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全体公開 再録 1 7 29986文字
2023-07-18 19:11:46

あずあら 2021年1月24日発行 web再録
荒船が狙撃手に転向してから東さんがやけにつっかかってくるようになり、険悪な関係から始まるオーソドックスな話です。

Posted by @saeki_f

 ボーダーに入隊したばかりのC級隊員はポジション別にオリエンテーションを受ける。狙撃手の新入隊員は佐鳥に連れられてもうすぐ訓練場に来る予定で、東は一足先に訓練場で待機していた。東にとってはもう数え切れないほど経験したことで、いつも通りの流れだ。
 しかし、その日だけはいつもと少し違うことが起きた。佐鳥を先頭にぞろぞろと入ってきたC級隊員の最後尾、自隊の服を着たB級隊員が現れたのだ。黒い隊服に帽子姿。その顔は東もよく知っている。
「え、荒船? なに、見学?」
「違います」
「荒船さんも狙撃手のオリエンテーション受けるらしいです。急について来たから佐鳥もビックリですよ~」
 佐鳥もほんの数分前に同じようなことを尋ね、荒船から事情を聞いたばかりだ。昨日まで攻撃手だったが、今日からは転向して狙撃手になるのだという。この場に居合わせた正隊員は耳を疑った。転向ももちろん驚くべきことだが、この場でそれを知ることになったのがそれを増幅させている。
「俺のことはC級だと思って、普通に始めてください」
 それはやや無理があると東も佐鳥も思ったが、いつまでも荒船とだけ話しているわけにもいかない。他の隊員を待たせているし、二人の動揺が波及し始めている。
 東は佐鳥と荒船の顔を見比べて頷き、新入隊員に待たせたことを一言詫びてからオリエンテーションを開始した。
 一通りの説明や体験を終え、各自解散となった。佐鳥は次の予定まで他の新入隊員のために時間を使うようだ。荒船が訓練場に残って一人で三種類の銃を撃ち比べていると、後ろから東が近付いてきた。
「先に言ってくれればよかったのに」
「すみません、急に。でもこんな驚かれるとは思わなくて」
「一人だけC級ジャージじゃない奴が居たらそりゃ驚くだろ。なにもオリエンテーションから参加しなくても」
 何も知らないC級隊員は、急に後ろからついて来た荒船を指導員だと思っていたらしい。荒船も攻撃手だったとはいえ狙撃手二人を擁する隊の隊長なのだから、新人扱いまでする必要は無かっただろうに。
「基礎からちゃんとやりたかったんですよ。明日から訓練にも参加するんで、よろしくお願いします」
 荒船は何事でもないように話しているが、東は荒船の心情が気になった。個人的に親しいわけではないが正隊員として基本的な情報くらいは持っている。性格的にも接近戦に向いており、攻撃手としてマスタークラスになって調子は良さそうに見える。このままもっと上を目指すものだと思っていた矢先の転向だ。何かあったと考えるのが普通だろう。
 この転向をきっかけに、東と荒船の関係は複雑に構築されていくこととなる。


 荒船が狙撃手に転向したという話はすぐボーダー中に広がった。荒船隊が全員狙撃手になって戦略が変わるとか、近寄れない狙撃手は厄介だとかいう話の中、一つの推測が生まれる。荒船は弟子の村上に追い越されたからポジションを変えたのではないか、と。
 噂の真偽について、本部所属の人間は誰も荒船に直接確認していない。荒船も聞かれないから答えない。そのせいで、主に狙撃手界隈ではそれが定説となりつつあった。
 師よりも弟子の方が優れた成績を出すというのは、どんな世界でもままあることだ。弟子との歳が離れているならまだしも、荒船と村上は同い年。しかも技能習得向きのサイドエフェクト持ちともなれば、追い越されるのは必然のようなもの。荒船に悔しさが無いといえば嘘になるが、ある程度は割り切っている。それに、村上の成長は荒船の教え方が間違っていなかったことの証明だ。そこは素直に嬉しかった。


「村上にポイントで負けたんだって?」
 荒船が自主練をしているところへ東が近付き、いきなりそんな言葉を投げてきた。悪意とまではいかないが、流石にその言い草には何か嫌なものを感じる。
 転向してからまだ一週間。東とは以前よりも顔を合わせる機会が増えたとはいえ、特別親しくなったわけでもなければ恨みを買うようなことをした覚えもない。なぜこんな突っかかるような言い方をするのか甚だ疑問である。
「ああ、はい」
 棘のある言葉選びとわざとらしい薄笑みに、思わず荒船の返事も素っ気なくなる。視線も東を一瞥しただけで、すぐ的の方に戻した。年上を相手にする態度とは言い難いが、東から仕掛けてきたことだ。
「もっと上を目指そうとか、弟子に負けたくないとか思わないのか」
 今まで荒船が幾度となく無視してきた周囲の視線。誰も声に出して本人に聞こうとはしなかったが、荒船にはひしひしと伝わっていた。
(東さんまでそんなこと言うのか)
 ポイントは目に見えるため、分かりやすい理由を想像した結果広まった噂なのだろう。真実よりもそれらしい噂の方が受け入れられやすいものだ。
 来馬の気遣いのお陰で村上が抱えていた誤解は解けた。本人が分かってくれればいいし、言い訳くさくなるので荒船は外野の誤解を放置している。タイミング的にそう見えても仕方がないのは承知の上。
 周りの視線は関係ないと、淡々と自分のやるべきことをやってきた。東のことはいち隊員として尊敬しているし、学ぶ点が多くあると思っている。しかしこんな単純な噂を持ち出してわざと煽るような質問を投げかけてきたのには荒船も些か苛立ちを露にした。
「上を目指してもキリがないでしょう」
 何かを引き出そうとする意図を感じる。だから苛立ちも相まって、心にもない言葉を返してやった。あくまで表面上は冷静を保つ。斜に構えた態度を見せれば呆れて去っていくかと思ったのだが。
「もう少し男らしい奴だと思ってたんだが」
「野心を抱くのに男も女もありませんよ」
……そうだな。訂正しよう」
 東は賢い。今のところ論戦で勝てる要素が見つけられるほどの付き合いも無いので、荒船はその程度しか言い返せなかった。
「どういう強さを求めるかによるが、強くなるには上を目指さないと」
 そんなことを荒船が理解していないとでも思っているのだろうか。東に限ってまさかそんなはずはない。何を引き出したいのかは分からないが、こんな問答は時間の無駄だ。
「元A級一位の隊長だからそんなこと言えるんですよ」
「今はB級だよ」
 ああ言えばこう言う。やはり簡単に退けられる相手ではない。かといってこの場を去るのも逃げるようで悔しい。
多くの弟子を抱えているから世話好きなのかとは荒船も思っていたが、こんな世話は焼かれたくない。世話というよりはお節介に近いだろう。
 技術の高さを求めるなど当然のことだ。しかし上を目指し続けるかどうかは別問題。荒船は他にもやらなければならない課題が山積している。どこかに目標を設定していかなければキリがない。マスターランクはその区切りとして丁度いいと思っただけだ。これから狙撃手の道を極めてもまだやっと半分。村上との競争にばかり躍起になっている場合ではない。
……とにかく、一応俺にも考えがあってやってるんで」
「それは教えてくれないのか」
 もっと普通に聞かれれば荒船も素直に教えただろうに、なぜあんな聞き方をしたのか。意地っ張りな部分が出てしまったと思いはしたが、鈴鳴あたりに聞けばすぐに分かる話だ。
 荒船がそっぽを向いてしまったので東は諦めたようで、帰り支度のために換装を解いた。
「お前のところは全員狙撃手の編成になるな。当たるのが楽しみだ」
(全然楽しみじゃねえ)
 多分、思ったことが顔に出ていたのだろう。東は面白そうに笑って荒船から離れていった。


 ほどなくして新しいシーズンのランク戦が始まった。新編成になった荒船隊はやはり苦戦し、下位にこそ落ちないものの戦闘中にばたつく場面が見られる。安定して上位・中位陣に対抗していくにはもっと経験が必要だ。隊員は皆それを分かっているので、今シーズンは色々と考えて作戦を試すつもりで臨んでいた。
 荒船隊と東隊がぶつかったのは一回だけだ。多少運に左右された面もあったが、結果的に言えばボコボコにされた。荒船はよりによって東本人に落とされ、ベイルアウトマットの上で感じた悔しさも一層深い。
 狙撃手に転向はしたが、寄られた時の対策として弧月もセットしてある。攻撃手や銃手・射手ならばそれで対応のしようもあるのだが、狙撃手相手に負けたのが悔しい。東に撃たれたということは、位置さえ分かっていれば荒船が狙うことも可能だったわけだ。ボーダー初の狙撃手と、ついこの間初めてライフルを握った新人など比べるまでもないが、この力量差がまた腹立たしかった。
「弧月だけの時の方が良い動きしてたぞ」
 落とされるだけならまだ良い。戦闘直後にそんな言葉を投げられるから、東と顔を合わせるのは嫌なのだ。
(またこの人は……
 そんなことは分かりきっている。弧月でマスターランクまで到達したのだから当然だ。荒船が理解していることも分かった上で言っているのだろうということも窺えた。毎回やたらと荒船の感情を逆撫でするような東の言い方は、何か荒船に個人的な恨みでもあるのかと思うほど。
 荒船隊がまだ実験中であることは東も分かっているはずだ。別にアドバイスを寄越せと言うわけではないが、感情だけ波立たせて去るくらいなら放っておかれた方がマシである。東の言葉を求める隊員は他にも山ほど居るではないか。
 人格者だなんだと言われているが、話をするとどうにも腹が立つ……というか、そう仕向けられているような意図を感じた。指導者として優秀だと知ってはいても、東を頼りたくない感情が働いてしまう。
 故に荒船は東との会話を避け、質問する時は極力別の隊員を選ぶようにしていた。そもそも東は忙しい男だ。元々顔を合わせる頻度はそれほど高くないし、弟子が多いため時間がある時も誰かに捕まっていることが多い。それは荒船にとって非常に都合が良かった。


 つまり、話す機会があるとすれば東の方から話しかけてくる時だけだ。
「お前、パーフェクトオールラウンダーの量産が目標なんだって?」
 たまたま一人で昼食を摂っていた日曜の午後、他にも席は空いているのに東はわざわざ荒船の隣に腰を下ろす。手には缶コーヒーだけ。食事を摂りに来たわけではないようだ。
……誰に聞いたんですか?」
「当真が教えてくれた。村上から聞いたって」
 鈴鳴のメンバーはあまり本部に来ないので、村上から同級生伝いにという経路は想定内だ。知りたがっていた情報を手に入れて東はご機嫌だが、対して荒船はまたろくでもない茶々を入れてくるのかとうんざりしている。
「転向する奴は時々居るが、マスターランクの攻撃手から狙撃手は珍しいからな。理由が気になって当然じゃないか」
「あんまりプライベートを詮索すると嫌われますよ」
「気を付けるよ」
 既に荒船には嫌われ始めている。もちろんそれには気付いているだろうし気にしてもいないのだろう。口だけの返事に苛立って黙っていたが、すぐ次の質問を投げられた。
「荒船は、なんでパーフェクトオールラウンダーの『量産』をしたいんだ?」
 荒船は即座に言い返そうとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。
 東に何を言われてもあしらってきたが、この質問だけは妙に心に残る。「なぜ」に対して、荒船は十分な自分の言葉を持っていないように感じた。無論今まで様々な経験をした結果に辿り着いた目標であるし、達成するためのプランもちゃんとある。しかし根本的な部分で確固たる理由がすぐに出てこないことに、荒船自身も大いに戸惑った。
 荒船が黙っていると東は小さく溜息を吐いた。
「質問を変えようか。お前はボーダーをゲームか何かだと思ってるのかな」
 更に容赦のない言葉が荒船に刺さる。言外に「相手は生身の人間だぞ」というプレッシャーを感じた。これはいつもの軽い煽りとは違う。
(なるほど、そこに突っ込みたかったのか)
 ゲーム感覚でボーダーの活動をしている人間は存在する。それは訓練中に限る場合がほとんどなので問題視はされていないが、荒船の場合は意味が違ってくるのだ。人材育成には他人が関わってくるため、その倫理観が重要視される。もし荒船が遊び半分で他人に影響しようとしているのなら忠告を入れる気だったのだろう。もう少し大事になれば上層部への報告か、最悪の場合で監視がつくかもしれない。もし遊びならば、だが。
「自分の命だって懸かってるのに、ゲームだなんて思えるわけがないじゃないですか」
 口だけなら何とでも言えると言われるだろうか。しかし荒船は本気だ。鋭い視線に乗った固い意志を急にぶつけられ、東も値踏みするような表情を収めた。ひとまず納得はしてくれたようだ。
「それに、東さんがやってることだって大して変わらないでしょう」
 言われっ放しは趣味ではない。やんわりと肩の手をどかせて、荒船は横目に東を睨みつける。兵を作るのが荒船の目的なら、将を作るのが東の仕事。戦闘行為を主とする組織に在籍しているのだから、それは必要なことだ。
「俺は人に頼まれてやってるだけだよ」
「きっかけが何だろうと結果は同じじゃないですか?」
……
 二人の間に火花が散る。口論で東に勝てる算段は無いが、荒船は自分が間違ったことをしているとは思っていない。そこを譲れないだけに、東相手だろうと受けて立つ姿勢だ。
「まあ、お前に考えがあるならいいんだ」
 先に視線を外したのは東の方だった。そのままゆっくりと立ち上がり、この場を離れていく。身構えていた荒船は拍子抜けして肩の力を抜いたが、それでも試すような東の声が耳に残っている。
 言い返しはしたものの、荒船の頭は混乱していた。東の言い分も分からないわけではないのだ。ゲーム感覚と言われた点だけは否定したが、心に刺さる部分があったのも確か。荒船はただ、こうなったらいいだろうという理想を持ち、こうしてみたら良い結果が得られるのではないかという考えを実践しているだけのつもりだ。そこにボーダーの意思は無く、荒船がやりたいからやっている。
 もちろんこれは組織の得になることだ。マニュアル化ができれば単純に指導の負担が減る。だが別にそういうつもりでやっているつもりは無いのだ。もっと何か、熱を持ったものが荒船の根底にある。ただそれを上手く言葉にまとめられない。はっきりと言い返せないのはとてももどかしかった。

 それから一週間後、荒船らは混成部隊を組んで任務を行うことになった。メンバーは東、荒船、穂刈、辻󠄀、そしてオペレーターに氷見。戦闘員のバランスが悪すぎると文句を言いたいところだが、荒船隊が言えた話ではない。
 荒船は後になって知ったのだが、たまたまこの時間帯に女子隊員が多くシフトが組まれており、今回の部隊は辻󠄀に配慮した結果のメンバーだったようだ。
「せっかくの混成部隊だし、今日の指揮は荒船に執ってもらおうかな」
 開始前に集合したタイミングで、東がさも今思いつきましたという顔で口を開いた。シフトが発表された時から決めていたに違いない。顔に浮いている薄い笑みが妙に意地悪く見えるのは荒船だけだろうが。
 通常なら東が指揮を執る場面だ。年功序列もあるが、あらゆる要素で東は指揮官として優れている。訓練ならまだしも、実戦でいきなり普段と違うことを試すのはいかがなものか。
(あんたこそゲーム感覚かよ?)
 荒船が反射的にそう思うのも無理はない。人にあれだけ言っておいて、自分がそんなことをするのかと。
 しかしここで文句を言うのも格好がつかない。有り得べからざることだが、万に一つでも何かあれば東が責任を取るつもりなのだろう。そう思えば少しは気が楽だ。そもそも普段の防衛任務なのだからそれほど気負うこともない。
……分かりました」
 意外にも東は荒船の指示に素直に従い、文句などは一切出さなかった。少し構えすぎていたのかもしれない。
 特に何が起きるでもなく任務は無事に終了し、各自解散となった。東は何か考えている様子だったが荒船に話しかけることはなく、それはそれで妙な感じがする。無事に任務が終わってからわざわざいちゃもんをつけるほど東は愚かではない。それは荒船も知っているが、ここ最近の東の様子を考えればこれだけで済むとも思えないのだった。


「なあ当真。荒船って同級生の中だとどんな感じ?」
「なに東さん。素行調査?」
「素行……まあ、そんなところかな」
 翌日、東は訓練場で休憩中の当真を捕まえていた。荒船の同級生の中でも狙撃手、かつ東の弟子ということで、年が離れていても話しやすい相手だ。
「つっても、東さんからも見たまんまだと思いますよ。頭が良くてストイックでリーダーシップもあって、ちっと口は悪いけど面倒見が良くて、上からも下からも人望があります。学校じゃ結構モテるって犬飼が言ってたっけな」
「へえ、村上の他に弟子とか居るのか?」
「どうだったかな……狙撃手では弟子とってるの見たことないですけど、攻撃手には一人や二人居るんじゃないですか? アイツ人にもの教えるの上手いんで」
 やはり狙撃手だけでは得られる情報にも限界がある。その気になれば人伝いに弟子を探すこともできるだろうが。東はしかし、最後の一言が気になった。
「なんで教えるのが上手いって知ってるんだ」
「テスト前には今の次に世話になってますから」
 それで納得するのは少しどうかと思ったが、当真の成績の悪さは東の耳にも届いている。
 しかし高校生のテスト期間など、学校が違っても大体同じである。自分の勉強をこなしながら、絶望的な成績の同級生の面倒を見る余裕が荒船にはあるということだ。しかも人にものを教えるのが上手いという。その点は村上の例でも実証済みだろう。
「あとアイツ何でもできるんですけど、自分より上がいることは弁えてる節がある感じしますね。実際村上には抜かれたし、成績も蔵内の方が上だって聞いたし。狙撃に関してはどこまでいくか分かりませんけど、俺を超えるのはそう簡単じゃないでしょ」
 当真はそう言ってにやりと笑った。
 荒船ががむしゃらに上だけを目指しているわけではないことは東も知っている。何かで百点を取るよりも、全体的に七十点、八十点を取るタイプ。正にオールラウンダーである。
……当真は、荒船が一番を目指さないことについてどう思う?」
 その質問に当真はしばし言葉を探した。荒船の目的も考えも知っている人間として、どんな意見を持ったか。友人としての立場もある。
「別に良いも悪いもないんじゃないですか? 一番になるのがアイツの目標じゃないってだけの話でしょう。それに、一番になれるのは一人だけだし」
 後半の言葉には当真の実感がこもっていた。トップに近ければ近いほど、「一人だけ」の重みを知っているのだ。
 当真の意見を聞いて東は納得したように頷いた。
「まーでも、荒船を叩いても埃なんか出てこないと思いますよ」
 素行調査と言ったのが気になったのか、当真はそう付け加える。東がそのつもりなら友達の方を優先するという当真の意思表示だ。重要な情報源に警戒されてしまっては元も子もないので、東は慌てて否定を口にした。
「いや、別に粗探しをしてるわけじゃないんだ。ありがとう。助かったよ」
 ならいいんですけど、と当真は引き下がる。
 当真の意見はフラットで、友人という視点込みで考えても妥当なものだと東は感じた。荒船の目的を知ってさえいれば周囲からの目も変わるのに噂を否定しないのは、やはり言い訳に聞こえてしまうのが嫌だからだろう。格好つけたがる気持ちも分かるが、損な性格だとも東は思う。

 今日の成果としては概ね満足のいくものが得られた。東の考えを実現するにあたり、荒船は十分な人材と言えるだろう。才能と人望で経験の短さもカバーできる。他の弟子が居れば話を聞こうと思っていたが、そうするまでもなくやはり見込み通りの人間だと分かった。となれば東の取るべき行動も決まる。
 東は次の一手を打つため、当真と別れて端末を手に取った。


 次のランク戦シーズンでは前回の反省を活かし、初戦から荒船隊の動きがかなり改善された。荒船個人の腕も上がり、隊は順調と言っていい。もともと正隊員として十分な知識があったとはいえ、同時期に入隊したC級隊員と比べればポイント獲得のスピードは断然速かった。
 最近は稀に、新人から質問される機会もある。大抵は指導員の東や佐鳥などに聞きに行くものだが、二人ともなにかと忙しいため訓練場に居ないことが多い。となると上級者に聞こうとなるものだが、上級者だからといって全員が全員教えるのも上手いとは限らず、個人の相性もある。奈良坂や当真などが居ないタイミングでは、荒船の出番が来ることもあるという流れだ。
 万事が順調だった。東に関わりさえしなければ基本的に精神面で荒れることもない。このまま着実にレベルアップしていけば狙撃手のマスターランク到達も見えてくる。試行錯誤は荒船に必要だ。なるべく自力で考えて行動し、成果に繋げていこうと思っている。

「荒船さーん、ちょっといいですか」
「なんだ?」
 そんな時期の合同訓練後、荒船は佐鳥に呼び止められた。隊員達には先に帰るよう伝えて話を聞く。
「来週、また新しい隊員が入ってくるんですよ」
「ああ……もうそんな時期か」
「それで、できれば荒船さんにもC級の指導に参加してほしいんです。どうですか?」
「指導なあ……別にいいけど、なんで俺?」
 狙撃の技術だけなら荒船より上にいくらでも居るが、わざわざ声が掛かったということはそれなりの理由があるのだろう。そこは聞いておきたかった。
「またまたあ、荒船さん人にもの教えるの上手いじゃないですか。佐鳥は知ってるんですよ!」
 聞けば、荒船が指導したことのある隊員から良い噂を聞いたらしい。攻撃手時代にも村上の他に少し指導をした経験はあったし、ボーダー外で同級生や後輩の勉強を見ることもしばしば。どちらかといえば向いている方だという自覚は荒船にもあった。
「それに、東さんから推薦されてますからね。頼まないわけにはいきませんよ」
「東さんが? 俺を?」
 最近はもう名前を聞くだけでも警戒してしまう。思わず訝しげな表情で聞き返してしまったが、佐鳥はもちろんだとなぜか嬉しそうだ。
「面倒見の良さもですけど、思考力とか理解力が高いから論理的な指導ができるだろうって評価してましたよ」
 伝聞であっても東が自分を褒めているのが荒船には信じられない。無論、これが他の人に対する評価なら素直に呑み込んだだろう。正面に立てば荒船の心がささくれ立つようなことしか言わないあの東が、本人の居ない所で荒船を褒めているというのが問題なのだ。
……分かった。マニュアルとかあったら送っといてくれ」
「ありがとうございます!」
 嫌な予感はするが、指導の経験自体は荒船としても良い機会だと思う。断る理由は無かった。

 東が何を考えているのか本当に分からない。だから荒船は、本人に直接聞くことにした。
「なんで俺を指導員に推薦したんですか?」
 入隊式を目前に控え、今日は指導員で集まってミーティングを行う。佐鳥からは時間ギリギリになると連絡があったので、荒船は少し早めに集合して東にそう尋ねた。
「今の狙撃手の中で一番向いてると思ったからだよ。それに、人に教える経験は役に立つってお前も知ってるだろ?」
 成長の場を設けてやりましたと言われているように感じるのは、おそらく荒船の個人的な感情によるフィルターがかかっているせいだろう。
「随分と俺のこと買ってもらってるみたいで」
「なんだよ。俺もたまには手放しで人を褒めることくらいあるぞ。組織のための合理的な判断でもある」
 東の態度は少し腹立たしいが、件の評価は本心らしい。それに、佐鳥もまた荒船を頼れる存在として評価してくれているのは確かだ。そこには純粋に報いたいと思う。
「すみません、お待たせしました!」
 静かだった会議室に、ノックとほぼ同時に佐鳥が駆け込んできた。冷たい空気が一気に温まり、荒船もほっとする。
 これが佐鳥の人間的な魅力だと思う。嵐山隊は広報担当だからということで新人指導に毎回参加しているが、仮に佐鳥が嵐山隊ではなかったとしても指導員に選ばれていただろう。
「時間には間に合ってるよ。それじゃ、始めるか」
 そして東も荒船もきっと同じだ。狙撃技術とは別のところで、何かしらの理由があるから選ばれた。東が何か考えていたとしても、それだけは疑う必要がない。わざわざ指名で任されたのだから、余計なことは考えず仕事に集中するべきだろう。


 いざ実践してみると指導も想像以上に楽しいものだった。狙撃どころかトリオン技術についてまだ何も分からない新人の視点に触れられるし、自分の頭も整理できる。
 村上に指導していた時もそうだったが、自分が教えた相手が上達するのは面白い。C級の狙撃手から指導を乞われることも増え、訓練の成績が上がると報告に来たりする。自分のためにもなるし相手のためにもなり、指導員の経験は正に一石二鳥だった。
 そんなある日、いつものようにC級隊員から声を掛けられた。ただ一つ違うのは、それが攻撃手の隊員である点だ。
「荒船さん」
「おう、どうした」
 それは半年ほど前に入隊したばかりの中学生男子で、荒船が村上の指導を始めた頃より少し後に攻撃手の基礎を教えた相手だった。すぐ隣に同い年くらいの女子が立っている。
「こいつ、俺の同級生の狙撃手なんです。荒船さんは最近狙撃手の指導もしてるんですよね。こいつも質問したいことがあるらしいんで、ちょっと聞いてやってくれませんか」
 そう言って紹介された隣の女子は、男子から少し遅れて入隊したとのことだ。荒船も訓練などで見かけたことがある。
「構わねえけど、俺でいいのか? まだ六千ポイントそこそこだぞ」
「荒船先輩は人に教えるのがとても上手いって聞きました。それに、転向してからあっという間に二千ポイント稼ぐのは十分すごいと思います」
 前のめりにそう語る彼女は、隣の男子から荒船の話を聞いてぜひ頼みたいと思ったそうだ。荒船もそこまで言われては断るわけがない。空いた時間に相談や指導を請け負うことを約束すると、二人はお礼を言って去っていった。


「最近楽しそうだな、荒船」
 自動販売機前で休憩していたところへ東がやって来て、荒船は思わず渋い顔をした。用件も大体想像がつく。
「C級の指導、やってよかっただろ?」
「はあ……まあ……
 やはりまだ素直には頷けずについ目を逸らした。この場には二人の他に誰も居ない。荒船は最近分かったのだが、東がこの嫌味な一面を見せるのはこういう場面でだけである。そんなところも狡猾に感じてしまい、反射的に身構えるのだ。
「自分を指導員に推薦してくれた先輩にお礼は?」
……
 そんなところだろうと思っていた。別に邪魔をしたいわけではないのだろうが、嫌味を言ってきたかと思えば急に恩を売ってきたり、本当に何がしたいのか分からない。
「なんでそんな俺につっかかるんですか?」
「さあ、なんでだろうな」
 東は自分でも本当に分からないのか誤魔化しているだけなのか区別がつかないといった表情をしている。そういうところも苦手だ。肝心なところで読めなくなる。
 どうすれば東に一泡吹かせられるのだろう。そもそも隙が無さすぎる。荒船としてはちょっと困った顔をさせられればそれでいいのだが、いかんせん相手が悪い。
「で、お礼は?」
 荒船の疑問を余所に東は肩を組んで覗き込んできた。必要以上に顔が近い。一旦離れろと言おうと顔を上げると、顔同士がぶつかった。いや、「顔」というのは正確ではない。よりによって、当たったのは唇同士だった。事故であってもキスなどとは到底呼べないものであったが。
「は⁉」
「えっ⁉」
 どちらが悪いかという話であれば、それは当然みだりに顔を近付けていた東の方だろう。二人とも反射的に体を離し、気まずそうに顔を背ける。
「あっ、あの、いや、今のは……
 今の東はしどろもどろという言葉がぴったりで、荒船にかけるべき言葉を探しているようだ。被害に遭った憐れな高校生は混乱のあまり思考も感情も捨て、東が何か言う前に急いで立ち上がった。
「事故です。すみません」
「ちょ、違……荒船!」
 荒船は飲みかけのペットボトルを掴んで逃げるようにその場を去った。廊下を歩きながら、なぜ自分が謝ったのかという疑問が浮かんできたが今更である。
(そもそもなんで逃げたんだ俺は)
 去るべきではなかったかもしれないと思うと余計に敗北感が込み上げてきた。だが他に何ができたというのだ。
 思いがけない接触に東も驚いたらしく、見たことがない表情をしていた。キスしてしまったのは事故であり決して良い気分ではないが、あの顔を思い出してどこか優越感を抱く自分も確かに存在する。
(だって七歳も上の大人が、事故チューくらいであんなに慌てるなんて思わねえだろ)



 後日、荒船は東から呼び出しを受けた。用件は言わずもがな。隊室に入ると、予想通りそこには東しか居ない。他人に聞かれたくはないし、聞かされたい話でもないだろう。
「この前の……急に逃げたりしてすみませんでした」
 一秒でも気まずい沈黙を作りたくなくて、荒船が先手を打った。あくまでも謝るのは先輩の前からいきなり逃げたという点のみ。
「いや、あれは俺が悪い。少し調子に乗りすぎた」
 根本的な原因についての謝罪を東から引き出す。これでここに呼び出された甲斐もあるというものだ。
 とはいえこれでキスの件については片が付いた。互いに事故だったと忘れることにしてこの場は終わり。荒船はそういうつもりだったのだが、東の方はまだ話がある様子だ。
「ところで、あの……荒船は……
 東は少し考えて言葉を切った。しかし荒船がいくら待っても続きが出てこない。
「なんですか?」
……いや、なんでもない」
「このタイミングでそれはないでしょう」
 東が言い淀むのは珍しい。この前から荒船は、東の知らない一面を見てばかりだ。それ故に追及の手を止めることはしない。ボロは引き出せる時に引き出しておこうという算段だ。
「プライベートな質問だよ。聞くのもどうかと思ったから止めただけ」
「別に気にしませんよ。何ですか?」
「はあ……好きな子とか居るのかって聞こうとした」
「え?」
 妙な質問に荒船は思わず耳を疑った。目の前に居るのは本物の東なのだろうか。いざ内容を聞いてみると東が言い淀んだのも理解できる。
「いや、変な風にとるなよ。もし彼女とか居たら悪かったなと思って」
 ああ、と納得はしたが、その声にはなにか焦りを感じた。本心を必死に隠そうと取り繕っているような。一見すれば通常通りではあるものの、会話のタイミングやスピードがやや速いような気がした。
「居ませんよ。残念ながら」
「そうか、良かった」
 東の言動が少し引っかかった。あれは荒船のことを意識しているようにも受け取れる。変な風にとるなと東は言ったが、そう言われると逆に気になるもの。
 こんなことで勝ったつもりになりたいわけではないが、今の東の様子が面白いので少しからかってみることにした。
「もう一回してみたいとか思ってます?」
「あんまり調子に乗るんじゃない」
 返ってきたのは普通の反応だ。そうしたものだろうと荒船も一瞬は納得しかけたが、ふと頭に疑問が過る。先日の慌てぶりと比較すると、これはむしろ冷静すぎるのではないか。呼び出したのは東の方であるし、平静を装う準備は十分できたはず。
(これはひょっとすると……ガチかもな)
 求めていた形かどうかはさておき、これ東の隙であるのは確実だ。これを利用すれば東に意趣返しすることも可能なのではないか。狙撃手に転向してからというもの、散々嫌な思いをさせられてきたのだ。試しに少しばかりやり返してみるか。
 この時の荒船は、ただ軽い気持ちでそんなことを考えていた。


 弱点を掴んでからの荒船の行動は早かった。翌日さっそく東を見つけると、周囲に誰も居ないのを確認してから近寄る。
「おはようございます」
「⁉ お、おはよう」
 東が驚くのも無理はない。荒船は声を掛けると同時に東の腕に触れ、必要以上に近い距離に入り込んできたのだ。これがもっと気安い仲の相手なら分かるが、昨日までは東が声を掛けてようやく渋々返事をしていた男が、である。
 戸惑う東が何か言う前に荒船はあっさりと離れていった。その表情は淡々としており、特に機嫌が良いわけでも悪いわけでもない。まるで以前からこの距離感でしたと言わんばかりの態度だ。
この時は初めてで、荒船が何を考えているのか東にはまだ分かっていなかった。

 荒船は東から十分な距離を取った後、勝ち誇った笑みを浮かべる。腕に触れただけであの驚きよう。やはり効果は絶大だ。
 とはいえ検証は必要だろう。今までいいようにやられてきた分はきっちりと反撃したいところだ。これからじっくりと東の反応を楽しんでやろうと、荒船の口角が意地悪く上がった。


 また別の日のこと。
「東さん、冬島さんが探してましたよ。スマホの電源入れてますか?」
 荒船が当真と話していたところ、偶然そんな話を聞いた。その直後に東と鉢合わせたものだから、一応親切心から声を掛ける。前回の挨拶は事前シミュレーションをしていたのだが、今日はアドリブだ。
「え? 入れてるけど……
 東は携帯を確認して首を傾げる。冬島は何度か東にメッセージを送っていたが、既読にならなかったと言っていた。
「ああ、じゃあアプリの通知が切れてるんじゃないですか? ちょっと見せてください」
 自分でやる、と東が言う前に荒船は東の懐に入り込んだ。とても自然な流れだと荒船は心中で満足げである。
 東の手から端末は奪わずにアプリを操作する。その方が近付く理由ができるからだ。腕をぴったりとくっつけて、あくまで東の方は見ない。そして表情は依然として涼しいまま。
「通知の設定、誤操作でオフにしやすい場所にあるんですよね……はい、直りました」
 軽く東を見上げてからふっと離れる。相変わらず東は体が硬くなってしまって、荒船が完全に離れるまで微動だにしなかった。
「あ、ありがとう」
 東が礼を言い、荒船は何事も無かったかのように歩き出した。そもそも東は冬島から呼び出されているのだ。ここでこれ以上無意味に引き延ばしても迷惑がかかると判断しての行動だった。
 それにしても、アドリブの割に今日も上手くいった。アプリの操作くらい東が自分でできることも知っているし、それを言い出そうとしていたことも分かっていた。ところが肩を寄せてみるとあっという間に何も言えなくなったではないか。荒船はその様子で確信した。
(年下の男相手にあんなチョロい反応して、逆に騙されてるんじゃないかと思うぜ)
 荒船も一度は疑ったものの、その線は薄いだろう。今まで二度接触してみたが、いずれの場合も東にわざとらしさは無く、不自然なシチュエーションも無い。何より事故があった時の東の言葉が裏付けている。
 確信を持ったこの日から、荒船の反撃が始まった。


 ある時は会議でわざわざ隣に座って椅子を寄せてみたり、またある時は東の端末を覗き込んで顔を近付けてみたり。その度に東は動揺し、雄弁な口を閉じる。ただしやり過ぎるのも良くない。荒船としても、つい先日までできるだけ会話したくないと思っていた相手だ。あくまでも荒船から積極的に近付くことはせず、話をする機会がある場合に仕掛けるようにしている。
 七歳も年上で恋愛経験も豊富に見えるあの東が、たかだか高校生に距離を詰められたくらいで大人しくなってしまうのは非常に意外だった。思っているよりも経験が無いのか、あるいは荒船側に東のツボを押さえる何かがあるのか。どんな理由があるにせよ、荒船はこの状況を楽しんでいた。



「荒船、あの……最近どうした?」
「何がですか?」
 そんな状態が二週間近く続いたある日、遂に東が口を開いた。荒船は東の質問にもしれっとした態度を貫き通す。身体的距離が急に縮まった割に、心の距離が縮まったわけではない。荒船の表情は普段通りクールなままだ。
「あの日から急にやたら近付いてくるから、何がしたいのかと思って」
「ああ、事故チュー以来ですか」
 そう言って荒船はまた顔を近付ける。流石に肌が触れるような距離ではないが、東はまた固まってしまって思わず息を呑んだ。
「別に、ちょっとした心境の変化ですよ。別にそこまで変なことしてるわけじゃないでしょう?」
「それはまあ、そうだけど」
 荒船との距離感はあくまで親しい間柄のそれを超えない範囲で、周囲からも特に疑問を持たれていない。東としては戸惑うし非常にむず痒いのだが、荒船はその辺りの匙加減が上手いらしい。
「それとも、俺にわざわざ距離取られる方が良いですか?」
「そりゃどっちが良いかって言われたら今の方が……
 東は荒船のことを嫌っているわけではない。それだけは荒船もなんとなく分かっていた。むしろ嫌われていた方がまだ分かりやすかったと思うほど東のやり口が面倒だった故に、二人の関係が悪化したと荒船は考えている。
 嫌っているわけではないので、距離を取りながら渋々話をされるくらいなら今の方がマシという心境なのだろう。
「じゃあ何も問題ないですね」
 からかわれていることは東も気付いているのだと荒船は考えている。その上で探りを入れているようだ。だが荒船は単に仕返しをしているだけで、それ以上の意図など無い。満足すればちゃんと止めるつもりもある。よってこの話をこれ以上拡げても意味がない。
 東がこれ以上追及しないのならば話は終わりだ。荒船は席を立とうとしたが、その瞬間東がその手を掴んだ。
「⁉」
 急なことに驚いて荒船は反射的に手を引っ込めようとしたが、思いの外に東の力が強い。
……まだ何か?」
「あ……悪い。なんでもない」
 東は諦めたように掴んでいた手を離した。たった数秒のことなのに、荒船の手はじんじんと痛む。こんな反応をされるとは思っておらず、荒船は内心ドキドキしていた。
 東は離した手を引っ込めて顔の前で両手を組んだ。明らかに「なんでもない」という顔ではないが、理由を話すつもりは無さそうだ。ならば荒船には引き留められない。それに、藪をつついて蛇を出すのは避けたかった。
「じゃ、俺はこれで」
 嫌な空気から逃げるように荒船は席を立つ。掴まれた手がまだ熱い。東は何を伝えたかったのだろう。そんな考えが荒船の頭を過ったが、他人の心中など分かるはずもない。分かっていたら、もっと簡単だった。


 今日は荒船が件の後輩と約束をしている日だ。荒船隊の部屋で少しだけシミュレーションを行った後、狙撃訓練場に移動する。土曜日午後の訓練場は比較的空いていた。
「じゃ、今日はここまでな。動いてる的にもかなり当たるようになってきたじゃねえか」
「ありがとうございます。先輩を紹介してもらって正解でした」
 彼女に荒船を紹介した男子は時間が合えば特訓を見に来るのだが、今日は何か予定があったらしい。荒船も二人が一緒に居るところをよく見かけるし、本当に仲が良いのだろう。
「そういや、B級に上がったらあいつと隊組もうとか決めてんのか?」
「はい。射手にもう一人同級生が居るんですけど、その子と三人で組みたいって話してます」
 仲の良い同級生が揃ったが、自分だけ入隊が少し遅かったこと。二人に追いつきたいが、ポイントが思うように貯まらず焦っていたこと。誰に師事すれば良いかも分からず、一人で悩んでいたところに荒船を紹介してもらったことなどを話してくれた。
 ボーダーには先生など居ない。誰に教われば自分が上達できるのか、結果が出るまでには時間がかかる。その点において荒船はなるべく万人に対応できる理論を作ろうとしているのだから、最初の師匠としては非常に適していたのだろう。
 彼女と話している内に、何かが荒船の胸にすとんと落ちた気がした。
「三千ポイントはまだ遠いですけど、次の合同訓練はもっと上手くできそうです」
「おう。前半に教えた隠れながらの移動も実践してみろ」
「はい!」
 女子は元気よく返事をして訓練場を後にした。これから三人で集まって作戦会議をするらしい。今後の彼女らの成長を楽しみに思いながら、荒船はその背中を見送った。


 彼女が去った後、荒船の後ろにふらりと東が現れた。いつから居たのかは分からないが、指導している場面を多少は見られたようだ。
「お前、レイジに憧れてるって言ってたよな」
「東さんに言った覚えはありませんけど」
……
 突然の東の言葉に荒船は身構えた。荒船があまりに東をからかうものだから、何か反撃されるのではないかと警戒したのだ。ただ本当にこの話を荒船から東に伝えたことは無かったので、東が勝手に集めた情報なのだろう。その点においては間違った反応ではない。
「まあいい。もしレイジのアポが取りたかったら俺から連絡してやろうかと思って」
「え、なんでですか?」
 純粋な疑問だった。東と荒船は対立とまではいかないものの、とても良好と言える関係ではないはずだ。急にそんな申し出をされても戸惑うばかり。
「なんでって、一応俺の弟子だし」
「そうじゃなくて、なんで急にそんなこと言い出したんですか? もしかして見返りに何か面倒なことでも頼むつもりじゃ……
「いや、そんなことしないよ。純粋な善意」
荒船は訝しげな様子を隠そうともせず東を見た。声にこそ出さなかったが、東が荒船に善意を見せるなんて有り得ない、裏があるに決まっているとその目が語っている。
 申し出自体はもちろんありがたい。木崎は玉狛所属のために顔を合わせる機会が極端に少なく、直接の縁も無い。師匠である東が言えば簡単に時間を取ってくれるだろうということも想像できた。しかし。
「アポくらい自分で取ります。お気遣いどうも」
 その声はひどく冷たく、信用の無さが窺えた。荒船の私情に散々首を突っ込んで波風を立てておいて、急に助力を申し出るなど怪しいにも程がある。本当にその気があるのなら、普段からもっと態度に出しておくべきだ。
 連絡程度なら木崎の同級生の諏訪あたりにでも頼める。その方が気軽だし、諏訪ならば東と違って裏表もない。そういう意味では東より遥かに信頼がある。
 荒船はふいと視線を外し、早々に場を去っていった。残された東は、荒船が見えなくなるまでその背中を見つめる。
「今までのツケだな……
 東が小さく呟いた声が荒船に届くことはなかった。


 数日後、荒船が一人で本部内を歩いていると正面から小走りで向かってくる影があった。
「あ、荒船くん。いま手空いてる?」
 現れたのは沢村で、小型の機材や端末を抱えて何やら慌ただしい雰囲気だ。
「はい。何か手伝いましょうか」
 荒船隊の任務も終わり、手は空いている。普段あまり話をしない沢村から声を掛けられたということは、猫の手も借りたい状況なのだろう。
「仮眠室に行って東くん起こしてきてほしいの。端末鳴らしても返事が無くて」
 こんな用件ならば助力を申し出るのではなかったと思ったが既に遅い。東と荒船の間にある確執など誰も知らないし、知ったことではないのだ。こんな個人的な事情で忙しい沢村に迷惑をかける方が良くないだろう。起こすだけならば些細なことだ。
「分かりました。急いで行きます」
「あ、東くん自体は急ぎじゃないのよ。会議の十五分前に起こしてって頼まれたんだけど、私が手一杯で」
 ごめんねと謝ると、沢村はすぐどこかへ走っていった。
平日昼間の仮眠室はガラガラで、利用者は東だけのようだ。一番奥、二段ベッドの下の段で寝ているのを見つけた。熟睡しているのだろう。荒船が近付いても起きる気配がない。
 荒船はふと東の寝顔を覗き込んでみた。横を向いた東の顔に黒い長髪が散らばっている。その姿は妙に色気があって、無防備だ。
 本当に、ちょっとした悪戯心だった。荒船は静かに東の眠るベッドに乗り上げ、そっと顔の横に両手をつく。顔にかかった髪を払えば寝顔がよく見えた。
 熟睡していてもそこまでされれば流石に気が付く。ゆっくりと開いた目に映った光景。普段は冷静沈着な東も驚愕し、目を見開いて体を硬直させた。
「な……にしてるんだ、お前」
 薄暗い仮眠室の中に二人きり、こんな体勢でいたら誰が見ても勘違いをするだろう。最近の荒船の距離感のこともある。今は他に人が居ないが、誰かが入って来ないとも限らない。しかし荒船は、このスリルさえ楽しんでいた。
「荒船、ちょっと離れて」
 東の声は不機嫌だ。寝起きだからかもしれないが、感情を揺さぶれたのが楽しくてついもっと余計なことをしたくなる。
「嫌だって言ったらどうするんですか?」
「襲うかもよ」
「やだー東さんケダモノ」
 どちらかといえば今は荒船が東を襲っている構図だが。荒船の台詞は棒読みもいいところで、東がうんざりした顔で溜息を吐いた。
「いいから、どいて」
「嫌です」
 数秒の睨み合いが続く。まだ時間には余裕があるらしいので、荒船は今日も存分に東をからかうつもりでいる。寝起きの貴重なシチュエーションは外せない。
 東は、こうして悪戯をされるのが気に入らないのだろう。この時までは荒船もそう思っていた。
「警告はしたぞ」
「は?」
 何の警告だ。そう聞こうとしたが声が出なかった。下から強く引き寄せられ、口と口がぶつかる。
 また事故かと思ったがそうではないらしい。荒船の後頭部はがっちりと固定され、東の唇は荒船に噛み付くように蠢く。無理に口をこじ開けて舌が侵入してきた。身の危険を感じて腕から逃れようとするが、やたら力が強い。腕で自分の体を支えている分、荒船の方が自由がきかないのだ。
「ん、やめ、ぅ」
 東の舌は歯をなぞったり上顎を舐めたりと好き放題である。やめろと言いかけてもすぐに塞がれ、中を暴かれる。乱暴で強引で、情熱的なキス。これ自体もだが、荒船としてはこんな扱い方をされたのが何よりの驚きだった。嫌がらせへの仕返しなら他にももっと方法があったはずだ。
 散々弄ばれて、荒船の喉から謝罪の言葉が出かかった頃にようやく解放された。息が上がって力が入らず、荒船はそのまま東の横にぐらりと崩れ落ちる。一方の東は涼しい顔で起き上がった。
「調子に乗るなって言っただろ」
 東の視線は冷ややかだ。こんな目に遭うと分かっていたら荒船もあんなちょっかいはかけなかった。そもそも、些細なことでからかいすぎたのかもしれない。弱味を握ったつもりになっていた。東に気圧されて荒船はつい弱気になり、過去の行動を顧みる。
 だがやはり荒船にも意地がある。今ここでそれを態度に出すのは癪だ。
……会議、遅れますよ」
「ん? うわ、こんな時間か!」
 本当にギリギリの時間だったようで、東は時計を確認すると急いで仮眠室を後にした。残された荒船は起き上がるでもなくただ天井を見つめる。
(助かった……
 情けない感想だが、心からそう思った。


 一人で仮眠室を出て荒船隊の部屋へ戻る。今日はチームランク戦のためにログの見直しをするつもりだったのだが、とても集中できるような状態ではない。他の隊員が居ないタイミングでまだ良かった。ソファに腰を下ろして溜息を吐く。
(東さんは、好きじゃない奴が相手でもあんなことできるんだな)
 荒船とは経験が違う大人だからだろうか。だとしても、それは少しどうかと思う。前に起きたような事故や、せめて触れるだけのものならまだ分かるが、言い訳のしようもないレベルのキスだった。
 好きでもない相手にあんなキスをするなど、荒船には真似できない。故に荒船は東のことを理解できず混乱していた。
(クソ、勘違いしそうになるじゃねえか)
 東が自分を好いている可能性など万に一つも無いと荒船は思っている。なのに、キスのせいで惑わされているのだ。事故で慌てふためく東を散々からかっておいて、これでは荒船も全く同じである。
 二人の間に好意が存在しなかったからこそちょっかいをかけられていた。今の荒船には、みだりに東に近付く勇気がない。それに東から反撃があるのなら、今後は迂闊に手を出すのは止めておいた方が良いだろう。
 唇にはまだ感触が残っている。熱くなった頭はしばらく冷めそうになかった。


 以来、荒船は東を本格的に避けるようになった。自分から近寄らなくなったのはもちろん、東が居そうな場所には極力留まらないようにする。そもそも荒船が調子に乗り過ぎたのが原因であるし、あんなことがあっては顔を合わせづらい。どうしても必要な場合は仕方ないが、ほとんど会話はせず用事が終わればすぐにその場を去る。
 そしてそれは、指導のローテーションを組む場合も同じだった。
「荒船さん、新入隊員指導のローテ入れる日ありますか? 今回は二日なんですけど」
 佐鳥からそう相談された時、荒船はつい顔を強張らせてしまった。これが最も恐れていた質問だ。佐鳥の端末には既に東の名前が載っていた。珍しく両日とも参加できるらしい。
「そこはちょっと……補習がある」
 嘘ではない。だが本当でもない。実際その日に補習はあるのだが、荒船に参加義務は無いのだ。通常の荒船ならばボーダーの活動を優先していた場面。
「あ、荒船さん受験生ですもんね。この日は奈良坂先輩にも声かけてあるんで大丈夫ですよ」
「悪い」
 佐鳥はあっさりと納得してくれたが、荒船の心はひどく痛んだ。個人的な感情で仕事をサボることなどあってはならないと考えているだけに、むしろどうしてもと頼まれて東と二人で指導する方がまだ痛まなかったかもしれない。ならば大人しく行けると言えば良かったのだが、そこが人間の感情のままならない部分である。
 東と荒船はまともな会話もしないまま、一ヶ月が過ぎようとしていた。


 その日は荒船隊揃っての任務だった。任務自体は普段と変わらず順調で、滞りなくシフトの時間が終わる。しかし本部へ戻っている途中で事件は起きた。

『荒船くん! 聞こえる⁉ 返事して!』
『応答しろ、荒船!』
 穂刈さえも珍しく声を荒げる。突然の事態に全員が緊迫した様子で話していた。
『聞こえてないならせめてベイルアウトを……
『でも、できるならやってるんじゃないすかね。もしかしたら隊長、今ベイルアウトできないのかも』
『!』
……見つけたわ! 少しずつ移動してる。ポイントを指定するから、二人で回収に向かって!』
『『了解』』



 東はたまたま開発部を訪れていた。ちょっとした相談があっただけで、別に急ぐ用事でもない。東の時間が空いたからふらりと立ち寄っただけだ。
 しかし部屋の前に着くと、どうやらそれどころではない様子だった。奥の一角で数人が慌ただしく何かを行っている。そこには見知った黒い隊服の姿もあった。
「アレ、何かあったのか?」
 東は自分の用事も忘れ、後輩のエンジニアに声を掛けた。奥に居るのは穂刈と半崎だろう。加賀美の姿もある。しかし荒船が見えないのが気になった。
「ああ、荒船隊長がトリオン体のままスリープ状態になったそうで……かなりレアな現象なので、ベイルアウトさせずに連れて帰ってもらったんです。いま寺島が検査をしてるところですよ」
「スリープ?」
「荒船隊長は水が苦手らしいんですが、任務中に川に落ちて気を失ったと報告されています。強い精神的ショックが原因でしょう。ただこんなケースは初めてで、データを取りたいって人が続出してるんです」
 正確な原因究明とデータ採取が終わるまで、荒船には申し訳ないが寝ていてもらうらしい。
 顔には出さなかったが、荒船のトリオン体に異常が起きたと知って東は動揺している。あくまで生身には問題ないと分かっていても、嫌な寒さが内臓を支配しているようだ。
「俺も様子見てきていいかな」
「大丈夫じゃないですか? 担ぎ込まれたのが一時間くらい前なので、そろそろ検査も終わる頃でしょう」
 単純な興味を装って東は部屋の奥へ向かった。ガラス張りの小会議室のような部屋に荒船が横たえられている。荒船隊の隊員はたまに寺島と話しながら隊長を見守っていた。
「お前ら、大丈夫か?」
「東さん」
 後輩を気遣う先輩の顔をして荒船隊の輪の中に入る。彼らは特に何も疑わず東を受け入れた。
「話は聞いたよ。川に落ちたらしいな」
「そうなんです。橋の上で後ろから体当たりされて……
 荒船は決して油断していたわけではなかった。シフトの時間が終わった帰り道のほぼ真上で門が開き、近接武器を持たない二人を庇う形で落ちてしまったのだ。
 隊員らは神妙にしてはいるが、別に「目覚めなかったらどうしよう」などと考えているのではない。それよりも自分達を庇ったことや、アラートが遅れたことに対する申し訳なさを抱いている。東はその場に居なかったし、咄嗟の判断でどうすべきだったかを後から口出しする立場にはない。ただ感想として、絆のある良いチームだと思った。
(それにしても、トリオン体で意識を失うなんて相当だな)
 水が荒船の弱点であることは東も情報として仕入れていた。東の計算に必要がなかったために利用はしなかったが、ここまでのショックを与える要素であればこのまま触れずにおいた方が良いだろう。決定的に傷つけてしまう前に知れて良かったとでも思っておくべきか。
「状態はどうだ?」
「意識が無いこと以外は問題ないそうです」
「もうすぐ検査が終わると言っていました、寺島さんが」
 それを聞いて東も安心した。その一方で、今の状況は東にとって絶好のタイミングだった。荒船に避けられ始めてからというもの、ろくに話ができていない。そろそろどうにかして捕まえようと思っていたところだ。目覚めるところを押さえれば逃げられることもない。
 そんなことを考えていると、少し席を外していた寺島が戻ってきた。
「これで検査終わりだから、誰か起こしてあげて」
「起こすって、強制ベイルアウトですか」
「そう。あ、鬼怒田室長に怒られたくなかったらライフル系は使わないでね」
 ここはただの開発室。壁も床も強化などされていないので、狙撃手用のトリガーを使えば必ずどこかに穴を開けてしまうことになる。
 寺島はそう言うが、この場に居るのはオペレーターと狙撃手だけである。荒船ではないのだから弧月だのスコーピオンだのを持っているはずもない。寺島もすぐそれに気付いた。
……ちょっと待ってて。予備のトリガーに弧月セットしてくるから」

 寺島は用意したトリガーを穂刈に渡した。隊員なのだから当然の流れだろう。しかし東が反射的に口を挿む。
「なあ、それ俺がやってもいい?」
 穂刈も半崎も加賀美も、そして寺島も東の顔を見た。荒船から最近の二人の話を聞いているかどうかは定かではない。少し驚いた顔をしているが、誰も理由を聞こうとはしなかった。
「いいですよ。どうぞ」
 穂刈が素直にトリガーを手渡す。ここに居る東以外の人間は、別に誰が起こす役をやろうが別に関係ない。寺島はもとより、荒船隊は隊長が無事に目覚めてくれればそれでいい。それに誰も口には出さないが、トリオン体とはいえ眠っている人間に刃を突き立てるのは気持ちの良いものではない。
 トリガーを受け取り、東は荒船の真横に移動する。ベイルアウト先は通常通り隊室のマットレスなので、他の隊員と寺島は先にそちらへ向かった。荒船の状態を開発部のスタッフが再確認した上で、強制ベイルアウトしても良いと合図が出る。
 スリープ状態の荒船は微動だにしない。呼吸を必要とせず、鼓動もない体。生きていると分かっていても、これでは死を感じずにはいられない。
 早く目覚めてほしい気持ちは東にももちろんあるが、それと同時に一つの達成感もあった。
(やっと捕まえた)
 あんなことをしたのだから、荒船に避けられるのも当然だ。しかし東だって何の覚悟も無しにキスをしたわけではない。
 からかわれたことに対する仕返しの気持ちも確かにあった。だがそれだけなら別にキスでなくても構わない。ただ東がそうしたいと思ったからそうした。東はとっくに、荒船が好きになっているのだ。
 話をしたいと思っていた。そしてこの肌に触れたいとも。だがこんな状態ではそれも叶わない。多少強引なやり方だとは自覚しているが、偶然でもせっかく得たチャンスだ。東はここでけりをつける覚悟を決めた。
「荒船、起きて」


 荒船隊の部屋では寺島による問診が行われ、荒船のことを心配していた面々がその様子を見てやっと安心する。そこへ東も合流し、問診が終わるまでは静かにしていた。
 寺島が帰っても東がその場を動かないので、隊員らは隊長の顔を見る。強制ベイルアウトの一件もあり、荒船に話があるのは明白だ。
……悪い、お前ら先に帰っててくれ」
 任務は終わっていて、後は帰るだけだった。三人は東が気になる様子ではあったが、何も聞かずに部屋を出る。荒船が話したいと思えば隊員にも話すだろう。隊員らにもそれが伝わっているようだ。
 荒船はどこか諦めたような表情をしていた。まさか目覚めてすぐ東に捕まるとは思っていなかったのだ。
「川に落ちたショックで意識を失うなんて、よっぽど水が苦手なんだな」
……
 会話が始まってすぐ露骨に眉根を寄せた。よりによって東に弱点を知られてしまったのが嫌で仕方ないという顔だ。今日より前から東はこの弱点を知っていたのだが、荒船がそれを知る由もない。
「悪い。そんな話をしに来たわけじゃないんだ」
 東が攻めの姿勢を解いたので、荒船もこれから真面目な話が始まるのだと察する。そうでなくてもここしばらく東からは逃げ回っていたのだ。東も避けられていると気付いていないはずがない。そんな時期に確実に捕まえられるタイミングで、東には直接関係ないところにまでわざわざ首を突っ込んできたのだから、よほど重要な話なのだろう。しかも荒船を捕まえるために権力を行使しなかったということは、プライベートな内容であると想像できる。
「俺をからかうのは止めたのか?」
「はい。痛い目見たんで」
「そうか。残念」
 荒船は予想もしていなかった言葉に混乱した。何が残念なのか。その言い方ではからかってほしかったと言っているようなものだ。嫌がっていたのではなかったのか。察しろと言われているようで少し腹立たしくもある。
 だが、まだだ。これだけでは東の本心を読み切るには足りない。単純な仕返しという線も残っている。
「残念ってなんですか」
 わざわざ向こうから踏み込んできたのだ。いずれにせよ同じ話に行き着くのであれば、荒船の方から切り込む方が早い。それに何より、この続きを早く東の口から聞いてみたい気持ちが勝った。
 東の口角が少しだけ上がる。
「俺はとっくにお前のことが好きなのに、お前は俺をからかいさえできれば良かったんだと思って」
「!」
 急に飛んできたストレートな言葉に荒船は思わず怯む。東はもっとクールな人間だと思っていた。今まで棘のある会話ばかりしてきただけに、こんな熱のある言葉をさらりと口に出されるとインパクトが強い。
(ずるいだろ、そんな言い方)
 荒船が東から逃げたのは、あのキスで否応にも東を意識してしまったからだ。そこでふと気付く。少なくとも、東はあの時点で既に荒船のことが好きだったはずだ。
……いつから?」
 それを聞くと東はにっこりと目を細めた。
「最初は全然違ったんだ。荒船は煽るくらいの方が効果的かなと思ってちょっかいをかけてみたんだけど、いつの間にか目的が変わってた」
 東はいつからか、荒船と関わることが目的になっていた。指導員の件はもちろん実力を考慮した人選だが、より確実に引き受けてもらえるよう佐鳥を間に挟んだのもまた事実。
 荒船にちょっかいをかける意図が変わっていたのだから、それを読もうとしてもなかなか辿り着けないはずだ。
「東さんの考えも分からないことはないですけど……最初からストレートにアドバイスしてくれればこんなに拗れたりしなかったんじゃないですか?」
 この期間の荒船にとって、ほとんどの場合で東は面倒で厄介な相手だった。些細な言葉で苛立っていたし、調子の良くないタイミングでは顔も見たくないと思ったことさえある。
 確かに東の言う通り、荒船は売られた喧嘩を買う方だという自覚がある。結果として対抗心を煽られてなかなかのスピードで成長できた。今や狙撃手としてもマスターランク目前だ。しかし、なにもあそこまでの摩擦を生まなくても良かったのではないか。荒船としてはそう思わずにはいられない。
「でも、拗れたからお前を好きになれた」
 まただ。素直な言葉はいつだって人の心に刺さる。論理的に返してやりたいが、感情を揺さぶられて言葉に詰まった。
「お前が成長できればそれでいいと思ってたのに、色仕掛けなんかしてくるから……
 対抗の仕方としては予想外だったようで、あれはある意味正解の行動だったと言える。とはいえ荒船としても東に好かれるのは予定外だ。同性に好かれるなど初めての経験で戸惑っている。
……じゃあ今までのアレは、好きな相手から近付かれて緊張してたってことですか」
「うん、ほぼ正解」
 別に恋愛経験が浅くて固まっていたわけではないらしい。しかし「ほぼ」というのが気になって荒船は首を傾げた。
「事故でキスしたことがあっただろ。あの日以来お前に恋人が居るのか考えるようになって、気付いたら俺が好きになってたんだ」
 東は全て吐き出してしまって晴れやかな表情をしている。一方の荒船は頭を抱えていた。こうも好きだ好きだと言われ続けるといい加減照れてしまう。
そういえば、荒船はまだ返事をしていない。告白をされたのだから何らかの答えを示すべきだ。
 何と返すか考えようとして、すぐに止めた。考えるまでもないことだ。東が好きでもない相手にあんなキスができるのだと勘違いした時、荒船自身が感じたではないか。
(そうだな……認めたくなかったけど、悔しかったよ)
 東がキスをきっかけに荒船を好きになっていったのと同様に、荒船もあのキスがきっかけだったのだろう。あの感触を思い出す度に体の奥がざわついた。
 荒船はマットから立ち上がり東の襟を掴んだ。そのまま力強く引き寄せ、生身の唇同士が触れる。東ほど上手くはできないが、今はこれが事故ではないと伝わればそれで良い。荒船が薄く目を開けて様子を窺うと、東の目には戸惑いの色が見えた。
 顔を離してからもまだ東は信じられないといった表情をしている。告白したものの、それが受け入れられるとは一切考えていなかったのだろうか。その様子が面白くなってきて、荒船はふっと笑い出した。
「俺の色仕掛けは効きました?」
「嫌ってほどな」
 この時の東の少し悔しそうな顔を、荒船は当分忘れないだろう。


「色仕掛けにやられるとか、東さんも意外と俗物的ですね」
 晴れて両想いとなった二人はそのまま一緒に帰ることにした。東が車で来ていたので、荒船が助手席に乗り込む。着席直後の第一声がそれだ。
「まあ、否定はしないよ」
 エンジンをかけながら東が苦笑いした。痛い所を突かれたようだ。以前ならば荒船も東も相手を刺せる場所を探すようなやり取りをしただろうが、この会話に嫌味は無い。荒船は単純に驚いたのだ。東が自分を好きになる事態など想定もしていなかったからあんな行動を取ったのだし、付き合うことになった今でもまだ現実味が無い。
「俺に避けられて寂しかったですか?」
「それはもう」
 東はエンジンをかけながらくすくすと笑った。というか、顔はずっと緩んでいる。荒船と恋人になれたのがよほど嬉しかったのだろう。
「水がダメなことも本当は知ってたんだ。気絶するほどだとは知らなかったけど」
「マジすか……ていうか前から思ってましたけど、俺に関する情報集めすぎじゃないですか?」
「好きな子のことは知りたいだろ」
「俺の知らない所で情報収集されるのは怖いです」
「お前は教えてくれなかったから」
 それも元はといえば東に原因があるだろう。今思えばややこしい関係だったものだ。荒船も大概だが東も意外と素直ではない。告白こそストレートだったが発破の掛け方は実に回りくどく、好意の表し方も分かりにくかった。こうして遺恨を残さず会話できているのが不思議なくらいだ。
「まあでも、これで東さんは高校生に手を出したっつー最大の弱味を俺に握られたわけですね」
「お前……
 荒船の棘に東は顔を引きつらせた。こればかりは弱味どころか、公になれば洒落にならない事態になる。冗談だとは東も分かっているが、重すぎる意趣返しだ。
「心配いりませんよ。俺はちゃんとアンタのことが好きだし、責任もって傍に居てあげますから」
 運転中でさえなければ東は荒船に抱きついていただろう。生憎目の前の信号は青で、しばらく前を向いていなければならない。もどかしいが、東からすればその言葉を聞けただけでも僥倖である。
 ただ真っ直ぐ帰るのは勿体なくて、この日は少し寄り道をして帰ったのだった。


 また新入隊員が入ってくる時期になった。今回も東と佐鳥と荒船で軽くミーティングを行うのだが、例によって佐鳥は少し遅れての合流である。
 会議室で待つ間、荒船は徐に口を開いた。
「俺、東さんに言われたことをずっと考えてたんです」
「俺が言ったこと……?」
「なんで俺がパーフェクトオールラウンダーの量産を目指してるのかって話」
 東との関係が修復されてからも、これだけはずっと荒船の頭の中でぐるぐると巡っていた。何度も考え、整理し、自分の言葉で納得できる答えを探していたのだ。
「上手く言葉にできなかったんですけど、やっと自分の中でまとまったんで聞いてもらえますか」
「もちろん」
 佐鳥が来るまでまだ時間はある。たとえこの話がただの意思表示であっても、荒船が誰かに共有しようと思ったこと、そして東がそれを聞くことに意味があるのだろう。
「俺の目標が結果的に子供を兵士にするってのは否定しません。ボーダーがそもそもそういう組織ですし」
 東は黙って頷いた。どんな言い方をしたところで、この組織で活動している限りはそこに行き着く。
「だからこそ早く強くなれる型はあった方がいいと思ったのがきっかけです。俺達はこっち側の人達を守るのが仕事ですから」
 ボーダーに所属する以上、隊員は他人を守ることを要求される。それはつまり強くならなければならないということ。個々の目的が何であれ、それだけは皆共通している。
「勉強でもスポーツでも上手くできれば楽しいし、できなきゃつまんないじゃないですか。自分の意思でボーダーに入ったのに、上手くできなくて辞めていく奴は何人も居ました。でも中にはもっとできた奴も居たはずです。俺はそういうのがなんか、勿体ないと思うんです」
 東にも心当たりがいくつもある。所属年数が長い分、荒船よりも多くの人の顔が浮かんだ。彼らも何かのきっかけで上達していれば、まだここに居たかもしれない。
「成功体験を積ませてやりたいというか……どうせやるなら面白いと思ってほしい。でないとここに居ても苦しいだけです。上がる奴だけ勝手に上がってこいってのは才能の選別の意味では効率的ですけど、つい最近まで一般人と変わらなかったガキに対してそれは酷なので」
 村上やあのC級の子にやったように、自分の経験値を分け与えることなら荒船にもできる。向き不向きや個性もあるだろう。それは承知の上で、あくまでも実践で通用するレベルの基礎を与えるのは効果的なはず。それに基礎を理解してこそ向き不向きを自覚することもある。向いていないと諦めるのは、全ての手を尽くしてからでも遅くないと荒船は思うのだ。
「パーフェクトオールラウンダーを育成できれば、戦い方の選択肢が増えます。成長の途中で、本当は何に向いてるか分かるかもしれません。そこに辿り着く近道を作ってやりたいんですよ」
 選択肢を増やし、知識を持っておくことの重要性を荒船はよく知っている。不要なら後で捨てればいいだけの話。
「まあ、指導した奴が思い通り強くなるのは確かに楽しいです。ゲーム感覚ではやってませんけど、ゲーム的な面白さはあると思います。でも、根底にあるのはやっぱりそういう……利他的な気持ちです」
 自分で口に出すのは恥ずかしくて別の言葉に言い換えたが、それは荒船の優しさだ。
ボーダーには上層部以外の役職が無い。故に隊員が自由に訓練を積み、はっきりとした指導者はほとんど存在しない。師弟関係を組んだところで結局は個人対個人。相性が合わないことももちろんある。
 これからボーダーが更に大きくなるのなら、いつかそれだけでは間に合わない日が来るかもしれない。荒船の理論は少なからずその助けになる。そして誰かの負担を減らすことが、総合的に組織の役に立つのも知っている。荒船はやはり、自分の意志を曲げるつもりはない。

 やっと思っていたことを全て伝えられて、荒船は長く息を吐く。今まではなんとなく、本音を言ったら負けな気がしていた。東の言い方にも問題があったが、荒船も荒船で意地になっていたと思う。
「うん、分かった。今ならちゃんと納得できるよ」
 本心からの言葉を聞けて、東もしっかりと頷く。荒船の人間性や自身に対する分析の深さを感じられ、東が想像していた以上に荒船の器が広かったことを認識した。
 言葉だけではなく行動に移し、徐々に実績も伴ってきていて、更に人徳もある。これだけのことができてまだ高校生だというのだから末恐ろしい。東は、荒船が育てる将来の隊員達が楽しみだと思うようになっていた。
「あの質問は、俺を試すためだったんですか?」
 あの時の荒船は既に東を胡散臭く感じていたため、そうとしか思えなかった。だが東の真意が分かると、もしかしたら他に何か意図があったかもしれないと考える余裕ができる。
「もちろんゲーム感覚じゃないかっていうのも気になってたけど……なんか、心配だったんだよな」
「心配?」
「負けず嫌いな奴だとは知ってたからさ。やっぱり村上に負けたのは堪えたんじゃないかと思って、目的を見つめ直してほしかったというか……まあ、そこに関しては完全に俺の取り越し苦労だったよ」
 知れば知るほど「最初からそう言え」という気持ちになるが、もう過ぎたことだ。東は少し荒船を見くびっていたし、荒船は東の人間性をよく知らなかった。そして、今はもう違う。それで十分だろう。
 穏やかな空気が流れる部屋の向こう側から、誰かが走る足音が聞こえてきた。
「すみません! 佐鳥到着しました!」
「ああ、お疲れ」
 佐鳥が部屋に入ると二人だけの空気は霧散し、いつものようにミーティングを開始した。


「荒船さんが狙撃手になってくれてマジ助かります!」
 ミーティングが終了してから佐鳥がしみじみとそう言った。荒船は指導員の業務にもすっかり慣れ、話を主導して進めるまでになっている。もう他の誰かが参加できない場合でも問題ない。
 佐鳥の言葉だけで荒船がどれだけ救われているだろうか。人から必要とされるのはとてもありがたいことで、目標へ進むための原動力にもなる。
「いつか銃手とかに転向しても指導の手伝いしてくれません?」
「どんだけ働かせる気だよ」
 指導の仕事をしているのはこの場に居る三人が中心だが、それだけというわけではない。荒船が転向するまでには他の人員も慣れてくるだろう。やりたいかどうかというより、ポジションを変えてからも参加する必要があるのかという話だ。
「佐鳥にそれ言うのか? それに俺は引退しようとしてたところを引き留められたぞ」
……
 東の後ろでは佐鳥が「いけ! 東さん! もう一押し!」などと元気よく茶々を入れている。
 ボーダーの狙撃手がそれほど人材に困っているとは思えないが、月に一度の新入隊員指導が今の荒船の大きな負担になっているわけでもない。正直なところ良いデータ収集にもなるし、大学生になれば更に時間ができるだろう。渋りはしてみたものの、別に問題は無さそうだ。
 それに何より、期待に満ちた恋人の視線が荒船に突き刺さる。
「まあ……そうだな。人手が足りない時は手伝うのもアリか」
 人材を育てるのはいつだって大変だ。同じ説明をしても、相手は毎回違う。荒船が指導に入るようになってから今までの短い期間でも、辞めていった隊員は存在する。
 荒船は近界民に特別な恨みがあるわけではないし、遠征を強く希望しているわけでもない。だが自分の足でここへ来て、ボーダーでやりたいことを見つけた。だから自分にできることを精一杯やるのみだ。
 まだどんな可能性を持っているかも分からない内に諦めるなんて勿体ない。一人でも多くボーダーに居続けてくれれば、いつかそれが多くの市民を守ることに繋がるかもしれない。
 それに目の前の人間がこんなに嬉しそうな顔をしてくれるのだから、その期待に応えたいと荒船は思うのだった。


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