傍若無人気味な魔王(災さん)が勇者(薬師さん)を全力で高い高いするお話です。たぶん「風の強い夜に」より前の時系列です。えらいのでちゃんと許可を取りました✌
@san_ph7
立ち寄った町で、北の国へ行くための旅支度をしているところだった。目的地へはどんなに急いでも冬期に到着する旅程ゆえに、その移動のほとんどは徒歩になるから、荷物を慎重に整理しなければならなかった。特に、防寒の対策を怠れば命に関わる――勇者である彼女にも魔王である彼にもあまり問題がないと言えばなかったが、怪我をするのは両者本意ではない――ので、町での準備はおのずと念入りになった。
彼は自分の装備を自分で整えた。当然と言えば当然だ。彼は自分が“人でなし”であると彼女に伝えてはいたけれど、魔王だとは言ってない。訳あってできるだけ人間のふりをしたい魔王にも、魔王なりの準備があったのだ。何より彼はただの同行者。勝手についていく立場でしかないからには、弁えというものがある。
それぞれがするべきことを終え、必要なものを調達したあと、彼は偶然を装って彼女と合流した。彼は渋る彼女を宥めすかして、その腕からいくらか荷物を取り上げ、彼女が宿泊する予定の宿へ向かっている。石畳の上を通り過ぎる人影は、夕餉の支度をするためか足早に急ぐひとと、楽しそうな雰囲気から恐らく酒を飲み交わしにいくのだろうひとと、様々ある。人混みとまではいかない人通りの中を、彼は彼女を先導するように歩いている。少し気になることがあったので、彼は歩きながら顔で振り返って尋ねてみた。
「今日、誕生日なの?」
彼女は青紫の瞳を瞬かせて「いきなり何ですか」と尋ねる。いかにも不審なものを見る目つきだ。彼は弁解した。
「この間薬を届けたひとに、さっき会ったでしょ? お礼に小さな子からお菓子をもらってた。そのときに君、『誕生日だから嬉しいです』って」
「見てたんですか……」
路銀を稼ぐため、というよりは彼女はそれが生業だから、町の人々へ薬を売ることも当然ある。客には多様な人間がいる。高慢な金持ちから、今日を辛うじて生きている貧しい者まで。求められれば応えるが、無償で施しをするほど節操がないわけではない。分別はあるが、慈悲がないわけではない。商売人の世渡りとして手本にはならないだろう。しかし彼女は薬師で、何より勇者だ。いい塩梅を知っていると彼は思う。したがって、薬の代金とは別に彼女が客から感謝の気持ちとお礼とを受け取ることは、珍しいわけではない。
気になるのは“誕生日”の方だ。
「そうなの?」
子どもを喜ばせようとしてつくような嘘ではないだろう。しかし彼女はこれに答えず、その上気まずそうな顔をする。確かに、だからどうなのだと言われると、彼も困る。特に何も考えずに尋ねてしまったというのもある。否定しないからには、誕生日には間違いないのだろうが……さて、どうしようか。
悩みながら歩いていると、彼女が釘を刺してきた。
「もし何か考えているのなら、別に気にしなくて結構です。生きているうちの、ただの一日のひとつでしかないです。一年がまた一巡りしたというだけ」
実に素っ気ない。勇者は女神からの神託を受けた時点での肉体が保存されているので、どんなに年を経てもそれが衰えることはない。つまりその性質上、加齢という一点で見た場合の誕生日は、彼らからすれば何の変化もない一日でしかない。それにしたって誕生日に嫌な思い出でもあるんじゃないかと彼は邪推した。しかし本人がそういうならば、大っぴらにおめでとうを言うのは憚られる。……憚られるが、何もしないわけではない。何故なら彼は魔王だから。自分に都合よく我を通したいときに、傍若無人を気取ることはある。
「お腹減った」
「……あなた、お腹減るんですね」
「実はね、減るんだ。今日は一日準備で大変だったし、こうして重たい荷物も持っているし」
「それはあなたが強引に持ってるだけじゃないですか!」
憤慨している気配を背中に感じながら、彼はこう続けた。
「こんな賑やかな夕刻だ、まさか僕にひとりで寂しくご飯を食べなさいとは言わないよね? それに、ヤナギもお腹減ったでしょ。一緒にご飯食べようよ」
返事がない。だが、拒絶はされていないようだ。少し意外に思った。実際本当にお腹が減っていたのか、それとも根はお人好しだからなのか――それとも両方か。どちらにせよ、提案に乗ってくれたのなら嬉しい。宿に荷物置いてから行こうね、と言っても、彼女は無言を貫いたままだった。
騒がしいのは苦手だろうかと彼女を伺ってみたが、嫌がるような感じはなかったので、彼は一際賑やかな酒場を選んだ。随分と繁盛している。テーブルは埋まってしまって、あとは椅子も何もない、カウンターの隅が空いているぐらいだ。彼らはひとまずそこに陣取った。空間は人々の熱気と喜びで満ちていて、晩秋も過ぎたかという夜の寒さはどこにも見当たらない。
賑やかなのは、いいことだ。彼はちらりと横目で彼女を見た。元気がない。まるで火の落ちた炉のようだ。だが、この喧騒の中にあっては紛れてしまう程度の様子だ、気がついているのは彼以外にはない。却ってよかったのかもしれない。このような様子の彼女を宿へ帰しても、部屋でひとりきりだっただろうから。それではきっと、寒くて寂しい夜になってしまう。
「ヤナギはお酒飲めるの?」
「……飲めなくはないですが」
「飲めなくなったら僕が飲むよ」
彼はエールと、適当に酒肴を頼んだ。それらが運ばれてくるまでに、今日あった出来事のいくつかを話し、こちらからも尋ねてみるが、あまり会話は弾まない。生温いエールの入った器が運ばれてきたあとも、依然として調子は変わらなかった。女性を楽しませることに関しては少し自信があった彼だが、その自信はどこかに返上した方がよさそうだ。頭を掻く。
酒場は空回りしたようなふたりを置いて、どんどん盛り上がっていく。誰かが楽器を持ち出して、どうやら即興の演奏会が始まったらしい。少なくない人々がそちらへ視線を向けている。何の変哲もないカウンターの木目を数えているのは彼らぐらいかもしれない。そのせいか、この酒場の隅、ふたりの周りだけは異様に静かだ。小魚を揚げたのを音を立てて齧りながら、彼はどうやったら彼女の気が紛れるか、ひとりで作戦会議をしている。
「つまらないでしょう?」
そう言うから、彼は彼女を見た。手元のエールはあまり減っていないようだ。自嘲気味に唇の端を歪ませたまま、カウンターの木目を睨みつけている。
彼は首を横に振った。
「僕が誘ったんだよ。今君が楽しくないのは、僕のせい」
彼女は少し怯んだ。そんなことは、と小さく唇が動く。それを掻き消すように、背後でわあっと歓声が上がる。即興に歌が加わった。
「誕生日がただの一日でしかないっていうのは、僕も大体同意かな。死ぬまでの間に必ず訪れる、他の日々と外形上は何も変わらないね」
「そうですよ。だからって、特別なことをする必要がありますか? 理由がない」
……何故それほど戸惑うのだろう。彼は緑の瞳を瞬かせた。左目に封をしているので、彼女の糸を読み解くことはできない。頑なな態度には原因があるのだろうが、糸を使って仔細をすっかり把握して、そこから解きほぐしていくことは難しい。そうすると、頼れるものは経験則だ。
「生きていると、今日みたいな日もあるよね」
「……何ですか、それ」
藪から棒に、とでも言いたげに彼女は顔を上げた。彼は体の向きを反転させて、カウンターを背にもたれかかる。人々は酒を飲み交わして、羽目を外して騒いでいる。喜びも悲しみも、それぞれの人の中にはあるだろうが、この空間の歓喜はそれらをうまく包み込んでいた。様々な人の歓談から発せられる声と熱気が集まって、空間はひとつの生き物のようだ。
「旅先で、こういう賑やかな酒場に在ってぽつんとした孤独を感じることもあれば、何もない荒野の夜に星々の交歓を聞いて、何故だか賑やかな気持ちになることもある。ものの感じ方を自分で制御するのは大事だけれど、うねりの中に竿を挿して意地を通すよりは、流される方がよほど楽なときさえあると、感じるんだよ。そこにはふたつの“流れ”がある。ひとつは今日のこの場所のように、自分の外側に。もうひとつは、自分の内側に」
忘れてはいけないのは、と彼は続ける。人々はテーブルの上に上がって踊りだした。即興に合わせて、手拍子と靴を打ち鳴らし、互いに笑い合っている。空気がさんざめく。
「人は常に完璧ではいられないという点にある。そもそも流れに逆らうのは簡単なことではない。強い心が必要だ。ただ、肩肘を張らずに休める時間を作らなければ、心は凝ってしまうから。君が持っている優しさは、柔軟を必要とすると思う。……もっとも、君はそれを自分へ向けるよりも他人を優先してしまうだろうけど」
彼女は不愉快そうに眉を寄せて、頬杖をついて彼を睨んだ。
「説教臭い“天使”ですね。もう酔ったんですか?」
「そうかもしれない!」
「嘯いてる。仮にあなたが言うように、私の心が凝って岩みたいになったって、他人への優しさを優先するなら、問題ないじゃないですか。あなただって困らないでしょ」
「ところが、困るんだ」
彼は生温いエールで喉を潤したあと、いたずらっぽく微笑んだ。
「“天使”の仕事のひとつに、人間へひとときの“安らぎ”を与えるというのがあってね。風に乗せて安息を運ぶ。例えそのひとときが瞬き一度ほどしかなくても、心はそれを覚えている。君は今、心が休まってないでしょ」
「……誰かさんのせいでは?」
彼女の威嚇する寸前の猫みたいな様子に、彼は笑ってしまった。炉に火が戻ったらしい。
「いいよ、僕のせいにして。最初にも言った。それで、全部僕のせいにして、今だけは流されてくれる?」
彼は彼女の左手を取った。指先が草の色に染まっている、働きものの手。それでも細く柔らかく伝わる繊細な感触は女性のそれだ。周囲の様子と彼の今の行動で、音が鳴りそうなほど身を固くした彼女へ、安心していいよと彼は言った。
「踊るのはあとにしよう。嫌ならそう言えばいい。
――君、生まれてくるべきではなかった、って、思ったことある?」
問いかけられすぐに身を引こうとした彼女はけれど、その手を掴まれていることに気がついて、恐ろしいものでも見るように彼の緑の瞳を見つめた。“人でなし”の瞳は人外の法を用いなくとも簡単に彼女を視線で縫い留めた。
「ひとの命に関わる君のことだ。終わりのない旅の中で、たくさんの人々に出会って、今日のように感謝されることもあれば、そうでないこともあったはずだ。何しろ、どうしたって人は必ず死ぬから。そうした日々を送る君の生き方の中で、もしほんの一瞬でもその考えが頭を掠めたとしたら、それは強烈に君を傷つけただろうなと思って」
そして、いつまでも抜けない棘のように。
「それは今も君を縛っている。『嬉しい』と言いつつ、僕にそれを指摘されたときにバツが悪そうな顔をしたのは、『嬉しい』と思ってしまったことに気がついたから。その考えが、喜んでいいわけがないと君に思わせたから。君は今、生きている。惰性ではなく強い意思で。でも、誰かを救うための旅の“流れ”の中に、その考えが刺さったまま抜けない。だから今日というこんな日に、心が休まらない」
力が抜けて、だらりと下がりそうになった彼女の左手を支えながら、彼が続ける。
「君はそいつと長い付き合いだ。うまくいなしてきたんだろうけど、僕からすれば、それがあるから君は君自身へ優しさを向けられないのだろうと思う。すごく心配だな。――『優しいひとは、自分に優しくするのを忘れてしまう』から」
「……だからって、どうしろというんです。今更」
俯いてしまった彼女へ、体を少し近づける。怖がらせてごめんね、と彼が呟くと、泣きそうな顔をした彼女と目が合った。少し吊り上がった眼尻に、大きな青紫の濡れた瞳。そこに拒絶は見て取れなかったから、彼は内心喜んだ。流されてくれるらしい。
「そいつを抜いてあげられるかはわからないんだけど、もしよかったら、僕にもう少し任せてくれないか。君に“風”をあげる。そうだな、日が出る前に一度町の入り口へ来れる? うんと寒い場所へ向かうときの格好をしてきて」
途端に怪訝な顔をした彼女と、それを嬉しそうに眺めている彼の後ろで、熱気はついに破裂した。即興曲は終わりを迎え、一夜の夢のような舞台は喝采に包まれていた。
「馬鹿みたいじゃないですか」
彼女は悪態をついた。彼に言われた通り、上から下まで厳冬期の野外で活動するための服装になっているから、至るところかさばって、もこもこしている。夜明け前の最も暗い時間帯に人通りなんてあるわけもないが、平地は未だ秋の様相で、つまり彼らは季節外れもいいところの格好をしていた。
「それで合ってるよ……と、言いたいところなんだけど」
毛皮の帽子を深く被っている彼女の、耳が少し出ているのが気になる。それに襟巻きで覆った首元も緩い。彼は彼女の襟巻きを少し高く持ち上げて、隙間風が入らないように巻き直してから、帽子の具合を調整した。彼女が黙って世話を焼かれているわけはなかったが、
「よく似合ってる」
と、褒めたら音が出そうな速度で顔を逸らされた。あとはされるがまま。しめたものだ。
彼はそれから、分厚くて重たい外套を少しずらして、寝起きの猫みたいに伸びをした。強い風で外套がめくれ上がるように、裾の下から巨大な黒い翼が現れる。戒めを解かれた翼が羽根を膨らませて震えた。
「いいんですか?」
「誰も見ちゃいないよ。今から行くところには翼が必要なの。すごく高いところだから」
彼はそう言って、上を指差す。頭上は薄ぼんやりとしている。厚く雲がかかっているらしい。彼女は一瞬間を置いて、冗談ですよね、と彼へ言った。
「ラッキーだね。この雲の上にはもう何もないと思うよ」
「全然答えになってない……」
「じゃあ行こうか」
失礼、と一応断りを入れて、彼は彼女を抱き上げた。彼女の口はへの字に曲がっているが、もう抗議をすることは諦めたらしい。身を固くしたまま、しかし大人しく彼に抱かれている。会話の流れからこのあとどうなるのかは察していたとはいえ、彼女はどうやらかなり怯んでいるようだ。彼は微笑んだ。
「大丈夫、カイを抱えて朝になるまで飛んだこともあるから。でもそうだな、もう少ししがみついてもらっていい? もちろん、決して落とさない。ただ、雲を突き抜けるときに、くっついてないと……痛いかも」
「い、痛い?」
「氷のつぶてが当たる」
この上さらに要求されるとは思わなかったか、彼女はどうやって彼にしがみつくか、かなり悩んだ末に、片腕は彼の背の方へ回して皮の上着を掴み、もう片方は遠慮がちに彼の胸の上へと置かれた。彼が臨んだ通り、ぴったりとくっついてくれているが、残念なことに帽子に遮られて、今彼女が一体どんな顔をしているのかがわからない。かといって覗き込んで暴れられても困るから、彼は自分の好奇心を宥めた。
彼女がしっかり自分を掴んでいることを再度確認して、それから石畳を垂直に力強く蹴り上げた。彼女を抱えているために、それほど高くは飛び上がれなかったはずの跳躍は、その頂点で開始されるはずの落下運動を変更し、彼らを真上へふわりと浮かび上がらせた。広げた黒翼が一度大きく羽ばたくと、徐々にふたりは加速していく。石畳がみるみるうちに遠ざかるが、下を見る余裕はないのだろう、彼女は自分たちが非常識な速度で非常識な方向にすっ飛んでいくことよりも、
「……ッ寒い!」
地上の冷たい空気をさらに上回る冷たさに、防寒対策が意味をなしていないことへの文句をつけた。
「襟巻きで口元を覆っていて。あともう少ししたら雲の中に入るから。目はつむっていたほうがいい。凍るよ」
「冗談ですよね!?」
「どうかな! 睫毛は凍る!」
彼は翼を畳んで抱えた人を包み込むと、雲の中に突っ込んだ。彼はよく知っている。雲というのはただの水滴と氷の粒の塊で、空から落ちてこないのは、その粒子がとても細かく宙に浮いていられるほどだから。それから、その雲の中はふわふわした外見からは想像できないほど、気流が激しい。細かい粒子が彼の体にぶつかると、寄り集まって水滴になる。それが全身にまとわりついて、体から熱を奪っていく。逆しまに落ちる滝の飛沫をかぶっているようだ。どうか彼女が濡れませんように。努めて呼吸を細くする。しかしその祈りも一瞬のこと。上昇気流に押し上げられて、彼らはあっという間に雲を突き抜けた。
肺を刺すような冷気を持った風が、雲と空の他には何もない場所を堂々と吹き抜けている。吐いた先から息が凍っていく。地上のどんな場所と比べても、この空の上より寒いところはないだろう。何者にも息づくことを許容しない茫漠とした雲の平原には、風の音すら存在しないかのようだ。
「着いたよ。間に合ったね」
声をかけられて、彼女はゆっくり目を開けた。
辺りは不思議な色に染まっている。碧海の明るい緑がゆったりと空へ横たわり、空の低いところから、頭上の濃紺へかけて段々と明るくなっていく。橙色が染み出し、混ざり合い、黄金の帯を作る。にわかに、雲の平原の向こう側、空と大地の境目がじわりと滲んだ。地平線を僅かに歪ませながら、遮るものの何もない空の世界へ朝日が零れ出て、光を撒き散らした。光芒は幾重にも重なり合って、世界の端にわずかに残っていた、薄墨のような夜を追い払う。
「誕生日おめでとう、ヤナギ。一日過ぎちゃったけど」
返事がなかった。ただ、細い息遣いが聞こえる。
「確かに、なんの変哲もない、ただの一日だ。それでいいんだ。君が生まれた日も、雲の上はどんなときだって、今日と同じような朝だったと思うよ。ね、それで、思い出してくれたらいいなって」
君は祝福を受けているんだよ、と彼は言った。
「僕も君も、この世界に神様がいることを知っている。“彼女”は、この世界に産み落とされた生命に、遍く祝福を授ける。それから君は、君の両親に、まことに望まれて生まれてきた。君を取り巻く幸福が、確かにそこにあったはずなんだ。なにも嘘はなかったと思う。僕はね、いつまで経っても他の気の利いた言葉に取って代わらずに、決まりきった『おめでとう』を繰り返すのは、そのためなんじゃないかって思うんだ。覚えてなんかいないだろうそのときが、確かにあったんだってことを、思い出すための」
誕生日おめでとう、と彼はもう一度呟いた。
しばし沈黙が降りたあと、寒いからもう帰ろか、と彼は言った。そのとき彼女は初めて、彼を見上げた。氷の粒が睫毛を飾っている。彼女の瞬きひとつで、一粒が涙のように光って落ちていった。
「もう少し、見ていてもいいですか」
「……いいよ」
茫漠とした雲の平原には、時折唸るほど冷たい風が吹いて、彼らを容赦なく撫でる。けれども、ふたりとも身動ぎひとつせず、しばらくそこに佇んだままでいた。
「ありがとう」
出立の日の朝、これから町を出ようというときに、彼女は小さく呟いた。何についてのお礼だったのかわかりかねて、彼が首を捻っていると、あの朝の出来事のことだと彼女は言った。それから、もう少し何かを伝えたかったのか、小さな口をもごもごとさせていたのだが、やがてそれも諦めて、ため息をつきながらこう言った。
「あなたは時々、無茶苦茶をするひとですね。カイのことは言えないんじゃないですか」
「僕は別に、全身やけどまみれで君の旅路の途中に現れた覚えはないよ?」
「そうじゃなくて……言っておきますけど、もし次にあんな無茶をしたら、置いていきます」
「わかった」
自分の荷物は自分で持つ。求められたら助け合う。彼は彼女から、いくつかの旅の流儀を学んだ。郷に入ればなんとやら。その彼女がわざわざ釘を刺したのだ、次何かやったら本気で置いていかれるだろうなと彼は思った。
極寒の空を経験すると大したことのないように感じられるが、この朝は最近ではいちばんに冷え込んだ。吐く息は白く、ゆるやかに風へ流れる。低い位置から差し込む陽光は、ひとを温めるほど優しくはなかったが、今ここにあることへの拒絶もしなかった。朝靄に包まれた街道をぼんやりと眺めていると、何してるんですか、と声をかけられる。
「置いていきますよ、……ウィル」
彼はぽかんと口を開けたまま、立ち止まってしばらく呆けていたが、こちらを気にせず、ずんずんと――それはもう早足過ぎるんじゃないかと思う速度で――先を行く彼女に気がついて、慌ててその背を追いかけた。口の端がふわふわ浮いてしまうのを止められない。横へ並んでも一瞥もくれない彼女をしばらく見つめて、視線へ耐えきれずに疎ましそうな顔を作ったそのひとが、何か文句を言おうとこちらを見たのを見計らって、彼は喜色満面にこう言った。
「ヤナギ、君って時々すごく、可愛いよね!」
「はぁ!?」
爽やかな朝の街道に、彼女の声が響き渡った。