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初恋アレルギー

全体公開 アルカヴェ 2 6411文字
2023-07-04 20:41:58

アカ

Posted by @dounudon

いただいたお題「初恋/恋に落ちる瞬間(初恋であれば嬉しい)」で書きました




 カーヴェがすくい上げたスープを熱心に吹いて冷ましている。
 レードルになみなみとすくったものを直接飲もうとしているならともかく、スプーンにすくえる量など熱くてもたかが知れているだろうとアルハイゼンなどは思うのだが、温度に敏感な当人にとっては譲れない部分らしかった。指摘すると「液体は流動的だからな。口に入れたが最後、こちらの予想もしない動きをする。最初にちゃんと温度を下げておくのが肝要なんだ」と、たいそう神妙な顔でご高説を垂れてきたので、もしかしたら猫舌界隈では当たりまえのことなのかもしれない。
 熱すぎるものは飲めない。かといって冷めているものは気に入らない。ちょうどいいのがいい。……そういえばそんな童話があったとアルハイゼンはふと思い出す。三匹の動物が慎ましく暮らしている家にひとりの少女が入り込み、あらゆるものが三つずつ存在するなかから彼女にとって「ちょうどいい」ものばかりを選んでさんざんな無体を働き、最終的にはちょうどいいベッドですやすやと眠り込む――まさにあの童話の主人公と同じような無敵の図々しさがカーヴェにはあった。見た目はいかにもよわよわしく繊細そうで、日々の浮き沈みが激しく本人もそれに翻弄されている(ように見える)ものの、実のところ殺しても死なないようなふてぶてしさに守られている。というより、そういう在り方を周囲に許容されている。思えばあの童話の少女は彼女のブロンドからとられた名前を与えられていた。なにからなにまでカーヴェにぴったりではないか。
「君のような舌は乳幼児に多いらしい」
「だから? 僕の舌が未発達だって言いたいのか? 反証するぞ。いいか、僕はこうやって、」
 彼は酒杯を呷った。
――酒を愉しめる」
「空きっ腹に入れないほうがいい。君がそこでぶっ倒れても俺は連れて帰らないからな」
「そんなこと君に期待してやしないさ。君にしてる期待といえばここの支払いくらいだ」
「それもするな」
 きこえないふりをしてスープを冷ます作業に戻ったカーヴェは、ふうふうとスプーンに集中しはじめる。ちょうどよさを追求するスタンスに一切の妥協を見せない彼はいつもそんなふうだから、口にしやすい酒ばかりが進んで誰より早く酔う。酒に弱いだけが彼の酔いつぶれる原因ではなかった。彼はいつだって自身の体質に総合的に振り回されている。
 夕食をつくるのが億劫だというカーヴェのつよい主張で訪れたランバド酒場は、平和なにぎわいを見せていた。調理される食材の匂いと酒の香り、杯を交わす音に混ざった人々の声は悲喜こもごもではあるが、荒れてはいない。大建築家ご自慢の二階席は残念ながら埋まってしまっていたため、ふたりはもっとも奥まった場所にある三方を壁に囲まれた席に収まった。
 このあいだカーヴェがここでやけ酒をしてつぶれていたのだ、と親切な旅人がわざわざ教えてくれた例の席には教令院の制服姿の女性がふたり、向かい合って座っている。帽子のあか色から見るにどちらも素論派のようだ。
「それでね、このあいだ偶然、初恋のひとと再会して……
 テーブルのランバドフィッシュロールそっちのけで会話に夢中になっている彼女たちの声は甲高い。席が近いこともあり、平均的に盛り上がっている酒場のなかでも特によくきこえた。
 アルハイゼンは他人の恋愛譚にはちっとも興味のない男だったが、唯一初恋という響きは悪くないと思っていた。それは決して誰かの初恋の甘酸っぱいエピソードそのものに関心があるというわけではなく、ひとえに、初恋という単語を耳にしたカーヴェの反応がおもしろいからだった。
 案の定、対面のカーヴェは眉根を寄せていた。
「相変わらずの過剰反応だな。まだ克服できていないのか」
「まっさらな部分への刷り込みというのは根が深いんだ。僕をこんなにしておきながらさっさと――それぞれべつの相手と――結婚した彼らがうらやましいよ。べつに僕がいますぐ結婚したいってわけじゃなくてね」
 厄介な体質にもてあそばれつづけているカーヴェには、もうひとつ、初恋アレルギーともいうべき面倒な性質があった。熱さやアルコールへの弱さとは異なり、それは後天的に付されたものだった。
 カーヴェの勘違いからはじまったアルハイゼンと彼の交友がほどほどに深まり、とうとう共同研究課題というかたちで結晶しようとしていたころ、そしてまだ決定的な意見のすれ違いが発生していなかったころ、カーヴェはよくアルハイゼンに語った。
 初恋について。
 彼自身の淡い初恋についてではない。彼が第三者として見守っていた傍迷惑な他人の初恋についての逸話だ。
 あのころ彼がもっとも恐れていたのはプロジェクトのメンバー内で恋愛沙汰が起こることだった。芸術を愛する彼は人間の芸術精神の根源的な発露である恋愛を尊んではいたものの、それらが巻き起こす原始的ないざこざを可能なかぎり遠ざけたがってもいた。
 後輩思いのカーヴェ先輩によればこうだった。――彼が教令院に入学してすぐに与えられたグループ課題において、妙論派の新入生だけでプロジェクトを進めることになった。これは複数人の共同で研究をおこなっていく教令院のやり方になじませる意味合いのつよい、いわば実践、実験、体験といったかたちの簡易のプロジェクトだった。結果よりも過程が重視される訓練に近かった。
 教官の指示にしたがってカーヴェを含め五人で組んだ。一ヶ月後の発表日までの準備期間を自由に利用し、グループとしての成果をまとめることになった。全員が気のいいタイプで、我を出しすぎず内向きにもなりすぎず、「嘘みたいにいい感じ」に進行した。カーヴェはこのプロジェクトの成功を確信していた。……取り組みはじめて五日目までは。
 グループ内でとりわけうまくいっていた男女(仮にAとBとする)が、五日目にはちゃっかりと互いの好きを確認しあって恋愛関係になった。それはAとBのどちらにとっても初恋だった。彼らは舞い上がった。グループで話し合いをしている最中にテーブルの下で手をつないだ。AがBの腿に手を置いた。Bがつま先でAの足をなぞった。彼らはこっそりとひみつのスリルを楽しんでいるつもりだったが、メンバーにはすべてばればれだった。だがそれくらいならまだよかった。AとBにひそやかさを満喫する気持ちがあったからだ。
 そのうち、AとBはひと目をはばからずに触れ合うようになった。教令院の廊下を腰を抱いて歩き、早めに到着した講堂で講師を待つあいだBがAの膝に座るようになった。やがてそれには首筋へのキスまで付随するようになった。
 カーヴェは見ていられずに目を逸らした。あるときその様子に気づいた指導教官が笑った。数々の学生を見てきた指導教官に言わせれば、それはめずらしいことでもなんでもないのだという。カーヴェは驚き、教官の豊富な経験談に耳をかたむけた。教官いわく、教令院にはカーヴェ――やアルハイゼン――のように一種の自然体で教令院という道を選んだ者と、教令院をひとつのゴールと考えて絶大な犠牲を払って死にものぐるいで入学した者の二種類の人間がいる。後者の人間は教令院の制服に袖を通した時点で言い知れない解放感に包まれ、これまで抑圧してきた欲求に一気に素直になることが多い……しかもその素直さは際限がなくなる。こういう場合の欲求の筆頭がなにかというと、それは当然、年ごろの男女らしい恋愛願望なのだった。
 それでもまだ、彼らがうまくいっているうちはよかった。問題はプロジェクト開始から三週間、すなわち発表一週間前の追い込みの時期に、彼らの関係が破綻してから深刻化した。AはわかりやすくBに近づかなくなり、Bはグループでの話し合いをAと顔を合わせたくないからと拒絶した。基礎的なやりとりがやたら煩雑になり、メンバー間で顔色を窺う空気がはびこる。情緒不安定になったBは突然泣き出しさえする。ここにおいて「嘘みたいにいい感じ」だったグループの雰囲気は地獄のような最悪を記録した。主にAB以外のメンバーの必死の努力と苦労の甲斐もありなんとか発表は無事に終了したが、その一ヶ月はカーヴェにはなんとも苦い思い出として刻み込まれた。
 アルハイゼン後輩に苦々しくその逸話を語るカーヴェ先輩の口癖、あるいはお決まりのまとめ方は「アルハイゼン、共同研究課題のメンバーに恋をするなら、絶対に誰にも知られないようにしなくちゃだめだ。それができないならそもそも恋をしてはいけない」だった。
 彼の真摯な声音を、心から後輩のためを思って言っている声調を、どこか遠くを見る疲れたような表情を、アルハイゼンはいまでも憶えている。
「その様子だと君の初恋はまだ訪れていないようだな」
 ようやく全体の温度がちょうどよくなったスープを口に運ぶカーヴェの動きが止まらない。そのまま、まあね、と彼はためらいなくうなずいた。
「あんなのを目の前で見せられたらとうていその気にはなれないよ。もし初恋が誰に対してもあんな、誰かに迷惑をかけてもわからなくなるくらい我を忘れるきわめつけの威力を有しているなら……ほら、僕って特別のめり込みやすいだろ……僕の人生はそうでなくても低空飛行なんだ、これ以上みっともなくなる材料を自分で提供する必要もないだろう。恋をした自分がどうなるか考えただけでおぞましいよ。そうだな、もっと日々の生活が軌道に乗ったころ、きっと三十歳くらいかな、そのころ孤独にひっそりみじめに終わらせるさ。彼らが自ら証明したように、初恋なんてどうせ長続きしない一過性の熱病みたいなものなんだから」
 アルハイゼンは曖昧な相槌を打った。今夜の酒はどうにも甘すぎた。
 カーヴェが首をかしげている。
「君こそどうなんだ? 神聖で滑稽な初恋は迎えたのか?」
「まあな」
 カーヴェはまばたきをした。
「えっ……嘘だろ? 君が? そんな話きいたことないぞ」
「なぜ俺の初恋の話をいちいち君に報告しなければならない? 言っていないのだからきいたこともないだろう」
「いつ?」
「とっくの昔」
「誰? いや待て、当ててみせるから。伊達に君との付き合いも長くないからな」
 しかしその付き合いは惨たらしく途切れたことがあるじゃないか、とはアルハイゼンは言わなかった。アルハイゼンの初恋はうんと昔のことで、実際のところ断絶した時期よりもまえのことだったからだ。
 スプーンを置いたカーヴェは金緑の硝子を眺めながら細い輪郭に指を添わせた。
……それって僕が知ってるひとか?」
「あきれたな、当ててみせると豪語したのにまず質問とは」
「だって僕の知らない相手だったら当てるもなにもないだろう!」
「知っている人間だ」
「えぇ……。よく? よく知ってる?」
「君を見ているかぎり、よくは知らないだろうな。だいたい、君によく知っていると断言できる人間なんて存在するのかどうかも怪しいが」
「失礼だな! 君こそ僕のなにを知ってるってんだ!」
 輪郭をなぞっていた指先をそのまま顎に持っていき、露骨に考え込みはじめたカーヴェは真剣だった。アルハイゼンはあえて水を差さずに彼を待った。こんなふうだからカーヴェの食事はどんどん遅れていくのだ、と一向に減らない皿の中身を見つめる。
 アルハイゼンが追加注文した甘くない酒が卓に届くのとほぼ同時に、カーヴェが指を鳴らした。
「わかったぞ! 知論派の先輩だな」
「は……?」
「いやファルザン先輩じゃない。その目をやめろ。僕よりひとつ上の学年に巻き毛のブルネットの女性がいただろう、名前は覚えてないけどさ、いつだったかな、君が図書館で重たそうな書籍を運ぶのを手伝ってた女性だよ。ぱっとひと目を引く華やかなタイプじゃなかったが、山間に楚々として咲いているスメールローズのようなひとだった。君は可憐な年下をかわいがりたいようには見えないし、どちらかといえばしっかり自立した年上に惹かれそうだからな。どうだ? けっこう自信があるんだけど」
「君はとことん浅い男だな。人を見る目がない。どうしようもない依頼人たちと毎度毎度真っ向からしょうもない言い争いをしている理由がよくわかる。常人には理解の及ばない場面でまんまと騙されつづけているのも納得だ」
「はあ? なんなんだよ! ふんっ、まあいいさ、これだけの期間僕を引き取って平気でいるってことは君の初恋も例に洩れず残念な結果に終わったんだろ。あんまりかわいそうだからこれ以上きかないでおいてやるよ。僕は後輩への気遣いを欠かさないすばらしい先輩だからな」
 アルハイゼンが注文した酒を流れるように奪い取り、また思いきり呷る。ちょうどいいものを追い求めるわりに、中道の飲み方はいつまで経っても学習しない。ただ、もしかしたら、彼にとってはこの無茶無謀が酒に対峙するほどよい姿勢なのかもしれなかった。

 カーヴェはあの日の勘違いからはじまった知恵の殿堂で自分のほうが先にアルハイゼンを見出したと思っているが、それは事実ではない。アルハイゼンが彼を知るほうが早かった。まちがいなく。
 彼には自意識の過剰なところがしばしば見受けられるが、反面、自分がどれだけ目立つかという点に関してはなぜか大いに抜けている。当時、アルハイゼンはとっくに彼のことを知っていた。名前は知らなくとも、知恵の殿堂でああでもないこうでもないと頭を悩ませる彼の姿はすっかりアルハイゼンの目になじんでいたからだ。複数人でなにやらこねくり回していることもあった。同級生らしき学生に助けを求められて迷わず自分の課題を放り出し、日が暮れるまで相手に付き合っていることもあった。あくまでアルハイゼンの目が届いたのが日暮れまでだったのであって、ほんとうは夜更けまでやっていたかもしれないのだし、彼の性格を思えばやっていてもなんらおかしくない。
 それはアルハイゼンには納得のいかない光景だった。まばたきをするたびに秩序を取り落としていくような、ふしぎなひとだと思った。無垢で無知な嬰児が自分だけの完全で完璧な世界を創り上げているように、彼だけの十全な世界観を構築してそのなかに心を安住させていながら、外界にも心残りを見つけてむやみに手を伸ばす。あえて均されようとする。しかも自身を標準に合わせようとするのではなく、他人を引き上げて自分の見ているものを共有しようとするのだ。そんなことは不可能に決まっていた。彼はいつでも彼だけのための世界に孤独に息をしていた。たとえ彼が誰かのために踏み台を用意してやったとしても、いずれ必ずほころびは生まれる。土台が崩れるか、平均の欺瞞が暴かれるか、彼に限界がくるか。その想定はひどく不合理でばらばらでさみしく、純粋にカーヴェらしい。
 ひとつの過不足もない人類の理想の極限のような、あの横顔をはじめて目に入れた日のことを、アルハイゼンはいまになってもなまなましく思い返すことができる。知識の吸収と深遠な思索にふさわしい静謐の図書館で彼を見つけた。夜空の安息に気をゆるめていたら星のかたまりを直に目に投げ入れられたみたいに、はげしく炸裂してまっすぐに伝わる衝撃があった。
 本以外のものに意識を占有されたのははじめてだった。しかもそれは気息を伴うきらきらしいいきものだった。目を離したらなにをしでかすかわからない、不安定で不条理で手の打ちようがない、無類のひとだった。
「それでいいさ。俺の初恋の話は、せいぜい相手が誰かということ以外、君にとってはおもしろくないだろうからな」
 アルハイゼンの初恋はまだつづいている。


(20230602)


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