X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです
Xフォロワー限定公開・リスト限定公開の停止について

桜辻口四丁目事件 前半

全体公開 44207文字
2016-12-28 00:04:42

東京異端審問

Posted by @Hato5_

【善悪の彼岸】
      著:フリードリヒ・ニーチェ
         「ツァラトゥストラはかく語りき」









混戦的模擬戦というものがある。簡単にいえば多対多となった時や味方が一人もいない三竦み状態になった時にどう対応し、いかに対象を捕縛するかを前提とした模擬戦だ。これにはいくらか必要な状況的要素が多くあるが、異能者を相手どる異捜としては珍しくはない物件でもある。過激派の抗争であったり、中立派と保守派での取引現場を取り押さえる際、裏になにかがあれば確実にそれは混戦になりえるのだ。そうしたものを想定し、仮定し、実践された現場が現在行われている混戦的模擬戦であった。城山の影が鋭く日比野の死角へ周りのみ物質量を形作り、巨大な犬を作り出した。目もなければ鼻もない。形だけで察するに、ドーベルマンと呼ばれる筋肉質な体躯が日比野を無い目で睨みつけた。影によって作られた生き物と対峙するのは日比野にとって初めての経験ではない。この数十年という異捜としての経験値は確かにこの場で活かされていた。
が、忘れてはいけない。これは"混戦"である。
―――!」
溢れかえった水が床を満たす。影に影響のないそれは明らかに人工的なものであり、まるで今しがた雨漏りでもあったかのような有様だ。ここが屋内でなければなかっただろうが、屋内であるからこその有利性を生かした煎沢の異能だとすぐに理解する。
頭上からの殺気。
水に足を取られながら細い獲物が投擲された。空気を切り裂き、びゅうと音をたてて日比野の足元を狙ったソレ─持ち手が輪になり刀身の短いそれはおよそ苦無と呼ばれるものであり、腐れ縁と称される男の使い古した獲物だと気付く。
――手を組んだか)
混戦として稀にある行動だ。最も厄介な敵を倒すために敵同士が手を組む。それは比較的合理的であり現実的作戦とも扱われるが、互いにいつ裏切るかという疑心暗鬼にも捕らわれる綱渡りでもある。飛沫を上げて避ける日比野の足を水が絡めとった。
飛沫を上げて避ける日比野の足を水が絡めとった。ライトを反射して瞬いた水玉が合図のように、バランスを崩した日比野の足めがけて影でできたドーベルマンが突進する。影でできているにも拘らず精巧に作られた牙が並んだ大顎が開かれ、―――その瞬間。噛み合っていた犬の歯が払いのける裏拳で欠け、身体ごと宙を舞う。衝撃波が水に波紋を作り出し床が現れた。うねる波が床を飲み込むと共に犬の身体が壁へと叩きつけられる。
「っく、やっぱり日比野にこれくらいじゃ足止めにもならないか」
城山の言葉とは裏腹に、日比野の手に伝わって来たのはストライクにしては浅い手応えだ。この心もとない足場では踏み込みも儘ならない。吹き飛んだ犬との距離をとる間もなく、上部から煎沢の踵落としが繰り出された。
腕を交差させ衝撃を凌ぎ切り、反す右足のローキックが煎沢の身体を吹き飛ばした。
―――ッツ!!本気でやりおったな!」
「当たり前だ」
煎沢のあらぬ抗議に完結的に答える日比野。他人からみれば本気の掛け合いにも関わらずその口から出るのは戯言ばかりで拍子抜けする――足元にまきつけられた“線”を感知するよりも早く日比野の足首は大きく上へと引き上げられた。水しぶきを上げて足元を掬われた日比野の身体が宙に浮く。一瞬で体の自由が奪われ重力に内臓が引き攣る感覚に襲われた。
そしてそこに影が―――

―――――ッテメェシロクマ!!!!!」

「悪いね。シロクマは結構せこいんだよ」
愛称とも蔑称ともつかないシロクマというあだ名に答える城山は終始笑顔だが背後に見える木彫りのシロクマが何とも言えない。影が狙ったのは日比野ではなく煎沢であり、同じく宙に浮いていた身体を影で殴りつけた事で横に回転する。明かに物理的な法則よりも多く回転した体に城山が疑問を持つよりも早く煎沢は袖口に隠していたナイフが投擲された。勿論今使われているのはゴムで創られた偽斧だが、黒い刀身が刃を見せ空気を切って城山の頬を裂くほどの威力はあった。血が僅かにあがると同時に影が身を捩る。そうして狙いをつけた影の咢を横から伸びて来た腕により絡めとられる。物質と言うものは不思議なものでそれぞれ未知の状態は流動的状態でありながら核と呼ばれるものは存在する。人間で言えば関節に相当するだろう部分は感覚の研ぎ澄まされた人間にとって、呼吸するのと同義である。安物の手袋でも影の牙から守る膜にはなる。然し食い込んだ牙は遠慮なく鷲掴んだ影の顎は離さなかった。日比野の身体から一気に息が抜かれる。
そうして一直線に突き刺さる槍のイメージをもって前方のみに膂力を尖らせ、その力の下、影の身体を地面へと叩き付けた。黒ずんだ影が弾ける様は水風船じみていた。衝撃を受けてなお動き出そうとする影は、さながらアンデットの不気味さだ。しかしそれをまだ動きがあるとみて捕れたのか、怪しい迅速さで間髪入れず。次は助走からのアンダースローに移る。下からの振り抜きにあわせ、影の身体が水を弾き出した床を滑る。死んでも死にきれない死体が動き出すような怖気を醸し出すそれに煎沢が水の中に着地し、一部始終を見て思わず舌を出した。影の身体が三日月の軌道を描いて叩きつけられたが、日比野の手が影から離れることはない。背後からの攻撃。
見ないまま頭部を狙ったナイフを素手で掴みとり、連続して折って来た城山の蹴りを片手で受け止める。衝撃を殺し返す手で足首を掴む。下部からの蹴り上げが二人の間を裂く。
――」「――」「――
一瞬交錯する六つの瞳が乱戦への開始の合図となった。
超近距離で開始された攻撃を煎沢は避ける事に徹底し死角からの攻撃を得意とする。日比野の加速的な攻撃は防御しようと貫いてくるが、それゆえに防御に甘い部分がでる。城山が反応しきるよりも異能に回す比率は高くフェイントの多い攻撃は厄介だ。顔面に入った拳に血がぬめる。肘の入った腹部が傷む。 脛を蹴りつけた足が崩れると同時に水しぶきが上がった。瞬間的に閉鎖空間が作られ互いの視界が遮られた。同時に動く。城山の懐から取り出された銃が日比野の頭に突き付けられ、日比野の拳が煎沢の首に突き付けられ、城山の首にピアノ線が引き絞られる。硬直する三者三様。水飛沫がようやく地面に辿りつき、着水すると共に足を盛大に濡らした。既に濡れそぼった身体には関係ないだろうが、それでもじっとりとした中で水にぬれた髪が鬱陶しく感じられた。
あいこ?」
だな」
「っだーー!!くっそお前ら本気だしすぎじゃろうが!!」
「そりゃねぇ
「出すだろ」
「儂は現場じゃねぇんだよ!ノウキンと一緒にすんな!」
「それは俺も言える事なんだけど
 しゅるりと音を立ててピアノ線が回収される。解放された首筋を二、三度撫でて首が繋がっている事を確認してようやく力を抜いた。
落とすような下手は打たん」
「ま、念のためね。それより大丈夫?手貸そうか?」
起き上がることすら怠いと言いたげに膝を床につけたままの煎沢へ城山が手を差し出す。袖を直していた日比野もそれに気付いて目線を向けてくるが、手を振っていらないと意志を示した。
床から水が干上がっていき、次第に綺麗な状態へと片付けば、ようやく煎沢も立ち上がった。
「やれやれ、本気なんぞ出すもんじゃねぇな」
「煎沢、おっさん臭いぞ」
「はは、俺達も十分おっさんだよ」
 苦笑いのまま談笑しながら運動場から出て行けば、後に残ってみていた異捜官達がざわざわと話を始めた。主に賞讃や感嘆の言葉がぽつぽつとで始めれば、いつの間にか活気が増し、一層訓練に熱が入ったと言う。
「なんか後ろ騒がしくなってねぇか」
「?気のせいだろ」
 空いている更衣室に声が響く。先に入った城山の後を追いながらなんとなしに振り向いた煎沢に日比野が首を傾げた。荷物を入れていたロッカーからタオルを取り出し、流れる汗と未だに残っている水滴を拭いとっていく。シャツのボタンを外し、濡れたものを袋の中に詰めいれていく。
「そうだ、日比野。今度の書類のことなんだけど」
連続通り魔のあれか」
「うん、それのことなんだけど――
 二人の会話が始まった途端、間を遮るように電子音が二つ鳴り響いた。聞きなれたそれは緊急コールだ。
 迅速な動きで新品のシャツを取り出し、慣れた様子で二人が袖を通しつつ自分の携帯を取り出してすぐさま内容を聞き取る。電子音の向こう側から聞こえてくる特徴的なくぐもった音が事件の内容を伝え、城山と日比野が目配せをすれば背広に手を通した。
「わかった、すぐ行く」
「了解、班長はそっちを頼む」
 二人があわただしくロッカーを閉める音を聞いていた煎沢が煙草に火をつける。ほぼ同時に振り返る二人に片手を上げて手を振れば、特に言葉は交わさずに荷物を持って更衣室から駆け出して行った。
 それを見送った煎沢も自分の携帯を取り出し、着信履歴を見る。コールが一件入っていた。そういえばマナーモードにしていたなと頭を掻いて思い起こし、リコールすれば、出た相手に指示を飛ばして携帯を切る。


――― 〆 ―――



規制線の張られたとある工場街の奥。赤いランプをビカピカと瞬かせ、白と黒にPOLICEの文字が書かれた車が数台止まっている。そこにいるのは私服警官や刑事など、見た目でいうならば多種多様の職務警官だった。それぞれ話をしながら険しい顔でばたばたと動き回っており、その場に広がる緊張感が肌から伝わっているせいか、新米と思われるまだ若い警官達は自らの場所とこれからおこる事態に戦々恐々としていた。
今回起こった"立て篭もり事件"。
表側ではとあるヤクザの本拠地を突き止めこれからその突入作戦が決行されるという事になっている。しかし、その事実は勿論違う。ここは確かに所謂反社会的組織の集う場所であるが、ここは異能者という特異な能力を持つ物の組織が立てこもっている場所だ。正確にいうなれば、その残党だが。つい先日起こったとある異捜襲撃事件を集約させる為、焔が出動し、その時逃した数名と戦闘に参加していなかったとされる数名の異能者捕縛を目的としているが──その実、"生死を問われる事はない"。吐かれるべき彼らの仲間は全てそこにいる。諜報班での調べも加えて彼らの主犯が先日の襲撃時に死亡しているのも確認済みであるのだ。
その中に監察対象であった警察官がいるとして、雛村因果はその現場に呼ばれていた。
踏み荒らされた冬の終わりであり春の伸びしろ草を少しばかり眺めた後、その土を手に取る。僅かに湿気を含んだそれを手に馴染ませ、すぐそばに立っていた部下である狭音虎太朗に声をかけられた。
「目標を確認致しました。やはり湊元現新のようであります」
明治時代の軍服のような格好に、目深に被った帽子の隙間から金色の目が見える。今すぐにでも突入するかと聞きたげな目に、少しばかり息をついて立ち上がる。
「担当はスズだったな」
「はい」
「呼んできてくれないかしら?少し作戦をたてよう」
「了解であります」
ついていた膝を立てて担当であったとされるスズを呼んでくるよう頼めば真面目な虎太朗はすぐさまそれを行動に移す。ハキハキとした言葉に(あいつら相性悪いンだろうなぁ)などとぼんやりと一瞬読んだ心にもう一度息をつき、工場を見直した。風はかなり強く、先ほどから叩きつけるような風と湿気の匂いが鼻腔をくすぐり僅かながら不快感を煽ってくる。湿気に加えこの風ではパイロキネシスによる爆発処理は使えないな、と過激な一手を取り下げた。
「雛村」
 あまり聞き慣れない低い声音に思わず振り向く。風下にいるせいか、少しばかり聞きにくくなった声の主を見つけ、ああ、と声をあげた。
「日比野警視、ご協力ありがとうございます」
「ああ様子はどうだ」
「現状確認中です。中にはうちの失態監査対象がいたので、内部の情報が持ち出されていないかが少々気がかりでね」
……椿さんに知られたら怒鳴られるな」
「そこらへんの事は眼目に押し付けておくから無問題よ」
程々にしておけよ」
「ええ」
軽い応対を交わしながら当然のように言ってのける雛村に思わず苦い思いが募るが、それもまた相手の手中なのだろうと思い気を引き締める。
全員捕縛でいくのか?」
……
………そううまくは行かないか」
日比野警視は死人を出したくありませんか」
僅かな沈黙。
「罪には罰が必要だ。犯罪の償いは、死人では償えない」
身長の差によってできる死角に目を向ける。満月を詰め込んだのように明るい瞳の中は僅かに陰りをおびている。思うことがあるのだろう、異能を使用することは控え、倣うように倉庫を見上げる。
「華福氷河と横山加純をお借りしてもいいですか?」
なにを考えているのか、次に横目で見たのは日比野だった。その気配に気付いて同じように目を合わせる。正反対の色の瞳が僅かにかち合った。
本人達に掛け合ってくる」
「ありがとうございます」
半ば許可をもらったも同然の言葉に少しばかり笑みを浮かべる。
班長の判断であれど、日比野が本人の意思を尊重するのは予想がついていた。あの班の結束力は評価するものがあり、この提案を拒否するようなことはないだろう。稀にその手柄ほしさに暴走する者もいるが、その時はその時だ。
スズしばらく日比野班に押し付けてみようかな
少しは意識改革が……起こる訳もないなと即断し、再び目の前の現場へと臨んだ。
湿気た土を踏み僅かに露を乗せた瑞々しい草花が工場の周りを取り囲みそのまま雑木林にまで伸びている。多くの人間が立ち入ったせいか、土は荒らされ、湿った土の下に隠れた乾いた肌色が掘り返されてしまっていた。野花とはいえ、花を踏み荒らすような真似はしたくないがと考え、ふと麻生里里は気付く。鑑識特有の白い手袋をポケットから取り出し、湿気ったせいで粘着質になり黒みを帯びた土を簡単に払えば、やはり見えるのは肌色の土だ。数センチ程にしか湿気た土が積もっておらず、その土を持ち上げたところで固まることはなくぼろりと崩れて溢れ落ちた。指をこすり合わせて手の中を覗きみた後、小さな小瓶に土を採取する。
……これでよしと」
「なにが良いの?」
「うわっ!!?」
「おっとと、里里ちゃんびっくりしすぎだってー、飴たべる?」
「急に上から声かけられたら誰でも驚くって!」
危なく落としかけた小瓶を握り締め、上から声をかけてきた相手の胸を軽く叩く。それなりに力を入れてみはするのだが、身長がおよそ二十㎝近く差のある男女ではその程度ではびくともしないのだろう。へらへらと笑を浮かべてかわすのは麻生鑑識部隊所属千葉トオルであり里里にとっては部下にあたる人間であるにも関わらず、この上司をたばかったような態度も許容しているのは里里の人柄の良さだろう。勿論、やることはやっているという仕事人であり、その技術も評価しているのだが。いくら言っても聞かないであろう相手に思わず拳の着地点がずれる。一七三㎠の女が一八七㎠の男を殴っているときにずれる場所と言えば、
「おぐぅっ!?」
「あっ!!ご、ごめんね!!?」
鳩尾である。
筋肉と骨の割れ目であり人体の急所にも数えられる底は人によっては触られることすら嫌がる場所であることは殴られたことがない者であってもご存知だろう。そこに入った拳が一発。痛みを訴えるのは当然とも言える。
鳩尾を抑えて苦笑いを浮かべる千葉とそれに涙目で謝罪する里里の珍妙な光景を目の当たりにした雛埜は、とりあえずシャッターを切っておくことにした。
「何してんスかぁ」
「やっ、スズくんもパシャっとな!」
「ぴーす」
「お、いいね!笑ってくれるともっといいんだけどなぁ」
「メンドクセ」
「だよねぇ!」
すらりと伸びた身長を軽く前かがみにしているせいで十㎝ほど低くなっているにも関わらず、雛埜との身長差が浮き出るほどの長身がカメラに収まれば、少しして興味を失ったのか再び緩んだ目が、前で行われている漫才のような麻生班を写す。釣られるように雛埜も笑って目を戻せば、「なんか面白いことになってたから」と再びシャッターが切られる。
「あっ!!ちょ、あわわ!」
「あららー?監察班の方々?」
ようやくフラッシュで気づいた里里がおもわず目を剥く。本当に気付いていなかったのだろう、先程は──なんとかといっていいほどだが──落とすのを堪えた瓶を思わず手の中から放り投げてしまった。それを意図も簡単に受け取ったのは、黒い影だ。靄と言うには輪郭を浮き彫りにし、あたり一面緑と警_察の人間だらけであるというのに、そこだけを蟲に食われたかのようにぽっかりと穴が空いているようにも浮いている様にも見えるそれは影だった。足元から繋がるそれを自在に操り、黒い影からその瓶を手渡された千葉が里里の手の平へとその瓶を返す。
「ご、ごめんね、ありがと!」
「これくらいお安い御用ってね、」
ぱちりと軽いウインクを受けて僅かに頬を染めた照れ笑いが溢れる。
「はいはいお二人さん、こんなところでなにしてんの?もしかして密会?なんちゃってね!」
「それだったら俺も嬉しいんだけどなぁ」
「千葉さんふざけないの、それより隊長さんいますか?ちょっと耳にいれたいことができたんだけど
「隊長?スズくん知ってる?」
「今なら指揮官兼用してるんで本部あたりに行けば会えるんじゃないっすかァ」
「OK!ありがと!」
スズの言葉にぱたぱたと千葉の腕を引き人の多い方へと走っていく里里の姿を目でおった後、雛埜のカメラが再びぱしゃりと小気味いい音をたててシャッターが切られた。
「さてさて、こんなもんかな」
「また隊長ッスか」
「正解」
隊長─雛村の能力の一つとして一つの風景からその場の場所の特性や地形を理解する事ができる。普段ならば監察班として警'視'庁内のみでしか動かない為、頼まないようなことであるが、稀に雛埜の趣味でもあるカメラを仕事の一つとして頼むことがある。それもごく希なことなのだが、スズが覚えていたことに若干の驚きを見せながら雛埜は笑ってカメラを見せた。最もスタンダードな形であり丸みをおびた長方形にプラチナ色の胴体ときっちりと手入れされたレンズが僅かな虹色を含んで黒に揺れる。
動画も取れるうえに夜闇も気にせず撮れるという性能のため重宝していると言っても過言ではなかった。趣味も合わせて撮った写真をスズに自慢しようと撮影記録を開いた直後に声がかかる。
「山桜桃(ゆすら)!」
ぴしゃりと空気を斬り落とすような声が落ちる。大して怒鳴られたというほどの声量ではなかったと言うのに背筋が伸びるような清涼感のある声が二人の背中を叩いた。と言っても、目に見えて驚いたのは雛埜だけでありスズは大して動揺もしなかったのだが。そこはいつものことであるため割愛すれば、聞きなれた声にぐるりと振り向き、予想した通りの相手がそこにいた。旧式軍服のような黒一色の服を詰襟まできっちりと閉じているせいで夜の視界にはその輪郭を写しにくい。百六十センチほどの身長に細く引き締まった体を浮き立たせる赤の腰紐が風に揺れ、片方につけられた飾り肩の金色が装飾を削りとったそれに華を加えている。ベルトで締められたレザーブーツが土を踏んでその存在を誇張した。
「こんなところにいたのですか」
「あーびっくりした、虎太郎くんか」
「雛村隊長が呼んでおられます故本部にお戻り願いたい」
「うぃっす」
「そーいうことね」
仕方ないとばかりに肩を竦めてみせれば、虎太朗が意を汲んで再び足を本部へ向けた。
「遅い」
ぴしゃりと吐き捨てられた言葉は怒気を含んでいないにしても、十二分威圧の篭った言葉だった。元々聞きやすいトーンに温和さを含んだ声だが、凄みを増しただけででここまで違うものかとそこに居合わせた警備員が背筋を伸ばす。しかし、その班員である目の前の二人には慣れたものなのだろう。へらりと笑い軽い謝罪をする雛埜と、謝罪の感情なぞ一切見せぬ気だるげな態度のまま倣って謝罪の言葉を口にするスズに、雛村の眉間の皺がさらに深くなる。
「頭痛薬御用意した方が良いでありますか」
虎太朗は真面目ね……
おそらくこういう部下が当たり前なのだろう、おそらくだが。いや、異能課において当たり前とは一体なんだという話からまず考え始めなければならなく為それはやめようと考えを遮断し、虎太朗から頭痛薬を受け取る。
「時間かけたからにはいいの撮れてるんでしょうね?」
「もっちろんスよ!」
「ありがとう」
雛埜が自信満々と言った具合にデジカメを取り出せば、それを受け取り写真の記録を軽く確認しつつ、「スズ、湊元現新について報告」と促す。
異能は物質精製とパイロキネシスの混血、火力はそこまで強く無いっスね。火種がないとパイロキネシスが発動しないンで、それを物質精製で補う傾向アリってトコですかぁ」
「傾向」
「劣等感から来る自暴自棄癖」
「性格」
「かなりの卑屈屋に加えて妄想癖、そこからくる幻覚症状に発研に目ェつけられてましたァ」
「了解」
ぷつりとデジタルカメラの電気が落とされ雛埜の手に帰る。同時並行作業にも関わらず情報の整理をほぼ処理しきった。慣れた作業とは言えわずかに疲弊した目を軽く揉んで顔をあげる。
「スズ、スタンガンワイヤー精製しといて」
「長さの指定はァ?」
「縦三六〇㎡、横七〇〇㎡。行けるか?」
「バッテリー」
「ウルリヒに電気コピーさせとくわ」
「うぃっす」
「虎太朗は数名連れて工場の裏だ。おそらく隠し通路がある。そこを抑えておいて」
「了解であります」
「雛埜、和彩連れてきて。伝令役兼後の指令変わってもらうかもしれないから。後から横山加純と華福氷河が来るからそっち連れてきて」
「了解」
一通りの指示を飛ばせばようやく一息着く。さて、と言葉を区切り一度目を閉じる。瞼の裏に映るのは先日起こった異捜襲撃事件だ。複数の死傷者を出したあれは爆破を得意とする現新の手口なのだろう。人を殺すということは悪である。人間の命は司法と道徳の下にある以上その重さを等しくする。そしてそれから外れるのが、異能者だ。罪には罰を、異端者には裁きを。異捜の理念はあまりにもネジ切れているが、それが正義である。
……異端者には、罰をだ。和彩に通達させろ。今回の案件に"生死は問わない"。一人残らず狩り尽くせ」
果たしてそれは善ではなく全にでもなった人間の傲慢なのか、ついぞ雛村の理解の及ぶ所ではなかった。

 その光景を沈黙と共に日比野は見守る。今回はあくまでサポートとしての動員であったが、できるだけ死人を出したくないのは日比野に限った話ではない。それでもいざという時に殺せる人間と殺さない事を選択できる人間の境目は非常に顕著に出る。特にこういった状況では。だからこそ気を引き締めた。警察同士の暴走を止める事もまた、警察としての仕事である。
「ハンチョー」
 気を張っていたところに声をかけられ反射的に振り返る。思いの他勢いよく振り向いたため、話しかけてきた相手の方が思わず肩を跳ね上げた。伸び放題の黒髪が驚きと共に跳ね上がり、光を反射して僅かに艶を映す。短く切りそろえられた髪を押える赤いピンが見えれば、それが誰かはすぐに見当がつく。
 見慣れた不愛想とも言える無表情。オレンジを透かしたような明るい琥珀色の瞳が日比野を見上げていた。
「すまん、横山か」
「考え事してたみたいで、すいやせん。これを、研究課の方が渡してほしいと言われたんです」
 軽い謝罪に慌てて姿勢を正した横山の顔はやはり無表情だ。初めて話すなら謝罪の時にまで無表情な事を咎めるかもしれないが、そこに悪意があるわけではないと言うことを日比野は良く理解している。なにより日比野も表情は出にくい性質であり、そのあたりはよく共感できた。
横山の手にあったのは黒い手袋だった。何かはわからないがとりあえず受け取る。掌の感触としてはややゴムに近い素材だろう。しかし、ゴムではない。一度嵌めてみると日比野に合わせて造られたようにぴったりだった。
「これは?」
「なんでも、研究課の方が対異能装備のひとつとして作った物だそうで。本来は非異能者が異能者に対抗するためのもので、防具として優れているのでハンチョーに試作を使ってみてほしいと言われました。」
 一体誰からだ、と突っ込む間もなく奥から横山に声がかかった。それ以上引き止める事も出来ず見送れば、手元に残った黒い手袋を眺める。丈夫そうには見えず、むしろその辺に売っている軍手の方が防御力がありそうなものだが、と疑いの方が先行した。
 しかしそれ以上考えている暇もなく、黒い手袋はそのままポケットに突っ込まれる事になる。



――― 〆 ―――



 突入する五秒前。
 緊迫する瞬間はいつでもある。この瞬間は誰も慣れる事はないだろう。戦いを前にした不安、死を実感する恐怖、正義を振りかざすことへの高揚、仕事を全うするための責任。そういった感情が入り乱れた瞬間が――終わる。
「突入」
 冷静な雛村の声がテレパシーを通じて全員へ伝達された。一糸乱れず足が動く。廃工場の扉が押し開かれ、中にいた過激派達の異能が炸裂する――よりも早く。まさに血が上った頭を冷やすが如く水が放り込まれた。
 水を操る異能者による天井からの襲撃に、過激派から一瞬の悲鳴があがる。しかし、水が頭から降り注ぐ以外害はなく、どよめきと疑問の声が彼らから戦闘状態であるという認識を奪う。水が跳ねる音がする。周囲から降り注いだそれに過激派の面々が当たることはない。何故ならそれは細く長いひも状のものだからだ。そもそも当たりようがないといってもいい。
「さァ、準備カンリョー、あとよろしくゥ」
 ―――瞬間、閃光が弾ける。
 ワイヤーを伝って鼠の如く走り抜けた青い電光が水面にぶつかり、水中で破裂するかのように水を伝って感電する。上がる悲鳴に焦げる肉の漂う中で炎が舞った。
「!」
 それが過激派側の反撃の狼煙だと気付けた者は少ない。
一瞬で噴き上げた火柱が工場の天井までも焼き尽くさんと屋根を焼き、建物の立て付けを崩し穴を開ける。外から見れば天井を貫いた火柱が空を燃やして舞い上がった火の粉がさらに被害を拡大させていく。
冷静な判断の下、スズが耐熱性の壁を精製し自らの身を炎から守るが、横から突き抜けて来る熱風からは逃れようがない。しかし、素早く崩れかけた鉄鋼の上を駆けた横山の手がスズの襟首を掴み、熱風を突っ切りながらスズの盾へと身を隠した。
「ひゃは、やるねェ」
「チビだからってなめねぇでくだせぇ」
「! 横山!スズを連れて逃げろ!各員交戦状態に移れ!」
 一瞬遅れて飛んだ指示に横山が従い空に二人の姿が現れた。長身痩躯のスズの身体は邪魔になるものの、そこまで重くない。飛び降りれば着地と同時にスズが衝撃に備えて特大のクッションを精製しようと動き―――横山がスズを投げ飛ばした。
「お」
 スズの間の抜けた声が上がり横山の掌に一瞬青い閃光が迸り、無から作り出された棒が勢いよく振り抜かれた。空中であるにも関わらずスズを投げ飛ばした反動を利用して体の向きを切り替えた機転。振り抜いた棒が正しく此方を狙っていた弾丸を弾き返した。跳弾した弾丸が地面で慌てていた警察官の横を掠めていく。
 銃弾の先を見れば色素の薄い髪を隠すテンガロハットに豊満な体を浮き立たせるアメリカンスタイル。明らかにガンナーと思しき女が持つ銃が再び火を噴いた。
「横山!」
横山とガンナーの戦いを見送るまでもなく、中は混戦になりかかっていた。しかし―――上空から黒い空が墜ちて来る。
 炎を通さない黒い空は堕ちた瞬間にその正体を現す。黒い空の中央にいた男――城山祐一郎の姿を視認し、多くの者が安堵の息を吐いた。
 引き続き連絡を取ろうとした雛村の死角に迸った光を黒い手袋に包まれた手が阻止する。
日比野警視」
「っく!?」
「最後まで気を抜くな、雛村捜査官」
 恐らく隠れていたのであろう、飛び出してきた男の手に持たれた刀に近い形状の刃物は日比野の手に傷一つつけることはできない。武器を放棄し、後方へ飛んだ男をワイヤーが捕える。再び流れた電撃によってあえなく昏倒する。
(以外と丈夫だな
 放棄された武器を握っていた手を開き、武器を離せばさくりと音をたてて刃物はコンクリートの上に突き刺さった。けしてナマクラであったというわけではないのだろう。またこれも異能による産物であったのであれば、切れ味としても一級品になる。しかし、一度日比野が手袋を脱いで自身の掌を確認してみるものの、それでも多少の感覚だけで刃物による傷は残っていなかった。
「今のすごいね、どうしたの?」
「ああ、異研から少しな」
 影で縛り上げた過激派を引き摺ってきた城山が気付いたように日比野へ声をかける。やはり一見軍手以下の手袋にしか見えないそれは城山からしても疑問になったらしい。
「話は後のようだ」
 城山の言葉を切って日比野は再び拳を構えた。比較的電撃が浅かったであろう過激派が立ち上がり、一勢に襲い掛かる。まるで津波の如く襲いくる中から的確に自分へ向かう相手を選び取り地面をすり足で移動する。見る者によっては瞬間移動したようにも見えるだろう。大振りの拳をサイドステップで避けて、モヒカンの男の脇腹に拳を入れる。ゴツッ、と骨を殴打する音が響きモヒカンが呻き声をあげ怯んだ傍からやってきた次の鎌を直接握り込む。それだけで刃は飴細工のように砕け散った。戦意を喪失しかけた相手の腕を掴み、重心乗せて相手を背負い、投げ飛ばせば巻き込まれた男が数人地に伏した。
 空いた背中を狙った数人の男を凪ぎ伏せるように影の波が押し通す。
「日比野、雛村さんに言えた事じゃないよ」
「む」
 城山に不注意を指摘されればそういえばそうかと顔を顰めた日比野に雛村が言葉に悩んだように曖昧な微笑みを浮かべた。
「さて、こっちは一通り終わったけど――っと」
 反射的に血の異能で防いだ弾丸が地面に突き刺さった。
 弾道の先に見えた黒髪が空中に張られたワイヤーの上を軽やかに移動する。それが横山だと気付くのには時間はかからず、先程見た時よりも服が所々破け傷を負っているように見えた。しかし、動きは落ちない。疲労により対応するガンナーの精度が落ちていくのに反して横山の動きは精度を増していく。
 鋭く、猫のように、自らの張った蜘蛛の巣にも似たワイヤーの上を駆け、たわみを利用して反動から一気にガンナーへ距離を詰めた。内臓を引っ張られるような独特。高速の接近と共にガンナーの銃が火を噴く。外しようのない弾丸が棒によって弾かれ、躱し、ガンナーの足下――屋根の上へ着地する。
安っぽい塗炭屋根が凹み小さなクレーターを作った。手首を返し人間なら明かに曲がる角度ではない九十度射撃。長柄の棒ではそれらの銃弾を躱せない。長柄である長所が短所に変わる一瞬、棒の関節が折れた。関節と関節を繋ぐ鎖が姿を見せる。所謂三節昆と呼ばれるアジアで主に使用されてきた独特の武器にガンナーの目が見開かれた。それが動揺につながる。
変幻自在と化した三節痕がガンナーの腕に絡みつく。其々が関節のできた棒だとしても、棒の部分が硬質な物質である事には変わらない。締め上げられた骨が悲鳴を上げて銃を取りこぼせば、横山の拳が振り上がった。
完璧な角度からの右ストレートがガンナーの顔面へ決まった。
吹き飛ぶガンナーの身体が屋根から落ちてスズが作っていた対ショック性のクッションの上へと落ち、完全にノックアウトされた。
「っふ、っふ、っふー
 三度、短く呼吸を吐いて息を整えれば、頭に回っていた血が降りていくのを感じ、冷えていく頭の心地良さに身を委ねた。
 キャットファイトでも中々見れないだろう完璧な右ストレートを見てしまった上司と城山と雛村は思わず沈黙し、
なんというか、日比野警視に少し似ておられますね」
「そうか?」
「うん、なんていうか見事な右ストレートだと思うよ」
 思わず賞讃の言葉を溢した三人がようやく顔を上げて周囲を見渡せば、それぞれ鎮圧行動も概ね終わっている。後は逃げ出した過激派を狩れば問題はないだろう。
「すいません、助かりました」
「いや次からは気を付けろ」
「はい。城山さんもご協力ありがとうございます」
 軽くさげられた緑の髪がさらりと下へ垂れた。苦笑しながら城山が手を振って頭を上げさせる。
「前橋班として当然の行動だよ」
「ということは」
「ああ、ここをリークしていたボスの方も捕まえた。丁度うちの班長が向かってるはずだよ」
 前橋班。事件が起きた時点でより迅速に対応するために作られた部署であり、異能に関わる事件の中ではまず一一〇当番通報による処理もしくは警視庁内での情報リークに分かれる。そのうちの後者に対して最も秀でた班といってもいいそこは前橋大輝を筆頭とする城山所属の班である。


 今回もそういった前提があって事に動いていたのだろう。一度目を伏せた雛村が再び深々と頭を下げた。
「そうですか、ありがとうございます。では私は後処理がありますので、失礼します」
 変わらず凛とした表情のまま頭をあげた後、過激派を縛り上げていく班員たちの元へ戻っていく後ろ姿を見送る。しばらくの沈黙の後、城山が日比野の肩を叩いた。
「誰も死なずにすんでよかったじゃない」
そうだな」
 ようやく、と肩の荷を下ろした日比野の携帯が再びコールを鳴らした。今度は緊急性のものではなく、メールによる報告会への案内だ。次から次へと、と思うこともあるかもしれないが、近年事件の増え続ける一方である東京にしてはまだ大事が続けて起きていない時点で平和だとも言える。――否、正確には、まだ異能者(彼ら)の時間ではない、というだけだろう。



――― 〆 ―――



 既に日が沈みはじめ薄暗くなった街道を警察車両の赤いサイレンが瞬きのように赤を映す。黄色いキープアウトの手前では野次馬根性の逞しい住民たちが警察の間から顔を出して中を覗き見ようとひやかしていた。
 警視庁近くにある大通りを直進し、約三百メートル進んだ先にある三又の交差点。反面はビルがあり、高い塀に囲われているため些か圧迫感のある場所だが、そのビルの塀に対面してあるのは住宅街であり随分と狭い道になっている。大通りに抜けられる道でもあるため、ここはトラック等の抜け道として使用されるため、度々交通事故が起こっていることで有名な場所であった。比較的新品のカーブミラーが最近の雨粒によって僅かに曇っていた。
 Y字路の交差するカーブミラーに背中を預けながら手当を受ける制服を着た老年の男性。白髪が多くなった髪を短く刈り、歳相応に刻まれた皺のある顔には受けた傷から飛んだ血がべっとりと付着していた。
 負傷個所は左肩で、刃渡り十五センチほどの刃物が凶器ではないかと推測が立てられている。この男性は近くの交番に勤務する猿渡清次郎巡査であり、最近頻発している痴漢防止として偶然このあたりをパトロール中に被害にあったらしい。
 自転車に乗り、周囲をパトロールしていたところを突然の閃光――おそらく閃光弾だと思われる――を浴び昏倒したところを刺されたようだと供述しており、ビルに取り付けられていた防犯カメラに映っている映像とも照合されたが、肝心の防犯カメラが供述通りの閃光によって塗りつぶされた瞬間の出来事だったため、大した情報源にはならなかった。


 十月十四日、午後四時四十分、桜辻口四丁目、通り魔発生。

 そう名題打たれた書類を持って狭苦しい会議室に押し込められた捜官達が手元の資料をめくる。異能ではなく本来通りの彼らの職務にある――所謂表の警察官達。
歴戦の猛者でもあるその顔はどれも硬く緊張に張りつめていた。
 それもそうだろう。今現在、この捜査本部を取り仕切り前方で立つ壮年の男性。短く刈られた丁子色の髪。鋭く顰められた瞳は書類に落とされているが、それがこちらをむいたらと思うと蛇に睨まれたカエルのように縮こまってしまうだろう眼光の鋭さは鷹のごとし。深い堀の刻まれた顔に口の上にのった髭がさらにその気難しさと近寄りがたさをパワーアップしていた。
 かつては鬼教官と謳われた異能捜査官、鳥羽義郎である。
 その噂は異捜官ならばだれもが耳にしたことがあるだろう。だからこそ誰も言葉も上げずにただ真剣に事件と向き合っていた。
 が、沈黙は半ば蹴り開けるような扉の音共に二つの声によって破られる。
「椿さん!流石に今は!」
「止めんな日比野、いい加減上層部の頭は取り替えなきゃ後始末できなくなってんだよ。それくらい察しろ」
 言い争いというには実に一方的な会話が否応なしに入ってくる。そのどちらも中にいた捜官達には見覚えがあった。
 最初に扉をけ破ったと思しき黒髪の男性。白髪が目立ち始めた頭にしばらくの睡眠不足からくる隈が顔にくっきりと刻まれている。元が色素の薄い紅玉色の瞳が、赤く血走った目をさらに凶悪に見せていた。捜査一課では有名な皮肉屋であり、捜査官としてはたたき上げのスキルは誰もが口をつむぐ椿余生という男だ。けしてその口先の良さと舌の回り具合に黙らされているわけではない。
 後を追ってきた紫髪に珍しく困ったように顔を顰めた男に一同が思わず安堵の息をついた。椿を止められる人物はいないが、物理的に止めるなら最も適任であろう男がそこにいたのだから安心するのも仕方のないことだろう。椿との接点を持つ日比野雅俊が椿の腕を掴まえてなんとか抑え込もうと四苦八苦している。
「だからと言って今は」
「会議中だ。椿、日比野。」
 びたり、と二人の動きが止まった。
 日比野と椿が同時に固まる姿はさぞ見物だっただろう。








【神の国】
  著:アウレリウス・アウグスティヌス
      「人間の罪と、その刑罰として人間に与えられる死について。」








 事件発生から二日後。
 白で統一された清潔感のあるオフィスは刑事一課とは違っていてほどよく片付いる。その中で一等重宝されている精密機械やPC等機械類が置いてある場所は厳重と言っていいほど整理が行き届いていた。この屋主の吸っているであろう煙草の香りが僅かに染み着いた場所にはガラス張りで囲われた部屋があり、そこには大き目の白いデスクがある。用途としてはこのオフィスを使う部署にとっての会議室にあたるだろう。二枚の硝子窓を遮るブラインドからは昼の日射しが突き抜けて中を明るく照らし出していた。
捜査官の人数分用意された椅子を今は半数程出されており、其々デスクに広げた書類と顔を突き合わせている鳥羽、椿、日比野の面子があった。
「被害者は昨日で四人目。手口は違うが状況は同じで深夜の二時に犯行は行われている。今のところ被害地区は絞られているためそこの駐在は深夜の警備を増やす対応をとったんだが」
 手元にある書類とともに置かれた珈琲が手を付けられずに冷め切り緩い水面を描いた。
「その駐在が被害にあってちゃ世話ねぇな」
被害者自体に共通点はないんですか?」
「被害者の名前は書類に記載されている通りだ。名前に共通点があるわけでもなく年齢も十代から四十代まで幅が広い」
「ついでに職も無職から公務員に追加か?なめてんのかこの犯人」
……
「日比野、眉間の皺増えっと老けるぞ」
……
「今のところ殺人は起きていないが時間の問題だな」
「だからこっちに捜査回せばいいってのに」
「判断しかねてるから上も回せないんでしょう」
「天下のサイコ野郎共に仕事回してこれとはね」
「サイコメトリーです」
書かれている事項。椿の言葉を細かに訂正していた日比野の眉間に増えた皺が、そこにある単語を物語っていた。記憶読み、サイコメトリー班共に情報収集不可の文字。彼らがけして仕事を驕ったわけではない。油断も隙間もなく、彼らのもてる異能をフル活用して被害者の記憶を読み取り、現場に残された遺留品から取り出された記憶(情報)は、光だった。科学班はそれを異能の光でないと判断している。犯行が行われたのはすべて暗い夜道。電灯はなく光源はない。そこに現れた突然の光。それは閃光弾と呼ばれる化学製品だ。しかしマンガやアニメなどに登場するものとは違い、使用されたものはもっと簡易品であり、耳の鼓膜を破るほどの甲高い衝撃音と共に目がくらむ程度の光を破裂させるだけで他に被害はない。そのなかに移り込むのは精精被害者が瞼の裏で確認した人影だろう。ここから割り出せというものも難しい。残るはずの閃光弾に関しても、すべて撤収しているのだから犯人の細さには舌を巻く。
「おい脱走犯」
……
「反応しろ煎沢」
「んェ?俺っスか」
椿の特異なあだ名に思わず名前を取り零していた煎沢が顔をあげる。
いかにも面倒くさいといった表情を隠すことなく、身長差から椿を見下ろして思わずため息をつけば間に挟まれていた日比野の肘が煎沢の懐に入った。大して強く打っていないにも関わらず「いってぇ!」と大袈裟に声をあげた煎沢を日比野が睨むが、我関せずと言った風にため息をつく。
「そもそもなんでウチで会議開いてんですかね?」
 煎沢の言葉は正当な疑問だった。
「ンなもんここが監視カメラに細工してあるからだろうが」
 ここを提案したのは椿だ。別段前々からそういった意味で使われていた訳ではない。皮肉が過ぎるというだけで椿は基本的に仕事一徹な人間であり、この場にいる煎沢を除いた人物は全てそうだ。
 しかしその三人が何故ここにいるかと言えば、つまるところここならば上層部になにを言ってもバレないからだと椿がにべもなく宣う。
つい先日の廃工場の件でも疑われた内部漏洩。恐らくそれの対策でもあるのだろう。しかしこの監視カメラに細工をしているのは事実であり、そもそもそれをしているのは煎沢であるためこれには反論する余地もない。反論したならば上に報告されるか適当な理由をつけて監視カメラを元に戻されてはたまらない。
 今初めて事実を聞いたと驚いた顔をする日比野とため息をついた鳥羽の眉間の皺から煎沢は慌てて顔を逸らした。
「科捜研様は小奇麗でお暇そうで羨ましい限りですね」
「泥臭い一課に比べて大事にしてやんねぇと臍曲げる奴らばっかなんでね」
「椿、煎沢」
「へいへい」
「スイマセーン」
 鳥羽に咎められ椿が腕を組んで椅子に背中を預ける。椿の棘が含まれた言葉はいつもの事だが、どうにもギスギスと軋みを上げる空気は居心地が悪く、こんなことなら許可を出すべきじゃなかったと煎沢がため息をついた。しかし対応したのは部下であり、その部下を責める訳にもいかない。
 むしろこの強面三強を突っ返せるのは朝倉か気の強い刑事あたりだろう。
「煎沢、防犯カメラの照合はどうだった」
 鳥羽に話を振られ諦めたようにもう一度深い溜息をついた。一度立ち上がり、できたばかりの報告書を手に鳥羽へ手渡す。
「まだ印刷しきれてないんですがね。目ぼしい情報は二つ。一つ目は光の中に映ってた人物は二名です。まぁ一人は被害者の猿渡さんで間違いないんで実行犯は一人でしょう。体格なんかはほぼ光が飛んでて年齢、性別、体躯なんかの判別は難しいですね」
 渡された書類をバラして日比野と椿にも見えるようにデスクに置かれた。
 書類はわかりやすくまとめられているが枚数自体は非常に少なく、出てきた情報の少なさを物語っている。
「二つ目は使われたのは閃光弾じゃない。防犯カメラに音がないのは付きもんだが、閃光弾を使ったなら多少は風が吹く。こっちの、塀からでた植物が揺れてないところを見ると、光は異能の産物の方が可能性は高い。あとは、空間移動か何か、副産物でできる光だろうってところがウチの見解です。ちなみに報告書だしたのは加賀なんで聞きたい事あったら足のキレーなねーちゃんにどうぞ」
「出て来た閃光弾の欠片はどう説明する」
「ブラフの可能性。もしくは実際に関連がないんじゃないかと。俺の推察ですがね」
「お上品な割りにはポンコツだな」
 椿の皮肉に肩を竦めて見せる煎沢に何の弁明もない。出て来た情報を調べあげたのは煎沢の手腕ではなく、その部下による結果なのだからそれも当然のことだろう。しかし皮肉には取り合わないといった煎沢の姿勢は非常に正しい。言われている本人が皮肉屋なのだから、そのあたりはむしろ他より理解できているのだろうな、と他人事のように日比野はひとりごちた。
「出て来た情報は少ないがリークするには十分だ。ご苦労だったな煎沢。加賀にもそう言っておいてくれ」
 鳥羽の言葉に煎沢が軽く手を上げて答えれば、バラしていた書類をまとめて立ち上がる。
「俺は上層部に異捜要請をかける。椿もいい加減機嫌を直しておけ。日比野も動ける準備はしておけよ」
「はい」
 そう窘められればぴくりと椿の眉が動いた。機嫌が悪い自覚はあったのだろう。鳥羽の人脈を使えば動けるのはそう遠い未来ではない。それがわかれば続くように椿が立ち上がる。
「それと煎沢」
「なんですか」
 振り向いた鳥羽に片づけを始めかけていた煎沢が手を止めて顔をあげた。
「たまには足を動かせ。腐るぞ」
 呆れて顔を顰めた煎沢を見ることなく鳥羽が出て行けば、背中をばしりと椿が叩く。容赦なく振りかぶられた掌は威力を殺されることなく背中に紅葉を作り、「いてぇ!」と煎沢が悲鳴を上げたのを椿がからからと笑って部屋を出ていった。
 その背中を見送りながらじんじんと熱を持ち始めた背中を労わりながら椅子に腕を乗せて体重を預けた。
「八つ当たりだろ
 恨み言のように零れた言葉を聞きとり、こればかりは日比野が気の毒そうに肩を叩いた。
「それにしても、お前は向こうの捜査にでていたのか?」
 日比野の労いと共に問われた言葉に、ああ、と声を上げて背中を起こす。資料に書かれている名前をみつけたのだろう、とすぐに思い至り口を開いた。
「お前とユウイチがヤクザとドンパチしてる間にな」
「ヤクザじゃなかったぞ」
「そうなの?」
 思わず首を傾げた煎沢に、次は日比野が説明に回る番だった。
事件の顛末を軽く話し、結果的な詳細を説明する。そこで初めて情報の内部漏洩を知った煎沢はようやくここで会議をしたがった椿の心情に合点がいった。妙に勘の回る椿の事だ。捜査一課に何かしら思う所があったのだろう。それは鳥羽も同じであり、だからこそ普段は近寄らない機械が多いここまで足を運んできたと言える。
「内部抗争なんて見たくもねぇがな」
「それは同感だ。俺もそろそろ出よう。」
 静かに椅子を立つ日比野を見送るように軽く手をあげかけ、新しく扉を開く音にそれは遮られる。
 四つの目が音の出所へ向けば、白衣を着た女性警官と、その後ろに見慣れた人物を見つける。
「あれ何か今回遭遇率高くない?」
「それはこっちのセリフじゃな」
 思わず素が出た煎沢の呆れたような声で来訪者――城山は苦笑を招き入れた。



――― 〆 ―――



 城山の前に新しく用意された珈琲が湯気を上げる。先程とは違い、淹れたての珈琲は煙草臭いこの部屋の臭いに混ざって安っぽいインスタントの香りを充満させていく。
「鳥羽さんを探してたんだけど、日比野がいるなら先に渡しておくよ」
 そのマグカップに口をつけながら、城山の持ってきた資料が日比野に差し出された。
 黙って受け取った日比野が紙面に目を走らせる。
 そこに記載されてあったのはここ二カ月間に起こった通り魔についての内容であった。目につく事件の内、いくつかは日比野の耳にも入っている事件であり、今回の事件に関しても連続通り魔として扱われている。しかしそれ以外にも表で処理された冤罪と疑わしき事件が名前を列ねていた。犯行の手段が全て同じというわけではないが、それでも似ていると言える事件の概要は確かに興味深い。またそれらの事件全てにおいて、現在掴まっている容疑者が犯行を否認しているが、現状証拠やアリバイがないなどの理由により傷害事件として有罪になった者達ばかりだ。
 表だけで処理されたということであれば異能事件であることも明るみに出ない。
 つまり、本格的な冤罪であるという線が濃厚になる。
「相変わらずお前さんらは仕事熱心じゃな」
 びしりと日比野の眉間にデコピンが飛んだ。
中指を弾いた勢いは思いのほか強く、思わず痛みに頭を後ろに引いた日比野が痛みに額を押える。恨みがましく煎沢を睨むが、逆に言えば煎沢のデコピンに気付かない程書類を読み込んでいたという事になる。
 真剣になることは悪いことではない。集中することも否定されるべきではないが、どうしても役職上でいえばひとつのことに夢中になりすぎてはいけない事は確かだ。それを今日の昼間、雛村に注意したばかりだと思いだし日比野はやりきれない思いと共に机の上へ資料を置いた。
 一連の行動を見守っていた煎沢がカチリとライターの石を打って煙草に火をつける。元々喫煙向けに用意されていたのだろう。立ち上がって二人から少し離れた位置においてある灰皿に近寄り、壁を背にしながら煙草を吸い始めた。
「はは、まぁ、前橋班の分野はこれが本分だからね。」
……随分間が空いているな」
 日比野の指摘に城山も頷く。
 書類に記載された日付。冤罪が続く期間は長くても一週間程度の期間しかあいていない。これでもかなり頻発している方だが、だからこそ、今の連続通り魔が始まるまでの二か月の猶予が空白のように開いていた。
「それは俺も気になってた。今はガイチョウが捜査に出てくれているはずだよ」
 ガイチョウ。外部調査班。
 派閥・地域を問わず全国津々浦々の異能に纏わることを管轄し、異能は関わっているかもしれない事件を研究者的視点から調査している。警視庁関連の部署ではあるが現場等にもよく顔を出されるため、あまり良い印象を持っているものは少ない。しかし、その「足で稼ぐ」を地で行くスタイルには好感を持つものもおり、目で見て調査したことを報告として挙げるため、その情報の信頼度も高い。
「煎沢は現場に行ってたんだっけ?」
「ん?ああ」
 煎沢が肯定する。
「内容は聞いても報告書以上は出てこんぞ」
「仕事はマメだからな」
「仕事はってなんじゃ、はって」
 日比野の言葉に煎沢が食いつく。こういう時だけ食いつきがいいと日比野が体の向きを変えてすっと移動するのに煎沢が食い下がった。
 そのほほえましい――――光景に笑みを溢しながら、城山も倣うようにマグカップに口をつける。ほどよい具合に冷めた珈琲独特の苦みが口の中に広がり、後からクリームの甘い舌触りが苦みを中和していく。しばらく苦みと甘みを堪能してからマグカップから口を離し、話題を元に戻した。
場所は近いんだよね?」
「割とすぐそこじゃな。あとの現場は知らん。」
「抜け目ないなぁ」
 城山の次の言葉を予想したように口をついて出た結論。城山の感嘆にも似た言葉が溢されれば、にやりと底意地の悪い笑みを浮かべて背もたれに背中を預けた。が、バイブレーション音と共に背中を起こす。城山達が自分の物か確認するよりも先に煎沢の懐から取り出された黒いスマートフォンの画面を確認していた。
「連絡?」
「んにゃ、プライベート。気にすんな」
 再び懐へ帰っていくスマートフォンを見送る。それとほぼ同じタイミングで日比野が椅子を引いて立ち上がった。
「行くか?」
「ああ。鳥羽さんにもこの資料を持って行ってくる」
「悪いね、頼んだ」
 前橋班として動いている城山よりも、現在進行形で会議にも呼ばれている日比野が持っていく方が都合がいいと判断したのだろう。資料を掴んだ日比野に城山も大した口も挟まず日比野へ礼を言った。
 城山の言葉に手をあげて返事をしながらオフィスを後にしていく日比野の背中を目で追う。背中が見えなくなれば、ようやく視線を戻した。
 黒い水面も随分と少なくなっている。これがなくなれば自分も仕事へ戻ろうと決め、少し冷めた珈琲に口をつければ静かになった煎沢へ視線をやった。
 時折、煎沢直木という男は何を考えているか不明な時がある。
 そういう雰囲気と言えばいいのだろうか。煙草を咥えてぼんやりと外を眺めているにも関わらず、目はどこかを見据えている。否、見据えるために頭を働かせている。どこを見るべきか、どうするべきかを定めるためのアップロード時間。
 悪く言えば、煎沢は自己完結型の人間だ。自分さへよければ全て良しとする排他的思考の持ち主である。そんな個であり己でしかない男の考えなど、読めなくて当然なのだ。
「ん?どうした」
「いや」
 なんでもないよ、と笑う城山に煎沢が首を傾げる。
 傾げた拍子に灰の山を作っていた煙草の先から火の粉が落ちた。当たり前のように上がる悲鳴に城山が噴き出す。
「溜まってるなら注意しろよ!」
「ごめんごめん、注意が遅れて悪かった。ほら、おしぼり」
「お前さんは底意地が悪いな」
「おや、じゃあおしぼりはいらない?」
「すまん、いる」
 深々と頭を下げる煎沢ににっこりと笑顔を浮かべた城山の手からおしぼりが渡された。よくあるコンビニなどでついてくる薄っぺらいナイロンを破き、中にあるおしぼりを取り出す。元は手をふくものであるが、ここにある中で一番冷えているのはこれしかなかった。しかし熱された傷口には丁度いい温度で、じんわりと冷たさが広がる心地良さに痛みが和らいだ。
「で、何考えてたの?」
 城山の追究に煎沢の視線が逸れて研究室を見る。硝子張りのここからはよく外が見えた。
「今来てる異捜のねーちゃんの腰がえろい」
「俺は横の子の方がいいかな」

 話を逸らしたのは明白だった。
 しかしそれを咎めることもなく話に乗ってくる城山は煎沢からすると相当タチの悪いものに匹敵する。
 これが日比野ならば、黙殺するか、怒るか、それなくても煎沢を咎めるだろう。もしくは真実を話すまで待つに徹する。何分付き合いが長い。どうやったら煎沢から上手く話しを聞きだせるかも十分知る機会があった。どこまでいっても真面目な男だ。だからこそのらりくらりと躱しやすい。そしてそれ以上に必要な時には言うという、どこかで革新的な信頼があるからこそ日比野は見逃している所もある。それでも小賢しい、所謂ズルをしない日比野の真摯な態度に煎沢は好感を持っていた。
 日比野は日比野で頭も動かすが、頭よりも行動で動くタイプである以上、矢鱈目鱈な推測や推論は別の迷いに繋がる。そういった理由あってのことだ。
しかし城山は違う。
 根底を突けば煎沢よりも日比野に近い性質ではあるが、日比野に比べるとやはり頭を専攻させる。それは立場の問題もあるのだろうが、それは煎沢にとって知る由もない話だ。故に推測と推論。果ては勘と呼ばれる中で城山は有無を言わさない。
 詮索や探索、知らない事に対して妙に嗅覚が鋭いのだろう。それが本人の自覚ありきであるのかは、やはり煎沢の知るところではなかった。
はぁ」
「なんのため息かな」
「うるせぇよ腹黒バーテンダー」
「シロクマじゃないんだね」
 突っ込むところはそこなのか。
 どちらかというと手玉に取られている気しか感じない。
「ちょっと引っかかるところがあるだけだ」
「今の捜査内容で?」
「あぁ」
 ぶっきらぼうに言葉を投げ出す煎沢に、城山が考えるように腕を組んで卓上の資料に目をやる。
都合が良すぎるとか?」
「そうだ」
 城山の言葉に煎沢が揚々と頷いた。間髪入れず入った肯定に城山が少し驚いたように煎沢を見る。
 しかし本人の中でも煮え切ってないようで、その肯定の言葉以降、続く台詞はなかった。
 それを見越したように城山が資料を手に取って口を開く。
「冤罪事件、間のあった連続の犯行、似た手口?」
「冤罪って断定されてるわけじゃねぇんだろ」
「異能が絡んでるなら断定だろ?」
 むしろ何故断定しないのか。逆にそう訴えるような城山の目に煎沢が怯む。
 城山の言い分も理解できる。
異能というものは、そもそも超常現象に近い。そんなものが現実、一般人が起こせる科学力とは明かに違うのだ。常軌を逸している。科学では説明できず、それでもなんらかの法則性を持ち、それが個人によって全くの差がある。椿は異能を否定し嫌うが、それでも認めざるおえないのは説明がつかないからだ。
 冤罪でなければ過去の事件の真犯人は未だ逃走を続けている。それなら何故間があったのか。その疑問が二人の間に彷徨っていた。
条件探しにでも行くか。」
「条件?」
「仕事だよ、仕事」
 書類の束をひとつ掴み、踵を返して腕を振る姿を見て城山がわずかに驚愕の色を浮かべた。
「まさか煎沢の口から仕事なんて言葉がでるなんてって、どこいくの?」
「じゃから仕事じゃろう?」
「白衣脱いでるよね?しかも今ポケットに入れたのクラブの名刺じゃない??」


「じゃあなユウイチ!!」
「あ!!!ちょ、煎沢!?怒られるの俺なんだけど!?」
 ダッシュでオフィスを出ていく煎沢の背中を追いかけようと立ち上がる城山。周囲の捜査官は「またか」とばかりにため息をついており、既に諦めムードだ。実際、このオフィスを熟知している煎沢を追いかける術を城山も持っておらず、そこら中に張り巡らされているコードを引っ掻けずに走るのは困難を極めた。この中を走り回るのだから煎沢の意識は到底理解できない。
「はぁ仕方ない。俺も仕事に戻るか」
 机上に散らばった書類に手を伸ばしながら、


――― 〆 ―――


 白い壁にかけられた赤い十字と警察を象徴する桜の紋章が掲げられた警察病院に鳥羽は足を運んでいた。
 警察と連動したこの病院は警察署からかなり近い位置にあり、何かあった時にはすぐに動けるよう常に在住警察官が居る。地下三階から七階まであり、上階に行くほど危険度の高い犯罪者が負傷した場合収容されることになっていた。そのため三階から上には一部の人間しか上がることはできず、合わせてそれぞれの個室には格子があるなど警備も厳重になっていくのだ。
 透明な硝子張りの自動ドアが鳥羽を迎え入れ、当たり前のように締まっていく。
 この自動扉にしても一見ただの硝子だが、実際は強化硝子を用いており、小口径銃程度の弾丸ならもろともしない造りになっている。
 二つに分けられた自動扉をもう一枚くぐり、ようやく鳥羽は受付嬢へと辿りついた。
 白衣に黒のカーディガンを着た受付嬢がきりりと澄ました顔を崩し、笑顔で鳥羽を歓迎する。
「こんにちは。証明書はお持ちですか?」
「ああ」
 鳥羽が懐に手を入れ、自身の警察手帳をカウンターへ置いた。
「失礼します」
 慣れた手つきで警察手帳を受け取る受付嬢の対応はけして不快にさせるものではない。確認作業というものは必ず疑いを含むもので、現代において言えばただの年齢確認で怒りを露にする輩も多い。だからこそこういったサービスを請け負うためのコツというものがあるのだろう。
 作業が終わったのか再び差し出される警察手帳を受け取った。
「ありがとうございました。ご用件はなんでしょう?」
「猿渡清次郎巡査の病室を教えてくれ」
「かしこまりました。二階西病棟の二〇三号室になります」
「ありがとう」
 会釈を返しながら鳥羽の足は階段へと向かった。
 白い床を踏みしめ、周囲を見渡せば消毒液と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽり覆って、看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。警察病院といっても全て犯罪者が収容されているわけではない。警察はそもそも国の税金で運用されているものである。警備へまわしてしまった分のツケが分断のできない状態を物語っていた。しかしこれにもメリットがないわけではなく、まさに一長一短といったほうがいいだろう。一階の受付意外はフロア全体がちょっとした娯楽場所にもなっており、部屋の一角にはテレビが設置され、中にはコンビニもある。こういった時代を感じながら鳥羽は階段へ足を掛けた。
 二階の西病棟。
 横にスライド式になった扉を二度拳で軽く叩く。しばらくすると女の声で「どうぞ」と返って来た。
「お久しぶりです猿渡さん。奥様も」
「おう、鳥羽か!っと、今はお前さんの方が上司なんだから鳥羽さんの方がいいか。久しぶりだな!」
 中は外よりも消毒液の臭いが濃く薫った。少し明るいクリーム色の壁紙に誂えられた日常生活における最低限の調度品の奥に、真っ新な白いベッドから上半身を起こした白髪の男が笑って鳥羽を迎え入れた。短く切りそろえられた真っ白な髪は年齢よりも若々しく感じさせ、顔に刻まれた深い笑い皺が男性の人柄の良さを表していた。歳は五十を超えたあたりだろう。しかし、歳を感じさせない快活とした饒舌さが鳥羽よりも若く感じさせた。
 目的であった猿渡清次郎の変わらない姿を確認し、僅かに鳥羽の目に安堵の色が映る。
「もう、あなたったら。病院なんだから静かにしてちょうだい」
「ん?ああそうだったな。思ったよりもぴんぴんしてるんでついな。誠子、茶ァだしてやってくれ」
「はいはい」
 ベッドに横たわる清次郎の横に置かれたパイプ椅子に腰掛けていたふくよかな女性がゆっくりと立ち上がる。昔は艶やかであっただろう黒髪に歳を感じさせる白髪混じりの髪を後ろでひとつにまとめ、清次郎とは違いおっとりとした雰囲気を醸し出す女性は清次郎の妻で誠子と言う名だ。署内でも有名なおしどり夫婦であり、鳥羽が若い時に知り合った由縁のある夫婦だった。
「お構いなく」
「まぁそう言わずに。長い話になるんでしょう?」
 穏やかに微笑まれれば鳥羽も二の句を告げずに黙った。長話になるかもしれないのは事実であり、清次郎の妻というだけあって押しの強さは清次郎に負けず劣らずである。勧められた丸椅子に大人しく腰を下ろせば、合わせてだされた湯呑みを受け取った。
 分厚い湯呑みの壁を越えてじんわりと熱が手に伝わってくる。淹れたての昆布茶の香りは僅かに塩気を含んでおり、寒くなり始めたこの季節には有難いほど温かい。合わせて清次郎の隣にも鳥羽とは色違いの青い湯呑みが置かれる。冷めるのを待つ間もなく清次郎が湯呑みに口をつけたのを見遣った。
(そういえば猿渡さんは熱いお茶が好きだったな)
 少し古くなった記憶を思い起こし、数瞬過去へ追想する。しかし、すぐさま今を見直し倣うように湯呑みへ口をつけた。
「少し御痩せになられました?」
「最近仕事が立て込んでいたので。」
「迷惑かけてごめんなさいね。もうこの人ったら歳も考えないで行っちゃうもんだから。」
 ばしりと誠子の掌が清次郎の肩を叩けば「いてぇ!」と抗議の声が清次郎から上がる。
「なにすんだせーこ!」
「あなたも歳なんだからちゃんと自分の身体のこと考えてちょうだい。もう五回目よ!若い時からなにも変わってないんだから!何回怒らせればすむんですか」
 つんと顔を背けて言い張る誠子に清次郎が助けを求めるように鳥羽へ視線をやった。今までに二度。向けられた事のある目だが、こういう時に鳥羽が出せる船はない。普段はおっとりとした誠子が怒っている姿を鳥羽は今までにその二度しか見た事がない。だからこそ、その心意気は本物なのだろう。
 鳥羽が軽く手を振って無理だと意志表示をすれば、清次郎は残念そうな顔をした後、すぐさま雰囲気を切り替えた。
「で、鳥羽さん。俺んところに来たってのは事件の話なんだろ?」
 清次郎の言葉に誠子が黙って立ち上がった。
 鳥羽に会釈をしてから病室から出ていく誠子の後ろ姿を見送る。最初から出ていくつもりだったのだろう。誠子の分のお茶が用意されなかったのはそのためだ。
 向き直った鳥羽に清次郎が再び湯呑みに手を付けた。
「しかしほとんど助けにならねぇぞ」
「事情聴取でも話していただいた以上は、ですか」
「ああ」
 ずず、と音をたてて啜られる。
「私怨などに心当たりは?」
「警察なんて因果な商売だ。私怨どころか逆恨みの一つや二つは買ってるだろうな」
「最近できた知り合いなどは?」
「あー特にねぇな。少なくともここ一ヵ月ほどは他所にも行ってねぇ」
 ことり、と音を立てて湯呑みがサイドテーブルの上に置かれた。根拠はないが清次郎の言葉に嘘はない。しかし何か確信的なものが足りていないように感じたのも事実である。両方ともに根拠も理由もない。あえていうならば、刑事の勘だ。
 どこかが足りていないというよりも、確信的な何かが足りない。
 それが何なのかは霧がかかったようにはっきりせず、鳥羽の頭を悩ますことになった。
「そうですか
「わりぃな」
「では、最後に一つ」
 これで終わりかと思った清次郎が鳥羽の言葉に身を強張らせる。
 一体何かと顔を顰める清次郎。清次郎から目を逸らすことなく、鳥羽はゆっくりと口を開いた。
「ここ最近で桜四辻付近におけるプラスチック製の爆発物が発見されたことなどはありませんでしたか?」
「爆発物ぅ?」
 鸚鵡返しに言葉を返した清次郎が顔を歪めて考え始める。皺のはいった顎をなで、眉間に皺を寄せて老いた白猿のような様は何度か見て来た清次郎の警察としての側面だ。
 しかしそれから言葉が返ってくることはない。
 病室に置かれた時計の長針がたっぷり五分後を刻んだ後にようやく清次郎の手が白い髪を掻いた。
「悪いな鳥羽さん。思い当たりがない」
「そうですか
 徒労だったか、と一瞬思考が過る。しかし、かつての上司の健朗な姿を確認できたのだ。徒労というには聊か収穫が大きすぎるだろう。時間も頃合いになってきたところで鳥羽が丸椅子から腰をあげた。
「もう行くか。若ぇなぁ」
自分ももう歳ですよ」
「いや、まだまだやれるよ。お前は」
 清次郎の言葉が妙な重さを含んで鳥羽を見遣った。深い黒の中に青さを含んだ瞳は穏やかに凪いでいる。僅かな違和感を感じ鳥羽の首が僅かに傾げられる。
「猿渡さん?」
「鳥羽、しっかりやって解決してくれよ」
 屈託なく目を細くして、満足そうに、得意そうに、清次郎が笑う。黄ばんだ歯が見え、嗤った時にできた深い皺が男の歳を一際濃く映し出した。鳥羽の記憶の中で輝く若々しい黒髪はもうない。歳をとった警察官は自身が被害者側に回ってしまった事をどう悔やんでいるのか。それは鳥羽にも推し量れない。
 次の言葉を考えあぐね、鳥羽は僅かに頭を下げることでやり過ごす。
―――?」
 数秒の間下げていた頭を起こし、最初に目に入ったサイドテーブル。そこに置かれた湯呑みはなみなみと注がれた茶。底に沈殿した茶葉の濃さが表面との濃淡を物語っている。
 未だ白い湯気をあげる湯呑み。
鳥羽の目がそこに引かれた理由。違和感と疑問の正体とも言えるそれ。
猿渡さん」
「ん?なんだ?」
 思い当たった可能性に鳥羽の顔つきが険しくなる。
 警察官という職業は因果なものだ。当たっている事を願う真実ほどはずれ、はずれている事を願う真実ほど当たっている。疑うことが仕事である以上、願いもなにもないのだが、それでもやりきれない感情が伴うこともあった。しかし、それを表には出さない。それが警察である。そして鳥羽義郎もまた警察官として正しい部類に振り分けられる人物であった。
「今まで誠子さんが本気で怒った事は何回ありますか」
「二回だな」
 清次郎の言葉に鳥羽は押し黙った。
「そうですか」
 絞り出すような言葉を置いて、もう一度頭を下げて鳥羽は清次郎に背を向ける。
 後ろから感じられる気配は何もなかった。
 病室から出た鳥羽を待っていたのは誠子だった。病室の扉に背を向け、鳥羽が出てくるのをみると先程よりも気弱そうな姿が本来の体格よりもいっそう小さく見せる。
「お邪魔しました」
そう声をかけて軽く頭を下げた鳥羽に誠子は目尻を下げる。
「いえ、こちらこそ何のお構いもできずごめんなさいね」
 軽く会釈をすませて鳥羽が横を通り過ぎれば、誠子は病室の中へと入って行った。


――― 〆 ―――


「鳥羽刑事」
 警視庁に戻った鳥羽の後ろから名前を呼ぶ声がした。鳥羽が振り返るとそこには見慣れた警察官――日比野の姿があり、その小脇には先程は見られなかった書類が抱えられている。足を止めて日比野を待てば、そう時間はかからず追いついた。
「すいません、どこかへ行かれる途中でしたか?」
「いや、丁度行ってきたところだ。用件はなんだった?」
「そうでしたか。これを前橋班から預かって来たので渡しに来ました。」
 そう言って小脇に抱えられていた書類を受け取る。小冊子程度の厚さをクリップで留めた簡易書類に軽く目を通せば、今回の事件と手口が似ているという過去の事件についてまとめられたものだと理解する。事件が発生してまだ二日であるが、されど二日。
 軽く目を伏せた鳥羽に日比野が僅かに首を傾げる。
 言葉を返した鳥羽の言葉はどことなく低く、昼間に出会った時よりも何か引っかかりを感じているようにも見える。
 上層部に掛け合うと言ってからそれほど時間はたっていない。もしかすると事件に関して引継が上手くいかなかったのだろうかと不安がよぎった。
「どうかされましたか」
 思わずそう口を突いてでた言葉に、鳥羽が僅かに口ごもる。「いや、」と否定にも似た言葉が零れ、沈黙が落ちた。
 言葉を待って立ち止まる日比野と鳥羽の間を、廊下を通っていく同僚たちの足音や談笑が通り過ぎて行った。いつの間にか窓から差し込む日射しは赤くなっており、早番の者は帰宅に向かう頃合いだろう。
 鳥羽が考えるように再び目を閉じ、ようやく開いて思い起こすように口を掌で覆った。
被害者に猿渡清十郎の名前があっただろう」
「はい」
 確かにあった、と日比野は頷く。
 赤い日差しが鳥羽の顔に差し込み、鳶色の瞳に赤色を差しこんだ。
「恐らく彼はなんらかの異能の影響を受けている」
 鳥羽の言葉に日比野の眉間に皺が寄る。
失礼ながら、猿渡さんは鳥羽刑事の、」
「ああ。だが、今そこに拘る訳にはいかない」
 赤色の差しこんだ瞳が力強く日比野の眼を見返す。警察官としての決意が固められた光を奥に見出し、日比野の心も自然と引き締まった。
「明日からまた会議が続くぞ日比野。今日は一度家に帰っておけ」
 そう言って踵を返す鳥羽の背中を見送り、日比野はゆるりと拳を作る。鳥羽は“なんらかの異能”だと言った。それがなんであるか不明なままであっても、猿渡が“異能の影響を受けている”とわかる状態であったに他ならない。意識は既に回復していると聞いている。ならば考えられる結果は限られており、それらのどれをとってもそれは“害”でしかなかった。










【方法序説】
    著:ルネ・デカルト
    「私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと」







「お」「あ」「なんでいるんだ」
 母音の羅列と発せられた真っ当な言葉に、三人はお互いの顔を見合わせた。見知らぬ顔ではない。むしろ昼間見たばかりであり、もう今日はいいと突っぱねたところでなんの問題もない顔ぶれに、居合わせた日比野は小さくため息をつき、城山は苦笑いを浮かべ、煎沢は少々考えるような面持ちで顎に手を置いた。
 無論、ここ――桜辻口四丁目Y字路――つまるところ、昼間も話題が出ていた通り魔事件の現場に居合わせたのは偶然でしかない。それがどれだけ悪趣味で悪食で悪運であったとしても、ここに居合わせたのは偶然でしかない。
 帰宅途中であれ、帰庁途中であれ、理由はさして問題ではない。
 しかし不自然な事は起こった。ちょうど日比野が出て来た場所。警視庁の門に向かう一本道の場所とは対角線上にいた煎沢なら、この再会を笑って寄り道へ誘うか、肩を叩いてさも馴れ馴れしい態度をとって人を小馬鹿にでもしてくるものだ。が、今回に限ってそれがない。ない、というよりも、それよりも優先する事項があるのかもしれない。
 暗い夜道に申し訳程度に建てられた古い電燈が、群がる夜行虫を焼いてじりじりと瞬いた。
 薄暗い中でも目立つ白髪の下で緑の瞳が品定めをするように二人へ向けられれば、すぐにふいと視線が逸れる。
「呵々、そいつは儂のセリフじゃな、マサ。まぁいいが、現役がいるならそれはそれで問題にならんからな」
 好々爺のように笑う煎沢に反してその言葉は妙な引っかかりを与えた。
「煎沢、まるで今から罪を犯すような言い方だね」
 目敏く突っ込んだ城山の笑顔は崩れない。
 その言葉にもククッ、と喉で笑った煎沢は振り返らずに現場を歩きはじめる。しかし、数歩したところではたと止まり、
「ルールは破るな」
「煎沢」
「またかい?」
 あっけらかんと言ってのけた男に窘めるような日比野と、やはりか、と肩を落とした城山に煎沢が再び呵々と笑った。
 しかし咎める言葉を無視して白髪頭は現場を歩き回る。一体何をしているのやら、と城山と日比野が目を合わせた。ここで無理矢理止めないところは良い同僚というところだろう。
 この現場は今でこそ自由な出入りを可能にしているが、つい一昨日まではキープアウトの黄色いテープが引かれていた。しかしそれはもうなくなっている。これはここの現場検証がすでに終了したという証明であった。
 鑑識も素人ではない。表の捜査官も裏の捜査官も皆プロ意識を持っており、今の煎沢の行動を見れば、とりこぼしはあり得ないと口々に言ったに違いない。
 先ほどの口ぶりからも、今ここで煎沢が現場検証をするために正式な書類は出していないのだろう。どうせ後からとやかく言われるならば一緒くたにしてしまった方がいいと考えるこの男らしい。
「煎沢、何を見てるんだい?」
「道じゃな」
 それはそうだ。むしろ道しかない。
「ユウイチ」
「ん?」
「第一被害者の現場はどこだったか覚えてるか」
 略称されたファーストネームで呼ばれ、城山が煎沢を見る。ちょうどカーブミラーを真下から見上げている煎沢が目に入った。
 問われた質問を理解するのに一瞬の間を要するが、その書類をまとめたのは城山であった為、実際に要した時間は体感時間よりもずっと少ないものだ。
「確か、辻倉の四十四丁目十字路だ」
「そうかマサ、二件目は」
津路島の伏倉(しくら)住宅街」
「三件目は回って来た。ここが四件目か」
 見上げていたカーブミラーから少しずつ後ずさりで離れていく。
「成程な。共通点はこれか」
 共通点。そのワードに日比野の眉が僅かに上がる。
「共通点?見つけたのか?」
 昼間、椿から煎沢に問われた言葉が頭をよぎる。
 いつもの飄々とした様子で躱した煎沢が嘘をついていたのなら、それはそれで問題だ。
 真面目な日比野の言葉に煎沢が呆れたような顔をする。
「今見つけたんじゃよ」
「被害者の?」
「まぁな」
 城山の言葉に頷きながら、揚々とY字路の中心に足を進める。
「被害者は全員十字路、もしくは四字路。はては辻に逢うたな」
「十字路?」
「言うたじゃろ、共通点だ。そもそも十字路はそういった魔を引き寄せやすい。よく昔聞かんかったか?四に四回あってはいけない、四は死に繋がる死に目の数字。呪いにしろなんにしろ、日本の風習で良い話は聞かん。桜の木の下には死体が埋まっている、夜爪を切ってはいけない、口笛を吹くと蛇が寄る。なんでもいい。おそらく風土や風習によって多少の差はあるが、四、辻、桜なんぞに纏わればほとんどが悪いものに向く。」
「待て煎沢。ここは〟Y字路〝だ。お前もさっきからぐるぐる回っているだろう。他にもただの住宅街や往路で通り魔に遇った被害者もいるぞ」
「違う」
 日比野の正論をばっさりと切り捨てる。
「マサ、良く見ろ。お前さんは目が良いじゃろう。いや、こういうのはシロクマのほうが良かったか?」
 揶揄(からか)いを含んだ声ではなく、至極真面目な言葉が振りかけられた。
 普段と同じならば日比野も焦れただろうが、言葉に含まれた真摯さに顔を顰めたまま黙ってY字路を眺める。
桜辻口四丁目Y字路。住宅側の道から向かい合う形でカーブミラーが設置されている。道幅は約五メートル、長さとしては大通りに続く一本道は五十メートル近くあり、住宅とビルの厚い壁に挟まれたよくあるY字路にあたる。このY字路は大通りに繋がる道でもあるため、他の住宅内にある道に比べて利用者も多く、犯罪が起こる確率としては非常に少ない。しかし、Y字路に面した家は家主がほとんど空けているため、知っている人間の犯行であれば防犯的に有効かどうかは首を傾げる。
ビルの敷地内に植えられた植物が分厚い壁の上から顔を出しており、夏終わりの時期にしては些か青い葉が街灯に照らされていた。

カーブミラー、か?」
 城山が思い当たったように顔を上げる。その反応を待っていましたと言わんばかりに口端をつり上げた煎沢が城山に目をやった。遅れて日比野もカーブミラーに目をやり、はっと目を開く。
 城山のいた道の方へと移動し、丁度カーブミラーの正面へ立てば、鏡の中に広がるその光景に合点がいったように煎沢に振り向いた。
 本来カーブミラーというのは死角になる場所を映して、対象である歩行者や運転手に危険を伝えるためのものである。しかし、このカーブミラーに映る道は〟一本〝。鏡の底に映る光景は到底カーブミラーの役目を果たしているとは言えない。
「流石シロクマ」
「シロクマは余計だよ」
「そう言うな。儂は気に入っとる」
 くく、と喉で笑う煎沢を城山が睨めば、おお怖いと大げさに肩を竦めて見せた。今まで何度言っても改めるつもりのない態度に両手を広げて降参のポーズをとる。
「しかし、十字路がなんの関係になる」
「おそらく異能の発現条件だ。異能についてはお前さんらも知っとるだろうが、基本的に条件なんぞはない。あっても、ユウイチなんかはそうじゃろう。影がなければ使えない影異能、血がなければ発現できない血を操る異能。しかし反対にマサ、お前や儂みたいに条件もなにもなく発現できる異能が一般的だ。だが、これはあくまで一般的に過ぎん。儂の知ってる中では〟他者に名前を呼ばれて初めて異能を発現することができる〝輩や〟一定のダメージを受けなければ発動しない異能〝なんかもあった。そういうものは使い勝手は悪いが、皆一様に強力な事は確かだ。推測でしかないが、その条件の中に十字路や四字路に見合う場所でないと発動できない条件付き異能者が犯人だろう。本来Y字路であるここを、カーブミラーで反射させて鏡の中にもう一本道をつくり出す。これで十字路の完成じゃな」
 『条件付け』は日比野と城山も知っている。
 なにより研究課の領分であり、異捜官である二人にもあがってくる資料にもそういったことが明記されていたのは記憶にある。
 『条件』がある異能は即ち『条件』を満たさなければ異能が発現しない。それはさっき煎沢が言った通りである。だからこそ発現しづらい。
 例えば『死ななければ発現しない異能』があったとする。するとその異能者は異能を持っていると周りが気付けるかどうか。結果は気付かない。まずその異能所有者が死ななければ発動しない時点で本人が気付くことすらない可能性もある。他者はどうか?しかしこういった時に偶然や奇跡なんて言葉が便利でありながら矛盾を孕んだ言葉だと思い知らされる。偶然でも奇跡でもない異能という現象は一般的に理解できないものであり、例え目の前で交通事故が起こり、明かに死んだだろう状態を見ても『偶然生き残った奇跡』ということで片づけられるのだ。
 これに他人の責任はない。
 そもそも人間の脳というものはそういう風にできている。より危険、より異常な、自身が理解しきれない状況に陥りパニックを防ぐために行われる避難行為とも呼べる作用は無自覚で起こるため、誰も気づかずに流してしまっている事象に過ぎない。
 しかし、逆にその条件さへ絞れれば、その異能者の対策は非常にとりやすい。
「なら次の犯行現場にも大方の推測がつくんじゃないのか」
「そうだろうな。しかし、これには椿さんは既に気付いてたようだぞ」
「!」
「昼の後、すぐに部下にこの辺りの地図を要請していたからな。大体の見当はついてるんじゃろ。あの人の異能はこのあたりに一番冴える。あのカーブミラーも歪んでいた。十字路を作り出すために犯人がわざと歪ませたんだろう。」
 椿もまた異捜官だ。彼は異能を嫌っているというよりも、根拠や理論のない異能による捜査を嫌煙しているのだろう。よってあくまで推論でしかない煎沢の推論も報告したところで取り合ってもらえなかった確率の方が高い。
 だからこそ、と煎沢は言う。
「被害者を漁っても共通点は出てこないはずだ。そもそも〟共通点がない〝事自体が〟共通点〝になっとったのなら警察なら追えんだろ。これは探偵やらの領分だな」
「待った」
 城山が頭を押えて〟推論〝にストップをかけた。
「共通点がないことが共通点?」
煎沢、それは流石に無理矢理が過ぎるぞ」
「そんなことはない」
 にやにやとした嫌な笑みが浮かんだまま城山と日比野に煎沢が振り返った。暗い夜闇の中で街灯を背後にやった姿が、切り取られた影絵のように姿を塗りつぶす。
「異能者の犯行だと断定ができない時点でこれは仮説でしかない。どんな無理矢理だろうとなんだろうと理屈は通る。そもそも条件のある異能者ってのはそんなに多いもんでもない。なにせ自分が異能者だと気付く方が稀だからな」
「つまり、共犯がいると?」
「ああ、いる。それも小賢しいのが一人とあとは神経質そうなのがもう一人。最低でも三人な。そうじゃなけりゃ本人ですら気付かんだろうよ。だから〟試しとる〝んだろうな。最初はただの十字路で歳若い女。次に十字路にしては不規則な住宅街。段々と崩れて今はY字路を疑似的な十字路にしたここだ。どこまで異能が通用するのか確認してる節がある。」
「随分深読みするな」
「これでも浅いぞ。そもそも儂ならそうするって話じゃからな」
 椿に犯罪者と呼ばれているのを思い出し、あながちそれは間違いではないのかもしれないと思わず頭を過る。
 しかしまぁ、と一言置いて城山が笑顔を浮かべた。
「一応は捜査が進展したわけだね」
「始末書の言い訳は頼んだぞマサ」
「始末書は書け。これについてはまた明日捜査会議に提出だな」
 ノリの通じんやつだな、と唇を尖らせた煎沢の顔が街灯に照らされてようやく見える。確かに捜査は進展したであろうこの規則違反者を寛容してしまえば二度目があると知っている日比野は煎沢に取りつく島も与えない。何より一度経験してしまっているのが尚更である。
 さてと三人が踵を返そうとした時、声が響いた。深夜ではないとはいえ、夜の住宅街近くでは些かマナー違反と言われても仕方ない声量に思わず三人が振り返る。
「煎沢さん!!!また書類溜めたでしょう!!期限が明日までの物もあるんですから目を通してくださいよ!!!」
「っげ」
「あれ、日比野さんと城山さんも?書類通したんですか?珍しい」
 男にしては高い声が持ち主の怒りを顕著に顕していた。怒りのために上擦った声をあげてぎゃんぎゃんと吠えたてる栗色の短髪に、ネイビースーツが身振り手振りでぶんぶんと動く。
 明らかにその男をみて顔を顰めた煎沢の反応から二人はすぐに部下の一人だろうと推測をたてた。
 勿論その推測は間違っていない。
 煎沢が勝手に科捜研を抜けだしたことに気付いたあと、さんざん探し回っていたのだろう。ようやく、と言った表情で辿りついた若い男性捜査官の顔には安堵の表情があった。
 しかしはたと城山は気付く。
 先ほどまで煎沢が口上していた推測の要。あれはひとつ見落とされているのではないか。
例えば、煎沢の推測の中に『異能が条件を満たした時に起こる時限式』であることは視野にいれられていない。
 煎沢の言う通り、これが仮説であったとすれば、仮説として正しければ問題はまだ残っている。
 〟十字路〝〟四〝〟辻〝
(四がたりない?三つしかないのはあとひとつ四に纏わるものがあるから?)
 今この場に四に纏わるものは三つ。
 四に纏わる―――死に繋がる四つ目の要素が最後の『条件』だとすれば。
「待て!!煎沢、捜査官を止めろ!!」
「?どうしたシロク―――
 煎沢が後ろを振り返ると同時に城山が煎沢の腕を勢いよく引いた。瞬間、煎沢の頬を大鎌が霞めてコンクリートを破壊し、続けて轟音を鳴り響かせて砂が散乱した。
 突然破裂したとも言えるコンクリートの断片が煎沢の向こう側まで降り注ぎ、がらんがらんと大きな音をたてて無事だった地面へ転がって行った。
「ッチ、見立てを違えたか
「煎沢、大丈夫か」
 城山に腕を引かれて盛大に背中から地面へ倒れ込んだ煎沢が吐き捨てる。背中は精々擦りむいた程度だろう。しかし切れ味の鋭い何かで斬りつけられた頬からは赤い血がだらりと流れだしていた。
 日比野の言葉に問題ないと手を振って返した煎沢が顔を上げれば、顔をなでる砂埃がやけに視界を遮った。見通しの悪さに煎沢が目を細めると、やめた方が良い、と城山の神妙な声が降りかかる。
 砂埃の先。瓦礫の散乱する中に浮いた足が二本。ネイビースーツから覗く黒靴が地に着かずだらりとぶら下がっていた。右足は靴が脱げており、おそらくさっきの衝撃で脱げてしまったのだろう。傍に所有者をなくした黒靴が転がっている。
 自然と上がる視界に連れて、捜査官の腹から突きだす不自然な黒い物体が目につく。突きだす、というよりは、生えていると言ってもいい。それほどまでに不自然で、異様な物体は実際に生きているかのように僅かにそのシルエットを揺らめかせた。
―――熊切」
 煎沢が溢した名前はあの捜査官のものだったのだろう。
 名前を呼んだのが聞こえたのか、びくりと震えた身体に合わせて足が振り子のように踊る。
……
 最後に残った悲鳴を体から押し出す。悲鳴と呼べたものでもなかった。拙い言葉の母音が押し出され、声を出し切ってしまえば、一切の声はなくなってしまうだろう。
 遺言もなく息を引き取った熊切の身体を貫いていた黒いシルエットが大きく身体を振り回し、遠心力に従って投げ捨てられた熊切の身体はビルの塀に背中をぶつけて地面へと崩れ落ちた。黒いシルエットは蛸の足のように踊りくねり、まるで歓喜に打ちひしがれるようにその身を震わせた。
 ―――瞬間、煎沢と城山の間を風が吹き抜ける。
「! ―――マサ!」
「日比野ッ!っく、それは影だ!一度――
 退がれ。
 そう続くはずだった言葉は杞憂に終わる。
 ――――黒いシルエットが、破裂した。
 ぼたぼたとスライムにも似た固形とも液体ともつかない物体が降り注ぐ中、普段のナックルではなく、黒い手袋に似たものを装着した手を握りしめては開きを繰り返し、手袋の心地を確認している日比野の背広が見えた。完全に破裂してしまった黒いシルエットは元に戻る素振りも見せず完全に沈黙している。それを確認できればすぐさま日比野は熊切の下へ向かった。
 腹に空いた風穴から覗く内臓は切り取られたように滑らかな断面を残しており、まるではじめからそこには何もなかったかのような錯覚を引き起こした。腹部から垂れ流される血は熊切が壁に叩きつけられ、床に落ちるまでの軌跡を残しており、筆で書き殴ったような痕を付けている。
 その光景を無念と悔恨の表情で眺める日比野の背中の鬼気迫る様子たるや。
やっべぇな、マサめっちゃキレてんじゃねぇか」
「キレるべきは君だと思うんだけど
「自分よりぶち切れとる奴見て冷静になるっつーのはこういう事じゃな」
 そうぼやく二人は未だに目の前で起こった事態を飲み込むべきか顔を青くして静かに闘志を燃やす日比野の背中を眺めた。
 確かに黒いシルエットは日比野への敵対行動を示していた。
 それは二人が視認できた事であり、間違いはない。
 日比野の存在を感知した黒いシルエットは身体を躍らせながら戦闘体勢へと移行する。熊切を貫いた切っ先を日比野へと向け、無機質な殺意を黒い体に反映させた。迸る流曲線。死神の鎌にも似たその曲線は人間が最も恐怖する形を形容しているとされている。しかし、真に恐れるべきはその鎌ではない。その鎌につけられた〟歯〝を恐れるべきだ。直線状に移動する細かな刃は逆歯になっており裏には鮫の歯のように続く乱"杭"歯。一度抉れば傷口を再起不能なまでに追い込み細胞をズタズタに引き裂いた痕が残る。例えるならば、そう―――芝刈り機だ。
 当たれば挽き肉になる未来があるその悪魔的な武器を前に日比野は――ただ腕を振り上げた。
 筋力をぎりぎりまで引き上げ、背筋を引き絞り全身の体重を一度大きく後ろに引く。イメージとしては弓。矢を発射するまでに、威力、そして飛距離を伸ばすためにぎりぎりまで引き絞られた体は、全力の一投を打ち込んだ。足から腰へ、腰から腹へ、腹から肩を伝わり拳に乗る〟ただの全力を出した拳〝が刃を打ち破り粉々に破壊した。
 おそらくそれを補助したのはあの手袋だろう。異研は対異能武器として様々なものを研究し作っているため、時折こうして試作品を提供しては異捜と持ちつ持たれつの関係を築いている。
 内包された衝撃を吸収しきれなかったのは恐らく対象となった黒いシルエットの正体そのものが液体に近い存在であったためだろう。影とはそもそも質量のない存在でしかないが、影を操る異能者によっては影に与える影響はまちまちであり、幸運であったのか豪運であったのか、黒いシルエットそのものが破壊された今は知る由もない。
「日比野、無茶しないでくれよ」
すまん。しかし、」
「熊切の事は仕方ない。アレも運がいや、待て。」
 ばっと振り返った煎沢が熊切の死体へ近づいた瞬間、ざらりと黒い砂が熊切の身体を包み込んだ。
「!」
「まだ攻撃か!?」
 伸ばしかけた手を慌ててひっこめた煎沢の腕には目もくれず、瞬く間に黒い砂は熊切の身体を覆い尽くし、どんどんとその質量を失っていく。黒い砂の危険度を測れずに呆然と佇む三人の前から黒い砂はどんどんとその質量をなくしていき、最終的には跡形もなく――それこそ黒い砂すらも消失した。
城山」
「わかってる。帰庁しよう」


―――― 〆  ――――



 十月。夏の終わりといっても地方ではもっと冷えた月であるが、東京はこういうところでも都会を感じる。未だに残暑に晒される東京とはいえ夜は半袖で過ごそうにも些か厳しい冷気を纏っていた。節電を叫ばれるこのご時世、少しでも暑さを逃がそうとして窓を開け放ったままの廊下を半ば走る勢いで煎沢と城山と日比野は移動していた。
 警視庁、と一口に言っても部署は様々であるし、加えて異能捜査課がある場所はさらに特殊である。内部の警察にも内密にされた奥の場所。辿りつく術を知っている限られた人間しか出入りできないそこへ一直線に突き進んでいけば、清掃された廊下に足音がいやに響きわたった。
 辿りついた先に掛けられた捜査本部の扉を乱暴に日比野が開く。
 ドアノブを捻った音が静かな会議室に響く。夜とは言え警視庁から捜査官がいなくなるわけではない。夜勤の捜査官が必ず何名かは存在し、其々の仕事をこなしていた。そこに突然割り込んだ音に何名かは驚いて、他の数名は煩わしそうに振り向く。
 報告のために口を開きかけた日比野の行動を遮って、一人の女捜査官が三人へ近寄って来た。
「あ!煎沢さんこんなトコにいたんですか?熊切さんがさっき探し回ってましたよ?」
 軽快な口調で声をかけて来た女性に思わず日比野の眉間に皺が寄る。けして言葉を遮られたからではない。先ほど起きた『熊切』という人物の惨状を、口にするのが憚られたからだ。日比野にとって熊切という捜査官はさして親しいものではなく、友好関係もほとんど知らない相手である。例えであれども、この女捜査官が熊切と親しい間柄であったのならば、今それを伝えるのも酷に感じられた。
 それを思ってか同じように黙る煎沢の言葉を代替するように城山が口を開く。
熊切くんは殉職されたよ。さっき捜査中の辻斬り犯に遭遇して」
 城山の言葉に僅かな間が空く。
 十分、長いとは感じられたが、数秒に満たない間を置いて女捜査官は、「え?」と、呆けた声を出して首を傾げた。次には笑い出す始末であり、彼女の不可解な行動に三人が怪訝そうな顔をすれば、やはりおかしいと言って笑う。
「城山さんでもそんな冗談言うんですね」
「いや、冗談では
「ひどいですよ、だって三人とも目の前に熊切さんいるじゃないですか」
「「「―――!」」」
 咄嗟に日比野が煎沢を下げるように後退し、女捜査官から距離をとる。正しい判断だと言えるが、それはあくまで事実を知っている三人にとって正しい判断であったに過ぎない。
 首を傾げて何かまずいことを言ってしまったかと不安になる女捜査官の表情は本物だ。今までこちらに見向きもしなかった捜査官達が不穏な空気を纏ってこちらを伺い始めた。
 それが正しい反応である。
 目の前に熊切捜査官がいると彼女は言う。
 しかし、熊切は確実に、彼ら三人の前で腹を貫かれて死んだ。
 黒いシルエットに腹を貫かれ、赤い血痕を壁やコンクリートの上に撒き散らし、遺言も残せずに殉職した。
 例えば、先ほどの一連の光景が幻覚だったとすれば?
――今目の前にいるという見えない熊切の説明がつかない。
 例えば、今もなおこの空間そのものが敵の創った幻覚の中だとすれば?
――幻覚ならばここにくるまでの道のりや警視庁の再現率が高すぎる。
 例えば、そもそも熊切という人物がいなかったとすれば?
――警視庁のリストを見ればわかるが熊切、『熊切陣乃(くまきり じんない)』は確かに存在した。
 例えば、この女捜査官が敵のスパイであれば?
――もしそうだったとすれば日比野達が異能の条件を暴いた時点で先に警視庁の捜査官を殺害している。
 例えば、そもそも日比野達ではなく、『熊切陣乃』が死んだ事実を知らない人物にのみで構成された幻覚の一種であるとすれば
 人間の脳に直接関連するのではなく、これはあくまで視覚を騙すためだけのものでしかない。彼らの記憶に残る『熊切陣乃』という男を作り出しているのは、あくまで『熊切陣乃』が死んでいる事実を知らない者達のみに限ることになる。それはあくまで記憶の再現だ。記憶にある『熊切陣乃』を生きていると思っているからこそ生まれる幻覚(再現)。
しかし、異能というものは有能であるが万能ではない。
異能は学ばない。学習しない。更新されなければ次に行かない。対象の記憶にある行動を繰り返すだけのレコーダーに過ぎないそれは、死体すらないただの形骸だ。いつかほつれる。いつか綻びが出る。否、綻びが最初からある中身のない存在でしかない。
もしこれが、そもそもの辻斬り事件の最初から―――第一の事件から行われていたとしたら?
―――ぁ」

 被害者は全員死んでいる(・・・・・・・・・・・)。

―――神楽坂」
「はい、なんですか煎沢さん」
 女捜査官――神楽坂がにこりと笑って煎沢を見上げる。亜麻色の髪がさらりと揺れて、大きな黒い瞳が合間から見えた。
「はっはっは!いやそうじゃな、すまんすまん。冗談がすぎた。で、熊切、書類じゃったな。まぁ、そう怒鳴るな。明日までには済ませる」
「ですって!よかったですね熊切さん」
 見えない何かと話す神楽坂と煎沢の姿は異様な光景に見えただろう。
 しかし、やはりと言うべきか。
 この光景に、ようやく終わったかとため息をついて身を正している同僚の姿を見れば、この光景がいかに〟正常〝か思い知らされる。
「煎沢」
 日比野の咎めるような声に煎沢が振り向く。
 深い緑を映した瞳と蜂蜜色の瞳が数瞬ぶつかり、日比野の手が煎沢の腕を取った。煎沢も警察官として多少鍛えて――本意ではない――いるため柔な体はしていないが、本職の現場に力で勝てる道理もない。掴まれた腕が掴んだ力に比例してみしりと軋みを上げれば、僅かに煎沢の顔が顰められた。
「なんじゃ、日比野」
「来い」
「おい、待て。せめて力を緩めろ馬鹿力!」
 ぐい、と引っ張られて一度入って来たドアから逆戻りする。それに反抗しようとして煎沢がつっかえ棒のように足を伸ばして重心を後ろに傾けるが、まるで何事もないかのように引っ張る日比野の背中には有無をいわせない威圧感があった。中途半端に突っぱねた足が引っ張られた反動で体勢を崩してよろけながら廊下へと消えて行った。
 普段は温厚な部類に入る日比野の態度に気圧された神楽坂が慌てて追いかけようとした体をやんわりと城山が受け止める。
「おっと、危ないよ。そう急ぐもんじゃないさ」
「で、でも私のせいかもしれませんし
「日比野は何もなしで怒る奴じゃない。大丈夫、俺が見て来るから君は仕事に戻ってくれ」

「よろしくね」
 神楽坂が不安そうな顔で城山の顔を見上げ、諦めたように身を引く。体温が離れていく感覚に城山の目元に薄く皺が寄る。好意的に映る柔和な微笑みを浮かべた城山に神楽坂が僅かに顎を引いた。肯定の合図だろう。それを確認すれば城山も二人の背中を追って廊下へと消えていく。
 しばらくの沈黙の後、会議室はまた紙の擦れる音と相談や先程の噂話をする喧噪に飲まれていった。


――― 〆 ―――
「いい加減離せと言うにわからんか」
 会議室から離れた廊下で痺れをきらした煎沢が今度こそ足を止めて日比野から腕を引き剥がした。先ほどよりも抵抗なく解けた腕には、日比野が掴んでいた手の痕が痣になってくっきりと浮かんでおり、驚きとともに、げっ、と盛大に顔を歪ませた。
 廊下の照明は薄暗く、月の光が届かない東京では外から注ぐ光の大半は外のネオンになる。時折大通りをすぎていくトラックのヘッドライトが、二人の間をなぞるように廊下を走り去り、暗闇の濃さを際立たせる。
 ようやく相対した二人の視線は絡みついたように、空中にじっと交錯したまま挑み合っていた。二人の間に長い沈黙が落ちる。
何故熊切について話さなかった」
 沈黙を破ったのは日比野からだった。
「それをここまで連れて来たお前が言うか?」
 煎沢の顔にうっすらと、柔らかな皺が浮かんだのを日比野は見逃さなかった。ほくそ笑んでいるようだ。癇に障ると言うべきか。誰もが見て同じ感想を抱くだろう。品が良いとは思えない、失笑にも似た酷薄な笑みに日比野が顔を顰める。しかしそれを気にする煎沢ではない。凶悪な面構えが、さらに凶悪になっただけだとむしろ笑い飛ばすだろう。
「俺が言わなかったのは確信が得られなかったからだ」
「今もまだ得られてないじゃろう。それに、お前は迷った。今更だ。」
「得られてないからこそ言うんだ。認識の差は間違いに発展する。もし今熊切のあの事を言わなければ、次仲間がもしもの危険に陥るのは避けられるはずだ」
「混乱を招いてでも、か?」
「それも真実だ」
 断言する日比野の目はどこまでも真っ直ぐだ。暗闇の中にぽつりと浮かぶ夕陽、否、夜明けの茜色を纏った瞳が煎沢を見据え、強い光を孕んだ双眸が長い睫毛に伏せられる。
 ―――この眼だ。
 獰猛な心地で煎沢は目を細めた。
(本当に気味が悪い)
 まるで神様の神様でもやっているかのような気味の悪さ。煎沢はそもそも人間を利己的な生物だと思っている。欲深く、自己中心的で、それが人間だと信じている節すらあった。性善説と性悪説なんて哲学的なものではない。生き汚く、弱さがあり、それでも善を信じている人間がいるからこそ人間なのだと煎沢は悪を肯定する。
 しかし、日比野の眼はその真逆だ。欲深い人間がするにはあまりにも清らかで、神聖ささえ感じる眼。
 人間臭い癖に人間離れした精神をしたこの男の中身は、あまりに異質で気味が悪かった。日比野はそれを当たり前のようにできる男だった。
 この眼を見る度に、煎沢は叫び出したいような、怒鳴りつけたいような心地に陥る。
「このまま放置すれば必ず次が出る。熊切も――
――事実が隠されるのは望んでいない、か?」
 続く日比野の言葉を奪いせせら笑いを浮かべる煎沢に、日比野の瞳に剣呑が増す。
「日比野、前々から言おうと思っとったがお前さんは理想論がすぎる。故人を弔う気持ちがお前にはあるんだろうが、お前さんはそこに重きを置きすぎる。」
 相手を言い負かしてやろうという悪意が煎沢の言葉に見え隠れしていた。
 言葉とは鋭利な刃物も同じである。ひとつ刺し方、使い方を間違えれば――否、正しく使おうともそれは決して正しいとは決まっていない。
 運が悪かったのは煎沢がこういった口上を最も得意としている所であった。
「所詮、死人は死人。生きている人間になんの影響も与えられんのよ。だから生きている事にする。儂はこれをそう悪くはないと思っとるぞ」
「何?」
「誰かが死ねば誰かが悲しむ。それは恐らく人の関わりに出てくる当然の道理だ。だから死んだ事実を隠すっていうのは、生きてる人間にとってみれば幸せだろうさ。なにせ、〟もしかしたら生きているかもしれない〝と希望を持てる。今儂らの前にある幻覚の異能はその希望を叶えているに等しい。」
 まるでこの犯罪を肯定するかのような言葉に日比野の拳がきつく握りこまれた。嵌められたままの黒い手袋がきりりと軋みを上げた。
「死人をどう扱うも、所詮は生きている人間の価値観に過ぎん。お前がどれだけ熊切に同情しようと神楽坂を含めた熊切を知る人物にはいつもの熊切しか見えんだろうさ。それともお前はあれか?今までおきた辻斬りの被害者の所に行って被害者家族の前で『その人はもう死んでいます』とでも言うつもりか?叩きだされるぞ。発狂でもされかねんがな。被害者も〟自分が死んでいる〝事にすら気付いていない者がほとんどだ。それを前に、お前はその真実とやらを突きつける気か?」
 ガンッ、と煎沢の背中が壁に叩きつけられ、静かな廊下に残響する。壁の振動が開きっぱなしの窓をガタガタと揺らし、二人の緊迫した状況に震えているように低い音を打ち鳴らした。
煎沢の袂を毟るように掴んだ日比野の手が怒りに震えているのを見下ろし煎沢の口角が上がる。所詮、口喧嘩というものは手を出した相手の負けが通例だ。勝利を確信したかのような笑みはさらに日比野の気を煽った。
 しかし、その勝利に酔ったような高揚した笑みとは裏腹に、どこか落ち着いた低い声で煎沢はトドメの一言を溢す。
「受け入れたくない真実を隠して何が悪い」
 唸りに似た異様な響きがコンクリートの壁に跳ね返り、廊下全体が一つの音の坩堝になったような錯覚に陥る。背中を強打し、受け身を取り切れずに後頭部を窓に強く打ちつけた煎沢が痛みに呻いて壁際に座り込んだ。
 怒りのままに荒くなった呼吸が一瞬でも理性を奪っていた。
 煎沢が打ちつけ罅の入った窓硝子に日比野の顔が映る。
 怒りに混ざった失望に近い、非難の表情を煎沢が見上げる。
「それをお前が――警察(俺達)が口に出すな!」
 慟哭にも似た言葉に壁がびりびりと震え、日比野の唸りが聞こえた。数瞬の沈黙の後、もう話すことはないと踵を返した日比野の背中にぽすりと何かが当たる。一度止まった足が、何かを確認しようと少し振り向けば、それは重力に従って廊下に落ちた。白いパッケージに赤いライン。英文字でマルボロと刻まれたそれは煎沢が愛飲している煙草の箱だった。中にはまだ四本残っており、落ちた衝撃で僅かに中から顔を出していた。
「お前さんの強さは誰かの弱さを砕くぞ、日比野」

 煎沢の言葉を聞くまでもなく、踵を返して足早に廊下を歩いていく日比野の背中を追うように声が響く。
「日比野!」
 遅れて来た城山が状況に眼を見開いて少し離れたところで立ち止まる。しかし日比野の背中がすぐに見え無くなれば、惨状を見下ろした城山が煎沢を見た。
君また何か言ったの?」
「おいおい、儂が原因か?」
「それ以外ないだろ」
 ようやくずくずくと痛みを訴え始めた右頬を押えもせず、片膝をたてて座り込む煎沢にため息をついて城山が少し先に落ちている煙草を拾い上げた。手渡されるそれを見て、ようやく顔を上げた煎沢の顔がネオンで照らされる。煎沢の顔を見た城山の顔が一瞬ぎょっと目を見開くが、次には笑ってそれを指摘した。
「っぶ、ははは!煎沢、随分男前になってるよ」
 痛みよりも熱に変わっているのは自覚済みだ。殴られ慣れてない顔は既に腫れあがっているだろう。わかりやすい皮肉を言う城山から煙草をひったくり乱暴に一本取り出し口にはさむ。
 もう一度煎沢の顔を見れば、やはり笑えるほど腫れていた。右目下から頬にかけて、くっきりとした紫色に変色し始めている。余程強く殴られたのだろうと簡単に想像がついた。
「口で負けたアレが悪い」
「ふぅん、口で負けた、ね」
 拗ねたように吐き捨てる煎沢を理知的な赤紫の瞳が見下ろした。品定めするような色を帯びるそれに煎沢が沈黙で返した。一瞬の冷戦が繰り広げられるが、ライターを探す煎沢の手に手持ちのマッチ箱を渡す。
「口で負けたのは煎沢じゃない?」
 受け取ろうとした煎沢の手が止まった。
「図星でしょ」

 頬に浮かぶえくぼが確信に似た笑みを浮かばせていた。
 マッチを取り、ゆっくりと軸に火を燃え移らせてから煙草に火を点けた。しばらくして白い煙が立ち上り、ゆっくりと紫煙が吐き出される。
もったいぶるような動作に城山が焦れることはない。
「城山」
「なんだい」
「随分来るのが遅かったじゃねぇか(・・・・・・・・・・・・・・・)」
 暗闇に揺らめく赤い火の粉が僅かにこぼれた。
 日比野と煎沢がいた場所は会議室からそう遠いわけでもない。そもそも五分も歩いていないのだ。多少角を曲がるなどしたが、それでもそう間をおかずに出て来た城山が二人の姿を見失うとは考えづらい。
 無色透明な板ガラスを何枚も重ねたような深く沈んだ色を映した目が城山を見上げる。

 罅の入った硝子の隙間から夜の冷気が入り込んできた。体感できるほどの温度の低下。しかし、これは恐らく冷気だけの責任ではない。何度目かの冷戦に緊張の糸が張る。煎沢は城山から注意を逸らさない。城山が普段通りの―――普段通り過ぎる笑みを浮かべた端で、蠢く黒いシルエットに煎沢は気付けない。
 夜は闇の時間だ。しかし日本のような――特に東京という首都。明りの絶えない街では光源など腐るほどある。それこそ影が影とも解からないような世界。
〟ずるり〝と這いよる黒いシルエットが煎沢の腕に絡みつき引き上げ―――
「!」
 ―――煙草を奪い取った。
 ぼろりと崩れる火の粉が地面に至るまで残像を見せる。ある種の幻想を抱かせるそれを横目で確認すれば、にこりと目尻に皺を蓄えた城山の顔を確認した。
「煙草を吸いながらぼんやりしてると火傷するよ」
そうだな」
 くしゃりと握り込んだ煙草が箱の中で折れる。しかしそれを気にかける事もなくポケットに乱暴に突っ込んで立ち上がった。
「煎沢」
 踵を返した煎沢の背中を城山が呼び止める。
「あまり背中を見せるなよ」
 そう一言投げられれば、無言で煎沢は腕を振った。







投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.