@dounudon
※書き手の想像力の限界により舞台はかぎりなく現代日本
君、どうせお昼まだだろう、と決めつける言い方が癪に障らないわけではなかったが、嘘をつきたくなるほどに不快ではなかった。
そういうわけで、アルハイゼンは事実を事実として認めた。こんなことでわざわざ通話を寄越した相手は――メッセージだと既読スルーしがちなアルハイゼンにやきもきした結果、なんでもかんでも通話という手段をとるようになったカーヴェは、いかにも得意げに「だと思った!」と言った。三コマの空いている水曜日、混雑をきらうアルハイゼンが時間をずらして遅めの昼食をとることにしているのを知っているのだ。
「僕もたったいま三コマ休講になったんだ、そっちに行くから一緒に食べよう。食堂で待っててくれ」
「俺がそちらに行っても構わないが」
「僕が行く! いいから待ってろよ」
それだけ言うと通話は切れた。三日前の、帰宅が遅くなることを知らせるやりとりのトーク画面に戻ったディスプレイを消灯し、役目を終えたスマートフォンを定位置に戻す。そしてもともと食堂に向かっていた足取りを再開した。
広いキャンパス内には食事処がいくつかある。リーズナブルで学生の財布にもやさしいセルフ式の食堂から、店員がテーブルまで注文を取りに来て料理を運んでくれるいわゆるふつうのレストラン(しかしもちろん全体的にお高めだ)、女子学生の憩いの場として定着した新設のおしゃれな雰囲気のカフェ、もしくは空き教室や研究室、天気のいい日の外で食べるためのコンビニまで、とにかくいくらでも選択肢がある。なかでも学生の味方の食堂は数が多く、施設ごとに特徴があった。
学生食堂にはそれぞれシステマチックで無機質な正式名称があったが、学生のあいだでその名が使われることはまずなく、たいていはどの学部の近くにあるかで通称が決まっていた。たとえばカーヴェの通う工学部最寄りにある食堂は工食――もちろん、工学部食堂の略だ――と呼ばれ、工学部における男性の圧倒的な比率に配慮したのか、質より量という言葉を体現したメニューを展開していた。これがあまりカーヴェのお気に召さないようで、彼女は機会さえあればアルハイゼンがよく利用する文食――こちらは文系食堂の略で、由来は文系学部の建物に囲まれた立地だ――に来たがる。
ここはサラダバーがあるし、なにより小鉢とデザートの種類が多いだろ!
文食の美点について彼女はいつもそう言って胸を張るのだ。とはいえ工学部からわざわざ出向くにはすこし距離があるため、口実がなければ彼女もなかなかここまでは来ない。だからこそ、こういう機会には張り切る。
そう、距離がある。先に食堂に入って席についたアルハイゼンはカーヴェが到着するまで十五分と見込んだ。工学部の建物群からこの食堂まで女性の足でふつうに歩いて十分、彼女の所属する建築学科が工学部のなかでもいちばん離れた棟の最上階に位置していることを考慮すると、さらに五分プラス。ただ、現時点で通話から五分経っているので差し引きすると実際は十分ほどだろう。アルハイゼンはのんびり待つことにした。こういう場面で先に食べはじめていると「君は小学校の道徳の授業をぜんぶ居眠りでやり過ごしたんだな」などと言いがかりでしかない不平不満をカーヴェにぶつけられるため、コーヒーだけを相方に。
カーヴェが現れたのは通話からおよそ二十分後のことだった。
昼のピークを越えて人影もまばらな空間で互いを見つけるのはむずかしいことではなかった。そうでなくてもカーヴェは根本的に目立った。ついこのあいだも「学部棟のエレベーターで一緒になった知らない人に連絡先を訊かれた」と困惑していた。建築は工学系のなかでは女性比率の高い学科だが、それでも彼女は目を引く存在ではあったし、それは仮に半分が女子学生の文学部に紛れても変わらないだろうと思われた。
「ちゃんとコーヒーしか頼んでないな、偉いぞアルハイゼン」
なぜか偉そうにうなずいたカーヴェはアルハイゼンの向かいに荷物を置くと早速注文レーンへ向かう。アルハイゼンはその傍若無人にあきれたまま後を追った。
レーンに入るのは彼女のほうが先だったのに、レジに並ぶのはアルハイゼンのほうが早かった。一時間前は戦場だっただろうレジはいまやがらがら、ふたつあるうちのひとつだけ空いていて、学生アルバイトの女性がエプロン姿で立っている。順調にレジを打ち込んでいた彼女の手が途中で困ったように止まった。
アルハイゼンのトレーにうしろからそっと品物が追加されたのだ。皿にのったケーキと袋入りのシュークリーム。アルハイゼンは背後に立つ犯人を冷ややかに見下ろした。
「カーヴェ」
「ガトーショコラはいま食べて、シュークリームは研究室の冷蔵庫に入れてあとで食べるんだ」
「そんなことを訊いてるわけじゃない」
悪びれるそぶりもないカーヴェは、ではなにが問題かと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。アルハイゼンは不承不承を露骨に表明する大げさなため息を吐いてから、チャージ済みの学生証を取りだした。アルバイトの女性がおずおずと顔をあげる。
「アルハイゼンくん。いいの? あ、いや、いいですか?」
「構わない」
決済完了の軽やかな音が響くかたわらで、デザートを(しかもふたつ!)まったく懐を痛めずに手に入れたカーヴェは「ありがとう!」とうきうきで鼻歌をうたいだす。
「レジの彼女、君の知り合いか?」
レジを抜けて席に戻るあいだも、彼女はごきげんだった。
「同じ学部だ。それと、ドイツ語で同じクラスだった」
「へえ。君と同じクラスでしかも君が憶えているってことは、きっとすごく優秀なんだろうな」
「さあ、どうかな」
アルハイゼンが知っているのは、いまもレジに立って若干こちらを気にしている彼女がいっときアルハイゼンに好意を抱いていたことくらいだ。明日……とはいわず、いまから数時間後の彼女のシフトが終わるころには、根も葉もない――とは断言しがたい――噂のひとつやふたつ流れているかもしれない。
半年とすこしまえ、カーヴェは隣人の失火により住むところとそこにあった家財の一切を喪った。その日アルハイゼンはたまたま朝から彼女と一緒にいて、家に送り届ける役割まで儀礼的にこなしていた。そのせいで、見慣れたベランダが失敗したパンケーキのように真っ黒に焦げている惨状も、消防と警察と話す彼女のちいさな後ろ姿も、しっかり目に焼きつけることになってしまった(この表現は皮肉じみているとアルハイゼンは思った)。
ぼんやりと戻ってきた彼女は「火の手は思ったより激しかったみたいなんだが、誰も怪我はなかったって。よかったよ」と言った。この状況でそれを心から言えるところがいかにもカーヴェの人間性だった。そんなふうだったので、アルハイゼンは仕方なく――おそらく仕方なく、悪い意味で夢見心地の彼女の腕を引いて自分の家に連れ帰った。
アルハイゼンの借りている部屋は学生街にはめずらしいファミリータイプだったので、カーヴェひとり増えたところで窮屈で息苦しくて生きづらいようなことはまったくなかった。その夜、彼女はアルハイゼンの貸したTシャツ一枚をワンピースのように使って眠った。
しばらくのあいだ、カーヴェは外出するたびに誰かしらから支援物資を持たされて帰ってきた。なかには、こういう状況ならではの景気づけになかなか立派な値段のする手触りのいいかわいらしい部屋着もあった。彼女は当然ひどく感謝し、もったいなくて着られないと言いながらも袖を通してみて、でも気づけばアルハイゼンのTシャツを着て伸びやかな脚を丸出しにしていた。
アルハイゼンの着古したTシャツがいつしか完全に彼女のものになるころ、彼女は管理会社からの別のマンションに移るという提案を断って例の部屋をきっちり引き払ってきた。折り合いの悪い実家に火事の件を伝えるつもりはないらしく、「家賃が実家の通帳から直接引き落とされる契約じゃなくて助かったよ」と笑う。
その日アルハイゼンは管理会社に出向き、同居人に関して正式に契約変更の手続きをした。
「今日はここまでやけに時間がかかったな。君のことだからまたぞろ厄介事にでも巻き込まれたのかと思ったが」
サラダバーで好き勝手盛った葉物を口に運んでいたカーヴェは、一瞬首をかしげ、ああ、とうなずいた。直後、テーブルの下でアルハイゼンの足になにかがそっと触れる。つんつんと控えめに、だが堂々とつつかれている。それが恋人同士もしくはそれに準じた関係でよくある意味深な交歓でないことは明白だった。
「つま先? 君が昨日ああでもないこうでもないと言いながら塗っていた爪に問題でも?」
「ちがうちがう、そっちじゃなくて」
今度はテーブルの下でこつこつ鳴る。音の正体を考え、つま先ではなく踵と言いたいのだとようやくわかった。そして、そもそもその音が鳴ること自体異質なことも。……カーヴェは大学でヒールのある靴を履かない。そういうのは歩きづらくてふだん遣いには向かないと言いきっている。
思えば並んだときにいつもより頭の位置が高かったかもしれない。
「めずらしいな」
「そう、めずらしいんだ。そしてこれからもめずらしくなるだろう。せっかく昨日買ったから履いてみたけど、やっぱり歩くのが大変だったから。君を余計に待たせたみたいだし」
「ほう、昨日買ったとは。ひとにケーキとシュークリームを買わせるわりに、君はずいぶん懐具合に余裕があるようだな。あるいは、それを買ったから手持ちがなくなったのか」
「知り合いの知り合いが働いてる店に連れていかれたんだ。そしたらノルマがあって大変だって言うから……」
「……君は信頼できる誰かと一緒に買い物にいったほうがいい」
カーヴェよりも一足先にトレーの上を片付けたアルハイゼンは、なんとも言えない気持ちを握ったフォークに込めてガトーショコラへ差し入れた。そのまま細くなった三角形の先を削り取る。すかさず対面から間の抜けた悲鳴があがった。
「やめろよ! 僕のだぞ!」
「金を払ったのは俺だ」
「でも僕が食べたいから選んだのに! 食べたいなら君もとってくればいいだろ」
「あいにく、三分の一もあればじゅうぶんだ」
はっとしたカーヴェはホラー映画のクライマックスでも見ているように両手で口を押さえる。
「三分の一も食べる気なのか? 人でなし!」
「……君はこういうことに関しておそろしく心が狭いな。小学生でもここまで騒がないだろう」
「そりゃそうだろうね、僕より金を持ってる小学生なんていまどきいくらでもいるんだから」
ふん、と思いきり傲岸ぶってそっぽを向きながらも、その手はせめてシュークリームだけは死守しようとせこせこかばんにしまい込んでいる。越冬に備えるリスが地中へどんぐりを埋めるのに似た必死で健気な仕草は、アルハイゼンの常時盤石な精神をやや打つものがあった。たくさんの木の実をいろいろな場所に蓄えるリスはそのうちのいくつかを忘れて森の循環に協力するが、ひとつだけを慌ててしまい入れた彼女はそのたったひとつを大事に大切に、たぶん油性ペンで大きく名前でも書いて、研究室の冷蔵庫に隠すのだろう。
アルハイゼンは先端の欠けたガトーショコラの皿を黙ってカーヴェのほうにすべらせた。
「どうしたんだ、急な心変わりだな。まだ五分の四は残ってるぞ」
「うるさいやつがいるからな」
「ならうるさくした甲斐があるってものさ」
アルハイゼンのひとかけらよりもはるかに大胆に濃色のケーキを切り取ったカーヴェは、それを口に入れるなりにこにこと顔を崩して片方のほっぺたに手を当てた。どう変化しても絶対に破綻しない完璧な顔立ちもいつもながら見事ではあったが、アルハイゼンの視線は彼女がもう一方の手で持っているフォークに集中した。
それはアルハイゼンが先ほど使ったフォークだった。
「そういえばアルハイゼン、君今日は五コマまである日だよな。僕も同じなんだけど、今日は夜残る予定ないから五コマが終わったら一緒にスーパーに寄って帰ろう。昨日たまごが切れたんだ。集合はいつもどおり中央図書館でいいよな?」
「たまごが切れたくらいで一緒に行く必要はあるか?」
「誰かと一緒に買い物にいったほうがいいと言ったのは君だろ。それに今日冷凍食品半額だぞ!」
アルハイゼンは信頼できる誰かと一緒に、と言ったのだ。
「わかった。中央図書館で落ち合おう」
(20230219)