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憧れ ―後編―【ワンドロ お題:鬘物・三番目物】

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2015-09-12 21:34:20

前編の続き。
蜂須賀虎徹を主役にしました。本丸設定・審神者も登場します。謡曲は〈羽衣〉を引用。

Posted by @seika8sub

縦書きPDFファイル版(グーグルドライブ利用)
後編 https://drive.google.com/file/d/0BzTIbcLr-GGAckxXdzJRaGE3SlU/view?usp=sharing
40字×16行で本文は21頁分あり



   憧れ 後編



 君が小學校にかようてゐた時分に、ほどなく學校も近づいた田圃の岐れ途に水門のあつたことを覺えてゐるだらうね。そして君はそこまで來ると學校をいやがって毎日ちよつとの間ためらつて、水門の水戸口に腰かけて溜息をついたことを思ひ出せるだらう、――間もなく君は諦めた顏つきでしぶしぶ歩き出して行つたが、君はそれを悲しい小さい心の出來事としては感じなかつた。君はただ厭なこととしか考へなかつた。
 君は水門の戸前が卸されてゐて、靜かな、底の泥まで數えられる水のなかに何が這うて歩いてゐたかを覺えてゐるだらう、冬ぢう水を流さない溜り水のなかに蛭がうごいてゐたこと、それを上からだまつて覗いてゐると、映つた顏のうへに這ひあがりさうな蛭は可哀さうなものであるよりも、あれは大變にさびしがつてゐるのだとは思はなかつたか。
 君はもう成人してゐるから、かういふ温かい春の夜にまぎれて君の家の呼鈴を鳴らすものがゐても、それが野蛭だなんてゆめにも思はないだらう。さういふ馬鹿々々しい話を聽いただけでも君はそつぽを向いてしまふだらう。(※1)


 とある本丸の一角である。付喪神として人の姿形に化身している刀剣たちに宛がわれている部屋の密集する一帯の中央には、およそ二十畳程度の広い部屋があるのだが、普段、この部屋は刀剣たちの談話室として利用されていた。ありきたりな和室――イ草の畳だとか、ざらついた土壁だとか――であるこの部屋の中央には、長方形の大きく足の太く短い机が二つ、短辺をくっつける形で置かれている。普段であればこの机上には、ここで過ごす刀剣たちが持ち寄って来た茶菓子類だとか本や遊戯物の類だとか思い思いの物で好き放題に散らかっているのだが、今はそれらは出来るだけ片隅に片付けられていた。代わりに机上にはノート等の紙類やいくつかの本、ペンなどの筆記類がいくつも置かれ、それらの前には数十本もの刀剣たちがそれぞれ鎮座していた。上座に当たる机の短辺の所には、何かの冊子を手に持って居る、この本丸の主である審神者が、微かに楽しげな様子で居た。
……というわけで、これは室生犀星っていう、小説家であり詩人でもある人が、昭和初期に発行された雑誌『生理』に寄せた散文なんですけれども――
「そんな事よか、今日は戦術の話するんだろ。それ、関係あんのかよ。」
 手に持っていた冊子の表紙を他の者にも見えるように持ち変えた審神者に対し、机を囲む者の一本であった同田貫正国が不満げに口を挟んだ。
 今は、この本丸内で自主的且つ定期的に開かれている勉強会の時間であった。ここでは、審神者の考えにより、刀剣たち一本一本にも独立して考える力を養う目的で、歴史学や文学、宗教学の領域を中心として様々なものを学ぶ時間があった。前以て何についての勉強会を開くかというの事は刀剣たちにも知らされているので、各々は興味があれば集まればいいだけの、特に拘束の無いものではあったが、知的好奇心なり主との接点を求めてなり、様々な意図を持って参加して来る刀剣の数は毎回そう少なくはなかった。講師は主に審神者自身で、アシスタントや偶に講師として、近侍を務めている歌仙兼定や燭台切光忠が居る――といった次第である。
「いや、犀星の感性凄いなーって言いたかっただけなんだけども。ついでにもうひとつ、詩も読みたかったんだけどな。」
 しかし、授業の最初はこうしていきなり本題とは凡そ関係のないネタが仕込まれる事は日常茶飯事でもあった。審神者曰く、「ついでに色々と興味の幅を広げてもらえれば」という言い訳があったが、大体にして刀剣たちには早急に授業を始めるようにと急かされる。今日もそういった調子で授業が始まり、審神者も、表情こそ不満げではあるが、さっさと本を持ち替え、口を開いた。
「じゃあ、今日はまず、戦術というよりかは政治色が強いけど、『戦国策』から、〈金の撒き餌〉っていう話をしようか……。」
 配られたものに各々は目を向け、燭台切光忠が本文を音読するのを聞きながら、その短い文章を黙読する。だが、山姥切国広ただ一本は、文章を僅かに一瞥しただけで、斜め向かいの席に着座している蜂須賀虎徹を盗み見た。「野蛭」という言葉、先ほど審神者が読み聞かせた散文が、煩わしく思われるくらいに彼の頭の中に刻み込まれ、繰り返されていた。その散文と、先日、自室の前の縁側での蜂須賀虎徹とのやり取りとが繋がる様な気がして、目の前の題目にも最早集中は出来ず、意識は散漫なものへとなっていた。彼の悩みとは隔絶された数々の声が周囲を取り巻く中、山姥切国広は一人、ひっそりと省察を試みた。

 時間に囚われずに気長にやる授業は二時間後には取り敢えず終わりとなり、解散となった。内番の仕事に戻る者や庭に出て体を動かしに行く者など、集っていた刀剣たちはバラバラに散らばって行く。
「あ、あの、主様、ところで、最初におっしゃっていた、読もうと思っていたっていう詩って、どんなものなんでしょうか?」
 審神者は持ち込んできた資料類をまとめていたのだが、そこに、いつもの様におずおずとした態度で五虎退が歩み寄り、すぐ傍に座り、そう声を掛ける。平隊員である彼には、こうして審神者と関われる一時は少し、特別なものであった。
 審神者もそう言われると嬉しそうな顔をして、早速、積んでいた資料の束から、冊子状の雑誌を抜き取り、該当のページを開く。
「最初に引用した室生犀星の散文が掲載されてる雑誌と同じ号に、この雑誌の創設者でもある萩原朔太郎っていう詩人の詩も載せられててねえ。まあ、明るいものではないんだけど、虎を題材に扱っているものだから。うちの本丸、五虎退くんとか虎徹の刀とか、虎関係多いでしょ。それにさっきの散文ともそう関係ないわけじゃない内容だとも思うし、それでまあ、なんとなく。」
 そう言われると、虎徹の名を冠する刀たちも着座し直し、そうでないもの達もいくつかは座り直した。というのも、なんとなく、このまま文学関係の長話にでも突入するような気がしたので、暇を持て余していたもの達はついでにと思ったのであった。先程よりも大分砕けた様子で集ったもの達を軽く見渡すと、審神者もひとつ咳払いして、音読を始めた。


虎なり
茫漠として巨像の如く
百貨店上屋階の檻に眠れど
汝はもと機械に非ず
牙歯もて肉を食ひ裂くとも
いかんぞ人間の物理を知らむ。
見よ 穹窿に煤煙ながれ
工場區外の屋根屋根より
悲しき汽笛は響き渡る。
虎なり
虎なり。

午後なり
廣告風船《ばるうむ》は高く揚りて
薄暮に迫る都會の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
杳として眺望すれば
街路を這ひ行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗欝にせり。

虎なり
昇降機械《えれべえたあ》の往復する
東京市街繁華の屋根に
琥珀の斑《まだら》なる毛皮をきて
曠野の如くに寂しむもの。
虎なり
ああすべて汝の残像
虚空のむなしき全景たり。

         ――銀座松屋屋上にて――(※2)


……ふん、暗いな。」
 詩の描く光景を余韻の中に思い描いているらしい様子で、和泉守兼定が呟く様に言った。言葉と裏腹に感動しているのは窺い知られた。
「でも、昭和の辺りだけかもしれませんが、少なくとも当時の日本人の感性だと、虎ってあんまりよくは描かれなかったのかもしれませんね。前に文学のお話で『山月記』を取り扱ってましたが。」
 平野藤四郎が、数週間前に授業の題材にされていた作品を挙げる。
「あれはあの作者の作風もあるけど、原典に扱われたものからして……だったからねえ。」
 石切丸がぼんやりとした口調で肯いた。
 審神者はそれを聞くと、「それじゃあ、これから図書室で、何か虎が好意的に扱われてる作品探しでもしてみようか。」と言う。そしてその場に残っていたもの達の何本かと共に、まるでハーメルンの笛吹き男さながらに先頭立ちながら、本丸内に設けている図書室へと姿を消した。
 和泉守兼定に誘われて長曽祢虎徹までもが審神者の後に続いたのを見ると、蜂須賀虎徹は付いて行こうとしたのを止め、急に寂しくなったこの部屋に留まった。留まって、取り敢えずゆっくり何か飲もうかと考える。なんだかんだやる事はあるが、別に急ぐようなものでもない。のんびりとした動きで顔を上げると、目の前に立つ山姥切国広のあの澄んだ緑色の目と目が合う。反射的に微笑んでしまいながら、彼の脳裏には先日の苦い思い出が忽ちに蘇っていった。
 愛想の強い微笑を次第に曇らせていった蜂須賀虎徹の態度を見つめながら、山姥切国広は彼に先ずどう声を掛けるべきかを悩んでいた。あれから、彼らはこれまで以上に相手に対して冷淡ともいえる振舞いをしていた。ただ、お互いを無視するというよりかは、出来るだけ相手から逃げようとしていた。
 以前から蜂須賀虎徹に好感を持っていなかった山姥切国広は、あの出来事が遂に引き金になってしまっていた。彼の高慢さにはただ呆れるばかりだった。咄嗟に出た言葉が弟の所為にした自己弁護であったのも、唖然とするばかりだった。
 ところが今では、その結論はもしかしたら取り誤ったものだったのではないか、という意識があった。否むしろ、言い知れぬ罪悪感めいたものが芽生えていた。あの時の彼の様子をおぼろげに思い返してみると、彼は正しく野蛭であり、虎でもあったように思えた。あの場に居合わせて偶々彼と目が合った自分は、果たして本当にあんな結末を迎えて正しかったのか。相手を突き放す態度が先立ち、相手の言葉をろくに聞こうとしなかったのではないか……。「何をそこまで考えてやる必要がある」と、そう思う心が全く無いわけではない。「だが」と、山姥切国広は静かに観念した。だが、自分は本当は彼に憧れの気持ちがあったのだ、と。虎徹の真作としてのプライドを真っ直ぐに掲げて、堂々としていて、凛々しく、ふとした瞬間には、地を蹴るまでも無くただふうわりと宙に舞いそのまま遥かな高みへと去ってしまいそうな美しさ。広がる髪が陽に透けるだろう光景までもが想像出来た。自分はいつも、勝手な劣等感でその憧憬を誤魔化していた。そして、だからこそ自分は彼の一部分を理解する事が出来る筈だった。
……すまない。先日は、俺に失望しただろう。」
 先に口を開いたのは、今度は自嘲的に笑んだ蜂須賀虎徹の方だった。それを見て思わず山姥切国広は表情を顰め、小さく納まろうとする彼に今正に己の姿を見た。
「そんな事はどうでもいい。」
 怒気を含むが抑えた声でそう言うと、蜂須賀虎徹は驚いた様子で僅かに瞼を痙攣させる。談話室に残っていたもの達がその声に反応して、彼らを窺い見た。山姥切国広は目の端にそれを捉えると、思い切って蜂須賀虎徹のすぐ傍まで歩み寄り、彼を半ば睨む様に見たまま、どっかり腰を下ろす。蜂須賀虎徹もおっかなびっくりといった調子で、彼に合わせてその場に座り直した。
「確かに、あの時はあんたに失望した。でも――
 しかし彼は再び口を開くと、彼から目を逸らした。それは侮蔑の為ではない。照れだった。声は周囲を気にしてか、やはり恥ずかしさからか、段々と小さなものになっていった。そしておもむろに小さく頭を下げ、そのまま、「俺こそ、悪かった。」と胸に引っ掛かっていた素直な気持ちを言葉にした。窺い見た蜂須賀虎徹の目は、きょとんと丸くなっていた。
「俺はあんたに、酷い事をした。」
「何を言っているんだい? そんな事は――
「あんたは」慌てて頭を振った蜂須賀虎徹に対し、再び彼をしっかりと見据えた山姥切国広は、静かに、しかし諌める様な声を挟んだ。「あの時、納得なんてしてなかっただろう。俺の態度に反発しただろう。俺はあんたの言葉尻を取り上げただけだった。」
 山姥切国広の言葉に、思い当たるところがあったのだろう。蜂須賀虎徹はぼんやりと黙り、ただ一点の宙を見つめた。そんな彼に対し、山姥切国広は声を掛け続けた。
「どうしてあんたが俺を話し相手に選んだのかは分からない。だが、俺はあんたの話をもっとちゃんと聞くべきだったんだ……と、思う。今は。」そして、彼は素直な性根を持っていた。「俺は結局、あんたの粗探しをしただけだった。俺があんたを遠巻きにしていたのには、気が付いていただろ。あんたはいつも俺以上に俺を避けていたからな。」
 目の前に居る対照的な、しかし似通うものがある相手に、ひとつふたつと打ち明け続けると、最初こそ戸惑いを青灰色の瞳に浮かべるばかりだった蜂須賀虎徹も、徐々に山姥切国広を見る目の色を変えていった。姿形も違う彼に、彼も自分自身を見つけてしまった。
「だから、すまない。それを謝りたかった。」
 またはにかんだ様にぶっきらぼうに小さく頭を下げる山姥切国広。彼の頭を覆う白い布と揺れる金の髪を見つめる蜂須賀虎徹には、驚愕の念が溢れんばかりにあった。磨かれた翡翠の様な佳麗な目は真っ直ぐに自分を見つめ、映し出すようであった。自分のプライドの裏に押し込められたものを。
 不意を突かれてしまった。あれだけ堅持して守っていたもの、その覆いはこの一瞬間の内に忽ちに掃われてしまった。意識は澄み渡っていたのに、彼の体は茫然自失といった態になり、僅かにも動けなくなってしまった。
……怒っているのか?」
 どれだけの沈黙があったのだろうか。遠慮がちな声と顔が、彼を正気にさせた。
「いや、違う、違うんだ。」蜂須賀虎徹は小さくまた頭を振り、そして、彼の真摯な瞳を見つめ返した。自然と、笑みが零れていた。
「〈刻舟《こくしゅう》〉――〈剣を落として舟を刻む〉という中国の故事があるだろう。ある人が舟の上から剣を落としてしまって、落ちた場所の印にと咄嗟に船縁に印を刻む。そしてそこから水に入って、落ちた剣を探す。だけれど、当然舟はそうしている間にも動いているし、剣は沈んだところから動かない。」
「転じて、固執するばかりで変化に順応出来ない事を指すようになった、だったか。」
 可笑しそうに笑みを零したまま、聞き覚えのある故事を引用した蜂須賀虎徹に、山姥切国広も話に付いていけないながらも取り敢えずそれに応じた。この故事は、この本丸が起こって間もなくに、まだ集う刀剣たちの数も今に比べると随分少なかった頃、審神者が何かの折に引用していたものだった。初めてそれを聞かされた時、蜂須賀虎徹には知識を得た以上の感動は何も無かったが、今になってようやくその故事が自分の内で命を得たような気がした。
「俺は、舟が動いている事に気付かない振りをしていたんだな……と、今更、それを思い知ったんだよ。」
 日の名残りの幽愁が、波が引く様に彼の内から静かに流れるようだった。数日前、自室で茫然となって何度となく思い返していた弟とのやり取り。あの時、自分は弟の言い分を分かったつもりでいた。その上で拒絶したつもりにもなっていた。しかし、自分はあの時、何度思い返したところで、彼の言葉や挙動に込めた想いを分かろうとしてはいなかった。いやむしろ、彼の健気な気持ちを自分勝手に踏み躙るばかりだった。残酷に、軽薄に。それで、自分は弟を愛する兄だと自覚していた。その程度の器しか持たないのに、虎徹の矜持を誇示し続けていた。そのプライドの為に、見ない振りをして辺りに印の傷を付け、水の中へ飛び込んだのだ。
 俄かに、共感を秘めた目と目が合った。座敷簾越しに見える、熱気に揺らぐ景色に反した心地よい風が室内に滑り込み、その風と共に、遠く風鈴の音が秋虫の様に涼しげに聞こえた。

   + + +

 談話室でかの二本が向かい合っていた頃、図書室に移動したもの達は、騒がしくそこに屯していた。和泉守兼定に付き合ってここまでやって来た長曽祢虎徹はしかし、ここでの課題にまで付き合う気はないらしく、室内に散らばる刀剣たちや審神者をなんとなく見渡していた。一本きりで、または数本で一塊になって、思い思いに彼らは本棚の前に立つ。
 その中に、弟の姿もあった。いつもは賑々しく誰かと共に騒いでいる彼が、今は珍しく誰と共にも居らず、部屋の隅に座り込み何かを読んでいた。和泉守兼定の方を一瞥するも、彼は陸奥守吉行と何かふざけ合っている。
「何をそんなに熱心に読んでいる?」
 長曽祢虎徹は浦島虎徹のもとへ行き、彼の隣に胡坐をかきながら親しげに声を掛けた。そして、チラリと彼の手元の本の見やる。何かの全集なのか、上段には用語解説のようなものが細かく密集し、中段に広く本文らしいものが書かれ、下段にはなにかまた細かい字があった。
「謡曲集ってやつだよ。能の台本……っていうの?」
 浦島虎徹は顔を上げて兄の姿を認めると、忽ちに明るい調子になってそう言った。
「羽衣伝説ってあるでしょ。これにも、そういうのを扱ってるのがあってさ。タイトルもそのものズバリ、〈羽衣〉って言うんだー。」
「ほう……。」長曽祢虎徹はその武骨さが内にも沁み、あまりそういったものに造詣が無かったが、弟の楽しげな声に釣られてただにこやかに笑い返した。
「俺、蜂須賀兄ちゃんって天女さまみたいだって思うんだ。まあ、天女なんて見た事無いんだけど。」
 長曽祢虎徹に対しては何の気後れもなくこの本丸内に居るもう一本の兄の話題が出せる彼は、にこやかに話を続けた。
「それで天女といえば羽衣伝説で、これは色々種類があって日本中に散らばってるんだよ。『竹取物語』っていう古典があるでしょ。竹の中から女の赤ちゃんが出てくるやつ。あれも羽衣伝説と関係あるんじゃないかって。まあ、なんにせよ、普通、羽衣伝説っていうのは、地上に遊びに来た天女さまが、人間の男に羽衣を奪われて、帰れなくなっちゃうんだよ。それで、羽衣を楯にされて、その男と一緒になる……。それからの展開はまあ色々なんだけどさ、この〈羽衣〉は、少し違うんだよね。羽衣を見つけた漁夫は宝にしようと思って持って帰っちゃおうとするんだけど、天女さまにお願いされたら、可哀相になって返しちゃうんだよ。返してあげるから、代わりに天人の舞を見せてみてくれって言って。そしたら、その話を羽衣の代わりにお土産に国に持って帰りましょうって。イイ人だよね。」と、長曽祢虎徹がこの手の話には疎いのを察してか、遠回りな説明も簡単に挟みつつ浦島虎徹はそう言うと、ある一文に指をそっと滑らせた。
「でね、この作品で有名なのが、ここのくだり。漁夫がさっきの話を持ち掛けて、それで喜ぶ天女さまは、月の宮殿で舞うものを見せてあげるけど、どっちみち天女の舞をするには羽衣が要るから、返してくれって言うんだよ。でも、返しちゃったら、あなたそのまま真っ直ぐ帰ってしまうんじゃないのかって、漁夫は天女さまを疑う。そしてそれを受けて天女さまは――


ワキ(漁夫)「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上り給ふべ
       き。
シテ(天女)「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを。(※3)


――いや、疑うことは人間だけがすること。天には偽りなどありません……って、言い返すんだよ。それを聞いて漁夫も恥ずかしくなっちゃって、大人しく羽衣を渡して、天女さまは約束通りに滅茶苦茶綺麗な舞を舞って、そのまま天に帰っていって、この物語はおしまい。羽衣伝説を扱っているけど、あんまり悲しい終わり方はしないんだー。」
 月の光の下で七宝が天女の舞の中に降り、きらきらと輝く。天女は母性的な笑みを浮かべ、浦風にゆったりと乗りながら、美保の松原、雲浮く愛鷹山や、富士の高嶺へとふうわりと浮かび、霞の彼方へと消えて行く。その最後の光景を思い描く様に、浦島虎徹は沈黙を食んだ。
 長曽祢虎徹も弟の真似をしてジッとなってそれを想像しようとしたが、元来の性質が頑ななのか、曖昧なものしか描けなかった。
「天女がそうしてふわふわと浮かんで月に居るものなのなら、それじゃあ、蜂須賀は羽衣を奪われて、ここに止められているのか。」
 そして間もなく、気がかりそうに弟にそれを問うと、浦島虎徹は驚き呆れて顔を上げた。反動で、彼の肩に乗っていた亀吉が本の上へと転がり落ちた。
「あのねー、兄ちゃん。そういうのじゃないよ。蜂須賀兄ちゃんは羽衣を持ってるけど、ここに居るんだよ。わっかんないかなー!」
 そう言い返した彼は息巻いていたが、嫌味はなかった。きょとんと見つめ返す兄に、浦島虎徹は更に心外そうに、しかしやはり明るく言葉を続けた。「今度、蜂須賀兄ちゃんが手合せしている時でも、こっそり見に行ってみてよ。きっと分かるからさ!」

「わっかんないかなー!」
 一方、図書室内の別の一角では、審神者があからさまに嫌味を込めて不貞腐れた声を出していた。「野蛭と虎の憧れへの可能性、そして野へ逃げ出した李徴が背を向けたもの。」
「わっかんねーよ。」それに対し、和泉守兼定はぶっきらぼうに応えていた。
「そうじゃそうじゃ、おんしゃ、もっと言うてやれ!」陸奥守吉行は審神者を囃す様に笑っている。
「〈死せよ成れよ〉だよ。ほら見て、ゲーテ! ほら!」
 審神者はそう言いながら、手に取り易い位置に置いているゲーテの詩集を持ち、あるページを開くなり、それを和泉守兼定に押しつけた。
「アンタはすぐにゲーテだな。って、そんなに近付けたら読めねえっつーの。」
 和泉守兼定は、ここに来てからというもの、目の前の審神者の所為で飽きるほど聞き慣れた名前に辟易しながら、うざったそうに本を奪い取ると、読むように促された詩に目を通す。横から、陸奥守吉行がちゃっかりと覗き見ているのを感じながら。
「〈わたしは讃えるのだ その生きものを 炎に焼かれて死をねがうものを〉。〈せつなさが あたらしく激しくかり立てる おまえを より高いまじわりへ〉。」
 傍に侍る燭台切光忠の呆れた目も跳ね除け、審神者はその詩の一部を暗唱する。
「〈おまえは どんな距《へだた》りにもさまたげられず
  呪われたように飛んでゆく
  ついに光をもとめて 蛾よ おまえは
  火にとびこんで身を焼いてしまう

  死ね そして生まれよ そのこころを
  わがものとしないかぎり
  おまえは このくらい地上で
  はかない客人にすぎないだろう〉……。」(※4)
 和泉守兼定もそれを受け、詩の最後の部分をそのまま音読した。
「心理学の世界でも言われる、再生の為の死の概念。光と影の共栄による成長。ありきたりな引用をすれば、ニーチェのあの、〈お前が深淵を覗く時、深淵もまたお前を覗き返す〉にも似た緊迫感。そんでほら、野蛭と虎に立ち返ってもごらんって。」
「主、どんどん自分の世界になっちゃってるよ。」
 惚れ惚れとした様子で語る審神者に、冷静に燭台切光忠は口を挟んだ。
「いや、オレはなんとなくわかってきたぜ。」と、和泉守兼定はしみじみと頷き、陸奥守吉行はただにこやかに彼らのやり取りを聞いていた。
「憧れ……。この憂き世に暗く沈む客人にならない為には、死んで成るものにならなければいけないんだねえ。深く己を省察して、自分自身と向き合う。そしたら何かが死んで何かが生まれる。」
 審神者は誰かに言い聞かせる様にゆっくりとそう言うと、室内に散らばる刀剣たちを見渡した後、「じゃあそろそろ、みんなの調査結果を聞いてみようかな。」と、彼らに声を掛けたのだった。

       
※1 室生犀星「野蛭」(『生理 1(近代文芸復刻叢刊)』冬至書房)
※2 萩原朔太郎「屋上の虎」(右同)
※3 「羽衣」(『新編日本古典文学全集58 謡曲集①』小学館)
※4 ゲーテ「昇天のあこがれ」(『ゲーテ詩集』井上正蔵/訳、白鳳社)より引用


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