カルみと 人を選ぶ話
シナリオネタバレあり
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縞斑狩魔が死亡した。
神無がその情報を告げられたのは、季節外れの台風が日本列島を舐め上げたある日のことだ。
「うそ、」
取り乱すディーノから告げられた言葉に、神無が返すことのできた言葉はたった一言だけだった。
それ以上の言葉を紡ぐより先に、神無は喉の奥がひどく痛んで息が詰まってしまう。彼がそれでも必死で声を搾り出すより早く、啜り泣くディーノの声が響いた。
「なんで、なんで…」
血の気の失せた神無の手のひらに伝い落ちる冷たい雫を目にした彼は、ぎゅっと手を握りしめる。
今は主人である自分まで取り乱してはいけない、しっかりしなければと唇を噛んだ神無は両手を伸ばして、泣き出してしまったディーノを抱きしめた。
「ディーノ、大丈夫だ…大丈夫だから。」
震える喉から絞り出した慰めの言葉は、無責任な安心を促すものでしかなかった。しかしそれでも、自身の耳に届く規則的な心臓の鼓動に、ディーノは僅かに落ち着きを取り戻す。
ディーノが受け取ったアサギリの連絡曰く、縞斑は仕事の息抜きにひとりで出掛けた先で、過激派の反アンドロイド組織に襲撃されたらしい。連絡が取れず心配したアサギリが彼のGPSを追って辿り着いた現場には、血濡れでこと切れる彼の姿があったのだと言う。
「スパローは…アサギリたちは無事なのか…?」
「無事だそうです。ただ…今は僕らにも何も教えられない、と。」
縞斑の荷物は全て盗まれた形跡はなかったが、アジトの場所や彼の関係者に関する情報が盗まれている可能性があった。
その事件の後、リーダーを一時的に引き継いだアサギリは、組織からの襲撃を警戒してアジトの場所を移したらしい。
関係者である神無たちとのやり取りを覗かれて、避難した先が割れてしまう事態は避けなければならない。
「そっか…」
そんな事故があった以上、メンテナンス時にディーノのメモリを警察組織が確認する場合もあるだろう。
リーダーを失ってしまった現在のスパローを慎重に動かさなければならない、そう考えるアサギリの判断は正しかった。
「…今、青木が代表でだらだら先輩の遺体を確認しているそうです。」
「……あぁ。」
話を聞くうちに、頷く神無の思考も少しずつ冷静になっていく。
これはれっきとしたアンドロイド絡みの殺人事件だ。青木が呼び出されたということは、じきにドロ課に調査の指示が下されることだろう。
「とにかく…俺たちは青木の指示を待とう。犯人は捕まってないんだよな?」
「えぇ…痕跡から考えて、その組織の確率が高いだけで…」
「なら、それを確定させるのは俺たちの仕事だ。アサギリの分も俺たちが頑張らないと。」
「そう…そうですよね、分かりました。」
何度も頷くディーノの肩を抱く神無の胸元で、小さな音を立ててシルバーのリングが揺れた。それを手に取った彼は、祈るように強く握りしめて目を閉じる。
自分は縞斑の恋人である以前に刑事なのだ、取り乱して与えられた仕事もまともに出来ないなんて、そんな失態を犯すわけにはいかない。
乾いてしまった瞼を擦り、彼らは身を寄せ合って胸の痛みに耐えた。ふと顔を上げた神無は、絶えず窓を叩き続ける雨粒を見つめる。
「……雨は、嫌いだな。」
※
「…それ、どういうこと…?」
青木から告げられた言葉に、神無は呆然と呟いた。その言葉を受けて、青木は更に苦しげに表情を歪める。
「ですからドロ課は…通常の業務を、」
「待って、待ってくれよ、じゃあだらだら先輩の調査はどこの課がすんの?」
ドロ課に戻った青木は、鎮痛な表情を浮かべて二人を呼ぶと、彼らに通常業務を言い渡した。
縞斑は以前ドロ課に所属していた人間だ。関係者と判断されて事件に参加できなくなったのだろうかと考えた神無が尋ねれば、青木は小さく首を横に振った。
「それが…調査は行わないそうです。」
「は……?」
「結局遺体も確認させてもらえませんでした。今回の件は事故として処理する、と……」
「おかしいだろそんなの!事故って…襲撃されたなら現場に痕跡があるんじゃ…!!」
俯く青木の肩を掴んで、神無はひどく狼狽える。そんな彼の動揺を宥める余裕もなく、ディーノは隣で呆然と立ち尽くしていた。
「それは…上層部の判断ですか。」
「………、」
「まさか彼らは、だらだら先輩が死んだことを喜んでいるのですか…!」
ディーノの言葉に息を呑んだ青木は、唇を噛んで俯く。その仕草を肯定と受け取った神無は、青白い顔で青木に詰め寄った。
「うそだ…うそだ…っ!今のだらだら先輩は一般市民だろ!?なんでそんなこと!!」
「…彼がスパローのリーダーであることを、上層部の人間は知っています。彼らにとって…縞斑さんは居ない方が都合が良い。」
青木の説明に頭を強く殴られたような衝撃を受けた神無は、その場にぺたりと膝をつく。
現場や縞斑の遺体には弾丸や血液などの痕跡が残っていたはずだ。それらを見ないふりをして、かつての仲間であったドロ課の係長である青木にまで情報を隠蔽し、上層部は縞斑の死を無かったことにしようとしている。
彼らにとって縞斑の存在は目の上のたんこぶだったのだろう。これ幸いとすら言うように、淡々と事故として処理する彼らの思惑を理解した神無は、吐き気を覚えて口を押さえた。
「…ディーノ、現場の座標送ってくれ。」
力の入らない足を踏ん張って立ち上がった神無は、そう呟くと武器と鞄を手に取る。出掛ける支度を整えようとする彼の背を追って、ディーノが首を傾げた。
「神無…?なにを…」
「警察がやらないっていうなら、俺個人で調べに行く。みんなには迷惑かけないから。」
刑事として調査が許可されないのであれば、神無三十一個人としてでも調査に乗り出そうとした彼は、冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。
かつて捜査が中止された事件を調査して、処罰を受けた白瀬や縞斑の存在を良く知っているにも関わらず、神無の支度を急ぐ手は止まらなかった。
おろおろと立ち尽くすディーノのそばを通って、神無は扉の前へ向かう。そこには、青木が立ち塞がって険しい表情を浮かべていた。
「…神無さん、駄目です。」
「どいてくれ。」
「危険です。絶対に行かせません。」
「なんで…っだらだら先輩は仲間だろ!?」
「神無さんも仲間です!!」
神無の言葉を遮って、青木は声を張り上げて両肩を抱える。
上層部から戻ってきた彼は、ずっと肩を震わせていた。それが動揺や悲しみではなく怒りによるものなのだと思い知って、歪む彼の顔を見た神無は押し黙る。
「…縞斑さんと神無さんの関係や、ドロ課がスパローと協力関係にあることが、上層部や襲撃者に伝わることは得策ではありません。」
「それは……」
「お願いです。…今神無さんが無茶をしても、縞斑さんはきっと喜びません。」
縞斑は当時、白瀬の妹の独断で捜査を行なって処罰を受けた相棒の姿を目にしている。
神無が自分の後を追うことを、彼が喜ぶはずがない。縞斑の性格を知る神無には青木の言葉が痛いほど理解できた。
けれど、何もできないことは辛くてたまらない。縞斑に嫌われようとも全てを知りたいと思う気持ちと揺れる神無の服の裾を、おずおずとディーノが引いた。
「…神無、行かないで。」
「ディーノ……」
「神無にまで何かあったら…僕、いやだよ。」
人間としての記憶が転移しているディーノは、神無とのバディが万が一解消されたらデータを初期化して新しい主人の元へ向かわなければならない。それはディーノにとって死ぬことと同じだ。
床に鞄を落とした神無は、俯いて震えるディーノの手を取る。慰めるように彼の頭を撫でながら、神無は眉を寄せて頭を下げた。
「ごめんディーノ、青木。ちょっと…頭に血が昇ってた。」
「いいえ…いいえ、大丈夫です。」
「俺も、気にしないでください。」
動揺しているのは神無だけではない。取り乱して暴走するなど、あの頃から何も変わっていないではないか。そう言い聞かせて大きく息を吐いた神無は、どうにか落ち着きを取り戻すと踵を返す。
「とにかく…お二人はいつも通りの業務をこなしてください。俺もそれとなく探りを入れてみますので、何か分かったら連絡します。」
「わかりました。」
「アサギリさんへの連絡も今は最低限にしましょう。もしも緊急で連絡を行うときは、ディーノの中に設けてある履歴の残らないメッセージソフトを使ってください。」
「あぁ、わかった。」
いつもより時間のかかった朝礼を終えて、神無とディーノは業務へ取り掛かった。
雨を避けるように乗り込んだ車内で、パトロールの巡回ルートを確認すれば、件の事件現場が意図的に外されている。おそらく上層部からの圧力を受けて青木が書き換えたのだろう。
「…なんかさ、」
「はい。」
「……先輩たちが上を信用しなくなった理由、めちゃくちゃ分かった気がする。」
「………そうですね。」
警察組織でキャリアを積むことを選んだ神無だが、彼も腐った上層部の判断に腑が煮え返りそうだった。
しかし、神無はまだちっぽけな下っ端の刑事だ。今逆らっても縦社会のこの組織は何も変わらないことくらい、よく分かっている。
はやく上に立って、この空気を変えなければならない。そのためにも神無はこの組織に齧り付くことを決めたのだから。
「…ごめん、ディーノ。ちょっとだけ休んでもいい?」
「わかりました。巡回ルートに入ったら声を掛けますので、それまで休んでください。」
今のままでは切り替えて仕事ができそうにない。そう判断した神無は、ディーノに声を掛けて座席へと体を預けた。
手のひらを瞼の上に押し当てれば、燃えるほどの熱が手を焼く。乾いて涙ひとつ溢れようとしない瞳は、熱を持って爆発寸前の如く腫れていた。
項垂れた神無とディーノを乗せて、ゆっくりと車両は走り出す。
まだ、雨は止まなかった。
神無の元に小さな段ボールが届いたのは、縞斑の死亡を知らされた数日後のことだった。
いつものように人間の配達員からそれを受け取った神無は、リビングのテーブルの上で封を切って中身を開く。
「……ひどい血。」
そっと開いた中には、丁寧に畳まれた見覚えのある衣服たちが、赤黒く染まったまま詰められていたのだ。
現場から回収された縞斑の所持品が、鑑識の調査を終えて処分されることになったのだと、青木は顔を歪めて言っていた。
どうにか鑑識の目を盗んでそれらを回収した青木は、彼の遺品として神無に確認をしてほしいと送った。アサギリもその提案に賛成しているらしく、神無が傍に置きたいものを決めてから残りを送ってほしいとのことだ。
相棒より先に荷物の内容を改めることは少しだけ気が引けたが、彼の気遣いにありがたく甘えることにしたのだった。
「…ぼろぼろじゃん……」
縞斑の愛用していた襟巻きや外套には、赤黒い血のあとがある。
この量の血液では、きっと致命傷を免れない。息を呑んだ神無は震える手で箱の中の荷物をひとつひとつ出していった。
「ん、これ…」
鞄の奥に押し込まれていたらしい小さな箱を手に取った神無は、それが煙草であることに気づく。
「先輩…さては隠れて吸ってたな?」
刑事時代の惰性で煙草を吸っていた縞斑は、地下暮らしになったときに健康のためにアサギリから禁煙を促された。いざ吸わなくなると口寂しいと溢していたことを思い出した神無は、苦笑いを浮かべて凹んだ箱をそっと開く。
しかし、中から転がり落ちたのは煙草ではなく、いくつもの色鮮やかなガラス玉だった。
「…ビー玉?」
部屋の明かりに透かして覗いた鮮やかな緑を見上げて、神無は首を傾げる。
おそらくこれは、ニトとリトが拾って縞斑に渡したものなのだろう。無くしてしまわないよう煙草の空き箱に入れて、大切に持ち歩いていたらしい。
縞斑は新しい居場所で、子供たちのことを心から大切にしていた。あの場所と残された人々は、紛れもない白瀬恭雅の形見だ。
ぽたり。
握りしめていた手の上に雫が落ちる。
顔を上げた神無の頬を、いくつもの雫が伝い落ちてテーブルを濡らした。
「…っ、なんで、いまさら……」
縞斑の死を告げられたあの日から、神無は一度も泣いていない。擦れて痛む喉をどれだけ絞っても声は漏れなくて、腫れて熱い瞼はどれだけ瞬きをしても乾いたままだった。
いくつもの死を見送る、自分は恋人の死を悼めないほど慣れてしまったのだろうか。そんな自分がひどく薄情者のような気がして、神無は自分を呪っていた。
また失った。また自分を愛してくれた人が遠くに行ってしまった。途方もない喪失感と絶望がようやく心の奥に辿り着いたのか、神無は嗚咽を漏らして瞼を押さえる。
「だらだらせんぱい……っいかないで」
吐息の合間に紡いだ声は迷った子供のように頼りなくて、まだ自分には彼が必要なのだと実感してしまった。
涙を拭ってしゃくり上げていた神無は、ゆらりと目の前が歪んで体勢を崩す。慌てて手をついた振動で段ボールが揺れて、中身がテーブルの上へと散らばってしまった。
「ごめん、ごめん…せんぱい、ごめん、」
汚してしまったらアサギリたちに合わせる顔がない、慌てて散らばったそれらを拾おうと神無は両手を伸ばす。
「………あれ…?」
そうしてふと、神無はその違和感に気がついた。
「ない…」
涙を止められないまま、ゆらりと持ち上げた手で神無は外套を持ち上げる。血濡れのそれに一瞬怯んだ神無だったが、すぐに我に返った彼はポケットを軽く叩いて中身を確かめた。
「ここにもない…?」
じわりと胸の奥に巣食う違和感が、僅かな可能性に縋るために叫び声を上げる。神無は涙を両腕で拭うと、慌てて机の上の荷物を漁り始めた。
「ない、やっぱりない…!」
もう一度煙草の箱の中まで確かめた神無は、ポケットに入れていた端末を立ち上げる。素早く連絡先を表示した彼は、青木への通信画面を起動した。
『…はい、もしもし?』
数コール後に、不思議そうな彼の声がスピーカー越しに届く。仕事中の上司へ向けた挨拶を口にする余裕もなく、焦った神無は声を上げた。
「ほんとに荷物ってあれだけ?!」
『神無さん!?えっと、荷物って…』
「先輩の荷物!!ほんとにあれで全部!?」
狼狽える神無の様子に気がついた青木から、小さく息を呑む音と周りをがさがさと漁る音が響く。
『…全部だと思いますけど……どうかしたんですか?』
「ないんだ…あんな大切なもの、あの人が持ち歩かないはずないのに…!!」
『足りないもの…?』
彼の荷物の中に見当たらなかったそれは、襲撃者に奪われるような機密情報ではない。
しかし、縞斑がそれをどれほど大切に扱っているかを神無はよく知っていた。持ち歩いていたのならば、この箱の中に収まっているはずである。
「…アサギリが持ってるのかも……確認しないと、」
『わ、わかりました。ディーノを起こして向かわせます、連絡を取って外で落ち合ってください。』
焦って神無が繋いだのは、青木の仕事用の端末への通話だった。万が一の盗聴を危惧した青木は会話を切り上げると、ばたばたとメンテナンスルームへ向かう。
返事をした神無は通話を切ると、最低限の荷物を詰め込んだ鞄を手に駆け出した。コートを羽織ることも忘れた彼は、靴を適当に突っ掛けたまま玄関の扉に手を伸ばす。
そうして彼が勢いよく扉を開け放った、その時だった。
「うぐッ!?」
「わ!?すみま、せ……」
どがしゃん、盛大な音を立てて玄関の前に立っていたらしい人物に開いた扉が激突する。
来訪者に気付かなかったことを慌てて謝ろうとした神無だったが、その聞き覚えがある呻き声にぴたりと思考が止まった。
「今の…声…」
そんなはずはない。きっと幻聴だ。会いたいと願うばかりに、都合の良い夢を見ようとしているのだ。
そう言い聞かせる神無の、扉を掴む手が小さく震える。磨りガラス越しにしゃがみ込むそのシルエットに、神無は小さく息を飲んだ。
「……せんぱい…?」
扉越しに聞いた神無の震える声に、相手は額をさする手を止めて顔を上げる。
確かめることが怖くてこれ以上開くことができない扉を、反対側に立つ彼がゆっくりと開いた。
「だらだら、せんぱい……」
「…こんにちは、神無ちゃん。」
そこに立っていたのは、会いたくて止まなかった大切な人の姿だ。長い髪をひとつに束ねた彼…縞斑狩魔は、立ち尽くす神無と視線を合わせて微笑む。
鼓膜を揺らす縞斑の穏やかな声が信じられなくなって、神無は両手を持ち上げておそるおそるその頬に触れた。
「…ほんもの……?」
ひんやりと柔らかい感触が手のひらに伝わる。何度も確かめるように頬を撫でる神無の手に、縞斑は自分の手を重ねて見せた。
「本物。縞斑狩魔型のVOIDじゃないよ。」
「……だからそれ、誰も得しないだろ。」
「おぉ…相変わらず辛辣……」
いつかの再会の日のような応酬にたじろいだ縞斑は、ちらりと周囲を見回すと神無の手を引いて家の中に入った。
扉越しに他の人間の気配がないことを確かめる縞斑の顔を見上げて、神無は混乱する頭のままどうにか声を上げる。
「なんで…生きてるの…?」
「んー……ドッキリ、みたいな?」
「………は?」
「襲われたのは事実だけど、良い機会だし警察の目を盗んでアジトの引っ越しをしようって話になってね。」
現場に用意した縞斑のダミーの死体は、無事に機能したらしい。
必要以上に調査を行うことはないだろうと踏んでいた縞斑の案の定、上層部の人間はそれを親しい人間たちに見せることなく葬ったようだ。追っ手から逃れるには、死んだことにする方が一番手っ取り早く都合が良い。
「なんで、おれたちまで、」
「敵の目を欺くには、まずは味方からってあの時も言っただろ?」
そう言ってのけた縞斑を見上げていた神無は、ぴしりと固まった。額に青筋を浮かべて震えた彼は、拳を強く握りしめる。
「ほー……」
「…ん?神無ちゃん、ひょっとしてめちゃくちゃ怒ってる?」
「ここまでされて怒らないと思うか?」
ゆらりと一歩を踏み出す神無の気迫に押された縞斑は、思わず背後へと後ずさった。
しかし、彼の歩みはわずか数歩で玄関の扉に当たって遮られる。背中を扉に預けた縞斑は、拳を固めて歩み寄る神無の姿に珍しく焦った表情を浮かべた。
「ま、まって神無ちゃん。もちろん流石に俺もすぐに…」
「言い訳はあとで聞いてやるから、」
手を伸ばした神無は、怯んだ縞斑の半端な抵抗を無視して彼の襟を掴む。引き寄せられた縞斑は、怒りに燃える神無の瞳に冷や汗をかいた。
「とりあえず一発殴らせろ。」
そう呟いた彼は、握りしめた右の拳を大きく振りかぶる。
一切の容赦なく振り下ろされた拳の奏でる鈍い打撃音によって、縞斑の視界はぐるりと反転したのだった。
「神無ちゃーん?そろそろ機嫌直してよ。」
「………うっさい…」
ソファに腰を下ろして腫れた左頬に氷嚢を当てる縞斑は、同じくソファの隅に腰掛けて膝を抱える神無に視線を向ける。
臍を曲げてしまった神無は縞斑に背を向けて、近くに座る気配もなかった。
「騙すなんて最低だ。アサギリまでグルとか。」
「うーん…彼は最後まで反対したからね。」
「じゃあもう100あんたが悪い。ばか、きらい、さいてー、だいきらい。」
「ごめん、ごめんって。」
機嫌を直そうと肩に触れた縞斑だが、神無はぱしりとそれを叩き落として更に距離を置いてしまう。
今回ばかりは自分に非があることを認めている縞斑は、諦めて座り直しながら口を開いた。
「なんで気づいたの?」
「……、」
「本当はもう少し早く入る予定だったんだけど、君が慌てて青木ちゃんに連絡を取り始めたから。」
神無の家の前に縞斑がたどり着いたとき、彼は焦った声で青木と通信を行っていた。その狼狽えた様子から縞斑は、自身の偽装が見破られたと察したのだ。
通信を終えたタイミングでネタばらしをするために登場しようと身構えていた矢先に、扉が開かれて盛大に額を打ちつけることになった。
顔を上げる気配のない神無は、力なく爪先でクッションを引っ掻きながら口を開く。
「……ティアベルが…なかった。」
「あぁー…なるほど。」
納得した縞斑は、懐から小さな白いベルを取り出した。彼の手の中で転がる涙の音を横目に、神無は小さく鼻を啜る。
「…さすがドロ課のエース。」
「茶化すなよばーか。」
死を偽装するにあたって、持っていた荷物をその場に置いていくことになった縞斑だったが、元相棒からもらったそれだけは手放すことができなかったのだ。
神無はたくさんの荷物の中から欠けたひとつに気づいて、縞斑が打ち明ける前に真実に辿り着こうとした。その観察眼は、以前にも増して磨きがかかっている。
素直に褒めたつもりだったが、揶揄われていると受け止めたらしい神無は唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。
「落ち着いたら頃には青木ちゃんたちにも連絡するつもりだけど……ディーノちゃんには神無ちゃんからやんわりと伝えておいてあげて。」
新しい拠点に移動したばかりのスパローは、まだ体制が整っていない。青木たちのことを信頼している縞斑だが、彼は立場上命令を受けたら情報を吐かなければならないことも理解していた。
板挟みにして苦しめるくらいなら、全てが安定してからゆっくり伝えた方が良い。そんな縞斑の考えを汲み取った神無は、こくりと首を傾げる。
「…じゃあ、なんで俺の家に来たの?」
青木より立場は下であるとはいえ、神無もドロ課の人間だ。
加えて、縞斑の死に取り乱して独断で調査に乗り出そうとした神無には、おそらく現在は監視の目が向けられていることだろう。スパローの情報を隠したい縞斑にとって、今の神無との接触はリスクが高いはずだった。
視線を合わせた縞斑は、神無の真似をするように首を傾げて笑う。
「大事な人のこと、いつまでも悲しませるわけにはいかないでしょ。」
解いた長い髪が彼の仕草に合わせて揺れる。
目を奪われた神無は、その言葉を聞いて再会の日に交わしたやり取りを思い出した。
警視庁に存在する全てのデータを抹消して、相棒を連れて姿を消した彼のことを、最初は追ってはいけないと言い聞かせていたのだ。そんな中で、しなくていい自覚までしてしまった。
そんな神無の迷いとは裏腹に、一月後あっさりと再会を果たしたあの日、居なくなるなら教えろと怒鳴ったのだ。
「まぁ…今回も状況的にすぐに連絡はできなかったわけだけど、」
「…こういうのは直前にするもんなんだよばか!!」
あの日に負けない怒鳴り声を上げて、神無は縞斑の襟を掴む。再び殴られることを覚悟して目を閉じた縞斑の頬に、ぱたたと音を立てて温い雫が落ちた。
溢れる涙を拭う余裕もなく、何度もしゃくり上げる神無の姿を見上げた縞斑は、目を見開いて言葉を失う。
「おれがっ…どれだけ心配して…!不安で…!!」
「かみな、」
「死んじゃったんだって、また…っまた、おれは、大事な人が苦しいときに…そばにいなくて、」
縞斑を独りで死なせてしまった。そんな絶望に囚われた神無は、身が引き裂かれてしまいそうな痛みから目を逸らし続けて今日まで生きていたのだ。
再び自分を愛した人を失った悲しみに打ちのめされた神無は、いっそ機械のように感情を消してしまいたかった。
そうしてはいけない。あの頃の繰り返しだ。今度は、道を示してくれる人はいない。
僅かに残った意志でそう言い聞かせて、どうにか平静を保つことで精一杯だった。そうでなければ、今すぐにでも彼を追って我を忘れてしまう気がしてならなかったから。
「やめてよ…たのむから!おれにもう…ひとを愛さなきゃよかったなんて…そんな後悔させないでくれよ…!!」
「………、」
「……あんたまでいなくなったら、おれ…っ、おれは、もう…」
縞斑を失うことも、彼から注がれた愛を後悔することも、神無は絶対に嫌だった。自分の愛がひとを殺すのだと、そんな悲しい業を認めたくなどなかったのに。
みるみる尻すぼみになっていく言葉に、やがて神無は声を上げることも忘れて涙を流す。
身分も立場も忘れて思うままに叫んでしまったことに早速後悔をする神無だが、何度瞬きをしても目の端から雫が落ちるだけで時間は戻らない。
「…神無ちゃん、」
縞斑の手が伸びて、神無の涙を掬った。触れられたその指先からは、いつの間にか血の気が失せている。
大切な人の不安を爆発させてしまった焦りと後悔を抱えた縞斑は、おろおろと言葉を探しながら何度も涙を拭った。
「ごめん…不安にさせてごめんね。」
「っ、うー…」
「…心配かけて、傷つけてごめん。」
襲撃されたことは事実だし、怪我を負ったことも事実だ。縞斑にとって今回の作戦は、スパローを守り、尚且つ神無たちを危険に晒さない最善の方法だった。
警察の目を欺くためにも、神無たちに無事であるという報告は行うことができない。アサギリとディーノの秘密通信すら、内容を上層部に覗かれる可能性があったのだ。
しかし、それらはあくまで縞斑の事情である。神無の心に再び大切な人を失う恐怖を刻んでしまったことは、一度や二度謝って済むようなものではない。
「ごめん、神無ちゃん。もう何も言わずに死んだりしないから、」
「…言っても、しぬな」
「………確約はできない。けど、もう騙したりしないから。」
職業柄危険と隣り合わせの縞斑は、絶対に死なないという約束はできない。
けれど、死を偽装するのはこれで最後にしようと強く思ったのだ。恋人が弱って泣いている姿を見て心を痛めないほど、縞斑は図太く出来ていない。
軽率に約束をしない縞斑から、誠実に自分に向き合おうとしている意志を感じた神無は、両手で涙を拭いながら頷く。
「…次こんな嘘ついたら、ほんとに嫌いになる。」
「それは…肝に銘じるよ。二度としない。」
瞼を擦ろうとする腕を宥めて、縞斑の指先がそっと涙を掬った。
されるがままに大人しく目を伏せていた神無は、良く知る指の感触にようやく安堵を覚える。同時に神無を襲ったのは、争うことが難しい深い眠気だった。
「…神無ちゃん、眠いの?」
「ん…ん、」
縞斑の問いに小さく欠伸をこぼした神無は、首を横へ振って力なく否定する。
思えば神無は、ここ数日まともに眠らないまま仕事に打ち込んでいたことを思い出す。眠れば血の海に沈む縞斑の悪夢を見るような気がして、怖くてたまらなかったのだ。
そんな神無のことを察したのか、縞斑は神無の体を抱き抱えると、そのまま寝室へ足を向けた。以前より軽くなった彼を難なく運んで、ベッドに彼を寝かせる。
「少し寝ても良いよ。」
「…………きて……ったら、」
「…?なぁに?」
小さな声で呟いた神無は、首を傾げる縞斑の手を両手で掴むとぎゅっと擦り寄った。
眠気と戦うか細い声が、不安な色を宿して泣きそうに揺れる。
「…おきて、せんぱい…いなかったら…こわい」
これらが全て、自分の見ていた都合の良い幸せな夢だとしたら。目を覚ました独りの朝を、きっと神無は耐えられない。
震える両手で必死に縞斑を繋ぎ止めようとする神無の姿を見て、彼はベッドの縁に腰を下ろした。繋いだ手をそのままに、神無の背中を優しく撫でる。
「ちゃんとここにいるよ。」
「……ほんと?」
「もちろん。神無ちゃんが起きるまで、一緒にここに居るから。」
そう穏やかに笑って声を掛ければ、神無はようやく落ち着いた様子で小さく息を吐いた。強張っていた体から力を抜いて、ゆっくりと目を閉じる。
「おやすみ、神無ちゃん。」
「…ん、」
今の縞斑が神無にしてやれる罪滅ぼしはそれくらいしかない。目を覚まして元気になった彼からの小言も、甘んじて受け止めるつもりだ。
意識を手放す神無の額に口付けて、縞斑は繋いだ手を握り返すのだった。
終
おまけ→
「というわけで…今夜は彼と過ごして帰るよ。一日そっちのことを任せて良いかな、アサギリちゃん。」
『……だから言ったでしょう、嘘をつくのはやめた方が良いのでは、と。』
「うーん、ぐうの音も出ない。」
『私は反対しましたから、怒られるならマスターおひとりでどうぞ。』
「…そうだね。アサギリちゃんが反対したのも驚きだし、顔を合わせたら嘘が見破られるからって通信も最低限にしてたことに驚きかな。」
『……なんですか?』
「いや別に、深い意味はないんだけど。アサギリちゃん、ふたりに嘘つけないんだなーと思って。」
『嘘はもう吐かないと決めたので。』
「…そっか。」
『これに懲りたら、マスターもほどほどになさってくださいね。致し方ないときはあるかもしれませんが。』
「そうだね。ありがとう。」
『いいえ。それでは、おやすみなさい。』
「うん。おやすみ、アサギリちゃん。」