@lmyonsanl
「誰も来ませんね……」
額から落ちる水滴を拭いスマートフォンを見ると、乗客が自分一人だったバスを降りてから、ゆうに一時間は経っていた。
――酷い土砂降りだ。東京を発った時に見た天気予報では、雨のことなど書いてはいなかったのに。通り雨ならいいけれどと祈ってはいるが、この降り具合だとその願いは叶いそうにない。
「はぁ……」
ずっと座り続けているボロボロのベンチには雨水が溜まり、軽いはずの制服の夏スカートは、じっとり濡れ重くなっている。
肌にまとわりつく布の気持ち悪さをなんとかしたい……が、狭い停留所内には他に避難する場所も無いし、何よりここの日よけは申し訳程度。これだけの横殴りの雨ならば、立っていようが座っていようが関係ない気がした。ならば少しでも体力を消費しないよう、座っているほうがまだましだろう。
「……お尻……。痛い……」
あまり肉付きがいいとはいえない体のせいか、長時間座り続けるのは苦手だ。
体が濡れたおかげで冷えてきたし、そろそろ移動したいところだが……。迎えの人間とやらはいつになったらやってくるのだろう。こちらの到着時間は、確かに伝えておいたはずなのに。
「こんなことになるんなら、大人しく兄さんの帰りを待てば良かったですね……」
あの時、少しでも捜査を迅速に行えればと思って言った言葉が、裏目に出てしまったかもしれない。
「『たられば』を考えるなんて……。ダメですね……」
柄にも無くつい弱音が漏れてしまう。
自分は度胸のあるほうだと思うが――――。知らない土地で一人きりというシチュエーションのせいで、いつもより弱気になっているのだろうか。
今回の仕事は、東京からいくつもバスを乗り継いだ先での調査。
きっかけは、とある集落に住む男性からの連絡だった。
『人の形をした黒い影が、人では考えられない速度で山を登っていた』
対象が絞られているわけでもなく、調べる範囲も山をまるっとひとつ。これは大規模な捜査になる――そう思った。
しかしこの依頼人というのが、ありがたいことに太っ腹な人で……。報酬はいくらでも支払うと申し出てくれた。
そのおかげでこの案件は、≪研究所≫の≪道具≫を借りて調査ができるのだ。
研究所といえば異形の者へ対抗するすべを日夜研究している組織で、捜査に有用な道具の開発も行っている。現在探偵が使用している≪武器≫も≪装備品≫も、ここの研究成果がベースになっているという。探偵にとって非常に重要な組織だ。
また通常の武器や装備品以外にも、捜査の助けになる道具を多数研究しており、それはどれも大変便利なものなのだが……。いかんせん、レンタル料が高額すぎるのだ。その為、普通の捜査で借りる探偵は少ない。
今回だって兄さんの、
「時間をかければそりゃできるけどよ、俺ぁ時間をかけたくねぇんだわ。向こうさんも金出すっつってんだし、研究所の力借りようぜ」
という一言がなければ、借りていなかっただろう。兄さんの面倒くさがりなところには頭を悩ますことも多いが、この判断は助かった。
こうも調査範囲が広ければ、いかに研究所の道具を使用するといっても泊りがけにはなることは必至。だが使用しない場合と比べると、格段に早く調査を終えられる。
道具のおかげで仕事は楽に終えられそうだし、なんといっても夏休みに入ったばかり。都内から緑の美しい田舎への遠出ということで、ちょっとした小旅行の気分で出発したのだが。
こんな状況に陥るとは思いもしなかった。
「え、出発日を遅らせる? なんでです?」
「野暮用が入ってよぉ……。前の依頼人がどうしても話がしたいことがあるんだと。それが終わったあとに研究所に向かうから、どうしても時間がな」
「そうですか……。だったら、私だけ先に現地に入ってましょうか? 聞き込みだけでもしておきます。兄さん達が到着したら本格的に調査開始にしましょう」
「それはありがたいけどよ、夜子ひとりで大丈夫か? 鈴切と一緒に行ったらどうだ?」
「鈴切には荷物を乗せた車の運転してもらわなきゃならないでしょう? 私はひとりでも何とかなります。兄さんは鈴切と一緒にあとから来てください」
東京で交わした会話を思い返すと、わずかに苦いものが込み上げてくる。
渋る兄さんを押し切り、こう言ってしまった結果、私は濡れ鼠になってしまった。兄さんや鈴切と一緒に明日出発していれば……とも思うがもう遅い。
自業自得の結果ゆえに、怒りよりもやるせなさや虚しさばかりが湧き上がる。
「はぁ……」
二度目の溜息。夏の陽は長いが、この雨のせいでいつもならまだ明るいはずの時間帯なのに薄暗くなっているのが、余計に気を焦らせる。
依頼人の迎えはまだだろうか。何か問題でも起こったのだろうか――。
いっそ歩いて集落まで……と一瞬考えてみるが、この時間この天候の中ひとり歩いて向かうのは無謀だろうと思い直す。事前に聞いていた話では、このバス停から集落までは相当距離があるはずだ。
――このままじっとしていても仕方がない。
そう思って近場の宿をスマートフォンで検索するが、結果は残念なものばかり。一番近いホテルでさえ、ここから町へ向かうバスに乗らなければならない。最終バスはもう出ているし、絶望的としか言いようがなかった。
「どうしましょう……」
――三度目の溜息が漏れた時だった。
それはまだ彼方のほうからではあったが、バシャバシャと水溜まりを駆ける音が聞こえてきた。
私は跳ねるように立ち上がると、辺りを見回した。――人がいるのかもしれない。
「あっ……!」
その人はすぐに見つかった。ビニール傘を差し走るその人影は、真っ直ぐにバス停に向かって来ている。
こちらへ向かって来ていたのは、女性だった。少し年上に見えるから大学生くらいだろうか。彼女は息を切らせながら停留所に飛び込むと、傘を閉じ濡れた前髪を掻き分けた。
「ああ、間に合って良かった! あなた、まだここにいたんだね!」
◇◆◇
「助かりました、宮下さん。もうこうなったら一晩だけでも泊めてもらえる場所を探そうと、歩いて民家を探しに行くところでしたから」
「あはは。その前に夜子ちゃんに声をかけられてよかった! あそこは家なんて一軒も無いよ。頑張って歩けば、ちょっとしたお店みたいなものはあるけど……。時間的にもう閉めちゃってるし」
雨の中途方に暮れる私に声をかけてくれた女性は、≪宮下菜摘≫と名乗った。普段は町で暮らしている大学生なのだという。
今日は空き家になっている母親の実家の手入れの為に、たまたまここを訪れていたらしい。
彼女は空き家の簡単な掃除を済ませたあと、さて帰ろうかと家を出たら大雨に見舞われてしまったという。すぐに止むだろうと雨が去るのを待っていたのだが、そうしたらうっかり最終バスを逃したそうだ。
彼女はしかたなく、空き家に一泊することにした。そこでその時点ではまだ開いていた商店に食糧を買いに行ったらしいのだが……。その際、停留所にぽつんと座っている私を見かけたらしい。
「バスはもう来ないしこの雨でしょ? あの子何してるのかなぁってずっと気になってたんだ」
「迎えがここに来るはずになっていたんです。ただ待ってはいたんですけど、誰もやってこないものですから……」
「迎えって集落の人なんだっけ? あそこに行くのには橋を渡らなきゃいけないんだけど、雨で川が増水しちゃって渡れなくなってたから、行けなくなっちゃったのかもね」
「ああ……、そういうことですか」
だとしたら一本連絡をくれてもいいのに……と思わないでもないが。それにもしかしたら連絡はくれていたが、電波が入りづらい場所な為、私に届いてはいなかったという可能性もある。私だって、兄さんに連絡しようと何回も電話をかけたが繋がらなかった。
この家に来る前に停留所で通信アプリを使い、宮下さんの家で一泊お世話になることだけは一応報告しておいたが……。既読はつかないし、何より宮下さんの家ではスマートフォンは圏外を表示している。明日ここを出るまでは再び連絡をすることも、向こうからの連絡を期待することも叶わない。
生まれも育ちも東京で、今までなんとも思ったことはなかったが……。電波が無いというのがこんなにも不便だとは。
さらにこの状況は少し……。いや、実はかなり問題があるのではと思っている。
宮下さんの家にお世話になるべく登ってきたこの山――。もしかしなくても依頼人が“黒い影”を見たという山ではないだろうか。
私から言わせると、この辺りはどこもかしこも山しかないのだが、恐らく。
これはただの直感で、しっかりとした確証があるわけではない。けれど私の先生は≪探偵の勘≫を大事にすべきといつも仰っている。
厳密には私は探偵ではない。
だが一応資格も持っているし、経験もそれなりにある。それに裏打ちされた勘なのだ。頼れる人が誰ひとりいないこの状況で、信ずるに値するものだと思う。
――そう、頼れる人は誰ひとりいない。私を助けてくれた宮下さんだって。
寒いだろうとわざわざ薪でお風呂を沸かし、食料を分けてくれた宮下さんのことを、いい人だとは思っている。
ありがたいことだ。夏の夜、初めて訪れた場所でひとりぼっち……、なんていう恐ろしいことはおかげさまで免れた。
けれど――。
異形の者が住んでいる可能性がある山に現れた人間。いや、人間に見える存在。それを手放しで信じることは……。職業柄できない。
――つまり私は、宮下さんが異形の者ではないかと疑っている。
もちろん、彼女が善意で私を助けてくれたという可能性を捨ててはいない。それに例え異形の者でも、人に害を為す気が無ければ手を取りあうことのできる隣人だ。≪機関≫への登録の有無は確認しなければならないが……。それだけだ。それだけ済めばいい。
胸の内では申し訳なさがくすぶるが、頭のどこかは酷く冷静で。宮下さんの話す内容に矛盾はないか。仕草に不自然なところはないか。今自分はどうすべきなのかを判断しようと観察し、計算を続けている。
――なんだか自分が嫌になる。いつもならそんなこと考えもしないのに。
「あ、そうだ。夜子ちゃん、今夜は二階の一番奥の部屋を使ってね。他の部屋は倉庫になっちゃってて、とてもじゃないけど寝られるような場所じゃないから」
「それはありがたいですが、となると宮下さんはどちらでお休みになられるんです?」
溌剌と笑いながら「私はここで寝るよ」と言う彼女に、また少しモヤモヤしてしまう。好意を心から感謝することができないというのがこんなに気持ちが悪いものだと、初めて知った。
「それでは……。お言葉に甘えさせていただきます」
「うん! どうぞどうぞ!」
「あと申し訳ないんですが、今日はなんだか疲れてしまったので……。さっそくお部屋を使わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「あ、そうだよね……! 気が利かなくてごめん! おやすみ、夜子ちゃん」
宮下さんがせっかく「夜子ちゃんはお客さんなんだから」と良くしてくれるのに。
「はい。おやすみなさい」
私は武器の入ったボストンバッグを抱えると、居間を後にした。
こっそり玄関からローファーを持ち出すのも忘れずに――――。
◇◆◇
宮下さんに使うように言われた部屋は年季が入っていて、少しだけ古い家特有のカビ臭さがあった。けれども綺麗に整えられているおかげで、一晩眠るくらいなら何の問題もなさそうだった。
宮下さんは家の手入れの為にここへ来たと話していた。日中この部屋も掃除していたのだろう。
部屋の隅にはタオルケットが畳んで置かれている。普段は空き家だから、ちゃんとした布団は用意していないと彼女は言っていたが、タオルケットが一枚あるだけでも本当にありがたい。
「さて……。やれることはやっておきますか」
不安を解消し、よりわかりあう為に疑う。これはその為の行動だ。――疑うことは……、悪いだけではないはず。
私はボストンバッグを開けると、武器のさらに奥にしまっていた巾着を取り出した。
巾着に入っているのは円筒型のスイッチ付きケース。ケースの中には岩塩が収められているのだが……。もちろんただの岩塩ではない。これは、研究所の開発した道具の一つなのだから。
「簡易結界なんて、本当に役に立つのかはわかりませんが……」
結界――――。
それは研究所が設立される前から、異形の者への対抗策として使われてきた。
結界は張り方もその効果もさまざまで、臨機応変に使い分けることができればとても頼りになる。だが、結界を使いこなすには一定期間の修行と……。何よりも才能が必要になってくる。
探偵は武器への適正が必要という時点で、ふるいにかけられる職業だ。そこへさらに結界も含む≪術≫を使える人間というのは限られている。
昔はそれなりにいたらしいが……。現代では本当に少ない。そこそこ顔の広い私だって、片手で数えられるほどしか知らない。
そんな特別な修行や才能を要する術を、探偵であれば誰でも簡単に使えるようにしたのが研究所だ。――といっても、術を修行してきた人からすれば、こんなもの“もどき”にすぎないそうだが。
「やらないよりはましでしょう」
研究所製の結界の使い方は至極簡単だ。簡易結界のケースについているスイッチをONにし、そのあと対象を囲むように配置する。それだけで異形の者に反応する結界のできあがりだ。
しかし結界というとご立派だが……。これは異形の者が結界内に入った時に、大きな音と光を発することしかできない。侵入を拒むことはできないし、言うなればただの仰々しい警報機。使い方も簡単だが、できることも簡素だ。
「……止む気配はありませんね」
私は部屋の窓を開けると、ローファーを履いた足を窓枠にかけた。せっかくお風呂をいただいたのに、また雨の降る外に出なければいけないのには気分が下がる。が、さっさと済ませてしまえばそこまで濡れることもないだろう。
「やりますか……!」
装備であるローファーが足に馴染むのを確認すると、私は窓枠を蹴り二階から庭へと飛び降りた。
この靴はこんな雨風のなかでも、私を自由に駆けさせてくれる。おかげで手早く家の周囲に簡易結界を配置することができた。
ぐっと左足に力を込め飛び上がり、二階の屋根に着地する。外の結界作成は終了だ。これで『外部からの侵入』にはすぐ気づくことができるだろう。
あとは『内側からの侵入』――――。これに備えよう。
靴の泥を払い部屋に入ると、私は窓の側に自分の荷物と靴、タオルケットを集め、それを囲うように新たな簡易結界を設置した。
この簡易結界の内側が、今夜の寝床だ。
「……先生の方針で術を学ぶ機会は今までありませんでしたが……。一応勉強しておくべきでしたね。東京に戻ったら火之さんにちょっとお話でも聞いてみましょうか」
ぶつぶつと考えをまとめながら、借り物のジャージを脱ぐ。もうあとは眠るだけだが、いつ何があってもいいように着替えておかなければ。
もちろん寝間着にではなく装備にだ。濡れてしまったものとは別の、予備の制服だ。
「泊まりの必要な依頼でよかった、と言うべきでしょうか……」
この制服はリボンからストッキングに至るまで、すべて私が捜査をスムーズに行えるよう調整された特別製だ。
制服に袖を通している間、私は普通の女子高生ではない。“御守探偵事務所の助手”なのだ。異形の者に立ち向かい、橋渡しをする先生の手助けをする……。それはとても光栄で、いつも気持ちが奮い立つ。言うまでもなく、今だってそうだ。
――不安が無いわけではない。普段は対象のことをあらかた調べてから事に当たっているから、今夜みたく、ただ警戒するしかできない状況は正直ひとりでは心許ない。
それに宮下さんへの申し訳なさもある。疑うことは悪いことではないけれど……。これが単に自分の恐れからの行動ではないとも言い切れないのが悔しい。
「……とりあえず眠りましょう……。明日、兄さんと鈴切と合流して……、それから本格的に対策を考えましょう……」
タオルケットを羽織り、窓に背を預け瞼を閉じる。とてもぐっすりと、とはいかなさそうだったが、一日の疲れがでたのか、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
◇◆◇
ゆらりゆらりと微睡む私を起こしたのは、けたたましい警報音だった。
「……なっ!?」
弾かれたように飛び起きた私の目に一番最初に映ったのは、開いた襖だった。廊下からはドタドタと駆けていく足音も聞こえる。
「……ッ!!」
私の体は“何が起こったのか”を考えるより先に、自然と行動を起こしていた。手早くガントレットを装着し、靴を履く。室内だから、なんて気にしている場合ではない。
足音を追い廊下に飛び出すと、階段下へと消えていく人影が目の端に入った。
――人影が着ているジャージには見覚えがある。だが袖や裾から伸びた手足は、人のものでは絶対にあり得ないどこまでも深い黒色で、時折炎のように揺らめいていた。
私は一瞬、この後ろ姿を追うか考え――――。再び部屋に戻った。ここで追うより、昨晩考えていた通り兄さん達と合流したほうがいい。ひとりでは手に負えない相手だった場合のほうが問題だ。
ぐるりと部屋を見渡す。荒らされた形跡もなく、私が寝る前と特に変わってはいなさそうだ。さっきの影は、部屋の中に入ってすぐ簡易結界に触れたのだろう。
「…………」
私を囲むように置いていた簡易結界――詳しくいうと中の岩塩――は、黒く濁っていた。どこまで信頼できる道具かはわからなかったが、結果的には置いて良かった……。そう思いながらも、これが示す意味に僅かながら悲しみを抱いている自分がいる。
「宮下さん……」
しかし悲しんでばかりもいられない。
依頼者の言う通り、山には異形の者がいた。その異形の者は≪宮下菜摘≫という人物に成り代わっている。つまり、すでに被害者が最低ひとりはいるということだ。
私は簡易結界を回収すると、窓を開け大きく息を吸い込んだ。清々しい空気が胸いっぱいに入ってくる。
夏だというのに、山の朝はこんなにも気持ちがいいものだと初めて知った。もしかすると、何も起こらなければ宮下さんと一緒に、この空気を味わいながら山を下りるはずだったんだろうか――――。
「……っ」
零れ落ちそうになった一言を飲み込む。
そして私は、窓枠を蹴りつけ家を飛び出した。
山を下りたあと、私はすぐさまスマートフォンを確認したのだが……。画面に映った表示に、正直恐ろしくなった。
――三桁の着信件数。通信アプリの通知も同じく。
「うわぁ……」
発信者は時たま鈴切が挟まれているが、ほとんどが兄さんだった。宮下さん宅に一泊すると私が伝えてから連絡がつかなくなってしまったから、かなり心配をかけてしまったのだろう。
「だとしてもちょっと引きますね……、これは」
何を言われるのだろうとドキドキしながら、兄さんに電話をかける。と、ワンコールもしないうちに電話は繋がり、珍しく焦った様子の兄さんの声が向こう側から聞こえてきた。
◇◆◇
「兄さん」
「おう、どうだった」
「私が庭に設置した簡易結界に、対象が触れた形跡はありませんでした。対象はまだ家の中にいると思われます」
「琴浦さん、東京の山本さんに宮下菜摘の身元を調べるよう連絡しますか?」
「いや、時間がもったいない。今すぐ接触しよう」
私と鈴切が頷くと、無精髭を生やし目の下にクマを作った兄さんは、頭に巻いていたタオルを取り首にかけた。髪を整えているつもりなのかガシガシと頭を掻くと「じゃ、予定通りに」と言い残し玄関へ向かって行く。
「宮下さん……」
宮下さんの家を脱出後、私は無事兄さんと合流できた。したこま不用心を叱られたあとに、お互いの情報を交換したのだが……。そこでわかったことがある。
――彼女は嘘をついてはいなかったということだ。
私を迎えに来るはずだった依頼人は、途中雨で増水した川を渡れずに本当に立ち往生していた。そこで依頼についてのやり取りを行っていた兄さんに、そのことを伝えるべく連絡したのだが……。兄さんは別件の依頼人と食事中。依頼人からの連絡も、私のメッセージも確認できたのはとっぷりと日が暮れてからだったという。
あの時宮下さんが声をかけてくれなければ、私は灯りもろくにないところで最悪野宿をする羽目になっていた。宮下さんが何を思って私に声をかけたのかはわからないが、それは確かだ。……確かだからこそ、苦しい。
「夜子ちゃん、琴浦さんがチャイムを押すよ。対象の本性を暴くことができたら」
「動きを見て拘束、ですね」
兄さんは役場の人間を装って宮下さんに声をかけることになっている。あんなよれたスーツを着た役人がいるのかは疑問だが、口の上手い兄さんのこと。なんとかなるだろう。
チャイムの音が家の中で響く。それから少しだけ間を置いたあと、玄関の扉が開いた。
「えっ……!?」
家から出てきたのは、私の知っている宮下さんではなかった。年は二十代前半といったところか。眠たそうな表情の男性だった。
「あれ……!? 対象は女性に成り代わってたんだよね!?」
「そうです! そのはずですが……!」
「もしかして夜子ちゃんが脱出してから新たに被害者が出た……!? それとも本来の住人!?」
「わかりません……。兄さんのほうは……!!」
兄さんも持っている情報とは違う顔が現れ、少なからず困惑はしているだろうが……。そこはプロらしく眉のひとつも動かさずに、淡々と予定通りに接している。
にこやかに何かを話しながら、さっき鈴切が急いで作った書類を取り出した。
「――姿のことは気になりますが、そろそろです……!! 鈴切、準備はいいですか?」
「は、はい……!」
兄さんはシャツの胸ポケットに差したボールペンを手にすると、ペンを男に差し出した。
「うわぁっ!?」
男がペンを受け取った瞬間、手元から閃光が放たれる。
実はボールペンこそが兄さんの武器。その攻撃が通った……。ならば対象は本性を現すはず――!!
「行きますよ、鈴切!!」
「はい!!」
私と鈴切は隠れていた木陰から飛び出すと、一目散に対象のもとへと走った。
走っている間に光は収まり、対象の姿がはっきりと見えるようになる。黒い肌にゆらめく体……、今朝方見たものと同じだ。
やはりこの異形の者は、私がここを抜け出したあと、新たに人を屠ってしまったのか――――。
「兄さん、下がってください!!」
声に反応した兄さんと入れ違いに、私はグンと前に飛び出た。そして対象の腹部めがけガントレットによる一撃を繰り出す。
「……っ!!」
捕えるつもりでいたから本気で当てる気は無かったが……。異形の者は私の攻撃をすいと避けてしまった。戦い慣れているのだろうか。力を抜きすぎると、こちらが痛い目を見る羽目になるかもしれない。
「よ、夜子ちゃん!?」
聞きなれない男の声が私の名前を呼ぶ。こんな声は知らない。私が知っているのは宮下さんの声だ。
「ま、待って! 待って! 夜子ちゃん!!」
「…………」
縁側から家の中に入り込んだ鈴切が、異形の者の背後に控えているのが見える。異形の者は私に気を取られ、鈴切には気づいていなさそうだ。これなら余程のことがない限り、逃げられることはないだろう。
やるなら、今だ――――!!
身をかがめ、狭い廊下を軽く蹴る。困惑した異形の者の懐に上手く入り込むと、私はがばりと両腕を開いた。
「ちょっと痛いですよっ……!」
「えっ!?」
慌てる異形の者の胴に手を回し、強く抱きしめる。
「うっ……、くぅ……!」
絞り込むように力を込めていくと、異形の者はかすかに声を上げた。それからすぐにくたりと力を抜き、私の肩に顔を埋めた。
◇◆◇
「それじゃあ説明してもらおうかね」
突入後、私の攻撃により倒れこんだ異形の者を、鈴切が手早く拘束し居間へと転がした。異形の者を捕らえる為の特別製の縄で縛っているから、簡単には拘束を解くことはできない。若干手荒ではあるが、これも調査の一環だ。苦しいのかもぞもぞと動いているが、少しの間我慢してもらおう。
昨晩はここで宮下さんに夕食をいただいたなぁとぼんやり思いながら、私は尋問を始めた兄さんに目をやった。
「おい、何か言えよ」
異形の者は口を堅く閉ざし、兄さんの話に答える気はないとあからさまに顔をそむける。
そのまま兄さんの言葉をすべて無視する彼と目線を合わせようと、私はしゃがみこんだ。そこでようやく、彼は「夜子ちゃん」とだけ言った。
――弱々しく私の名を呼ぶ声に、やはり聞き覚えはない。
「夜子ちゃん……。ねぇ、違うんだよ……。僕は何も悪いことしてないよ……」
「お前なぁ……、俺が質問してんだけど?」
兄さんの言葉には、完全に聞こえないふうを貫いている。
「おーい」
「…………」
尋問は兄さんに任せるつもりだったが、この調子では埒があかない。
「もう……」
私は何を尋ねるか少しだけ悩み、純粋に疑問に思っていることを尋ねてみた。
「あなたは……。『誰』ですか?」
目の前の異形の者は私の質問に、ハッと目を見開いた。そして思い惑ったように目を逸らすと、かすれた声で答える。
「……み、宮下菜摘……」
「そう、ですか」
――ああ。そうなんだろうとは思っていたけれど。
直接本人がその事実を言葉にしているのを見ると、後悔の波に襲われてしまう。あの時、私が逃げなければ。ひとりでも戦うことを選択していれば。この異形の者がさっきまで姿を奪っていた男性は死なずに済んだかもしれない。
仕事中の私は先生の教え通り、露骨に自分の感情を顔に出しはしない。そのことには自信がある。
けれど少しだけ……。纏う空気が変わってしまったのだろう。異形の者はそれを敏感に感じ取ったようで、慌てて口を開いた。
「あの、あのね……! 多分、夜子ちゃんが思ってるのとは違うから……! お願いだから僕の話を聞いて……!!」
「ええ。もちろん聞きます。だから早く話してください」
「う、うん……」
異形の者はびくびくと怯えながらも、自らについて語り始めた――――。
彼は≪形の無い者≫という存在だという。これは名前ではない。単に事実として自身の外見を持たないことから、自分でそう呼んでいるそうだ。
異形の者は人に化け成り代わるが、それでも本性という自分自身をしっかり持っているものが大多数。彼のように本性ですら不確かな存在は珍しいのだという。今、私達の前で見せている姿も、厳密には彼の本性ではないらしい。
さて、そんな形のない彼もこの人間が多く住まう世界では、何らかの形を――具体的には人の姿を――とらなければ生きていけない。それはつまり、人間を口にしなければならないということだったのだが……。
彼は人を食べたいとも、襲いたいとも思わなかった。むしろ人間達の隣人になりたい。そう思っていた。
それならば成り代わるのが一番手っ取り早いのだが……。彼は“どこかの誰か”になって人の社会に入るのではなく、“自分自身”として人と触れ合いたかった。
「それで僕は……。顔を作ろうって思ったんだ」
もともとが蜃気楼のような存在だったおかげか、彼には特別な能力があった。
それは『人間の情報を組み合わせる』という力。彼は人間の一部を摂取することで得た情報を、好きにカスタマイズできるのだという。気に入った誰かの目と、また別の誰かの鼻、口、眉……。それらをパズルのように組み合わせて、一つの顔を作る。
宮下菜摘も、そうやって生まれた人物だった――――。
「昔は色んな顔を使い分けてたけど……。最近はずっとあの女の顔と、そこの人と会った時の男の顔しか使ってない。夜子ちゃんに声をかけた時は、女の姿の方が安心してくれるかなって思ってそれで……。空き家がここにあるのは知ってたから、雨宿りにちょうどいいと思って急いで使えるようにしたんだ。……僕の家は山頂の神社だけど、ぼろいし汚いし、そこに来てもらうのは申し訳なかったから」
「ふーん……。で、お前なんで夜子に声をかけたんだ? 夜子を食って、お前の言う組み合わせの材料にでもするつもりだったか?」
「……っ!! 馬鹿を言うな!! 僕はただひとりぼっちだった夜子ちゃんが心配だっただけだ!! それに僕は、生きてる人間を食べたことは一度だってないんだ!!」
「――死んだ人間はあるんだな」
「そ、それは……」
彼は申し訳なさげに目を伏せると、彼の住む山に入ってきた自殺者や遭難者の血をほんの少し啜ったり、骨をしゃぶったことがあると、ぽつりと零した。
「でもっ、それも何十年も前の話で……! 今はしてないよ!」
「なるほど……。ではもうひとつ。あなたはこの山に住んで長いのですか?」
「ううん。僕は数年ごとに住む場所を変えてるから……。ここに来てからまだ日は浅いんだ」
「そうですか……。ありがとうございます」
知りたいことは大体わかった。
結論としては、どうやら私が騒ぎすぎただけ……ということだろう。仕事をするうえで異形の者への恐れや慎重さはとても大事だと思うが、これが正反対のほうへ向いてしまったようだ。彼は人に……。私に何かするつもりなど微塵もなかったのだ。
依頼人も朝からどたばたと山に向かった探偵が、「山には最近移住してきた異形の者がいた。しかし人との共存を望む者である為、人間への害はないと思われる」という調査結果を持って帰ったら拍子抜けしてしまいそうだ。
雨が降らず予定通り調査ができていれば、こんな騒ぎにはならなかっただろうが……。今更嘆こうがどうしようもない。
「……はぁ」
自分の未熟さに情けなくなる。穴があったら入りたい気分だ。
「夜子……ちゃん? 僕、何か駄目なこと言った……?」
「いえ、そういうわけではありません。それよりもあなたの今後を決めなければいけませんね。――兄さん」
「わかってる。……お前にはこれから、俺達と一緒に東京に行ってもらう」
「……なんで」
「お前は人間と共存したいんだろ。また今回みたいに探偵に追われたくなければ、機関で登録作業をしないとな。人間のルールを守ってもらわねぇと」
「それが終わったらこの山に戻ってもらっても大丈夫です。登録後は機関のサポートも入りますから、隠れ住む必要もありません。だから、ね」
不機嫌そうな彼を宥めるよう、柔らかい口調で説明する。すると彼は渋々ながらも納得してくれたようで「うん」と返事をくれた。
それにしても……。本性の彼はどうにも子供っぽい。宮下さんの姿をとっていた時はそうでもなかったから、変身している時は外見に内面も引きずられるのかもしれない。
「そういえばお前、さっきから『僕』って言ってるけど男なのか?」
「……僕はどちらでもありどちらでもない。ただ普段男の姿で生活してるから、今も僕って言ってるだけ」
「へぇ……。そんな方もいるんですね。私、あなたみたいな異形の者に会ったのは初めてです」
私の知っている異形の者は、彼みたく姿形を自由自在に変化させられはしなかった。彼のような種は、とても珍しいだろう。
「ま、協会の資料を調べるか機関で聞けば、似たような異形の者はいるかもしれんが……。確かにこいつみたいなのはなかなか見ない。機関の連中、喜ぶだろうな」
「き、機関ってとこで僕に何するつもりだよ!!」
「大丈夫、変なことはしませんよ。心配しないでくださいね」
怯えて体を縮こまらせる彼に言葉をかけながら、彼の体を起こす。寝転がらせた時に乱れてしまった髪を整えてやると、彼は少し安心してくれたのかふっと体の力を抜いた。彼の髪は、人間とは全然違う不思議な手触りだった。
「さて、そろそろ山を降りるか。鈴切、こいつを担いでくれ」
「はい!」
「近づくなデカブツ。夜子ちゃんにやらせてよ」
「……懐かれたもんだなぁ……」
私は「デカブツって……」と言葉を無くしている鈴切を労うと、彼を肩に担ぎあげた。まったくもって懐かれた理由はわからないが、大人しく同行してくれるならこれくらいのことなんでもない。
「下りたら俺は依頼人に顛末を説明しに行くから、夜子と鈴切はそいつと一緒に車で待機な」
「わぁ! また夜子ちゃんとお喋りできるんだね!」
「ええ。そうですね」
――ふと、疑問が答えに繋がる。もしかしたら彼は、誰かと喋ることに飢えていた……のかもしれない。
異形の者が人に追われているということは理解していたようだし、うっかりボロを出さないよう今まであまり人と接しないようにしていたのではないだろうか。
けれど彼には、人と仲良くしたいという思いもあったわけで……。
「……昨晩の続き、お話ししましょう」
推測だけで異形の者の考えを決めつけるのは大変に危険だ。それでも……。異形の者と人間が共存できるということを、私は知っている。
今回の遠出は色々な意味で大変な思いをしたが、隣人との出会いは喜ぶべきだ。
探偵は異形の者を排除し、秩序を守る者であり復讐の代行者だ。けれどそれだけではない。
人の世との橋渡しをする者でもある――――。
「さぁ、何からお話ししましょうか? そうそう、あなたのことも聞かせてくださいね」