おおきいねこちゃんのアについて
@dounudon
スメールシティはどこでも、知恵の香るみどりの風が吹いている。
愛くるしく頼りない四肢をせいいっぱい使って風のささやきに応援されながら木登りに励んでいたナヒーダは、空へ近づくにしたがってそこに軽やかな音色が混ざり込むことに気がついた。それはナヒーダを誘うように、導くように、葉ずれと呼応してちりんちりんと涼やかな音を奏でる。稲妻の人々が軒下に鐘鈴を吊り下げて涼をとる理由がわかった気がした。これはたしかに気持ちが爽快になる。
「あら、ずいぶん大きなねこちゃんね」
たくさんの枝葉を乗り越え、長らく幹に寄り添って、ようやくたどりついた太い枝にはアルハイゼンが座っていた。つい最近代理賢者の椅子を降りたばかりの現書記官・おおきいねこちゃん・アルハイゼンは、それが彼にできる最低限の礼儀とでもいわんばかりにのろのろと手もとの本から顔を上げる。おそらくこれがナヒーダでなければ視線ひとつ動かさないのだろう。
「草神様の敬虔な信徒が見たら泡を吹いて倒れそうなおてんばぶりだな」
「日々のちょっとした冒険は頭と心を育むのにとっても役立つのよ」
よいしょとちいさな手足でなんとか登りきり、アルハイゼンの隣に座る。枝ぶりのいい即席のベンチは実に安定感があり、おおきなねこちゃんとナヒーダ程度の重みではびくともしなかった。呼吸がはかどる。空とみどりが近い。光合成がしたくなる天気だ。
「猫は居心地のいい場所を探すのが得意と言うけれど、ほんとうね」
「なにが視えているか知らないが、俺はしがない人間だ」
喉から手が出るほどほしがっている人間があまりに多くいる代理賢者の――ここまで来たらふつうは賢者内定のようなものだ――座をあっさりとくだり、一介の書記官に戻ることを選んだ彼が口にするには、それはあまりに皮肉な言葉だった。そんなふうにまるで野心のない謙虚な人間のふりをしておきながら、先日の国と神への功績を鑑みて書記官に降りても代理賢者の福利厚生は据え置きにという話が出ると、信じられないくらいあっさりと受け入れてみせる。彼はむやみに上を目指す欲も野望も持たないが、現在の生活をできるだけ自分のいいように安定させたいという意思は持っている。そのためにもらえるものはもらう一貫した姿勢はいっそ気分のいいものだった。一見するといわくつきでしかない書記官―代理賢者―書記官の経歴も、彼の人となりを知ると世界の謎が解けたように明瞭なものとなる。すばらしい。ナヒーダはこの年若い知恵者を個人的に気に入っていた(あるいは、気にしていた)。神がそんなふうに個人を対象とするなんて、ほんとうはいけないのだろうけど。
「ねこちゃんじゃないの? かわいらしい鈴をつけて、ねこちゃんらしく降りられなくなったんでしょう。周りに昇らされた代理賢者の地位からは簡単に降りられても、自分で登った高い樹の枝からは降りられないのね」
「それは君のほうじゃないのか」
「私は当然大丈夫よ。すくなくともここにはあなたがいるもの」
アルハイゼンの不敬で率直なため息とのんきな鈴の音が見事な不協和音を奏でた。ナヒーダはちいさく笑う。風のささやきに応えてちりちりと揺れる鈴はほんとうに猫の首輪についていてもおかしくない小ぶりなサイズで、彼の神の目の横、腰を下ろしたナヒーダのまなざしのすぐ間近でその存在を主張する。
「あなたに『仕事は?』なんて訊くのは野暮だとわかっているけど、書記官に降ったことで知識に没頭する時間を捻出することができるようになったのならなによりだわ」
「いまのこれはどちらかといえば避難に近いが」
今日はなにをしていても鈴がうるさい、と心底面倒くさそうに言う彼がおもしろくてナヒーダは心から笑った。いっとう愛される飼い猫のように一挙手一投足で鈴を歌わせる彼の姿は、冷ややかで落ち着いた書記官に慣れた周囲をさぞかしぎょっとさせただろう。できることならその光景をこの目で見てみたかった。
「それにしてもあなたも案外律儀ね。隠れているあいだくらいはずしていても平気でしょう」
「君がこの鈴の持ち主に密告するかもしれない」
「私はそんなことしないわ。もちろん、その鈴の持ち主が誰かは知っているけれど」
「……世の中には、踏み倒していい契約とそうでない約束のふたつがある」
「なら、そうでない約束についてきかせてくれる?」
そうしてナヒーダは彼と鈴の持ち主の話をきいた。昨夜はアルハイゼンの給料日だったのでたかる気満々の同居人に手を引かれて酒場で呑んでいたこと。めずらしく諍いに発展するまえにアルハイゼンが支払いを持つと決まったので、調子にのって自分のペースを忘れた同居人がたった数杯であっけなく酔ってしまったこと。酔ったあとに、アルハイゼンのふだんの行動について――「音もなく動いてやたらにひとを驚かすのはやめろ」――滔々と埒のあかない不満を並べはじめたこと。
――そうだ、僕が勝ったら君は一日鈴つきの刑だ!
突拍子もないそれが賭けの発端だった。
「それで負けたの? あなたが?」
アルハイゼンはちっとも恥ずかしくなさそうに肩をすくめた。
「実のところ、昨夜は俺も酔っていた。負ける可能性のある運頼みの勝負を受ける程度には」
「あらあら……。あなたにそれをつけてあげるカーヴェの顔が浮かぶようだわ」
「たいそう誇らしげだったよ。宝くじに当たったみたいにな。そして彼は宝くじには当たらないだろうから二度とあの顔をする機会はないだろう」
ナヒーダは鈴を見つめる。磨かれた金いろの曲面にちっぽけで無垢な自分が映っていた。月の銀いろではなく星のまたたきの金いろ。ふしぎと隣り合った神の目との調和がとれている。
「首輪にしなかったのは彼のやさしさかしら」
「いや、手近に首輪がなかったからだ。どうやら運もまだそこまで俺を見放してはいなかったらしい」
手を伸ばしてちいさな鈴に触れてみる。わずかに反応した神の目が鈍く光を放ち、煽られた鈴がちりりと細かく音を立てた。
ナヒーダはすぐに手を引いた。
「残念ね。首輪つきのあなたにも興味があったのだけれど」
「仮にそうだったら俺は今朝出勤しなかった」
「それでカーヴェに『つまらない』『堂々と働いてこい』『世にも愛らしい君の勇姿をシティじゅうに見せつけてやれ』ってお小言を並べられるのね。あなたたちってほんとうに、とてもおもしろいわ」
「……君の語る想像上のあいつに真実味がありすぎて俺はいまいやな気分になった」
「ふふ。得意なの、こういうの」
おおきなねこちゃんは、そこで急になにもかもに興味を失ったようにふいと視線を逸らしてふたたび本をひらいた。この感情と仕草の急展開もいかにもねこちゃんで、ナヒーダは全然いやな気分にならない。みどりの風を吸い込み、葉っぱの隙間から光を取り込む。
アルハイゼンは鈴よりも言葉すくなだったが、ナヒーダがつい昨日考案したあやとりの新技を披露するとぽつぽつと反応をしたし、ふたりが腰掛けた枝のさらに上に小鳥が休んで鳴きはじめたときはちらりと視線を移した。あの鳥はこの樹の皮を剥ぐのが趣味なのだとナヒーダが教えると素直にうなずく。
やがて太陽が傾き、風は知恵の香りのほかに郷愁の味わいを宿すようになった。閉じられた文庫本がアルハイゼンのうしろかばんに収められる。
「もう避難は終わり?」
「定時だ。ここからは避難ではなく帰宅のフェーズに入る。小うるさい鈴の持ち主に俺が約束を守ったと示さなければならないからな」
「あなたが律儀に一日中鈴つきでいたことを知ったら、カーヴェはとっても驚くでしょうね」
そのとき、地上までの経路を確認するためにうつむいた彼の口もとにかすかな、ほんのかすかな、ときどき朝方シティにかかる靄くらいかすかな笑みが浮かんだことをナヒーダは見逃さなかった。なぜなら、ナヒーダは神だからだ。彼を、彼らを、スメールに暮らす人々を……もれなく愛しんでいるからだ。
「君は?」
「帰るわ、もちろん。私にも横になって眠る場所くらいあるのよ」
そう言って自分よりもはるかにおおきなねこちゃんへ両手を伸ばす。
夕蜜色の風に触れた鈴がちりんと鳴った。
(20230201)