@shikanoko_aki
怠さと眠気が全身に命令を下す。指一本足りとて動かしたくないと。しかし、一旦覚醒してしまった意識は、五感が拾ったものを否応なしに感覚器官で受容してしまう。煩いくらいの鳥の囀り。目を閉じていても分かる、陽の光。こちら意向を無視して、世界は強制的に聞多の起床を促した。
朝の気配に根負けした聞多は、ようやく重い瞼を開く。日差しが強く眩しかった。思いの外、陽が高くて、朝ではなく既に時刻は昼頃かもしれないとぼんやり思う。
「……頭痛え」
ズキズキと鈍い痛みが聞多を現実へと強引に呼び戻す。この頭痛の原因が何であるかは明白だった。昨夜、浴びるほど飲んだ酒の爪痕である。
痛みを和らげるべく、こめかみをぐりぐりと指の腹で揉み押しながら、聞多は順を追って昨夜の出来事を思い出す。いつもの如く、杯を酌み交わすのは相棒とも呼べる男。深夜に及ぶまで飲み暮れたのは、確か彼の自宅だったはず。
「よく、自力で帰って来れたもんだ」
しかし、聞多が目覚めて先ず目にしたものは、見慣れた寝室の天井だった。記憶はかなり曖昧であったが、恐らく自らの足で歩いて帰って来たのだと推測された。
もしも、今この場に第三者が居たならば何故と聞多に問うたかもしれない。そして、自分はその答えに窮したことだろう。しこたま酔った深夜。気心の知れた者の宅。どうして、泊まってしまわなかったのか。いつもの聞多ならば、間違いなくそうしただろうに。
「……起きるか」
独り言を呟いてから、いざ布団の中から這い出そうと試みる。気分は最悪、とも言い難かった。痛みと吐き気と後悔の中に、確かな幸福感のようなものを感じていた。
その愚かな感情を、聞多は慌てて己の中から掻き消そうとする。なのに、それを阻害するかのように脳裏を過ぎる男の面。いつもは締らない口元でへらへらとだらしなく笑うくせして、昨夜のあの、やけに格好をつけた男らしい表情。あの時、聞多は確かにあの時ときめいていた。
「―――ッてええ!?」
思い出してにやけた笑みを浮かべたのも束の間、聞多は次の瞬間には悶絶し、再び布団の中へと舞い戻ってしまっていた。激痛と呼ぶほどでもない。聞多の叫びは些か大袈裟だった。
だが、今までに経験したことのない類の痛みだった。まるで半身が己の肉体ではなくなったかのように重く、鈍い痛みを訴える。結果、聞多は上下二つの痛みにより起床を断念せざるを得なくなった。
この鈍痛の原因が何であるかは明白だった。昨夜、無茶な姿勢で男の体重を受け止めた代償である。
「……はあ。やっぱ、現実だよなあ」
まるで夢であって欲しかったかのように、聞多はまた独り言を溢す。実際のところ、気持ちは半々といったところだった。事実として受け止めるには、未だ心も身体も追いつかない。
大きな溜息を吐いた後で、聞多は順を追って昨夜の出来事を思い出す。最初は他愛もない話でゲラゲラと笑い合っていた。その内、話題は真面目な議題へと移行して、国の将来について熱く語り合った。
「ここまでは、いつも通りだった……」
聞多も彼もべろべろに酔っぱらっていたけれど、そんなのは日常茶飯事で、不自然な点など何ひとつなかった。きっかけと呼べるものは、無かったと思う。しいて言うならば、酔った彼が酒を零してしまって、それを聞多が悪態吐きながら片付けようとした。―――その時だった。
どちらが悪いということもなく、互いに均衡を崩して縺れ合う。聞多は床板にしこたま頭を打ち付けて、呻く。衝撃で閉じてしまった瞼を開いた次の瞬間、聞多の視界を占領していたのが今も尚、脳裏に焼き付くあのらしくない表情。
そこから唇が触れ合うまでに、少しの言葉も、一瞬の躊躇いもなかった。
「―――あーーーッ!!」
突如として、聞多はけたたましく叫び声を発した。回想による羞恥の再来に耐えかねたのだ。確かめるべくもなく、熱く火照った両頬を覚ますため、己の両手のひらをそこへそっと押し付ける。これより先の記憶を辿るのは不可能だと判断を下し、聞多は早々に思考を停止させた。これ以上は、現時点でバクバクと異常なほどの心拍数を叩き出している、この心臓がもたない。
まるで現実味のない回想。だけど、不自然な身体の痛みと怠さが否応なしに、それが夢でも空想でもないことを知らしめていた。今更、恥ずかしくて死にたい気持ちに駆られながら、それでも尚、昨夜の出来事を思い出すことを聞多は止められなかった。
「―――ッ!?」
と、布団の中でひとり悶絶していた最中のこと。遠く、誰かの床板を踏み鳴らす音が聞こえた。その落ち着きない足音は、結構な速さで自分の眠る部屋へと近づいてくる。聞多は足音ひとつでそれが誰であるかを即座に判断し、大いに慌てた。
逃げる先も隠れる場所もないと悟った聞多は、悪あがきのように掛け布団を目深に被る。ギュッと両目を閉じ、狸寝入りを始めた直後、けたたましく襖戸が開いた。
「もんたぁッ!!!」
屋敷の外にまで響き渡りそうな叫び声。二日酔いの気配などまるで感じさせない威勢の良い声は、まごうことなく昨夜の酒宴相手。そして、聞多が今、最も会いたくない人物でもあった。
「……うるせえ。頭に響くから静かにしろ。俊輔」
あたかもたった今目覚めたような体を装って、聞多は不機嫌気味な声を発した。寝起きの自分の機嫌の悪さは、彼もよく知るところであった。
「いや、だって!!」
肩で息をしながら俊輔は、逸る気持ちで声を僅かに上擦らせる。走って此処まで来たのだろうか。……自分のために。そう思えば、自然と口元が緩んでしまって、聞多は慌てて気を引き締めた。
「朝起きて、一緒にいたはずのお前が何処にもいなかったらさ、そりゃあ焦るって」
何度か深呼吸を繰り返したのち、俊輔は情けない声音で訴える。自分の無事を確認し、安堵したのか脱力する様はなんとも情けなくもらしい姿。
「……別に。いつ僕が僕の家に帰ろうと自由だろ」
殊更ぶっきらぼうに答えて、聞多はプイと視線を他所に逸らせた。表情はほとんど布団で隠している上、俊輔は人の気持ちに鈍感故に、こちらの嘘に気づくことは恐らくないだろう。
「だってよ、あんなことがあった後だったから……」
その発言の直後、聞多の心臓はやけに大きく鼓動する。彼はどんな顔をしているのか。確認したかったけれど、怖くて視線を元に戻せないでいた。今の聞多の心情を表すならば、不安と期待が半々くらい。
「あ〜……、聞多?……その、昨夜は……さ…………」
しかし、次の瞬間、その割合は大きく変化していた。聞多の心臓はまた、布団の中で大きく跳ねる。だが、今度は嫌な鼓動の仕方だった。胸の奥がざわつく感じは、まるで嫌な予感を察しているよう。
ああ。その通りだった。付き合いの長い聞多には分かってしまう。俊輔の歯切れが悪い物言いは、良い知らせの前触れでは決してないことを。
「……昨夜?ああ。悪い。実は僕、ぜんっぜん記憶が無くってさ」
言い淀んだその先に、待っているセリフが何であるか。それを確認するより先、聞多は努めて明るい口調で大法螺を吹く。不機嫌を装っていたことすら忘れ、場を茶化したのは他でもない。彼の二の句を聞くを恐れたからだ。
「……へ?」
俊輔はそれに素っ頓狂な声をあげて応答する。その間抜け面に軽薄な笑みを返して、聞多は更にすらすらと嘘を重ねる。幸いなことに、嘘と言い訳は俊輔より得意だった。
「いやあ。さすがに飲み過ぎたわ。ぶっちゃけ、どうやって帰って来たのかも覚えてねえんだ」
冗談めかしてははと笑い俊輔の目を見れば、聞多の発言を嘘か真か見定めるような、懐疑的な視線が見下ろしていた。さすが、付き合いの長いだけはある。聞多の完璧な上っ面だけの笑みは、唯一、彼のみには効果が薄かった。
「おかげさまで、立派な二日酔いってわけ。だから、用事がねえならさっさと帰れ。僕はまだ寝たいんだ」
ならば、嘘が苦しくなる前にさっさと追い返してしまえばいいだけ。聞多は大袈裟に頭を抑えながら、また深々と布団を被る。ボロを出す前に顔を隠すため。
相変わらず、心臓がバクバクとやけに早く鼓動して煩い。ときめきとは程遠いその心音がいやに不愉快で、聞多はぎゅっと唇を強く引き結ぶ。
「ちょ、ちょっと待てよ!聞多!?」
俊輔の少し高い声は、誤魔化しを抜きにしても二日酔いの頭に響いた。犬猫にでもするように、聞多は手のひらを雑に振ってそれを追い払う。それきり、ごろん背中を向けて寝転んだまま、決して彼を顧みることはなかった。
その内に、根比べに負けて俊輔の立ち去る気配を感じた。その静かな足音がゆっくりと遠ざかってゆくのを聞きながら、狸寝入りの聞多は何かを堪えるように瞼を固く閉ざすのだった。
「それで、誤魔化しちゃったの?」
あっけらかんとした声が、やたら大袈な調子で訊ねる。その問いかけに聞多は、対照的な重苦しさを呈して頷いたのだった。
「ほんと馬鹿よね。聞多さんって」
歯に絹着せないハッキリとした物言いに、しかし、聞多は腹を立てることはなく。ただ、その正論にぐうと唸って黙りこくってしまうのみ。
言われなくても分かっていた。己がいかに愚かであるかくらい。露骨に不貞腐れ顔をすれば、女はくすりと笑うのだった。
「……うるせえ」
悪態を吐くと同時、聞多はバタリと横向きに倒れる。その頭はすとんと収まり良く和やかな笑みの女の膝上に落ち着いた。
当たり前のように聞多の髪を優しく撫でるこの女。聞多が何度か同衾したことのある人で、名をさえと言った。愛人なんて大そうなものではない。聞多と彼女の関係性をより正しく形容するならば、同志と答えるのが適当だろう。
「ほらほら、拗ねない拗ねない。分かるよ。聞多さんの気持ち」
眉間の皺をぐりぐりと指の腹で揉みほぐしながら、さえは殊更に聞多を甘やかす。彼女はとにかく優しい人だった。しかし、聞多は彼女を愛してなどいないし、さえもまた愛する男は他にいた。
「……怖いよねえ。今の関係を壊すのって」
聞多は無言を貫いて、されるがままでいた。さえの前では、取り繕う必要などなかったから。唯一、彼女だけが聞多の暴かれざる秘密を知っていた。
「本当は、誰よりいちばん愛されたいのに。そうじゃない可能性が恐ろしくて、逃げ出したくなる」
彼女には、何もかも見透かされているのだ。その通り。聞多は怖くて逃げ出したのだ。自分の望む答が返ってこない未来を恐れて。
「嘘つけ。あんたはもっと、肝が据わっている」
甘える子供みたく、さえの太腿に頬擦りをして、聞多は小さく溜息を吐いた。己の浅ましさや愚かさに、つくづく嫌気がさしたように。
「あら。わたしはただ、分不相応な夢は見ないことにしているだけよ」
ふふっと微笑むさえの表情は、だけど、聞多と比べて何倍も幸福そうに見えた。一方、自分は未練たらしくも、つい先日の後悔を繰り返し反芻するばかり。まるで、どちらが女か分からぬ女々しさに我ながら呆れた。
「わたしだって本当は、俊輔さんのいちばんの女になりたいわ」
そう呟いたさえの表情はとても穏やかで、そうはなれない現実に少しの悲嘆も抱いていないように感じられた。彼女は俊輔の掃いて捨てるほどいる遊び相手のひとりに他ならない。
そして、聞多が手をつけた俊輔の女もさえで何人目だっただろうか。彼には遠く及ばないものの、そこそこに遊んでいる聞多はもう覚えていなかった。
「でもさ……」
ただし、二度以上の逢瀬を重ねたのはさえのみだった。だって、聞多が俊輔と同衾した女に手を出す理由はただひとつ。それが俊輔の抱いた女であるからなのだから。
さえもそんな女のひとりに過ぎなかった。ほんのひと晩、俊輔のぬくもりの一欠片でも触れてみたくて手を出した。だけど、彼女は聞多の意図に気づいてしまったのだ。さえを通して見る男の姿こそ、聞多が真に肌を重ねたい相手であることに。
「わたしの元に収まるような俊輔さんなんて、絶対解釈違いだわ!」
「分かる〜!!!」
さえの発言に聞多は深く頷き、何度も首を縦にぶんぶんと振った。そう。そうなのだ。俊輔はひとつ所に留まるような器の男ではない。事、俊輔に関する価値観において、さえと聞多は気が合った。
「あいつは誰のもんにもなったりしないんだ」
己に言い聞かせるみたく、聞多は呟く。だからこそ、余計に求めてしまうのだから、やはり自分は愚かなのだろう。彼と肩を並べて馬鹿をやって、その恵まれた立場だけでは飽き足らず、その全てを欲しているのだから。
あの晩、聞多は確かに幸福を感じ満たされていた。愛する男に初めて情欲を持って触れられ、それが一夜限りの想いでも構わないと本心から思った。あの瞬間は確かに、さえと同じ感情を聞多は抱いていたのだ。
「だから、わたしはいちばんになれなくたっていい。あの人の近くにいられるなら」
二番目だろうが、一度きりの女だろうが、関係ない。さえは俊輔の人生にほんの僅かでも自分が触れていられたら、それで構わないのだと笑う。そういう謙虚な女だった。
「……だけど、聞多さんは違うでしょう」
二番なんて絶対御免だ。後生だから、一度きりなんて言わないで欲しい。俊輔の一生の出来得る限り全てに関わっていたいと聞多は願う。そういう執着深い男だった。
「わたしも聞多さんは特別だと思うわ。俊輔さんにとって」
「それはお友達として、だろう」
同性の良き理解者としてならば、聞多は彼の唯一無二である自負があった。けれど、それではダメなのだ。ダメになってしまったのだ。聞多は自分の想像以上に、己が欲張りであったことを知る。
もしも、聞多が女に生まれていたならば、俊輔は自分を愛してくれただろうか。考えてみるまでもなく、答は否であることは明白の理。それに、今の立場も聞多は失いたくはないのだ。同胞としての信頼も、女としての幸福も両方手に入れたい。本当に聞多は欲張りだった。
「聞いてみればいいじゃないですか。俊輔さんに」
「できるわけねえだろ」
語気荒く喚いた直後、聞多は大きな溜息を吐いた。俊輔のこととなると、途端に自分は情けないほど臆病になる。愛されたい欲望と嫌われたくない不安は、常から同時に存在していた。
だから、あの朝だって咄嗟にあんな嘘を吐いたのだ。肌を重ねた事実そのものをなかったことにする。そうすれば、今まで通りでいられるのだから。
「―――失うくらいなら、ずっとこのままでいい」
不貞腐れ顔で、聞多は正真正銘の本心を吐露する。これは、さえのような謙虚な想いですらない。ただの妥協。本当は抱き締め、口づけ、自分だけを愛して欲しいくせをして、親友のフリをしてヘラヘラ笑う。これは聞多にのみ与えられた特権だからだと、自分を誤魔化して。
「本当に聞多さんって、俊輔さんのことになると乙女よねえ」
「馬鹿にしてんのか?」
女がクスリと笑うや否や、カッと頬を朱に染めて聞多は怒鳴る。一瞬で沸騰したように真っ赤になってしまったのは、聞多の頭に血が昇りやすい性分のせいか。はたまた、照れのせいだろうか。
「あら、可愛らしくてわたしは好きよ」
物怖じしないさえは、大の男でもビビる聞多の怒声をものともしない。彼女の目には、嘘偽りなく聞多が恋する乙女にでも見えているのだろうか。
不思議なもので、さえにそう言われると本当に自分が女のような心地に陥いる。現実の聞多は彼女のように美しくも愛らしくもない、ただ女々しいだけの男なのに。
「……うるせえ」
完全に毒気を抜かれた聞多は言い返す気すら失い、弱々しく悪態を吐き捨てるのみ。情けない面を見られたくなくて、さえの柔らかな太腿に鼻先を押し付ける。彼女は変わらず、その頭をあやすように撫でてくれた。
「―――大丈夫。俊輔さんは、貴方のことをとても大事に想っていらっしゃるわ」
ひどく優しい声に聞多は微睡む。そんなこと、言われずとも知っている。そう思いつつも、第三者から言葉にして貰えると少しだけ不安が和らぐ気がした。
疑いようもなく俊輔は聞多を愛してくれているのに。それは聞多の求めるものに、今少し足りない。抑えきれない欲望と、不安と恐怖の狭間に揺れる。そんな女々しい自分が嫌になるのに、辞められない。恋とはなんと、愚かなものか。夢現の最中で聞多は苦悩する。
愛は真心、恋は下心なんて言うが、愛は他者のため、恋は自分のためを想い生じる感情であると聞多は区別する。
誰かの幸福を願う無償の慈しみが愛である。その隣に自分が存在がしなくとも、愛する者が幸せであれば良いと笑える。さえの抱く感情はまさに愛だ。
その選別に則って言えば、聞多の想いはまさしく恋であるのだろう。自分だって俊輔の幸福は願っている。けれど、その隣に自分がいないのは嫌だ。彼のすぐ傍でその笑顔を見るのは、聞多自身でなければ許せない。この感情は自分の欲望を満たすためのもの。俊輔に自分だけを愛して欲しいと想う、これは浅はかな恋心。
結局、さえの屋敷で二度寝をしてしまい、帰る頃には日が沈みかけていた。自堕落な一日を送ってしまったことへ多少の罪悪感を覚えながら、聞多は気怠げな足取りで帰路についていた。
「―――あ」
見慣れた自宅の屋根が見え、玄関先まで残り十数歩というところ。聞多の歩みがピタリと止まって、その場で動けなくなる。
「なんで……」
自宅前の不自然な影。まるで石像のように頑として動かないその輪郭に、聞多は当然見覚えがあった。猫のような形の帽子が特徴的な彼は、顔を伏せてうずくまっていてもよく目立つ。
何故、俊輔が此処に居るのか。ごく普通に考えれば、自宅前に待ち構えているのだから、聞多を待っていたのだろう。そんな思考を巡らせている内、早々に彼はこちらの存在を知覚する。
「あ〜!聞多、お前!!こんな時間まで、何処行ってたんだよ!?」
すぐさま膨れっ面がこちらを見つめ、けたたましい声が名を呼んだ。聞多は咄嗟に逃げ出したい衝動に駆られたものの、そんなことをすれば俊輔に怪しまれる。そうでなくとも、聞多の足は鉛のように重く動けなかった。胸の内を巡る様々な迷いが、足枷となっていたのだろう。
「……別に、僕が何処に行こうが僕の勝手だろう」
尻尾を振る子犬のように駆け寄った俊輔へ、聞多はぶっきらぼうに応える。邪険に扱われたことに気づいてすらいないのか、俊輔はいつもの変わらぬ距離感で自分に触れた。それが聞多には少し辛かった。
「んだよ、つれねえな。朝からずーっと待ってたのに」
「朝から?約束なんか、何もしていないだろ」
そこまで長時間ずっと待ち続けていたなんて思いもしなくて、聞多は驚きを隠しきれなかった。
「だって、最近いつ来ても留守だからさ……」
それは聞多が居留守を使っていたからだ。あの日以降、俊輔と顔を合わせたくなくて、ずっと留守を装っていたのだ。なかなか聞多と会えないことに痺れを切らせた俊輔は、どうやら今日こそはと出待ちを試みたらしい。
「……用がねえなら帰れ」
「はあ!?ちょ……、なんでだよ!聞多ぁ!?」
肩を抱く俊輔の腕を素気なく払って、聞多はようやく自由の利くようになった足でスタスタと自宅に向かって歩き始めた。いつもより随分と早歩きな聞多を、少し遅れて俊輔が追いかけて来る。強引に隣へ並んで来る彼を、必死で視界の外へと追いやりながら、聞多は玄関へと逃げこんだ。
「ついて来るな!」
「なに怒ってんだよ!?」
早足で床板を踏み鳴らす音を二人分響かせながら、怒声を飛ばし合う。聞多は口では拒絶を示しているくせに、俊輔が家に上がることを許してしまっている。やはり、聞多は本気で彼を邪険にはできないのだ。
「怒ってない!!!」
「怒ってんじゃん!!!」
子供の喧嘩みたいな応酬をしている内に、最奥に位置する部屋まで到達する。奇しくもそこは寝室で、聞多が敷きっぱなしのままにしていた布団がひと組。それが視界に入るや、あの晩の出来事を想起して、聞多は頬を赤くした。
「なあ。僕がなんかしたらな謝るからさあ」
こちらの気も知らないで、俊輔はいつもの調子で聞多に触れた。ただ指先が触れただけなのに、やけに身体が熱くなる。
最初から、分かっていた。今まで通りでなど、どうしたって無理だということに。その顔を見れば、その体温に触れれば、否応なしに意識してしまう。あの夜の幸福を。
「―――離せッ!!人の気も知らないで、お前はほんっとお気楽だよな!!」
「だから、言ってくれなきゃ分かんねえって!」
再び、聞多は俊輔の手を振り払おうと試みる。しかし、今度は未然に腕を掴まれ阻まれてしまった。加えて、反射的に睨みつけた彼の表情が予想に反してやけに真剣で、聞多は思わず怯んでしまった。
「……なあ、僕に隠し事なんかすんなよ。聞多」
ああ。この顔だ。あの夜も俊輔のこの真摯で熱い視線から目が逸らせなくて、気づけば聞多は彼に身を委ねていた。
どうせ、同じ手口で何人もの女を落としてきたことくらい容易に想像できたものを。所詮は聞多もその女共と同じ。俊輔に惹かれて止まない者のひとりとして、拒むことなどできなかった。
「―――覚えてるんだよ。何もかも」
自分の声とは思えぬほどにか細く震えた声が、諦めたように白状をし始める。聞多は俊輔よりずっと嘘は上手い。けれど、やはり自分に嘘は吐けなかった。
「お前に抱かれた時の顔も、声も、体温も、何もかも……!!」
どこをどう触れられ、どんな風に愛されたのか、その細部に至るまで聞多はしっかりと脳裏に焼き付けていた。忘れることなんてできなかった。
「じゃあ、なんであんな嘘を……」
「だって、お前が……!」
聞多は声を荒げる。あの日、慌てた様子で駆けつけた彼の表情を思い出す。もしも、聞多が嘘で誤魔化さず彼の話を聞いていたとしたら。多分、俊輔の口から聞かされたのは謝罪の言葉だっただろう。
「……お前が、申し訳なさそうな面なんかするから」
そんなもの欲しくはなかった。謝って何もかも無かったことにされるくらいなら、自分で忘れたフリをする方がマシだ。そう思っていたのに、何もかも滅茶苦茶だ。
「―――クソッ!悪いかよ!?ああ!!?俺はお前のことが好きだよ!!好きで好きで、どうしようもねえよ!!」
「も、も、聞多さん……!?」
聞多はヤケになっていた。一度開いたお喋りな口は、もう動くことを止められない。突然、人が変わったみたいに素直な感情を曝け出す自分を、俊輔が困惑顔で宥めようとする。だが、もはや聞多を止められる者などいなかった。
「誰にもお前を渡したくねえ!お前がどんだけ女にだらしなくて、誰彼構わず食い散らかしてたとしても……」
「おい待て!?普通に失礼だな!!?」
ド直球な悪口に、俊輔のキレの良いツッコミが飛ぶ。それをも一切、まるで聞こえてすらいないかのように、聞多の弾丸のような告白は続く。
「―――お前のいちばんが良い。俺は俊輔の全部が欲しい」
だのに、最も肝心な部分は女々しく泣きそうな声になった。自分が情けなくて嫌になる。何もかも吐露して、目の前でポカンと大口を開けて放心する俊輔を見て、何もかも終わったと絶望する。
こんな重い男なんて、俊輔は間違いなく好きではない。そもそも、聞多だって重い女はウザくて面倒だとしか思わない。だから嫌だったのだ。本音を曝け出してしまえば、自分なんか嫌な面しか残らないと知っていたから。
「……おい、なんか言えよ。俊輔」
彼からの返答は拒絶か。最悪の場合、別れを告げられることさえ覚悟していた。できることなら、そんなセリフを聞きたくはない。そう思いつつも、長い沈黙に耐えられず、聞多は自分から俊輔へ返事を催促する。
聞多の辛辣気味な声でようやく現実に引き戻されたかのように、俊輔はハッとして間抜け面を引っ込める。少し背の低い彼がこちらを見上げる様は小動物のように愛らしく、この後に及んでも聞多は未練を断ち切れそうにはなかった。
「んだよ、そんなことで悩んでたのか?」
予想に反して、間抜けな面をして、俊輔はへらへらと笑った。こっちは命懸けかと言えるほど、真剣に悩んでいるというのに。彼は悩みなんかひとつも無さそうに思えるくらい、いつだって呑気で。だけど、そんな俊輔が聞多は愛おしくて堪らないのだ。
「―――当たり前だろ。僕にとって、聞多は唯一でいちばんさ」
少し怒ったような、子供みたいにぷくっと頬を膨らませた可愛らしい表情を見せて。そして、どこか照れ臭そうに俊輔は目尻を赤く染めて俊輔は言う。歯の浮くような臭いセリフも、彼の口から吐かれれば嫌味気がない。心底、天性の人たらしだと聞多は思う。
「すけこましの言うことなんか、信用できるかよ!?どうせ、他の女にも同じこと言ってるくせにっ……!!」
「お前、ホント怒るぞ!?……くそっ。めんどくせえ」
ぼそりと付け足されたぼやきが、グサリと聞多の胸に突き刺さった。好きで好きでどうしようもなくとも、信用できるか否かはまた別の問題である。現に俊輔は遊び相手が掃いて捨てるほどいるのだから。
「僕は俊輔の何なんだ!?」
そんな、塵芥みたいな存在のひとつには死んでもなりたくない。縋り付くような想いから、聞多は呆れるほどに無様な質問を投げかけてしまう。なりたくないという気持ちとは裏腹に、聞多はそんな数多の女達のようなセリフを吐いてしまうのを止められなかった。さえの言う通り、自分は俊輔のこととなれば冷静ではなかった。
「……はあ。あのな、聞多は聞多だろ?」
盛大な溜息ののち、俊輔は当たり前のことをあっけらかんと言ってのけた。そうして、聞多が呆気に取られている間に、俊輔は更に言葉を継ぐ。
「何とか聞かれても、上手く説明できないけどさ。僕にとって、聞多の代わりは他にはいないの。……それじゃ、ダメ?」
時折、言い淀むどこか拙い口調。たった今、懸命に考えて捻り出した彼なりの答なのだろうということが分かる。どこか子供っぽい甘え声と、仔犬のような上目遣い。ああ。本当にズルい。そんなの聞多は頷く他にないではないか。
「―――好きだよ、聞多」
顔に似合わない少し低めの声で囁いて、俊輔はぐっとつま先立つ。背伸びをすれば、聞多と目線が同じになって、その唇が当然のようにこちらへと距離を詰めた。
「聞多は……?」
小首を傾げて訊ねる仕草がとてつもなく可愛くて、聞多は悔しさに奥歯をぎゅっと噛み締めた。そんなのもう、言うまでもなく、答はひとつしかないのだから。
「―――僕も、俊輔が好き」
不承不承という顔をして、聞多は素直に彼の質問へ返答をする。その頬は相変わらず、林檎のように真っ赤だった。
答を聞くや、俊輔がにっと歯を見せて満面の笑みを浮かべる。鼻先が触れそうになるくらい至近距離で眺める彼の笑顔は、いつも以上に輝いて見えた。
「……へへっ」
ちゅっと触れるだけの口づけをして、俊輔は照れ臭そうに鼻の頭を掻いて笑った。先日、それ以上のことをしたばかりのくせに、まるで初めてそうするように。
ただそれだけのことが、ひどく幸福に感じられて聞多は頭が真っ白になりそうになる。実際は何も解決していない気がするのに、先ほどまでのあらゆる不安が嘘のように消え失せて、もはや全てがどうだって良い。
「なあ、聞多……」
ああ。やはり自分はどうしようもなく、俊輔の前では愚かで無力だ。こんな口づけひとつで、何もかも許してしまうのだから。だって、仕方がないじゃないか。この世の誰よりも、自分がいちばん彼のことを愛してしまっているのだ。
「―――する?」
「あのなあ、お前……」
しっとりと囁かれた俊輔の言葉に、聞多は一転、眉間の皺を険しくさせた。この流れで、すぐさま身体を求めてくる辺り、やはりこいつはすけこましと称して差し支えない。
「んだよ。じゃあ、聞多はしたくねえの?」
下半身でものを言う男の頬を聞多がぎゅっと指で抓ってみれば、俊輔は大袈裟に痛がって見せた。情けない涙目顔が可笑しくて、聞多も少し笑ってしまう。
「…………する」
散々勿体ぶった挙句に、聞多はまた不承不承の顔で応える。拒むことなど、できるはずもない。だって、聞多は彼に恋をしてしまっているのだから。
欲深い自分には、無償の愛を貫くことなど到底無理だ。自分だって俊輔の幸福は願っている。けれど、その隣に自分がいないのは嫌だ。彼のすぐ傍でその笑顔を見るのは、聞多自身でなければ許せない。
この感情が恋であるならば、恋とはなんと愛おしいものなのだろうか。