X以外のSNSでの投稿にはPrivatter+がおすすめです

『おかえりにかえる』試し読み

全体公開 4062文字
2017-01-12 11:09:41

第3回文学フリマ大阪より頒布開始『おかえりにかえる』(文庫/104頁/400円)

Posted by @hanaitoka



 三月とはいえ夜はまだまだ春には遠い。日中は穏やかに晴れていても、午前一時を半分過ぎた真夜中にその暖かさは少しもない。確かに多少、頬や耳、鼻に当たる風の冷たさは和らいだかもしれないけれど。つーんと痛いだけだったのが、ひんやりした冷たさを感じられる程度には。
 バイト先から家までは歩いて十分程度の距離にある。この時間になれば出歩くひともなく、車の交通量も少ない。駅周辺では、朝方まで営業している飲み屋やカラオケ店の看板たちが眩しくてうるさいけれど、そこを過ぎればおおむね静かでいい。
 携帯音楽プレイヤーに繋いだイヤホンで音を聴きながら帰る家までの十分間が、一日のあれこれをリセットするのに程好い時間で気に入っている。音量を最低限聴こえる程度に抑えて、夜に溶け込む。とくべつ好きなアーティストがいるわけでも好きな曲があるわけでもなく、鼓膜を揺らすのは、ヒーリング系の音楽だったり、川辺の音や波の音などの自然音だったり。耳触りのよいものを選んで集めた結果がこうだった。プレイリストを見たひとからは「大丈夫か」なんて言われるけれど、至って健康である。
 アパートは二階建ての古くもなく新しくもないよくある建物で、一階の奥から二番目、一〇五号室が現在の住処だ。一〇五号室と一〇六号室の前を照らす蛍光灯は少し前からほとんど息をしていない状態で、一昨日の夜はまだなんとか明滅を繰り返していたけれど、昨日の夜、とうとう完全に息絶えてしまった。なので、自宅の前はかろうじてお隣の一〇三号室前の灯りが届いている範囲だけ薄明るい。一〇六号室はほぼくらやみだ。大家さんに連絡すべきなのだろうかと考えてはいるものの、急を要するほど困っているわけでもなく、もしかしたら一〇六号室のひとがもう連絡をしたかもしれない、なんてことを考えて様子を窺ったまま、今日まで放置していた。
 その、やや暗い自宅玄関扉の前で何かの影が見えたとき、僕は先延ばしにしていたことを一瞬だけ後悔した。
 うずくっているようにも見えるそれは、にゃあんとか、なぁとか、動物の鳴き声を真似て鳴いていた。思わず口から出てしまった、うわ、という声に反応して小さくやや吊り上った目が下のほうから見上げてくる。それに遅れてもうひとつ。前髪の分け目からこちらを覗く目が、まあるく開かれていた。
 影はゆっくり口を動かす。
「おかえり」
……ひとの家の前で何やってるの」
 足元にいる猫は喉元を撫でられ、機嫌がよさそうにごろごろ鳴いている。
「猫とたわむれてる」
「見ればわかるよ、そうじゃなくて」
 隣に並んで同じように腰を落とす。黒い猫だ。すっかり手懐けられているその猫はこの界隈を縄張りにしている子で、僕が触れるのを許されるまでに一ヶ月かかったお猫様だった。少しくやしい。
「仕事やめた」
 あまりにもさっくり、唐突に告げられた。昔から突発的に行動してしまう節のある相手なのは理解しているつもりだ。ゆえに、たいていのことでは驚きやしないけれど、ここ三年ほどは会うことも連絡することもほとんどなかったので、久しぶりに食らった不意打ちの感覚に、ああこうだったと懐かしい気持ちが湧く。そうなんだと何気ない相槌を打って、黒猫の頭を撫でるために伸ばした手が相手の指先に当たる。その冷たさにはさすがに、うわっ、とまた声が出た。
「何時からここにいたの」
「憶えてないけどお腹は空いてる」
「とりあえず中入ろう。簡単なものしか作れないけど」
「その言葉を待っていました」

 外では黒に見えていた客人のコートは、室内で見ると紺色だった。ベッドに直行したがる客人に手洗いを促してコートを剥ぎ取った。ハンガーを手渡したところで、どうせ脱ぐのを面倒がっていつまでも着ているだろうから、自分のコートを引っかけるついでにドアハンガーに並べてかけた。
 さきほどまで無人だった部屋は当然寒い。ハンガーにかけておいた深緑のニットカーディガンに腕を通す。暖房二十度に設定されたエアコンだけでは寒いけれど、電気代節約のためにはやむを得ない。室内でも防寒着を身につけることで毎年冬を乗り越えてきた。
 引っ越した当初に一度、押しかけのごとく来たことがあるだけなのに、勝手知ったるなんとやら。客人はエアコンのスイッチを入れ、ベッドの冷たい布団に潜り込んだ。頭だけ見えているそこにもう一着、クローゼットにしまい込んでいた色違いのカーディガンを被せたら、何も言わず器用に布団の中でもぞもぞしている。おとなしくしている分には害はないので、狭くて使い勝手の悪いキッチンに立って餌の調理にとりかかる。
 冷蔵庫には一昨日使った残りのうどんがひと玉残っていた。顆粒タイプの出汁の素と水、しょうゆ、みりん、塩をそれぞれ鍋に入れて火にかける。ひとり暮らしを始めたばかりのころは分量をきっちり量って調理していたけれど、四年目ともなれば感覚でぽいぽい入れてしまう。そのせいで毎回味が微妙に異なってくるものの、大きく失敗することはないから、きっと大丈夫。あの客人が相手なら、なおさらだ。
 作業している間に、部屋からテレビの音が聞こえてきた。声の大きさ、高さ、性別、内容がちぐはぐに耳に入る。ひと通りチャンネルを回したところで、映画だろうか、吹き替えの特徴的な声がするところで落ち着いたようだ。どうせ見もしないのに。部屋を覗いてみたら布団がこんもり、ひとの形に盛り上がっていた。
 鍋の中がふつふつしてきたところでうどんを投入。しばらく触らずそのままにして、その間に卵を冷蔵庫から取り出す。残りひとつになった。煮立つ鍋の中でうどんがぽこぽこ踊り出すと火を弱め、麺を菜箸でかき分けて鍋の中央にスペースを作る。そこに卵を割って落とした。乾燥わかめとカットねぎをひと摘みずつ鍋に入れて、あとは玉子の卵白に火が通って白く色づき、黄身が半熟程度に固まってくるまで放っておく。
 食器棚から器を出し、玉子が下敷きにならないように気をつけて移せば完成。コンロが一口しかなく、小型の水切りかごでほぼ占領されてしまうほどの狭い作業スペースしかないキッチンでもできる簡単な夜食だ。
 うどんを盛った器とお茶を入れたコップをテーブルに置いた音で、何も言わずとも布団から出てきた。いただきます。きちんと手も合わせて食べ始める。テレビでは男女が激しく言い争いをしていて、女性が男性の頬を何度も平手で打ったあと、お決まりのように熱いキスを交わし始めるものだから、気まずくなって風呂に逃げることにした。客人は一定のペースでうどんを啜っていた。


「家のひとに話したの、仕事やめたこと」
「言ってない、まだ」
 風呂から戻ると、うどんの器と箸はきちんと洗われていた。コップがふたり分、テーブルに並んでいる。酒はないのかと聞かれたけれど、この家には常備していないので答える代わりにお茶のおかわりを入れたら、黙ってそれを飲んだ。
 時刻はすでに深夜二時を回っている。映画は、土砂降りの雨の中、男がひとりきりで線路の上を歩く。時間的にも終盤。電車はとうに終わった。
 お腹も満たしたことだし、そろそろタクシーにでも乗せて家に帰そうと考えていた僕を尻目に、客人はベッドに再び潜り込んで帰ろうという気配すら出さない。
 もしや。
「帰らない気だ」
「ねむくなってきた」
 目だけを出し、僕を見る。くぐもった声が映画のエンディングに紛れて耳に届いた。
 いまだれにも会いたくない。
 これは折れないときの目だ。ぎらついているわけではないのに、じいっと瞳を通して内側まで見通されているような、まっすぐな瞳。黒目が大きくて、垂れた目尻が懐っこい印象を与えるけれど、こういう目をしているときに勝てた試しがない。先に目をそらすのは決まって僕だった。
……今日だけだよ。先に家に連絡することが条件」
「明日はだめ?」
「家のひとにちゃんと話して、許可もらってきたらね」
「甲斐性なし……
「どうとでも言ってよ」
 クローゼットには、大学の友人やバイト先の先輩後輩など、勝手に来て勝手に寝泊まりしていく訪問者が多いために常備せざるを得なくなってしまった、客人用の布団を格納していた。足を折りたたんだテーブルを部屋の隅に立てかけて、空いたスペースに布団を敷いてやる。
 キッチンと、風呂とトイレ(それぞれ分かれていて、脱衣所付き)を除けば、この六畳ほどの洋室だけが生活スペースだ。ひとりで暮らすには充分でも、ふたり以上となれば窮屈だった。
 しかし、せっかく布団を敷いたのにもかかわらず「こっちがいい」とベッドに陣取られてしまい、その日僕は自分の家なのに客人用の布団で眠ることになった。


 翌朝。宣言通り、押しかけてきた来客を実家まで、わざわざ電車を乗り継いで送り届けた。駅まで、改札まで、ホームまで、と気になってついていくうちに、家の前まで来てしまったのだ。
「じゃあね、ちゃんと仕事辞めたこと報告しなよ」
 門扉越しに家へ入っていく後姿を見送って、ようやく安堵する。「宮坂」の表札を見るのはずいぶん久しぶりだ。ついでだから自分の実家にも顔を出してみようかと思ったけれど、この時間にはもう誰もいない我が家と、昨日洗濯ができなかったことを思い出し、来た道をひとりで辿った。


 日付が変わり、午前二時に迫る真夜中。バイトを終えて帰ってきた薄暗い家の前に影を見たとき、なんとなくそんな気はしていたと潔く観念した。黒い猫を指先でたぶらかしていた影は、僕の足音で気づいたのか振り返って言う。
「おかえり」
 ちゃんと言ってからきたよ。
 文句あるかと言わんばかりの顔で見上げてくるので、もう何も言わずに家の鍵を開けた。

 これが、彼女、ようちゃんを飼うに至るすべてのはじまりである。



---------------------------

『おかえりにかえる』 より 『春あらし』


投稿にいいねする


© 2026 Privatter All Rights Reserved.