@nainieymugen
真夜中の神殿に、足音が響く。
朝の早い神官やシスター達はもとい、あの精勤な勇者も眠りにつき、神殿にはひんやりとした静けさが漂っている。その空間の主たる男は、月明かりの差し込む薄暗い廊下を勝手知ったる様子で歩いていた。
チャリ、と小さな金属音が鳴る。
懐から取り出したのは、神父だけが持つこの神殿のマスターキー。鍵穴に入れて回せば、手ごたえと共に鍵の開く音がする。そっと力を込めて、できるだけ音を立てないように扉を開く。その奥にあるのは、懺悔室だ。
神父が座ったのはいつもとは反対側、罪を告白する者が座る場所だった。膝の上で組んだ手に視線を落とし、神父は物憂げな表情を浮かべる。ややあって、彼は口を開いた。
「私は、罪を犯しました」
***
「神父さん」
従僕の勇者と呼ばれる少年が、神父の顔を覗き込む。
「どうされたんですか?…何か、傷におかしな所でも?」
「…いや、大丈夫だよ。少し考え事をしてしまってね。…これでよし。痛む所はないかい?」
巻き終えた包帯を留めると、従僕は立ち上がりぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
軍師の勇者とのとある訓練以来、従僕が死ぬ回数は少しではあるが減っていた。しかしその代わり、怪我は格段に増えている。自分が死ぬ事で悲しむのは神父だけではないという事は分かったようだが、根本の所がまだ理解できていないのだ。
「…あまり、無理をしないようにね」
「大丈夫です。神父さんのためなら、怪我も気になりません」
そういう問題ではない、と否定するべきなのだろう。魔界へ行く度に彼は傷付き、命を落として帰って来る。それを見る度に、神父は罪悪感に苛まれる。しかし、彼の心を慮る優しい言葉ではもはや届かない事も、神父は知っているのだ。
せめて彼にできる事をと、時間を割いて彼の傷の手当をする。大好きな人に手当をしてもらえて無邪気に喜ぶ彼の様子を見ていると、彼のかつての凶行を忘れそうになるくらいだ。
「そろそろ夕食の準備をする時間ですね。それでは、失礼します」
ぱたぱたと部屋を出ていく従僕を見送り、神父は微かにため息をついた。
***
「私は、もう少し彼の事を理解しようと努力すべきだったのです。
私は拾った彼を、他の孤児たちと同じ様に扱いました。もちろん、神父としてはそれが正しい態度であるのです。誰か一人を特別扱いするわけにはいきません。けれど私は、彼が他の子たちよりも重い物を抱えている事は分かっていました。それならば、彼に少しだけ、他の子よりも多く愛情を注いでも許された事でしょう」
「あるいは彼が勇者になった時、私はすぐさま態度を改めるべきだったのかもしれません。勇者である事を苦痛に感じているようだった彼に、私は一人の人間として、もっと側にいて支えてあげるべきだったのでしょう。しかし私は、私が彼を特別扱いする事で、周囲の人間が余計に彼を勇者として持ち上げてしまうのではないかという可能性の方を恐れてしまいました。それが杞憂だったかどうかは分かりません。しかし、私が取った選択が間違いだったという事は分かります。少なくとも、もし仮に周囲が彼に過度に期待を寄せたとして、私がそれらから彼を守ってあげればよかっただけなのですから」
「私は彼をもっと愛してあげるべきでした。いえ、彼が我が子のように愛しいのは今も昔も変わりません。私はその感情に従うべきだった。神父という職に縛られず、彼に愛を与えるべきだった」
「彼は、本当の愛を知らないまま育ってしまった。だからこそ、彼は自分の抱える闇に気付く事ができなかったのです」
「…そして私も、気付いてあげることができなかった」
握り締めた手と絞り出す声は、微かに震えている。
「私は、彼を救ってあげることができなかった」
「…私にはもう、彼に何かを諭す資格はありません。私に彼は救えない、私はもはや聖人などではない。権力に飲まれ、本当に救うべきを見失ってしまった、ただの人間なんです」
「女神様が彼を勇者に選ばれたのは、女神様のお考えがあっての事でしょう。それならば、きっとその先には彼が救われる道もあるはずです。…私には、彼を救ってあげられる方法が分かりません。彼を助けたい、守りたいと祈るこの気持ちが精一杯なのです」
「…女神様、どうか。あの哀れな迷子の少年をお救いください」
「…どうか、……どうかあの子を…」
祈る言葉は夜闇に消える。
震えを抑えるように、固く握られた手を額に押し当てる。悲しみに歪んだ表情は、まるで腹を割かれた罪人のようだ。
閉じた瞼の裏には、誰の姿が映っているのだろうか。
しばらくの間虚空に向かって無言で祈りを捧げた神父は、そっと席を立つと、来た時と同じように静かに扉を閉め、部屋へ戻って行く。
閉ざされた衝立の向こう、その音を聞いていた者がいた。