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全体公開 アルカヴェ 14 4396文字
2023-06-03 17:36:30
Posted by @dounudon

※デートイベント後設定



 カーヴェが右の手首をくじいた。
 僕の人生はどうにもこうにも最悪だ、と帰宅した彼は荒れ、そんなのはいまにはじまったことじゃないだろうとアルハイゼンは思い――思うだけではなく実際に口に出したのでカーヴェはそれにも過敏に反応して荒れ、最終的にやけ酒に繰り出したものの怪我人は飲まないほうがいいと親切な店主に追い返されてまた荒れた。うまくいかないときはとことんうまくいかない。彼はその言葉を体現する人物だった。
 この家ではもっぱらリビングソファの役を担っている寝台に身を投げ出したカーヴェがぐうと唸る。隣に転がされたメラックが困惑顔でどうしようもない持ち主を見つめていた。トラブルに巻き込まれやすいカーヴェの安全帯にもなっている便利で有能な工具箱は、彼を「最悪」に導いた右手の怪我について明らかに責任を感じているようだった。
 カーヴェはしばらく唸りつづけてようやくメラックの気遣わしげな様子に気づき、消沈する相棒を慰めるような視線を送った。
「僕が悪かったんだ」
 と、彼は心底反省するように言った。これもまた、ようやく。
「君に降りかかるたいていの不幸や不運は君自身の言動が引き起こしているからな」
 べつのソファに座って本をひらいていたアルハイゼンは応えた。カーヴェがむっとする気配があったが、いつものように突っかかってはこなかった。その代わりに、臨床の現場にはじめて立ったばかりの生論派の学生の練習台として、過剰なほどがちがちに固められた手首をさすりながら、怪我の原因についてやや感情が先走ったやり方で語った。
 対象が人であれ道具であれ、彼らに自身の思うような働きを期待するならまず主導者が的確な指示を出さなければならない。カーヴェはそれを怠り、そして見事に怪我をした。彼いわく「階段がもうワンステップあると思い込んだまま前に進んで足を踏み外すように」――メラックの補助ありきで重量のあるものを持とうとして、しかし彼の指示が曖昧だったためサポートが間に合わず、予想外の重さに適応できなかった手首は思いきりねじれた。
 詳しくきいても特に同情の余地はなかった。無条件の哀れみを覚えるほど深刻な負傷でもない。カーヴェが栄えある患者第一号だという生論派の実習生も、それを監督していた指導医も、捻挫としてはごく軽度なもので、ひととおりの処置を済ませたあとは患部を休ませるのがいちばんの薬だという診断を下した。
 今後しばしの最悪の日々を約束された同居人が両方の手を同じくらい器用に使えることをアルハイゼンは知っていた。それでも片手が固定されていたら図面を引くには不自由するだろうが、幸か不幸か大建築家の仕事はちょうど落ち着いたところで、しばらく設計をする必要がないこともアルハイゼンは知っていた。患部と患者を安静にする土壌は整っていた。日ごろは彼に任せきりにしている家事がいくらか滞ることは予想されるものの、それはアルハイゼンのわずかな親切心で簡単に解決することだ。生活にさほどの支障はないだろう。アルハイゼンの快適で安定した日常は変わらない。
 その夜、半裸と全裸の合間の半端な恰好をしたカーヴェが「髪が洗えない!」とリビングに駆け込んできて浴室に連行されるまで、アルハイゼンはたしかにそう思っていた。

……意外だな。ふつうにできてるじゃないか」
 アルハイゼンの編んだ髪の具合を鏡で確認したカーヴェが神妙にくちびるを尖らせる。できあがりを評価する言葉とは裏腹に、その表情はひどく退屈そうだった。
「ふつうにはできないことを期待して俺に頼んだのか? 変わったやつだな」
「そうじゃない。ただ……君の手にも負えないことがあると知って心を躍らせたい気持ちがなかったと言えば嘘になる」
「なにも髪だけなんて謙遜しなくとも、君の存在そのものが俺の手には負えないから安心してくれ」
「どういう意味だよ! 全然心が躍らないったら」
 昨夜の髪が洗えない・乾かせない攻撃につづいて、今朝は怒涛の髪がうまく梳かせない・結べない攻勢に遭ったのだった。だったら結ばなければいいだけだろうというアルハイゼンの正論は荒っぽく退けられた。ふだんだって一部を編み込んだりピンでとめたりしているだけで髪自体はほとんど下ろしているようなものだと思うが、本人にはそれなりのこだわりがあるらしい。次は髪が整えられないと訴えられたら今度こそ面倒だから、万が一にもそうならないようにいつもどおり一部を編み込んだうえでひとつにまとめてやった。
 癇癪をやり過ごしたカーヴェはまんざらでもない顔でまだ鏡を見ていた。彼の邪気のないナルシシズムに関してはアルハイゼンさえ否定できない。この見た目に生まれていれば丹念に身繕いしたくなるのは当然だろうし、丹念な身繕いの結果としてこの見た目があるともいえる。厄介な存在だった。
 手に負えない。
「それにしてもほんとうに意外だな。誰かの髪を結んであげたことがあるのか?」
「俺にそんな経験があると思うか?」
 ないと思ったのだろう、カーヴェは黙り込んだ。
「僕は母さんがいつも髪を編んでいたし、幼いころ母さんに編んでもらったこともあったし、そのあとは僕が彼女の髪を編んでいたから自然と身についた。君は……
 以前は酔いで頭も口もまわらなくなったときだけようやくアルコールの海の底から引っ張り出せていた、家族という個人的な枠組みについて、最近のカーヴェは目に見えて穏やかに捉えることができるようになっていた。それを口にする際、酒の作用に見せかけて必ずまとわりついていた彼の言葉を重たくするどろどろとしたもの、それらはすべて一種のあたたかみを伴った清潔できらめくなにかに変化した。
 アルハイゼンは彼の頬に落ちたひと筋のきんいろを指先ですくった。
「結縄を学んだことがある」
「なんだって?」
「結縄。文字どおり縄の色や結び方、その無数の組み合わせパターンによって情報を記録する文明的な手段のひとつだ。言語的な内容よりは数値的な内容を伝達することに優れている。もっとも、現代まで体系的に整理されて伝わっているものはほとんどないが」
 鏡のなかの自分自身よりも興味を引くものをやっと見つけたかのように、首をかしげたカーヴェが振り向いた。平生であればその動きに合わせてか細い毛先も揺れるが、ひとつにくくっている今日はそれがなかった。なんだかもの足りない気がした。
「縄と数はひとが思っているより親しいからな。僕も学生時代、スメールの古代儀軌にしたがって祭壇を設営する課題で、生論派の編み上げた伝統的な縄と聖木の杭を利用して数学的に正しく地面に作図しなければならなかった」
「知っている。伝統的な祭式規定の韻文が読み解けないと言って唸っていた君の代わりに読んでやったのは俺だ」
「うぐ……そうだったな。恋心をしたためたポエムならともかく、数学的思考を詩的に表現しようなんて僕だったら考えないが。弧や対角線を暗喩する理由がどこにある? だいたい、なんで格変化とかいうややこしいことをするんだ。八つだぞ八つ、ひとつの単語のバリエーションを覚えるのに両手の指が必要なんて信じられるか?」
「現代テイワットのほとんどの言語から格変化は失われ、多くの言語学者はそれを合理的な変遷と呼ぶが、格は格でもとより合理性のために存在していたものだ。すくなくとも、その単語がなにを表しどれを装飾しているかひと目でわかるんだからな。そういう意味で、旧き人々は合理的でありながら芸術に寄り添う気持ちも忘れていなかったということだろう。……ふむ。専門ではないとはいえせっかく学んだのだから、君が俺にしている借金を今後君の髪の編み方で記録していくのはどうだ。君はちまちまと帳簿をつけなくてよくなるわけだ」
「やめてくれ! 鏡を見たらもれなく陰鬱な気持ちにならないといけないなんて最悪だよ。これ以上僕の人生に気がふさぐようなことを持ち込んでくれるな」
 光を束ねたきんいろに触れるアルハイゼンの手をはじいたカーヴェがつんと顎を上げて腕を組もうとし、いまは右手が自由にならないことを思い出して憤慨したように顔をしかめる。ああもう、あれもこれもままならない、と彼はやるせない憤懣をこぼした。はじめから終わりまでいかにもカーヴェらしい仕草だった。
 かつて彼がアルコールの海に足をとられて呂律も危うくなった夜更け、どろどろとした不明瞭な言葉のかけらを積み上げて家族めいたものをかたちづくろうとして、こう言った。
 ――稲妻には「子どもは三歳までに一生分の親孝行をする」という言葉があるらしい。僕は誰もが認める最悪の親不孝者だが、もしこの言葉に一定の真実が含まれているなら……そしてそこに在る誠実さがほんのすこしでもこの国で認められるのなら……そんなふうに成り下がるまえにいくらかは彼らに報いることができていたと、そう思い込むことができるかもしれない。もちろんこれは逃げだ。そんなことはわかってる。けど、起伏の激しい人生にはそんな逃避に思いを馳せなければやっていけない夜もきっとある、そうだろう?
 酔いのまわった彼の口は圧倒的に軽い。花のあいだを飛びまわる蝶々よりも軽やかに、日常抱え込んでいるありとあらゆる鬱憤を吐き出す。卓を囲んでいる相手がアルハイゼンだと、アルハイゼンひとりだと、その傾向はより顕著になった。
 彼の言葉にちっとも影響されないアルハイゼンの明確な自他の区別は、カーヴェに苛立ちと、苛立ったぶんだけふしぎな安らぎをもたらしているらしかった。彼はアルハイゼンにならなにを言っても構わないと思っていたし、事実アルハイゼンはなにを言われても気にならなかった。この点に関して両者の見解はめずらしく一致していた。あるいは利害。
 アルハイゼンは彼の言葉に引きずられることこそないけれども、彼の言っていることを理解する能力は備えていた。それは親身な共感や心の共鳴の連れ立った包容ではなく、単なる言語的な、文脈上の意味としての理解だった。そしてこの家においてそれはむしろ都合がよかった。
 いつかどこかで彼に感情移入して共振する人間が現れてしまったとき、カーヴェはむしろ悪化するだろう。それは目に見えていた。
 だからこそアルハイゼンは、あのころ深く暗く見通せない海の底からしか家族の形骸を取り出せなかったカーヴェが、金とみどりの光の満ちた明るいリビングであたたかくうつくしいものとして家族の断片をたやすく広げられるようになったこの瞬間、彼の口からあっけらかんと最悪という言葉が飛び出すことに安堵する。
 それが言えるなら、すくなくともカーヴェはよりよいものを知っている。



(20230526)


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