@rinatsu
カナは途方に暮れていた。
国境近くなのは間違いないが、何せ明かりが何もない。鬱蒼と茂る木々の隙間から微かに月の光が届くものの、方向を示す手がかりになりはしない。
考え無しに飛び出してきたため、手持ちの食料も適当に厨房からくすねてきたものだった。そのため早々に平らげてしまい、身にまとった衣服も、防寒やら防護やらを全く無視した軽装だった。
しかしだからと言って戻る気にもなれないし、仮に戻ろうと思ったところで帰り道も解らない。ただ闇雲に進んでもどうにもなりはしないのだろうが、迷うより行動をする、を信条にしているこの娘は、足を止めようとしないのだった。
夜も更けて、森の中は静けさに包まれている。ただ娘の枯葉を踏みしめる音のみが響く。
かさり。かさり。
青黒い木々の柱が並ぶ中ひたすら歩を進めていると、僅かに開いた隙間から、赤みがかった光がちらちらと見える。自然のものではない、人工的な光だろう。こんな森の中に。木こりの住む家だろうか。
なんにせよ、助かった。
はやる気持ちを抑えながら、歩き詰めで疲れた足を引きずり、そこへ向かう。
光は揺れながらだんだん大きくなっていく。最初は爪先程度の明かりが、拳大、子供の背丈と近づくにつれ温かさを増しながら広がっていく。
いよいよ木々を抜け、開けた場所に出てみると、光はランプのような明かりが発していたわけではなく、目の前にそびえる屋敷自体が発光していたのだと知る。
「……何コレ」
屋敷は、こんな山奥にあるにはあまりにも異形だった。いや、街中にあっても異彩を放っていただろう。
屋根も、壁も、窓も、建物を構築する全てが食べ物。お菓子の類いに見えるのだ。当然色合いもカラフルで、住むとするなら相当なセンスの持ち主だろう。不自然に発光しているだけでも変わっているのに、形までこれでは。
「……流石に私でもコレはないわー」
思わず口をついて言葉が出る。こんな家に住んでいるのだから相当な変わり者に違いない。
しかし背に腹は代えられない。このまま森から出られず彷徨うよりは、一晩だけでも泊めてもらい方向なり何なりを決めなければ。
覚悟を決めて戸口を叩く。
コンコン。
音が立つと共に香ばしい香りが広がった。成る程この屋敷の持ち主の凝り様は物凄い。まるで本物の焼き菓子のようだ。香りを堪能しながら返事を待てど、答えはない。
もう一度。
コンコン。
返事の代わりに腹が鳴る。そう言えば、昼から何も食べていない。
……妙によくできているこの建物のせいで腹が減っていることを思い出してしまったではないか。カナは無性に腹が立った。
今度は荒々しく戸を叩く。
ガンガン。
すると、先ほどまでの手応えとは打って変わって戸はあっけなくぱきりと折れ、手の中に破片が落ちた。破片からは変わらず美味しそうな香りがする。焼きたてのビスケットの香り。
ひらひらと裏返しても横から見ても、どう見てもビスケットにしか見えない。ここまで精細に似せるなんてどういうことなんだろう。……ここまで作り込んであると言うことは、もしや味までビスケットではないのだろうか?
いやでも、あくまでこれは戸であって、食べ物であるはずがない。第一、食べ物ならばこんな使い方をしたらカビたり腐ったりしけったりするものだろう。なのに、どうみても、ビスケットの欠片にしか見えない。
くるる、とまた腹が鳴る。
腹が空きすぎて戸を食べるなんて人としてどうなんだろう。そう思いつつも、もう頭が回らない。もしこの戸が本物のビスケットなら、この半分、いや四分の一でも貰えたら腹一杯になるだろう。普通の戸なら口に入れた時点で吐き出せばいい。
恐る恐る、口に運んでみる。
さくり、と軽い音を立てて、ほろほろと口の中で解けていく。噛めば噛むほどに甘さと小麦の香りが広がる。
美味しい。……美味しすぎる。
この扉は、まごう事なきビスケット。それも、焼きたてホヤホヤにしか思えない。
言葉が出ない。その代わり、どんどん手が出る。空腹の身体にはあまりにも魅力的だ。
半壊した扉は、力を軽く掛けるとぱきりと軽快な音を立てる。どんどん、腹に収まっていく。どうしよう、美味しい。手が止まらない。
ここの持ち主さんごめんなさい。
こんなにおいしく作れるかは解んないけど、後で絶対直しますから!
心の中で何度も謝りながらサクサクもぐもぐと咀嚼する。
「……何してるんですか?」
食べるのに夢中になっていて、背後に人が立っていることに気付かなかった。
急に声を掛けられてぎくりと背が震える。目前にあったはずの戸は、ほとんどもうカナの腹の中だ。
「…………」
なんと答えたらよいものか。
こんな森の中、こんな夜更け。ここにいるのはこの屋敷の持ち主以外に居ないだろう。不在のうちに見知らぬ人間が玄関先で戸を食べていたらどう考えたって不審者だ。あなたの家の戸があんまりにも美味しいから思わず食べてしまいました、と言うのはどうなのか……
何とも言いあぐねて、振り返るのも怖い。
「もう一度尋ねます。……僕の家の前で、何をしているんですか?」
落ち着いた、男性の声。
責める風でも無く、ただ淡々と話しかけている。
「ご……ごめんなさい!」
勢いに任せて回れ右と共に頭を下げる。怖くて顔を上げられない。
怒るのも当然なのだ。
何の落ち度もないのに、不当に住居を破壊されたのだから。腹が空き過ぎて思わず食べてしまった、なんて理由が通るはずがない。
「謝るような事をしたんですか?」
先ほどの声が、荒げる様子もなく、また問いかける。
あれ……? 怒ってないの?
頭を深々と下げたから無残な状態になっている戸口は見えるはずだ。それなのに、声のトーンは変わらない。
恐る恐る、頭を上げてみる。
目深に外套を被った黒髪の男が立っている。声の落ち着き具合からずっと年上の大人かと思ったが、見た雰囲気はカナと同年代くらいか。
呆れた、とでも言うように、カナと目があった途端、男は溜息を吐いて頭を振った。
「理由を聞いているんですが、聞こえていませんか?」
「……あ……えっと……」
一瞬見惚れて言葉が出なかったが、再度頭を下げて、言葉を選ぶ。目の間の男は、こうなった経緯を訊いている。事実を羅列しない限り、納得はしないのだろう。
「……道に迷ってたらここを見つけて、一晩泊めてもらおうと思って戸を叩いてたら戸が割れちゃって……あんまりにもお腹空いてたから、美味しそうな香りがしたから……つい」
食べたと言いづらく、語尾が消える。お菓子で出来ているとはいえ、他人の家の扉なのだ。どこの世界に扉を食べる人間がいるのか。恥ずかしくて消え入りたい。
しかし男は、事実を事実として確認したいらしく、無慈悲にも訊きかえす。
「……食べたんですね?」
食べた。
食べた。
そう、私は戸を食べた。
「……うん」
改めて言葉にされると本当に情けない。
俯いたままもう顔を上げられないカナを尻目に、男はふむ、と吐息を漏らす。
現物が無いのであれば、補修のしようがない。現物がありさえすれば、手間はかかるものの直しは出来たのに。さてどうするか。
怒る風でもなく、ただ戸口を見て腕を組んでいる男。カナは不思議に思ってそっとまた、視線を上げてみた。頭を下げてるこちらなんて御構い無しに、思考に耽る姿。……この人にとっては、事を起こした犯人を糾弾するより、事象の方が重要なのだ。ならば、償いをした方が謝罪の気持ちは伝わるのだろう。
「……作ればいいんだよね? こう見えて私料理得意だから!!」
上擦りながらも、胸を叩いて主張する。人の家を壊して置いて、ごめんなさいだけで済むとは思わない。償えるとすれば、同等のものを用意するのみだ。……味や見た目は全く同じとはいかないだろうけれど。
男は驚いた顔で振り返り、再度、伏し目がちに首を振った。
「この大きさのものをあなた一人で作れますか? 道具は? 窯は? 材料は? ……そもそもコレ、魔法を使わないと作れないですし。あなたは魔法を使えませんよね?」
魔法。そう言われて成る程と思う。
日常的に使う物なのに出来たてのまま保たれていたのは魔法が掛かっていたから。あの程度の強度なのに、最初に叩いたときの手ごたえはまるで普通の戸のようだったのは魔法が掛かっていたから。魔法が掛かっていなければ、仮に上手く形を作ったとしたって同じようには使えない。ただの大きなビスケットだ。もしかしたら、材料すらも魔法的な物かもしれない。
途端に青ざめるカナに、男はぽん、と肩を叩いた。
「……まぁ、過ぎてしまった事は仕方が無いです」
外套から覗く瞳は優しい。カナの胸は申し訳なさで一杯になる。自分にはどうにかできるものではなかった。自分では取り返しがつかない。ならば謝ることしか出来ない。ぼろぼろと、涙が溢れてくる。
「あ、……あの、本当にごめんなさい……」
ひたすら謝るその頭を、男は微笑みながら撫でる。年も同じくらいの男に、悪戯をして怒られた子どものようにあやされるのはどうにも居心地が悪かったけれど、同時に何故かほっとした。ずっとこのまま撫でて貰いたいくらいに。彷徨い続けて寂しかったのもあるんだろうか。謝罪の最中にそういった気持ちも頭をよぎった。
「そうですね……仕事関係は無理でしょうから家事の手伝いををお願いしましょうか。今日からですか? 明日からにしますか?」
カナが泣き止み。涙が落ち着いた所で、男はにこにこ笑いながら顔を覗き込んだ。
突然そう言われ、泣いて思考停止していた頭が更に固まる。
「……は?」
家事の手伝い。今日? 明日??
「……まさか他人の家を食べておいて、謝ったらそのまま許されると思ってませんよね?」
首を傾げながら向けられる笑顔が怖い。
確かにそうなのだ。自分では直せない。だからこそ他の事で補填しなければいけないのだ。
生憎と、着の身着のままで来たから金もない。いや持っていたとしてそれで賄える気もしない。
「お腹が空いてても許される事じゃないですよね? これから直るまで扉のない家で北風に凍えながら生活しなくてはいけないんですよ? どうしてくれるんですか」
畳み掛けるように言われぐうの音も出ない。
そうなのだ。
絶対的に悪いのは、私なのだ。
え、でも、どうしようも……ないのかな?
思考が纏まらずぐるぐると頭の中で渦を巻いているカナの両肩を男はがっしり掴んだ。逃さないとでも言うように、しっかりと。
「働かざるもの食うべからず、とも言いますし。これからの宿代も含めて、肉体労働で返して下さい」
笑顔は幼く見えて可愛らしいのに、壮絶なくらい、怖く見えた。
……これは、逃げられない。
カナは本能でそう悟った。
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「私の名前はソウ・トーマ。因果律の研究をしています」
遅い夕食を食べながら、改めて男はそう名乗った。簡素なスープと小さなパン一つだけではあったけれど、先ほど扉を平らげてしまったカナには充分な量だった。
「トーマさん」
今聞いた名前を反芻する。これから暫くは呼ぶことになるだろう相手の名前だ。
「私は、カナと言います。ちょっと訳ありで森の中を彷徨ってました」
嘘はついていない。ただ諸々のことを「訳あり」で済ませただけだ。
男はそうですかと興味なさげに呟き、スープを啜った。詮索する気は無いようだ。ほっとしたような残念なような何とも言えない気分で皿の中を見つめる。
取り敢えずは食事をと出してもらった作り置きの食事は、よく言えば素朴、悪く言えば味気ない。
極彩色の建物は入ってみると内装も派手ではあったが、調度品は食事同様質素なものだった。
話した感じや雰囲気から考えるに、男の好みは調度品の方だろうなぁ、とほんのり思う。理路整然と話す様から、食べ物で建物を作りそこに住むなんてナンセンスな事を思いつく人物だとは考えにくい。
「この建物は妹から譲り受けたものです。餞別にと」
考えていた事が顔に出ていたのか。はたまたキョロキョロと見回していたからか。
表情も変えずにトーマがそう言うと、カナはまた顔が青ざめる。
「そんな大事な物を……ごめんなさい!」
カナが血相を変えて身を乗り出すようにするのを手を上げて制すると、トーマはくすりと笑った。先ほども思ったがずっと幼く見える、ともすれば少女のようにも見える笑み。
「『困った時には非常食にもなる優れもの』と本人も言ってましたし、僕は自分で実証する気は無かったので、妹的には美味しく食べて貰えて本望だと思いますよ」
カナを安心させるために言ったのだろう。さらっと話す様子に嘘は無いように見えた。
しかし思い出の品であることは変わりないだろう。作り直したら、それはもう妹の贈ったものではない。別の物だ。
また暗い表情をし始めたカナに、トーマはそれはそれ、弁償はしてもらいますけどね、とわざとおどける様にして言う。
「餞別と言っても会えないわけでもないですし。カナさんが思うような深刻な物ではないですよ」
「……本当に?」
「本当です」
そう言われ、少し心が軽くなる。
戸を直せれば、何とかなるのか。
「深刻なのは、取り敢えず、今晩をどう過ごすかですね」
人が動き、食事の準備をし、食べている今は室内は暖かい。けれど火を落とし、寝静まったらどうなることやら。凍えることは無いだろうが、風邪をひくぐらいは覚悟をしなければいけない。しかし、野宿をすることを考えたらずっとマシだった。
「まぁ応急処置はしておきますし部屋もちゃんと用意しますけど、寒くても文句を言わないで下さいね」
食事を終えて一息ついた後、トーマはふぅ、と溜息をつき、開いたままであった戸のあった場所に布を当てて魔法を掛け始めた。
呪文を紡ぐ手つきや唄声が光を生み出しながら室内を煌々と照らす。
おかしなもので、トーマは魔法使いだと名乗り、それを分かっていた筈なのに、たった今魔法を使っている姿を見て本当に魔法使いなんだな、と心底理解する。
不思議な力を駆使する姿は、見惚れて言葉を失うくらいに美しかった。ただの人では到底真似のできない力。まるで神のようだった。
魔法のかかった布は、床にはらりと落ちるでもなく、壁とそのまま一体化する。自分は壁紙だとでも言うように、そのままぴたりと張り付いたままだ。
「隙間風は若干入りますが、部屋に入ってしまえは多少は平気でしょう」
言いながら、トーマはちょいちょいと右を指す。
「寝室は突き当たりです。いつも僕は書斎でそのまま寝てしまうのでここに住んでからというもの一度も使ったことはありませんが。お貸ししますのでカナさんが使ってください」
「え……いいの?」
持ち主を差し置いて寝室で寝るなんて。さすがにそれはと思いながらカナは聞き返すも、
「労働力ですから」
と笑顔で流され、そうですか、としか返せない。
そんなにこき使うつもりなのかな、なんだかなぁと頭を掻くと、トーマは可笑しいのか声を上げて笑った。神秘的な力を使う少年なのに、笑う姿は自分と変わらない。不思議なもんだな、としみじみ思う。
「明日から宜しくお願いします」
後ろ姿に声を掛けられ振り返る。
律儀にも、屋敷の主人は明日から使用人になる小娘に頭を下げる。
いやいやこちらこそ、と答えようとしたけれど、それもなんだか違う気がして。代わりにこの時間帯に最も当てはまる一言を添え、返事として返すことにした。
「おやすみなさいトーマさん。……明日から宜しく」
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ひと月も経てば、自然と同じ時間に目が覚め身体が動くし、またそれをカナは不快だとは思わなかった。家出をする前までとは明らかに環境も何もかもが違うのに、しかも弁償という代価のための住み込みの仕事なのに、明らかに精神的に解放感のある今の生活の方が彼女には合っているようだった。
一日の始まりはいつも同じ仕事から始まる。
誰もいない居間に空気を通しつつ、ちらりと書斎を覗くが主は今日も既にいない。
どちらかというと夜型らしい筈のトーマは、大抵カナより先に起き、自分の用事のために外出をしている。ともすれば寝てないんじゃないかと思うけれど、魔法使いの時間の概念は違いますから、とにべもなく言われ、以来カナは気にせずに言われた仕事をこなしながら生活している。
……どうせ今日も朝食までには帰ってくるのだ。
ため息を吐きながら、竃に火を入れ、下の沢まで降りて水を汲もうと準備する。
扉の外はまだ薄暗く、朝靄のかかる森はしんとしている。ただ木の葉が擦れる音と沢から聞こえる水音。
いい香りのする水桶を両手に下げ、手慣れた様子で下まで降りると、両方の桶に八分目くらいまで水を入れる。
水なら魔法でどうとでもとトーマは言っていたけれど、こういうものはやっぱり自分でやらないと、とカナは思う。
美味しいものを食べたいんなら心を込めないと。手間をかけないと。水一つ取ったって、「魔法で水瓶に溜めたもの」より「綺麗な清流までわざわざ下りて手に入れた汲みたての冷たい水」の方が有り難みが増すだろう。
そう言って食事を出して、一口食べたその表情をカナは忘れることが出来ない。
あの顔を見られるのであれば、毎日、何回でも水を汲みに行きたい、と思った。
基本的に、ここの生活は自給自足という程でもなかった。
研究以外は価値がない、という考えのトーマが生活を破綻させない位に利便がなされていた。
勝手口の戸を一つ叩くと城下町へ飛び、二つ叩くと研究に必要な書物が並ぶ書庫、三つ叩いて行き先を言えばその通りに。そんな魔法がかかった扉を使えば、半日以上掛かった城から此処までの道のりもあっという間だった。
カナさんが使いたいときにご自由に、と使用する権利まで渡されてカナは感心するやら驚くやらで目を白黒とさせていた。
玉子もソーセージも野菜も、必要なものは外出時に大体トーマが買って帰ってくる。細々としたものが足りないときに件の勝手口を借りて買い物に行くものの、カナの主な仕事は食事の準備と、掃除洗濯等、家事全般だ。
「こんな簡単に城下に戻れる方法を教えちゃって、逃げちゃったらどうすんのさ」
食事の際に、カナはぽろりと本音を溢した。魔法の勝手口は一日掛けて道に迷いながら歩いた道のりを越えてしまう。城下でなくても好きなところを告げれば運んで貰える訳だから、負債を苦に逃げだそうと思えばカナはいつでも逃げ出せる手段を得たことになる。
「カナさんのいるところに、と指定すれば目の前に行くことは可能ですし、第一、僕はあなたの素性は知ってますから、もし何かあればお父上に請求を回すだけです」
なんてことのない風に、トーマは言った。
カナはかしゃりとスプーンを皿に落とす。
……え? 素性を知っている?
名前と簡単な経緯は確かに話したけれど、話した時全然興味なさそうだったし、素性が判りそうなものは所持していなかった筈なのに。でも確かに、こうやって寝食を共にする相手が得体の知れない人間だったら困るし調べるのも当然か。でもどうやって調べたんだろうやっぱり魔法とかでなんとでも出来るのかな?
ぐるぐると落ちたままのスプーンを見つめながらカナが考えていると、トーマは堪えきれずに吹き出し、肩を震わせて笑い出した。
「有名ですよあなた。知らなかったんですか? ……将軍の一人娘のお転婆姫と」
「何ソレ!! 全然知らないんですけど!」
途端に膨れるカナの頬を見て、トーマはますます込み上げる笑いを抑えきれない。
「ドレスのまま木に登るから鉤裂きを直す専門の侍女が常に側に居るとか、年頃の娘なのに生傷が絶えなくていつも長袖を着ているとか、裁縫やダンスやおよそ令嬢らしいことは一切出来ず、唯一の取り柄が体力とか……」
「もういい、解った。やめて」
全てに心当たりがあるカナは火が出そうな勢いの顔を押さえた。
自分は自分であると思うままに行動していただけなのに、傍から見たらどんな奇行に見えていたんだろうか。そしてそれを、トーマは全て判った上でここに置いていたのか。
「……私がどこの誰だか判ってたのに、どうしてここに置いてくれたの?」
直接カナの家に交渉すれば修復代は現金支給でも取れただろうに。その疑問を受けてトーマはスープ皿から視線を上げ、カナを見つめた。
濃紺の瞳がじっとこちらを見ると、よくわからない居心地の悪さがカナの背を駆け上がる。
「大方、お年頃だからといって手習いを本格的に叩き込もうとお父上に強行され逃げてきたという所だろうなぁ、と思いまして。そんな状況なら家にも戻り辛かろうと」
彼は何も言わないでも、カナの状況を理解していた。……穴があったら入りたい。この恥ずかしい気持ちはなんだろう。そんな些細なことで家出していた事を知られたせいか。それとも知った上で匿ってもらっていたトーマの厚意をカナ自身は気付かず過ごしていたせいか。
「でも、それとこれとは違いますよ、何度も言いますけど」
真っ赤になって俯くカナに、トーマは念押しするように強調してこう言った。
「あなたの食べた扉の弁償。しっかり残りの返済分も働いて返して貰いますから。安心して下さい」
言い終わり、にこりと笑うその笑顔に、カナはどきりと胸が爆ぜた。
いやみとも優しさとも取れるその発言の真意を推し測ることは難しい。このどきどきはプレッシャーによるものなのか、それとも優しさに対して嬉しいと思ったせいなのか。
解らないなら自分の都合の良いように取ってしまえばいい。それだけでこの居心地の悪さから抜け出せる。
そう、私はトーマさんの家の修繕費のために、ここで働かせて貰っている。それ以上でもそれ以下でもない。
良家の令嬢としての私ではなく、あくまで私個人からの返済を望んでいるから、ここに住まわせて貰って自身で賄うことを許されてる。
カナは自分なりに整理をつけてスープと共に飲み込んだ。理由を付けてしまえば自分自身が納得できる。理由の付かない物ほど怖い物は無い。
トーマは一生懸命自分に折り合いをつけている彼女を、優しい眼差しのまま見つめ続けていた。
その眼差しに気付いていたものの、その本当の意味をカナは考えない事に決めた。何故だかそういう気分だった。
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珍しく、日も高いうちにトーマが家に帰ってきた。
調べ事に煮詰まっている様子で表情も険しく、そのまま書斎に閉じ籠もりそうな所を寸ででカナは押さえつけテーブルに座らせた。無理に根を詰めたって結果なんか出やしないんだからと、お茶と簡単に作った焼き菓子をトーマの前に置くと、ようやく観念した彼がふぅ、と溜め息を一つ吐いた。
一緒に住んでいて、カナは解ったことがある。
トーマはちょっとした愚痴も溢さない。全てにおいて落ち着き払っていて自分の弱みを微塵も見せようとはしない。見た目はどう見ても同年齢くらい、もしかしたら自分よりも年下かもしれない容姿。それなのに中身は成熟した男性のそれらしく父のような威厳すら感じさせる。
小娘に隙を見せるが嫌なのだろうか? と変に勘ぐって意地悪くずっと見張ったこともあったけれどそういう事ではなく、ただ単に完璧主義なだけで、自分自身ですべて自己完結してしまうだけだった。
腑に落ちた瞬間。途端にカナは彼に親近感を抱いた。それまでは『魔法使い』というだけて違う生き物のように感じていたのに。
魔法使いだって人間で、悩みくらいあるし、疲れだってする。
その事が解っただけで不思議と自分自身が感じていた彼との間にある壁が無くなった心持ちにさえなっていった。
居候を始めた当初であれば、きっとトーマを無理矢理に留めず顔色を窺いながら、そっと書斎にお茶を運んでいた事だろう。それがこんなに強引に引き留める程になったのは、カナの中で、トーマの存在が確実に近しい物に変わったからだ。
呼び方もいつの間にやら「トーマさん」から「トーマ君」に変わって、前と今とでは温度差が確実に違うと彼女自身気がついていた。
それ程までに、彼女は彼に好意を抱くようになった。
「それにしても、父様も父様よね。普通さぁ、何ヶ月も娘が行方不明なら探さない?」
お茶請けも無くなり、代わりにと話した小話の合間に、急にカナは思い出したように溢した。
「家出してきたんじゃないんですか?」
「……ほとぼりが冷めたら帰るつもりだったのっ」
自分が親に愛されている自覚はあったので、今の現状は実は納得が行っていない。途中で我に返ってもし迎えに来たらどう突っぱねようか、などとちまちま考えていたプランが今のところ全く日の目を見る事が無いのは幸か不幸か。
トーマはそれを解っているからか、にこやかにカナの話を聞いている。彼女自身、好きで家出をした訳ではない。彼女なりのちょっとした反抗心だった。
「花嫁修業だからって、ダンスの練習やらレースの編み方刺繍の入れ方……ホント、バカみたい。今更そんなの習ったって意味がないじゃん? 私は私なんだし。人間向き不向きってものがあるんだし。炊事洗濯が出来ればどこに行ったって生きていけるんだからそういうチャラチャラしたことは得意な子にやらせればいいのよ」
カナは腕っぷしもさることながらここでの家事全般をそつなくこなしている。けれど位の高い令嬢としてはそういったスキルは使いどころがほとんど無い。する側ではなくされる側だ。
身分は申し分無くても、立ち居振る舞いはやはり目に入る。上流社会で生きていくためにはそれ相応の知識や技術が必要になってくる。
「娘が幸せになる為には少しでもいい所に嫁がせなくては、そうお考えだから教養を身につけさせようとしているんではないですか?」
親心ですよ、とトーマが言うと、
「作法やら踊りやら実にならない習い事なんて無駄だよ。それなら、トーマ君がやってる魔法を習う方がずっと有意義だし興味があるよ。なにより実用的じゃん?」
と、カナはにこにこと笑いながらトーマの顔を見た。
トーマは驚いた顔のまま、しばらく固まった。
「……興味があるんですか?」
「そりゃあね」
カナは気にせずに笑顔のまま、再度こっくりと肯く。
実際、興味は湧いていて、何度か書庫の本を漁ったりはしてみたのだ。ただ専門的な事ばかりで何が書いてあるかさっぱり解らず、そっと本棚に戻す、という事を繰り返していた。
もしかしたら、少しでも魔法の知識があればトーマの調べ事を手伝ったり出来るかもしれない。そんな下心が無いと言えば嘘になる。
でも、トーマの見ようとしている先に何があるのか。それを見たい、と思う気持ちは嘘では無かった。
トーマは、暫し思案するように俯いて腕を組んだ。カナの発言に対して何か思うところがあったのか、沈痛な面持ちのまま目を閉じている。
「トーマ、くん?」
カナが話しかけても微動だにしない。
おずおずと肩を叩いても、返事をしない。
何か気分を害することを言ったのだろうか? 魔法を習いたいなんてバカなこと言ったせいだろうか?
時間にして十分頃、ようやくトーマが目を開けた。
開けた先には、心配そうに見つめるカナの姿。
「……ごめんなさい、私……何かヘンな事、言っちゃった?」
「大丈夫です。……ちょっと急に、考え事をしてしまって」
心なしか、その表情は暗い。
「考え事?」
「えぇ、気になったことがあったので」
トーマは冷め切ってしまったカップの残りを一気に飲み込み、席を立つ。
残りの調べ物がありますからと踵を返す背中に言葉を掛けても返事は無く、書斎に入ったまま朝まで彼は出てこなかった。
夕食の時間に声をかけても無言のままだったので、カナは一人寂しく食事を摂り、そっと書斎の扉の前にパンとスープを置いて寝室に戻った。
話をしている最中に考え事をするのはいつものことだし、調べ物に夢中になると食事も忘れて没頭してしまうのは今に始まったことでもない。だから、いつも通り朝食の頃には元に戻っているだろう、と期待をしながらカナはそっと布団の中で目を閉じた。
「カナさん。もういいです」
「何が?」
「もう帰っていいですよ、家に」
「……え?」
朝食の支度をしようと身支度を調えて部屋を出た途端、いつもならもう居ない筈のトーマが肩を叩いて言った。
「返済なら大丈夫です。カナさんが帰らないということでお父上が王様に相談した結果僕に連絡が来まして、……残った分を王室が受け持つ、という事になりました」
王室が、弁償をしてくれる。
あり得ない話ではなかった。父のことを王様は大変重用してくれていて、カナ自身さえ娘のように可愛がってくれている。次期国王であるシンラ王子とも幼なじみで仲の良い関係だ。……でも、こんな急にそういうことが決まるものなんだろうか?
でも本当は急でもなくて、数ヶ月掛けてやっと話がまとまってこちらに来た、というのが真相なのかもしれない。
「あ……、そ、そうなんだ……」
驚きすぎて、カナは相づちしか打てない。
少なくともあと半年くらいはこの生活が続くのかと思っていたからか、どういう表情をしたらいいのかすらも解らない。
「カナさんが心配してた件なのですけど、もうお父上は無理強いはしないと言ってらしたそうですよ。よかったですね」
「え?」
「ありのままのカナさんを受け入れる方を、結婚相手として探すそうです」
家出していた理由を思い出す。……花嫁修業から逃げたくて。そういう相手と結婚する自分が想像できなくて、全てを勝手に決められるのがなんだか嫌で。
弁償ももう終わってしまった。
家出の理由も無くなってしまった。
ここにいるための理由が無くなってしまった。
「もう大丈夫ですね。あなたの居る場所はここじゃないんです。……解ってますよね?」
トーマが静かに呟いた。
居心地が良くて楽しくて、やることは多かったけれど充実していて、カナはここの生活を気に入っていた。トーマも、きっとこの生活に満足していると思っていた。
けれど声色で思い知る。
カナは、ずっと歓迎されていなかった。
トーマの家の修繕費のために、働かせて貰っている。あくまでカナ個人からの返済を望んでいるから、ここに住まわせて貰って自身で賄うことを許されてる。それ以上でもそれ以下でもない。
以前に自分がそう思い込もうと考えた事を思い出す。
あれは本当に。建前とか照れ隠しとかでなく本当に事実であったと。
カナだけが、舞い上がって楽しんでいたんだ、と。
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