親知らずを抜いたカェ
@dounudon
※カェのおくちはちっちゃそうでかわいいねという話
その日は午後から出勤だった。教令院に出勤したとたんに、かの有名な知論派の「先輩」とすれちがった。記録にある生年から想像する姿と実際の見た目がかけ離れた彼女は、アルハイゼンの姿を認めるなり「カーヴェは元気か?」と問いかける。アルハイゼンにはあくまで興味がないのだ。そしてそれはアルハイゼンの側も同じだった。同じ知論派に属しているというのに、彼女とアルハイゼンはろくに個人的な会話を交わしたことがない。
ろくに個人的な会話を交わしたことのない関係ではあったが、他愛ない質問を忌避するほど険悪な間柄でもなかった。アルハイゼンは立ち止まり、家を出た際の同居人の様子を思い出し、そこそこ律儀に答える。
「元気とは言えないな。まだめそめそ泣いているだろう」
なにせ家と職場の距離が尋常じゃなく近いので、家を出たのがつい先ほどのことなのだ。玄関へ向かうアルハイゼンの背中に恨めしげな視線を送りながら、目もとを虹彩と同じ色合いに染めてめそめそと涙をこぼしていた彼が、この数分でいつものあの小生意気な笑みを浮かべるほどに回復しているとは思われなかった。立ち直りはたしかに早いほうではあるものの、一度転んだ際の落ちぶれ方も著しい。カーヴェとはそういう男だった。
アルハイゼンの率直な返答をきいたファルザンは一気に人でなしを見る目になった。カーヴェと親交があり、かつアルハイゼンともそれなりに関係を築いている人々は、カーヴェになにかあったと知るとその原因をすぐアルハイゼンに求める傾向がある。彼がどれだけ世間の物事に対してナイーブで感じやすい性格をしているか知っていても、なお。
俺のせいじゃないとわざわざ言うのもばかばかしく、アルハイゼンは彼女の非難の瞳を黙って受けとめることにした。
「かわいそうに。研究費がおりたらなにかおいしいものをご馳走してやらんとな」
それなら誘うのは二週間後くらいにしてやってくれ、と、これを言うのもやはりばかばかしかった。それに、ファルザンの申請した新しいプロジェクトがどれだけ順調に審査を通過したとしても、二週間以内に研究費がおりることはないと断言できた。そもそもあの申請はまたしても却下されるだろう。
アルハイゼンはそれ以上なにも言わずに背を向けた。会議が待っている。
会議の終わったあと、退室のタイミングがたまたま一緒になったセノは「最近カーヴェはどうだ」と言った。あの件はどうなっている、と仕事の進捗を尋ねるのと同じ調子だった。
アルハイゼンは数秒考えた。家を出てからおよそ一時間半。
「よくはないな。さすがにそろそろ泣きやんだだろうが、まだ目もとは濡れているくらいじゃないか」
セノはいかにも反応に困るという顔をした。ファルザンほどカーヴェに同情的ではないとはいえ、その原因をアルハイゼンに求めようとしている気配はなんとなく伝わってくる。
「忙しい大マハマトラ殿が心を割くようなことじゃない。彼がよくまつげが目に刺さったとぎゃあぎゃあ騒いでいるのと同じ程度の深刻さだ」
「……つまり、大したことじゃないと」
「まったく。ちっとも」
不在の札をかけて執務室を抜け出したところで今度はティナリと遭遇した。アムリタ学院から出てきたレンジャー長はアルハイゼンを見つけて片手をあげる。
「やあ。カーヴェはよくやってる?」
「君たちは揃いも揃って俺の家に住んでいる俺以外の人間に興味があるようだな」
この午後だけで三回も同居人の近況を確認されるとなると、さすがのアルハイゼンもそんなふうに言ってしまう。ティナリは心外だと言いたげに耳を揺らした。
「その複数形に誰が含まれているかはきかないけど……君がよくやってるのは見たらわかるだろ? それに、僕が直接君の家を訪ねて彼に『やあ元気かい』とは言えないんだから、君に訊くしかないじゃないか。なにせ彼の願望のなかでは彼は君の家にはいないことになってるんだからね」
「現実から目を逸らしたがる子どものわがままに付き合ってやるとは、手厳しいレンジャー長にもお優しい一面があるようだ」
「そうだね。君の大事なしずかなおうちがカーヴェを訪ねる人であふれてもいいなら僕は構わないけど?」
「……いまごろは鏡のまえでで真っ赤に腫れた目と見つめ合って絶望しているだろう」
腕を組んだティナリはあからさまにしらけた顔でアルハイゼンを見上げる。
「彼をいじめたくなる気持ちはわかるけど、なにも泣かすことないだろ。ちょっとは手加減してあげなよ」
「ちがう。今朝歯を抜いたんだ」
「は?」
横向きに生えた親知らずが悪さをしていますね。ひと思いに抜いてしまいましょう。手術になります。
その診断を受けたカーヴェが手術室に入ったのは、歯が痛いと医者にかかってからおよそ三日後、つまり今朝のことだった。
手術という単語に見事に恐れをなした彼はこの三日間実にうるさかった。まずこの不幸に襲われたのが自分だけではないと信じたがってアルハイゼンの体験談を求め、アルハイゼンがきれいに生え揃った親知らずを含めて完璧な歯並びをしていると医師のお墨付きもらった話をすると「そんなのおかしい!」「不公平だ!」と不満をあらわにした。次にアルハイゼンの耳から顎にかけて右の手のひらをぴったりと当てると、左の手のひらで自分の耳から下で同じようにしてみせて「ほらみろ、僕と君になんのちがいがあるっていうんだ」と文句を言う。それはもちろん人体の基本的な構造にちがいはないだろう、とすっかり呆れたアルハイゼンは、手を放してぶつぶつ言っている彼の顎を掴んでひと息にくちびるをぶつけた。そのまま肩を殴られるまで好き勝手口内を荒らしてやる。
「君のこの顎のちいささではせっかく顔を出そうとした親知らずも窮屈でたまらないだろう。さっさと抜いてしまえ」
要は構造ではなく寸法の問題なのだ。
そしていま、世界中のかなしみを一身に背負った大げさな表情を浮かべたカーヴェは、いつにない切迫したそぶりで夕食を口に運んでいる。最後の晩餐でもこうはならないだろうという差し迫った慎重なふるまいで、実際口に入れるのは生後半年の赤ん坊に逆戻りしたかのような内容の「食事」なので、向かいに座っているアルハイゼンはおかしくてたまらなかった。
「まだ痛むのか」
カーヴェは神妙にうなずく。
「処方された痛み止めが君と合わないのか、あるいは君の薬の呑み方が致命的にへたくそなのか、さてどちらだろうな。だいたい、麻酔が切れるまえから呑むようにと指示されるはずだが」
「うるはい」
患部を庇う不器用なしゃべり方は彼の発音を腑抜けにした。それでも手術から帰還した直後はさめざめと泣くばかりだったことを思うと、今日の午後いっぱいをかけて会話をしようと考える程度には気分が復活したらしい。
「君にはわからないはろうな、くちのなかで工事されるんらぞ。ひゃい工事を!」
「大工事?」
「ふん」
「手術なんてものはもとより人体を舞台にした土木工事だ。そう考えたら君の得意分野じゃないか」
「僕は僕のかららになにかを建てようと思ったことはない」
「なら、いい経験になったな。建機で蹂躙される土地の気持ちになれただろう。次はもっといい建築ができるさ」
それはまちがいなくアルハイゼンなりの慰めだったが、おそらくカーヴェには皮肉として受けとられた。ぎこちなく口をあけてスプーンで離乳食ばりのどろどろを流し込む彼の、納得がいっていない顔を見ればよくわかった。
対面のカーヴェがまだ離乳食もどきの半分も減らしていない段階で、アルハイゼンの食器はきれいに空になる。
「ところで君、それだけ痛むならこれからひどく腫れるぞ。今日はせいぜい目を泣き腫らすだけで済んだが、明日からは鏡に君の見たこともない君が映るだろう。覚悟しておいたほうがいい。ショックでうっかり心臓を止めたりしないように」
「……僕はしばらく外にれないから、買い物は君がしへくれ」
「ふむ。まあ、仕方ないな」
こんなのはまったく、ちっとも、大したことじゃない。手術の度合いに人それぞれ差はあるだろうけれども、親知らずの抜歯はたいていの大人が経験することだ。アルハイゼンのようになにもしなくて済むほうがかえってめずらしい。
だからべつに、カーヴェが泣こうが気を落とそうが見たこともない輪郭を描こうが、アルハイゼンは心配していなかった。ただ。
ただ、と思う。これからしばらく彼の口が不自由になるということは、キスのひとつもできないということだった。そこではじめてアルハイゼンは事態の深刻さに思い至った。
なるほど、これはまったく大したことだ。
(20230226)