になって置いてかれちゃうんじゃないかなーって。ま、今更ぐだぐだ言ってもしゃあないけどね?」
けらけらとあっけなく笑うその姿には、それでもどこか、隠しきれない一抹の寂寥感にも似た色が滲んで揺らぐ。
「……だいじょぶだろ、おまえなら」
ソーサーのふち、ショップロゴと共にちいさく刻まれた英文を見るともなしにぼんやりと目で追いながら、周は答える。
「亮二なんて見てみろよ、俺らの四つ上だぞあれで。あいつが立派な大人に見えるか?」
「りょうちゃんはねー。なんていうかこう、常人じゃないじゃん?」
イベントスタッフに飲食店のホール、ラジオ局のアシスタントにデザイン事務所の使いっぱしり、PC周辺機器の営業……大学中退の後、ありとあらゆる業種を渡り歩いた末に、今の本業は本人曰く「なんでも屋」だという彼の本職を的確に説明することはどうやら当人にとっても困難らしい、というのは有名な話だ。
「割とわけわかんないよね、あの人。なんか無駄に顔広いしさぁ。まー、でも、そのおかげでこやって周にも会えたしわけだしね。感謝しないと」
「……おまえさぁ」
だからなんでそういうことさらっと言うんだよ。
何か無意味な苛立ちにも似た感情が心のうちを乱すのを感じながら、それでも、確かにこの手の中に感じるのはひとかけらのぬくもりにも似たなにかで。
ほしくない、そもそも、必要なわけなどあるはずもない――そうやって周が遠ざけてきたはずのものを、目の前のこの男はいつだってこんなにもあっけなく差しだそうとしてくるのだ。きっと、誰に対しても。
「怒った? もしかして」
いつまでも無様に目を背け続けるのも、と観念したかのような心地で視線をそっとあげれば、穏やかに細められたくるくるとよく動くあの瞳が、じっとこちらを見つめている。
「別に怒るとこじゃねえだろ、今の」
どちらかと言えば、自分自身に改めて愛想を尽かしていたという方が正しいのに。
曖昧に言葉を濁すこちらを前に、さっとあの気安い笑顔を振りまくようにしながら、忍は答える。
「人の気持ちってわかんないもんだし」
察するだなんて言葉は無責任で嫌いだと、いつかそう言っていたことをぼんやりと思い返す。
わからなければそれっきり、それで諦めて遠ざけてしまえばいいだけなのに。臆せず向き合おうと出来るのは、それだけ確かな自分を持っている証だ。
「そっか、なら良かったー」
仏頂面を張り付けたままのつもりのこちらを前に、せわしなくくるくると移り変わる表情がなんだかおかしくて、つられるように口元がゆるやかに歪むのを感じながら、誤魔化しついでにカップのふちにそっと口をつける。
ぎこちなく逸らした視線の端では、胸焼けしそうに山盛りになった生クリームに更にクリームとナッツのかけらがふんだんにコーティングされたフラペチーノを前に、スマートフォン片手にきゃーきゃーはしゃぐ女の子たちが飛び込んでくる。
あっちじゃなくていいわけ、おまえは。無様に喉の奥だけでそう口ごもりながら、せり上がった息苦しさをかみ殺す。
なんでそんな言い訳じみたことに逃げてしまいたくなるんだろう。こうしているのが不快なわけではないのに。
一方的な都合で曖昧に濁っていく感情を押さえつける蓋を、脳内を手探りするようにしながら探すこちらを前に、いつも通りのあのいやに得意げなにやにや笑いを浮かべたまま、忍は答える。
「そういやさぁ、なんか思い出したから聞いてほしいんだけど。前にも言ったよね? 友達の話なんだけどね。すげえいい子なんだけど、俺にだけちょう冷たいの」
告げられるその内容とは裏腹に、どこか嬉しそうな様子で目の前の男は続ける。
「べっつに周とはぜんぜん似てないんだけどさー、なんでか周のこと見てると、その子のこと思い出す時あんだよね。俺の前だとその子、不機嫌なのが割とデフォでさー。別に慣れてるし、それでも一緒に居てくれんだからいいんだけどさ。周がもし、その子と違って怒ってんのに遠慮して言えないだけっていうなら悲しいなーって思って」
ナイフ投げのような率直さと、それでも無骨で無防備なぬくもりが同居した感情が投げかけてこられるのが不思議で、それでいて心底おかしい。
「平気なの、おまえは」
三分の二ほど残したスティックシュガーの袋を手持ちぶさたな気持ちのままねじりながら無遠慮に投げかけたそんな問いかけを前に、お得意の口の端をぎゅっと持ち上げたにやにや笑いを浮かべるようにしたまま、忍は答える。
「平気っていうか、寧ろ嬉しい? みたいな」
「……はぁ」
首を傾げるこちらを前に、平気な顔をして続けざまに紡がれる言葉はこうだ。
「だってさぁ、「嫌い」って要はその分だけ感情のリソース俺に裂いてくれてるって証拠じゃん? だから別にぜんぜん平気って言うか、どうでもいいって相手にされないよりは全然嬉しくない? 変に愛想よくされるよりはなんか、特別扱いされてる感じするし」
さもあたりまえ、と言わんばかりの様子で告げられる言葉を前に、ひとまずは返す言葉も見つからないまま、その場を誤魔化すように少しぬるくなったコーヒーの残りにそっと口をつける。
やっぱりこいつは、どこかおかしい。身勝手な苛立ちにも似た感情がゆっくりと立ち上り、空っぽの胸の内側を無様に曇らせるのを抑えきれない。
嫌われるのが怖くない、寧ろ嬉しいだなんて、なんでそんなことが言えるんだろう。どんな神経なのか、取り出して見せられるのなら見せつけてほしいくらいだ。
本当の意味で拒絶されること・排除されること――その言いしれようのない恐怖や不安を知らないからこそ、こんな身勝手で脳天気なことを平気な表情をして言えるのだろうか。こんな風に返せば、勝手な言いがかりにもほどがある、とは言われそうだけれど。
……そう思うとなんだか急にむかむかしてきた。なんだよこれ、思うつぼかよ。
澱のように脳裏を揺らめく不透明な感情にじわじわと蝕まれていくのを感じるこちらを前に、いつも通りのあの得意げなにやにや笑いを浮かべるようにしながら、目の前の男は尋ねる。
「でさー。周はどうなの? 俺のこと嫌い? もしかして」
……ここで、「嫌い」だなんて言ってしまえば、相手の策にハマったも当然だ。こちらだって、みすみす罠にかかる程愚かでもないのに。
やれやれ、といやに大げさに息を吐くようにしながら、周は答える。
「……保留」
「ずるくね? それって」
けらけらと笑いながらかけられる言葉を遠ざけるように、微かに揺れるカップの中の黒い水面へとぼんやりと視線を泳がせる。
ずるいのはどっちだよ、という言葉はひとまずは、生ぬるい漆黒の液体と共に流し込んで目を逸らすようにする。
こっちはちっとも平気なんかじゃない。でも、こうしているのが嫌なわけじゃない。
心のどこかが塞がっていく音が聞こえる。塞ぎたくもないはずの、気づかないふりをしていた空白が。
無様に苛立って仕方ないのに、それなのに何故か、縫い止められたみたいにこの場から動けない。
「……周?」
ぱちぱち、と遠慮がちにまばたきをしながら呼ばれる名前――いつしか、この男くらいにしか呼ばれていない――を前に、ぼそりと息を吐き出すようにしながら、周は答える。
「嫌いって言ったら」
「え、」
「嫌いって言ったらどうすんの、おまえは」
「うーん」
大げさに腕を組むようにしながら、投げかけられる答えはこうだ。
「努力する……?」
なんで疑問系なんだか、という問いはひとまずは飲み込んだまま、曖昧に濁る感情の黒雲の流れる様をぼんやりと眺める。
知りたくなかったのに。目を逸らしたままでいられると、愚直なまでにそう信じていたはずなのに。
こじ開けられた感情は幾ら押さえつけてもその都度蓋を開けられることを繰り返して、引き潮のように荒波を起こすことを繰り返していく。
最初に感じたあの直感が正しかったことを、こんな瞬間に幾度となく周は思い返す。
だから嫌だったのに。どうしてふりほどけないんだろう。
「忍――」
極力感情を廃した声色を装うようにして、観念したように呟く。その先に繋がる言葉を見つけられないまま、何かに縋るような、そんな無様な気持ちで。
卵黄のゆるゆる流れてゆくようにあなたの恋ははじまっている
東直子