@dounudon
※「アルハ…ゼンの視力6.0か0.6の二択であってほしい」といういつかの自分のツイートへのアンサー
「君、また視力が落ちたんじゃないか」
カーヴェの手のうちでテイワットの星空がくらりと揺れた。
正しくは、常連の女性を目的にこの酒場に通い詰めすぎた結果、当の女性には避けられ論文も落としたといういいとこなしの明論派の学生がやけっぱちになって考案した『テイワットの星空をあなたの手に』がテーマの酒だ。自分と同じ轍を踏む人間が現れないように、と徹底した女性受けをモットーに考えられたらしい酒は、深いブルーの流動的な夜空のうちを星を模した加工砂糖が泳ぐようにできている。それだけではなく、この酒場のそれぞれの卓に設置されたランプの光に反応して絶妙に色合いを変える凝り具合で、美とロマンと芸術の理解者を自称するカーヴェも最初のうちは興味津々でグラスを転がしていた。
最初のうちは。
「店長」
アルハイゼンは若干気乗りしないふうに近づいてきた店主には構わずつづける。
「女性におすすめなどと謳って見目と口当たりのひたすらよい度数の高い酒を考えるような男は出入り禁止にしたほうがいい。店の評判にも関わる」
「いや、たかだか一杯半程度でどうこうなるような酒じゃないはずなんだがな……お前の連れが特別酒に弱いってことは?」
「断じてそんなことはない! 酔ってないさ、ただ、睡眠不足なんだ」
グラスをテーブルに押しつけて会話に割り込んできたカーヴェの声は妙に大きい。まばたきの回数も明らかに平生より多く、目が据わりがちなのは本人の言葉どおり睡魔を我慢しているからなのか、それとも酔っているからなのか判別しづらかった。思わず押し黙ったふたりのまえで彼は揚々とつづける。
「そんなことより君の視力だアルハイゼン。絶対にまた悪化しただろう。なんでも睨むようにするから、ほら、そこの店長さえいまここへ寄ってくるとき気が進まないようだった。君の人相に問題がある証拠だな」
得意げに腕を組むカーヴェを見ていると自然と特大のため息がこぼれ出た。アルハイゼンは手を伸ばしてグラスに取り残された星空を飲み干し――「あっ!」という間抜けな声が響いた――席を立った。本意ではないが今夜の同居人の様子を踏まえて会計を自分持ちにしてでもさっさと店を出ようとしたところ、まだうしろでわあわあうるさいので、これまた本意ではなかったが睡眠不足でいつも以上に酒の回った男の手を引いてようやく外へ出た。そうでもしなければ穏便に連れ出せないことはわかっていた。
酒場から距離をとるほど外気の温度は下がり、気分を高揚させるにぎわいの匂いも遠ざかっていった。反対に気を落ち着かせる大樹と花々の香りがつよくなる。頭を冷やすには絶好の条件にもかかわらず、カーヴェの様子は相変わらずおかしかった。時々意味もなく立ち止まったかと思うと生まれてはじめて外に出た人間のようにまんまるな月を見上げようとするので、そのたびアルハイゼンは腕を引いて促さなければならず、そのうち面倒になっていちいち手を放すのもやめた。
「君の故郷は月にでもあるのか? ホームシックならいつでも俺の家を出ていってくれて構わないんだが」
「君は目が悪いからきっとあの月の立派な輪郭もぶれて見えるんだろうな。とはいえいまは僕にもちょっとぶれて見える……睡眠不足が人体に及ぼす悪影響について論文を書いていたのは誰だったか……」
「ここで寝るなよ。寝たら置いていく」
「君は僕をいったいなんだと思っているんだ? つねに今夜の寝床を探してうろついている野良のいきものとでも? なんのために僕が膝を折ってまで君の家に置いてもらっていると――やあ、ミルク!」
急にアルハイゼンのなまぬるい拘束を振り払ったカーヴェは可憐な黄色い花を咲かせる灌木へ向かう。道端で知り合いに会ったときとまったく同じ、にこやかに手を振りながらの動作つき(もちろんアルハイゼン相手には出てこない親愛の仕草だ)で、そんなところに誰がいるのかとあきれていたら、低木の根もとに一匹の猫が休んでいるのだった。白黒の猫だった。
「元気だったかい? すばらしい夜だね。君が香りよい花の足もとで眠りたい気持ちもわかるよ」
外で寝る気はなかったのではないかとアルハイゼンは眉を寄せた。
かがみ込んだカーヴェが無造作に差し出した手のひらを猫は拒絶しなかった。それどころか、からだの下に折り込んでいた前肢をぐんと出してひと伸びしたあと、甘えた声を出してその手にすり寄る親しみさえ見せる。どう見てもひとりと一匹は昵懇の間柄だった。
「ああ、元気そうでなによりだ」
土と草で着飾った猫を彼は躊躇なく抱き上げる。猫も猫でためらいなくその暴挙を許した。外暮らしの猫自ら肩にすがりつく気安さは一朝一夕では築けない。
「……君はシティじゅうの猫と知り合いなのか? やはり君自身が野良のなにかなんじゃないか」
「まさか。君の無知を僕に転嫁しないでくれ。君は知らないだろうが、この子はミルクと言って」
「それはさっき君が呼んでいるのをきいた」
「なら話は最後まできいてくれないか。この子はミルクといって、斜向かいのお宅のちいさな娘さんがいっとう可愛がっている猫なんだ。名前をつけるくらいにね。ミルクを出すいきものに似た柄だからミルクだ。でもここが肝心なところで、彼は『彼』なのさ――ミルクが出せないんだよ!」
カーヴェは世界でいちばん気の利いた冗談を耳にしたように笑ったが、アルハイゼンは全然楽しくなかった。
「どこの斜向かいだって?」
「もちろん、うちの。君は近所付き合いをしないから知らないだろうな」
「俺の知らないところで俺の家の代表面をして外交するな」
「君みたいに人付き合いもしなくてひどく内向きで愛想のひとつもなくてやけに体格もよくて怪しい男がなぜあの場所で受け入れられているか理解してるのか?」
「俺が教令院の人間だからだ」
「彼らがみな善人だからさ!」
カーヴェは白地に黒模様が散らばった猫の額を執拗に嗅いだ。猫がちょっとばかり迷惑そうにしはじめたのをアルハイゼンは見逃さなかった。視力が多少衰えようともそれくらいはわかる。
「僕は自分をひらき彼らと打ち解けることでその無償の善性に応えているんだ。怠惰な君の代わりにね。信頼と調和は相手を知ることからはじまる、そうだろ?」
「俺は君のことを知れば知るほど信頼できなくなる」
「それは君の協調性の欠如が原因だ。僕のせいじゃない。なあミルク……ミルク?」
自由を求める気持ちの高まった猫は特有の身軽さでカーヴェの腕から飛び降りると、先っぽのぽつんと黒い尾をひと振りして灌木の下に消えていく。しばらく土と葉の境界でごそごそと気配がして、そのあとはどこへ行ったのかわからなくなった。
「彼も君の一方的な信頼にはあきれたようだ」
「ちがう、君の視線が尖りすぎてるからだ。つねに外敵を気にして呼吸をしている彼のような種族には君のそれは毒なんだ。思わず逃げ出したくなるくらいに」
「見解の相違だな。君とわかり合える日は来ないだろう。……ところでカーヴェ、君はその自然の恵みをめいっぱい浴びた格好で俺の家に入り込む気か?」
カーヴェの視界がしずかに下がる。毛と土と草と葉。気ままに外をさまよう白黒猫の生活を証明するありとあらゆる要素が彼のもとに残されていた。頬を寄せ吸い愛でていたおかげで長い髪の毛にまで猫の毛が絡まっている。
彼は毛先にまとわりついた黒い毛をわずかに指先で追いやっただけで、あとは淡々と「なにか問題が?」と言った。
問題ばかりだ。
「俺はある日帰宅した自宅が砂だらけになっていてもなにも言わなかった。それは君が外で大変な仕事をしてきたと知っていたからだ。では猫は? 猫は君の仕事か? 生きざまか?」
「なにも言わなかった? くたくたの僕に鞭打って掃除させて気が済んだのまちがいだろ。自分の都合のいいように記憶を改変するのはよせ」
「砂っぽい身に似合いの場所で眠るか、自らと自らの汚した場所を清めてふかふかのベッドで眠るか、与えられた選択肢から後者を選んだのは君自身だ」
「断れない状況をつくったくせに! いいかアルハイゼン、どれだけ上手に隠したつもりでも僕は知っているんだぞ。君が家に猫を入れたってな。君がいつも飲んでいるコーヒーみたいな色の仔猫だ。君の部屋の窓辺で我が物顔でくつろいでいるところを見たってひとがいるんだ」
その猫のことは覚えていた。アルハイゼンは顎をさする。
ある晴れた日の昼下がり、書斎で本を読んでいたら風を取り込むためにひらいていた窓の隙間から猫が忍び込んできたのだ。森林色の硝子を透かして躍る光にじゃれついておとなしく和んでいるようだったので放っておいた。そうしたら、そのうち丸くなって眠っていた。それだけだった。べつにアルハイゼンが好んで招待したわけでも、ことさら歓迎したわけでもない。すこししたらカフェラテ色の母猫が迎えにきてすんなり退散した。その点において、すくなくともこの傍若無人な居候よりはよっぽど行儀よくふるまえる猫だった。
「見たのは例の斜向かいのお宅のちいさな娘さんか?」
「なんで……」
「ずいぶん猫に関心のある子どものようだからな」
「彼女の名誉のために言っておくが、たまたま、立地的に、彼女の部屋から君の部屋の窓際が見えるんだ。そして彼女は君とちがって目がいい。それだけだからな」
「構わない。べつに見られて困るようなことはしていない」
カーヴェは安心したように頷いてから、ふと、あれ、とつぶやいて足を止めた。
「じゃあ、猫そのものと猫にまみれた僕のなにがちがうんだ。なにが問題なんだ?」
「あきれたな。君はほんとうに自分を猫だと思っているのか」
「そんなわけないだろ。でも本質的にはほとんど一緒じゃないか。まず、猫には目がふたつある。僕だってある」
良質な睡眠が足りないところに過剰な酒を摂取したカーヴェは、耳もふたつ、鼻はひとつ、くちもひとつ、と表面的な共通点を大まじめに指折り数えはじめる。とんでもない、途方もなくとんでもない、頭でっかちの子どもも真っ青の屁理屈だ。見かねたアルハイゼンは横から口を挟んだ。
「ひげは」
「たまにはある」
「……猫は四本脚だが、君はかろうじて二足歩行のようだ」
「いや、斜向かいのお宅のちいさな娘さんが『ミルクちゃんのおてては片方だけ黒い手袋をしてるの』と言っていたから前方についているあれは手だ。まさか君だっていたいけな子どもの無邪気な真理まで否定しないだろう」
「尻尾がない」
「ふん、君なんかにはもったいなくて見せたことがないだけで、実はあるかもしれない」
いたいけな子どもの無邪気な真理を否定するほど野暮ではないが、酔っぱらいの御託に耳を貸すほど寛大でもないアルハイゼンは、ああ言えばこう言うモードに入った大人子どもの腰から尾骨にかけてを人一倍大きな手のひらで思いきり撫で下ろした。当然ながら尻尾の気配はない。いかにも人間らしい控えめな曲線を描く臀部を意図的につよく掴んでから放すと、尻尾を踏まれた猫のような声が上がった。
「君は尻尾持ちに対する接し方がなってない!」
「君は尻尾持ちじゃないだろう」
「僕がティナリだったらいまごろ君には風穴があいていたからな」
「君が彼じゃないことを俺は知っている。なにか問題が?」
まだ隣であれこれ言っているカーヴェの背を押して強引に前へ進める。もうすこしで家が見えるほど近くへ来ているというのに、こんな時間にこんな場所でこんな不毛な言い合いをしているのが……そんな男に付き合っているのがあまりにもばかばかしくなってきた。アルハイゼンだって酒を呑めばすこしは気だるくなるし夜はふつうに寝たいのだ。
「尻尾のない人間のカーヴェ、猫まみれの部分については見ないふりをしてあげるからおとなしく家に帰って足りない睡眠を補ってくれ」
するとカーヴェはこれ以上ないほど満足げに笑ってアルハイゼンの肘をとった。
「ほら、やっぱり君また視力が落ちたんだ! まあいいさ、博愛精神にあふれる僕が必ず君を愛すべき我が家へ導くとも。テイワットの星空より正確にね」
俺の家だ、というアルハイゼンの言葉は、浮かれたカーヴェには届かない。
アルハイゼンの脳裏でテイワットの星空がふわりと揺れた。
(20221204)