@lmyonsanl
重いスーツケースを引きずり、出張が面倒だとぼやく私を宥めてくれたのは母だった。
へんぴな田舎で支社の社員を教育だなんてと、家を出る直前になってまでもぶつくさ呟く私に、母は「あなたが期待されている証拠だから。一ヵ月なんてあっという間よ、頑張って」と笑いながら送り出してくれた。
支社に着けばやらなくちゃいけないことが盛り沢山で、正直そんな言葉で納得できるようなものじゃなかったけれど。不安に感じているあれこれだって、実際やってみたら案外大したことないかもしれない。と、母の能天気そうな笑顔を見ると随分と気が楽になったものだ。
――それが一ヵ月前の話。
「あら、おかえり」
出張を終えた私を自宅の玄関で出迎えてくれた人は、一ヵ月前と確かに同じはずなのに。
「た、ただいま……」
胸の中がざわつく。この感覚は一体何なんだろう。
見慣れた母の笑顔――そう、笑顔のはずなのに――それには私へ対する想いは何も無いように感じられた。
私の仕事のことなんて何もわかっていなくて、能天気で……。でも優しさが伝わってくる笑顔。母の笑顔はそうだったはずだ。
だというのに、今のこの表情は……。
「ご飯食べるでしょう?」
スタスタとリビングへと消えていく母を追うと、そこでは父がすでに食事をとっていた。
「おかえり、出張だったんだって?」
「あ……、うん。……お父さんも帰ってたんだ」
「昨日、日本に戻ったんだ。また明後日には出なきゃいけないんだけどな」
「昨日……」
母の昨日の様子はどうだったのだろう。聞いてみたいが、同じ部屋にその母がいるものだから今尋ねるのは気まずい。
食事が終わったら改めて聞いてみよう――、そんなことを考えていた時、父が母を呼びつけた。
「卵焼きはまだ残ってるかな?」
「おかわりかしら? あなた、相変わらず好きねぇ」
「母さんの甘い卵焼きは癖になるんだよなぁ……。食べられる時にたくさん食べておきたいんだよ」
父は常に忙しい人だ。手がけている事業の関係で日本と海外を行ったり来たり。家にいるほうが珍しい。
だから父に母の様子を尋ねてみても、恐らく私が納得するような答えは得られなかったんだろうと、笑顔を交わす二人を見て思った。
父が、母と共にいる時間はそう多くない。
“夫婦の絆”みたいなものをバカにしているわけではないけれど、実際問題同じ時間を過ごすからこそわかるというものはあるはずだ。
私が今感じている“ざわつき”は、そこから生まれているんじゃないだろうか。
共有してきた時間の分だけ、慣れ親しんできた感覚――。私は一ヵ月前まで毎日母と顔を合わせていたのだ。それがわからないはずはない。
父が感じ取れなかった“何か”を、私は今、肌で感じている――――。
「さ、あなたもご飯食べちゃいなさい。冷めるわよ」
「……いただきます」
けれど“何か”は杞憂に過ぎなかったようだと、目の前に並べられた食事を口に運んでみてわかった。この味はしっかりと母の味だ。大雑把にしか見えないのにいつも美味しい、私と父が大好きな母の料理。
これを作ることができるのは、母しかいない。
さっき感じた“何か”の答えが一つの単語に行き着く前に、私は無駄な心配を止めることにした。
◇◆◇
「なんとも痛ましい事件ですね……。シングルマザーでお子さんもまだ小さいということで、≪成り代わり≫を指摘できる人間が身近にいなかったということでしょうか」
出張から戻ったあと、山積みだった仕事をようやく片して得た休日の朝。――目覚めは最悪だった。
昨夜は友人と飲み歩き、そのまま彼女の家に泊まらせてもらったのだが、飲みすぎたせいなのか慣れないソファで眠ったのがよくなかったのか、とても嫌な夢を見た。内容は忘れてしまったが、その重苦しさは起きてからも強く残っている。
さらにテレビから流れてくる音声もそれに拍車をかけてきて、楽しいはずの休日のスタートは気分の悪いものになってしまった。
「ん? 起きたの? おはよう」
先に起きていたらしい友人は、優雅にコーヒーを飲みながらニュースを見ていたようだ。
「≪異形の者≫による事件というのは、報道されているよりも実はとても多いと言われています。行方不明や孤独死等のなかには、異形の者による成り代わりが一定数あると考えられているんです。今回の事件も、最初は行方不明事件として報道されていたでしょう?」
コメンテーターのわざとらしいくらい神妙な喋り口がやけに耳につく。これ以上このコメンテーターの声を聞きたくなくて無言でチャンネルを変えると、友人は小さく「あ」と零した。
しかし、チャンネルを変えた先で取り扱っていたのも同じニュースだった。――他に話題は無いの?とつい言いたくなってしまう。
なんてことを考えていたのだが、それは口をついていたようで……。私の呟きを聞き逃さなかった友人は心配そうに声をかけてきた。
「ねぇ……、どうしたの? 起きてからあんた、おかしいよ」
「……ごめん、ちょっとテレビにイラッときて……。――昨日飲んだのがまだ抜けてないのかな。疲れてるのかも」
「…………」
友人はテレビを消すと、キッチンへ向かった。少しして湯気を立てるコーヒーを手に戻ってくると、「話して」と言い私の前にカップを置いた。
まっすぐ私を見つめる彼女の瞳は、澄み切っていて美しかった。――それがなんだか悲しい。
前まで同じように美しい目を持つ人が身近にいたのに……、いや、今もいるはずなのに。その輝きは今となってはもう、ただただ懐かしむだけのもののようで――――。
「あの、ね……」
私はぽつり、ぽつりと語った。きちんとした文章になってはいなかったけれど、あの日家に帰ってきてから母に感じた違和感、不安。それらを全て伝えた。
友人は時々相槌を打ちながら、真剣に話を聞いてくれた。そして私がすべてを話し終えると、彼女は目を瞑り口を閉ざした。
――静かな部屋に、時計の針の音だけが響く。
「≪探偵≫に相談しよう」
沈黙を破ったのは、友人の凛とした声だった。
聞きたくなかったセリフだ。彼女の言葉が指す意味は一つ。頭のどこかでそうではないかと思いながらも否定し、追いやっていた可能性。
母は、異形の者に成り代わられている――――。
何も言わずに俯いてしまった私に、彼女は「そうだとは言い切れないけど」と話してくれた。
『異形の者かもしれないと身内が違和感を覚えたのなら、それは大抵当たっている』
『異形の者ではないと証明する為にも探偵に相談するのは悪いことではない』
――彼女の言うことは、間違ってはいない。探偵に相談するというのは母の無事を調べる、ということでもあるだろう。それは理解できる。
「うちの父さんが刑事なんだけど、追ってた事件の犯人が異形の者っていうこともよくあったらしくて……。探偵にはツテがあるみたいなんだよね。私も詳しくは知らないけど、父さんが信用してる人だからそれなりに実力はあると思う。
私もついていくから……、話だけでもしてみない? あんたのお母さんの為にも……。ううん。私、あんたが心配なのよ……。ね、お願い……」
彼女の真摯な眼差しと言葉を受け、私は素直に頷いた。
やっぱりずっと、心の奥底では気になっていたのだ。ただ……。奥底にあるものを認めてしまうことが怖かった。
「……ありがとう……」
泣きたくなるのをこらえ、やっとの思いで礼を言う。
友人は何も言わず私を抱きしめると、温かな手で背中を撫でてくれた。
◇◆◇
次の日、友人に連れられ足を運んだのは、都心に建つ対異形探偵協会の本部だった。昨日私の話を聞いた彼女は、すぐにご実家に連絡してくれたのだけれど……。彼女のお父さんが紹介してくれた探偵というのが、まさかの探偵協会会長だったのだ。
普通に街の探偵を紹介してもらえると思っていたものだから驚いたし、そこまでしてもらわなくてもと伝えたのだけど。友人も、友人のお父さんも遠慮するなと話を通してしまった。
――そして今。目の前に探偵の代表ともいえる人、探偵協会会長が座っている。
「なるほど。その判断は正しいと言えるだろう。異形の者による事件の発覚は、近しい者の直感が重要だ。気になることがあれば探偵に相談してみる、というのはこの後の被害を防ぐ為にもとても大切なのだよ」
そう言うといかにも紳士といった風貌のその人は穏やかな笑みを浮かべ、私に紅茶を勧めてくれた。
紳士の後ろにはさっき紅茶を出してくれた女性が控えている。その人は会長の秘書だと紹介されたのだが……。世の秘書はこんな感じでOKだったろうか?と少し困惑してしまうような……。端的にいうと非常に艶っぽい。知的で美しい顔に相応しい体つきを惜しみなく披露している。いや、しすぎているものだから、同性であるのについ照れてしまう。
ただ会長はもちろんのこと、隣に座る友人も一切気にしていないから、彼女に関しては私が気にしすぎなだけかもしれない。
勧められた紅茶を一口いただくと、じんわりと体が温かくなる。……落ち着いて話すことができそうだ。
――そう。今日は真面目な話をしにきたのだ。私と私の家族に関わる、とても大切な話を。
「それじゃあまず、君は異形の者や探偵についてどの程度の知識があるのか聞いてもいいかね?」
「ええと……。一般常識くらいだと思います。異形の者は人間に成り代わって……、成り代わった人間の身近な人物を襲う……。ひっそりと、ばれないように……。それで探偵はその身近な人が襲われる前に正体を暴いて、異形の者を殺す人達」
うんうんと頷くと紳士―会長―は、「おおむねその認識で合っている」「ただ我々は殺すとは言わず“排除する”という言い方をしているよ」と言うと、秘書の女性を呼ぶ。すると彼女は、手際よく机の上に資料を並べてくれた。
資料をもとに最初に説明されたのは、“異形の者”について。「心苦しいが」と前置きをすると、会長は異形の者について判明していることは少ないのだと口にした。
異形の者がどこからやってきて、なぜ人を襲うのか。
人間が妖怪やモンスターと認識しているものに姿形が似ている個体が多いのは、何かしらの意味があるのか。
人間に成り代わっているのには理由があるのか。
さまざまな説があるそうだが、どれも決め手にかけ現状『こうだ』と言い切ることはできないのだという。
「それは……、はい。歴史の授業とかニュースでなんとなく」
「そうか……。しかし、わかっていることもいくつかあるのだよ。各分野のプロフェッショナルが日夜研究に励んでくれているおかげでね」
会長の説明によると、なんでも異形の者の中には弱点を持つ個体もいるのだという。それは外見の特徴を色濃く反映したものだそうで、例えば炎を身に纏う異形の者は水の要素を持つ攻撃を嫌うなどといったものだそうだ。
ただしその弱点も、人の姿をとっているうちはある程度克服できる。
「そこで探偵の登場というわけなのだよ」
探偵には探偵だけが使える武器がある。探偵によってその形状は様々だが、それには人に成り代わっている異形の者の正体を強制的に暴く力があるのだ。
その武器を扱えることこそが探偵の証。武器こそが異形の者へ対する人間の反撃。
「とても残念な話だが……。異形の者に成り代わられた人間が生きていることは無いに等しい……。成り代わられているあいだ、別所で監禁されていたのを救出したという話もあることにはあるが……。本当に稀だ」
「――っ!」
会長の言葉に、私の胸は潰れそうになる。
予想はしていた。けれど面と向かって言葉にされると、胸が……。痛くて仕方がない……。
だってつまりそれは。私の母は、もう――――。
「……厳正な審査をもって選ばれた我々探偵は秩序を守る者であり、復讐の代行者でもある。全力で依頼者の力になろう」
涙が溢れそうになるのを必死で我慢し、バカみたいに首を振る。母は、母じゃなくなってしまった。
悔しい。なんで母が。無念だ。憎い。
たくさんの想いがグルグルと頭の中を巡る。
「だが、まだ君の母君が『そう』と決まったわけではない。捜査も探偵の仕事だ。しっかりと見極め、母君の名誉を守ってみせよう」
会長の言葉は、毅然としていて力強かった。ずっと不安で、昨日まで誰にも相談できなかった今回のこと……。この人ならどうにかしてくれるかもしれない。
震える私の背を、友人は昨日と同じく優しい手つきで撫でてくれる。「今日、話してよかったね」という口調は微かに揺れていて、私のことを慮ってくれていたのだと伝わってきた。
――ありがとう。あなたが声をかけてくれなければ、私はきっと探偵に相談することを決断できなかった。
「異形の者が姿を現わすようになってから数十年……。その間に探偵の捜査方法は洗練され、弱点の調査を含め、確実に排除していく為の戦闘方法も確立されてきた。さらに捜査でも戦闘でも、≪助手≫と呼ばれる協力者が探偵のサポートをする。彼らはなかなかに優秀でね。探偵はいつも万全の態勢で事に当たっている」
会長は一呼吸置くと、
「我々には、異形の者に抗う為の力がある」
そう、言い切った。
言葉を受け、ついに私の涙は堰を溢れる。何もできない私の代わりに、この人達は想いを晴らしてくれるのだ。
「捜査をお願いします……。結果が出て……、『そう』だったら……。消してください、私達家族の前から……! お母さんの姿を、お母さんを奪った奴を……!!」
それだけを絞り出すと、私は人目も憚らず声をあげて泣いた。背中を撫で続けてくれる友人の手は柔らかく、それが無性に嬉しくて涙はなかなか止まらなかった。
◇◆◇
「さて、君の依頼を担当する探偵についてだが。どのような者がいいなど希望はあるかね?」
会長は私の涙が落ち着くまで黙って待っていてくれた。そしてそう切り出すと、お茶のおかわりを勧めてくれた。最初に入れたものは冷めてしまったからと、秘書の方が新しいものと交換してくれたのだ。
新しく出してもらったのはロイヤルミルクティー。その甘さと温もりは、ホッと気持ちを穏やかにさせてくれた。
「……会長さんが担当してくれるんじゃないんですか?」
「私は今、現場からは離れていてね。捜査を行なってはいないのだよ」
申し訳ないねと述べられ、正直少しがっかりした。この人なら安心して頼むことができると思ったのに。
「代わりに君の望みにあった探偵を紹介することはできる。どのような探偵をお望みかね」
「と言われましても……。こんなこと初めてだし、自分でもどんな人にお願いすればいいのか……」
大体探偵にタイプとかあったのか、というところからだ。私の知っている探偵といえば売れっ子俳優が今やっているドラマの美少年探偵位で……。あとは子供の頃に読んだ児童書に出てきたお爺ちゃん探偵……。けれど会長が聞いているのは、そういう外見的なことではないだろう。
「あの、まずどんな探偵がいるんですか……?」
「特定の種類の異形の者を専門にしている探偵、依頼者のアフターケアを重視する探偵……。どんな探偵と言われると本当にさまざまだ。ニーズに充分応えられるだけは探偵協会に在籍しているな。しかしそうだな、君ならば……」
会長が秘書に目配せをすると、彼女は無言で部屋の隅にある棚からファイルを取り出した。ファイルを受け取った会長はパラパラとそれに目を通し、「やはりこの辺りだろうな」と呟く。
そしてファイルを秘書に返すと、「君の依頼と相性が良さそうな探偵は三人いる」と探偵について説明をし始めた。
一人目は善知鳥束。
私でも知っている警備会社『つかさ警備』の対異形部門の探偵だそうだ。
チームでの捜査を得意とし、迅速な解決には定評があるという。また一般人にも負担の少ない依頼料で仕事を請け負うことから、人気のある探偵らしい。
二人目は火之道間。
探偵になってから日は浅いが、依頼に取り組む真面目さから信頼に足る探偵だという。
戦闘能力は確かなもので、異形の者を排除するということにかけてはベテランをも圧倒する実力者だそうだ。
三人目は御守夜子。
現役の女子高生だという彼女は、業界内では高名な探偵事務所の所属らしい。そこの所長は会長の知人で、堅実で丁寧な捜査をモットーにしているそうだ。彼女はそこで子供の頃から助手として働き、しっかりと鍛え上げられているのだという。
「この世界には」
そう口を開いた会長の声には、迫ってくるような強さがあった。
「誰にも知られていないところで数多の異形の者が暗躍している。だが恐れることはない。それと同じくらい、多くの探偵が活躍しているのだ」
会長の言葉には、何か決意のようなものが感じられた。それがどういう意味なのか、なんの意図があるのかは私にはわからない。けれど。
「あなたに相談できてよかった……」
この人には異形の者に対する強い意志がある。それはきっと、私の力になってくれる。
街に潜み、人に紛れる異形の者を……。私の平穏を壊した奴に一矢報いてくれるはずだ。
「探偵協会は異形の者に悩める人々の為にある。我々は君の憂いを払う為の助力を惜しまない」