カルみと DomSubユニバース
シナリオネタバレあり
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神無三十一がSubの診断を受けたのは、あの事件から1ヶ月が経とうとした頃のことだった。
「後天性のSub…?」
相棒のディーノに付き添われて、ドロ課の応接ソファに腰掛けた神無は呆然と呟く。
手渡された資料に視線を落としても、連なる文章に目は滑るばかりで全く内容が頭に入って来ない。
そんな彼の向かいの席に腰掛けたレミは青木に促されてこくりと小さく頷くと、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「きっかけは様々ですが例えば…ランクの高いDomからGlareを何度も受けたり、精神的に大きな打撃を受け続けたり……」
その言葉に神無は心当たりしか無かった。
あの事件は神無にとって、大切な兄を失い、父が眠りに落ちて、両親や親友の真実を知る辛いものだった。
加えてその事件を追う中で、神無は同じDomである縞斑狩魔と共に行動をしていたのだ。狼狽えて道に迷う神無に向かって、狩魔は何度か無意識にGlareを向けていた。
その気迫に押されたのは、神無が精神的に参っていたからだけではない。縞斑は自分よりもランクが高いDomなのだと、心のどこかで神無は察していた。
「…あのとき、」
「心当たりがあるんですか…!?」
「あ、い、いや…なんでもない。」
身を乗り出した青木に対して、思わず神無は咄嗟に首を横に振った。なんとなく、真実を口にすることは憚れるような気がしたのだ。
あの時受けたGlareをきっかけに、神無の体はSubへと作り変わってしまったらしい。
事件を解決した日から数日が経過して、縞斑がパートナーのアサギリと共に警視庁から姿を消した直後から、神無の体調に変化が訪れたのだ。
体が気怠く、頭痛や眩暈が止まない。現在は吐き気もひどく、夜に眠ることすらままならない日々が続いていた。
未だ事件の処理に追われているため、連日の激務によるものだろうと神無はこれまで自身に言い聞かせていたのだ。
しかし今朝、ついにドロ課の事務室で倒れてしまった神無は、心配したディーノによって半ば強制的にレミの健康診断を受けることになったのである。
「Sub dropを起こしかけています。ある程度なら薬で抑えることができますが…今後の体調のことを考えると、パートナーを見つけた方が良いかと…。」
「…そう、だな……。」
レミの助言を聞いて、神無は返事をしながら深く俯く。
「この仕事してると、パートナーを見つけるって言ってもなぁ……」
「そうですね…今ドロ課に所属してる人間はNormalだけですし、そういった機能を搭載しているアンドロイドもいませんから…」
これまでDomであった神無は事件を追うことに夢中で、特定の相手を作ることはなかった。元々Domとしての支配欲も強くなかったことが幸いして、時々その日限りの人間と知り合って簡単なplayをするだけで済ませていた。
自分がパートナーを探すことなど、これまで想像しなかった。ましてやSubとして生きることなど考えたこともなかったのだ。
「…すみません、神無。僕にそういう機能があれば、」
「いいって。ディーノが謝るようなことじゃないだろ。」
「でも……」
隣に座るディーノが、心配した様子でおずおずと神無の手を取る。ひやりと冷たい神無の温度に泣き出してしまいそうになる相棒の姿を、神無は懸命に慰めた。
ディーノには内緒だが、仮にDomやSubとしての機能が搭載されていたとしても、神無が彼に頼むことはなかっただろう。相棒である以前に幼馴染であった彼に、第二の性に従順な自分の姿など見せたくない細やかなプライドだ。
「…分かった。俺の方で探して、解決するよ。」
「お力になれずすみません、お大事にしてください。」
「んーん。レミも、薬ありがとな。」
揃って肩を落とす心優しい上司とその相棒に、神無は笑みを返して素直に頭を下げる。
幸いレミが処方した鎮痛剤と抑制剤は神無の体によく合っていたらしく、一時的に体調不良から脱することができた。
しかし今度は身体的苦痛が薄れたことによって、神無は精神的苦痛を味わうこととなってしまったのだ。
誰かに褒められたい。
誰かに尽くしたい。
それは、今まで決して抱くことが無かった欲求だった。
“誰かに”という言葉を置いてはいるものの、神無の脳裏に浮かぶ人間は一人しかいない。
「…だらだら先輩。」
縞斑のGlareによってSubに変わった影響か、神無は縞斑の命令を欲していた。
彼に言われるままに従ってめいっぱい褒められたら、どれほど幸せだろうか。そんな幸せな想像を勝手に抱く神無の精神だが、現在の縞斑はアサギリと共に姿を眩ませており、何処に居るのかも、生きているのかすら分からない。
欲求を満たすことができない絶望と、それに伴う壮絶な飢えに身を焦がしながら、神無は薬で無理やり体調を支えて仕事に打ち込むことにしたのだ。
※
「……じゃあ、共有する事項はこんな感じかな。」
「うん。俺から出せる情報もこれで全部。」
スパローのアジトである地下の奥深く、縞斑の自室に招かれた神無は、投影されたモニターに映る資料を見ながら縞斑の言葉にひとつ頷いた。
ちらりと神無が顔を上げれば、向かいのソファに足を組んで深く腰掛けた縞斑は画面に表示された文字を目で追っている。
薄く開かれた翡翠の瞳がモニターの明かりに反射する姿を、珍しいものを見たなと神無が観察していると、視線に気がついた縞斑と視線が絡んだ。
「なに?」
「あ…ううん、なんでもない。」
「ふーん…?」
慌てて資料に視線を落として誤魔化す神無の様子に、縞斑は不思議そうな表情で首を傾げる。
今度は見つからないように、映像越しに彼の姿を眺めた神無は小さく息を吐いた。
その再会は、本当に偶然の出来事だった。
調査先に向かう途中に出会った縞斑を、どうにか説得して同行させて、その先でドロ課との協力関係に漕ぎつけたのだ。
その過程で怪異に巻き込まれて一悶着があり、情けない姿を晒してしまったことはできる限り思い出したくない。けれど、縞斑との再会については願ってもないことだった。
「よし…特に気になるところがなければ、今日は解散しようか。神無ちゃんもまだ仕事があるでしょ。」
再会から一週間後、仕事の合間にスパローへと足を運んだ神無は、協力関係を正式に結ぶために縞斑と情報交換を行なっている。
互いの対応している事件や状況を共有して、今後の立ち回りについてを話し合った縞斑は、そう言って神無を見送るべく席を立とうとした。
「ま…まって、だらだら先輩、」
「ん?うん。」
そんな縞斑を咄嗟に呼び止めれば、彼はまだ何か話があるのだろうと座り直す。
「もうひとつ…頼みたいことがあって…」
「…俺にできることなら?」
ごくりと唾を飲んだ神無は、何度も躊躇うように視線を彷徨わせながら口を開閉した。
今日を逃せば、次はいつ会えるか分からない。頼むならこのタイミングしかない、そう覚悟を決めると、神無はぐっと体を強張らせたまま口を開く。
「だらだら先輩って、Dom…だよな?」
「あぁ、そうだよ。」
尋ねるというより、確認するという声色で尋ねられたその言葉に、縞斑は目を瞬きながら頷いた。
「じゃあさ…パートナーはいる?」
「今はいないけど…急にどうしたの?」
本来ならば、突然第二の性やそれに関わる踏み込んだ話を切り出すことは、無遠慮だと咎められることだ。
しかし、神無の言葉を選ぶ様子や申し訳なさそうに落とされた両肩を見た縞斑は、彼が軽い気持ちで尋ねているわけではないのだろうと正直に返答をする。
「もしも…先輩がよければなんだけど、」
「うん。」
「ほんとにもしものもしもで、たまにでいいし、気が向いたらとか、嫌じゃなかった時だけでよくて、」
「うん?うんうん、とにかく話してごらん。」
柄にもなく何度も前置きをして、叱られた子供のように眉を寄せる神無の様子に、縞斑は両手を上げて宥めるように声を掛けた。
その言葉に僅かに緊張を緩めた神無は、再び我に返り顔を強張らせると、神妙な声色で言葉を続けた。
「……俺と、Playしてほしくて…」
ぱちりと縞斑は目を瞬き、神無の顔を凝視する。その視線に耐えかねた神無が、ふいと顔を俯かせる。
彼の耳の先がみるみる赤く染まる様子を眺めながら、縞斑は真っ先に浮かんだ感想を漏らした。
「神無ちゃん、Subだったの?」
性による優劣や特性など眉唾物だと考える縞斑だが、出会った当初から自信に溢れた振る舞いを取る神無のことを、彼は勝手にDomだと認識していた。
ぎくりと肩を揺らした神無は、気まずそうに顔を逸らしたままこくりと小さく頷く。
「えっと…色々あって、パートナーが今居なくて…相手探す時間もないし、体調崩して仕事に支障来たすのもいやだし、」
ぽそぽそと言い訳のように連ねられた言葉に、縞斑はふとそれまでの神無の様子を思い返した。
「…まさかだけど君、Sub drop起こしかけてる?」
青白い肌と冷たい指先は、地下の照明と底冷えによるものだと思っていたが、事情を聞けばSub dropの症状に一致する。
自覚のあるらしい神無は、再び小さく首を縦に振った。
「警視庁でSubだってバレたくないし、仕事のこと考えたら恋人とか…パートナーとか考えらんなくて。」
「…まぁ、確かに。」
第二の性に優劣は無いと言われているが、DomがSubに向けて強引な支配を行う例も少なく無い。縦社会の警察組織ではその傾向が顕著なため、Subであることが公になれば虐げられる可能性もあるだろう。
加えて身内にすら身分を隠すことが多い公安警察という立場では、パートナー等の関係を設けることも容易では無い。
前者については元警察組織所属の人間として、後者については現犯罪組織所属の人間として縞斑が納得して頷けば、神無は同意を得られたことに少しだけ安心して言葉を続けた。
「こうして情報交換で会う時に1、2個適当にCommandくれたらそれでいいから…だめ?」
「うーん…なるほどねぇ……」
後天性だからなのか、Domであったとき以上に欲求の薄い神無は、そのおかげで今日までSub dropを完全に引き起こすことなく、どうにか薬で誤魔化して生活することができていた。
おそらく、月に一度Playを行えばこの欲求は満たされることだろう。その頻度であれば縞斑に手間を取らせることもないはずだ。
そう考えておずおずと見上げれば、縞斑は口元に手を当てて考える素振りを見せる。しばらくそうして悩んでいた彼は、やがてひとつ頷くと神無へ笑みを向けた。
「いいよ、しよっか。」
「ほんとに!?」
「うん。俺にとっても悪い話じゃないし。」
犯罪組織のリーダーとして地下で暮らしている縞斑は、神無以上にDomとしての欲求を満たすことが困難なのだろう。協力者であり呪いと約束を背負う人間同士ならば、気兼ねなく互いの欲求を満たすことができるはずだ。
想定していたよりもすんなりと了承してくれた縞斑に、神無はようやくこの欲求から解放されるのだと安堵する。
「神無ちゃん、されたら嫌なことはある?」
「……痛いのはやだ。」
「はは、俺もそれは趣味じゃないかな。」
事前に相手の嫌がる命令を確かめる縞斑は手慣れていた。今はいないだけで、きっと以前は彼にもパートナーがいたのだろう。
何故かちくりと胸が痛んだような気がして、神無は咄嗟に胸を押さる。そんな彼の様子に首を傾げた縞斑は、ソファを立つと神無の手を引いた。
「Safe wordは何にする?」
「あー…うーん……」
「普段絶対言わないような言葉、神無ちゃんが決めていいよ。」
話しながら彼は、神無を自室のベッド脇へと導いた。その道中でさりげなく部屋の扉に鍵を掛けた縞斑は、ベッドへ腰を落とし神無を見上げる。
「……じゃあ…『愛してる』にしよう。」
悩んだ末に神無が思いついたPlayを中断するための言葉に、縞斑は目を丸くした。
パートナーでも恋人でもない、互いの利害の一致だけでPlayを行う二人には程遠い言葉だ。驚いた表情で神無を見上げる丸い翡翠の瞳に首を傾げれば、彼はすぐに穏やかな弧を描いた。
「確かに、なかなか普段使わないかもね。」
「ん…じゃあ…えっと、よろしくお願いします…?」
「はい、こちらこそ。」
緊張してぎこちなく頭を下げる神無に、おかしそうに笑った縞斑も会釈する。
そうして神無が顔を上げれば、薄く開かれた彼の翡翠の瞳が突如色を変えた。
「……三十一、Kneel」
低く掠れたその声が鼓膜を揺らした瞬間、神無の体が大きく跳ねる。
「っえ…?」
途端に足からかくんと力が抜けた。咄嗟に抱いた不安から踏ん張ろうと足に力を込める神無だが、全く力は入らない。
それ以上に、告げられたその言葉に従わなければという強い使命感が神無の頭の中を支配していた。ぺたりとその場に足を崩した神無は、床に両手をついて座る。
「ぁ…あ……っ」
見上げた縞斑の瞳の奥にDom特有の支配欲を垣間見た神無は、鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。
縞斑が自分を求めている、そんな錯覚を受けそうになるほど欲に染まった瞳は、神無と視線が絡むと再び揺らめく。
「Come」
言いながら彼は、ベッドのそばの床を足先で軽く叩いた。ここまで来い、という仕草を正しく汲み取った神無は、床へそうっと両手を伸ばした。
kneelの命令は解除されていないため、座ったままの姿勢で彼はずりずりと縞斑の指した場所まで移動する。
「は……っ、はぁ…はぁ…」
体が熱を帯びて、たったそれだけの移動で息が切れてしまった神無は、荒い呼吸を繰り返しながら縞斑に期待の眼差しを向けた。
ぞくりと身震いした縞斑は薄く瞳を細めると、ベッドから立ち上がって神無の目の前へやって来る。
膝を折って神無と視線を合わせた縞斑は、命令を下さずとも決して目を逸らそうとしない彼に向かって穏やかに笑った。
「Good doy.…よくできました。」
大きな手のひらが、神無の頭をそっと撫でる。その柔らかい声に包まれた瞬間、これまで味わったことのない多幸感が神無を包んだ。
ぽかぽかと体を温めて、その熱に追い出されるように体の内から悪いものが抜けていくような感覚を覚える。
ようやく縞斑からの命令を受け、それを上手く達成して褒められたことによる満足感と快感に、神無は上半身を支えることすらままならず、ぐらりと体勢を崩した。
「おっと…あぶない。」
床に倒れ伏すより早く、縞斑の腕が神無のことを支える。覚束ない意識の中で彼の胸に顔を埋めれば、嗅ぎ覚えのある煙草の匂いがした。
「大丈夫?」
「ん…なんか、ふわふわする、」
「久しぶりでSub spaceに入ったのかもね。」
腰が抜けたまま立ち上がれない神無を、よいしょという軽い掛け声と共に抱え上げた縞斑は、彼の体を自身のベッドの上に下ろす。
身を任せて横になった神無が顔を上げると、その目元を覆うように縞斑の熱い手のひらが覆った。
「時間になったら起こすから、少し寝な。」
「…うん、」
指先が労わるように神無の目元を撫でる。彼がしばらく眠れていないことに、縞斑も気がついていた。
初めて経験するSub spaceの多幸感と睡眠不足も相まって、神無の意識は蕩けていく。
「せん、ぱいは…?」
「うん?」
意識の途切れる直前、ふと僅かな疑問を覚えて神無は呟いた。
「せんぱいは……よかった?」
自分だけが満たされてしまったのではないか、そう考えた途端に覚えた虚しさと不安のままに、神無は震える声で尋ねる。
ぴくりと覆っていた手が震えた縞斑は、やがてその手を持ち上げて神無の頭を優しく撫でた。
「もちろん。だから安心して。」
薄目を開けて見上げた縞斑の顔は、室内灯の逆光で良く見えない。
更に言及したかった神無だが、額に触れた柔らかい顔色が彼をより深い眠りへと導いた。長い髪のカーテンに閉じ込められて、薄暗い視界に促された神無は目を閉じる。
「……おやすみ、神無ちゃん。」
穏やかな寝息を立てる神無を見下ろして、縞斑はぽつりと呟いた。
眉を寄せて困ったように笑う彼の姿を知る人は、誰もいない。
「神無、体調が悪いのですか。」
パトロールの最中、バイクを降りた神無が小さくため息を吐いた様子を目敏く見つけたディーノが声を掛ける。
顔を上げた神無は、慌てて笑みを浮かべると片腕をぐるぐると回して見せた。
「大丈夫大丈夫!元気だって!!」
「嘘ですよね。顔色が悪く、体温もいつもより低いです。」
ぴしゃりと言い放つディーノの言葉に、ぐっと神無は押し黙ってしまう。
縞斑とPlayを行うようになって、4ヶ月が経過した。
当初の約束通り、頻度は月に1回。情報を交換するためにスパローの彼の自室に顔を出した時に行っていた。
ディーノは不安げに、神無の冷えた頬を撫でて首を傾げる。
「だらだら先輩と会っていないのですか。」
「せ、先週会った…けど…。」
初日のPlayによって体調が回復した神無は、次の月まで特に体調を崩すことなく仕事に打ち込むことができた。
しかしその次の月、更に次の月と日を重ねる毎に、神無のSubとしての欲求が高まっていることに気がついたのだ。
もっと頻繁にPlayをしたい。一度に沢山のCommandが欲しい。そんな感情が神無を苛み、今ではたった一週間が経過しただけで、抑制剤を飲んでいなければ生活もままならないほどになっていた。
「だらだら先輩に相談しましょう。」
神無が縞斑にPlayの相手を頼んでいることは、ドロ課の中でもディーノだけが知っていることだ。彼はきっと、神無がSubに変わってしまった理由にも薄々気がついているのだろう。
「…これ以上迷惑かけらんないだろ。」
DomのGlareによる後天性のSubはまだ事例が少ないらしく、不完全なSubであるため性を変えるきっかけとなったDomのことだけを欲する傾向にあるらしい。
神無もその例外ではなく、一ヶ月に1回のPlayがどれほど物足りなくても他のDomに惹かれることはなかった。
「誰か…他の人を見つけて、先輩に会うまでの間を繋ぐ…とか、」
「………それ、本気で言ってるの?」
神無の提案に、ディーノは顔を顰めて呟く。
惹かれないだけで、Playを行うことはできるはずだ。そこで多少の欲求を満たすことができたならば、縞斑に相談する必要もない。
スパローは今も組織の地盤を固めたり、変異体の保護などの活動に追われて忙しいのだ。その中でも縞斑が無理をして、情報共有という名目で神無とPlayを行う時間を設けていることに、神無はとっくに気がついていた。
「本気も何も…そもそも先輩とは正式なパートナーとして関係を結んでるわけじゃないし。」
互いに特定の相手とパートナーになることが難しい仕事や立場にあるため、二人はあくまで協力関係としてPlayを行なっている。
だからこそパートナーでも恋人でもない縞斑に、これ以上会う頻度を増やしたいなどとわがままを言うわけにはいかない。
神無はそう言い聞かせて道を歩き出す。そんな彼の姿を見たディーノは、不服げに眉を寄せるとぽつりと口を開いた。
「だらだら先輩のこと、好きなのに。」
ぎしり、固まった神無は壊れた機械のようにゆっくりとディーノを振り返る。
目が合った彼は、まさか気がついていないとでも思っていたのか、とでも言いたげに両手を腰に当てて踏ん反り返った。
「……いつから気付いてた?」
「神無に、今後はだらだら先輩にPlayしてもらう約束をしたって“嬉しそうに”報告されたときから。」
「最初からじゃねぇか!!つかそこ強調するなよ!!別に嬉しそうじゃなかっただろ!!!」
「嬉しそうでした。パンケーキみたいにふわふわして、お花を飛ばしていました。」
「してないっ!!!!」
元幼馴染に自身の性や恋愛事情が赤裸々になっている事実に、神無の顔の温度が上がる。
こちらの方が体温が上がり健康的で良いかもしれない、などと考えるディーノのことなどつゆも知らず、神無はもごもごと言葉を探して俯いた。
「…正直なところ、分かんないんだよ。」
「分からない、ですか。」
神無が縞斑への特別な感情を自覚したのは、彼と再会する前後のことだ。
人生においても刑事においても先輩である彼は、厳しくも自分の背を押して道を示してくれた。神無を可哀想な被害者ではなく、責任のある一人の大人として扱い、神無三十一に縛りつけた彼が居なければ、今頃神無はこの場所に立っていないかもしれない。
最初は尊敬と親愛の感情だけだったはずのそれが、彼が警察組織から姿を消して会えなくなったことをきっかけに変わっていったのだ。
「でも……この気持ちが本当に恋なのか、分かんないんだ。」
神無が縞斑への感情を自覚したのは、彼がSubになった直後のことだった。
この感情は恋なんて可愛らしいものではなく、縞斑をきっかけにSubになったことによって芽生えた欲求なのかもしれない。
神無の感情は自覚をすればするほど、自身でも信用ができないものに姿を変えていってしまった。
「…それを含めて、相談するべきかと。」
「無理だよ。その話したら、だらだら先輩がきっかけでSubになったって言うことになるだろ。」
ディーノの言葉に、神無は首を横に振る。
神無の募る欲求や恋心に関する相談は、自身が後天性のSubであるという説明を抜きには行えない。
今日まで、刑事になる前はパートナーがいたという設定を突き通しているが、そこが嘘だと割れてしまえば、勘の良い縞斑はその経緯を察してしまうことだろう。
「でも…今のままじゃ、神無が倒れてしまいます。」
「仕方ないだろ。元はと言えば俺の心が弱かったせいだし。」
神無は例え、自身の体が弱ろうとも縞斑に事情を打ち明けるつもりはなかった。
言えばきっと縞斑は、自分のせいで神無の性を変えてしまったと責任を感じることだろう。懐に入れた人間にはいっとう優しい彼は、神無に協力してくれるだろうし、想いにすら応えてくれるかもしれない。
けれどそれは、縞斑の本心ではなく責任に縛られてしまった彼が抱く義務感によるものだ。心のない想いに包まれたところで、余計虚しくなるだけだった。
「…ほら、通報が来た。仕事戻るぞ。」
「むぅ……わかりました。」
タイミング良くインカムに届いた警視庁からの指示を聞いて、神無は気を取り直して歩き出す。その背を追うディーノは、不服げに頬を膨らませた。
彼が自分の幸せを願っていることは神無も理解していたが、その幸せに縞斑を巻き込むわけにはいかない。
現在のドロ課は、アンドロイド関係の事件がないときは他の課のヘルプ要員として立ち回っている。今日の神無とディーノが任されていた仕事は、この辺りの地区のパトロールだった。
「近くの通りで喧嘩だって。片方は酒が入ってて手に負えないらしい。」
「そのようですね。」
「ったく…平日の昼間から、いい大人が何してるんだっての……」
日の高いうちから酒に溺れて暴れているらしい輩の報告に、神無は呆れて小さくため息を溢す。同じく報告を受け取ったディーノも、こくりと頷くと神無の一歩後ろについた。
歩き始めて間も無く、野次馬が集まりつつある小さな通りが見えてくる。足早に駆けつけた神無は、人混みを掻き分けて中央へと辿り着いた。
そこでは、未だ顔の赤い男が唾を飛ばして怒鳴り散らしており、それを宥めるように数人の一般人が腕を掴んでいる。
暴れた拍子に殴られたのか、近くで項垂れる数人の姿を発見した神無は、背後のディーノに素早く指示を飛ばした。
「ディーノは怪我人の保護を頼む。」
「分かりました。神無も気をつけて。」
「酔っ払い相手に遅れは取らないよ。」
短く言葉を交わして、神無は問題の男の元へ歩いていく。
「お兄さん飲み過ぎだって、ちょっと落ち着いて。」
「あぁ?なんだお前、」
「警察だよ。これ以上騒ぐと任意同行しなきゃいけなくなるからさ、お兄さんも嫌だろ?」
パトロールにあたって、酔っ払いを宥める言葉選びはある程度神無にも備わっている。あの場はアンドロイドである自分よりも、神無の方が適任だ。
その背をしばらく心配そうに見ていたディーノは、すぐに自分の仕事を完遂しようと思い直す。道の端で蹲る数人の元に歩み寄った彼は、その顔を覗き込んで声を掛けた。
「……大丈夫ですか、お怪我はどちらに、」
そうして声を掛けたディーノは、青白い顔で浅い呼吸を繰り返す彼らの姿を見て目を丸くする。
咄嗟にスキャンを通した彼らの姿に、外傷は見当たらない。それにも関わらず苦しげに蹲っているその様子からディーノは、それらの症状が当てはまる原因を導き出した。
「っ神無!!その人に近づかないで!!!」
すぐさまディーノは顔を上げると、男に声を掛けて近づいていく神無に向けて叫んだ。
その声を聞いた神無が振り返るより早く、目の前の男は神無の肩を押して怒鳴り声を上げる。
「うるさい!!触るな!!!」
その瞬間、神無の体が無意識にびくりと強張った。全身の肌が粟立つような不快な感覚と、血の気が失せて体が冷えていくその感触には、神無も覚えがある。
この男は、自分を止めようとする相手に見境なくGlareを放っているのだ。先ほど道の隅で蹲っていた人間は、彼の放つGlareに当てられてしまったSubだったのだろう。
男から距離を取らなければならないと考える神無だが、彼の両足はその場に根が張ったように動かない。
「っ……、」
目の前のDomは、神無がDomであったときよりランクも遥かに下の存在だ。にも関わらず、神無は彼の放つGlareに威圧されて呼吸すらままならない状態に陥ろうとしていた。
「は……く、ぁ…ッ」
「…へぇ、お前警察のくせにSubなのか?」
酸素を求めて必死に喘ぐ神無を見下ろした男が、勝ち誇ったように笑う。
その表情は、喧嘩を諌めるために現れた神無のことを完全に見下していた。新しい玩具を見つけたように舌舐めずりをしたその仕草に、ディーノは焦りを覚えて駆け出す。
「神無!!」
一刻も早く男を捕縛して、神無を引き離さなければならない。そう考えるディーノだが、逮捕許可の降りていない人間を連行する権限を彼は持ち合わせていなかった。
そればかりか、アンドロイドであるディーノが主人の指示がないまま一般人に危害を加えることはできない。無理やりにでも攻撃を行えば、アンドロイド法に違反したディーノに待ち受ける未来は廃棄だけだ。
「でぃ、の…だめ……だめだ、」
「でも…っ!!」
それでも構うものかと男に迫るディーノだったが、そんな彼の考えを読んだように神無は息切れの合間で呟いた。
命令を受けて躊躇うディーノの姿に、ますます気が大きくなったらしい男は神無を見下して口を開く。
「可哀想になぁ、そこの奴らみたいにGlareでとっとと潰れとけば壊れることもなかったのに。」
「なに……、」
「Kneel.跪け、税金喰らいのワンちゃん。」
男の言葉と同時に、神無の膝から力が抜ける。かくんとその場に崩れ落ちそうになった神無は、直前で持ち堪えると必死で両足に力を込めた。
「ぅ、あぁ…ッ…!」
命令に従わなければならないという本能と、その本能に抗うことへの不安と恐怖によって神無の額に冷や汗が滲む。
力が抜け落ちてがくがくと震える両足を叱咤して、神無はどうにか体を支えようと地面に両手をついて抵抗した。そんな神無を見て、男はより一層声を鋭くする。
「鬱陶しい奴だな…とっとと倒れろよ。」
より一層空気が重くなる。神無を捩じ伏せるためだけに男が放ったGlareを正面から受け止めた彼は、逃れ切れない不安感にくらりと眩暈がした。
倒れたらだめだ、そう言い聞かせる神無だが、第二の性に抵抗することには限界がある。
涙と恐怖によって揺れる視界が、徐々に暗くなっていく。
「神無っ、神無!!!」
ディーノの悲鳴を遠くに聞きながら、ついに神無が意識を手放そうとしたその時だった。
崩れ落ちかけた神無の体を力強い腕が支える。
「……ッ、は…はぁ…っはぁ…」
それまで自身の体を締め付けるように放たれていたGlareからふっと解放された神無は、呼吸の仕方を思い出してその腕の中で必死に酸素を求めた。
そんな神無を労わるように頭を撫でた手のひらの感触に、神無は良く覚えがある。閉じていた瞼を持ち上げて顔を上げれば、そこには険しい表情を浮かべる縞斑の姿があった。
「だら…だ、ら…せんぱ…、」
呼吸の合間に名前を呼ぶと、縞斑の視線がちらりと神無に向けられる。止めどなく涙を流して恐怖に震えていた神無の姿に眉を寄せた彼は、頬を柔らかく撫でて微笑んだ。
「怖くないよ、もう大丈夫。」
突然現れた縞斑に対して男が何かを喚いているが、会いたくて止まなかったDomの腕に包まれた神無の体は少しずつ落ち着きを取り戻していく。
額に浮かぶ汗を指で払った縞斑は、神無に向けていた柔らかい表情を一転させて男へ視線を向けた。
「黙れ。」
ぴりりと辺りの空気がひりつく。縞斑が、男のものとは比べ物にならないGlareを放った。
怒りに染まる翡翠の瞳は、男がGlareに屈して膝をついても一切緩まない。その威嚇は周囲の人間を巻き込み始めており、喧嘩を収めようとしていたNormalやDomすら恐怖に足が竦んだ。
「……人のものに手を出すなんて、良い度胸だな?」
縞斑はDomの中でも高いランクの存在だった。彼が暴走すれば、おそらく目の前の男をGlareだけで殺すことも容易いだろう。
息が出来ず喉を押さえて蹲る男を見下ろした縞斑は、腕の中のSubを奪われかけた怒りのままに男を冷たく見下ろす。
その唇が男を完全に仕留めようと開かれたとき、我に返った神無は慌てて縞斑の服を弱々しく引いた。
「せんぱい、まって…せんぱい、」
「…神無ちゃん……」
このまま騒ぎが大きくなれば、縞斑が過剰防衛で加害者になってしまう。必死で止める神無を見下ろした縞斑が僅かに威嚇を緩めた途端、隙を見た男はその場から一目散に逃げ出した。
しかし、そんな男の逃亡は駆けつけた縞斑の相棒によって阻止される。容易く男を拘束した彼は、呆然と立ち尽くしていたディーノにその身柄を預けているようだった。
縞斑のGlareが止まったことを確かめた神無は、その場でずるりと力を失って崩れ落ちてしまう。
「神無ちゃん!!」
焦った縞斑が自分に何度も呼びかける声を聞きながら、神無はそれまでの緊張と恐怖から解放された安堵に身を任せて意識を手放すのだった。
ドロ課の応接室に通された縞斑は、落ち着きなく視線を彷徨わせる。いつもならばそんな彼の仕草を宥めるアサギリの姿は、現場の整備を手伝っているため見当たらない。
あの後、縞斑は気を失った神無を連れて元職場である警視庁のドロ課を尋ねた。
あらかじめ通信で状況を聞いていた青木とレミは、駆けつけた彼らを見てすぐに神無を課の医務室に運んだのだ。
「…失礼します、縞斑さん。」
ふと、扉が開かれて青木が顔を出す。彼は険しい表情を浮かべる縞斑の姿に一瞬震え上がったが、すぐに我に返ると彼の前にカップを置いた。
「コーヒーです、よろしければ…」
「…あぁ、ありがとう、青木ちゃん。」
青木なりの気遣いに笑みを返す縞斑だが、彼がカップに手をつける様子はない。それどころではないのだろうと考えた青木は、向かいの席に腰を下ろすと改めて口を開いた。
「神無さんは無事ですから、安心してください。重度のSub dropの一歩手前でしたが、縞斑さんのお陰で今は随分落ち着いています。」
「……そっか、良かった…」
青木の話を聞いて、縞斑はようやく小さく息を吐く。ソファに項垂れた彼の心底安心したその様子を見上げて、青木は意を決したように口を開いた。
「その…まさか、神無さんの相手が縞斑さんだとは思いませんでした。」
神無からは、協力してくれるDomに出会ったからもう大丈夫だ、という報告だけを受けていた。
相手について言及していなかった青木は、先ほど縞斑が神無を運び込んできたときにようやく彼が協力者なのだと知ったのだ。
「まぁあくまで一時的なものだけど…Subの刑事はまだ少ないから、苦労するだろうね。」
警視庁はDomが大半を占める場所だ。特に公安はその割合が非常に高く、Subである神無には生き辛い場所かもしれない。
縞斑の言葉に、困ったような表情を浮かべていた青木はこくりと小さく頷いて言葉を続ける。
「そうですね…特に後天性のSubとなると、まだ事例が少ないですから、」
その言葉に、ようやくコーヒーへ手を伸ばす余裕が生まれていた縞斑は動きを止めた。
「……待って、後天性ってどういうこと?」
後天性のSubという聞き慣れない言葉について尋ねれば、青木はきょとんと目を瞬く。そんな彼の姿に、縞斑は何となく嫌な予感を覚えた。
「神無さんは少し前に後天性のSubと診断されて……本人から聞いてないですか…?」
「…いや。少し前っていつ?」
「ええと…あの事件のあと、間もなくですね。」
青木の言葉を聞いた縞斑はふと、以前目にした情報のひとつを思い出す。
自分よりも上位のDomのGlareを浴びたDomが、体をSubへ作り変えるという事例が存在する。全てが全てというわけではないが、Glareを浴びたDomが特に精神的に疲弊していると可能性が大幅に上がるらしい。
「……まさか…あの時、」
あの事件の日、縞斑は何度か自身の怒りにGlareを含んで神無にぶつけていたかもしれない。
本来ならば決してあり得ない行為だが、余裕のなかった縞斑は、自分が制御できていた自信がなかった。
「あの事件は、神無さんにとって苦しいものだったでしょうから…」
話す青木は、縞斑がGlareを向けたことが原因だとは思っていないらしい。あの事件の中で精神を著しく疲弊して、Domであることへの自信を失ってしまったからだろうと言っていた。
神無から詳しく話を聞いたことはなかったが、これまでは赤星とパートナーだったのだろうと勝手に縞斑は予想を立てていた。
アンドロイドの中には、第二の性を模倣したプログラムが存在するらしい。有馬ならばきっとその機能を赤星に搭載して、神無のことを制御しようとするだろうと考えていたのだ。
「……なら、どうして…」
縞斑はそう呟いて口元に手を当て思案する。
そんな縞斑の様子に首を傾げた青木が更に言葉を掛けようとしたとき、部屋の扉が開いてレミが顔を覗かせた。
「玲斗、神無さんが目を覚ましました。」
「ありがとう、今日は帰って休んでもらおうか。報告書は明日にしよう。」
「わかりました。それでは、そのように手続きを行いますね。」
精神的な疲れを癒すためにも、今日は早退して休ませようと手続きを行う青木たちの姿を見て、縞斑は席を立ち上がる。
「俺が神無ちゃんを家まで送るよ。」
「あ…お、お願いしてもいいですか…?」
縞斑の言葉を聞いた青木は申し訳なさそうにしていたが、安堵しているようにも見えた。
不安定なSubをケアすることができるのはDomだけだ。一時的とはいえ、Playの協力者である縞斑がそばにいれば神無の体調も安定することだろう。
彼らの案内を受けて隣接している医務室へ縞斑が顔を出せば、ベッドに腰掛けた神無が顔を上げた。不安げな瞳が縞斑を捉えて揺れる。
「だらだら先輩…」
「神無ちゃん、送るから家に帰ろっか。」
「…うん、わかった。」
先ほどの出来事が堪えているらしく、想定以上にすんなりと頷いた神無は、ディーノに手伝ってもらって支度を整えた。
申し訳なさそうに頭を下げる神無に対して、青木とレミは気にしていないと言って心配している。少なくともドロ課では、神無がSubであることを疎ましく思っている者はいないらしい。
「ご、ごめん先輩、おまたせ…」
「んーん、それじゃあ行こうね。」
鞄を手に覚束ない足取りで廊下へと顔を出した神無を連れて、縞斑は同僚も滅多に使っていなかった人通りの少ない通路を選んで外を目指す。
「……先輩、ごめん、」
「なにが?」
「えっと……油断してDomに負けそうになったこととか…あと、先輩のこと…ここに呼ぶことになっちゃって…」
警視庁とは時々協力捜査を行う縞斑だが、上層部が相変わらず彼のことを犯罪組織のリーダーだと睨んでいることも事実だ。
隙を見せれば何をされるか分かったものではない。自分と深く関わっていることが割れて、神無の立場が悪くなることも本意ではない縞斑は、人の目を避けるように警視庁を後にした。
「どっちも君が謝るようなことじゃない。前者はマナー違反のDomのせいだし、後者は俺が勝手に決めたことだ。」
「…でも、」
「君に非がないことまで背負う必要はないって、前も言っただろう?」
縞斑の声を聞いて、ぐっと言葉に詰まった神無は渋々頷く。腑に落ちていない様子の神無に苦笑いを浮かべながら、縞斑は自動運転車の扉を開けて彼を中に促すのだった。
※
縞斑が神無の家を訪れたのは、これが二度目のことだった。
「お邪魔します。」
「…どうぞ。」
あの事件の日に捜査で入ったきりの室内に、一言断って足を踏み入れる。非番の日に神無が掃除をしているらしい室内は、特別荒んだ様子もない。
不安定な状態にある神無がPlayを求めていることは、縞斑から一目瞭然だった。それでも縞斑から言い出さなかったのは、神無にとって大切な記憶の残るこの場所に、自分が土足で立ち入っても良いものか分からなかったからだ。
「何か、コーヒーとか…」
「俺はさっき飲んできたから平気だよ。それより、神無ちゃんの体調を整えることを優先しよう。」
そわそわとキッチンへ向かおうとする神無を引き留めれば、顔に気まずいと書いた彼が振り返る。
落ち着かないのならいつも通り縞斑の自室で良かったのにとは口を挟まずに、縞斑はリビングのソファに促されて腰を下ろした。
そばに歩み寄った神無の瞳が期待に揺れる。いつもkneelから始める癖なのか、立ったままでいる神無を見上げて、縞斑は小さく笑った。
「…三十一、Sit」
そう言って縞斑は自身の膝を軽く叩く。いつもと違う命令に目を丸くした神無だったが、すぐに彼の言葉に従おうと彼の膝の上に浅く腰掛けた。
「うーん…こっち向きに座ってみようか。」
「あ……う、うん…」
神無の頭を撫でて、縞斑は再びそう声を掛ける。縞斑の意図することを察したらしい神無は、躊躇いながら振り返ると彼の膝に跨った。
縞斑の肩に両手を置いて向き合うように膝の上に跨った神無は、いつもと違い見下ろす位置にある縞斑の顔を緊張した様子で見つめる。
「Good…良い子だね、よくできました。」
恥ずかしげなその様子を見て、Commandを連ねることなく一度神無を褒めれば、彼の瞳が蜂蜜のようにとろりと蕩けた。
小さく息を吐いた彼は、親を見つけた子のように穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべる。
初めてのCommandを達成できた神無の頭を撫でて目一杯に褒めると、縞斑は神無の腰を両手で支えて顔を上げた。
「神無ちゃん、質問してもいいかな?」
「…なに?」
新しいCommandを予想していたらしい神無は、縞斑の言葉に首を傾げる。命令がなくても絡む視線に息を吐いて、縞斑はゆっくりと言葉を紡いだ。
「君がSubになったのは…俺のせい?」
その言葉を聞いた瞬間、それまでふわふわと頬を紅潮させていた神無の顔から血の気が失せた。
「な、んで……それ、」
ぱくぱくと口を開閉していた彼は、咄嗟にその場を逃げ出そうと後ずさる。逃さないというように腰を抱き寄せて、縞斑は青白い顔の神無を見上げた。
「…やっぱり、そうなんだ。」
「ちがっ、ちがう……ちがう、から…!」
慌てて首を横に振る神無だが、その態度を嘘だと見破れないほど縞斑は鈍くない。
神無の反応を見て、彼が自分に真実を伝えなかった理由にも薄々納得した縞斑は、確認するように口を開く。
「…じゃあ、どうして俺を求めたのか聞いてもいい?」
果たしてそこにあったのは、特定の相手を欲するという後天性の後遺症だけだったのだろうか。
もし仮にそれだけならば、お前のせいだと事実を突きつければ良かったはずだ。神無がその方法を選択しなかった理由を求めて、縞斑は唾を飲む。
「それは……ええと…その」
「お願い神無ちゃん、教えて。」
おろおろと泣き出す直前のように眉を寄せて狼狽える神無を見上げて、縞斑は呟いた。懇願するようなその声色はDomには似つかわしくないもので、神無は思わず口を開く。
「命令、すればいいじゃん…」
「……そういう強制はしたくない。」
縞斑が話せと命令すれば、神無の意思に関係なくその気持ちは全て吐露されるだろう。
しかしその行為は、DomとSubのことを対等な性として扱いたいと考える縞斑にとって看過できないことだった。
神無がそれまで縞斑に隠していたことを、自分の欲のままに引き摺り出してはいけない。
話してほしいと願っているが同時に、本当に伝えたくないと神無が思うのであれば縞斑はこの場を引くつもりでいるのだ。
「……なんで、そんな優しいかなぁ…」
呟いた神無は、両手を持ち上げて縞斑の頬に触れる。こちらをまっすぐに見上げる翡翠の瞳には、確かに彼に恋した自分の姿が映っていた。
そんな優しい縞斑だから自分は彼に惹かれたのだと、胸を張って言うことができたなら、こんな悩みを抱えることも無かったのかもしれない。
「先輩のことがすき。」
見開かれた縞斑の瞳を見下ろして、神無は小さく笑う。その笑みには諦念の色が強く滲んでいた。
「……すきで…すきで、足りなくて、もっと欲しくて、でもわかんないの。」
「…わかんない?」
「俺の好きは……俺がDomだったとしても、芽生えたものなのかなぁ…?」
神無は自身の抱く恋心を、Subの性が抱かせる要求に触発されたおまけかもしれないと怯えていた。
「…わかんないよ……どうしよう、おれ…すきなのに、わかんない……」
縞斑の肩に額を押し当てて、神無は震える声で呟く。自分の気持ちを信じられないことは、神無が思う以上に苦しいことだった。
じわりと肩に滲む濡れた感触に、縞斑は神無の背をそっと撫でる。顔を上げるように促せば、涙に潤んだ紫の瞳がじっと縞斑の言葉を待つように見つめていた。
「わからない、で良いと俺は思う。」
「…え……?」
「そもそも愛なんて、元から目に見えない感情なんだ。分からなくても当然でしょ。」
現に縞斑だって、今この瞬間があったからこそ自身の感情に確信を持つことができたのだから。
「目に見えないから分からない…けど、見えないものはそこに無いわけじゃないよね。」
「………、」
「理由やきっかけはどうであれ…神無ちゃんも俺も、今は同じものを持ってる。その事実だけは変わらない。」
神無の瞳が丸く見開かれる。耐えきれず溢れた涙を掬って、縞斑は笑った。
「難しく考えずにさ、俺と試してみようよ。それが本当に愛なのか。」
「……うん…うん、」
ひとりでは分からない感情も、同じ感情を抱えるふたりなら見えるものがあるかもしれない。そう提案する縞斑に、神無は何度も頷く。
「…お願い、せんぱい……俺といっしょに」
「もちろん。」
泣き出してしまった神無を抱き寄せて、縞斑は力強く頷いた。その言葉は神無の涙腺をより一層刺激して、噛み締めた唇から嗚咽が漏れる。
信じてみたいと思った。目に見えないその感情の答えを見つけ出したとき、それがふたり同じであってほしいと。
「…じゃあ、まずは第一歩として提案があるんだけど。」
「……なに?」
「Safe wordを変えよう。普段使わない言葉は『大嫌い』とかで良いと思うんだけど、どうかな?」
縞斑の言葉に顔を上げた神無は、小さく首を傾げながらひとつ頷いた。
途端、大きく息を吐いた縞斑は両手を広げると神無の体を再びめいっぱいに抱きしめる。
「わ、ぅ」
神無への恋心を抱き始めていた縞斑にとって、彼が掲げたSafe wordは拷問のようだった。
危うく口走ることができない愛言葉を解放された縞斑は、早速抱き寄せた神無の耳元で囁く。
「はぁー……これでやっと愛してるって言える…」
「い…ッまって、ちょっと、」
「愛してるよ、神無ちゃん。」
「待てって!それめちゃくちゃ恥ずかしいから!!」
恥ずかしげもなく何度も愛を囁く縞斑に、神無は顔を真っ赤にして両手で彼の胸を押した。
しかし、数ヶ月募らせて拗らせてきた縞斑の感情はその程度では収まらず、赤く染まった耳の端に口付けて彼は言葉を続ける。
「ひいっ!?」
「神無ちゃんからも聞きたい。」
「なん、ッあい、おれ!?」
「口にしたら案外、少しは気持ちが分かるかもしれないよ?」
上手く丸め込まれている気がしてならないが、口にしないと分からない、なんて言葉も昔からある有名なものだ。
縞斑に促されて視線を合わせた神無は、もごもごと小さく口を動かす。恥を捨てて覚悟を決めた彼は、縞斑にだけ聞こえるようにぽつりと呟いた。
「………あい…して、る」
縞斑がぴたりと動きを止める。閉じていた瞳をちらりと開けた神無は、彼が浮かべていた表情に息を飲んだ。
嬉しそうに、愛おしげに、瞳の輪郭を曖昧にして笑う彼の姿を、今まで神無は一度も見たことがない。それを自分が引き出せたのだという達成感と満足感は、Playで得たものとは全く違うものだった。
「俺も、愛してる。好きだよ。」
「……うん、」
「これからもよろしくね、神無ちゃん。」
「…こちらこそ。」
膝の上に跨ったまま、愛を囁き合った後に頭を下げ合うふたりの不思議な光景に、どちらともなくくすくすと笑い出す。
彼らの抱く感情の答えは分からずとも、今この瞬間を彼らが『幸せ』だと感じたことは紛れもない事実だった。
終