@Thatsright_CM
A
市民美術館の大フロアAは今、香りにあふれていた。
白く高いパーティションで仕切られた順路に活けられた花々の芳香、鑑賞するご婦人方の肌から立ちのぼるコロンの残り香、そして盛況ゆえの汗臭さ。
……むせ返りそうだわ。
全国の他流派と合同開催中の「いけばな大競作展」は盛況だ。地元有名企業の後援の賜物なのはもちろん、関係者がノルマで買わされたチケットを一族郎党・友人知人・同期後輩にばらまいた甲斐があったというもの。
おかげで、今朝、いけばな協会から電話がかかってきて、急遽ボランティアに駆り出されるはめになった。出品させてもらっている手前、断れなかった。
十年ものの愛車が故障し、メーカーから「該当部品の生産はもう行われておりません」宣言を受けてから初めての休日。今日は一日、新車選びに費やす予定だったのに。
二時間ぶっとおしで愛想笑いをふりまいてたら、ひどく疲れた。しかも後援会社のお偉いさんに、華道に全く関係無いイベントのチケットを押しつけられる始末。会場は一階上の展示室だが、行く気にはなれなかった。
ピンポンパンポンとチャイムが鳴り、気取った声のアナウンスが流れる。
「――流家元による公開いけこみを、大フロアA内・野点スペースにて十三時三十分より行います」
フロア内には小さな畳のスペースがあり、赤い和傘が立てられていた。茶釜などの茶道具も置かれていて、時間帯によっては、ここで点てた抹茶が有料で飲めたりもするらしい。
まぁ、抹茶にもいけこみにも興味無いわ。とっとと帰って、とっとと寝よう。
十一時から十三時の受付業務を終えた私は、貰ったばかりのチケットをパンツスーツのポケットにつっこんだ。ピアノ曲のBGMが流れる中、大フロアAの奥にある関係者詰所に向かって、人波を逆流する。
鑑賞客は裕福オーラをふりまく毛皮のコートや友禅の和服で着飾っているご婦人が多い。
「この壷は古伊万里かしら。それにしては安っぽく見えますわね。もったいない」
「雪柳の撓め方がいまひとつですわ。もっと勉強していただかないとね」
「この小菊は余分な葉が多すぎますわね。ちょっと摘めば、もっと良い出来になりますのにねぇ」
「この作の方、きっと良いものに多く触れられる環境にないのですわ。おきのどくに」
彼女たちは常に仲良しグループ単位で移動している。出品作を取り囲み、鼻持ちならない講釈をたれては高笑いしている。もっとひどいグループになると、作品の鑑賞そっちのけで、本日のファッションチェックや誰かのウワサ話に夢中になっていた。
作品から次の作品へ、人波は緩やかに流れ続けている。だけど、私の作品の前では必ず淀みができていた。自分で言うのもなんだけど、きっと誰もが足を止めずにいられないのだわ。
――花器は、近所の配管工場から譲ってもらった鈍い銀色のパイプ。底に封をすれば寸胴として使えるし、真っ二つに割れば水盤になる。水盤の後ろに寸胴を置き、その更に後ろへ赤銅色の金網を立てる。波型に曲げて天井から吊り下げた空色の金網は、ちょうどいい具合で空調の風に揺れていた。
水盤に刺したのは、揃って頭を左へ向けるオレンジと紫が鮮やかな四本の極楽鳥花、その足元から垂れ下がる若草色の猫じゃらしと、展示台にまであふれて網のような枝を広げる緑の海藻・アミアオサ。寸胴に投げ入れたのは、渦を巻く褐色のゼンマイ、今が盛りの赤い山モミジ、それからトサカの大きな黄色い鶏頭。球形に咲くピンポン菊の白い花と南天の小さな赤い実をもいで、水盤の前に転がしておいた。それらすべての天然の彩りを、金一色に塗りつぶしたもの。
銀色、赤銅色、空色、金色。以上。
「うわー、ビッカビカだ。かっけー!」
私の作品は、小学生の男の子たちに大人気沸騰中だった。その後ろで、ママさんたちは唇を引きつらせている。遠巻きに眺める和装のご婦人方は口元を押さえつつ、掌につばを飛ばしていた。
「代が替わると落ちぶれるものね。下品にもほどがあるわ」
「なんでしょう、あれは。みっともない。ちっとも調和が感じられないわ」
「あんな使われ方じゃ、お花がかわいそうね」
「調和」は、華道のお題目としてよく使われる言葉。
「生命を抱き、自然に和して融けこみ、真芯を見定め、世界を象れ」
一世家元だった亡き父も、よく繰り返していたものだ。
花器上の世界は、非情なまでに繊細なバランスで成り立っている。花一輪どころか、葉が一枚多くても少なくてもいけない。枝が一ミリ短いか長いかで出来ばえが変わってくる。
それが私には瑣末かつ粘着質なこととしか思えず、いつも言いようのない違和感といらだちを覚えていた。一枚や一ミリにこだわることよりも、もっと大事な何かがあるはずだ。何かが潜んでいるはずなのだ。
その何かを探している最中なのだけど。だから、崩して崩して崩しまくっているのだけど。
「ほら、あの人があの下品な作品の」と後ろ指差されることなど気にならない、と言えば嘘になる。だけど受け流し、カーキ色のパンツスーツに包んだ胸を張る。
「下品」? 「みっともない」? 結構よ。作品の質を気にするふりして、他人の花器や着物やプライバシーばかりを気にしてる連中に評価されなくても。
それにしても「お花がかわいそう」ってどういうことよ。もともと華道なんて、切ったり曲げたり刺したり、場合によっては火であぶったりするものじゃないの。根から切り離した時点でその花の命は人の手にもてあそばれているのだから、古伊万里の花器に飾ろうがカラースプレーまみれにしようが、大差無いと思うんだけど。
「ねーねー、先輩のやつって、どれよ?」
パーティションの向こう側から、耳なじみのあるキンキン声が聞こえてきた。
あら、あの子たち、今回も来てくれたのね。嬉しいわ。いつもこっそり見に来ては、休み明けに会社で素人なりの感想を伝えてくれる。券をタダでばらまくときに、毎回「無理に来なくてもいいから」って言ってるんだけどね。なんてかわいい後輩たち。
「本名で出してないよね? 華道のときに使ってる名前って、なんだっけ? 忘れちゃった」
だけど、声が大きすぎるわ。仕事でもそうだけど、周りに対する配慮がちょっと足りないのよ。他の人から注意される前に合流した方がよさそうね。ついでだから、一緒に回って解説でもしてあげようかしら。
向こうの通路へは、遠くまで連なるパーティションの先を左に曲がらなくてはならない。私は足を速めた。
「華名なんて覚えてなくてもだいじょうぶ。一番へんちくりんなのを探せばいいのよ」
「言っちゃなんだけど、センス最悪だよね」
「言っちゃなんだけど、性格も、ね」
「あー、めんどうくさい。毎回感想ひねり出すの、超めんどうくさい」
「ちょっと、声、大きいよ。本人に聞かれたらどうすんの?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。今日は絶対いないから。『明日は新車買うからディーラー巡る』って、昨日言ってたもん」
「とにかくさ、どんなのかだけをチェックしてさ、とっとと出て、とっととケーキ食べに行こ」
「さんせーい!」
「で、だから、どれなのよ?」
パネルを挟んで平行移動していた集団のキンキン声が、立ち止まった私を置き去りに進んでいく。
合流……しない方がよさそうだわ。
壁の矢印に従うなら、彼女たちは先の曲がり角を右に曲がってこちらに来る。このまま私が詰所へバッグを取りに行けば、はちあわせになってしまう。それは避けたい。私はもちろん、向こうもきまりが悪いだろうし。
回れ右をして、私は出口へ向かう順路の人波に乗った。
「あの小娘ども、明日会社でどうしてくれよう」などと舌打ちしながら。
B
市民美術館の大フロアBは今、静けさに浸されていた。
BGMは流れていない。蝋燭に似た臭いが、かすかながらも絶えず鼻の中を漂う。展示物ごとに淡いオレンジのスポットライトが当てられているだけの薄暗い空間。そこでは足音どころか、呼吸音すら発するのをはばかられた。
人は、たくさんいる。けれど、そのほとんどが、もうずいぶん前に息を止めてしまっていた。
大フロアBの催し物は「驚異の人体、大いなる神秘展」。さっき後援会社のお偉いさんから「いやあ、人が入らなくてね」と、押しつけられたチケットのイベントだ。
展示されているのは、人体標本―体中の水分や脂肪分を合成樹脂に置き換えて固定する技術により、常温の外気中でも腐敗しないよう保存処理が施された、ヒトの遺体、だった。
右を見れば、ハムのように輪切りにされた頭部の標本が。左を見れば、肺から直腸までをそのままそっくり取り出してトルソーのように立たせた内臓標本が。
体表だけではなく体内のすみずみまでプラスティック化されているせいだろうか、近くで見ると、のっぺりとした質感だ。中学生時代に美術の授業で使ったポスターカラーの書き味に似ている、となんとなく感じた。蝋人形みたいで、そんなに生々しさは感じない。
でも、模型ではなく、かつてどこかで生きていた人間の一部なのだという。
内臓なんて、絵で見るだけでも気色悪いというのに、本物なんて……。ケースに入っているものはまだいいとして、いくら腐らないからって、なんの遮蔽物も無しに、ただそこらへんに立たされていたり、ファッションモデルみたいにこじゃれたポーズを決めているものもあったりして。おまけに「感触をお確かめください」なんて看板まである。
「こんなの触る人いないわよ」と、そう心の中で毒づいていたら、本当に触っている人がいた。……信じられない。
順路に沿ってどんどん進むと、全身の神経を露出させた標本があった。首筋から腋を通って腕へ続く神経の細い数本がささくれていて、よく見ると、空調の風で揺れている。胃がひっくり返りそうになるのをこらえた。
説明パネルによれば、この標本たちは防腐・保存技術や解剖学の発展のために製作されたのだから、冷やかしや侮蔑は献体になった人に失礼だ。それは重々承知している。
けれど、気色悪いものは気色悪い。吐き気をもよおすほど。今日はもう肉を……いや、もう何も食べられそうにない。
私への本音を炸裂させた後輩たちと顔を合わせたくない一心で、一時避難ついでに入ってみたのだけど、やめておけばよかった。とんでもないところに来ちゃったわ……。
スポットライトに黒光りするエナメルのパンプスをなるべく鳴らさないよう気をつけながら、早足で歩く。とにかく早くここから脱出したかった。だけど、次の折り返しのパーティションを曲がったときに、足が止まってしまった。
皮膚や腸や筋肉のくすんだベージュ系ばかりだった会場の中で、ある展示台の上にひときわ鮮やかな赤を見つけたから。
「これは――」
その赤は、皮膚も脂肪も筋肉も神経も骨も取り去り、毛細血管だけを残した右手の標本だった。
あますところなく張り巡らされた血管の網が、シャープな輪郭の右手を形作る。飴細工のような繊細さと鉄筋の骨組みのような力強さを併せ持つ精緻なオブジェが、ガラスケースの中に息づいていた。
「――美しいわ」
一見、不規則でデタラメとしか思えない網目模様は、DNAの計算の下に描かれた芸術品。ガラスに鼻の頭がくっつきそうなほど近づき、一本一本の血管の道筋を追っていく。そのとき、ふと気づいた。