アの家族捏造要素あり
@dounudon
スワロー、スワロー、小鳥ちゃん
まずはひとくち飲み込んで、かわいい子
アルハイゼンは育てにくい赤ん坊ではなかったが、扱いのむずかしい子どもではあった。全身がふにゃふにゃとして頼りなく、目をあけているよりも閉じている時間のほうが長い猫のような生活をしていたころから、あまり泣かず、とにかくよく寝た。「花がつぼみのあいだうつくしく咲きひらくための力をめいっぱい溜め込んでいるように、ぐんぐん成長しようというつよい意志を感じるわ。この子はきっとおおきくなるわよ」いまは亡き母が、眠るアルハイゼンを見つめながら感じ入ったようにそう言っていたと、いつか祖母にきいたことがある。
夜泣きもぐずりもほとんどなく、かといってすべてに無反応なわけでもなく、母の存在には赤ん坊なりによろこび、打ち解け、両親にとってはまるで天の与えた恵みの光そのもの――アルハイゼンは大変に愛され、スメールにあふれる知恵を絶えず吸収している父と母に全力で守られていたが、それはアルハイゼンがなにもかも兼ね備えた理想的な赤ん坊ということと同義ではなかった。
アルハイゼンはあまり泣かず、よく寝たが、実際泣かなすぎたし寝すぎた。なにを犠牲にしていたかといえば食事の時間だ。まったく食べないというわけではない。食べるときは感心するほどよく食べる。ただその差がおおきすぎて、新米母親の母をずいぶん悩ませた。
「わたしのお乳が昨日の今日で劇的に味を落としたなんてあるかしら?」
「これから毎日サンプルを保存して、アルハイゼンがよく飲んだ日とあまり飲みたがらなかった日のものをそれぞれ分析に出すかい?」
そんな会話が両親のあいだで交わされたとか交わされなかったとか、のちのち祖母があきれたように語っていた(結局、この計画は実行されなかった。母の肉体が愛する息子のために用意した食事は実のところいつでも安定した質を保っていた)。
「赤ちゃんがこんなに哲学的だなんて知らなかったわ。やっぱりなにごとも実験してみないとわからないものね」
食事をしたがらない日のアルハイゼンはよく虚空を見つめていた、らしい。それは色硝子に描かれた複雑な紋様を分析するようでもあったし、色づいた光の合間をうつろう埃を眺めているようでもあった。この子はお乳を飲みくだすかわりにすこしずつ世界を飲み込んでいるのだ――母はそう結論付けた。
「思索に耽って世界を哲学するのは結構だが、だからといってきみの用意した食事を疎かにしていいわけではあるまい」
「あなたそれ、鏡のまえでもう一度言ってくださる?」
ばつが悪そうにする父に華麗に勝利した母は、学者らしくいろいろと考え、いろいろと試行して、ついにひとつの方法にたどり着いた。それが遊び歌だった。
飲み込むのスワローと小鳥の名前のスワローを掛けた言葉遊びの歌を適当な節とリズムで丁寧に大切に唱えて、彼女はちいさな息子のちいさなおくちを指先でつついた。そうしてようやくアルハイゼンは口をあけ、母は食事を与えることができるのだった。
アルハイゼンは両親のことをほとんど知らない。実感として憶えていることは皆無に等しい。知っていることはすべて祖母伝いに語られた断片的な情報で、それも各々の人となりを再現するには大いに足りない。祖母は「さあ、ではこれからあなたの父親の話をしましょう」などと『名探偵みなを集めてさてと言い』のごとき仰々しい披露をしたがる性格ではなく、アルハイゼンもアルハイゼンで自分から彼らについて尋ねることはなかった。そうなるともう、きっかけがない。ときどき、折に触れて思い出したように祖母がぽつりとこぼす彼らについてのかけらを忘れずに集めて、心のなかのやわらかいものに護られた場所にある小箱にしまっておく。それくらいがアルハイゼンにはちょうどよかった。彼らの永遠の不在により二度と完成しないことがわかっているパズルに心を砕くには、アルハイゼンは面前の現実に向き合いすぎていた。
かつて色硝子の模様や宙を泳ぐ埃に哲学のしっぽを見出していたアルハイゼンは、文字を覚え、言葉を学び、法則を知り、それを思考の道具として操ることができるようになると、止まることのできない知のけものと化した。文字や言葉は知るだけでは道具たりえない。それらを諳んじ、つなげ、自在に組み換え、自らの思考の手足として扱うことができるようになってようやく自分の一部となるのだ。
アルハイゼンは毎日毎秒なにかを知りたがった。血肉の代替として知を追い求めた。アーカーシャではだめだった。あのシステムはアルハイゼンがなにかを追うまえに向こうから提示してくる。考えをまとめ、結び、運ぶ段階すべてをすっ飛ばして正しきはこうだと見せつけてくる。それではだめだった。アルハイゼンは自分の闘争の末にほしいものを獲得しなければならなかった。そうでなくては手に入れたといえない。「手」に。
敬虔な知恵のしもべであるところの祖母が丹精込めて手入れしていたひみつの花園は、アルハイゼンの楽園のひとつだった。そこにはいつでも花が――膨大な知識の詰まった本が咲き誇っていた。繊細な書籍のよりよい保管のためにうす暗く、いつでもひんやりとしているのに、まぶしく輝ける知恵の果樹園としていつか食べられることを期待して君臨していた。アルハイゼンは彼らの望みに応えた。古い紙を一枚一枚めくる指先のざらりとした感触はアルハイゼンの闘いであり、その結果として得られたものは無二の獲物だった。本はアルハイゼンの友人であり好敵手であり教師でもあった。
「本を選ぶのね?」
祖母はいつか幼いアルハイゼンに問いかけた。アルハイゼンはうなずいた。当時のアルハイゼンの頭は考えることに言葉を使いすぎていて、現実的に祖母に応じるために割く余裕がなかった。
「たまたまひらいた本に書いてあることが砂糖のように魅力的ですべて鵜呑みにしてしまいたい内容だったとしても、もしかしたらそのごく一部に毒が混ざっているかもしれない。あるいは、当時はほんとうに砂糖だったものが時代を下るうちに毒のように変質しているかもしれない。もしかしたら逆に、気が遠くなるほどの嘘のなかにたったひとつだけきらめく真実が紛れ込んでいるかもしれない。あなたは年月を経て泥のなかに埋もれてしまったかわいそうなサウマラタ蓮のために、途方もない労力をかけて月を取り戻してあげないといけなくなるかもしれないのよ。本を読んでなにかを得ようとするなら、あなたはあらゆる本を読み、自分の目で見比べ、自分の頭で考えて、ありったけを味わって毒や嘘さえ自らの舌で選り分ける覚悟を持たなければならない。それはときに平和とは反対の方角に向かうでしょう。大丈夫ね?」
アルハイゼンはもう一度うなずいた。祖母は微笑んだ。
「私は私の子どもを誇りに思っていて、その子どもが選んだ伴侶のこともとても誇りに思っていた。そして彼らもまたあなたのことを誇らしく思うでしょう。永遠のその先で」
ひみつの花園で目当ての本を見つけ、ページをめくり、泥に隠されたサウマラタ蓮を探り当て月に曝す行為は、ちいさなアルハイゼンの時間を無限に奪った。
世の人々が子どもらしいと呼ぶいたいけなおこないの一切に興味を示さないアルハイゼンを、祖母はいつも黙って見守っていた。子どもらしい営みをろくにしない孫だが、よそに目もくれずひとつのことに熱中するのめり込み方は子どもらしいと考えたのかもしれない。なんにせよ彼女は、両親のとうに喪われたアルハイゼンにとって寛容で寛大な唯一の理解者だった。
しかし一度だけ、アルハイゼンのやり方に異を唱えた。
ある日無限の質量に耐えきれなかったアルハイゼンが倒れたのだ。祖母が発見したとき、アルハイゼンは知恵の果樹園で結実した知識の数々に――大量の本につぶされたようにぐったりと前のめりに意識を喪っていた。
祖母の家に急遽つくられて久しい子ども部屋で目を覚ましたアルハイゼンは、ベッドの脇で神妙な顔をした祖母にすかさずあたたかい杯を渡された。たっぷりとしたミルクが白いおもてをわずかに揺らしている。飲み食いをするのはいつぶりだろうか。そこでアルハイゼンは思い至った。なにも飲んだり食べたりしていなかったから倒れてしまったのだ。食だけではなく、そういえば寝ることさえいつの間にか忘れていたような気がする。
からっぽの胃を労るあたたかなミルクには、祖母の緊張を表しているようなハッラの実のスパイスもぴりりと融け込んでいた。
「あなたの肉体はあなたが獲得した知識を収容する器であり、あなたの世界そのものです」
祖母は格調高いスメールの学者が秘儀を伝授する際の物言いを孫に向けた。
そして次の言葉は、急にやわらかくなった。
「誰もがいずれ通過することになる天の階梯を待たずに、あなた自身の知識の翼を羽ばたかせて高いところへたどり着きたいと願うなら、あなたはあなたの肉体を健やかに保たなければならない。いくら魂に知識を蓄えても、あなたの魂の衣たる肉体がみすぼらしく目も当てられない状態になってしまっていたら、いざというときに外に出られないじゃないの。ねえ? それはおそれるべきことではない?」
まさしくおそれるべきことだった。アルハイゼンはうなずいた。ええそうねえ、私たちのいい子ちゃん、と祖母は笑った。
「この家にある本は逃げたりしないし、あなたと一度結ばれた知識も信頼できない恋人みたいにふらふらどこかへ消えたりはしないわ。――あら、この喩え、あなたにはちょっと早かったわね。とにかくいまは、ミルクを飲んでお腹をあたためて、それからおばあちゃんのつくったご飯を食べなさい」
今日が自分の誕生日だということは知っていた。
出勤して早々にパナーにはつらつと祝われ、それをきいていた別の部下も慌てたように祝いの言葉をくれた。午後にはいつもどおりちいさな友人と連れ立った旅人が訪れて、モンドで依頼を受けたら報酬にもらったから興味あるかと思って、と書物をくれた。装丁こそちがうもののすでに目を通したことのある本だった。けれど口には出さなかった。アルハイゼンにも一応それくらいの良識はあるのだ。カーヴェがきいたら明日は雪が降るとうるさいかもしれないが。
そのカーヴェが部屋から出てこない。
共用の書斎だ。当たり前にアルハイゼンも利用し(そもそも家主だ)、出入りするのでなにをしているかは知っている。
横暴な依頼主にふてくされているわけでも、アイデアの泉が埋め立てられてふさいでいるわけでもない。むしろ、あふれてあふれて手と時間が追いつかないのだ。天啓型の見本のような彼にはたまにこういうことがある。
彼は神に愛されている。すべての民を公平に愛する彼女は贔屓などしないだろうが、それはそれとして、名もなき草のように世に繁茂する美と浸透しすぎて誰もが見過ごすようになった些細な芸術まで拾い上げて愛そうとする彼の姿勢は、彼女にいっとうやさしい目を向けられる理由のひとつにはなるだろう。
その彼が家主の留守のあいだになにをしていたのか、もちろんアルハイゼンは知らない。知らないけれども、すくなくとも掃除と洗濯と自分自身のための調理をしていないことはわかった。帰宅した家の状態は今朝出かけたときとなにひとつ変わっていなかった。その朝さえ、カーヴェはアルハイゼンと食事をともにしなかったのだ。勤勉な太陽もまだぐっすりと眠り月にすべてを託している頃合いに、急に起き上がって書斎へ向かったかと思えばそれきりだ。芸術家を襲う美的霊感とはおそろしいもので、心へ取り憑かれた者は羽が生えたような心地で疲労ひとつ感じなくなる。地に足がつかなくなっているのだから、自分の肉体がどれだけ重たくなっているかわからなくなっても当然だった。
そしてそれは危険な徴候でもあった。
アルハイゼンは旅人にもらった本を閉じて時計を見た。夜の八時。空に浮かぶまるい月はスメールの水辺で健気にひらくサウマラタ蓮ひとつひとつと見つめあっている。その一方で、同居人は図面と向かい合っていた。放っておけばこのまま次の朝を迎えてもおかしくない。さらにその次の朝までかかる可能性すらあった。降臨する人を選ぶ霊感は一度抱き込んだ人間をなかなか手放そうとしない。
アルハイゼンは立ち上がった。そのまま書斎へ向かい、ノックもせずに扉をひらく。いつも手の込んだ結び方をしている髪を適当にひとつにまとめて、シャツの袖を肘までまくったカーヴェはまるで遠慮のないその気配にも気づかない。
その言動がどれだけ大人気なくとも、彼は立派に――立派な、ではない――大人だ。アルハイゼンより長く生きているという疑わしいが覆せない事実もある。一日飲食を怠った程度でひとは死にはしないし、なにか危険で緊急の事態に陥ることもない。
見なかったふりをすればいいのだ。アルハイゼンの頭の片隅の冷静なところが言う。ごもっともだとアルハイゼン自身そう思う。渾身の納得を示す。でもいかんせん彼はひ弱だ。
心のなかのやわらかいものに護られた場所にある小箱が、アルハイゼンに口をひらかせた。
「カーヴェ」
反応はない。
アルハイゼンは半分ひらいたままのドアを拳で思いきり打ちつけた。
「カーヴェ」
横から見るとますますうすい背がびくりとふるえる。ここではないうつくしいどこかに囚われていた瞳が数秒遅れて現実に戻ってきた。
「び……っくりした。いたのか」
「それはこっちの台詞だ。やっと人間には人間らしい生活の時間があると思い出したんだな」
カーヴェはきょろきょろと首をめぐらせ、いまが夜であることを知ると、最後にアルハイゼンと目を合わせてあきれるほど屈託なく笑った。
「そうだ! 今日は君の誕生日じゃないか! おめでとう。朝になったら言おうと思ってたんだ」
「そうか。このままだと危うく次の朝だったが」
「でも間に合っただろう? 間に合ったよな?」
「朝じゃないという一点を除けば」
「けちなやつだな、それは間に合ったっていうんだ。君、もう夕食は済ませたのか?」
そういえばまだだった。アルハイゼンの表情からそれを読みとったらしいカーヴェは満足げに首肯する。
「じゃあなにかうまいものでも食べにいこう。誕生日の夜くらい、いい店でちょっと贅沢したおいしいものを食べるのがいい。もちろんやさしい先輩であるところの僕も付き合うとも。いくら君でも、生誕祭のディナーがひとりきりは味気ないだろうからな」
「ありがたくて涙が出るよ。もちろん、おやさしいカーヴェ先輩の奢りなんだろうな?」
「ちょっと贅沢したおいしいものを出してくれるいい店の支払いを持つ余裕が僕にあるとでも? アルハイゼン、今日みたいな夜くらい気前よくなったってばちは当たらないだろ。君はモラが余ってあまって仕方ないらしいしな。それに、君は知らないかもしれないが、人間らしい生活をする人間は記念日の夜は特別なものを食べるんだ。食べたくなるんだよ」
腕を組んで対峙する。見つめるよりはにらむに近い温度の視線が交錯した。一分後にアルハイゼンが目を伏せ、事実上折れるかたちとなった。
「……三十分後に出る」
「よしきた! 待ってろ、君の晴れの日に恥ずかしくないいかした恰好で出てくるからな。おい君もおしゃれしろよ! 誕生日のディナーだぞ!」
「君と食事をするだけだろう。いつものことだ」
「誕生日は年に一度だろ!」
いまにスキップでもはじめそうな機嫌の上昇気流にのったカーヴェがアルハイゼンの横をすり抜ける。そうだ、最近あの店がモンド風のケーキを出すようになったんだ、食べてみたかったからちょうどよかった、と、もううきうきだ。どちらが祝われる側なのかもはやわからない。
さすがに今夜のケーキを選ぶ権利くらいはこちらにあるんじゃないか。
指を差し込んで髪をほどきながら浴室のほうに消えていくカーヴェの背中を、しかしアルハイゼンは黙って見送った。
(20230212)