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文化講座「刀剣・武具の伝来から見た福岡藩主黒田家の歴史」 メモ

全体公開 36 1 7425文字
2016-06-04 18:59:23

H28.5.18 立花家史料館文化講座「へし切と雷切、その主たち ~俺色に染まれ~」前半(福岡市博物館・宮野学芸員パート)/灰色部分は講師の発言ではなく私の主観or後日調べた事項/青色部分は講座とは無関係の、いわゆる“黒田組”刀剣の出入りに関する補記

Posted by @yasshiy

担当された学芸員の宮野さんは江戸時代が専門で、金工の担当ではない
講座のインパクトある副題「俺色に染まれ」は、宮野さんが雑談で口にした言葉を立花家史料館・植野館長が拾ったもの

《16世紀末期~17世紀前期:実用の道具として》
【藩祖・如水】
「我等は若年より槍を握り刀を取て、相手かけの一騎働は、不得意に候へども、采幣を振て一度に敵を、千も二千も討ち取ることは、得手にて候」(『黒田如水伝』639-640p)
槍働きは不得手だが、采配は得意と語った逸話のある如水が敵を討ち取った刀は少ない

『黒田如水伝』は大正5(1916)年発行
金子堅太郎伯爵は11代藩主長溥の援助でハーバードに留学し、帰国後は明治政府で帝国憲法草案を作るなど活躍
序文には黒田家への感謝が綴られているという
この本を出すにあたり、13代当主長成より如水愛刀として無銘・伝景光を譲られている
如水が有岡城の牢から見えた藤に励まされ、のちに黒田家の家紋を藤にしたエピソードの初出本として知られる

家臣の手討ちを一度もしなかったとも言われる如水が敵を切ったとされる刀は「安宅切」くらいか
ただし『黒田家御重宝故実』で討ち取ったとされる安宅河内守は、当該合戦で戦死しておらず、命名理由は御重宝故実で記載されている通り「名其謂不詳」


▼「へし切長谷部」は如水が岐阜で信長に謁見した際に下賜された
▼「厚藤四郎」は如水の妹婿・一柳直末が小田原攻めで戦死後、遺族ともども黒田家に引き取られる
 その後、直末の主であった豊臣秀次に献上される


【初代・長政】
如水とは違い、長政が敵を討ち取った武具はたくさん伝わっている
(例:初陣から振るい続け、ついに筑前一国の太守となるに至り命名した槍「一国長吉」)

長政が出陣前に、これを用意して欲しい、と家臣(黒田一成)に宛てた手紙がある(『福岡県史 近世史料篇 福岡藩初期(上)』175p)
「くろき具足・こて・ももひき・すねあて」「くろき しやうしやうひ の道服」とあり、黒がお好みだった模様
一の谷兜をかぶった有名な馬上像でのカラーリングは、割と忠実だと思われる
手紙で指定された刀は「いんすののし付 大刀・わきさし共」となっており、印子すなわち金の煌びやかな拵え
(現存する長谷部の拵えに近い華やかさ?)

『黒田家重宝故実』に、忠之が父・長政の羽織を真似て作らせた陣羽織がある
その記述より、長政愛用の羽織は黒羅紗地に猩々緋の羅紗で黒餅紋を表したものと推測されている


『黒田家譜』で、長政の刀に対する考え方を知ることができる。
「刀脇指は武士の重宝なれども、只其刃の利(とき)と鈍(にぶ)きとをえらびて、よく切るるを用ひ給ふベし。しいて其作の上下をえらび給ふべからず」(第1巻526p)
 ⇒切れ味重視
「刀脇差我思ひ入たる一腰宛ニ、指かへ一腰宛、此外ハ無用ニ候」(第1巻538p)
 ⇒合理的

『金銀道具之帳控』は長政の財産分与に関する遺言書(『黒田家文書』第2巻112p)
四男・高政へ譲られた中に「へし切之刀」がある
一緒に譲られた一谷ノ甲などは「福岡天守二有之」と記されており、武具が天守に保管されていた可能性を示唆
(福岡城に天守閣があったのか、建てたが破却されたのかは諸説あり)

★この遺言書では長政の花押に加え、ローマ字印が押されている
中央に十字、周りにSimeonJosuiと入った印は、如水が愛用していたもの
如水は黒印として使っていたが、長政は朱印としている

亡くなる前月、長政が用意した掛硯に入った4冊のうちの1冊。
(他は藩政の方針、加増や追放する家臣のリストなど)
宛先である忠之分の記載はない
妾腹の次男・政冬には「國時之刀、切者貞宗ノ脇差」
三男・長興(秋月藩初代藩主)には「孫六ノ刀、包利ノ脇差」
高政(東蓮寺藩初代藩主)には長谷部以外に「兼貞の大脇差」
長興が相続した刀で良く知られる「城井兼光」や、秋月郷土館蔵「刀 長船賀光」「脇差 長船康光」ではない


【二代・忠之】
如水や長政と異なり、生まれながらの藩主
誕生時に、如水から「日光一文字」を贈られている(つまり長政の保有歴無し)
父の喪も明けぬうちに、京都の刀工・埋忠明寿に出した日光の拵え発注書が現存(『黒田家文書』第2巻234p)
オーダーは各パーツの仕様を箇条書き(例:「ははき上下 印子」……金製)
「右ハへし切之刀ニ少もちかひ不申様ニ可被仕候」の一文で締めくくられ、長谷部とそっくりに作らせている
日光一文字の拵えは現存せず、現在の長谷部の拵えも記載と相違しており、どのような物だったかは不明

★埋忠への注文書が残っているのは、江戸中期に埋忠家が黒田家からの文書を巻物にして返却したため
 以前、福岡市博物館で展示されていた長政が埋忠に眼鏡を再発注した書状は、巻物ではなかったと記憶
 長政は京都・報恩寺で死去したが、その頃に長谷部の拵えを発注し、没後にやはり京都にいた忠之が日光分を追加したのかもしれない

▼「小夜左文字」を小倉藩の飢饉で細川忠利が売却したのが寛永4(1627)年
 その後、黒田家と浅野家を経て 寛文5(1666)年には下総古河藩土井家に
 よって、小夜が黒田家にいたのは忠之の頃
▼正保4(1647)年、忠之の嫡子・光之は細川家の後に小倉藩主となった小笠原家より正室を迎える
 この際、引き出物として小笠原家から来たのが後述の「日向青江」
 逆に忠之から花嫁の父・忠真に贈られたのが「博多藤四郎」


《17世紀中期~18世紀前期:家宝化の芽生え》
【三代・光之】
『光之公御代覚書』に、福岡城内での刀の保管場所が記されている
「御宝物名物」の「岡本正宗」「日光一文字」「稲葉志津」は二重の箱に入れ、服紗に包んで居間の床の間に置く
「御指料」=普段差しの「来国光」「名物 日向青江」「吉岡一文字」は脇差「正宗」「備前真守」と共に床の間の刀掛けに
床の間の刀は、藩主が毎日一度はチェックしていた
(朝から外出した日でも、夜になってでも必ず自身でチェック)
家臣にも、何か変化があったらすぐ報告するよう命じていた

★日向は後年(第二次大戦後)黒田家より流出し、現在は大倶利伽羅と同じ日本刀剣博物技術研究財団蔵
 先日、大倶利伽羅と共に薬師寺で展示された話も出て、審神者ドキドキ

長政は天守台すぐ下の本丸御殿に住んでいたが、忠之は西二の丸、光之以降は三の丸に藩主は住んだ
黒田家の重宝にほぼ共通する“金二重桐紋透ハバキ”(おそらく純金)が、薬師寺で見た日向にもついてて感慨深かった


光之は貝原益軒に黒田家の正式記録『黒田家譜』を編纂させ、スピンオフとして家宝のリスト『黒田家重宝故実』『数寄道具故実』も作らせた
先祖の武功(エピソード)と実際に残っている品をリンクさせないと、未来の子孫が困ると考えた
重宝故実の刀剣パートは、岡本正宗・守家・日光一文字・稲葉志津・圧切・碇切の順
岡本正宗と稲葉志津は家康からの拝領品のため、序列が高い

岡本正宗:忠之が駿府の家康を訪ね、そこで元服した際に拝領
(享保名物帳では長政が秀忠より拝領)
かつて所有していた堺の商人・岡本道意にちなんだ号
稲葉志津:長政継室(家康養女)の引き出物 or 大坂夏の陣で忠之が家康から拝領
(忠之正室となった秀忠養女の引き出物説もあり)
春日局の義兄弟・稲葉道通が所有していたための号


【四代・綱政】
東蓮寺藩は初代・高政が島原の乱翌年に28歳で死去すると、二代続けて本藩藩主の息子を養子に迎えた
三代・長寛は光之の四男
光之が長男・綱之を廃嫡して長寛(改名して綱政)を後継としたため、東蓮寺藩改め直方藩4万石は本藩に還付
この時までに長谷部も本家に戻ったものと推察される

※2018/1/14追記:光之の遺産目録に日光、岡本、稲葉と並び「圧切」の名があるため、本家に戻ったのは光之の代で確定


【五代・宣政】
八代将軍・吉宗は全国から有名刀剣を(本阿弥家に)集めさせ『享保名物帳』を作らせる
岡本正宗、長谷部、日光、城井、日向、一国、博多藤四郎(当時は小笠原家)などが掲載されている
長谷部の書付も、吉宗は見たらしい
刀剣においても、徳川家を頂点としたランク付けがされた
黒田家にも名物帳の写しが残っている

享保名物帳の収録刀剣所蔵数で、黒田家は徳川一門、加賀前田家に次いでいる
召し上げを恐れ御家名物を秘蔵した大名も少なくなかった中で協力的だったと思われる
ただし収録された由来には、『黒田家御重宝故実』などと相違しているものも
改訂版である『名物三作』で、長谷部は長政が秀吉から拝領したとされている


《18世紀中期~19世紀前期:先祖の神格化と結びつく》
【六代・継高】
黒田家に伝来した継高の兜は、長政の兜を模した銀箔押の一の谷形
藩政改革に際し、長政の「三ヶ条法令」(現代では信憑性が疑われている)や「御定則」(偽書と判明)が出てきたのも継高の代


天守台下に長政が“聖照権現”として祀られる
(その後、如水が水鏡権現として合祀され、現在の光雲神社に)
明和5(1768)年の創祀時点では長政のみが祀られ、御宝器としてゆかりの品が集められた
24点中、半数の12点が蔵や武具櫓から出してきた長政遺品のオリジナル、残りは写しを作成

刀剣で最もランクが高かったのは「御陣刀 国俊影」
筑前の刀工・信国昌光が新たに作刀した影打(写し)が奉納された
当時の福岡藩では、長政の刀といえば二字国俊のイメージだったらしい
現存する二字国俊の切付銘は「黒田甲斐守 所持之」
若い頃からの官職名は、長政が度々戦場で用い武功を挙げたという『黒田家御重宝故実』などの記述を彷彿とさせる


【十代・斉清】
蘭癖大名として知られ、本草学に傾倒
江戸中期から流通する「黒田二十四騎図」の描写に疑問を抱く(兜の前立を除き時代錯誤の源平合戦風etc.)
二十四騎の子孫に武具(防具メイン)を提出させ調査
御用絵師・尾形探香に描かせた二十四騎図の鎧は、現存する甲冑と比較してもかなり写実的

ただし、長政の兜は現存物とあまり似ていない
尾形家に残された覚書には、見て描いたが角の反り方を描くのは難しい(大意)と添えられたクロッキーがある
(その走り書きに描かれた角は、先の曲がり方が現存と異なっている)

黒田二十四騎図で長政は家臣と違い、水牛兜のみで表現されるパターンも
(福岡市博物館蔵の二十四騎之図では、角が黒く塗られ、金箔が貼られた実物と相違する例もあり)
長政と言えば大水牛兜、のイメージになった

長谷部の「金霰鮫青漆打刀拵」の縁には「一乗斉毛利光則」の作者銘がある
光則は文化文政期(1804~1830)の金工作者で、長谷部の拵えは斉清の代に作られたと思われる
本歌・安宅切の拵えは、ハバキに「小判明寿」の銘があり、慶長3~9(1598~1603)年の制作と推測できる


《19世紀中期:先祖の武功にあやかる》
【十一代・長溥】
福島正則と黒田長政が朝鮮出兵時に喧嘩し、帰国後、仲直りの証として兜を交換
よって、長政は一の谷兜で関ヶ原にも出陣し、没後も黒田家の御神器として継承されてきた
水牛兜は旗本に没落後も福島家で受け継がれてきたが、経済苦により天保15(1844)年に黒田家が239両で買い戻す
長溥とその養子・長知は水牛兜の写しを作らせているが、戻ってきた実物を見て作らせたのかもしれない
長知は一の谷兜も作成させている(ただし銀箔押ではなく銀泥塗)

幕末には刀剣台帳が複数作成されている(厳密には幕末期以降の台帳しか現存せず、が正しい)
配布資料には3冊の台帳が掲載されているが、順序はバラバラである

◇城井、直井、唐竹割、日光、壓切、菊一文字、大仙、安宅切、碇切、二字国俊、岡本、稲葉、守家
◇岡本、稲葉、日光、長谷部国重、安宅切、備前長光、行光、守家、備前兼光、左文字脇差、景光、青江守次脇差
◇日光、壓切、一つ飛ばして(読めない)安宅切、碇切、二字国俊、岡本、稲葉、守家、長光

一番最初に記載した「御什物帳控」は日光の部分に“拵無之”とあり、19世紀の時点で既に無くなっていた
壓切には“中将様御指”と朱書があり、左近衛権中将・長溥が普段使いしていたと分かる

長溥は斉清の蘭癖仲間だった島津重豪の九男
母は重豪も驚くほど体格が良かったらしく、長溥もかなり大柄だった
長溥は忠之所用の一の谷兜、光之所用の大水牛兜も使用しており、先祖返りの意識が強かった模様
圧切を帯刀していたのは、父が拵えを新調したからか、“黒田筑前守”と入った数少ない刀だからか


《19世紀後期~20世紀前期:変化する時代に翻弄される》
贋札事件への関与により十二代・長知は藩知事を罷免され東京に移住
伝来の重宝も東京に移される
第一家宝、第二家宝、貴重、普通と5段階に格付けされた新たな家宝帳を作成
「第一家宝大小拵付ノ部」のあるページがプロジェクターに投影される
大半に線が引かれ、上部に済マークが=売却済のしるし
江戸時代は価値があるとされた稲葉、岡本も売却された(徳川ゆかりだから余計に)

第二次大戦の戦局悪化で、6つの蔵に種類別保管されていた重宝も、最重要品を1ヶ所にまとめ保全を図ることに
昭和20(1945)年6月の東京大空襲で、最重要品の蔵以外は焼失した
当時の当主は鳥類学者として知られていたが、研究資料や標本は全て失われた
結果、明治時点で100振り以上あった伝来刀剣で、現在、福岡市博物館の黒田資料にあるのは20振りほど

▼日本号は福島正則より呑み取った母里(毛利)家に長く伝来した
 明治末期に流出したが、購入した安川敬一郎男爵から大正9(1920)年黒田家に献上された


《20~21世紀:多様な価値観の混在》
戦後、国が文化財を(改めて)指定し保護するように
国宝(日光、長谷部)、重要文化財(安宅切の拵え)、重要美術品(二字国俊)
重宝の一部(日本号など)はトーハクに寄託

1970年代に黒田家から福岡市に移譲、美術館にて展示
博物館オープン後は歴史的な価値のある物が移され、絵画・工芸品・染色は美術館に残される

収蔵品への注目度は、メディアの露出によって左右される
2014年大河ドラマ「軍師官兵衛」では、年700~800件(通常)の写真貸出が3000件に激増
料金は取らないが、取れば良かったと冗談も言いたくなるレベル

長谷部は毎年1月に展示されるが、今年は刀剣乱舞効果で1日最大2000人来館(4時間待ち)
2月の恒例・日光展示では客足は途切れ、博物館としてはまた頑張らねば、と思った

長谷部、日光、日本号の刀身大ポスターを販売
日本号だけは3000円に価格設定しても大赤字で、売れるほど負債が増えるので当分再販はない
長谷部の「おまたせ」ポスターは、海外客をターゲットに福岡タワー等で貼る予定だった
明朝体のみでは硬いかと“なごみフォント”を使用したら、キャラと違いすぎるとクレームが
宮野さんも展示後に審神者となり、クレームに納得したとのこと

注目されると新たな史料が発見される可能性が高まるので、悪いことではない
(例:真田太平記に日本号の名の由来や、後藤又兵衛が海に潜り材料を調達した逸話があるとファンから情報が)
テクノロジーの進歩により3Dプリンターで日本号の出力も行い、柄が螺旋状と判明
取り出せる情報量の増加と、新しく見つかる価値がある

《おわりに》
価値は時代の流れにより上書きされる(ただし、昔の価値観がリバイバルされることもある)
切れ味(安土桃山)⇒徳川家との繋がり(江戸)⇒もたらされる売却益(明治)⇒多様化(平成)
各時代の“主”が下す合理的な判断により、価値は変わっていく≒俺色(価値観)に染まれ


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