@supamaru
風が、大地を吹き抜けていく。
つい最近まで大気は身を切るような冷たさを伴って体をなぶっていたというのに、いつの間にかその棘は消え、
今はまるで子をあやすような穏やかさで、丘の上に立つふたりの体を撫でていた。
――春は、もうすぐそこまで来ているのだ。
時折鼻先を掠める甘い花の香りを感じながら、黒は一歩、歩を進める。
地肌が目立つ荒野は、傾きかけた陽の光を浴びて鮮やかなオレンジに染まっていた。もう少し経てば、光はさらに赤みを増して、まるで燃え盛る炎のような色に大地を染めるだろう。
そう、それはかつてのあの時のように。
ふと、黒は隣に立つ弟の方へ目を向けた。
途端目に映る、風になびく白銀の髪。
背筋をぴんと張って風を全身で受け止めながら、白はただ真っ直ぐに目の前の光景を眺めていた。その先にあるものを、目に焼きつけようとするかのように。
ややあって自分を見ている黒に気付くと、彼はどうしたんだとでも言いたげに、ちらりと視線を投げてきた。
「ゴーグルしなくても、良く見えるかよ」
明るく弾んだ調子で、黒は声を上げる。
「こっからだと結構距離、あるだろ」
自身も前方に目を向けながら言う黒に、白は一瞬いぶかしげに眉をひそめたが、しばらくして
「問題ない」
いつもと変わらない様子で、彼は短くそう言葉を返した。
「このままでも、充分よく見える」
呟いて再び視線を戻す白の横顔に、黒は思わず笑みを浮かべる。彼の、その淡々とした受け答えは前とあまり変わらなかったけれど。言葉の端々や一瞬見せる表情に明らかな変化を見てとって、自然と笑みがこぼれてしまう。
「何を笑っている」
視線を向けなくても気配で察したのか、白が静かに問いただしてきた。「おかしいことでも言ったか」
「や、別に」
こんなに何気ない言葉のキャッチボールさえ、前はそれほど多くは望めなかったことだ。弟の質問をさらりとか
わしながら、そんなことを思う。
「…ただ、よく喋るようになったなーと思ってさ」
まるで独り言のようにこぼすと、白はほんの少し驚きを滲ませた顔を黒の方へ向けた。
「――俺が、か」
「他に誰がいんだよ」
「……。別に、変わらない」
ふいっと顔をそらす白に、どこがだよ、と黒は心の中でつっこみを入れる。
今の表情も、その声色も。全然違うじゃないかと言いかけて、言葉を飲み込んだ。
否定されるだろうと予想してではない。
白は少し照れているのだということに気付いて、黒は口をつぐんだのだった。
機械のように話して、冷たい目をしていた白が感情を取り戻し始めたのは、いつ頃からだったのか。
あまりはっきりと思い出せないのは、きっと毎日があまりにもめまぐるしく過ぎていたからなのだろう。
――眼前に見える故郷から焼け出され、ヴィルヘルムに拾われたあの日から。
「あれから…、ずいぶん経つんだな」
ぽつり、口を開いたのは白だった。
「――9年、か」
白の声を聞きながら、黒は前方に広がる風景に目を移す。
眼下の大地に横たわる黒々とした影。まるでひとつの要塞のような鉄の町は、業火によって焼けただれ、溶け落ちて無惨な姿を晒していた。
黒と白、ふたりの故郷。いまはもう住む者もなく、錆に蝕まれてただ朽ちるのを待つばかりの鋼鉄の墓場…。
「もう、見る影もないな」
応えながら、白がいまそうしているであろうように、黒もかつての故郷を思い出す。
夕焼けは、あの日愛しいものも忌むべきものも、何もかもを等しく焼き尽くした猛火の姿をはっきりと思い出させてくれた。
行く場所もなく、焼け跡であてもなく暮らした日々。降りしきる雨の中、ヴィルヘルムが差し出した手。
「ほんと、時間が経つのは早いもんだ」
故郷が焼け落ちてからの出来事をひとつひとつ記憶の底から拾い上げながら、黒は笑った。自嘲的ではなく、過ぎ去った月日を懐かしむように。
「あの頃はさ、こんな風に笑える日が来るなんて夢にも思わなかったな」
ただの笑い話として済ませられるほど、生きていくために、そして町を崩壊へと導く一因を作った“彼”を追うために弟とがむしゃらに駆け抜けた日々は決して平坦なものではなかった。悪人とはいえ両手では足りないほど人を殺してきたし、逆に死を自覚したことも一度や二度ではない。それなのに、今はこんな風に笑うことが出来る。
いつのまに自分はこんなにも穏やかな心を持てるようになったのだと自問自答した黒は、その途端頭に浮かんできた数人の顔に思わず苦笑した。
それは、組織を抜けて再び帰る場所を失った自分たちを、なんだかんだと言いながら受け入れてくれた友人達の顔だった。今日ここへ行くと告げた時も、まるで母親のように二人の身を案じてくれた新しい家族。早く帰って来いよと送り出してくれた家長の姿に、またひとつ噴き出す。
彼らの存在が自分の中で日増しに大きくなっていたことはわかっていたが、改めて自覚してみると何だか照れくさいものだ。ていうか照れくさいなんて柄じゃねえよと一人ごちながら顔を上げれば、白が凛とした表情のまま、じっと黒を見つめていた。
「…楽しそうだな」
語りかけてくるその声は、どこかやわらかい。
表情は笑ってはいなかったけれど、黒には彼が笑っているように見えた。
「お前も充分楽しそうだぜ」
言い返すと、白は意外そうな顔で黒を見返してきたが反論はしなかった。緩やかに目を細めた白は、そうしてひとこと「――そうかもしれない」と、まるで他人事のように呟く。
「そうかもしれないってなんだよ。お前のことだろ」
昔の癖なのか、白はどこか客観的に自分を見ている節がある。思わずつっこんだ黒だったが、
「…あの頃は、楽しいなんて感情は一生知らずにいるものだと思っていた」
ふとこぼれた白の言葉に、あとに続ける台詞を飲み込んだ。
淡々と呟いた声は何事もなかったかのように静かだったけれど、その奥に隠された苦渋を知っている黒には、それはひどく重いものとして響いたからだった。
「いろんなことがあった。ほんとうに、たくさん」
穏やかに続けながら前を見据える赤い目には、滅びた故郷が映りこんでいた。
すべての発端となった、愛しくも悲しい、物言わぬふるさと。
「ここから、ぜんぶ始まったんだな」
「…そうだな。こっからぜんぶ、だ」
辛いことも嬉しいことも、すべてはここから始まったのだ。
そのことを改めて確認し合いながら、黒と白はしばらくの間、無言で鉄の町を見つめる。
「お前が手を引いてくれなければ、俺はこの町のようになっていたかもしれない」
短い沈黙を破ったのは白の方だった。黒の方を見ることはなく、彼は穏やかにそう切り出す。
町を守る兵器としてこの世に生を受け、生きてきた数年間。そして唐突に奪われた生きる意味。
「町を失った時、俺はここで壊れるのを待つのが兵器として生まれた俺の宿命だと思っていた。でも、お前はそうは思っていなかった。…一緒に生きようと言ってくれなければ、俺はきっとここに留まり続けていたんだと思う。楽しいということがどんなことかも知らずに」
静かに続く独白に、黒は頷いた。「…そうだな」
「ほんとうに、いろんなことがあったよな」
生きる意味を見出すために、それが悪いものだと本能的にわかっていても差し出された手を取って。悪いほうに悪いほうにと転げ落ちていた人生が、いつの間にかこんな風になっていて。
「いろいろありすぎて、なんか細かく思い出せねえけどさ」
とにかく言えることは、少し間を置いて黒は声を上げる。
「生きてきて、良かったってことだ」
黒の声は、清々しいほどに丘の上に響いた。
「――その通りだ」
兄の言葉を聞いて、今度こそ白の顔に笑みが広がった。「生きてきて、よかった」
歌うように反芻した白の姿をヴィルヘルムが見たらなんと言うだろう。いっそ見せつけてやりたいものだ。進んできた道は間違いではなかったのだと、時折見せてくれる白のこの笑顔を見るたびに黒は実感する。新しい家族と出会ってからは特に。
町から丘に向けて吹き抜けてくる風は、わずかに冷たさを増したようだった。それはまるで、ここはもうお前たち
の帰る場所ではないのだと二人に語りかけているかのように。
―――そうだ、それでいい。
風の声を聞きながら、黒は頷く。
今日ここへ来たのは、過去を決別し、故郷に別れを告げるためだったのだから。
そうしてくれた方が、自分達は後ろ髪引かれることなくここを離れられる。
「でもまだ終わりじゃない。オレたちは、まだまだ生きていくんだ。この町とは違ってさ」
わざと大きな声を上げる。白にも、町にもはっきりと聞こえるように。
時を止めてしまった故郷とは違って、黒と白の道はまだまだ続くのだ。それはきっと悪路で、器用ではない二人はまたどこかで道を間違えてしまうかもしれない。けれど、今は正しい道へ導いてくれる人たちがいる。
「お前と――、みんなと一緒に」
言いながら、黒は隣に立つ白の手を握り締めた。燃え盛る炎を前に、泣きながら手を取ったあの日と同じように。
少し荒れた白の手は、わずかに躊躇したあと、そっと黒の手を握り返した。
「…そうだな」
声がいくぶんか小さいのは照れ隠しなのか、それとも微かに揺らぐ瞳のせいなのか。顔を俯ける白に微笑み返しながら、黒はさあ、と空を仰ぎ見る。大地を染めていた夕焼けはもう西の彼方に去り、今度は夜闇が、一日に幕を引こうとするかのように晴天の空を覆い始めていた。
「もうそろそろ行くかよ。あいつらも心配するしさ」
今頃は誰かが夕食の支度をしている頃だろう。早く帰らなければ、六は夕食時に全員が揃わないと酷く怒るのだ。
「六は、説教が長いからな」
「口うるせえんだよな、あいつは」
他愛も無いことを話しながら、故郷に背を向けて歩き始める。追い風を背に受けて、一歩また一歩と。
もうここへ戻ってくることはない。二人の帰るべき場所は死んでしまったこの鉄の町ではなく、暖かく出迎えてくれる人がいるあの家なのだから。
帰りを待ってくれている人がいることを嬉しいと感じたのは、何年ぶりだろう。
当たり前のことなのに、それがどんなに尊くて大切なことなのか。組織最強の暗殺兵器と謳われた自分がそんなことを考えるようになるなんて、ほんとうに人生は何があるかわからないと黒は思う。
でも、幸せだ。隣に白がいて、みんながいて。そう感じることに変わりはない。
弾むような軽い足取りで歩きながら、星が顔を出し始めた夜空の下、どちらともなく呟いた。
「―――生きていこう、二人で。これからは、みんなと一緒に」