@Thatsright_CM
激しい音をたてて、玄関の引き戸を閉められた。家の奥へ足音が遠ざかっていく。最後の一軒もだめだった。
大きく息を吐いて空を見る。里山の木々に囲まれた空は、雲に覆われて薄暗い。渡せずじまいだった生命保険のパンフレットを合皮のトートバッグに押しこんで、ゆるい坂を下りはじめた。
遠くで鳴く鳥の声以外は、自分の靴音しか聞こえない。それぐらいさびれた村で新規開拓ができると思った自分に、あきれる。人口の多い区内での営業でさえ、ろくな数字をあげられないのに。
「私、何やってるのかな」
都会の人間の冷たい対応に疲れた? 田舎のひとなら優しいって期待した? どちらにしても、ただの現実逃避。そう思い知っただけだった。
キャベツ畑に囲まれた小道を歩く。林を切り開いたかのような大通りにバス停が見えたところで、雨が降ってきた。
「天気予報に雨マークなんてなかったのにね」
トートバッグをかざして雨を防ぎ、バス停へ急いだ。
停留所名を掲げるさびたポールに、プラスチックの時刻表が打ち付けてある。腕時計と見比べた。
路線は二本でどちらも次が最終便だった。三十分後に来るバスは別の街へ行ってしまう。乗りたいバスが来るのは四十五分後だった。
ポールのすぐ奥には小さな待合い小屋。灰色のブロック塀を重ねた壁に、れんが色のトタン屋根。ドアは無く長方形の入口がぽっかり開いている。
のぞいてみると、先客がいた。塗装のはげた青いベンチの向かって右端に、作業ズボンをはいた七十代ぐらいのおじいさんが座っていた。汚れた長靴の足下にはクワやジョウロの入ったかご。首に巻いた豆絞りで頬や肩を拭いている。
なんだか入りづらい。話しかけられたらどうしよう。気のきいたこと言えないし、今はひとりでいたいのだけれど。
バスが来るまで、あと四十五分。外で雨ざらしのままでいるわけにもいかない。待合い小屋に入ることにした。
おじいさんは私をチラリと見ただけで、ベンチにもたれて目を閉じた。長めの眉毛がまぶたにかかっている。
トン トトン ト トトトン……
聞こえるのは、トタン屋根できわ立つ雨音ばかり。
バッグやスーツの雨粒をハンカチで拭いた。ひと拭きで、白い生地が土色に薄く染まった。いつの間にか土ぼこりを浴びていたらしい。見たとたんすごく疲れを感じ、ベンチの向かって左端に腰を落とした。
灰色のブロック塀に囲まれた出口の先で雨は降り、深緑に茂る針葉樹の木々を無彩色にけむらせる。アスファルトの色も黒く沈む。そんなモノトーンの景色に感じるのは、あじけなさと、暗さ。今の生活と同じに。
毎日を楽しく生きていたのはたぶん、二十年以上前……高校受験まで。
みっつでピアノ教室に通いはじめたら「絶対音感」なんてもてはやされて、得意になって練習した。誉められるのが嬉しくて、新しい曲を覚えるのが楽しくて。旋律に躍るこころの火花が指先から弾けだす感覚が、大好きだった。
この感覚にずっと包まれていたい。この感覚の源を自分の手で創りだしたい。「将来はピアニストか作曲家になるんだ」って、音楽の道で生きる夢に燃えていた。
でも、音大附属高校の受験に失敗した。音大、じゃなくて、高校に。
「こんなところでつまずくようじゃあ、問題外だ」と、両親や教室の先生に失望されて。
「才能無いのが早く判って良かったんじゃあないの。バイバーイ」なんて、同じ道を目指す「友達」だと思っていた子たちにも鼻で笑われて。
音楽もひともいやになった。いつまでも立ちなおれない自分もいやになった。真っ黒こげの消し炭になった。それまで。
なんにも興味が持てないまま、憂うつに年月が過ぎていって。
新卒で淡々と長く勤めた就職先が倒産し、数年前に入ったこの生命保険会社では、事務を希望したのに外交に回された。お客様から毎日イヤミや文句を聞かされて、どれだけ頭を下げ続けても成績は上がらない。やっと契約が取れても「当然だ」と吐き捨てられるだけ。上司や同僚、ひと回り以上年下の後輩にまで「使えない。早く消えろ」などと陰口を叩かれる。
一日を職場でいやな思いをして過ごし、こころもからだもひたすら疲れて帰って寝るだけの日々。楽しいと思えることなんて、まるでない。
どろどろの泥沼を這うようなこんな生活、いつまで続くの? いつまで耐えればいい?
――気が重い。疲れる。つらい。
目を落とし、太ももの上でこぶしをにぎる。
トントトト トントトト トントトト ト――
「くっそ! ベッチャベチャじゃんか!」
雨音を裂く声に、びっくりして顔を上げた。
高校生ぐらいの男の子が駆けこんできた。後ろで束ねた真っ赤な髪に、ブルーのカラーコンタクト。ペンキをぶちまけたかのような柄のTシャツに、ダメージジーンズ。背中には黒く光るギターケース。さびれた村には不似合いな、派手なロック少年だ。
おじいさんも声に驚いたのか、目をみはって口を半開きにしている。
私たちを交互に見た少年は、ばつが悪そうな顔でベンチの真ん中に座った。「やっべ。ひといるし。おれ超恥ずかしー」なんてつぶやいて、担いでいたギターケースを膝に乗せた。
ギターネックで腰をつつかれそうになって、私はさらに端へ寄った。彼はエナメル加工されたギターケースに掌を滑らせて、雨粒を飛ばしている。
ふいに少年が手を止めて、私の膝のあたりへ目を向けた。
「おばさ、じゃなくて、おねーさん、ピアノでもやってたの?」
「え」
彼の視線を追った。膝の上でにぎっていたはずの手は、広がった十本の指先を支えに浮いている。ピアノをひくときみたいに。
「あ。まあ、ええ」
こぶしをにぎりなおした。「フーン」とだけ言った彼は、またギターケースを拭きはじめた。
ドザアアアアアアア――
雨脚が強まった。雨音の間隔が消え、ひとつなぎのノイズになる。跳ねる水しぶきでアスファルトが白くなった。景色はますます不鮮明になって、薄いスクリーンが下りてきたみたいだ。耳に張りつくノイズ、モノトーンな風景。昔の無声映画を見ている気分になった。
左側から口笛が聞こえてきた。まだケースを拭いている少年の尖ったくちびるから、高く鋭い旋律が流れてくる。
聞いたことのないアップテンポな曲だった。彼のくちびるが器用につむぎだすリズムに、指がまた動きだしそうになる。がまんして、顔を出口へ向けた。口笛から意識を逸らそうとするけれど、風変わりな曲に耳は傾いてしまう。
高低の差が激しい音の連なりは、破綻寸前のところを蜘蛛の糸を渡るようなあやうさとふしぎな強靱さで成り立っていた。雨音の不規則なノイズさえもうまく裏拍に利用する、激しいスタッカート。変調に次ぐ変調。ロックの体裁を保っていながらも、民族音楽を思わせるどこかなつかしい旋律。あまりに挑発的な構成に、つい和音を探って伴奏を組み立てたくなる。
フルコーラス一周したみたいで、聞き覚えのあるメロディーが戻ってきた。雨のスクリーンに五線譜が広がり、鼓膜でろ過した音符が並ぶ。楽譜は何重にも立体展開し、主旋律の後ろでコードが進行して、さらに裏をリズムが刻む。
曲が急に止まった。驚いて左を見ると、また少年と目が合った。半目で私を眺める彼は口の端をつり上げた。
「そのハモリ。超イケてんじゃん」
笑われて、頭のなかで奏でていたハモリを声に出していたことに気づいた。
「ごっ、ごめんなさい」
「なんで謝んの? イケてるって言ってんじゃん。うちのバンドで使わせてほしいぐらい」
「別にいいですよ。どうぞ……」
「マジで? やった! センキュー!」
彼の青い瞳がきらめいた。私が一度しか歌っていないハモリパートを、さっそく口笛で再現している。この子も絶対音感の持ち主なのだろう。……そう、わりとだれでも持っているものなんだ。
「あーゴホン」
今まで静かだったおじいさんが咳払いした。長靴の爪先をせわしなく揺らしている。
今口笛が気に障るのかしら。やめさせた方がいい? でもどう言おう?
私を誉めてくれた少年のきげんを損ねないような伝え方を考えていると、
「はぁああああぁああぁああ」
おじいさんの大声が小屋内に響きわたった。それは悲鳴や怒声ではなく、おなかの底からあふれだして高らかに波を描く民謡の発声だった。
口笛を止めた少年がおじいさんへ顔を向けた。赤い髪を束ねた後ろ姿しか見えないけれど、あっけにとられているにちがいなかった。
注目されたおじいさんは、苦笑いして頭をかいた。
「じゃましたかの。楽しそうじゃったから、若いころの血がさわいで、わしもつい。ゴホン」
さっきの咳払いは発声に備えたもの、今のは照れかくしのものみたいだった。
少年が顔をゆるり、とこちらへ向けた。その表情が驚きから笑いをかみころすものへと崩れていく。そして、
「あはははははは!」
彼は大笑いしながら、おじいさんの肩をバシバシと叩きはじめた。おじいさんは当然顔をしかめる。
まずい? このままだとケンカになる? 少年を止めようと腰を浮かせたとき、その口から意外な言葉が飛びだした。
「いい! いいよ! おじーちゃん! すげえ! ソウルフルじゃん!」
嘲笑だとばかり思っていたけれど、逆で、絶賛の表れだったらしい。
「うしっ、おじーちゃん歌ってよ! 『黒田節』でも『ソーラン節』でもカツオブシでもなんでもいいからさ!」
いきなり叩かれたりねだられたりで、おじいさんはずいぶんとまどっていたけれど、何度かの咳払いで喉をととのえて『黒田節』を歌いはじめた。力強く晴れやかな歌声が降りしきる雨を押しのけて、どこまでも伸びていく。
数小節を黙って聴いていた少年が、歌に合わせて手を叩き、床を踏み鳴らしはじめる。さっきまで口笛を吹き鳴らしていたくちびるから、スネアやサスペンドシンバルに似た音が弾け出る。ボイスパーカッション。
少年が促すリズムに合わせて、おじいさんの歌声も弾む。これは「ヒップホップ風民謡」。
たまたま行き会った人々が即興で音楽を作りあげていく。テレビの海外旅行番組で見たような光景。……ほんとうにここは日本なの? ジャマイカとかじゃなくて?