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解凍

全体公開 2608文字
2014-03-01 01:14:27

 春のキャベツ畑の脇で、もわもわするほどモンシロチョウを肩にまとわりつかせている。それが彼だった。自分を見ている同い年くらいの子どもに気づくと、彼はにこりともせずに「ぜんぶオスだよ」と言う。
「こんなことしたくないけど薬を忘れちゃってさ」
 彼は両手を振り回してモンシロチョウをはたき落とそうとする。蝶々がいっせいに飛び立った瞬間を狙って彼は走り出し、昔ながらの行政区画の端々に残る土のにおいを蹴散らして、新築のマンション群に逃げ込んだ。彼の立っていたところには、蝶々が三匹、五匹落ちている。手のひらの突き出た骨に当たったのだろう、胴体のへこんだ蝶々が羽を震わせていた。
 オスばかりを集める体質らしい。翌日、校門で帰ろうとする彼を捕まえた。同じ小学校なのに、こんなのいたなんて知らなかった、と言うと、彼は嫌そうな顔をして「君が気づいてなかっただけだ」と言った。
「虫だけなの? 集まんの」
「いまのところは」
「は?」
 だんだん大きい生き物を集めるようになってるんだと彼は付け加えた。
 彼の言う薬、というのは、オスを集める能力と言うか、体質を抑えるものではないらしい。「全然関係ない薬だよ」でも飲んだらたぶん、においが変わるんだ。変わるというか、交じるんだと思う。なんとなく汗が薬臭いから。
「そうかあ?」
「におうなよ。気色悪いな」
「お前の方がきもいだろ」
 彼がむっつり口を閉じる。少年は自らの失言を悟る。だが、言ってしまったものはもうひっこめられないし、傷つけたものは心だろうから、バンドエイドを貼ってやることはできない。何か間違ったという確信といっしょに少年は彼の隣を歩く。
「なあ、今度さ、神社行こうぜ神社。畑の向こうの」
「僕をおとりにしてもカブトムシは来ない」
「えっ」
「来るかもしれないけど、その前にいろんなのが来るから僕は嫌だ。虫嫌いなんだよ」
「えっ」
 なんで意外みたいな顔してるんだよ、ばかじゃないのか、ばか、と彼は言葉をちぎって投げつけて、土のかわりに消毒薬とパインチップのにおいのする新築のマンションの中へ走っていった。追いかけようとしたが、畜生、オートロックだ。
「逃げんなよ」
「なんで今日もいるんだよ!」
 翌日、校門で待ち伏せをすると、彼はうわっと言う顔をしていたが、逃げなかった。少年は、たびたび彼を傷つける言動をとったけれども、彼を追いかけるのをやめなかった。
 神社の境内は、そこだけ百年前の自然が残されていて、遠くから見ると森がこんもりブロッコリーみたいになっている。彼はブロッコリーも嫌いらしく、そこは少年と意見が合った。境内の中で、少年はランドセルを放り出し、駆け回って木の根元を掘り返したりしている。彼の方は、しずかに社殿の階段に腰掛けていた。相変わらず薬は忘れず服んでいたが、それでも相性がいいのがいるのか、風向きがよかったのか、ときどき虫や小さい生き物が寄り添うように肩にとまる。
「おっ、もーらい」
 今日は斑点のある大きな昆虫だった。「動くなよ」少年の手が彼の肩に触れて、そっと昆虫をつまみあげる。白い斑点のある長い触覚が揺れている。きちきちきち、と虫が鳴いた。少年の指に挟まれた胴体はつやつやしていて、そこから生えた六本足がばらばらに宙を掻いている。動いている方が不思議な、ばかに細い足。指を伸ばすと、少年が慌てて虫をひっこめた。
「気をつけろ。指、噛まれるぞ」
「噛むの」
「噛むよ」
 少年が、ランドセルからプリントを出した。斑点のある昆虫に近づけると、きちきちっと音がして、離すとプリントに切れ目が出来ている。
「な」
「うん」
 彼はプリントの端をつまんで虫の口元によせた。虫は嫌がるようにもがいて、それから突然それに気づいたように、目の前の紙をきちきちやった。離すとまた切れ目が出来ている。
「よせ、それ宿題だった」
「君が出してきたんだろ」
 うるせー、と言って少年はプリントをひったくると、昆虫を木のよく茂っているほうにぽーんと投げた。なんだもういらないんだ、と彼は思った。
 少年は、彼を誘う日もあれば、他の友だちと遊びに行ってしまう日もあった。だから彼も気がすすまなければ断ってやればよかったのだが、薬が効いていたし、前ほど虫も嫌いではなくなっていたのだった。少年が「えっ、お前知らねーの? 見たことねーの?」と大仰に驚いた、宝石のような虫を見てみたいからかもしれない。
「動くなよ」
 少年はささやいて、彼の肩から虫をつまみあげる。少年はそれを、蝶々を、バッタを、カナブンを、オオミズアオやマルハナバチやカマキリモドキを、雑草で胴を結んで持って帰ったり、逃がしたり、くもの巣にかけたり羽をむしったりした。
 梅雨に入るほんの数時間前というような日に客人があった。もともと、この神社はみんなのものなのだから、客人というのも変かもしれない。神社の石段を上って来た、都会的なにおいのする大人を見て、少年は、今しも彼の肩からそっとつまみ上げようとしていたてんとう虫を乱暴にむしり取ると、茂みの方へ投げた。
「悪いけれど、君たち、役所はどこかわかるかい」
「さあ」
 少年は彼の隣に腰掛けた。少しあごをあげて大人を睨みつけている。
「迷っちゃったんだよ。困ったな」
「知らない」
「昆虫採集かい? 懐かしいね」
 しらないおとなだ、と彼は最初から下を向いていた。おとなの男の、膝から下は奇妙に光を帯びたような灰色の服だ。靴もやっぱり、磨き立てみたいに光っていて、その先っぽに枯れ葉がついている。膝から上は見ようともしない。
「君は? 虫、獲らないの?」
「こいつはしねえよ」
 少年が隣で言うので、彼はそれが自分に向けられた言葉なのだとわかった。ゆっくりと見上げると、おとなの男が笑っている。おかしいことなんて、一つもないのに。「虫、好き?」彼はまたうつむいた。
「役所まで案内してくれる?」
……
「困ったなあ……
 下を向いていると、一匹の蚊がふらふらやってきて、歪んだ八の字を描いたかと思うと太腿の内側にとまった。彼は腿を閉じ、また開く。蚊はぺったんこに潰れている。当然の帰結。


少年や腿に挟みて蚊が平ら 関悦史
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2014/02/2.html?m=1



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