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Their Travelogue

全体公開 再録 5 2 37639文字
2023-07-18 19:32:28

バロ龍 2020年2月23日発行 web再録
バロ龍があちこち旅行に行く短編集です。モルディブ、パリ、ニューヨークの三本立て。軽い気持ちで読んでいただきたい平和な話です。
ネタバレ:2クリア推奨

Posted by @saeki_f

インド洋の真珠

 春の穏やかな暖かさは強い日差しと高い気温に取って代わられ、本格的な夏がやって来た。龍ノ介とバンジークスは旅行用のトランクを引いて空港へ降り立つ。とうとう出発の日だ。
 大した長旅でもないのだが、暇だからという理由だけでホームズとアイリスが空港までついてきた。流石に一番混み合う日程は外したものの、夏休みシーズンには入っているために朝でも人が多い。早々にチェックインと手荷物預かりを済ませ、保安検査場に行列ができる前に搭乗口へ移動してしまおうということになった。
「ボクも行きたかったなあ!」
「お邪魔虫はダメなの!」
 ホームズは何とかして同行しようと直前まで粘っていたのだが、それが遂にアイリスにばれて叱られ泣く泣く諦めたのだった。どちらにせよ今日の午後には依頼人と会う約束が入ったため、ついて行くことは叶わない。それを聞いて初めて二人は胸を撫で下ろしたものだ。
「でも、お土産はよろしくね!」
 アイリスは二人の方へ振り向いて、とびきりの笑顔を向けた。しょぼくれていたホームズも気を取り直す。
「よろしくね!」
 親子揃ってポーズを決めるのも見慣れたもの。わざわざ見送りに来てくれた可愛い姪と可愛くない名探偵のため、どんなお土産を買おうかと二人は今から真剣に考えを巡らせる。それも旅の楽しみだ。



 きっかけは春先、夕食後にたまたま放映されていた旅番組だった。
 透明で豊かな海に真っ白な砂浜。海の上に建てられた、贅を尽くしたコテージ。誰もが憧れる南国のリゾートを見て、龍ノ介は感嘆の溜息を漏らす。
「わあ、綺麗な所ですねえ」
 バンジークスは食後のコーヒーをテーブルに置いてテレビに視線を向けた。水に入れば珊瑚礁の青い海が広がり、色彩豊かな魚が泳ぎまわる。画面越しにも癒される映像だ。
「行ってみたいか?」
「そりゃもう。だって海の上に建ってるんですよ。ドアを開けたらすぐ青い海ですよ?」
 言いたいことはいまひとつ分からないが、テンションが上がっていることは伝わってくる。イギリス以外に海外旅行の経験がない龍ノ介は、とかく美しい海に惹かれているようだ。
「では、行くか」
「えっ」
「次の夏に、その海上コテージへ」
 バンジークスは遠出をしたいとか、高級なものが欲しいとか言うタイプの人間ではない。自分の身の丈に合ったものを選び、多くは望まず、隣に龍ノ介が居れば大抵のことには満足する。
 そんな男が海外旅行に行くかと誘っているのだ。龍ノ介は開いたままの口で平凡な質問を返す。
「お忙しいのでは? 結構遠いですよ」
「夏期休暇がある。それに、していなかっただろう……旅行は」
 バンジークスは明言しなかったが、龍ノ介には分かった。新婚旅行だ。
 戸籍上で結婚したわけではない。世間的にはただ同居しているだけ。それでも二人は互いをパートナーに選び、彼らにごく近しい者もそう認識している。指輪だってちゃんと贈り合った。
 同居を始めてから半年。二人ともそれなりに忙しかったのは確かだが、そもそも新婚旅行という発想がまずなかった。
「嫌なら無理にとは」
「いっ、行きましょう! ぜひとも! ぼくも休みを取ります! 何日でも!」
 龍ノ介は前のめりになって、食い気味に行きたいという意思を見せた。提案した側のバンジークスさえ少し引き気味になってしまうほどの勢いだ。
(そんなに行きたかったのか……?)

 バンジークスの想像以上に龍ノ介は喜んでいる。即座にパソコンを立ち上げ、海上コテージの宿を探し始めた。航空券も予約しなければ。できれば英語が通じる土地が良いなど、二人であれこれと提案し合う。
 日程と行先さえ決めてしまえば行動は早い。しばらく先の楽しみに向け、心躍る日々を過ごした。

 飛行機のタラップを下りた瞬間、あまりの眩しさに二人は目を細める。真っ白な視界から次第に浮かび上がる青と緑。求めていたバカンスの姿がそこにあった。
「思った以上に眩しいな」
「持って来てよかったですね、サングラス」
 ここはモルディブ。きらきらと輝く太陽に潮の香りが心地いい。ロンドンよりも気温が高いのに鬱陶しく感じないのはリゾート気分のせいだろうか。日差しはきついが、海風が吹くお陰で酷暑というわけでもない。
 空港からタクシーで目的の宿へ。高速道路などない小さな島なので、海沿いのドライブである。車も少なく、窓を開けるだけで波の音が聞こえてくる。龍ノ介の目は青緑の海に釘付けだ。
「こんなに綺麗な海は初めて見ました。本当に青いんですね」
「私も南国のリゾートは初めてだ。良い場所だな」
 海の中はこんなもんじゃないよとタクシーの運転手が言う。それを聞けば、都会の海しか知らない二人は更に期待せずにはいられない。



 宿に着いたら高級感溢れるフロントでチェックインを済ませてすぐに部屋へ向かう。口には出さないが、コテージへ向かう桟橋を歩くだけで龍ノ介の気分は最高潮だ。足元の海は限りなく透明で、魚影のようなものも見える。案内係のスタッフが居なければしゃがみこんで下を覗きこみたいところだが、今は荷物も多いのでぐっと堪えた。
 扉を開ければ広く快適な空間が広がる。普通のホテル同様の設備に加え、簡易キッチンや洗濯機も備わっている。あちこち出かけなくて済むというのは、二人にとってとても助かる。隅々まで掃除が行き届き、冷房も効いていて居心地は最高だ。
 リビングにある大きなガラス戸からデッキに出れば、夢にまで見た景色が待っていた。
「うわあ……
 どこまでも青い海。浅い場所は薄く、深い場所は濃い。そう遠くない沖には点々と島が浮かんでいる。天は高く、白い入道雲が青い世界の境目を漂う。海風は穏やかで、波の音が耳に心地良い。
 テレビで見たコテージとは、厳密には同じではない。だがこの宿だって負けず劣らずだろう。デッキの下はすぐ透明な海。そこへ直接下りるための梯子が付いていて、この美しい世界をいつでも独占できる。
「シュノーケルの貸し出しも行っておりますが、いかがなさいますか?」
 スタッフの声で龍ノ介は現実に戻った。自分で持ってきていない限り、借りないなどという選択肢はないだろう。
「ぜひお願いします!」
「それではご用意してまいります。ごゆっくりお寛ぎください」
 彼女が出て行くとほぼ同時に、龍ノ介はベッド、バンジークスはソファに倒れ込んだ。飛行機の疲れもあったし、いち早くこの快適な空間で寛ぎたいという気持ちがあったのだ。天井には木製のファンが回っている。
……期待以上です」
「それは良かった」
「検事はどうですか?」
……旅行もしてみるものだなと」
 言い方は遠回しだが、要するに気に入ったようだ。バンジークスはロンドンから履いてきた靴をスリッパに履き替え、その足で龍ノ介が転がるベッドへ向かう。
 隣に腰を下ろして少し汗ばんだ頭を撫でた。手はそのまま無防備な唇へ。
「シュノーケル、持ってきてもらうのですが」
「フロントからここまで五分以上かかった。まだ時間はある」
 新婚旅行だ。少しくらい積極的になったって構わないだろう。スタッフがチャイムを鳴らすまで、二人の肌は離れなかった。


 すぐ海に入ろうと思っていたのは龍ノ介だけだったらしい。今朝は飛行機のためにかなりの早起きをした。朝が苦手なバンジークスにはそれだけでも堪えたが、飛行機の中もそう快適に眠れる空間ではない。流石にすぐ遊ぶような元気はないと、水着に着替えだけ済ませて外のデッキチェアに寝転びにいってしまった。
 龍ノ介も今日はあまり長時間遊ばないつもりだった。なにせやることはほとんどないのだ。時間はいくらでもある。
 デッキに出るとパラソルの下にバンジークスが寝そべっていた。長身に鍛えられた体躯は元々だが、今はそれが惜しげもなく晒されている。彫りの深い整った顔にサングラスがかけられ、映画俳優もかくやといった風貌である。普段とは違う姿に、龍ノ介は気分が高揚するのを抑えきれない。
「どうした?」
 そんな内心を知ってか知らずか、龍ノ介の視線に気付いたバンジークスは半分だけサングラスを外して声をかける。その仕草がまた様になっている。
「検事と南国の組み合わせがあまりにも珍しくて」
「私を何だと思っているのだ」
 龍ノ介は思わず適当な言葉に逃げてしまう。いつもならバンジークスも言葉端を捕まえる場面だが、深追いはしなかった。眠気と疲労には勝てないのだろう。
「海に入るなら日焼け止めを塗っていけ。すぐ黒焦げになるぞ」
「あ、では背中だけ塗っていただけますか? 手が届かなくて」
 バンジークスに背中を向け、日焼け止めのボトルを渡す。この小さな背中は、バンジークスを信頼しきっている。むず痒い気持ちでボトルを開けて肌に塗り広げていく。ずっと触れていたくてつい念入りにしてしまったのは、龍ノ介には気付かれなかった。
「塗れたぞ」
「ありがとうございます! ではいってきます」
 準備を整えた龍ノ介はシュノーケルを首から提げ、梯子から海に入っていく。今の潮位は龍ノ介の腰のあたり、海水は体温を奪うほどでもなく、日に焼けた肌を適度に冷やせて心地が良い。肩まで浸かりたくなり、深い場所を求めて沖へ向かう。
 胸まで浸かる深さまで来たところでシュノーケルを装着した。憧れの海の中へ。
 そこにはテレビで見たよりもずっと鮮やかな世界が広がっていた。岩と珊瑚の間を縫って泳ぐ魚。餌付けされているのだろうか、人間が近付いても逃げない。何より驚いたのは、水の中だというのに遠くまで見通せるということだ。水は透き通り、太陽の光が眩しいほどに差し込んでいる。
 これだけでもここに来た価値がある。そう思えるような美しい景色だった。
「すっ、すごいですよ! 検事も見てください!」
 水から顔を出し、デッキの上のバンジークスに声をかけた。一刻も早くこの感動を伝えたくてコテージまで戻る。バンジークスはデッキの縁まで出て、海水できらきらと光る恋人を見つめた。
……気付いていないかもしれないが、寝室に海底を観察する窓がついていたぞ。そこから見た」
「それは気付きませんでした……でも、直接見た方が良いですよ。水も温かくて気持ちがいいですし」
 ほら早くと笑いかけられれば、バンジークスが断ることなどできない。読んでいた本に栞を挟み、羽織っていたシャツを脱いで、シュノーケル片手に梯子を降りる。
 温水プールかと思うほど水は温かく、南の国の歓迎を受けているようだ。龍ノ介に手を引かれ、足元に注意しながら深い場所へ進んでいく。ここが良いポイントだと龍ノ介に言われるまま眼鏡を装着し、顔をつけてみた。
……!」
 バンジークスも初めて見る光景に驚きを隠しきれない。青に囲まれた世界は地上と変わらないほど明るく、ぼんやりといていた頭が冴えていくような感覚さえおぼえる。鮮烈で色彩に満ちた世界。
「ね、すごいでしょう?」
「ああ、見事だな」
 放っておいても海は次々に表情を変え、一日中見ていられそうだ。ときどきポイントを移動すれば魚の種類も変わってくる。東京やロンドンに居ると海と言ってもそうテンションが上がらない二人だが、本当に綺麗な海に出会うとこうも反応が違うものか。その魅力に一気に引き込まれそうだ。
 そう長く海遊びをするつもりもなかったのに、疲れも忘れて二人は魚を観察することに没頭した。



 ゆったりとした時間が流れる島といえど、夜はやって来る。徐々に潮が満ち、気付けば日が傾き始めていた。次第に魚の数も減ってきている。皆寝床に帰っていったのだろう。
「今日はこのくらいにしておこう。明日また好きなだけ堪能できるからな」
「そうですね。シャワーを浴びたら夕飯の相談でもしましょうか」
 そろそろお腹も空いてくる頃だ。が、いかんせん島なので食事ができる場所も選び放題というわけにはいかない。結局今日のところは外に出る元気もなく、宿のレストランへ行くことに決まった。
「夕飯を食べたらすぐに寝てしまいそうです」
「私もだ」
 予定外に体力を使い過ぎてしまった。正直なところ、二人とも食い気がギリギリ眠気に勝っている状態だ。食欲が満たされたら睡眠欲に支配されるのは目に見えている。飛行機ではあまりよく休めなかった分、ゆったりと快適なベッドで眠れるという魅力に勝てなくても仕方ないだろう。
 時間はある。散策も海遊びも明るい時間、元気なときにする方が良い。
 満腹になった二人は部屋に戻ると電池が切れたように倒れ、目覚めた時には朝食の受付終了時間の間際であった。



「いやあ、予定を入れていなくて良かったですね」
 慌ただしく簡単に済ませた朝食の帰り、龍ノ介は桟橋を歩きながらほっと息を吐く。もう日は高く昇り気温も上がってきた。ツアーなど入れていたら遅刻してしまっていたところだ。
「予定の入れようがなかったからな。何もしないための旅だ」
「何かひとつくらい申し込んでおけば良かったでしょうか」
……いや、マリンアクティビティにはあまり興味がないだろう。君も私も」
 そうですねえ、と言って部屋の鍵を開ける。鍵を放り投げて、本能の赴くままソファに沈む龍ノ介。バンジークスもついついそれにつられてしまう。最高に怠惰で、最高に贅沢な時間。
 並んで座ると普段の癖が出る。龍ノ介は背の高い肩に頭を預け、バンジークスがその頭に腕を回して優しく撫でた。これが二人の落ち着く距離。
 龍ノ介から離れすぎないよう注意しながら、バンジークスはテーブルに置いてあった地図を引き寄せた。昨日フロントで貰ったものだ。ホテルを中心に島の全体図が載っている。まだ冴えきらない目でそれを眺め、ぽつりと呟いた。
「近くを歩いてみるか」
 それに反応して龍ノ介も視線を上げる。着いてからすぐ海を見に行ったから、この周辺に何があるかまだ知らない。宿の敷地内にはプールや庭園があるし、歩いていけそうな距離に地元の市場などもあるようだ。観光というほどではないが、ぶらぶらと歩き回るだけでもこの国の空気を感じられるだろう。やることが無くなったらまた海に入れば良いのだ。
「そうしましょう。では、日焼け止めとサングラスを忘れずに」
 支度を済ませて敷地の外へ。すっかり気温も上がって、じりじりと肌を焼く日差しが痛いほど。ほんの五百メートルほど歩いただけなのに、もう屋内が恋しくなる。
 今日は二人とも本格的なリゾートスタイルだ。龍ノ介は青いTシャツとカーキのハーフパンツにサンダル、バンジークスは薄紫のポロシャツと白いハーフパンツにサンダル。そして二人でお揃いのサングラス。
「検事、サンダルとかハーフパンツとか持ってたのですね」
 龍ノ介が昨日見た服とはもちろん違う。バンジークスの平日は常にスーツで、休日もシンプルで地味な色の服ばかり着ているものだから、リゾートでもそうだったらどうしようかと心配していたのだった。ちゃんとバリエーションもあるようで安心した矢先、バンジークスが顔を逸らした。
……買った」
「え」
 とても小さな声で呟いた言葉は、都会の中であったら龍ノ介の耳まで届かなかっただろう。
「持っていなかったから買いに行った。君と南の島を歩くのを想像すると、手持ちの服ではそぐわないと思ってな」
 バンジークスは目を合わせようとしない。自分でも浮かれているのが分かって恥ずかしいのだ。そんな様子を見た龍ノ介が何も思わないわけもなく。
「そうだったんですね。へへ、そうですか、わざわざ」
「笑うな」
「笑ってませんよ」
「にやついている」
 歩きながら、バンジークスは龍ノ介の頬を軽く抓った。精一杯の照れ隠しが愛しくて、笑みは深くなるばかり。
「仕方ないじゃないですか。楽しみにしてくれていたんでしょう? ぼくもです」
「もうこの話は終いだ……あれが市場ではないか?」

 敷地を出てそう歩いていないが、あっという間に市場へ到着してしまった。市場は地元の人も観光客も訪れるらしく、たいへんな賑わいである。遠目に見るだけでも活気と彩りに溢れ、暑さのせいで重くなっていた二人の歩みも自然と軽くなる。
 それぞれの屋台に近付くと色んな香りが漂ってきた。果物の甘い香りや、肉や魚を焼く香ばしい香りに龍ノ介がついつい引き寄せられる。朝食を食べたばかりだがまだ余裕はあるし、目の前にあると手を伸ばしたくなってしまうもの。いつもは止めるバンジークスも、今は何も言わず龍ノ介を追う。
「お兄さん達、暑いだろう。冷たいジュース飲んでいかない?」
 地元訛りのきいた英語が飛んできた。屋台を覗いてみると、凍らせたカットフルーツをこの場でミキサーにかけてスムージーにしてくれるらしい。パイナップルやマンゴー、メロン、パッションフルーツ、それに見たことがない果物も並んでいる。
「うわあ、いいですね。ここにある果物から選ぶんですか?」
「もちろん。オススメはミックスだよ」
 ミックスには全ての種類が入っているのだという。これから更に暑くなるだろうし、ぜひ南国気分を味わいたい。ということで龍ノ介は元気にバンジークスの方へ振り向いた。今回の旅行、財布はバンジークスが握っているのだ。
「検事!」
「ああ、一番大きいサイズを頼む」
「はいよ!」
 屋台の婦人は元気に返事をしてジュースを作り始めた。ミキサーを回す間にお金を払って、少し待てば淡いオレンジ色のスムージーが完成する。冷たくて美味しそうだ。
「はい、どうぞ。お兄さん達は新婚旅行?」
 危うく受け取ったカップを握り潰してしまうところだった。
「どっ、どうして分かったんですか⁉」
「何も無い島だからね。ここに来る若い二人組はだいたい新婚旅行って決まってるんだよ。ストローもう一つ付けようか?」
「結構です……
「冗談さ。楽しんでってね!」
 元気に笑う婦人に手を振って屋台を離れる。人混みから外れた場所まで移動して、冷たいジュースを一口飲んだ。甘酸っぱくて色んな味がする。色んな意味で良いクールダウンになった。
「おいしいです! 検事もどうぞ」
「ああ。頂こう」
 こうして二人で回し飲みするのを見透かされていたのだろう。流石にストローを二つ刺して飲むようなことはしない。いつの時代のカップルかという話だ。
 端から市場を眺めているだけでも楽しかった。この島にこんなに人が居たのかと思うほどの活気で、珍しい物が行き交う。一番威勢が良いのは果物屋のようだ。前を通る観光客に次々と味見を勧めている。
 気になる店に目星がついた頃、ジュースのカップが空になった。
「さて、もう少し見て回るか」



 そうしてただただのんびりと三日間を過ごし、旅も折り返しに差し掛かった。島の見所は大方回ってしまったし、今日は雲も多い。まだ晴れてはいるが、この島はとにかく通り雨が多く、いつ降りだすか分からない。外に出るのはやめて部屋で過ごそうと今朝二人で決めた。
 寛ぐために来た旅行だが、バンジークスは仕事がないとこんなにも時間を持て余すものかと思ってしまう。無論、平和が何よりだ。しかしそろそろ何か新しい刺激が欲しくなる頃だった。
 龍ノ介は今日も海に入って魚を見ていた。バンジークスは変わらずデッキで本を読んでいる。波と風の音だけに満たされた世界。
 たまに隣のコテージの客の姿を見かけることもあったが、今は天気も相まって海に出ているのは龍ノ介だけのようだ。彼も休憩するつもりなのか、コテージの傍まで戻ってくる。眼鏡を外して髪を整える龍ノ介に、バンジークスが声を掛けた。
「昨日もずっと魚を見ていただろう。飽きないのか?」
「検事だって、その本もう二度目ではないですか?」
……
……
 無言の間にアイコンタクト。互いに何か思うところがあるらしい。
 ぱたん。バンジークスが本を閉じた。羽織っていたシャツを脱ぎ捨て、立ち上がって海へ降りる。水の中をゆっくりと進み、龍ノ介の傍で止まった。
 バンジークスは何も言わず龍ノ介の顔に唇を寄せる。どこもかしこも海水に濡れて塩辛いが、少しふやけた唇だけは違った。首から下げたシュノーケルが胸に当たる。
……まだ、お昼ですよ」
「寛ぎに来ているのだ。好きな時に好きなことをしても構わぬのでは?」
「それもそうですね」
 夏という季節のせいか、それとも新婚旅行というシチュエーションのせいか。なんにせよ、今の二人は積極的だった。

 だらりと過ごして気付けば夜。遠出する気は起きずホテルのレストランで軽めの夕食を摂り、早々に部屋へ戻って今日は外のデッキ寛ぐ。携帯を眺めていた龍ノ介は、少し渋い顔をしてそれをテーブルの上に伏せた。
「仕事の連絡か?」
「旅行先で見るもんじゃありませんね。戻ったら次の日からさっそく調査です」
「フッ、まあ私も似たようなものだが」
 二人とも仕事好きなので別に苦ではないのだが、浮かれたリゾート気分から現実に引き戻されるとその温度差にやられてしまう。
 明日からはもう後半戦。海に入るか食事をするか散歩をするか程度で、本当に何もしない旅行である。既に飽きそうな気配を感じてはいるものの、たまにはこんな過ごし方も悪くない。肩の力が抜けすぎて、帰ってからちゃんと仕事ができるかどうかだけが心配だ。
 星空はロンドンでは考えられないほど美しく、温い夜風と波の音が心地良い。二人ともこのまま眠ってしまいそうな夜だった。

 早いもので、この旅行も残り一日となった。明日は午前中に空港へ向かうので、今がこの島で寛げる最後の時間だ。今日はゆっくりとショッピングをすることにしている。といっても自分の買い物はほとんど無く、ロンドンの友人達への土産だ。
 地元の特産品を集めた土産物で、龍ノ介は頭を悩ませていた。
「どうした?」
 アイリスへの土産はすぐに決まった。ここはスリランカが近いので良い紅茶の茶葉が買えるし、スパイスも豊富である。彼女が喜びそうな物はたくさんあった。
「ホームズさんが喜びそうなお土産が分からなくて」
 大探偵が喜びそうなものといえば難事件くらいしか思いつかない。たまにキャラメルを齧っている姿は見かけるが、多分それならロンドンで買う方が良い。
 バンジークスが適当な菓子にでもすればいいと言おうとした矢先、龍ノ介が閃いたような顔で奥の棚に向かって歩き出した。
「これなんかいいんじゃないですか? ホームズさんの家、なんだかよく分からない木彫りの人形とか置いてありますし」
「む……
 そう言って龍ノ介が持ち上げたのは木製の置物だった。亀だったり魚だったり、南国らしい形が並んでいる。
 それらを見てバンジークスは何とも返せない。置物というのは、土産物としては渡す人を選ぶ。そしてホームズは、物に対してのアプローチが極端である。喜べばいいが、全く興味を示さない可能性が高いのではないか。
(食べ物の方が無難だと思うが……いや、それこそ奴の好みには詳しくないのだし……
 しかしバンジークスが何を言おうか迷っていると、龍ノ介はいつの間にかレジへ向かっていた。一応止めようとはしたのだが、人の少ないレジではそんな暇も無い。無事に買い物を終えた龍ノ介の一仕事終えたような表情を見ると、バンジークスは喉まで出かかっていた言葉を全て飲み込んだのだった。
(まあ相手は探偵だ。それほど気を遣う必要もないか)
 バンジークスの中でホームズの立ち位置は大体その程度のものである。



 夕食を終えて外に出るとちょうど日が沈むところだった。この島での最後の夜が始まる。
 二人とも何となく名残惜しくて、レストランから遠回りして海岸を歩きながらゆっくりと部屋に帰る。肌を刺すような光ではなく、角の取れた光が青い海を一面のオレンジに染めていた。
 少し前を歩く龍ノ介の背を見ながら、バンジークスはふと大人になったものだな、と呟いた。無意識に漏れたような小さな声だったが、波音の狭間を縫ってそれは龍ノ介の耳まで届く。振り向いて不思議そうな表情をしてみせて初めて、バンジークスは思ったことが声になっていたと気付く。
「波を撥ねながら歩くくらいのことはしそうだと思っていたが」
 出会ってから二年ほど経っても、バンジークスにとっての龍ノ介はいつまでもエネルギーに溢れた若者のイメージである。しかし乾いた砂の上を静かに歩く姿を見て、もはや彼は学生ではなく立派な大人なのだと悟った。
「ムッ、流石にもうそんな子供ではありません!」
「それは失礼」
「あっ、ヤドカリ」
……
 口を開けばやはり年若い部分が見え隠れするのだが。これは年齢というよりも、個人の性格によるものかもしれない。
「のんびりして長いようにも感じましたけど、過ぎてみればあっという間でしたね」
 龍ノ介はしゃがんでヤドカリを観察しながらしみじみと語りかける。バンジークスもその声色につられて、龍ノ介の隣に腰を下ろした。まばゆいばかりだった夕陽は半分ほど沈み、最も赤くなる時間。
「そうだな。明日にはここを去ると思うと名残惜しいものだ」
 こんなタイミングと状況になれば誰だってセンチメンタルになる。見納めになるであろう景色を目に焼き付けたくて、バンジークスは水平線から目を逸らさない。
 しかし、龍ノ介の言葉でその首はいとも簡単に動かされる。
「ぼく、検事が旅行に行きたいって言ってくださって、すごく嬉しかったんですよ」
「?」
 旅行に行きたいと言ったのは何ヶ月も前のことだ。なぜ今になってそんな前の話をするのか、その意図を計りかねる。そもそも行きたいと言い出したのは龍ノ介の方で、バンジークスはそれを実現させようとしただけという認識だった。確かにバンジークスも行きたいと思ったから話に乗ったのだが。
「あなたが自分から何かしたいと言うことはあまりなかったものですから」
 言われるまで自覚がなかった。そんな風に見られていたとは思いもよらなかった。だがこれで旅行を計画した時の龍ノ介のテンションにも合点がいく。
 普段は少々子供っぽい部分もある龍ノ介だが、人を見る目は流石である。その鋭さはバンジークスが惚れ直してしまいそうなほど。
「私は……君が居れば他に望むことなど」
「そういうところですよ」
「う、うむ……
 大事なものをたくさん失って、何かを欲しいと思うことさえ諦めてしまった人間だから。自分よりも他人を優先して、欲しいものを無意識に我慢してきた。龍ノ介に出会ってからはその呪いが徐々に解けつつあるようだが、まだまだ人並みには遠い。
「我慢しているつもりはないかもしれません。というか、実際そうなのでしょう。ただ、ぼくはあなたが行きたい場所ややりたいことを知りたいし、叶えてあげたいと思うのです」
 これは龍ノ介のエゴなのかもしれない。だからなかなか言い出せなかったのだが、口に出してみれば簡単なことだった。
 バンジークスも悪いようには取らなかった。単純な話で、もっと甘えて良いのだとか、好きな相手のことを知りたいだとか、そういった気持ちから出た言葉だと分かっているからだ。
……そうだな。では、早速ひとつ」
「なんなりと」
 どちらからともなく二人は見つめ合う。夕陽はもうすぐ沈み切るだろう。
「またここに来たい。何もしない時間を、君と過ごしたい」
 バンジークスがそう思えたというだけで、龍ノ介の目論見は大成功だった。これくらい思い切った旅行でも、日頃の小さな願望でも、望んだことは叶えられると実感するのが重要なのだ。歩み寄って、時にはぶつかっても良い。そうして二人でもっと楽しい時間を過ごせれば最高だ。
 龍ノ介は立ち上がり、バンジークスに手を差し出す。
「もちろん、喜んで」
 この旅は明日で終わってしまうが、これきりではない。また来たいのは龍ノ介も同じこと。来年だろうと数年後だろうと、必ず実現しようと約束した。

 帰国後、二人の家にホームズ親子が遊びに来たので約束通り土産を渡す。アイリスは紅茶とスパイスをとても喜び、今度家に行ったらそれらを使った料理でもてなしてくれるという。
「で、ボクには何をくれるのかな?」
「図々しい奴め……
 苦い顔をするバンジークスの横から龍ノ介が袋を差し出した。それなりに重みのある袋で、ホームズはわくわくしながら包み紙を開いたのだが。
……亀?」
 中身を見たホームズの目が点になっている。だが残念なことに龍ノ介はそれに気付いていない。
「リゾートっぽくて良くないですか? 魚型のとどっちがいいか迷ったんですけど、置いて楽しむなら亀ですよね」
 龍ノ介以外の三人には龍ノ介の判断基準がよく分からない。ホームズが「なぜ止めなかったのか」と恨みがましくバンジークスを睨んだが、バンジークスはそれを無視した。
「そういうことじゃないんだ、ミスター・ナルホドー……
「え」
 そこで初めてホームズの様子に気付く。不服そうな視線に龍ノ介はたじろいだ。
「もうちょっとなんかあっただろう! 置物ってキミ!」
「暖炉の上に似たようなものがいっぱいあるので、好きなのかなあと」
「あれは事件の証拠品だから飾っているだけさ!」
「え、あの夢に出てきそうなお面も?」
「ああ」
「三体セットの木彫り人形も?」
「ああ」
「暖炉に立てかけてある木刀も?」
……それはボクが旅先で買った」
 龍ノ介はほら、と言いたげな表情をしたが、今の論点はそこではない。
「というか、他にはないのかい」
「ありませんよ。それ一つで予算オーバーです」
 それを聞いてホームズはがっくりと項垂れた。もっと珍しい菓子なんかを想像していたのだが。仕方ないので、アイリスが作ってくれる料理を楽しみにする他ないようだ。
「いいかいナルホドー、今回は初犯だから許してあげよう。でもこれは覚えておくといい。置物ってのは渡す相手を選ぶお土産だ。そしてボクはその対象じゃない。これはすべすべして気持ちいいから貰っておいてやるけど」
 そう言いながらウミガメの背中を撫でているあたり、口で言うほど気に入らなかったわけではないのかもしれない。
もう一度同じことをしたらどうなるか気になるが、次回からは気を付けようと心に決めたのだった。

花の都

「検事、パリに行きましょう」
 新婚旅行の翌年の春先、龍ノ介がそう提案した。夕飯後の突然の提案に多少驚きはしたものの、確かにそろそろどこか遠出したいタイミングだと感じている。
新婚旅行ほど豪勢にはいかないが、二人はあれで旅の楽しさを知った。年に一度くらい海外に行きたいと話していたところだ。
……詳しく聞こう」
 食器を片付け終わりバンジークスも話を聞く態勢をとった。龍ノ介は待っていましたと言わんばかりに自分のパソコンを開き、パリ観光について調べたページを開く。
「まずロンドンから近いでしょう。電車で二時間半」
「そうだな」
「時差もありませんし」
「ふむ」
「それに食事がおいしい」
……それが目的だな」
 龍ノ介の考えなどお見通しだが、それはバンジークスも望むところである。バンジークスが予想以上に乗り気だったので、話はその日の内にどんどん決まっていった。
 旅程は土日と祝日を合わせた二泊三日。今回はタイミングが合わず、連休に追加で休みをくっつけることができなかった。海外旅行と考えると短いが、龍ノ介の言う通りロンドンとパリは電車でたった二時間半の距離だ。気軽に行けるのだから、今回はこれくらいの長さで十分だろう。


 さて出発当日になり、二人はロンドンのターミナル駅に立っていた。二泊だけなので二人とも大した荷物は持っていない。
「切符はあるのだし、もうホームに入っておくか」
「ああ、それなんですけど……
「?」
 朝から龍ノ介の様子がどこかおかしいことにはバンジークスも気付いていた。体調が悪いわけではなさそうだが、何度も何かを言おうとして止める素振りを繰り返している。それはどうやら、まだ駅の改札を通れない理由と関係があるらしい。
 龍ノ介は遂に意を決したようにバンジークスの方を向いた。
「これを言うと怒られると思ってずっと言い出せなかったのですが」
「どうした?」
 バンジークスが龍ノ介の言葉を待つ。と、その肩が軽くとんとんと叩かれた。何かと思って振り返ると、見知った顔がそこにある。
「やあ、二人とも」
「⁉」
 やけにご機嫌な探偵の笑顔、視線を落とすと可愛い姪の姿もある。そして更に下を向けば、二人分の小型トランクが仲良く並んでいた。
「まさか……
「ボクらも一緒に行くって聞いてなかったのかい? まあ今更嫌だと言ったところで遅いけどね!」
「二人とも、よろしくなの!」
 にこにこと見つめる二人の視線を受け、バンジークスは思わず龍ノ介の方を振り向いて小声で詰め寄る。
「なぜ連れて来た」
 前回のように二人でゆっくりと楽しむ旅行だと思っていたのに、急に四人に増えた。この親子が嫌いなわけではもちろんないが、突然の人数変更は流石に慌てる。
「ホームズさんがどうしても一緒に行くと言って聞かなくて……アイリスちゃんは付き添いです」
「断れば良かっただろう!」
「仕方ないでしょう! ホームズさんにいくつ弱みを握られていると思っているんですか!」
 それはそれで大問題である。
 以前もどうにかして旅に付いて来ようとしていたのをすっかり忘れていた龍ノ介は、たまたまホームズが近くに居るタイミングで電車の切符を予約してしまった。それで今回のことがすっかりばれて、その場で座席を四人分に変更する羽目になったのだ。
 未だ納得いかない顔をしているバンジークスの肩にホームズが腕を置く。
「まあそう言うなよ。ボクらは親戚みたいなものじゃないか。つまりこれは家族旅行さ」
……
 家族と言われてバンジークスは押し黙った。ホームズの言うことを否定はできない。自分のパートナー、姪、そしてその親。バンジークスとアイリス以外には血の繋がりこそ無いが、この四人には本当の家族と言えるだけの強い絆がある。
それにホームズの言う通り、秘密にされていたとはいえ今更の話だ。どうせこの男は梃子でも動かせないのだから、文句ばかり言っていても仕方がない。
 バンジークスが言い返さないのを承諾と受け取ったホームズは、トランクとアイリスの手を引いて意気揚々と改札へ向かった。




 ドーバー海峡を渡る電車に乗ると、当然ホームズ親子と席が一緒である。四人でちょうどボックス席に収まり、向こうでの予定を話し合う。
「あ、ホテルは一緒だけど部屋は別だから。それに半分くらいは別行動するし、気にしないでくれたまえよ」
「ホテルまで同じ所を取ったのか……
 パリに着いたらまず昼食を摂り、ホテルにチェックインして荷物を預けたら美術館に行く予定だ。そこにはホームズ親子も同行するつもりらしい。となると今日はきっと終日行動を共にすることになる。
「明日はアイリスとショッピングしてオペラを聴きに行くんだ。キミ達は?」
「お昼までは宮殿の見学ツアーで、戻ってからは街を散策しようかと」
 オペラやコンサートを聴きに行く案も一応あったのだが、バンジークスはともかく龍ノ介が最後まで起きていられるか分からないので候補から外された。旅程が短い分、他にやりたいことがあるならそれを優先すべきという判断だ。
「なら明日は夜まで別行動だね。パリのデパート、楽しみなの!」
 アイリスは寿沙都やジーナに頼まれた買い物もあるのだという。それを聞いた龍ノ介はまた土産物選びに思いを馳せるのだった。

 パリに到着して約一時間後、一行は美術館を訪れていた。
「教科書で見た物がいっぱいありますねえ」
「初めて大英博物館に行った時も同じようなことを言っていなかったか?」
 絵や彫刻に特別興味はないが、ここに揃っているのは美術や世界史の教科書に載っているような美術品だ。大した知識が無くてもテレビなどで見たことくらいはあるので、それだけで感動ものである。
有名な絵はやはり大人気で、広いホールいっぱいの人混みをかき分けて進まなければならないほどだった。
「それ以上の知識がないもので……でもあれ以来、美術館や博物館も楽しいと思えるようになりました」
 ミーハーですかねと笑うと、隣を歩いていたホームズが口を挿んだ。
「審美眼を養うのは探偵にも大切なことだからね。キミもここで存分に鍛えるといいよ、ミスター・ナルホドー」
「ぼく探偵になりたいなんて言ったことありましたっけ……?」
 仕事が暇な時は探偵業の手伝いをして(させられて)いるためか、ホームズはたまに龍ノ介を探偵にしようとする時がある。が、今日の場合は少し意図が違うようだ。
「まあキミの場合、審美眼より先に注意力を鍛えた方が良いだろうね。はい、これ」
 そう言ってホームズは龍ノ介に財布を差し出した。驚くべきは、それが龍ノ介の鞄にしまっていたはずの財布であるという点だ。
「えっ、な、どうして」
「絵の前に人だかりあっただろう? あそこはスリが多いことでも有名なんだ。キミが写真を撮ってる間に抜かれてたから、ボクが華麗に取り返してやったというわけさ」
「あ……ありがとうございます!」
「うんうん。ところでボク、パリで気になっていたチョコレート屋があるんだけど」
……明日にでも買っておきます……
 龍ノ介はこうしてホームズに逆らえなくなっていく。正にその現場を見て、バンジークスはなるほどと頭を抱えるのだった。



 広い美術館をたっぷりと見て回り、外に出た頃には全員すっかり空腹になっていた。
せっかくのパリ旅行、そもそも美味しい食事目当てに来た龍ノ介としては大事な局面だ。評判の良い店を何件か調べたが、アイリスが居ることも考えてホテルの近くにあるビストロに入った。明るくカジュアルでいい雰囲気の店だ。
 しかし、いざ注文する時に一つ問題が起きた。テーブルを担当する店員が英語を話せなかったのだ。隣同士でありながら仲はあまり良くなかった二国なので、パリ市内でも稀にこういうことが起きるとは聞いていたのだが。
「ここはボクの出番かな」
 戸惑う龍ノ介の横からホームズがメニューを取り上げ、流暢なフランス語で店員に話し始めた。アイリスは訳知り顔だったが、それ以外の二人は急なことに目を丸くする。
「ホームズさん、フランス語を話せたんですね」
「仕事で必要になった時があってね。キミ達も外国語のひとつくらい喋れた方がいいぜ」
「ぼくにとっては既に英語が外国語なのですが……
「私も少しくらい分かる」
「料理の注文もできないのは分かるうちに入らないんじゃないかな?」
……
 ともあれ芸達者な探偵のお陰で助かった。頼んだ通りに運ばれてきた料理に一安心し、ホームズが言うところの家族四人で楽しい一夜を過ごした。

 翌朝、バンジークスと龍ノ介は早起きしてバスに乗り込んだ。世界遺産の宮殿の見学はツアーといっても簡単なもので、決まった時間のバスで送迎して内部の解説は希望者のみに付く。それ以外の参加者は単純に三時間ほどの自由行動が与えられるというものだ。二人ともどちらかといえば軽い気持ちで見学に来ているので、解説無しの自由行動を選んだ。
 到着すると荘厳な建物がツアー客を出迎えた。ロンドンにも現役の城はあるが、所在地を考慮しても比べ物にならないほど大きい。入口で観光客用のパンフレットを受け取ると、建物の床面積だけでもロンドンの宮殿の倍はあるとのことだ。
「三時間ってけっこう時間があると思ってましたけど、もしかして全部回れないんじゃないでしょうか」
「そうだな……庭の端まで行く車があるらしいぞ」
「車……
 そう聞いた時点で龍ノ介は全部回るのを諦めた。メインの建物をしっかり見て、残った時間で庭を歩けばいい。庭の先にはかつての王妃が愛した離宮などがあるのだが、地図で見る限り町一つ分ほど歩かなければならないようなのでまず辿り着けないだろう。
 話す間に入場列が進み、いよいよ中へ。建物内に入った瞬間からその内装に驚かされた。
「うわ……漫画みたいですね」
「漫画がこれを参考にしているのでは?」
 尤もな意見が返ってきて龍ノ介は膝を叩いた。シャンデリアやカーペットが豪華であるのは分かりやすいが、ドアノブひとつ取っても装飾が美しい。太陽王と呼ばれるだけのことはあり、至る所に太陽の印が掲げられている。
「これ、当時使っていた家具なんですよね」
「一部はレプリカらしいが、殆どが当時のそのままらしい」
 建物の広さはもとより、何もかも規格外で現実味が無い。バンジークスの実家でさえ迷った龍ノ介としては、ここで生活するなどとんでもなく不便そうに思えた。
 応接間、ダンスホール、客間、寝室、書庫など数え切れないほどの部屋を回った後、今度は一層広く荘厳な作りのエリアに出た。壁一面の鏡が光を反射して無数のシャンデリアが輝き、他のどの部屋よりも明るい空間だった。
「あ、ここはなんだか見たことがあります」
「鏡の間だな。よくメディアに取り上げられている」
「なんでこんなもの作るんでしょうねえ……
「君も王様になってみたら分かるかもしれんぞ」
 そうだろうか、と龍ノ介は想像してみた。もし自分が王様で、使いきれないくらいのお金があったとしたら、これほど立派な宮殿を作らせたりするだろうか。
……いや、ぼくなら作りませんね。税金でこんなものを建てたら国民の反感を買いそうなので」
「庶民派なのだな」
 実現するはずもない想像をして二人で笑う。それはそれとして、この部屋はどこを切り取っても絵になるので特にたくさんの写真を撮っておいた。

 めぼしい部屋を見終わった頃には時間もかなり進んでいた。ほとんど立ち止まらずに歩いていたはずなのだが、それでも敷地内の十分の一ほどしか回れていない。本当に目眩がしそうなほど広い場所だ。
 二人は外に出て庭を歩いてみることにした。建物の中からも見えていた庭園は美しく整えられていて、どこが敷地の端なのか確認できない。窓枠を通さずに見ると更に開放的だった。
「実際に見てみると良いものだな」
 区画によって木や芝の植え込みが異なり、立派な門や水場がある。遠くの方に馬が歩いているのも見えた。地図によればこの中に駐車場もあるらしい。
 あまり遠出するとバスの時間に間に合わなくなるので、建物付近を散歩する。遠目に見るときっちり刈り込まれているようだが、近くで見ると普通の庭園と変わらない。春ということもあり、様々な花が観光客の目を楽しませている。
「こんな広い庭と建物を三百年以上前に作ったなんてとんでもないですね」
「うむ。歴史的価値も高いし、また今度車を借りて着ても良さそうだ」
 実際、丸一日かけても全て回るのは無理そうだ。今日はバスツアーだが、車で来れば宮殿の周辺も観光できる。更に季節を変えれば庭の様子もまた違ってくるのだろう。次回のことを考えながら二人はゆっくりとバスに戻っていった。



 パリの中央駅に戻ってくるとホテルには戻らず、そのまま昼食の店を探しに出た。昼はガレットにすると決めている。付近の店を検索すると何件か見つかったので、とりあえず歩いてみることにした。
 表通りは交通量が多く騒がしいが、少し中に入れば穏やかな時間の流れる小道も多い。パリの町並みはロンドンと趣が少し違って、歩くだけでもうきうきする。
 今日は天気が良いので、カフェはどこも外に机と椅子を並べてオープンテラスにしていた。聞こえてくるフランス語は分からないが、春の陽気に浮かれているような雰囲気は伝わってくる。

 目的の店も外に椅子と机を所狭しと並べていた。車通りがほとんどない道に面しているので外の空気も気にならない。二人は迷わずオープンテラスの席を選んだ。
 渡されたメニューは英語も併記されていて龍ノ介は密かにほっとする。昨日はホームズが居て本当に助かった。
 何を頼もうか迷っていると、バンジークスが先手を打つ。
「ガレットは一つずつで構わないが、デザートは一つだけ頼んで半分にするぞ」
「え、なぜですか」
「夕飯のためだ」
 今日の晩はバンジークスが予約を入れている。なんでもナポレオンが狩りをする際に使っていた建物を改装したという星付きのレストランらしい。
「そんなに重いのですか」
「本場のフルコースだからな」
 龍ノ介もフルコースが何かくらい知っている。だが「本場の」とはどういう意味なのか。それを真に理解するには、やはり自分の目で直接確かめるしかない。

 そういった理由で、龍ノ介は卵とほうれん草のガレット、バンジークスはハムと卵のガレット、そしてデザートに砂糖とバターのシンプルなクレープを頼んだ。
 チーズの良い香りと共に運ばれてきたガレットは見た目にも美しく、フランスに来たことを実感する。
「いただきます!」
「いただきます」
 どこで食事する時も手を合わせて挨拶をする。なんとなく龍ノ介の真似をしていたバンジークスだったが、今ではそれが当たり前になっていた。
 何も言わなくても、二人はそれぞれ相手の皿に自分の頼んだ料理を少し切り分けて乗せた。これも慣習のようなもので、外食で同じメニューを頼まない限り行われる。
 龍ノ介は自分のガレットを口に入れた。チーズとハムの塩気を半熟の卵がまろやかにして、口の中で丁度いいバランスになる。とても単純な料理に見えるのに奥深い。
 デザートのクレープは半分に切ってそれぞれの皿で食べた。生地以外に使っているのは砂糖とバターだけだというのに、これが信じられないほど美味しい。家ではとても再現できそうにない味だ。使っている素材から既に違うと感じる。
「やっぱりフランスってご飯が美味しいですね」
「そうだな。昨日のビストロも今朝のパン屋も良かった」
 どこに行っても外れがないというのは羨ましい。世界中から散々酷評されてきたイギリスの外食事情も近年はかなり改善しているが、それでもこのレベルの料理を道端のカフェで出すような国と比べると。
 この味は覚えてしまったら忘れられない。ロンドンに帰ればきっと禁断症状が出てしまうだろう。ならば。
「ここにもまた来ましょうね」
「気が早いな……
 バンジークスと再訪したい場所が増えた。パリならまた気軽に来られる。何なら日帰りもできそうだ。わざわざ休みを取らなくても、週末に一泊だけする旅行で十分楽しめるのでは。即座にそれくらいの算段を立てる程度には、龍ノ介はパリ(の食事)が気に入ったのだった。



 そして夜。今日の、いや今回の旅のメインイベントだ。レストランは郊外にあるのでタクシーで向かう。ライトアップされた凱旋門の前を通り、明かりの少ない森の中へ。
 車を降りると木々の中に美しい建物が建っていた。手入れされた庭に囲まれ、屋根や柱は緑で統一されている。全面ガラス張りだがメインホールは外からの視線が木々に遮られる設計で、装飾ひとつとっても心配りを感じられる。流石は元皇帝の持ち物だ。
 バンジークスが入口で予約している旨を伝えるとすぐに中に通される。緑で統一された外観とうって変わり、内装は落ち着いた赤とテーブルクロスの白、そしてワイングラスやシャンデリアの輝きに満ちた高級感漂う空間だった。
「すごいお店ですね……
「今時ドレスコードがある店だからな。私も十代の頃に家族旅行で来た以来だが、全く変わっていない」
 子供の頃にドレスコードがあるような高級店に入った経験など龍ノ介には無い。せいぜい親戚の結婚式に呼ばれてホテルに行った程度だが、それもほとんど覚えていないくらい小さな頃の話。なんとなく格差を感じるが、今はさり気なく誘導してくれるのが非常に頼もしい。

 最初にシャンパンが注がれ、すぐに料理も運ばれてきた。しかし龍ノ介は皿とメニューを見比べて首を傾げる。
……メニューと違いませんか?」
 洒落た皿の上に小さく鎮座するのは、バゲットの上にパテとトリュフが乗った小さな料理。メニューでは前菜は春野菜のテリーヌと書かれているので、これは明らかに違う。
「? ああ、これは前菜ではない。アミューズだ」
 バンジークスは龍ノ介が何を言っているのか一瞬分からない様子だったが、すぐに理解した。しかし今度は龍ノ介の理解が追い付かない。
「アミューズ?」
「日本の居酒屋でもよくあるだろう。頼まなくても出てくる……お通しといったか」
「あ、なるほど! フランスにもあるんですね」
 コースの最初に提供するものだからと、シェフが気合を入れて考える料理だという。メニューに載らないのは、日によって一番良い食材や組み合わせを使うためだ。一口サイズだがシャンパンによく合い、満足度が高い。
 さて次こそは前菜かと思いきや、また別の料理が出てきた。器はレンゲのような取手と深みがあり、見た目は完全にクレームブリュレである。
「あれ?」
「これもアミューズだ」
 今度は龍ノ介が何か言う前にバンジークスが答えた。店によってはアミューズを二種類用意している所もあるらしい。ウェイター曰く、これはフォアグラのクレームブリュレだそうだ。
 上の砂糖はしっかり甘いが、下のクリームは甘くない。一緒に食べると甘みと香ばしさ、そしてほのかな塩気がなめらかに一体化する。食べたことのない味だ。
「とても美味しいのですが、前菜に辿り着くまでに満腹になるのでは?」
「流石にそんなことはない」
 心配に反し、今度こそ本当の前菜が提供された。春ということもあってテリーヌは彩りも鮮やかだ。皿が出されると同時に空になったシャンパングラスが下げられ、何も言わなくても次のグラスに白ワインが注がれた。
 と、龍ノ介はふと心配になる。
「検事、このワインは」
「飲み放題だ。気にするな」
 コースにはワインの代金も含まれているという。それを知って安心した。そもそもこの店に入ってから尋ねられたのは魚料理と肉料理と食べられない食材くらいで、後は何も言わないのに勝手に出てくる。小心者の庶民には些か難しい。
「随分と贅沢な飲み放題ですね……
 ワインはバンジークスが選んだわけではない。店側で選んだものが次々に注がれるシステムだ。もちろん自分で好きな一杯を頼むこともできる。だが龍ノ介に強いこだわりは無いし、バンジークスも店が料理に合うと思って出しているのだからと注がれるものを飲んでいた。

 前菜が終わったら白アスパラガスのポタージュとパン、その次は魚料理だ。龍ノ介は鱸のムニエル、バンジークスは鮃のソテーを選んだ。ここでまた別の白ワインが注がれて、龍ノ介はそろそろ追い付かなくなってくる。
「少し飲んでやろうか」
「うっ、ま、まだいけます」
 そう言って二杯目の白ワインをちびりと飲む。だんだん酔ってきたが、この後にまだ肉料理が控えているのでそれまでに飲み切りたいところ。魚料理と交互にゆっくりと飲み進め、バンジークスに遅れてやっとグラスが空になった。

 次は肉料理と思っていたら、また全く違うものが運ばれてきた。小さなガラスの器に入ったピンクのシャーベットだ。これもメニューには無い。
「デザート……ではありませんよね」
「口直しのソルベだ。さして甘くはないぞ」
 フランス人というのは、こと料理に関しては特に色んなアイデアを持っているのだと龍ノ介は感心した。口に運ぶと確かに甘くない。苺の味だが砂糖は使っていないようで、酸味が強く口の中がさっぱりとする。少しミントも効いていて、鼻から爽やかな香りが抜けた。

 口をリセットしたところでメインの肉料理だ。龍ノ介はラム、バンジークスは鹿肉を選んだ。どちらもローストで、焼き目ひとつ取っても美しい。
「鹿ですか。ちょっと珍しいですね」
「ジビエの本場だからな。少し食べてみるか」
「ぜひ! あ、ではラムも少しどうぞ」
 星付きのレストランだがこれくらいは許されたい。羊と鹿を一切れずつ交換して早速口に入れた。牛の赤身のように脂が少なく、筋も癖も無く食べやすい。赤ワインのソースもよく合っている。鹿肉など食べたことがなかったが、むしろ一般にあまり流通していないのが不思議なほど美味しい肉だった。
「鹿ってこんなに美味しいんですね。日本だと猟師くらいしか食べないイメージでしたけど」
「最近、ニュージーランドでは鹿の牧場が増えているらしい。近いうちに普及するかもしれぬぞ」
「へえ……鹿牧場……
 龍ノ介の鹿に対するイメージは完全に修学旅行で見た光景である。その思い出と牧場が自動的にリンクされた。
……角が痛そうだなあ)

 肉料理を終えて後はデザートのみと思っていたのだが、ウェイターが運んできたワゴンに乗っていたのはケーキではなかった。
「あれ、チーズ?」
「お好きなものをお選びください」
 台の上には様々な種類のチーズが並び、横にナッツやドライフルーツが添えられている。食後のチーズさえコースに含まれているとは龍ノ介も驚いた。
「食べたくなければそれでも構わぬが」
「うーん、でもせっかくですし……
 ワイン狂いのバンジークスにつられて龍ノ介もそれなりに飲むようになったし、チーズと一緒に楽しむ理由もよく分かった。一つ選んでみようとは思うのだが、いかんせんチーズに詳しくない。十種類以上並んでいるチーズに対し、龍ノ介が見た目だけで判断できるのはせいぜい二種類くらいだ。
 バンジークスは何やら青カビのチーズを選んでいた。龍ノ介はそのタイプが得意ではないので、店の人に任せることにする。
「じゃあ、あまり癖の強くないものをお願いします」
「かしこまりました。ではこちらのエメンタールを」
 給仕が切り分けたのは、古い漫画で見たような穴の開いたチーズだ。こういったタイプこそ癖が強そうだという先入観があったが、実際に目の前に出されてみると香りもきつくない。
 控えめに齧ってみると少し硬めの食感。穏やかな香りがして、気持ち甘いような気がした。よく食べるチーズとは少し違うが、薦められた通り食べやすい。流石は給仕のプロである。
「美味しいです。ワインにも合いますね。今度チーズを買う時はこれにします」
「いつもモッツァレラかカマンベールばかり食べていた君が……
「だって見た目じゃ分からないじゃないですか! こういういかにもヨーロッパのチーズみたいな見た目なのは食べにくそうだと思ってたんですよ」
 豊かな食文化は人を動かす。龍ノ介もこれを機に少しはチーズに対して冒険してみようと思うのであった。


 一呼吸おいてから、今度は別のワゴンが運ばれてきた。銀の扉を開くと色とりどりのケーキが並んでいる。正直なところ既に胃がはちきれんばかりなのだが、これを見てしまうと食べないという選択肢はない。お薦めはメロンのタルトとベリーのチョコレートケーキだというので、それを一つずつ。
 二人がケーキを選ぶとしかし、店員はそのままワゴンを戻していってしまった。すぐ皿に乗せてくれるわけではないらしい。その間に紅茶かコーヒーのどちらがいいか聞かれたので、ロンドン在住の二人は当然紅茶を頼んだ。

 ほどなくして、今度は皿が運ばれてきた。先に二人が選んだケーキに、フルーツやソースなどデコレーションが施されている。一度持ち帰ったのはこのためだ。
「いやあ、こだわってますねえ」
 ワゴンから選ぶ特別感もさることながら、それを他の料理同様に美しい一皿にして提供する丁寧な仕事ぶり。一流のレストランを初体験してみて、そのこだわりを全身で味わえた。龍ノ介は感心しきりだ。
「コースの終わりまで味も見た目も良くなければ星は取れまい」
「それもそうか。あ、検事のケーキ一口下さい」
……交換だぞ」

 さてこれで終わったかと思ったところで再びウェイターがテーブルに近付いてきた。会計かと思ったが、これは予約時に支払いを済ませているとバンジークスが言っていたので違うはず。不思議に思っていると、四角い皿に並んだ小さな焼き菓子が目の前に置かれた。
「検事、これは一体……
「プティフールだ。これでコースを締める」
 デザートとこの焼き菓子は別カウントのようだ。小さな菓子だが、今の腹具合だとなかなかの追い打ちである。
「これは……フルコースを甘く見ていました……
 もちろんどれも味は最高だ。しかしデザートに到達した時には既に限界が近かったし、そこからまだ先があるとは思いもよらなかった。龍ノ介はまあまあ食べる方だが、美食の国は侮れない。
「だから言ったのだ。昼のクレープは半分にしておいて良かっただろう」
「ええ、本当に」
 まだ半分ほど残っている紅茶と共に、二人はできるだけゆっくりと最後の菓子を楽しんだ。



 翌日。あっという間に帰国の日である。二泊三日は短いので、やはりまた遊びに来なければと龍ノ介は思う。とはいえ帰るのは午後だ。飛行機の国際線に乗るわけでもなし、ぎりぎりまでこちらで遊んでいられる。
 今回はホームズ親子の土産は必要ないが、なんといっても美食の街ということで寿沙都が非常に期待を寄せていた。彼女曰くパリは世界でも指折りのチョコレートの街であり、パリにしか無い店がいくつもあるそうだ。
 昨日の内にアイリスが頼まれたものは買ってあるので、龍ノ介が頼まれた分を今日買いに行かなければならない。デパートとは違って店舗が市内の色んな場所にあり、計画的に回らなければ電車に間に合わなくなってしまいそうだ。付き合ってもらうバンジークスには悪いが、いつも世話になっている彼女に喜んでもらえるよう龍ノ介は気合を入れた。


 祝日なので交通に関してはさほど問題なかったが、店はどこも人が多かった。特にこれだけは必須でと言われていた店は行列が出来ていたほどだ。
 どの店でもチョコレートの試食をしていたので二人ともつい手が伸びた。買うものは決まっていたが、せっかく並んだのだからと自宅用にトリュフのボックスを買ったりもした。人に買うのはもちろんだが、自分用に思い出を持ち帰るのも旅の醍醐味だ。


 幸いにも全て買うことができたので、龍ノ介は安心してロンドンに帰れる。ホームズとアイリスとも合流して四人で駅に向かった。
 しかしそのまま帰るわけではない。電車まではまだ時間がある。荷物が多くて動きにくいが最後の最後まで満喫しようということで、駅の傍にあるカフェでゆっくりするのだ。昨日の夕食以外でフランスのケーキを食べていないと気付いた龍ノ介の提案だった。
「結局ほとんど別行動だったね」
 旅は満喫したようだが、少し寂しそうにアイリスが呟いた。
「そもそも最初はぼく達二人で来るつもりだったから、ツアーなんかは一緒にできなかったもんね」
「まったく、次からはもっと事前に相談しろ……聞いているのか、探偵」
「ううん、聞いてない」
 ホームズは塩キャラメルのアイスを口に運びながらご機嫌で答える。予定をかなり狂わされたが何かと配慮もあり、結果的にはそれなりに助けられたのも事実。そう考えるとバンジークスも龍ノ介もなんだかんだと文句は言えなかった。
「でも、パリなら近いしまた来られるよ。ねえ検事」
「そうだな。次に来る時は車を借りようと話していた」
「ほんと⁉ とっても楽しそうなの!」
 次はちゃんと最初から四人で行くつもりで計画しようと約束した。パートナーとの二人旅も良いが、大勢での旅も賑やかで楽しい。
 旅行をする度に思い出と経験値が増えていく。それは家に居ては得られないものであり、得る度に人生が豊かになる気がした。龍ノ介をはじめ、この場に居る大人は皆アイリスにもそんな経験をしてほしいと思っている。

「絶対、また来ようね!」
 彼女との約束は必ず守る大人達だ。そんなことを言われたら、もう頭の中では次の連休を押さえにいっている。次回は他の友人達を誘ってもいいだろう。
 帰りの電車の時間が来るまであと一時間ほど。四人は昨日見てきたものを教え合ったり次の旅行の計画を立てながら、ゆったりとしたひと時を過ごすのだった。

摩天楼

「再来月の話だが、仕事で三日ほどニューヨークに行くことになった」
 バンジークスが家に帰ると龍ノ介は既に帰宅しており、夕飯の準備を始めようというところだった。ジャケットを片付けて手を洗い、手伝いに取り掛かる。ホールトマトの缶を開けながらバンジークスが思い出したように言った。
「えっ、いいなあ! ぼくも行ってみたいです」
 龍ノ介は思わず手を止めて、羨望の目で見上げた。バンジークスはあまり出張がある方ではない。中央から離れるとしてもせいぜい地方都市程度で、仕事でイギリスを出たことはなかった。が、龍ノ介はそれ以上に出張と無縁である。ロンドン市内に事務所を構えていれば依頼人だって大抵はロンドン市民なのだ。
 というわけで、龍ノ介は出張にちょっとした憧れを持っていた。しかも行先はニューヨーク。仕事であっても行ってみたい街である。
「そう言うと思って、出張の後に休暇を申請してきた。向こうで少し仕事はするだろうが、君も途中から来ないか」
 仕事での滞在は三日だが、これでは観光も何もできない。ちょうどその次の日が土曜なのでついでに龍ノ介を呼ぶことを思いついたのだった。
 龍ノ介は完全に手を止め、何も言わず片手で顔を覆って俯いてしまう。
「⁉ どうした?」
 喜ぶだろうと提案したが、龍ノ介の反応が思っていたものと違うのでバンジークスは少し焦る。そっと顔を覗き込むと龍ノ介は手をゆっくりと外した。
「あまりに天才的な提案をしていただいたので、感動で泣いてしまいそうでした」
……大袈裟な」
 そうは言ったが、嬉しそうな龍ノ介の顔を見て内心ほっとしている。
 焦げ付きそうな鍋の火を弱めて、二人は料理を再開した。



「何をしましょうか。ミュージカルは外せませんよね」
「そうだな。チケットは買っておくか」
 食事をしながら旅行について思いを巡らせる。月曜日を休みにして、龍ノ介は金曜から合流するので観光できるのは三泊四日。見たいもの全てというわけにはいかないだろうが、それだけあれば充実した旅になりそうだ。
「検事は行ったことありますか? ニューヨーク」
「子供の頃に一度だけあるが、あまり覚えていないな。旅に慣れておらずに眠気と闘っていた記憶はある」
「そんな可愛いことが……
 幼い頃のバンジークスの写真なら龍ノ介も何度か見たことがある。巻き毛なのは相変わらずだが今の姿からは想像できない可愛らしさで、想像するだけでも頬が緩んだ。
「案内できるほど詳しくはないが、仕事で多少回れば少しは慣れるだろう」
「それは助かります」
 実際のところはどうか分からないが、龍ノ介のイメージでニューヨークはいつまでも世界一の大都会である。憧れの街、思いがけずやってきた機会に龍ノ介はずっと浮かれきりであった。



 出発を一週間後に控えたとある日、龍ノ介はホームズの家に遊びに来ていた。
「来週末のコンサートのチケットを貰ったんだけど、キミ行かない?」
 ホームズは仕事で行けないらしい。だが来週末といえばちょうど旅行の最中だ。残念ながら断るしかない。
「すみません、来週末はちょっと」
「何か用事でもあるのかい?」
「あ、言ってませんでしたっけ。今度ニューヨークに行くんです。検事が出張なのでそのついでで」
「ふうん。ボクは仕事があるから行けないけど」
(誰も誘ってないぞ……
 誘われなかったのが不満な様子のホームズは、龍ノ介の前まで歩いて人差し指を立てた。
「でも、ニューヨークに行くならこれだけは言っておこう」
「なんでしょう」
 やけに深刻そうな顔をするものだから龍ノ介も思わず身構える。治安の話や悪名高い犯罪者の話でも飛び出すのかと思ったが。
「お土産に自由の女神像なんか買ってきてみろ。二度と口をきいてやらないからな!」
 モルディブの件をずっと根に持っているのだろう。具体的に何を買ってこいとは言わないが、渡すと怒る物があるというのがまた面倒である。
(そこまで言われると逆に買いたくなるなあ)
 これはまた土産物屋でしばらく悩むことになりそうだ。

 バンジークスが先に仕事へ出て二日後、ロンドンを朝に出発する飛行機で龍ノ介もニューヨークに到着した。直行便でも八時間かかる結構な長旅で、固くなった体をどうにか伸ばしたい。
(到着しました、と)
 入国審査を出て、荷物が出てくるのを待ちつつバンジークスに連絡を入れた。彼も連絡を待ち構えていたのだろう、返事がすぐに返ってくる。到着ロビーのゲート前に居るそうだ。
 無事に荷物を回収してゲートを出ると、バンジークスはほぼ正面に立っていた。そして隣にも知った顔が。
「あれっ、亜双義!」
 一緒に留学までした親友で、今はバンジークスの部下。いつものように凛と背筋を伸ばした男が龍ノ介を見て片手を挙げた。直接会うのは一月振りか。
「そうか、一緒に出張だったんだな」
「もう帰るがな。オレも休暇を取ってどこかへ旅行したいものだ」
「別に構わぬと言っているだろう」
「ふん。では来月あたりにでも寂しく一人旅するとしよう」
 バンジークスに対して刺々しいのは相変わらずだが、仕事の上司と部下としてはなかなか上手くやっているようだ。
「成歩堂にも会えたことだし、オレは帰る。議事録は出発までに送っておく。遊ぶのは構わんが、週明けまでに書類をメールで送って報告書を出すのを忘れるなよ」
「無論だ」
 聞けば今日の夕方の便で帰るという。元々は昼の便で帰るつもりだったのを、龍ノ介が来ると知った時点で時間を変更したらしい。
「そこまでしてくれなくてもロンドンで会えるだろ」
「気にするな。午前中に寄る場所もあったし、昼の便だと慌ただしかったのだ。ちょうど良かった」
 快活に笑う様子を見るに仕事は順調なようだ。バンジークスから話だけは聞いていたが、しばらく忙しくて会えていなかったので少し安心した。
「ではな、成歩堂。また法廷で」
「はは、またな」
 亜双義は軽く手を振って保安検査場へ入っていった。

 姿が見えなくなるまで見送ってから二人も空港の出口へ向かう。
「飛行機では寝なかったのか?」
「え、どうして分かったんです?」
「眠そうな顔をしている」
 雄弁な顔だ。そう言いながらバンジークスは龍ノ介の荷物を回収した。自分のトランクは先に今日のホテルに置いてきたので手が空いているのだ。
「荷物を置いて少し休むか。夕食まで予定も無いだろう」
「うーん、でも勿体ない気がします」
 タクシーを待ちながらこの後のことを考える。確かに予定は入れていないが、せっかく時間があるのだから寝て過ごすというのも。
「ふむ……
 バンジークスが考えていると、二人の順番が来た。トランクを積んでタクシーに乗り込む。龍ノ介は外の景色を楽しむつもりでいたが、いつの間にか意識が遠くなっていた。



 ホテルはミッドタウンのほぼ真ん中に位置していて、どこへ行くにも便利だ。ニューヨークのこんな場所にあると宿代が心配だが、ここを予約してくれたバンジークスは気にするなと言っていた。
 部屋に入ると、まず大きな窓から見えるビル群が目に飛び込んでくる。高層階なだけあって眺望は最高で、これは今までの旅行先では見られなかった景色だ。龍ノ介の目が少し覚めた。
「おお……大都会……
「東京も大都会だろうが」
「全然違いますよ! こんなに区画は揃っていないし、建物自体もこっちの方が洗練されていて格好いいし」
 同じ高層ビル群でもこうも違うものか。龍ノ介は先ほどタクシーで寝てしまったことを後悔した。遠くから眺めるこの景色もさぞ素晴らしいのだろう。
 眺めを満喫した龍ノ介はふらふらと窓から離れ、吸い寄せられるようにキングサイズのベッドに倒れこむ。辛うじて靴だけは行儀悪く足で脱いだ。力強いスプリングに清潔なシーツ、そして何より手足を伸ばして横になれる空間の誘惑には勝てない。
「ほら、やはり少し寝た方がいい」
「近くにベッドがあるとどうにも……三十分ほど昼寝します……起きたら……散歩に……
 最後の方は殆ど言葉になっていなかった。横になって十秒ほどで眠りにつくのは最短記録ではないだろうか。
 ロンドンの自宅から空港までは少し遠いし、午前の国際便に乗るため早起きもしたのだろう。バンジークスは龍ノ介に毛布を掛けてやり、三十分後のアラームが鳴るまで自分はパソコンを開いて報告書を作ることにした。



 バンジークスが仕掛けたアラームが鳴った。音が遠いので龍ノ介はまだ気付く様子がない。疲れているようだしもう少し寝かせようかとも思ったが、これ以上は逆に夜に眠れなくなる可能性もある。それに後で龍ノ介に恨み言を植われてしまうだろう。携帯の音は切り、ベッドの横に立つ。
「三十分経ったぞ」
 軽く肩を叩くと、意識が浮上したのかもぞもぞと動く。が、目は開かない。
「リューノスケ。散歩に行きたいのではなかったか」
……ぐう」
 これは聞こえたのか、観念したような声を上げてやっと薄目を開けた。
「休めたか?」
「三時間くらい寝ていたような気分です……
 のろのろと起き上がってきたので、バンジークスはその頬に軽くキスをする。それで完全に龍ノ介の目が覚めた。
「あ、毛布ありがとうございます。アラームも」
「安い用だ」
 龍ノ介がのろのろと起き上がり、靴を履いて伸びをする。必要最低限の物だけを小さな鞄に入れて、二人は部屋を出た。


 今日は金曜日。学校も終わる時間とあって、公園は子供で賑わっていた。二人が今立っているのは公園の南端。長細い敷地の短辺でさえかなりの長さがあり、北の方はどこまで続いているのか分からない。
……ここは気軽に歩いて一周できるような公園ではないのですね」
 想像以上に広い公園を見渡して、龍ノ介は感嘆の溜息を吐いた。東京にも広い公園はあるが、その倍以上はありそうだ。
「周囲は六マイルほどあるからな。普通に歩くと二時間はかかるぞ」
「さすがアメリカ……
 聞けばこの敷地内には動物園や劇場、そして世界三大美術館の一つも収まっているという。スケールが違いすぎて、気の抜けたようなリアクションしかできない。
 緑地はボール遊びをする子供、寝転んで本を読む人、犬と遊ぶ人など様々で、この肌寒い中でも元気だ。広場では多くの大道芸人がそれぞれショーを行って注目を集める。流石はエンターテイナーの街といったところで、操り人形から雑技団まで。観客は気軽にチップを渡していて、ここでの稼ぎは大きそうだ。日本ともイギリスとも違う文化を早速感じる。

 三十分ほど歩き、噴水前のベンチで一休みした時、つい龍ノ介から欠伸が漏れた。
「まだ眠いか」
「頭はだいぶ冴えてきたんですが」
 体を動かすと元気になったが、体温が上がってきたので休憩した途端に眠気がやってきたようだ。
……子供のようだな」
「え? ……あっ」
 いきなり何の話をされたのかと思ったが、すぐに思い出した。バンジークスが子供の頃に時差ボケで眠気と闘いながらニューヨーク観光をしたというアレだ。可愛らしいと言ったことをずっと気にしていたのだろうか。
「おっ、大人だって時差ボケくらいあります!」
「何も悪いとは言っていない」
 ちょっとした意趣返しができて満足したのか、バンジークスの口角は少し上がっている。
「そろそろ夕飯時か。店を探し回る元気も無いだろう。何か買って帰るのはどうだ?」
「んん、そうですねえ……今日はその方がありがたいです」
 龍ノ介はまた一つ欠伸をした。部屋で食べればそのまますぐ寝る準備ができる。レストランで食べるのも旅の楽しみではあるが、今の眠気と天秤にかけると眠気の勝利だ。ただし食事を抜くことは決してしない。
「この近くにスーパーか何かありましたっけ」
「いや……そういえば、ホテルの一階にデリがあったな」
「えっ、ぼく見てませんでした」
「土産物屋の向かいにあったはずだ」
 バンジークスが見た限り、飲み物やサンドイッチ等の軽食はもちろん、温かい食べ物も売っている様子だったらしい。この季節にそれはとてもありがたい。
「じゃあ、今日はそこにしましょう。なんだかお腹も空いてきましたし」
「ああ」
 口には出さないが、バンジークスも二日前から今日の午前までは仕事をしていたので正直なところ完全に元気とは言えない。美味しい店を目指して遠出する楽しみはまた明日にでもとっておけばいい。


 ホテルに戻ると、バンジークスの言う通り土産物屋の向かいにデリがあった。このホテルに泊まっているらしき客でそこそこ賑わっている。
部屋に水は置いてあるが、それぞれ飲みたいものを選んで籠に入れる。龍ノ介はレモネード、バンジークスは野菜ジュース。
「おや、今日はワインじゃないんですね」
「明日の朝が起きられなくなりそうだからな」
 どうやらカウンターで注文すればピザを焼いてくれるそうなので、二人で一枚頼むことにした。焼き上がるまで店内を見て回る。追加でスープとポケットチョコレートを籠に入れ、会計をしてピザを受け取って店を出た。温かい箱から良い香りが漂ってくる。
「同じ建物の中にこんな便利な店があったら、もう外に出たくなくなりますね」
「うむ。朝食もあそこで十分そうだな」
 今回の宿に朝食は付いていない。どこか食べに出るかと考えていたが、朝は寒いしあの店で事足りそうである。
 エレベーターを出て部屋に戻ったら、手を洗って早速箱を開いた。湯気と共にチーズの香りが立ち上る。
「アメリカでピザってなんだか本場っぽいですね」
「ピザはイタリアの食べ物だが……?」
「気分の問題です」

 食欲が満たされるともう眠気しか残らない。ごみを片付けたら最後の力でなんとかシャワーを済ませ、再びベッドに倒れこむ。
「明日は何時に起きればいいでしょうか……
「八時くらいでいいだろう」
「じゃあ……アラームはセットしたので……おやすみなさい……
「ああ」
 日付が変わるまでしばらく時間があるが、龍ノ介はそこで完全に寝落ちてしまった。
 バンジークスはまだ眠くないし、何より報告書を作らなければならない。月曜日、亜双義が出勤するまでに届いていれば文句は言われないだろうが、こういった仕事は早く片付けておくのが一番だ。バンジークスはベッド周りの電気を消し、パソコンを開いて静かに仕事を始めた。


 翌朝、二人はアラームの時間通りに起き上がる。
 キングサイズのベッドは男性二人が寝ても十分に広く、快適な睡眠時間を過ごすことができた。龍ノ介など半日近く寝ていたのに、体はどこも痛くない。旅行には万全の態勢だ。
 寝起きの悪いバンジークスも今日はよく寝たようで、いつもよりスムーズに起き上がった。

 二人で相談した結果、非常に元気になったので朝食は外に食べに行くことにした。今日は地下鉄で北に向かうので、駅の近くにあったカフェに入る。土曜日なのでビジネスマンは居ないが、席は半分ほど埋まっていた。
「地下鉄を降りたらすぐですね、博物館」
「ああ。迷うことは無いだろう」
 ワッフルとベーグルを分け合いながら、二人は今日の目的地を地図で確認した。有名なハリウッド映画の舞台にもなった博物館で、ニューヨーク屈指の観光スポットである。龍ノ介が行きたいと主張して目的地に決めた。
「しかし、君が博物館に行きたいと言い出すとはな」
「あの映画を観たら行きたくもなりますよ。検事も観ればよかったのに」
……帰ったら、な」
 これは観る気がないなと感じつつ、客が増えてきたので早々に食べきって店を出た。
 地下鉄の乗り方は、既に仕事で何度も乗ったバンジークスが教えてくれる。乗車券はカードを買ってチャージして使っていくタイプで、入場時にだけリーダーに通す。回数券のようになっていて、どこかで改札を出るまで一律料金で乗れるという。
「駅によっては北行きと南行きで入場口が違うから気を付けるのだぞ」
「その言い方……もしかして一回間違えたことがありますね?」
……
 バンジークスは無言だが、それがほぼ答えだ。たまにこういう抜けたところがあるのが可愛いと龍ノ介は思うのだが。

 そうこうしている内に最寄り駅に到着した。そこから五分ほど歩けば目的の博物館だ。立派な建物の入り口には恐竜の形に整えられた木が植わっていて、早速気分が上がる。
 土曜日の開館直後とあって人が多い。半数以上が子供とその家族で、龍ノ介とバンジークスのような組み合わせの客はあまり居ない。
「何から回る?」
「やっぱり恐竜でしょう」
 来館者の目的の大半は恐竜だと言っていいだろう。大迫力の骨格標本に、実寸大で再現した人形の展示の数々。恐竜にそれほど興味が無くてもその空間に入るだけでわくわくする。子供たちは男女問わずここで大はしゃぎだ。
「これですよ! 映画で大暴れしていたティラノサウルスの骨!」
 龍ノ介も負けず劣らずテンションが上がっている。バンジークスは件の映画を観ていないが、いくら骨だけといえどこれほど巨大な物が暴れ回っていたらと思うと恐ろしい。
 何枚か写真を撮ったら次の部屋に移動する。ここも恐竜の展示だが先ほどと比べれば大した混雑ではない。奥へ進むと鳥類、爬虫類の展示に変わっていき、進化の過程なども学べるようになっている。哺乳類ともなると模型だけではなく剥製の展示もあった。

 暗く広いホールに出たと思ったら、そこは海洋生物の展示の部屋だった。ここだけ吹き抜けになっていて天井がとても高く、上空には原寸大のシロナガスクジラの模型が吊るされている。テレビなどで見たことはあってもいざ実際の大きさを知ると圧倒された。
「あんなに大きくて、よく生きていられるなあ」
 エスカレーターでぼんやりとクジラを見上げる龍ノ介の言葉に、バンジークスは咄嗟の返事ができなかった。この男はときどき思いもよらないことを口にする。
……なぜそう思う?」
「海は広いからいいですけど、あんなに大きかったら泳ぐだけでも大変そうじゃないですか。色んなものにぶつかりそうで」
 考えているようで意外と何も考えていない意見だったのでバンジークスは脱力した。
……クジラはむしろ、我々こそ小さくてよく生きていられると思っているのではないだろうか」
「なるほど、相手の立場から考えると」
 そんなくだらないやり取りをしていると、龍ノ介はエスカレーターの降り口で躓いた。



 夜、ホテルに帰ってから二人は明日の予定を確認した。昼からミュージカルを観に行くのだが、午前は丸々空いている。
「明日はどうする? ミュージカルまで時間があるが」
「あっ、そうだ。飛行機で隣になったお爺さんが良い場所を教えてくれたんですよ」
 龍ノ介が携帯で検索を始めたのでバンジークスも近くに寄る。聞いた話によればそれは廃線になった線路を利用した高架の公園で、島の南の方にあるらしい。写真を見てみると確かに雰囲気のいい場所だ。
「端から端まで歩いても三十分程度みたいですよ。この近くでブランチでも食べて、公園を散歩してから劇場に向かいましょう」
 バンジークスも異存はない。明日はゆっくり寝られるからと、二人は少しだけ夜更かしをした。



 南北に細長い公園の南端エリアは、石畳が敷き詰められた景観の良い場所だった。肌寒い季節なのでテラスに出ている人は少ないが、外で食事するのも気持ちいいだろう。
 駅から公園の入り口を探しつつ近辺のカフェをチェックする。と、一際賑わっている店を発見したのでとりあえずそこに入ってみた。休日だからブランチを食べる人が多いのだろうか、朝食の時間にはかなり遅いのに店内はほぼ満席だ。
 店員に二名だと伝えると、幸いにも空いていた二人席に通される。どうやらパンケーキが有名な店らしい。
「ブランチでパンケーキ……絵に描いたようなニューヨーク観光だと思いませんか」
「まあ、確かに」
 同世代の女性たちも喜びそうなメニューに店構え。バンジークスもあまりに典型的で面白くなってきたのか、少し笑いながらメニューを眺めていた。
 一番の売りは三枚のパンケーキに三種類のトッピングが乗ったものらしい。おそらくアメリカンサイズだと予想したので、それを二人で分けることにした。せっかくなので今日の飲み物はコーヒーだ。
 運ばれてきたパンケーキは予想の一・五倍ほどあったが、二人なら食べきれそうな量でほっとした。バナナやナッツ、ベリーのソースにチョコレートソースと甘さのフルコンボである。
「では、いただきます」
「いただきます」
 しかしこの二人、甘い物だろうと決して怯んだりはしないのだ。


 カフェを出た所に公園の入口がある。線路は高架になっているので、入口は必ず階段かエレベーターだ。短い階段を上がればそこは都会と調和した憩いの場が広がっていた。歩道は木の板が敷かれ、至る所に数え切れない種類の植物が植えられている。所々に線路が残されていて、ここをかつて電車が走っていたことがありありと分かる。
 観光客か地元の人かは分からないが、散歩する人で大いに賑わっていた。
「予想の何倍も良い場所でした」
「教えてくれたご老人に感謝せねばな」
 さっそく二人も歩き出す。植物の中に点々とアートらしきものが置いてあるのがいかにもニューヨークらしい。見晴らしの良い場所ではあえて両側に高い木を植えず、すぐ側を流れる川や真っ直ぐ遠くまで続く道路を見渡せた。またアート作品だけでなく、昔使っていたトンネルの一部などのパーツが置いてあるのがなんとも郷愁を誘う。最先端の街中に居ながら、どこかの遺跡にやって来たような気分が味わえた。
 道中にはベンチが何台も置かれているのでいつでも休憩できて、老若男女問わず自分の好きなように楽しめる公園である。

 半分ほど進んだところで二人は面白い物を見つけた。
「これ、動くんでしょうか」
 龍ノ介がこれと呼んだのは、ビーチベッドのような縦長の木製ベンチだ。特徴的なのは、それが線路の上に乗っていて車輪が付いているところ。
「押してみれば良かろう」
「じゃあ検事、どうぞ乗ってみてください」
(なぜ乗る必要が……?)
 心では疑問に思うものの、バンジークスは大人しく椅子の上に座った。龍ノ介が横から押してみると横にゴロゴロと動き出す。バンジークスも重いが、そもそも椅子が相当重いので大した距離は動かない。隣の空きベンチにぶつかる前に停止した。
「うわあ、遊び心ですね!」
 隅から隅まで線路を活かした設計に感動しつつ、二人はそこで観光客に眺められながらしばらく休憩した。

 電車が走っていたということはつまり駅もあったということ。特に大きな駅の跡地はビルを突き抜けるようにして残っており、そこは広いスペースを利用して露店が並んでいた。コーヒースタンドや土産物屋など洒落た店が目を引く。二人は既に満腹なので何も買わなかったが、余裕があればそこでドーナツでも食べてみたかったところだ。
「端まであとどれくらいだろうか?」
「あと四分の一くらいじゃないでしょうか」
 今は十二時前。ゆっくり歩いたのでここまでで既に三十分ほどかかっている。ミュージカルは一時に開演する。劇場の最寄り駅までは地下鉄で十分ほどだが、公園の端から駅までが少し遠い。景色は楽しみつつ、そろそろブロードウェイに向かった方がいい頃合いだ。
「次の予定が無ければもう少しゆっくりしたい場所でしたね。あのお爺さんにお礼を言わないと」
……まさか、連絡先を聞いたのか?」
「ええ、まあ」
 成歩堂龍ノ介とはこういう人間なのである。


 タイムズスクエア周辺にはいくつも劇場があり、多少道に迷ったものの開演時間には余裕を持って到着できた。数年前に公開されたアニメ映画を舞台化した演目であるために、客の大半は親子連れだ。狭いロビーを人波に流されながら進み、急勾配の二階席に辿り着く。開演までは劇場スタッフがパンフレットなどのグッズを売り歩いていた。
 龍ノ介はあまり演劇を鑑賞しない方だったが、ロンドンでバンジークスと暮らすようになってからは年に一回程度観に行くようになった。ミュージカルだったりストレートだったり色々で、こだわりもさほど無い。今日の演目も、去年公開されて人気があり、ロンドンではまだ公開されていないからというミーハーな理由で選んでいる。
 さて、本場のミュージカルとはどんなものか。期待しながら二人は幕が上がるのを待った。


 結論から言えば、最新鋭のミュージカルは驚きの連続で二人とも大満足だった。背景のセットやスモークや床面の装置はもちろんのこと、プロジェクションマッピングによる表現が多彩で新鮮である。キャストは歌も演技も一流で、子役でさえ大人顔負けのパフォーマンスをしていた。これはもう流石の一言に尽きる。
 帰りのロビーはグッズを求める客で開演前より凄い混雑だった。ようやく出られたと思って顔を上げると、ふと正面にも別の劇場があることに気付く。
「あの、検事」
「どうした」
 ホテルに向かって歩こうとしていたバンジークスを呼び止め、龍ノ介は向かいの劇場を見た。
「明日の夜って、何も予定はありませんでしたよね」
「ああ。もしや……
「明日夜のチケットがまだ残っていたら行きたいんですけど、どうでしょう?」
「ふむ」
 向かいの劇場で上演されているのは、先ほどとは違い三十年ほど続いている超ロングランのミュージカル。ただ、龍ノ介は観たことがない。
 こんなに衝動的なことを言うのは観劇の余韻に浸りテンションが上がっているせいである。それはバンジークスも承知の上。
「そうだな。チケットボックスを覗いてみるか」
 別に何か予定を入れているわけでもなし、無駄遣いになるわけでもなし。何よりバンジークスも余韻で少し浮かれているのだ。
 嬉々として劇場に入ると、ガラス窓の向こうに職員が待ち構えていた。明日のチケットはまだ残っていて、席種もそれなりに選べる。一階席前方の最も高額なチケットなら豊富に残っていたが、二人は二階席でそれなりに前方の連番席を選んだ。
「意外と前日でも買えるんですね」
「ロングランということはそれだけ観た人も多いからな。といっても八割以上は埋まっていたようだが」
 日曜夜の公演は翌日が仕事の人にとっては少し辛いが、観光客には関係ない。チケットを大事にしまって二人は劇場を後にした。



 翌日、二人はひたすら街中を歩き回っていた。明日は昼の飛行機で帰るので、今日しか土産を買う時間がないのだ。
 ホームズ親子の分は買えた。亜双義は出張に来ていたので要らないだろう。となると残るは助手の寿沙都である。
 彼女は甘い物が好きだからと、どこかへ出かけた時はいつも各地のお菓子を買っていたのだが、今回だけは事情が違う。最近どうも少し食べ過ぎてしまったらしく、土産は何がいいか聞くと甘い物は避けてくれという依頼が返ってきたのだ。
 食べ物のことなら龍ノ介も分かるのだが、それ以外で女性の喜ぶ土産物となるとさっぱりだ。アイリスの分もバンジークスと共に考えに考え抜いて選んだので、これからもう一度同じことをしなければならない。
 ブランド物を好むタイプではないが、上品な彼女ならとても似合うとは思う。しかし龍ノ介のポケットマネーとはいえあまり高い物を渡すと怒られてしまいそうで、それもまた一つ龍ノ介を悩ませる原因だった。
「彼女への土産なら、髪飾りはどうだろうか」
 そこに意外な助け舟。バンジークスの提案を聞いて龍ノ介はぱっと顔を上げた。
「その、いつも髪を整えているからな」
「いいですね! さっそく探しに行きましょう!」
 宝石でも使っていない限り、鞄や服よりは安いだろう。以前にアイリスと髪を弄って遊んでいたのを見たこともあるし、きっと喜んでくれる。
 案外バンジークスは装飾品に関するセンスに長けているので、その辺りは助けてもらうつもりだ。目標が定まったところで再出発。それぞれ二つずつ紙袋を提げて、また買い物に繰り出した。



 ミュージカルを終えて帰った時には二人とも疲れ切っていた。半日ほぼ買い物で歩き回ったのもあるが、旅の疲れが溜まっているのだ。バンジークスは出張もあった。
 とはいえ後は帰るのみ。荷造りは明日の自分に任せてしまおうと、最低限の身支度だけ済ませて早々にベッドへ倒れ込んだ。
 翌朝二人とも寝過ごして、慌てて荷造りとチェックアウトをする羽目になることはまだ知らないのだった。




 帰国した二日後、龍ノ介は土産袋を手にホームズの事務所へ遊びに行った。
 寿沙都への土産は昨日の内に渡してある。淡いピンクの花が散りばめられた小型のリボンで、ちょっとしたブランド品だ。二人で選んだと伝えると更に喜び、その後の調査に着けていったくらい気に入ってくれたらしい。
「アイリスちゃん、これはぼくと検事から」
「ありがとう!」
 紙袋の中には薄い箱。リボンを解いて開くと、濃い茶色の皮手袋が入っていた。今のアイリスの手よりは少し大きなサイズだ。
「最近また背が伸びたから、手袋が小さくなってきたんじゃないかと思って。これなら長く使えるかな」
「わあ、そろそろ新しいのを買おうと思ってたの。大切に使うね!」
 それとは別にアメリカ発ブランドの紅茶を渡した。そろそろ後ろで待機している男の我慢が限界のようなので、龍ノ介は振り返ってもう一つの紙袋を差し出す。
「はい、ホームズさんにはこれです」
 ホームズは受け取るや否やうきうきと包みを開く。しかしその顔は次第に曇っていき、最終的には笑顔が完全に失われた。
「自由の女神像です」
 机の上には高さ二十センチほどの緑の像が聳え立つ。まあまあ精巧な作りで、大きさに比例してずっしりと重い。
 あれだけ釘を刺しておいたのにとホームズは完全に臍を曲げ、どんよりした顔でそっぽを向いて龍ノ介への呪詛を呟くようになってしまった。
 流石に龍ノ介の良心が痛む。もちろんこれはただの前座だ。あまりの落ち込みぶりで可哀想になってきたので早々に種明かしをした。
「すみません、冗談ですよ。本当はこっちの袋です」
 それを聞くや否やホームズは元気を取り戻し、半ば奪うように龍ノ介から土産袋を受け取った。
 袋の中身はまだニューヨークにしかない店のチョコレートとキャラメルのアソートボックスと、五番街で買った多少値の張る黒の皮手袋。もちろんアイリスとお揃いである。
「キミ、ちょっと意地悪を覚えたね」
 ホームズは嬉しそうで悔しそうな顔で龍ノ介を見た。普段ならこういう悪戯を仕掛けるのはホームズの方なので、お鉢を奪われた気分だ。
「教えてくれたのはホームズさんですけどね」
 探偵を出し抜くなど滅多にできる経験ではない。大したことではないが、龍ノ介はちょっと得意げだった。

「あ、そろそろ戻らないと。依頼人の相談があるんでした」
 時計を確認して龍ノ介は荷物をまとめる。が、机の上の自由の女神像は一向に片付ける様子がなく、嫌な予感がしたホームズが問う。
「えっ、コレはどうするつもりだい」
「その像もお土産の一つですから。ちゃんと飾ってくださいよ!」
 冗談で買いはしたが、これもホームズのための土産であることに変わりない。龍ノ介は像を押し付けられる前にそそくさと鞄を持って部屋を後にする。
 龍ノ介を捕まえる前に扉が閉まり、ホームズはただ固まることしかできなかった。逃げたもの勝ちである。
「いらないって言っただろう、ミスター・ナルホドー……
 元気よく階段を下りていく足音を聞きながらホームズは小さく呟いた。


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