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【橙子SS】源泉の在り処Ⅰ

全体公開 3835文字
2014-07-27 22:12:28


 ――あんな女、私は知らない。
 そりゃあ、昔の事を私は覚えていないけれど……
 でも、でも、クローセルは、クローセルは!
 ……クローセルは、『誰』――




 寂れた温泉宿に佇む、黄金の鎧の女を前に、日向野橙子は立ち竦んだ。
 正確には、女の言葉を聞いて、その足を、止めた。全ての言葉を、失った。
(「……今」)
 この女は、何と名乗っただろう。
 『ソロモンの悪魔』で『クロケル』。
 バベルの鎖が働いているとは言え、一般人にもソロモンの悪魔の名は――当然、伝承上の悪魔として、ではあるが――知られている。だから調べた事があった。
 『クローセル』と呼ばれるその悪魔は『クロケル』とも呼ばれていると。
 橙子には、昔の記憶が僅かしか、それも朧気にしかない。
 囚われ、記憶を奪われて。解放されて傍らにいたその男の幻影を、橙子はクローセルと呼んだ。それが男の名だと思った。
 調べたら、それがソロモンの悪魔の名であると知った。だからきっと、ダークネスなのだろうとは思っていた。それでも、ビハインドとして傍に置くこの幻影のモデルになったその悪魔を、何らかの形で自分は愛していると思っていた。友愛か、恋愛か、親愛かは判らないが、それでも。
 だから、自由になった今、もう一度探し出して、会いたい。そう思っていた、のに。
(「あんな女、私は知らない」)
 あの女は『クロケル』で、それは『クローセル』と同じ名で。けれど『クローセル』は此処に居て、その元になった男は、――男は。
 じゃあ、自分が『クローセル』と呼ぶ、この幻影に映し出された男は。
(「『クローセル』は――」)
 誰。誰。一体誰。誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰誰……


(「――『貴方』は『誰』で、『何処に居る』の――!」)


 動けない橙子を庇って、『クローセル』が弾け飛んだ。
 それから先の記憶が、橙子にはない。




……あれ? 貴方は、日向野さんの……
「どした、ポニテが一緒じゃねェのは珍しーな?」
 喫茶店、シンプルシンボル。
 客の応対をしていた朧夜穂風と東堂昶の元を、橙子のビハインドであるクローセルが訪れた。
 顔面全体を覆うように巻かれた包帯の為にその表情の多くを読み取れないが、僅かに覗く口元からは、いつも浮かべている不敵な笑みが今日に限って消えていた。
 しかしクローセルは喋ろうともせず、しかしホワイトボードを見つけて向かおうとするも、途中で止まってしまった。
……あー、喋れねェし筆談も出来ねェのか……不便だなァ」
「うーん、どうしましょう?」
 穂風と昶が思案すると、客――大海理人が徐に、何かを取り出した。
 国語の授業で使ったと思しき、国語辞典。電子型ではない、冊子型の。
……これで単語ないし、音を指して貰えば……良いのでは、ないか?」
「成程……試してみる価値はありますね」
「ってなワケでだ、包帯。これでひとつ頼むぜ」
 クローセルは辞書を受け取ると、単語を次々指し示し、言葉を紡いでゆく。
 紡がれた言葉は穂風がメモを取った。時々、的外れな単語が指されたが、その時は平仮名に直し、必要とあれば再変換すれば、繋がった。そうしてクローセルが語った事実は、三人を凍り付かせた。

 ――橙子が『本物』の『クロケル』と出会った事で、残された記憶と現実の矛盾から精神崩壊を引き起こし、闇堕ちした。
 闇堕ちした橙子は『水の侯爵夫人』を名乗り、ソロモンの悪魔と化している。尤も、本物のクロケルは女性である為、夫人と言うのは従者か何かの暗喩なのであろうが。
 そして、侯爵夫人は橙子が失った『真実』を全て知っている。と言うより、ソロモンの悪魔の兵器――戦闘魔術師として侯爵夫人が表に出ている間、橙子の魂は仮死状態にあった為、というのが、橙子が洗脳時代の記憶を朧気にしか保持していない理由なのだ。つまり洗脳前の記憶が、断片的に残っているだけなのだ。
 そして、橙子は『クローセル』の元になった男を、本物の『クローセル=クロケル』と思い込み、彼を自分の大切な人だったと思い込み、彼を心の拠り所とし、自由を謳歌する傍ら、彼との再会を夢見ていた。
 だが、本物のクロケルとの出会いにより、橙子の信じる『クローセル』の存在が、否定された。それにより、橙子の心が壊れ、その穴埋めに侯爵夫人が表に出て来たのだ。
 侯爵夫人は『人間を憎む』以外の意思を持たない。そして『灼滅者』は人間とは別物、と見做している。
 だから、『橙子の心を元に戻す』事を約束し、それが出来ると認めさせれば、抵抗せず身体を明け渡すだろうと言う。
 だが、無抵抗の侯爵夫人を倒したところで、橙子の心は戻らない。それでは、倒してもそのまま灼滅され、橙子は消えてしまう。
 ならどうすれば良いのか。
 繰り返すが、侯爵夫人は橙子の知らない『真実』を知っている。
 自分のモデルになった男が誰なのか、それを侯爵夫人の口から聞き出し、橙子に伝える事が出来れば、橙子の心は戻るだろうと言う。
 例えその男がこの世にいないとしても――確かに橙子の生きた世界に『居た』事が判れば、きっと救われるだろうから。
 だから、侯爵夫人から聞き出して欲しい。『真実』を。




 穂風、昶、理人の三人は、クローセルを連れて橙子の下宿先を訪れた。
 大家にスペアキーを借りて中に入ると、橙子が寝間着と思しき薄手のワンピース姿でベッドに座っていた。
 髪は解け、眠っていた為か僅かながら乱れ、トパーズ色のその双眸に生気の光はない。
……ッ。オイ、何してンだ、出迎えもナシに……ンなシケた面してっと、ポニテやめてヤンデレって呼ぶぞ、え?」
 軽口を叩く昶だが、その表情は強張っていた。
 その濁った原石と見紛う双眸は、昶達を――何者をも映してはいない。ただ、虚空を見つめ続けているとしか思えないその奥は深く昏い深淵へと続いているのではないかと錯覚させられる。
……あ、あの。日向野さん。クローセルさんにお話聞いて、お邪魔させて頂きました……です」
 こくり、と喉を鳴らしながらも、おずおずと穂風が切り出した。
「橙子さん、『クローセル』さんが誰なのか……知りたがってるって、聞きました。貴女がそれを、知ってる……とも。教えて、欲しいんです。教えて、あげたいんです。だから……
 言葉が、途切れる。二の句が、継げなくなる。
 一切の反応が、侯爵夫人から返ってこないのだ。
 通じているのか、不安になる。心が折れそうになる。
 すると、理人が彼女の隣を抜けて、侯爵夫人の前に跪いた。
……話して欲しい。教えても良い、と思える範囲で良いんだ。橙子を救いたいと、君も思うのなら……頼む」
 諭すように語る理人は、矢張り穂風や昶よりも、数年程度だが、長く生きている男なのだと感じさせた。その言葉には何処か大きなものに見守られているような、安堵感があった。
 侯爵夫人にもそれが伝わったのか、彼女はぽつぽつと、話し始めた。

 ――橙子は、ある若い夫婦の元に生まれました。……若すぎるくらいだった。
 妻も、夫ですらも、当時高校一年生でした。所謂『できちゃった婚』というやつです。
 尤も、年齢制限がありましたから、実際に結婚したのはもう少し先ですが。
 互いの両親には、子供は下ろすから結婚させてくれ、と頼み込み、了承は得たようですが……
 結局、生まれ落ちてすらいないとは言え、命を奪うという行為に耐え切れなかった二人は、子を設けてしまった。それが、橙子です。
 産んだは良いものの、橙子を育て切れなかった二人は、まだ這って歩く事すら出来ない橙子をとある河川敷に置き去りにして、去りました。……自分勝手で、卑劣な事です。
 ……話が、逸れましたね。本題に戻りましょう。
 普通なら野垂れ死ぬところです。しかし、幸か不幸か其処に、ある男が通り掛かった。
 戦前の日本に生まれ、今までを生き抜いてきた男でした。いつ、私達ソロモンの悪魔の狂信者になったのかは、判りません。
 彼に拾われた橙子は、洗脳を受け、『ふたつの目的』の元、育てられました。
 ひとつは『戦闘魔術師』として、武力制裁ならぬ魔力制裁によるソロモンの悪魔の社会支配に貢献する事。
 ふたつは、指揮官級の72の悪魔達の侍従・侍女として仕える『夫人』となる事。
 この目的の為に、赤ん坊から小学校に上る前程度までの71人の少女と1人の少年を、男は日本各地から集めたようです。夫人なのに1人、少年がいるのは、人間社会に伝わる伝承内で72の悪魔の中に1体だけ、女性がいる事になっているからです。
 尤も、男の試みは72の悪魔達の知るところではない、全くの独断で行われていたようですがね。
 ともあれ、子供達は次々に強制的に闇堕ちさせられ、更に記憶と感情を消去され、それを当然と思い込みながら生活していました。
 当然、そんな大人数を男独りで捌けるわけはありません。ですから彼は、日常に飽き、刺激を求めて夜の街を徘徊していた若者達を捕まえて強化一般人にし、子供達の世話を任せていたようです。
 橙子の担当を任された男の名は、『衛藤月彦』と言いました。
 ……既に仮死状態だった橙子は、その名前を知る事はありませんでしたが――



To be continued...


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