幻と真実。鮮赤と灰のループバック(http://privatter.net/p/1983216)の続きです。
@san_ph7
銀の剣が、その胸を貫いた。
床に広がった赤い水が鏡面のごとく相対したふたりの影を映している。ひとりは黒い大きな翼を背に負う、破滅を呼ぶ天使。砕けて光を失った天輪を頭上に頂き、黒い髪は毛先にかけて金色に変わる不思議な色をしている。緑色の瞳は動揺の色濃く、銀の剣の柄を握る手はわずかに震えている。
もうひとりは顔のほとんどを鳥を模した仮面で覆っている烏の王。仮面の穴から覗く瞳は彼とよく似た色をしている。口元は弧を描いて歪み、その端からは血が流れている。胸を貫く剣と、それから目の前の彼とを見て、ゆっくりとその場に膝をついた。ばしゃん、と水音が静寂を破った。それを合図にしたかのように、止まっていた時が動き始める。波紋が水面に映ったふたりを歪めた。
剣から手を離し、彼もその場に崩折れるように座り込む。
ふたりは魂に宿命付けられ、魔の世界を統べる王として誕生し、存在していた。
そして今彼は、魔王であり、友であったその人を討った。
「そうまでして、俺を阻みたいのか」
口から血を流しながら、楽しくてたまらないという声音で、魔王はそう言った。
「俺の妹の命まで使って。俺を殺してまで」
「違う……」
「いいや。何も違わないぞ、ウィリデルクス。お前が俺の邪魔さえしなければ、ナイアは死ぬことはなかった。何よりそれを厭うお前が、まさかあれを犠牲にするとはな! 皮肉なものじゃないか?」
嘲笑。
「結局、お前の望む世界には必ず犠牲が出る。お前がどんなにそれを避けようとも。全てを救うことなど無理だ。お前ひとりがどんなに足掻いたところで、この世界を変えることなど不可能だよ。ああ、ウィル。
――お前では何も救えない」
伸ばされた手が彼の頬に触れる。付着した赤い水が、皮膚を焼いた。痛みなど感じられなかった。
「俺はお前が大嫌いだよ」
それは呪詛だ。
「お前が天使であったことも、使命を捨て魔王となったことも、俺とよく似たその忌々しい瞳も全て。お前の掲げる理想に同意したことなど一度もない。全てを救う? 馬鹿げている。死ぬんだよ生物は。もう全ては決まっていることだ。俺が魔王として存在し、その定められた運命を覆すことなど出来ないように。
しかしお前の足掻く様、楽しませてもらった。堕ちた天使が! 女神の使いだった天使が! 聖界を滅ぼしていくのを、運命を乱していくのを、お前が苦悩するのを間近で見るのは至極愉悦だった」
口から血を吐きながら、凶悪に笑いながら、魔王は続けた。
「そんな生ぬるいお前のことだから、俺の計画を知っても止めることなどできないだろうと思った。お前はこの選択肢を選ぶことなどできやしないだろうと。ははは、はははははは! ウィリデルクス! お前は勘違いをしている」
頬に触れた指に、にわかに力が篭った。彼の左目に鋭い痛みが走る。呻き声を上げ思わず手で押さえた。焼けるように熱い。何かが頬を伝っていく。異物を拒む反応から涙かと思われたが、落下する液体は赤い水よりも不透明で、鮮やかだ。
「死んで全てが終わるだと? そんな簡単に全てが片付くと本当に思っているのか? お前が全てを救っても、犠牲を強いて理想の世界を目指そうとも、どの未来にも必ず死が付きまとうだろう。お前の言うように行動が過程の運命を変えるなら、決定づけられた死すら周りに波及して必ず影響を残す。何が言いたいか、分かるか?
なぁ、お前、俺を殺せば全部終わると思っていただろう? 確かにお前に俺の計画は阻まれた。見事だよ、ウィル。お前は犠牲を支払って俺を止めた。確かに! そうだ、俺の計画は終わった。未発動のものに関しては。
――俺が死ねば谷の呪いも解けると、そう思っただろう? 思ってたんだろう!? はははははははは!!」
四肢の末端から徐々に白く灰に変わっていくことに構うことなく、魔王は続ける。
「その顔。その顔が見たかった。ウィル、俺はお前が嫌いだが、待つことにしよう。死して尚残る本物の呪いをお前に見せてやる。死んでも何も終わりはしない。終わらせてなどやらない。俺の死はお前にとっての始まりだ。
絶望しろウィリデルクス。お前では何一つ救うことなどできない」
哄笑が響いた次の瞬間、その身体は灰となって崩れた。
その中に、黄緑色の宝石を見つける。彼は剣を手にとり、切っ先を立て力を入れて、突いた。パキン、と音を立てて、石はあっけなく砕け散る。
赤い水と灰に塗れて、彼はひとり呆然とその場に座り込んでいた。
***
目を、開ける。左目がひどく痛む。熱を持ち、鋭い痛みが顔面の左半分を襲った。眼窩から流れ出た何かが水中に漂って、霧散していく。
視界はどこまでも赤く、上下方向の感覚を鈍らせる。彼の周囲を満たす液体は不透明で、手足の先端までは視認できぬ程度に濁っている。生暖い。赤い水はじわじわと彼の皮膚を侵し、火傷のような引きつった刺激を伝えた。ただ左目の痛みがそれに勝り、錐で貫かれたような感覚は次第に頭蓋の中で反響し、鈍く重い痛みに変わっていく。
遠くで声が聞こえる。
沈んでいるのか、浮上しているか、停滞しているのか。何も分からない。
声が聞こえる。誰かを呼んでいるようだった。よく知っている声のような気もする。けれどそれが誰かは判然としない。頭が鈍い痛みを溜め込んで、思考を意識を知覚をかき消していく。膨れ上がる痛みが頭の中で弾けた。
***
冷たい牢獄の世界で、彼は遺骸を抱いている。血の気を失った美しい顔。出来のいい彫像のような屍体は、彼の認識をますます非現実的なものに錯覚させた。この友人をこうして抱くのは2回目だった。最初はどこまでも真っ白な空間の中で「さよなら」をしたとき。もう二度と会うことなどないと、彼はそう思っていた。
「アルバ……」
そして今、冷たく暗い石壁が続く大牢獄の奥で、彼は物言わぬ友人と再会を果たした。
自分がどうして使命を捨てて、彼女を裏切るような真似までして魔王となったのか、彼はこの瞬間、本当に分からなくなった。手のひらから零れ落ちる砂を惜しんで、空の上から手を伸ばしたはずだった。
しかし彼は1番大事なものを取り零した。
使命の果て、暴走の末、断罪の天使は死んだ。
彼はまた救えなかった。
運命とは、一体何だというのだろう?
彼の瞳が捉える糸は、魂の記録を見せてくれる。過去を。そして糸は、紡がれる未来を知っている。過去を読み、未来を予知する能力を手に入れた彼は、手から零れ落ちる砂を追って、運命を覆すために、堕天することを選んだ。力の代償に、友と彼女の信頼を裏切ることを選んだ。
腕に抱いている天使を間違いなく救いたかったはずだった。
何故こんな結末を迎えなければならなかったのだろう?
未だに誰も救えぬまま、いたずらに犠牲ばかり積み上げて、一体何を為したというのだろう?
何故。
腕の中の鉛のような重さが、ふっと軽くなる。見ればそこには彼の友の姿はなく、ただ灰ばかりが残っていた。左目が熱を持って痛む。頬を熱い何かが流れ落ちていく。灰の上に、赤が落ちた。痛みが増す。血液と呼ぶにはあまりにも粘性が高い、どろりとした感触。赤い尾を引いて這うように彼の皮膚の上をゆっくりと滑り落ちていく。灰の上に、点々と落ちる鮮赤。
行動が運命を変える。死んで終わりになることなどない。
結末が決定づけられるのは、一体どの時点でのことだ。死すら次の糸の結末に影響するというなら、一体どこを断ち切ったらいい。
――ああそうだ。
すべて零にしてしまえばいい。
結末が決定づけられる、全ての始まりまで、戻してしまえばいい。
魂を白紙にしてしまえばいいのだ。
運命は覆されるべきだ。誰しもが抗うべきだ。だから全部最初からやり直そう。魂に刻まれた記録をまっさらにして。こんな運命を二度と繰り返さないように、糸を紡ぐ前に戻してしまおう。誰もが自由に結末を選択できるように。
左目が痛む。
彼は灰の中で拳を握った。緑色の瞳が、呪われた宝石のように暗く輝いた。
***
赤い水の中で、どれほど時間が経ったのか。
ただ意識浮かび上がる度に、過去の出来事の中にいるか、あるいはこうして水の中でぼんやりと痛みを甘受しているか、そのどちらかであるというのは何となく感じられた。彼の体は赤い水に晒されて、皮膚は酷く爛れている。だが彼には自分の体の様子は見えていなかった。赤い水は段々と赤く赤く濁っていく。彼の認識と知覚は更に曖昧になった。赤い水と自分の体の境界が、今の彼には分からない。
熱を持った左目が痛む。頭の中で鈍痛が谺する。
ふと、夢を見ているのかもしれないな、と彼は思った。能力によって過去と未来を行ったり来たりしていた彼にとって、自分が今見ているものが現実なのかそうでないのか、疑問に思うことはままあった。
或いは。
或いは彼が認識している『現実』とはただの過去で、もう過ぎ去った出来事をずっと遡り続けているだけなのかもしれない。そうでなければこれは未来で、彼はまだ誰も裏切らず、まだ誰も救えぬまま、ただの夢を見ているだけなのかもしれない。知覚の証明など誰にもできない。この認識は果たして自分が現実に感じているものなのか、誰にも分からない。
これは『現実』なのか?
これが『本当』でないとして、この痛みを感じる知覚も、まやかしなんだろうか?
何一つ真実には見えない水の中で、彼は過去を反芻する。
水中の認識と知覚は曖昧だったが、彼が幻視する過去は彼がかつて見たことがあり、感じたことがあるものだった。犠牲を強いながら誰ひとりとして救うことができず、全てを白紙に戻そうとしたことも、全て『本当』だった。
彼しか知らない、彼の知る罪だ。
ではこれは罰だろうか?
思考が定まらない。左目から流れ出る液体と共に、認識が溶けていく。
声が聞こえる。叫び声が、聞こえる。
***
燃える街を見た。滅びる国を見た。腕の中で失われていく命の感覚が何度も何度も繰り返される。罪の記録が古い順に改められていく。高笑いが聞こえる。耳元で囁く声が聞こえる。
目の前が、赤く染まって。
冷気を感じる。ひんやりとした石の感触。湿った空気に混ざる、血の匂い。呻き声。聞き覚えがあるような気がした。目を開ける。何度目か分からない絶望を捉えようと、瞼が上がる。
見知った場所である。ここは牢獄だ。ここから出ることは永遠に叶わないように思われるその場所で、金属を引きずる音がする。白い髪を乱して、身体を血の滲んだ床に擦り付けている囚人。
――今。
今自分は何を見ている?
左目が熱い。激痛が走る。頬を伝い落ちた赤い雫を追うように、床に手をついた。頭の中を掻き乱される。脳内で渦巻く赤い濁流に意識を手放しそうになるが、必死にそれを押しとどめる。流されてはならないと強く思う。知らなければならない。今見ているものが何なのか、この囚人は一体誰なのか。
顔を上げる。鉄格子の向こうで苦しむその人の瞳を覗き見た。
伏せられた顔の、無彩色の瞳が。何の変哲もない、灰色の瞳が。
焦点の合わないそれが、微かにこちらを見た。
「――カイ」
ああこれは。
続きを見ているのだ。
これは未来だ。カイの、未来だ。
また、救えなかった。
いつだってそうだ。手を伸ばしても、指の間からすり抜けていく。いつだって気がつくのが遅かった。いつだって諦めるのも、希望を持つのにも、覚悟が足りなかった。まだ間に合うと信じていたかった。
「……違う」
左目から赤い液体を止めどなく流しながら、痛みに顔面を引き攣らせながら、カイをしっかりと見る。彼は、自分が最初に見た未来予知の続きを見ているだけだと思っていた。赤い森を越えて海にまで踏み込んでしまった、そのすぐ後の未来で、分身から本体へ意識を戻した際の光景であると思っていた。恐らく彼が幻覚から覚醒しても間に合わないだろうことを確信していた。
幻覚に落ちる寸前で見たカイは、赤い海に浸かってひどい火傷を負っていたはずなのだ。ここにいるカイは床に打ち倒されていはいるが、皮膚がひどく爛れているような様子はない。
――これは、もっと先の未来だ。
なら、まだ間に合う。
顔を上げて、鉄格子を掴んで身体を無理やり引き起こした。檻のギリギリまで寄ると、隙間から片腕を突っ込んだ。僅かにカイには届かない。カイがこちらに手を伸ばしてくれたら。
「カイ!」
叫んだ。聞こえるはずはない。今自分がしようとしていることに意味があるのかなんて、彼は全く考えずに叫んだ。自分の声が頭の中で反響する。鈍器で殴られたかのような鈍い痛みが頭の芯を揺らす。脂汗が出る。左目の痛みが増す。眼窩より流れ出る赤い液体は、左頬のほとんどを濡らしながら石の床へ落下していく。鮮赤が血溜まりを作る。
「いつもこうだ! いつも……! 聞けよカイ!」
手を精一杯伸ばす。指先が空を掻く。あと少し、届かない。
「相談も無しに黙って行ったくせに! こんなときぐらい僕の声聞けよ! カイ起きろ! こっち向け馬鹿野郎!」
石の床に押し付けられた顔が、僅かに浮いた。銀の髪の隙間から、彩度のない瞳が見える。唇が何事かを呟いたが、聞き取れない。カイには彼の姿は見えないはずだ。これはただの未来予知だ。
カイはじっと誰もいないはずの虚空を見たが、片腕で床を這って手を伸ばした。届かなかった距離が、届いた。彼はカイの手を掴んだ。痛いぐらいに握り返す。伝わるはずのない感覚が伝わったのか、カイの顔がほんの少し痛みで歪んだように見えた。
「君がどこにいても、僕が必ず引きずり上げてやる……!」
ふたりは同時に、互いを引き上げるよう、固く握りあった手に強く力を込めた。
途端に、左目が弾けた。目の前が真っ赤に染まる――
徐々に塗りつぶされた視界が明瞭になっていく。
泥濘のような赤い液体の中から身体を起こした。立ち上がる。足元を赤い泥が地の果てまで埋め尽くしている。
「母親の腹を割いて出てきた赤子のようだな」
声のする方を見た。顔のほとんどを鳥を模した仮面で覆っている烏の王。仮面の穴から覗く瞳は彼とよく似た色をしている。全身を真っ赤に染めた彼を見て、かつての友は愉快そうに言った。
「……呪の魔王」
「それで、お前は誰か救えたか?」
口元は弧を描いて、嘲笑を湛えている。
彼は手に銀の剣を持っている。強く柄を握る。
「同じだ、ウィリデルクス。過去は変えられん。お前は誰も救えない。そうして俺をここでまた殺しても、全てが終わりになることなどない!」
彼は銀の剣を構えて呪の魔王へ駆けた。柄に両手をかけ、切っ先を胸に当てた。迷いなくその身体を貫く。勢いでその身体が後ろに倒れ、泥の中へ沈んだ。彼が剣を引き抜くとそれは瞬く間に灰へと変わり、やがて泥に飲まれて消えた。
「僕は、君を救えない」
手の甲で左目を拭った。
付着した不透明で鮮やかな赤い液体を、苦い顔をした彼が緑色の瞳で見つめた。
***
意識が浮上する。
目を開け、うつ伏せにされた身体を起こした。見回せば、どうやらいつも寝起きしている城の中の部屋のようだった。視界が狭い。左目に違和感を感じたが、手で触れるのはやめておいた。
「へいか!」
白い髪をした少女が首に飛びついてきた。
「やぁイヴ。僕は起きているかい? まだ幻覚の中にいない?」
「冗談を言うな。へいかはちゃんとここにいる」
よかった、と言って彼は少女の背中をさすった。
それから、部屋の入口に立つ邪神の使いへ声をかけた。
「やぁおはよう、伝令の悪魔」