@Thatsright_CM
*
どんな顔するかな。
びっくりするかな。
よく考えたら、プレゼントを買ってあげるのなんて初めてだもんね。
絶対喜んでくれるよね。
昨日だって、大喜びしてたんだから。
*
バスに揺られて一時間、アスファルトが顔をのぞかせる雪道をよろけながら歩いて七分。
一年ぶりの実家に到着するやいなや、私はトートバッグを玄関に放り投げてトイレに駆け込んだ。ドアの向こうから母の呆れる声が聞こえた。
「『ただいま』より先に『ゲー』なんて」
猛烈な吐き気と戦っていたのだから、しかたない。「ただいま」と同時に玄関先にゲロをまき散らすよりマシだろう。
冬の冷気ですっかり冷えた銀色のレバーを押し、便器の中にまき散らした嘔吐物を流した。昨日の昼から何も食べていないせいで、胃液しか出てこなかった。
少し吐き気が治まったので、底冷えのするトイレを出た。玄関のバッグを回収して居間へ向かう。
襖を開けると、皆がこたつを囲んでいた。上座側で父が寝転がってテレビを眺めている。角またぎの向かって左側に座っている母が、天板いっぱいにチラシを広げている。その向かい側で、身を寄せ合うように座った姉一家がぜんざいを食べていた。
「あー、よしねちゃんだー。あけおめー」
「あけましておめでとう」を簡略化した新年の挨拶とともに、小学生になった姪が飛びついてきた。腰を引きながら、彼女を抱きとめる。
つややかな黒髪に天使の輪が浮き出た姪の頭を両手でこねくり回していると、
「嘉音、ほら、お年玉あげてよ」
母にそう急かされた。お年玉など一円もくれたことのない母に。
「ああ、いらないよ。気を遣わないでちょうだい」
姉夫婦は断ろうとしたが、お年玉の意味を知っている姪は、ところどころあずき色の汁が付いた両手をすでに広げている。
無邪気におねだりする親類の子どもを一家団欒の場で無視できるほど、私はチャレンジャーではない。財布から千円札を取り出して、小さな掌に乗せた。姪は両手でお札を掲げ、「わぁい」と歓声をあげながら姉の隣へ戻った。
「ちょっと、あんた。ポチ袋ぐらい用意しておくもんじゃないの?」
母がまた顔をしかめた。そんなことを言われても、姉一家が来ていることなど知らなかったのだ。教えてくれれば、ポチ袋どころか、のしでも水引でも用意したのに。声には出さずに愚痴りつつ、黒いダウンジャケットを脱いだ。
母の横が空いていたが、あえて隣にではなく下座に腰を下ろした。こたつの中は足でいっぱいなので、こたつ布団を太股に掛けて正座することにした。
「本当に気の利かない子ね。だから、彼氏にフラれるんだよ」
「あれ? 別れたの?」
姉に顔をのぞきこまれた。私が口を開く前に、母がまたしゃしゃり出てくる。
「この前、フラれたんだって。今度こそ片づくと思ったのに。近所で『よっちゃん、三十過ぎてるんでしょ? まだ結婚できないの?』って、何度も訊かれるんだよ。恥ずかしいったらありゃしない。ねぇ、お父さん」
水を向けられた父は、スタートしたばかりの箱根駅伝に夢中で「んー」としか答えなかった。
「結婚しないつもりなら、それでいいけどね。どうせ同じ市内に住んでるんだから、アパート引き払って戻ってくれば? 家賃なんて、金をドブに捨ててるようなもんじゃないの。もったいない。その分のお金、家に入れて欲しいわ」
「はーいはいはい、そのうちね」
軽く受け流し、チラシを一枚失敬した。近所のスーパーマーケットのものだった。批難がましい視線を遮るために、顔の前で広げてみせる。
新春特価、アイスクリーム全品半額、生鮮食品一グラム一円セール……ふむふむ。
母はそんな私の態度が気にくわないようだ。いつもの嘆き節をこぼし始めた。
「本当にこの子は薄情な金食い虫だわ。英会話も塾も途中で投げ出すし。高校も大学も国公立落っこちて。私立の授業料いくらすると思ってるの。あんたを育てるのに一千万はかかってるよ」
ちなみに、一千万円の主な内訳はこうだ。英会話教室六年間に約五十七万円、塾五年間に約六十万円、私立高校三年間の授業料に約百五十万円、私立大学四年間の授業料に約四百万円。残りは生活費だそうだ。
「お母さんがお父さんの安月給をどんな思いでやりくりしてたかわかってるの? なのに、あんたは一銭も返してくれないし。盆にすら帰ってこないし。ああ、情けないわ」
早口でまくしたてる母を義兄が「まぁまぁ」と苦笑いを含んだ声でなだめた。ただでさえ気づまりする妻の実家で、生々しい愚痴など聞かされたくないのだろう。続けて彼は、一枚のチラシを指差した。
「あ、お義母さん、洗濯機欲しいんでしょう。この電機屋さんはどうです? 初夢福袋セットですって。二十万円出せば、洗濯機とデジタル放送対応テレビと電子レンジがセットで買えるみたいですよ」
示されたチラシをのぞきこむ母の肉づきの良い頬が緩んだ。
「ああ、これいいね。……って、先着二十名じゃないの。早く行かなきゃ」
さっそく母は腰を上げた。
「行くよ。お父さん」
「今、いいところなんだよ。ほら、もうすぐ十人ごぼう抜きだ」
「そんなのどうでもいいから、早く用意してよ」
立ち上がり際に父の腰のあたりをかなり強くはたいて、母は私の背後の襖から出ていった。なにやらぶつくさとつぶやきながら起き上がった父も、母の後を追うように居間を出た。
「私たちも欲しいものあるから、一緒に電機屋さんに行ってくるわ」
姉もこたつを出た。姪が開いたりたたんだりしている千円札を「ママが預かるね」と笑顔で奪い取り、スカートのポケットに入れた。
あの千円札はちゃんと姪に返すのだろうか。それとも、臨時収入とばかりに家計の足しにしてしまのだろうか。私たちの母と同じように。
「嘉音(よしね)も一緒に行く?」
「まだ気分悪いから、やめておくわ」
「車酔いひどいの、相変わらずだねぇ」
お年玉を没収されて不満そうに頬を膨らませる姪にピンクのダッフルコートを着せながら、姉は苦笑した。
うなずきながら、私は生まれつきの車酔い体質に初めて感謝した。
「私たち、買物行った足で帰るね。じゃ、またね」
「ほら、よっちゃんにバイバイは?」と促されて、姪はふくれっ面のまま手を振った。私も「バイバイ」と手を振った。
最後に義兄が軽く会釈して、姉の一家は一足先に玄関の外へ出ていった。
「よ、し、ね、さーん」
振り返ると、パジャマからジャンパーにスラックスというよそ行きの恰好に着替えた父が、襖を少し開いて顔をのぞかせていた。
「冬のボーナスいくらだった? お父さん、新しいパターが欲しいなぁ」
「残念なお知らせだわ。不景気だし、今年も寸志だったよ。三万円」
景気回復してきて黒字決算になったから、本当は三十万円貰ったけど。
「そうか……」
隙間から顔を引っ込めた父の弱々しい足音が玄関へ遠ざかっていった。続いて、母の顔が現れた。
「お姉ちゃん、『洗濯機買うお金の足しに』って、十万円くれたわよ」
「ふうん。よかったね」
私は顔を正面に戻してテレビを見つめた。それから、しばらく駅伝の熱い実況中継の声だけが部屋に響いていた。やがて、母が聞こえよがしに大きな溜息をもらした。
「ほんっとうに、あんたって、親不孝な冷たい娘だわ」
そう吐き捨てると、母は音をたてて襖を閉めた。床板が割れそうなほどにけたたましく廊下を踏み鳴らし、玄関の戸をまたも叩きつけるように閉めて出ていった。
これでようやくこたつをひとりじめできる。リモコンで実況中継がうるさいテレビのスイッチを切り、正座でしびれた足を布団の中でいっぱいに伸ばして寝転がった。
格子模様に浮き彫りが施された白い天井をぼんやり眺めていると、子どもの頃の思い出が淡くではあるが次々と蘇ってきた。
私は実家が好きではない。だから、大学卒業とともに一人暮らしを始めた。そして、めったに帰らない。
こたつの温度設定が強すぎたのか、また徐々に吐き気が胸でとぐろを巻き始めた。深呼吸をすると、すえた口臭に気づいた。吐いた後、口をすすいでいなかった。
うがいしたい。それに、すっきりしたものが飲みたい。
姪が置いていったあずきのかすがこびりついたお椀を持って、私は台所へ向かった。
水道水でうがいをしているうちに、吐き気は引いていった。喉を鳴らそうと首を反らせる度に、流し台の上の窓べりへ目が向いてしまう。食器用洗剤、流し台用クレンザー、ミルクパンなど、昔と変わらない顔ぶれが並んでいた。
十七年前の母の誕生日。あのクレンザーの横には、一輪の白いバラがコップに挿されていた。
私は瞼を閉じて、浮かび上がった記憶の残像を遮断した。そして、もともと日本酒の容器だったガラスコップを洗い、流し台に置いた。
ガステーブルの笛吹きケトルのふたを開けてみると、独特の異臭が小鼻全体に充満した。即座にふたをする。「お茶っ葉買うのがもったいない」と母が花壇で栽培したドクダミのお茶だった。隣のコンロの鍋にはぜんざいが入っていた。
次に冷蔵庫を開いた。娘二人が家を出て夫婦二人暮らしの冷蔵庫の中は、寂しげだった。えびす寒天や数の子の姿が見えるぐらいだ。
以前は正月ともなると扉が閉まらなくなるぐらいみっしりと食べ物が詰まっていたものだ。昔と違い、どこのスーパーも年中無休になったので買い置きする必要がなくなったのだろう。
それにしたって、寂しくなったものだ。飲み物が牛乳しか入っていないのは、相変わらずだけど。
ドクダミ茶、ぜんざいの汁、牛乳、どれも濃い。一口含んだ途端に吐き気が復活しそうだ。もっとすっきりしたものが飲みたい。しかし、水ではものたりない。吐き気を吹き飛ばすような爽快感のあるもの。でも、炭酸は胃が膨らんで嫌だし……。
そうだ、レモネードだ。レモネードが飲みたい。どうしても飲みたい。
冷蔵庫横の買物袋を貯めてあるカゴから小型のコンビニ袋と薬屋の紙袋を取り出した。コンビニ袋の中に紙袋を入れて折り畳み、カーゴパンツのポケットに突っ込んだ。これなら途中で吐き気に襲われても安心だ。
チラシが入っていたのだから、営業しているはずだ。近所のスーパーに出かけることにした。
*
傘をさすほどではないが、雪がちらほら降っていた。せっかく溶けてきたのに、また積もるのだろうか。
転ばないように傘を杖代わりにして、徒歩三分の距離にあるスーパーへと歩き始めた。
実家に向かうときは、吐き気で全く周りが見えていなかった。ゆっくり見回してみると、この一年で町はずいぶん様変わりしていた。多くの畑が潰されて駐車場になっている。いつのまにか、西洋のお城のような白い建物までできていた。
何かと思って看板を見ると、産婦人科病院だった。隣接の駐車場には黒いベンツや銀のビートルといった高級車が並んでいる。設備は良さそうだけど、たいそうな医療費を請求されるのだろう。苦笑して通りすぎた。
私が生まれる前から営業している近所のスーパーもまた、姿を変えていた。実家には一年ごとに帰っているが、この店を訪れるのは一人暮らしを始める前が最後だから、十年ぶりぐらいか。
通りに面した外壁は、ほとんどガラス張りになっている。灰色だった壁は淡い緑色に塗り替えられていた。黒ずみひび割れていたオレンジ色の床も、今はクリーム色に輝いている。あの頃テナントは花屋だけだったが、今はパン屋もある。値札のPOPは手書きからパソコン出力に変化していた。
正月二日の店内は、タイムサービスであらゆるものが値下がりしていた。鼻息荒くカートを押す主婦たちが、横を駆け抜けていく。
「一家族様一本限り」と表示されたPOPの前で、醤油のペットボトルを抱えた小学生ぐらいの男の子のポケットに、母親らしいジャージ姿の女性が千円札を突っこんでいた。
ああ、あのちゃちな裏工作、私もよくやらされたものだ。家族で来店しているのはすぐにばれるのに。まぁ、レジのおばさんはわかっていても黙っていてくれたけど。結局、大事なのは売上だから。
私は安売りの品には目もくれず、レモネード用ジャムの大瓶だけを買った。
レジを出ると、花屋が見えた。榊や椿、かすみ草などが青いバケツに入っている。奥のガラスケースには、黄色いチューリップや花びらの縁を紫色に彩ったトルコキキョウ、ピンクのスプレーカーネーションなどの花々が活けられていた。
種類によって値段にばらつきはあるものの、やはり以前よりお手ごろのような気がする。いや、私が金を稼ぐようになったからそう感じるだけか。
ガラスケースの中に、ひときわ目立つ深い紅の花を見つけた。バラ。赤い花びらが、記憶を淡く映し出す。あまり思い出したくないものだった。
目を逸らして花屋の前を通りすぎ、スーパーを出ようとした。が、立ち止まった。
母は、あのときから少しは変わっているのだろうか?
私はきびすを返した。ブーツの底がワックスで磨かれたクリーム色の床をこすり、キュッと高い音をたてた。
*
傲慢なのだろうけど、あまり親に何かを与えてもらったという実感が、私には無い。
我が家において、クリスマスや誕生日は無意味なものだった。プレゼントもケーキも無い。パーティーの様子やプレゼントの中身を嬉しそうに語る友だちがうらやましかった。
母にねだっても「よそはよそ、うちはうち。それに、あんたたちのご飯だけで手いっぱい」などと、はねつけられるだけだった。父もその方針に反対しなかった。いや、安月給の手前、反対できなかったのだろう。
そのうち、「誕生日おめでとう」の一言もなくなった。無視される代わりに、私たち姉妹もイベントを無視した。両親の誕生日はもちろん、父の日も母の日も。
しかし、私が高校生になった十七年前に「事件」が起こった。社会人になった姉が突然、母の誕生日に一輪の白いバラをプレゼントしたのだ。
母はとても喜んだ。この家には腹の足しになるドクダミを育てる花壇はあっても、腹の足しにならないバラを飾る花瓶は存在しない。母はソプラノで鼻歌を口ずさみながら、日本酒容器のコップに白いバラを活けて台所の窓べりに飾った。そして、夕飯のときは父に、夕飯の後にはわざわざ友だちに電話をかけて自慢していた。
当然のように無視するつもりでいた私は、このぬけがけに面食らった。これでは私一人が親不孝者だ。あわてて、次の日の学校帰りにスーパーマーケットの花屋に寄った。
我が家の小遣いはたったの千円だった。アルバイトはしていたが、銀行振込の給料は母ににぎられていた。どれだけ稼ごうが毎月私に与えられるのは千円だけだった。
文房具などの必要経費は出してもらえるにしても、少なすぎる。これでは友だちとカラオケに行くことすらできない。そもそも、必要経費として予算申請しても「そんなもの要らない。無駄」と切って捨てられることも多かった。抗議すると「おまえが公立落ちたせいで、年間五十万円飛んでいくのよ」と怒鳴られた。
そんなわけで、財布の中には六百円しか入っていなかった。
「どの花がいいかなぁ?」
店員の迷惑そうな視線を背中に受けながら、私は三十分ほどショーケースの前に居座り続けた。
カーネーションだと母の日になってしまうし、菊だとお葬式になってしまう。白いバラは姉と同じになってしまう。マネしたと思われるのは、絶対いやだ。
そんなとき、目についたのは赤いバラだった。あまりにもキザな気がして候補から外していたのだけど、意外とアリかもしれない。姉の白いバラと一緒に飾れば、紅白揃っておめでたい感じがする。……うん、名案じゃないの。
赤いバラは一本五百円だった。財布の中にはもう百円しか無い。来月までの十日間を思うと気が遠くなりそうになったけど、母の喜ぶ顔を見ることができれば、それでいい。
ラッピングされた深紅のバラを片手に店を出た。つい駆け出しそうになる気持ちを抑えて、歩く。走ったりして、茎が折れたり花びらが散ったりしてはだいなしだから。
走っていないのに、息が弾む。スーパーマーケットから家へのたった三分の距離が、いやに長く感じられてならなかった。
「どんな顔するかな。びっくりするかな。よく考えたら、プレゼント買ってあげるのなんて初めてだしね。絶対喜んでくれるよね。昨日だって、大喜びしてたんだから」
家に帰ると私は真っ先に台所へ向かい、夕飯を作る母の後ろ姿に呼びかけた。
「お母さん、これあげる」
振り向いた母は、腫れぼったい一重の瞼をいっぱいに開いた。
「どうしたの、これ」
差し出したバラを、母は驚きの表情のまま受け取った。
「ちょっと遅れたけど、誕生日プレゼントだよ」
喜んでくれるだろう。笑って「ありがとう」と言ってくれるだろう。
母は顔をほころばせ、そして、こう尋ねた。
「花言葉は?」
「へ?」
花言葉など知らない。ただ、私は姉が白なら私は赤だと思っただけなのだ。