異世界シリアスファンタジー。
戦火から逃げ延びて国境近くの街で穏やかに暮らしていた花屋の子弟に落ちる影。ある日突然訪れた脅威に併走する滅びの記憶。暴かれる秘密と迫られる決断。
――咲いてはならない花が咲く。
@Thatsright_CM
この作品の前日譚となる『咲く花にひとの輪は回る』はこちらでご覧いただけます→http://text-revolutions.com/event/archives/4921
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*
錠を外して両開きの木の扉を開くと、小高いスビト山のすそを昇る朝日が射し込んできた。石造りの店内と木製の古い荷車が照らされる。
壁に掛けた銀色の花鋏や、商品棚に並ぶ色硝子の花瓶に反射する光がまぶしい。日に日に陽射しが強くなっているのは、ここポゼの街に夏が近づいているからだ。
「もうすぐ『花の環祭』だっけ」
この国境近くの石造りの街に初めて来たのは、六年前。
戦争で数年間途絶えていた祭の復活当日とあってか、荷車に積んだ花が飛ぶように売れた。
中央広場の屋台でひさかたぶりの満腹感に浸ったところを、小さな手がなかば強引に俺を舞台へと引っ張り、みんなが奏でる音楽に合わせて踊り――
その華やかな一日のことを思い出しながら、俺はいつもどおり開店の準備を始めた。
まず荷車を店先に出す。地下へ下りて、収穫した花卉であふれた陶の花筒を抱えて石階段を上り、店先に置いてまた地下庭へ。
ここで師匠と暮らし始めてから、ずっと続いている日課だ。この重い物を抱えての往復が、一日で一番疲れる。
今や陳列台へと役目を変えた荷車に最後のひと抱えを置くと、作業用の厚い前掛けの腰紐が緩んだ。気も緩んであくびが出た。朝の涼やかな大気の〝素〟が口に流れ込み、かすかな焦げ臭さが鼻を抜けていった。
「あはは、大きなお口ね」
外からの笑い声に、あわてて口をパクンと閉じた。
「デイ、おはよう」
「ああ。おはよう、エメリ」
旅の宿《走れ仔鹿亭》の看板娘にして歌姫のエメリが、俺と同じ若葉色の瞳をきらめかせている。ふだんは頭のてっぺんで結い上げる蜂蜜色の髪は、紺の給仕服の背中に流したままだ。
十三歳の愛娘の横で、着古して黄ばみの目立つ調理服に紺の袖無し胴着を羽織ったご主人も、太鼓腹を揺らして笑っていた。
「ノンツ鹿の包み焼きが、丸ごと入りそうな口じゃないか。試してみるかい」
「やめてください、無理です」
美味との評判が街の外からも客を呼ぶ《走れ仔鹿亭》の名物料理は、ご主人の腹と同じぐらい重量感たっぷりなのだ。
「はは。それはともかく、眠そうだな。おまえさん、働きすぎじゃないのかね」
「ご心配なく」
笑い返して指を唇に当てた。その話題、ここでこれ以上はちょっと困るんですよ、と。
「おっと、そうだったね」とばかりに天井を見やったご主人は、すぐに店先に並ぶ花筒へと目を移した。
「さてと、今日はどれをいただこうかね。おすすめはあるかい?」
「そう、ですねぇ……」
あいづちをうちながら、俺は遠くを見やった。宿に飾る花を毎日買いに来てくれるお得意様の相手をしなければならないというのに、どうしても外が気になってしまう。
国境側のスビト山とは逆方向、遙か遠く帝都側にそびえる緑濃いシャンタ山脈の方角が。
「あの、ご主人」
「なんだい?」
「昨夜、どこかで火事でもありましたか?」
「ん? ああ。早耳屋の話じゃ、夜明け前に隣の村で農具小屋の屋根が燃えたらしいな」
「屋根が、ですか。原因は?」
「さあ? 誰も気にしとらんよ。なんせ、ここは火焔帝の国だしな」
奥さんを先の戦争で亡くしたご主人が、投げやりな調子でそう答えた。
「……はぁ……」
この国の――アルダ皇帝の二つ名に、ため息がもれた。そのとき、
「いっ! いててて!」
背後から右耳をつねられた。
「お客様を 放っておいて いったい 何 を 見て いるの ですか」
耳に流し込まれた、ぶつ切りのしゃがれ声。まだ二階で寝ているはずの師匠が、いつのまにか真後ろにいた。丈の長い青い寝衣のままで、枯れた藁のような長髪をうなじのあたりで緩く束ねている。
その姿を見て、ご主人が目を丸くした。
「おや、お師匠さん。こんな朝早くに出ていらっしゃるとはお珍しい。お体、だいじょうぶですか?」
俺にならってか、街の人はみんな、彼を「師匠」と呼ぶ。そして、街の人はみんな、彼の虚弱さを知っている。
「ええ。皆さん、おは――」
師匠は俺の耳の高さに屈めていた細長い体を起こして、挨拶しようとしたけれど、
「お師匠様、おはようございます!」
エメリの高い声にかき消された。師匠は息も声も細くて、数秒と続かない。彼女へ優しく微笑んだ師匠は、瞳と同じ淡い蒼の肩掛けを、尖った顎まで引き上げた。
「これは見たことのない大輪ですな。新種ですかな?」
金色に縁取られた白く薄い大きな花弁で紅色の蕊を幾重にも包む一輪を、ご主人が引き抜いた。
「あいかわらず《残響庭》の花は素晴らしいですな。虫食いやシミのひとつも無い葉や茎の、この瑞々しさ」
そうして、萼側から花びらを仰ぎ見た。その薄さは重なる白を透かして見せる。
「なにより、どの花も透きとおるような美しさで、不思議とほんのり光って見えて神秘的だ」
絶賛するご主人の横で、エメリが腕組みしてうなずいた。胸が少し大きくなった気がする。
「いったいどんな土と肥料を使えば、こんなきれいな花が咲くんですかね? そろそろ教えてくださいよ」
いたずらっぽく目を細めて、ご主人は師匠を軽く肘でつついた。師匠が微苦笑に眉を下げる。
「んん、やっぱり秘密ですよね。わかってますって。うちの料理に使う香辛料やタレの調合も秘密ですからなぁ」
「頼まれたって、教えてあげないんだからね」とエメリが付け足した。そんな愛娘の頭を右手で撫でながら、ご主人は笑った。
「ともかく、もう他の店で花を買おうとは思えませんな。今年の『花の環祭』でも、たくさん飾らせていただきますから、よろしくお願いしますよ」
「あり がとう ござい ます」
事実上の大量発注に、師匠が深々と頭を下げる。俺もつられて頭を下げた。
「デイも早くお師匠さんみたいな、立派な花卉栽培人にならんとな」
ご主人の左手が俺の黒髪を掻き混ぜて、
「ん? おまえさん、白髪が生えてるじゃないか。抜いてやろうか」
さらに掻き分けようとするのを「放っといてくださいよぅ」と頭を抱えて逃げる。師匠が、もう一度深く礼をした。
「遊んでないで、仕込みに戻らないとな。どれ、せっかくだから、今日はお師匠さんに選んでいただこうかな」
「かしこ まり ました」
品選びを依頼された師匠の胼胝だらけの指が、暖かい色の花を中心に、葉ものや枝ものを選び取っていく。
「デイ、お師匠さんの洗練された彩りの品選びをちゃんと見ておくんだぞ。おまえさんに選ばせたら、ちぐはぐでトンチキな色づかいになってしまうからな」
「いやぁ、お酒を出す宿なんだから、多少けばけばしいほうがいいと思うんですけど」
「デ イ」
師匠ににらまれたので、口を出さずに「見学」することにした。少し離れると、足音を忍ばせながら寄ってきたエメリに前掛けの紐を引っ張られた。
「ね、今日も来るよね?」
爪先立ちでこそりと尋ねられ、こそりと答える。
「もちろん。壊しちゃった髪留めの分まで働かせていただきます」
わざと敬語でおどけて。
「もう。気にしなくていいって言ったのに」
エメリは俺のかかとを軽く蹴飛ばすと、店先へ戻っていった。
目で追えば、高くなる陽に照らされながら花を囲んで談笑する三人。しあわせで、いつまでも眺めていたい光景だった。
前掛けの隠しから、入れていたものをこっそり取り出す。緋石のかけら。エメリの壊れた髪留め。握りしめて、またシャンタ山脈を見やった。
緑の山に、まなうらで朱が揺らめく。
――山の自然をかたちづくるあらゆる〝素〟が荒れ狂い、燃える森。
鈍い銀色の甲冑に、揺らめく火炎を映す大男が、一人。積み上がった裸の屍を背に、数人の部下へ先に戻るよう指示すると、冑の庇を上げた。黒い毛虫のような口髭をいびつにつり上げ、野太い声で笑う。
「貴公はお優しい方ですなぁ」
長老も言っていた。「あのひとは優しい方だ」と。
「だが悲しいかな、反逆者だ」
「しかし、悲しいことに、災いをもたらすひとなのだよ」とも。
「野蛮人もろとも、醜くのたれ死ぬがいい! 皇帝陛下の御為に!」
声を荒らげ、大男が剣を抜く。鋼色の切っ先が頭上でひらめくや、降り注いだ飛沫に目の前が赤く濁った――
火焔帝による侵略から九年。記憶の焼けぼっくいからこぼれた煤が、腹の底でささめいた。
*
【かの者たちは ただ安らかに 穏やかに
ここに在るだけ 生きているだけ】
油燈に照らされた宿の食堂。奥にしつらえられた板張りの小さな舞台で、薄紅の衣裳を纏ったエメリが歌う。伴奏は無い。光を透かす緋石の花の大輪が蜂蜜色の髪を飾っていた。
幼さの残る高音は鋭そうに思えて、意外とやわらかく耳に染みる。ほぼ独学の唱法は少しつたないけれど、それも愛嬌。
喋る者も料理を口に運ぶ者もいない。食堂を囲む形の二階の回廊からも宿泊客が顔を出していた。この建物の中にいる誰もが微笑みを浮かべて、歌う彼女を見守っている。
ひとにはほとんど知られていないことだけど、音には力がある。力が強ければ、ものに――ありとあらゆるものを存在たらしめる〝素〟に影響を及ぼすこともある。
エメリの声にも力がある。彼女がふた節――時にして八秒程度――で生み出す音の漣は人の耳だけではなく、各席に活けられた飾り花や酒精に淀む空気の素さえをもここちよく震わせ、活力をみなぎらせるのだ。
白く細い両腕を広げるのに合わせて、最後の高音が膨らんで広がっていく。油燈を固定する梁を回廊に渡して屋根まで吹き抜けになった食堂を満たす。
余韻が溶け入って消えると、拍手が沸き起こった。
「ご静聴、ありがとうございました!」
エメリはおじぎをすると、すぐに舞台から下りた。
「それでは、皆様、うちのおいしいお酒とお料理、楽しんでいってくださいね。ベッドもふかふかですから、よかったらお泊まりもお願いします!」
そうして客たちに声をかけながら、自室のある二階へ駆け上がっていった。
喝采を浴びる十三歳の歌姫も、出番が終われば地味な給仕服に着替えて店を手伝わなくてはならないのだ。おとといの、そんなときだった。不注意でエメリとぶつかって、落ちた髪留めが壊れてしまったのは。
今夜もエメリはすぐに華やかな衣裳を脱いで、調理や皿洗いなどを手伝い始めた。いつもより少し忙しい気がする。
「ねぇ、デイ」
そのわずかな暇を突いて、彼女が話しかけてきた。しかめっ面だ。
「これ、いくらしたの? お高いんじゃあないの?」
自分の頭を――俺がさっき贈った髪飾りを指差して。紺の給仕服に緋の大輪は少しふつりあいだった。
「高くないさ。ほら、うちで売ってる花瓶を作ってくれてる硝子屋。あそこ、鉱石の加工品も作ってるだろう?」
「うん? うん」
「余った石のかたまりをタダ同然で買って、彫って削って薄く伸ばして、櫛にくっつけただけだからね」
「えっ? これ、デイの手作りなの? すごいわ!」
一見豪奢な髪飾りの安上がりさに、エメリの表情が華やいだ。
「ねぇねぇ、もっと作ってお店で売ったら? 呑み屋のおねえさんや踊り子さんに、ばか売れだと思う!」
「そうかな? まぁ、そのうちね」
「そのうちなんて言ってないで、すぐにいっぱい作って売り出さなきゃ! お師匠様もきっと喜ぶわ!」
エメリは、なにごとにもせっかちだ。苦笑しながら、先走らないようお願いする。
「あ、師匠にはまだ内緒にしててほしいな」
「内緒に?」
はしゃいでいた彼女の表情が一瞬固まった後に、くもった。
「また? この頃のデイってば、お師匠様に内緒ばかりね」
不安げな顔が、下からのぞき込んできた。
「ねぇ、まさか『お金稼いで、ひとりでこの街から出て行こう』なんて考えてないでしょうね?」
「エメリだって帝都に出ていくつもりだろ?」
答えずに、問い返す。
「『貴族様のお嫁さんになるの』って、いつも言ってたじゃないか」
シャンタ山脈を越えた先の帝都は、好機の宝庫だ。皇族貴族に見初められれば、しめたもの。宮廷楽団や軍の凱歌隊に入れれば、一生安泰。小さな酒場や劇場であっても、僻地で暮らす数倍の収入が手に入るだろう。まぁ、その分、危機の宝庫でもあるのだろうけど……。
「うん……。前はそう思ってたんだけど、今は、ね……」
俺を見上げて、彼女は口ごもった。まだ歌に自信が無いのかな?
「そうだなあ。最後の高音、苦しそうだし裏声にすれば」
「はっ!?」
エメリはなぜか眉をつり上げて気色ばむ。けど、すぐに息を緩めた。
「……裏声、苦手。声量落ちちゃうし」
「力みすぎなんじゃないかな。力を入れて喉を絞るんじゃなくて、力を抜いて喉と胸を開くんだ。で、額から声を放つ感じ」
今までと同じように、裏声の出し方や拍の取り方、息継ぎについてなど、気づいたことをいろいろと助言した。全部受け売りだけど。
「ねぇ、デイ。歌を教えてくれるとき、いつもそうだけど、口だけでぺらぺら言われても、あたし、わかんない」
上目づかいで俺を見るエメリは、口紅が薄く引かれた唇を尖らせた。
「お手本見せてよ。デイが楽譜書いてくれた歌なんだし」
「えー」
それは困る。
「おーい、デイ! 来てくれ! 《飛べノンツ鹿の包み焼き》が出るぞー!」
ちょうどよく、厨房のご主人から声がかかった。そうだ、食堂はまだ忙しい。
「はーい! 今行きまーす!」
「ちょっとぉ!」
元気よく返事して、エメリのそばから離れた。彼女は不満げながらも、さすがにこれ以上は追いすがってくることはなく、洗い場へ向かったのが横目に見えた。
厨房から金物の大皿を二枚持ち出して食堂の中央へ進むと、俺は底のでっぱりを掴んで構えた。
「ご主人、準備できました!」
ノンツ鹿の包み焼きは《走れ仔鹿亭》の名物料理だ。だけど、美味さの他にも「名物」たらしめる理由が……つい最近追加されてしまった。
「よし、行くぞー! お席の皆様は動かないようお願いしますねー!」
ギム粉の皮にほどよく焦げ目がつく熱々の包み焼きが乗った鉄板を掴んでご主人が現れると、席のあちこちから「おーッ!」と野太い声が上がった。期待の歓声は、何も知らない客も巻き込んで、手拍子も加わり「おっ! おっ!」と場を勢いづける掛け声へと変わる。
拍子に合わせて何度か体を左右に揺らしたご主人が大きく腰をひねると、戻る反動で包み焼きを宙に放った。
「そりゃあー!」
鉄板から勢いよく飛び立った大きな包み焼きは、俺の現在位置から大きく逸れる。ご主人の狙いが定まらないのは、まぁ、いつものことだ。
失敗の予感に悲鳴のあがる中、跳び上がり、
「ちょっと失礼します、ね、っと」
客が座る椅子の背もたれを爪先で経由すると、背面跳びで卓を越えて右腕を伸ばした。
ずっしりと重い包み焼きが大皿に落ちるやいなや、身をひねって左の大皿でふたをして、そのまま腕を振り下ろせば、勢いで脚が上がる。
足の甲をあやまたず梁の縁に引っかけ、着地地点にアタリをつけると、体を前後に思いっきり揺らし、甲が浮いたところで梁を蹴って跳んだ。
あとは、大皿を抱え込んで着地するだけだ。
「ほっ、と!」
この最後の着地で気が緩んで転んでしまうこともあるのだけど、今日は持ちこたえることができた。
「お待たせいたしました。《飛べノンツ鹿の包み焼き》です。どうぞ」
立ち上がってふたを開き、包み焼きの乗った大皿を掲げると、数秒の間ほぼ無音だった食堂内が沸き立った。
「すげぇぞ、ぼうず!」
「よっ! 曲芸師!」
「きゃー! デイ、今日もかっこいいー!」
エメリの声が一番大きい。
注文を受けた四人席に、包み焼きの大皿を届ける。待ちわびていたとみえて、彼らは飛びつくように切り分けを始めた。
いつもこの立ち回りでギム粉の包みのあちこちが破れたり、縁が欠けたりしてしまうけど、香辛料と鹿肉の香があふれ出てきて食欲が増大するせいか、苦情を受けることはほとんどない。まぁ、腹の中に入ってしまえば同じだし……。
ちなみに、包み焼きを落として台無しにしてしまった場合は、その席の飲食代はタダになる。移動の経由のために椅子や机を借りた席は、飲み物一杯無料だ。ご主人がそう決めた。
もともとは、運んでいたエメリがつまずいて包み焼きが飛んだのをとっさに皿で受け止めたのが始まりで、気がついたら曲芸添えの特別献立と化していた。
……あまり目立つことはしたくないのだけれど、この街に来てからというものご主人にはお世話になりっぱなしなので、断りきれなかった。
「おもしれぇな! おい! こっちにも、その飛ぶ包み焼きを頼む!」
「おやじ! こっちもだ!」、「うちの席にもだ!」と次々声があがるのを、ご主人が笑顔で頭を下げて回る。
「申し訳ございません。《飛べノンツ鹿の包み焼き》は、一日一食限定の早いもの勝ちでして。今からはただの《ノンツ鹿の包み焼き》になります」
「なんだそりゃ、つまらんなぁ。飛んでるのとただのやつとじゃ、味も違うのか?」
「味は同じですよ」
「じゃあ、美味そうだし、ひとつ頼むわ」
「ありがとうございまーす!」
包み焼きの注文が続々と入った後、店まるごとだったにぎわいは、徐々に席ごとへと分散していった。食事を終えて宿泊部屋に戻る人や、家路につく人も現れる。
追加注文の入った奥の席は、まだまだ盛り上がっていた。紫色のブーヅ酒を酌み交わす男三人組はそれぞれ異国からの旅を経て、この宿で意気投合したらしい。異国訛りのアルダ語で話に花を咲かせている。頼りない発音が、昔の自分を見るようで懐かしい。
「知ってるか? ポゼの領主が変わるとさ。早耳屋たちが噂してるぞ」
「そうなのか。今の領主は、穏やかで善い男と評判なんだがなぁ」
アルダ帝国ポゼ領ポゼ。それが、この街の正式名称だ。
治めるのは、街外れの館に住む領主。帝都から派遣された貴族の男。
街中を訪れることはほとんどなく、影が薄いにもほどがある。己の預かる領地にまるで興味が無いらしい。とはいえ、あれやこれやとうるさく干渉されるよりは、よっぽどましか。
「どうやら、隣国を攻める準備らしい。この街は国境線に近いから、おとなしい文官出身者じゃあ務まらなくなるだろう」
以前は、シャンタ山脈が国境線だった。ポゼの街は侵略を受けてアルダ帝国の一部になったのだ。
勇猛果敢な騎士団や士気を高める凱歌隊を従えた火焔帝の火攻めに、多くの土地が呑み込まれた。旧国の都はもちろんのこと、街も村も、何ものにも属していなかった山奥の隠れ里すらも。
「今朝、ここらで火が上がったらしい。何者の仕業だ? なんともきな臭いじゃないか」
「ただの小火らしいが」
「待て。この国は『火の雨が降る』だの『空中で突然火花が散る』だの、火の妙な噂には事欠かんぞ」
「火の雨は火矢だろう? 火花はよくわからんが」
「稲光じゃないのか?」
俺も見たことがある。遠くの空で大気の素が不穏に震えて弾ける光。それは雷に似て非なる、火。
「まあ、火焔帝の国だからな」
内のひとも外のひとも、火の不可思議はすべてそれでかたづける。
「火焔帝は、火の神に愛されてるらしいからな」
「火のバケモノじゃあないのか?」
アルダ帝国の、火をともにした進軍は、それほどまでに猛威を振るったということだ。
「おいおい、めったなことを言うな。焼き殺されるぞ」
「おいおい、おまえさん、声も手も震えちまってるじゃないか。怖いのかぁ?」
「そっ、そんなことはないさ」
追加のブーヅ酒やクカクク鳥の香草炒めを運び、笑いの起こった席から離れる。
(……皇帝は、関係ない)
だから、以前ほどには炎の被害は出ないだろう。いやまぁ、ここ数年でいろいろな技術が進歩していて、次々に恐ろしい兵器も開発されているらしいから、どうなるかはわからないけれど。
(とにかく、戦は戦だ。ひとがたくさん死ぬ)
嫌な話を聞いてしまった。もうすぐ、平和を祈り復興を喜ぶ『花の環祭』の季節なのに。
厨房へ戻った俺は、エメリが洗って物置台に積み上げていく皿を、夢中で拭き続けた。
思い出したくもない記憶の焼けぼっくいの束がさざめくのをまぎらわすかのように。
*
真夜中過ぎにようやっと食堂が落ち着いた。ご主人から帰っていいよと声をかけられたので、俺は油燈を提げて外へ出た。
《走れ仔鹿亭》がある街中央の噴水広場周辺は呑み屋や宿の灯でまだ明るいけれど、角をひとつ曲がってしまえば石壁の建物に囲まれて、暗い。
壁にはしる修繕の跡を、歩きながらつい目でなぞってしまう。古い石の段と新しい石の段の継ぎ目。この街の傷痕。
「……ん?」
かすかな焦げ臭さに鼻を鳴らした。
石畳の帰り道を住処へ近づくにつれ、ほんの少しずつではあるものの、強まっているような気がする。見回しても夜のとばりに火影は見えない。大気の素も落ち着いたものだ。
「気にしすぎかな……」
合鍵を使い、裏口から《残響庭》へ入った。
戦争前は道具屋だったという石造りの建物。以前の住人は戦に巻き込まれて亡くなった。無人のまま放置されていたのを《走れ仔鹿亭》のご主人が領主の許しを得てもらい受け、それを俺たちが借りている。
その住居兼店舗兼花畑は今、暗く静まり返っている。
まずは地下庭へ下りて、仕入れた種や株の「手入れ」を済ませた。こころなしか廊下よりも明るくなった地下庭を後にして、自室のある二階へ上った。
朝は品出しや手入れや仕入れ、昼は店番や家事、夜は副業、と体は疲れきっている。眠い。今すぐ寝床に倒れ伏してしまいたい。
だけど、師匠の寝室の前で足が止まった。
この頃いろいろと考えることがあり、後ろめたいこともあり。だから様子が気になってしまう。
ゆっくりと扉を開き、中に入った。
師匠はいつもどおり首に薄布を巻いて寝台で眠っていた。半分の月に青白く照らされて。
先の戦争以来、彼は昼近くに起きて日の入りとともに寝入ってしまう。眠り草を煎じて飲む念の入れようだ。……今朝は、やけに早く目が覚めたようだけど。
閉じた硝子窓から射す月の光は、寝台横の机も照らしていた。植物の種がいくつか転がっている。
(あ、やっぱり……って、ん?)
そして、ぶかっこうに花をかたどった緋石がふたつ。自室のくずかごに、こっそり捨てた失敗作だった。
(うわ、まずい……!)
回収しなければ、とあわてて手を伸ばした。けど、やっぱりやめて、引っ込めた。
見つかってしまったものは、もうどうしようもない。自分の不注意さを怨むしかない。
息をひとつ、大きく吐いて、窓を薄く開いた。深更の冷えた空気を鼻を鳴らして吸えば、やはりかすかに焦げ臭い。
(ああ……)
師匠はいったい、何にどこまで気がついているのだろうか。
――ある夜、眠りにつこうとしたとき、長老に呼ばれた。
寝床から、大樹に囲まれた小さな広場へと連れ出され、焚き火の前に座るよう促される。
「あらたまってなんだろう?」といぶかしむ俺に、ある決定がおごそかに伝えられた。
さらに山奥の幽谷へ移り住むことが決まったと。近日中に、この森を棄てるのだと。
「いやだ!」
聞くか聞かないかのうちに、叫んでいた。
「いやです! せめて、あのひとにもう一回会ってお別れしてから――」
「ならぬ。時間が無い」
静かな、だけど強い声で、望みは切って捨てられた。長老の全身を刻むしわが、炎に照らされていっそう深く目に映った。
「どうして? 『また来る』って言ってくれたんですよ! なのに、来てくれたときに誰もいなかったりしたら、悲しむでしょう !?」
「それでいいのだ」
「よくないよ!」
俺は立場も忘れ、骨が浮き出る長老の細い肩を掴み、くってかかった。
「どうしてそんなひどいこと言うの? この里の生まれじゃないから? 外から来た……『バケモノ』だから?」
痛かった。焚き火の間近で、あぶられるような熱さの腕の皮膚より、胸の奥が。
「あのひとは、バケモノなんかじゃない! 言葉の通じない俺たちに、いろんなことを教えてくれたじゃないか! 長老だって知ってるくせに!」
「あのひとは優しい方だ。しかし、悲しいことに、災いをもたらすひとなのだよ」
長老は悲しい顔で俺を諭した。
「ディレイ、おまえにもわかるだろう」
確かに、俺にも「見えて」いたけど、わかっていたけど……納得できなかった。
ものごころついたとき、すでにふた親ともなかった。天涯孤独だった俺にとって、彼はひとりじめできる唯一ともいえる存在だったから。異郷の物や事、言葉や歌を教えてくれた優しい迷いびとのことが、俺は大好きだったから。
もう見れないのか、あの穏やかな笑顔を。
もう、聴けないのか、あの平和を願う優しい歌声を。
「もうお別れにするのだよ。それが、まちがいなく、互いのためなのだ」
泣きじゃくる俺を、長老の淡い緑銀の長髪としおれそうな素肌が包み込んだ――
師匠の首をくるむ薄布に触れた。
(……お別れにもいろいろ方法がありますけど、長老)
永遠の別れを突然に強いられて、もう二度と会えないひとに心の中で語りかける。
指に力を入れると、布ごしに喉の軟骨に触れた。
(どうするのが、最良、なんですかね?)
それは、この頃ずっと悩んできたこと。誰に尋ねるわけにもいかず、自分で結論を出すしかないこと。
決められないまま震える指は、結局、今日も空を掴む。
また大きく息を吐いて窓を閉め、なるべく静かに部屋を出た。
扉が完全に閉まったのを確認すると、俺は階段を駆け下りた。
飛び込んだのは、一階の湯浴み場だ。油燈の取っ手を掴んだまま、水を貯めて並べた大甕のひとつへ頭を突っ込んだ。
熱くなった頭が、急激に冷えた。さわやか、と言うには強すぎる冷たい芳香が肌を刺し、鼻の奥を突く。顔を跳ね上げて、空気をいっぱいに吸って、咳き込んだ。まぶたを開くと香の刺激でしたたかに目がしみた。
頭を突っ込むべき大甕を間違えた。この大甕の中身はただの水ではなく、洗濯や掃除や洗髪に使える爽葉油を垂らしてあるものだったのだ。
頭から流れ落ちる水が服に作る黒いシミを、油燈の明かりが照らす。掬った水を腹にかけた。汚れはわずかに薄まるけど消えない。
消えは、しない。腹の奥底に溜まり、嵐の予感にざわめく焼けぼっくいの山と同じに。
濡れた服が肌に張りついて気持ち悪い。着衣の生活にはすっかり慣れたけど、ふとした折に、不自然な「気持ち悪さ」を思い出す。
まあなんにせよ、今は脱ぐしかない。
壁に油燈を掛けると、黒く汚れた服を脱ぎ捨てた。そして俺はもう一度、今度は真水の入った別の大甕に頭を浸した。
*
《走れ仔鹿亭》の夜は、にぎやかだ。名物の美味い飯目当てやエメリの歌目当ての客が、街の中からも外からやって来るからだ。
そして今夜は、なんとも珍しいもの目当ての客が現れた。
受けた注文をご主人に伝えると、彼はうなずいて「これはおごりだ」苦笑した。薄茶色の爽葉茶がなみなみ入った硝子の水差しと碗をふたつ、盆に乗せて。
「お待たせしました」
円卓に茶器一式の盆を置き、俺は客の前に座った。
「きみを二十分ほど」――そう注文した客は、褪せた藁色の長髪を束ね、薄い蒼の肩掛けで首をくるんでいる。
今日はいつも以上に眠りこけていたから、顔を合わさずに……何も訊かれずに済むかもしれないと思っていたけど、甘かった。
「師匠、こんな時間にどうしたんです? 寝てなくてだいじょうぶなんですか?」
「なぜ 私に 隠れて 働く のです?」
気づかいは無視され、すぐに疑問をぶつけられた。ただでさえ小さな声は、このにぎわいの中でさらに聞こえづらいけど、言っていることは空気の素の震え方や唇の形で読み取れる。
「バレましたか。三ヶ月ぐらいしか隠せませんでしたね」
「噂が ね。流れて きますから ね。《飛べ ノンツ 鹿 の 包み 焼き》の」
ああ、やっぱり。あれだけ派手にやれば、どうしたって耳に入るよなぁ……。
「で。なぜ 私に ひと言も なかった のです?」
鋭い視線で見据えられる中、硝子の碗に茶を注いで差し出した。まわりくどい答と一緒に。
「俺も、もう十七ですし。いろいろと考えることがありましてね」
夜によそへ働きに出ていることを、とりあえず、師匠には黙っていたかった。打ち明ければ、尋ねられるだろう。裕福ではないにしろ、花屋《残響庭》として、暮らしは成り立っているのに、なぜ働きに出なければならないのか、と。
理由を、答えたくなかった。