※注:吸血鬼パロディ。深いことは考えずエンターテイメントとして楽しんでいただけると幸いです。フォロワー限定公開になるかも。(3/24…第4話更新)
@ayame0601s
第1話
全てを投げ捨てて、日常から逃れたい。
日々同じ日常を繰り返しながら、不意にそう思うことが何度かある。
毎朝同じ時間に起きて、毎日同じ電車に乗り、出勤をして。毎日、代わり映えのない仕事内容こなし、上司に嫌味を言われ、そこに楽しさや、やりがいも見い出せないまま日々を過ごしていく。
週一の休みは疲れた体を休ませるだけで終わり、有給休暇も、申請した時の上司の渋面や休暇後の仕事量を考えると、取りにくいのも現状だった。
全てを、投げ捨てたい。それこそ、どこか遠い場所に行ってしまいたい。
特に、残業がある日なんかはそんな気持ちが強くなる。それは、まさに今だった。明日に持ち越したくないと、やっとの思いで残業を終わらせて。会社を出て電車に乗り、最寄りの駅についたのは、22時を半分も過ぎていた。
それだけでもゲンナリするというのに、ここから自宅まで、約10分弱、徒歩で帰らなければいけなかった。たった10分弱。いつもなら、徒歩で行き来をしている。
しかし今日は残業で疲れに疲れ、おまけに深夜の道を一人で歩くには、些か心許ない。治安が悪い話は聞いたことないけれど、こういう日くらいはタクシーを使う贅沢をしてしまおう。そう思ったものの。
今日に限って、駅前のタクシーが出払っていた。
「……あー、もう」
ツイてない、と、思わず独り言が漏れる。普段なら、一台くらい止まっているのに。あまりにツイてなさすぎて、現実逃避したくなる。おまけに携帯の電源も切れてしまい、タクシーを呼ぶにも呼べない。
タクシーが来るのを待つか、このまま歩いて帰るか。
残業のため疲れ切った頭で判断したのは、後者だった。タクシーを待つより、徒歩で帰った方が早い、と。疲弊しきった思考で判断し、足を動かした。
しかしこの判断が、同時に、非日常へと向かっていたことなど、この時の私は知る由もなかった。
真夜中の住宅街は、夜の暗闇に全ての音が溶け込んでしまったかのような、静寂に包まれている。そんな中、自分の足音だけが耳に届き、まるで世界から一人隔離されたように感じた。
見上げれば、月は高い場所に位置している。空の深い藍色は月に照らされ、暗い夜道は街灯の明かりが滲んでいる。
昼間は陽の光が温かさを運んでくれるのに、太陽の沈んだ夜は、冬の訪れを間近に感じるほど寒い。はぁ、と息を吐き出せば、白い吐息がふわりと舞い、暗闇に溶けていった。
このまま、どこかへ行ってしまいたい──。
疲れ切った体には、冷たい夜風が余計に堪える。忙殺される日々を虚しく感じながら、溜め息をついた、その時だった。
パンッと乾いた音が、静寂の中で鳴り響く。
なんだろう、と、歩きながら辺りを見回す。爆竹か花火のような音に聞こえ、大して気にもせず、公園へと足を踏み入れた。この公園を横切れば、自宅のマンションはすぐそこだ。
街灯にぼんやりと照らされている公園を、半分まで進んだところだった。
突然、怒号のような、叫び声のような、言葉として成り立たない声が響き渡る。
ビクリとし、思わず立ち止まる。
男性の声だった。静寂を破る、大きな声だった。
立ち止まって辺りを見回したその時、再びパンッと乾いた音が鳴り響いた。今度は先程よりも音が大きく聞こえる。
それを聞いてやっと、あ、これは爆竹の音じゃない、と危機感が生まれた。
──な、に……なんの、音?
危機感が肺を締め付け、心臓の鼓動が速くなる。躊躇わず逃げ出した方がいいのに、体はその場から動かせなかった。何が起こっているのか確かめるように、聞き耳を立てて、辺りを見回す。
その時、砂を蹴る足音と共に、一人の男性が視界に飛び込んできた。少し離れた滑り台の影から、まるで何かから逃げるように飛び出してくる。その明らかに異常な行動に、やばい逃げなきゃ、と頭の片隅で思ったのとほぼ同時だった。
こちらへ気づいたその男性と目が合う。
目が合っている気がする、と言った方が正しいだろう。街灯の明かりだけで照らされた公園は薄暗く、けれどその男性がこちらを向いていることは分かった。
上下黒のジャージに、黒いマスクをしているその人は中肉中背であり、肩で息をしている。
相手の特徴を観察している場合ではないのに、早鐘を打つ心臓の脈動を感じながら、逃げ出すこともできず相手を見据えた。
「お、お前も吸血鬼か!?」
男が叫ぶ。興奮した口調とマスクのくぐもりのせいで、本当にそう言ったかどうか自信を持てなかった。
吸血鬼? と聞き返すことなどできず、男が何かをこちらへ向けて構える姿が視界に映る。
その構え方は、映画かドラマでしか見たことがない。
刑事だったり、あるいはヤクザやマフィアだったり。拳銃を構えるドラマのワンシーンが、脳裏を過ぎる。
男の持つ物は、拳銃で。先程の乾いた音も、銃声だったのではないかと、男の構える姿から繋がってしまった。
えっ……撃たれる──!
悲鳴を上げる暇もなく、反射的に目を瞑った瞬間、銃声が響いた。バンッ、と短く大きい音が耳をつんざく。
しかし、痛みは襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けると、男の姿は無かった。否、無いわけではなく、地面に倒れ込んでいた。しかもその上に、また別の誰かが、その男に覆いかぶさるように馬乗りになっている。
男を取り押さえてくれている、のだろうか。何が起こっているのか分からず、薄暗闇の中、目を凝らす。
馬乗りになって覆いかぶさるその人は、男を上から押さえつけていた。
しかしその後、突然、弾かれるようにその男から離れた。まるで、何か熱いものを触った時のような、反射的な離れ方にも見える。
そして地を這いながら移動した後、力尽きたかのように倒れ込んでしまった。
「え……」
思わず声を溢す。何がどうなっているのか、理解が出来ていない。
目の前で、二人が倒れているその光景をただ視界に入れたまま、呆然と立ち尽くす。
コクリと唾を飲み込むも、渇いた喉は少しも潤わなかった。
足を一歩、前へと踏み出す。ドッ、ド、と脈打つ心臓が、耳の奥にまで届いている。恐怖から速くなる息を無理やり潜めながら、恐る恐る近づいた。
上下黒のジャージ姿の男はうつ伏せに倒れ、ピクリとも動かない。
今、手には何も持っていなかった。少し視線をずらせば、やはり映画かドラマでしか見たことのない、拳銃が離れた所に転がっている。本物なんて目にしたこともなく、そもそも本物なのかも疑わしい。銀色の本体が、街灯の灯りを僅かに反射していた。
男に視線を戻す。呼吸は……して、いない……?
まさか死んでしまったのだろうかと、顔が青ざめたその時だった。
「……うっ、」
小さなうめき声が聞こえ、ハッとする。それは、その男からではなく、別の方向から聞こえたものだった。
視線をそちらへ向ければ、背を丸めてうずくまるその人のうめき声だった。黒ジャージの男を取り押さえていた人だ。
うめくその様子はあまりに苦しそうで、恐怖心も無意識に投げ出して、その人へ駆け寄る。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけて覗き込む。男性だった。うずくまる彼は、自身の左肩を押さえていた。ジャケットに皺ができるほど強く握るその姿は、痛みに耐えているように見え、先程聞こえた銃声を思い出す。
まさかこの人、銃で撃たれた──?
どうやら、その予想は的中しているようだった。そしてあの銃が、本物だったということも示されてしまった。
彼の押さえているジャケットが、じんわりと濃いシミを作っている。
「なっ、え……っ、やっぱり、撃たれ……!? あ、ちょっと、待ってくださいね! 今、救急車を──」
恐怖心はいつの間にか、焦りに変わっていた。まさかこの日本で銃撃事件を目の当たりにするとは思ってもいなかったし、こういった緊急の現場に居合わせる経験もない。何をすればいいのか分からず、頭は混乱していた。
とりあえず救急車を呼ばなければと思うのに、混乱を極めているせいか、携帯を取り出す手は震え、番号も咄嗟に思い浮かばない。その上、携帯を開けば電源が切れている。
そうだった。電源が。どうしよう。どうすれば──
「……ぶ、な」
小さな声が耳に届く。うずくまる彼からだった。苦しそうな呼吸の合間に、何か言葉を溢している。
何を言っているのだろう、と、聞き取るために顔を覗き込もうとした、その瞬間だった。
いきなり、胸ぐらを掴まれる。そのままグッと引かれ、バランスを崩しながら彼に近づいていく。
その一瞬が、まるでスローモーションのように感じた。
近づく距離。彼の口が開き、牙のように尖った八重歯が、視界の端に映る。その向かう先が私の首筋だと、咄嗟に察した途端、言いようのない危機感が寒気を伴って背中を駆け抜けた。
──あ、これは、やばい。
直感的に危険を察知した。それとほぼ同時に、思いっきり彼を突き飛ばす。
「──ッ」
力一杯、突き飛ばした反動で、肩から地面に倒れ込んだ。地面と肌が擦れ、焼けるような痛みが脳天へ走る。
けれど、痛いなんて言っていられない。すぐさま上体を起こし、咬みつこうとしてきた相手を見やった。
彼も地面に倒れ込んでいた。私が突き飛ばした衝撃で、撃たれた傷が余計に痛んだのか、左肩を庇うようにして呻いている。
そんな彼を視界に入れながら、恐る恐る、自分の首元を触る。
──今、咬まれそうになった……?
ゾッとした恐怖が背中を撫でる。
咬まれる、なんて。訳が分からない。体は恐怖で震えているのに、頭は混沌としていた。そんな中、銃を持った男に言われた言葉を、不意に思い出していた。
──お前も吸血鬼か?
「きゅ、けつ、き」
無意識のうちで口にしながら、まさか、と理性が否定する。
そんな、まさか。吸血鬼だなんて、この世に居るはずがない。いやでも、と、記憶の引き出しを探る。
確か昔、あったはずだ。吸血鬼の仕業と話題になった、連続殺人事件が。
「……くそ……っ」
舌打ちと共に、悪態をつく声が微かに聞こえる。ほとんど消え入るような声だった。呼吸は荒く、とても辛そうに見える。出血の量も増えてしまったらしく、地面に血溜まりを作っている―のだけれど。
その血溜まりから、煙のような水蒸気が立っている。
血が、気化しているような。白く上がる水蒸気は、空気に溶け込み、血溜まりからはまた新たな水蒸気が立っている。
それは寒い時に吐息が白く滲む、というのとは、また違う。蒸発をしている。そうとしか表現できない。
その光景は信じられないもので、思わず目を見開いて凝視した。
──え……? まって……人の血液って、蒸発するっけ……?
もう、頭の中は錯乱状態だった。完全にお手上げだ。私でどうにか出来るレベルではない。そもそも、私は巻き込まれただけなのに。
黒ジャージの男を横目で見やれば、彼は依然として、動いていない。ここからだと、息もしていないように見える。
──無理……私には、無理。
私にはどうにもできない。ひとまず、ここから離れないと。誰か。警察。警察を。家に帰って、携帯を充電して、それから電話を。
震える体に鞭打ち、立ち上がる。一刻も早くこの場から去りたかった。鞄を取り、苦しそうな呼吸を繰り返す彼を見る。
──でも、もし……もし、彼が本当に吸血鬼だったら。
彼を見ながら、ふと、考える。
──彼が捕まったら、どうなってしまうのだろう。
混乱しているはずなのに、そこだけはやけに冷静だった。
吸血鬼だなんて架空の生き物が、もし本当に、存在していたら。もし万が一の可能性で、彼が吸血鬼という存在だったとしたら。いや、もし。もしもの話だけれど。
もしそうなら、その生態を研究するという流れが、当たり前ではないだろうか。
そうなったら、彼は。彼は生きたまま、実験の対象となるかもしれない。地獄を、見ることになるかもしれない。
いやでも、と否定する。そもそも、吸血鬼なんて居るはずがない。だからこの考え自体がおかしい。非現実的だ。
頭では強くそう思うのに、彼から流れる血は、いまだに蒸気を発している。
『人間』とは明らかに違うように。
「〜〜ッ、ああ、もう……!」
半泣きになりながら悪態をつき、うずくまる彼へと近づく。何が正しいのか、冷静な判断も出来なかった。もう、どうにでもなれ。
「大丈夫ですか?」
見るからに大丈夫そうではない彼に、声かける。返事はなく、彼は浅く震える呼吸を繰り返すだけで、こちらを見ようともしない。
「あの、咬まないでください。貴方を、助けます」
簡潔に言い放ち、しゃがんで彼の顔を覗き込んだ。肩で息をする彼は、もう咬みついてくる力もないらしい。
荒い呼吸をしながら、サラリと垂れた髪の隙間から私を睨むだけだった。
「立てますか? 私の家、すぐそこなので。肩を貸すので、頑張って歩いてください」
返事を聞く前に、彼の右側に回り、彼の右腕を自分の肩に回す。
「咬もうとしたら大声出して人呼びますよ」と、脅しにならない脅しで念を押し、ゆっくり立ち上がった。彼も観念したのか、痛みに呻きながらも力を入れてくれたため、なんとか歩き出す。
訳の分からないことばかりで、混沌とし、内心では泣きたくもあった。何が一体、どうしてこうなったのか。
日常から逃れたいとは、思ったものの。こんな形は望んでいなかったのに、と、嘆きながら帰路につく。
この瞬間。私の、非日常の人生が幕を上げることになった、なんて。
この時はまだ、自覚すら出来ていなかった。
→
第2話
震える手で鍵を回し、玄関になだれ込んだ。
公園から自宅まで、普段ならたった3分ほどの距離。それでも、男性を支えて歩くのは、もう限界だった。彼を支える腕も、パンプスで歩いてきた足も、筋肉が限界を訴えるように震えている。
玄関に入った瞬間、安堵も伴ってかフッと力が抜け、男性一人分の重みも加わり、そのまま膝から崩れ落ちた。
ガツンと嫌な音を立て、床に膝を強打する。
「いっ……たぁ……」
あまりの痛みに悶絶した。膝を抱えて呻く。
いくら公園から自宅が近いとはいえ、男性を支えながら歩くのはかなり体力を消耗する。疲労困憊な上、体のあちこちが痛い。肩で呼吸をしながら隣を見れば、彼も痛みに呻いていた。
「あ、の、大丈夫、ですか?」
呼吸が整わないまま問いかける。けれど余裕がないのか、荒い呼吸を繰り返す彼から、返事は返ってこない。もしかすると、倒れ込んだ時の衝撃で、傷口が開いてしまったかもしれない。
照明の下で見る彼の髪は、綺麗な銀髪だった。ほんの少し青みがかっているようにも見える。その不思議な髪色を見ながら、この人は本当に吸血鬼なのだろうか……などと、この期に及んでも疑念を拭えずにいた。
けれど、床にシミを作る彼の血からは、やはり蒸気が立っている。
しかもよくよく見れば、床に作られたシミは水蒸気となった後、消えていった。
彼からまだ出血があるため、血は絶えず流れ出ているものの、流れ出た血はしばらくすると気化し、消え失せる。
それはまるで、何の痕跡も残さないように。
──もう本当に、訳が分からない……。
頭はとっくに限界だった。しかしそれでも確かなことは、彼から流れ出る血が、いまだに止まっていないということだ。
震える肺で深呼吸した後、意を決する。
「お兄さん、頑張ってください。今、止血するので」
連れ帰ってきてしまったものの、どうすればいいのか分からないのが本音だった。本当はやっぱり、救急車を呼ぶべきかもしれない。
そう思い始め、とりあえず電源の切れた携帯を充電器にささないと──救急車が来るまでタオルで止血をして──と、必死に頭を働かせる。
「……は、あるか?」
立ち上がろうとしたその時、微かな声が聞こえ、振り返る。彼が何か言ったようだった。
「ピンセットは、あるか?」
再び問われた言葉に、え? と思わず聞き返してしまった。
ピンセット? と脳内で復唱する。
「ピンセット、ですか? 手芸用のならあります、けど」
「そう、か。それで、取ってほしい」
「え、何を──」
私の問いには答えず、彼は呻きながら上体を起こす。
痛みに堪えながらジャケットを脱ぎ、片手でワイシャツのボタンまで外し始めたため、唖然としてしまった。
血で滲む左肩が露わになる。そこはおそらく、銃で撃たれた場所だ。
直後、彼の言わんとしているところを察してしまい、顔が青ざめた。
「いや……待って、ください。取れって、もしかして」
銃弾を? とまで聞けなかった。動揺して言葉を続けられなかったのか、答えを確定したくなかったからなのか。
それでも、言葉で確認せずとも、確信してしまった。
壁に背を凭れ、肩で息をしながら苦悶の表情を呈する彼は、青い瞳をまっすぐこちらへ向けている。それは私が続けなかった問いの、答えを言っているようで。
「や、ちょっ……え……? え……む、無理です。そんなこと、できない」
「……頼む」
「いや、むり、無理です。あっ、やっぱり、病院行きま──」
早く、救急車を。いくらなんでも、銃弾を取り除くなんて私には無理だ。パニックになりかけたまま、立ち上がろうとしたその瞬間だった。
再び胸ぐらを掴まれ、グラリと体勢を崩す。
まだそんな力が残っていたのかと思うほど強い力で引き寄せられ、けれど彼へと倒れ込む前に、咄嗟に壁へと手をついた。自分でも驚く反射神経だった。意図せず壁ドンをする形になってしまい、胸ぐらを掴まれたまま、至近距離で彼を見下ろす。
また首に咬みつくつもりなのかと、身構えたものの。
彼は眉根を寄せて睨み上げるように、揺るぎのない瞳で私を見た。
「頼む。君が取ってくれ。誰も呼ぶな。出来ないなら、このまま此処で、放っておいて、くれないかな」
荒い呼吸の合間で、彼は言葉を紡がせる。最後の方は力が入らなくなったのか、かなり掠れたものだった。私の胸ぐらを掴んでいた手も、力が抜けたようにズルリと落ちる。
肩で息をし、私を睨むように見る瞳も、虚ろなものになっている。
誰も呼ぶな。銃弾を取るか、取れないなら放っておけ、なんて。
放っておいて、治るとでも言うのだろうか。治るのなら、それはもう喜んで放っておきたい。けれどどう見ても、その可能性はゼロに等しい。
「〜〜ッ、む、無理……!」
言葉を吐き捨てて立ち上がる。どう考えても無理だ。医学の知識なんてこれっぽっちもないのに、素人がピンセットで取れるはずなんてない。
履いていた靴を投げ捨てるように脱いで、震える足で室内へ入る。心臓の脈動を鼓膜の奥で感じながら、もつれる足で室内を足早に歩き、衣装ケースの中を漁った。
タオルを何枚か引っ張り出して、今度は作業机の引き出しを開け、持っている全てのピンセットをかき集める。
ほぼ半泣きになりながら、頭をフル回転させた。そうだ、消毒液も、と、思いつくまま室内を駆け回って必要そうなものを手に取り、玄関へと戻る。
呼吸は震えていた。緊張からなのか動揺からなのか、泣いているのか自分でも分からないくらい、感情が昂ぶり、混沌としている。
玄関で頭を垂れている彼は、ほぼ瀕死状態だ。
「と、取れ……っ、取れなくても、ッ、恨まないでくださいね」
どう考えても、誰が見ても何度考えても、無理で無謀な話だ。
それでも、ここで私が腹を括らなければ、彼を見捨てることになってしまう。
彼は虚ろな目で私を見上げると、項垂れるように頷いた。もう頷くほどの力もないのかもしれない。このままだと、本当に死んでしまいそうで。
そんな彼を見ながら、震える肺で大きく深呼吸をし、目を閉じる。
──大丈夫……私は、できる、きっと。たぶん。できる。
必死に、無理やり暗示をかけて、目を開ける。
再度大きく深呼吸し、瀕死の彼に近づいた。
火事場の馬鹿力、とはよく言ったもので、人というのは切迫した状況下だと、思ってもみないような力が出るらしい。
震える手でピンセットを置いた瞬間、ドッと力が抜け、手も足も痙攣するようにガクガクと震え始めた。
床に置いたピンセットから、銃弾がコロコロと転がっていく。ピンセットの先と銃弾から水蒸気が立つ光景を、視界の端で捉えながら、その場にしゃがみ込んだ。
とにかく、必死だった。どうやったのかなんて、直後なのによく覚えていないくらい、必死だった。
止めどなく流れ出る血に対して、涙目になりながら。
ピンセットから伝わる肉の感触に、歯を食いしばりながら。
彼が噛み締めているタオルから漏れ出る、くぐもった痛々しい呻き声に、体が竦みそうになりながら。
震える手を抑えようと、何度も自身に言い聞かせながら。
こんなに神頼みしたことがあるかというくらい、心の中で取れますようにと、念じながら。
一秒一秒が長く感じ、けれど怒涛の時間を過ごした気もするような。時間の流れが分からないほど集中していたのか、パニックになっていたのか―とにかく自分にできる限りの、むしろ、それよりはるか以上のことをやったはずだ。
同じことをやれと言われても、一生無理だろう。寿命も一気に縮んだ気がする。
極度の緊張を強いられたからか、長時間、前屈みでいたせいか、体はガクガク震えて、もう力も入らなかった。息を大きく吐き出せば、震える肺のせいで、出てくる呼気も揺れている。
すぐ目の前で項垂れている彼は、疲れ切った様子だった。俯き、浅く震えた呼吸を繰り返している。麻酔もない状態で、さぞかし痛かったことだろう。
──これから、どうしよう……。
とりあえず、奇跡的に……本当に奇跡的に、銃弾は取れたものの。これから先、どうすればいいのか分からなかった。タオルで強く圧迫したのに、出血は止まらないのか、まだじんわりとシミを作っては水蒸気が僅かに立っている。
このままだと、せっかく銃弾を取ったのに、失血死してしまう。そう思うのに、もう、体が動かなかった。持っている能力以上のことをした為か、全身のエネルギーが枯渇してしまったかのように、ただ呼吸する以外、体を動かせられない。
──結局、助けられないかもしれない……。
放心しながら思ったその時、目の前の彼が動き出した。
立ち上がろうとしたのか、それでも上手く体が動かないようで、グラリと体勢を崩し──そのまま、こちらへ倒れ込んでくる。
「──ッ」
ドン、と、背中を壁に打ちつけ、思わず目を瞑る。
玄関先の廊下は、大人が二人並ぶのもギリギリなほど狭い。そんな狭い廊下で、背はすぐ壁に当たり、けれど前からの衝撃は無かった。
恐る恐る、目を開ける。こちらへ倒れ込んできた彼は、壁に手をついて、その体勢を何とか保っていた。
彼の影が落ちる。見上げた先には、目を瞑って痛みに堪える、苦痛の表情があった。衝撃が傷口に響いたのだろう。激痛が走ったようで、眉を歪めて堪えるその顔に、汗が伝う。
「だ、大丈夫、ですか……?」
距離が近すぎるとか、壁ドンになっているとか、そういうのが気にならないくらい、心配になった。呼吸をするだけで痛むのか、グッと息を殺すように堪えるその表情は、あまりに辛そうに見える。
心配の言葉をかける以外、何もできなかった。しばらくした後、彼は震える肺で息を吐き出すと、静かに目を開く。
サラリと垂れる髪の間から、ゆっくりと開かれた瞳に見下され、ドキリとした。
吸い込まれそうな程、透き通った青色の瞳。切れ長の目に、スッと高い鼻筋。浅く息を殺すように呼吸をする、僅かに開かれた、薄くて形の良い唇。
間近で見て、その端整な顔立ちに息を呑んだ。今まで、それどころではなかったから。まさかこんなに整った顔立ちとは思ってもみなく、驚きから思わず凝視する。
苦痛に歪められたその表情でさえ、どこか美しくも見えてしまって、その麗しい容姿に呆然としてしまった。
「……すまないが、……」
掠れた声で紡がれた言葉は、謝罪の言葉以外、よく聞き取れなかった。え? と聞き返そうとしたその時、ポタリと彼の汗が頬に落ち、反射的に目を瞑る。
次に目を開けた時、彼の顔は目の前になかった。
真正面には廊下の白い壁が見え、その視界の端に、銀色の髪が映る。首元に感じる吐息に、あ、しまった、と直感的に感じ取った。
今度こそ、咬まれる──そう思うと同時に、首筋に歯を立てられる感覚がし、ギュッと目を瞑る。
せっかく助けたのに、その結果がこの仕打ちか……そんな思いと、やっぱり彼は吸血鬼だったんだ、という思いが同時に湧き起こる。
私はきっと、このまま彼に、血を吸いつくされてしまうんだ。そう思っても、体はもう動かせなかった。襲ってくるであろう痛みに、体を竦ませて、じっと身構えることしか出来ない。
けれど、歯を立てられたのは、最初の一瞬だけで。
チリ、と僅かに歯の当たる感触に次いで、冷たく湿った感触が肌を這う。それが舌の感触だと、認識するのとほぼ同時に、ゾクリとした痺れが背筋を走った。
それはまるで、快楽にも似たもので。
甘噛みの合間に舌を這わせられ、たったそれだけであるのに、強くも甘い刺激に体が震えた。
突然のことに困惑したのも束の間、フッと血の気が失せる感覚に襲われる。
あ、落ちる──。
走馬灯を見るでもなく、その感想を最後に、意識がブツリと途切れた。
→
第3話
ふっと意識が上昇する感覚と共に、ゆっくり瞼を開いた。
視野は薄暗い。徐々に合ってくるピントで見えたのは、天井だった。
仰向けの姿勢。背中に当たる感触は柔らかく、ベッドの上で寝ているのだと、脳内で認識し始める。ゆっくり息を吸い込めば、今まで呼吸をすることを忘れていたのかと思うほどに、酸素が体内を巡る感覚を覚えた。
目を開けたものの、自分の置かれている状況を把握できていない。
顔だけで辺りを見回せば、見慣れた寝室だった。部屋は薄暗く、明かりはついていない。
──あれ、今、朝?
そこまで考えて、ハッとした。
もし、朝だったら。今、何時だろう。
脳が一気に働き出す。今の時刻は。アラームが鳴ったのかも分からない。しまった。会社、寝過ごした──!?
携帯の定位置を手で探るも、見つからない。焦りから、勢いよく体を起こした、その瞬間だった。
くらりと視界が揺れ、目の前が暗くなる。
頭から一気に血の気が引く感覚。そのまま、再びベッドに倒れ込んだ。
目を開けているのに、闇で塗りつぶされたかのように視界が暗い。室内の薄暗さとはまた違う、明らかに私の視界の問題だった。目を瞑れば、脳が揺れているような感覚がする。動悸も始まり、体の異変に不安が込み上げた。
──な、に……? 何だろう、貧血……?
不安に駆られる中で、はたと気づく。貧血、と思ったことがきっかけだった。昨日の出来事が次々と思い起こされていく。
そうだ、私は。昨夜、瀕死の吸血鬼──おそらく、たぶん、吸血鬼ではないかと思われる人……人? を連れ帰って。自分でも信じられないけれど、死にもの狂いで銃弾を取り出して。何とか取り出せたと思ったら、首筋を咬まれたのだと、どこか朧げながらも、一連の流れを思い出す。
ゆっくりと目を開ければ、薄暗い室内が視界に映る。
目眩も落ち着いたようだった。どうやら、一時的なものだったらしい。
恐る恐る、慎重に体を起こして、視野が揺れないことを確認する。そっと首筋を触ってみても、咬まれた傷のようなものは指先に触れなかった。鏡を見てみないと、分からないけれど。
──昨日のは、夢、だったのかな。
室内を眺めながらぼんやり思う。
そうかもしれない。きっとそうだ。何せ、あまりに非現実的なのだから。銃に、吸血鬼だなんて。銃弾を取り出すという作業ができたとも、とても思えない。非現実的すぎる。それに、夢かもと思えば、確かに記憶は朧げにも感じる。
今は何時だろう。確認しようと携帯を探すも、定位置に見当たらなかった。充電し忘れたのだろうか。確かに充電器に挿した覚えはなかった。
ゆっくりとベッドから降り、立ち上がる。一瞬、ふらりと倒れそうになった。体は怠く重い。体調は全くもって良くないらしい。
そしてふと、自分の格好に気がついた。
──昨日の服……。
昨日の服を着ている。ということは。昨日、あまりに疲れすぎて、帰るなりベッドへダイブしたか。あるいは、あれは夢ではなかったか。
ふと、寝室とリビングの間仕切りドアを見やった。
寝室とリビングは、スライド式の間仕切りドアで区切られている。間仕切りドアはすりガラス調であり、奥のリビングも暗く、電気がついていないことが窺える。
けれどそんな暗闇の中で、チカチカと点滅する光がすりガラスに反射していた。
それはまるで、暗い部屋にテレビがついているような、多色で不規則な光。昨夜、テレビを消し忘れたのだろうか──。
どこか緊張しながら間仕切りドアへ静かに近づき、引き戸に手をかけ、そっと横へずらす。
「起きたようだね。おはよう」
人影が視界に入ると同時に、声が耳へと届いた。ソファーに座るその人が、顔だけこちらへ向けて言う。
そこに居たのは、夢で見た彼だった。いや、もう目の前に居るという事実で、夢ではなかったことが確定したのだけれど。
銃で撃たれて瀕死なところを連れ帰ってきて、私の首に咬み付いてきた吸血鬼……なのかもしれない、と思われる人が、我が物顔でうちのソファーに座っていた。
テレビがついていることから、直前まで観ていたのだろう。人の家のテレビを。
その光景は、如何せん、奇妙というか。昨日会ったばかりだというのに、あまりに自由気ままというか。ごく自然にソファーで寛いでいる姿は、まるで元からこの部屋の持ち主ですよ、と言わんばかりのもので。
脚を組んで優美に座るその姿は、何となく様にもなっていて、常識という境界線を曖昧にさせられる。
「あ……どうも……おはよう、ございます。生きてたんですね」
寝起きの掠れた声で挨拶をする。言ってから、言葉選びをもう少しどうにか出来なかったかと、自分でも思った。
生きていたんですね、って。少なくとも、安堵から出た言葉なのは確かだった。昨夜の出来事が現実だというのなら、彼があのまま死ななくてホッとしたのが本音だ。
「……良かったです」と、取り繕うように加えれば、彼は苦笑を溢す。
「お陰さまで。貴女のおかげで助かったよ」
耳触りのいい、テノールの声。口調も言葉遣いも、昨夜のものよりだいぶ落ち着いたもので、思わず面食らってしまった。
貴女、と異性から言われる機会も滅多にない気がする。
昨夜はそんな呼び方をされなかった気もしたけれど、そう考えると全てにおいて印象が違った。
口調もそうであるし、表情も。生きるか死ぬかの瀬戸際で、余裕がなかったことも、もちろんあるだろう。昨夜は胸ぐらを掴んできたり、首に咬みついてきたりとどこか乱暴だった様子も、今はそんな素行の面影すらない。
ソファーで脚を組んで座る彼は、落ち着いた、むしろ品格すら感じる雰囲気が滲んでいる。
「貴女は? 体調はどうかな」
突然問われ、心臓が跳ねる。
「え、あ、体調? 私は大丈夫です、たぶん」
言いながら、いや大丈夫でもないかも、と内心で訂正する。何となく首筋を擦りながら、起きがけの貧血のような症状を思い出していた。同時に昨夜、首筋に歯を立てられたことも思い起こす。
──というより。彼は本当に、吸血鬼なのだろうか。
そうは思うも、直球で聞くのを躊躇った。正確には、若干、困惑していた。自室よろしくソファーで寛ぐ、昨夜会ったばかりの彼を前に、どうすればいいのか分からずにいた。
遮光カーテンを閉め切っているからか、室内は薄暗い。
いくら遮光カーテンといっても、日中晴れていたら、隙間から外の明かりが滲みこむ。
カーテンの隙間から陽の光が入ってこないことから、外は曇りなのか、夕方以降なのか。音量のほとんど出ていないテレビから放たれるチカチカと点滅した明かりが、室内をぼんやりと照らしている。
テレビを見やれば、お昼のバラエティ番組が流れていた。なるほどどうやら、外が暗いだけで昼時らしい。
──なるほどどうやら、昼時、らしい。
「え、お昼……? やばい、仕事!」
完全に遅刻だ。しかも無断である。
サッと血の気が引く。次の瞬間には、焦りから体温が上昇した。忙しなく動き出した心臓が、全身に勢いよく血を送り出す。
嫌な汗が滲むのを感じながら、まず会社に連絡しなければ、と携帯を探し始めようとした。その時。
「貴女の会社へは連絡したよ」
飛んできた言葉に、ピタリと動作を止める。「え?」と疑問をそのまま溢して、声の方を見れば、ソファーに座る彼は、携帯を持つ手を軽く振ってみせた。
彼の手にあるのは、間違いなく私の携帯である。
「……え? あ、それ、私の携帯……」
「朝、貴女の携帯のバイブ音が煩くてね。あまりにしつこいから勝手に見させてもらったのだけど、同僚からかな。無断欠勤で上司がかなり憤慨している、とのメッセージが何度も入っていたよ」
「エッ」
それはかなりまずい、と顔が青ざめる私をよそに、彼は淡々と続ける。
「今日は体調不良のため休むとその上司に伝えてくれ、と言ったんだが、直談判しろとの一点張りでね。だから仕方なく、直接会社へ電話させてもらった」
そう淡々と、何ともなさげに話すものだから、頭がついていかない。
「は……? え、電話、したんです? 私の携帯で? 私の勤め先に?」
「ああ。身分証、カバンから拝借したよ。結論を言うと休ませてもらうことになったから。安心していい」
簡潔に言った彼は微笑をたたえる。それはそれは、綺麗なご尊顔で。
色々と突っ込みたいところだらけで、頭の整理が追いついていない。
勝手に私の携帯を開いて、勝手に会社を休むと連絡して。それは一般常識的に如何なものなのか、とか。というより、携帯はいつの間に充電されていたんだ、とか。
そもそも、どうやって私の携帯を開いたんだ? ロックはかけているはずなのに。とか。
結果的に休ませてもらうことになったとはいえ、その過程は? とか。疑問ばかりが頭の中を駆け巡る。
大体、あの理不尽極まりない上司が、そう簡単に承諾するとは思えなかった。初めての無断欠勤に対して、私の心配より憤慨が先に立つくらいだ。快く休暇をくれたとは思えない。
「まって……まって、ください。幾つか確認したいことが」
「何かな」
「え、あの、上司……怒ってませんでした?」
「ああ。随分と感情的だったね」
「あ、ですよね。その、よく許してくれたなぁ、って……」
まさか、ごり押し一点張りで休みを勝ち取ったわけではあるまいな、と不安が過ぎる。社畜はできる限り波風立てずに生きていきたい。これ以上、環境ストレスが増えては困る。
そんな私の意図を汲み取ってか、「なるほど?」と言った彼は、片眉を上げて苦く笑った。
「俺が下手な言い訳をしていないか、ご心配のようだね」
「や、その……」
「ああいう感情が先立つタイプは、論理的に筋の通ったことを淡々と告げればいい。おまけに、貴女の会社は大分ブラックだろう? 法的な部分も引き合いに出さないと分からないみたいだったから、助言も兼ねて丁寧にお伝えしておいたよ」
にっこりと、完璧なまでに整ったご尊顔で美しく微笑む。
それはただ美しいだけじゃない。その表情の裏に、逆らえないような風格を感じるような。絶対的な自信、それに伴った格の違いを肌で感じさせられるような、畏怖の念を抱かせられるもの。
ああなるほど。これはきっと、電話越しでも同様に感じるだろう。随分と弁も立つようであるし。法を引き合いに、助言、というよりほぼ脅しだったのではないかと、想像に難くなかった。
「そう、でしたか。それはありがとうございました……」
力なくお礼を言えば、「どういたしまして」と微笑みが返ってくる。
お礼を言ったものの、私の許可なく勝手に欠勤させられたこの状況は、良かったのか悪かったのか。
それよりも、この状況がいまだに飲み込めていなかった。飲み込めていないというより、現実味がない。なぜ私は、これほどまでに自然と会話をしているのだろう。得体の知れない、目の前の彼と。
そんなことをぐるぐる考えていれば、渦中の彼は「それで?」と口を開いた。
「他に質問は?」
「え?」
「確認したいこと、幾つかあると言っていたから」
そう言った彼は小首を傾げる。そんな彼を見ながら、やはり少々困惑した。
何に対して困惑しているのかは自分でもはっきりしない。昨夜とは別人のような雰囲気に困惑しているのか、他人の部屋でも平然としている彼の様子に気後れしているのか。
そもそもなぜ彼は、こんなにも普通なのだろう。昨夜のことも、彼の存在自体も──もし仮に吸血鬼なら──全くもって普通ではないのに。
一通り頭の中で逡巡するも、段々と考えること自体に疲れ始めていた。そもそも、昨夜から頭なんてまともに働いていない。
考えを巡らせるのも面倒になってきて、「あの」と口を開いた。
「単刀直入にお聞きしたいんですけど」
「どうぞ」
「お兄さんって、何者ですか? 人間……じゃないですよね?」
「へえ、例えば?」
「例えば? た、例えば……吸血鬼、とか」
言おうか悩みつつも、思ったことを口にした。音にしてみると、何とも非現実的な質問。もう既にこの状態が私の常識を逸脱しているのだから、その非現実的な質問も、さして問題ないように思えた。
私の質問に、お兄さんは目を丸くしている。そのキョトンとした表情を見て、あれ、もしかして突拍子もない質問をしてしまったのでは? と常識的な考えが不安を連れてくる。
しばらく呆気に取られた様子の彼は、ふ、と吐息を溢すと、そのまま噴き出すように笑った。
「ははっ。確かに、単刀直入だね」
そう言った彼は、口元に手を添えてくつくつと笑う。
その姿を見て、場違いの質問をしてしまったかのような、羞恥心が込み上げた。
あれ、やっぱり吸血鬼なんて、非現実的すぎたかも……と、脳の片隅で理性が囁く。
ひとしきり笑った彼は、ふぅ、と息を吐いた。
「失礼。貴女があまりに率直だから」
「……」
「なぜそう思ったのか、理由を聞いてもいいかな?」
まさかの質問返し。しかも、理由を述べよ、なんて。
なんだろう、この……まるで上司を前にした時のような心地は。ここは私の家であり、仮にも彼を助けた身であるのに──あまり恩着せがましくなりたくないけれど──上下関係を感じさせられるような、この雰囲気は。どことなく釈然としない気持ちにさせられる。
彼は前屈みになると、組んだ脚の上で頬杖をついた。その拍子に、髪がサラリと垂れる。
その所作一つ一つでさえも優美に見え、不意に見惚れてしまいそうになるのが、何となく悔しい気もする。
「なぜって、昨夜の現場を実際目にしてるんですよ。お兄さんが瀕死だったところも、貴方から出た血が、その、蒸発したところも。普通じゃ有り得ないじゃないですか。私の首にも咬みついてきたし……咬みついてきましたよね?」
思わず質問するも、彼は目を眇めるだけだった。その様子を見て、更に不安になる。
まさか全て私の夢だったとか、そんなオチの可能性も無くはないのでは?
「それに、言われたんです。貴方を撃った人から、『お前も吸血鬼か?』って。吸血鬼だなんて最初は聞き間違いかと思ったんですけど、でも昨日のことを考えると……あまりに普通じゃなさすぎて……」
並べた言葉は言い訳のようにも聞こえる気がして、心許なくなった。段々と語尾が弱くなってしまう。
ただ事実を述べているだけなのだから、言い訳ではないのに。こちらを真っ直ぐ見てくるその青い瞳に、どことなく圧を感じるからかもしれない。昨夜の記憶に対して急に自信が持てなくなり、視線が泳いでしまいそうになる。
一通り聞き終わった彼は唇に笑みを乗せると、「へぇ」と呟いた。
「随分と、冷静に分析できているじゃないか」
「はぁ……そう、でしょうか」
「異質なものを目の当たりにして、普通は怖れ、忌避するものだと思うけど。貴女は俺のことが怖くなかったのかな?」
「え? それは──」
「それとも、怖れより、物珍しさに興味をそそられたとか?」
私の言葉に被せた彼は、薄く笑みをたたえる。そんな彼を視界に入れながら、言われた言葉の意味を反芻した。
彼が何を言いたいのか、よく分からなかった。昨夜から、思考能力なんてとっくに限界を超えているのに。
いまだに困惑しているのだ、この状況に。それなのにこの、如何せん回りくどい言葉の意味を察するほど、頭が上手く働かなかった。
けれど彼の、微笑に気位の高さが滲むような相貌が。
回りくどい言い方と、質問を質問で返してくる、この会話が。
どことなく高慢さを感じ、やはり釈然としない気持ちが胸の奥に広がり出す。
「あの、何が言いたいんですか? 尋問されているような気持ちになるんですけど」
出た言葉は、自分でも分かるくらいムッとしたものだった。言いながら、やっとこの釈然としない気持ちの正体を知る。
人があんなに、死物狂いで助けたというのに。何なんだろう、彼のこの高慢な態度は。
まるで人を試すかのような言い方。そのことに、失礼だな、と憤りを感じたのだ。
やっと言語化して整理してしまえば、困惑よりも腑に落ちない思いが込み上げる。
「……あの、元気になられたようですし、もう帰ってもらって大丈夫ですよ。心配しなくても、昨日のことは他言しないので。巻き込まれたくないですし」
一度静かに深呼吸をした後、なるべく冷静に言葉を紡いだ。
お兄さんを真っ直ぐ見据えれば、彼もまた、静かにこちらを見やる。その顔に、微笑はない。
互いの視線が交わったまま、沈黙が落ちた。音の出ていないテレビの明かりが、チカチカと視界に点滅する。
彼は真顔のまま、僅かに目元を細める。ゆっくり息を吸い込むと、こちらを見据えたまま、音を殺すように吐き出した。彼の肩が静かに下がる。
「……悪かった。試すような言い方をして。ただ、確かめておきたかっただけなんだ」
そう言って、小さく苦笑を溢した。まさか先程の、どこか高飛車な態度から謝罪の言葉が出てくるとは予想もしていなく、思わず面食らう。
謝られてしまえば、これ以上、思いの丈をぶつける気持ちも萎み、「いえ……」とぼそりと呟く。
「そう、ですね。あの、回りくどい言い方は分かりにくいので。はっきり言ってもらえると助かります」
「そうするよ。では、本題なんだが」
えっ? と思わず口から疑問が飛び出そうになった。すんでのところで抑え込む。まさか本題があったとは思わず、身構えた。
彼は、脚を組み替えて背筋を正す。凛と座るその姿勢は、やはり品格の高さを窺わせるものに見えた。
「俺と、取引をしないか」
口元に、ほんのりと笑みを乗せて。こちらを真っ直ぐ見る、その整った顔を見ながら、呆然とした。
「え……? なっ……え? 取引、ですか?」
思わず間の抜けた返事になる。彼は「ああ」と頷いた。
「こちらの要望としては、しばらく此処に滞在させてほしい。生憎、まだ本調子には程遠くてね。昨日貴女も見た通り、どうやら俺を狙う輩が居るらしいから、この状態であまり外を出歩きたくはないんだ」
淡々とされる説明を聞きながら、頭の中は思考が入り混じっていた。
此処に滞在……? 此処、とは、うちのこと? ということは、なんだ。同居ということだろうか。居候というか。そう思いつつ、彼を狙う輩、という言葉に、昨夜のあの男を思い起こす。
そういえば、昨夜はあの人のことにまで気が回らなかった。あの人はやっぱり死んでしまったのだろうか―。
そんなことをぐるぐる考えているうちにも、彼は先の言葉を口にする。
「滞在はそうだな。3週間は見積もらせてほしいかな」
「3週間……3週間は居候させてほしいということですか?」
聞き返せば、彼の眉がピクリと歪められた。まるで、心外だとでも言いたげなもの。その直後、ソファーから腰を上げたため、思わず肩が跳ねる。
こちらへ近づいてくる彼を見ながら、しまった、何か気を悪くさせてしまったかも……と怖気づいていれば、私の目の前で立ち止まった彼は、ジャケットの内ポケットから何やら取り出した。
薄めの財布のようだった。そこから出した黒いカードを、ずいっと差し出されたため、つい受け取る。
「俺が滞在している間、好きに使ってもらって構わない」
「……え」
「食費でも娯楽費でも、何にでも使ってもらっていいから」
唖然としてしまった。見上げれば、薄く笑む彼と目が合う。
頭がついていかないまま、手元へと再び視線を落とした。漆黒のカードに、シルバーの印字がされている。
実際に持っていない私でも分かる。
これは、あれだ。お金持ちが持つ、世にいうブラックカードというものだ。
「なっ……まさか、カードを渡してくるなんて」
「現金の方がいいかな?」
「や、違いますそういう意味では」
「そういえば、助けてもらったお礼もしなくてはね。そちらは言い値で払うよ。このカードは、あくまで俺の滞在費として渡しているだけだから」
「はい……?」
「居候にはなりたくないんでね」
狼狽えて大した言葉を発せない私に、彼はどんどん話を進めていく。最後の言葉から、どうやら私が出した『居候』というワードが気に入らなかったらしい、ということは分かった。
「えーと……ということは、つまり。ホテル代わりにうちを使いたい、ということですか?」
「まあ、要約すると」
「あの、すみませんがお断りします」
無理だと思った。こんな、態度も佇まいも貴族のような──言い方を変えれば気位の高すぎる──御仁と、一緒に住めるとはどうしても思えなかった。しかも3週間も。
第一、彼をどこで寝かせるというのだ。ベッドはシングルベッド一つしかない。ソファーもあるけれど、この貴族出身のような御仁をソファーで寝かすと……?
どう考えても、私がソファーで寝ることになりそうで、申し訳ないがご勘弁いただきたい案件だ。
「その、うちは見ての通り狭いので。快適に過ごせないかと」
「それは別に構わないよ」
「いや、あの……第一、昨日会ったばかりの男の人と一つ屋根の下、というのはちょっと……」
「確かに。その言い分は最もだ。だが」
彼は軽く腰を屈める。突然、目線が近くなり、どきりと心臓が跳ねた。
こちらを覗き込むように見てくるその端整な顔出ちに、息を呑む。けれどそれも束の間、その青い双眸に見据えられた瞬間、ゾッと体が竦んだ。
その獲物を見据えるような、冷たく射抜く瞳を見て。
あ、この人に逆らうとまずいかもしれない―と。本能的に察知する。
「貴女の目の前に居るのは何なのか、今一度、考えてから検討してほしい。俺の正体を知られても尚、貴女には敬意を払っているつもりなんだ。これでもね」
また、回りくどい言い方。それでも今回は、その回りくどさが余計に冷酷さを表しているように思えた。
穏やかな口調であるのに、こちらを射抜く瞳に恐怖を覚える。青、という寒色がそう思わせるのか。その瞳は冷たく、無機質にも見えて。
その上まるで、こちらの心の内まで見透かされるような。臓腑がぎゅっと縮みこみ、背中に冷たいものが走る。
先程はこの相手によく憤りをぶつけられたな、と、後悔が襲ってくるほどの、畏怖の念が込み上げる。それは、本能的に危機感を覚えるもの。
ここで断ったのなら、口封じに殺されそうだと、直感的に思った。
「どうかな?」
そう言った彼は、にこりと微笑んだ。その瞬間、肌に感じていた冷たい圧のようなものが、フッと解ける感覚を覚える。
息を短く吐き出す。無意識のうちに呼吸を潜めていたらしい。ゆっくり息をすれば、肺が震えていた。
「……分かり、ました。お兄さんの要求は呑みます。ただ、取引というなら、こちらからも要望を」
お腹に力を入れて、震えそうな呼吸を堪える。
同意する他なかった。あんな危機感を覚えてしまえば。
それでも相手の要求ばかりは呑み込めない、と、意を決して口を開いた。
彼は片眉を軽く上げると、「何かな」と先を促す。
「お兄さんを助けたお礼というのは、別にいらないです。お金が欲しくて……下心とかがあって助けたわけでは、ないので。あと、カードも。怖いので」
「怖い?」
「上限のないような、湯水の如く使えるカードを渡されても困ります。失くすのも怖いですし、その他諸々とか」
カードを失くす可能性があるのも怖いけれど、どちらかというとその他諸々の方が怖かった。
使っていいよと言われたのを真に受けて、使ってしまったその後の可能性が怖い。
もし、後から付け込まれたりでもしたら。やっぱり後から払え、だとか、払えないならと、他の条件を出されでもしたら。
もし万が一そうなった時、路頭に迷いそうで恐ろしすぎる。
「なので、そういう過剰なものはいらないです。ただ、そうですね……お兄さんがうちで滞在する間に必要なものは自分で買ってください。衣類品とか、消耗品とか、食費とか──」
言ってから、ハッとした。
食費。食事のための費用。彼の、食事、とは。
お兄さんの目が、微かに見開く。「食費」と、彼は呟いた。
「あ、いや、違います、その。というか、お兄さんの食事って、」
「なるほど。承知したよ。きちんと見合う額を支払えばいいというわけだ」
お兄さんは屈めていた腰を戻すと、私を見下ろす。
唇に勝気な笑みを乗せて、ふっと笑うその端整な顔立ちは、つい見惚れてしまいそうになるもの。しかしすぐさま我に返り、食費の部分は訂正しようと、口を開きかけた。
けれど伸びてきた手に、驚きから言葉を呑む。
そっと顎に指先を添えられ、誘導されるまま顔を軽く上げた。
彼の視線が、私の首筋へと落ちている。
「さすがに、今日はまだ無理か」
微笑をたたえたまま、彼は独りごちた。
何が、とは聞けなかった。聞かなくても察してしまった。
それより、食費の部分を訂正しなければ。頭ではそう思っているのに、口に出すまでのタイムラグが生じてしまい、その僅かな間に先手を打たれることとなってしまう。
「いいだろう。取引成立だ。これからよろしく」
不敵に笑う彼に対し、今さら訂正できる雰囲気ではなかった。
うんともすんとも言えずにいたものの、彼は私の無言を肯定と捉えたようで、満足げな表情をするとソファーへ戻っていった。
「ああ、そうだ」
彼はソファーへと向かう最中、ふと何かを思い出したようだった。横目でこちらを見やると、口を開く。
「貴女もしばらく家から出ないほうがいいんじゃないかな。昨日のあの男、生きている可能性があるから。見つかったら殺されるよ」
→
第4話
昨日の、あの男。心許ない街灯に照らされた公園で、銃を向けられた光景がフラッシュバックする。
その男が生きている。彼は確かにそう言った。
「生きてる……?」
思わず聞き返す。ほとんど独り言のようなものだった。
昨日、見た感じではもう呼吸していないように思えたのに。もしあの時まだ生きていたとしたら、私は救急車も呼ばず、あの人を見捨てたことになる。
けれど、その罪悪感よりも。銃を向けられた光景が鮮明に甦り、あの男が生きているかもしれないということにショックを受けた。
あんな物騒な人が、生きているかもしれない、なんて。
「今の時点では可能性がある、くらいのものだけどね」
声が耳に届き、ハッと我に返った。同居の取引を結んだ彼は、我が物顔でソファーに座る。
「公園に死体が転がっていたら、ニュースになってもおかしくないだろう。そう思って朝から確認しているが、テレビで放送されていなければ、ネットニュースにもなっていない」
彼は脚を組み、その膝に頬杖をついてテレビを見やる。音のないテレビから放たれる光が、チカチカと彼の横顔を照らした。
「おまけにパトカーのサイレンも全く聞こえてこないしね。事件があった割に静かすぎる。それなら、あの男が生きていて、公園から移動したと考えるのが最もだろう」
仕留め損なったな。と、彼は苛立ち気味に吐き捨てる。舌打ちしそうな勢いだった。その横顔も、声色通り不愉快そうなものだ。
「あの、見つかったら殺される、というのは」
恐る恐る疑問を口にする。彼は横目で私を一瞥した。
「そのままの意味だよ。奴らは普通じゃないし、執念深い連中だ。濡れ衣だとしても、一度ターゲットとして認識されたなら、見つかったら殺される前提で考えた方がいい」
彼は軽く肩を竦めながら、淡々と言った。日常会話の延長線のように、ただ淡々と。けれどその内容は、日常会話からは程遠い。
言葉が何も出てこなかった。というより、受け入れきれていなかった。意味が分からない。突然、死刑宣告をされたかのような。頭の中は混沌としていた。
私が何も言わないからか、お兄さんは顔をこちらへ向ける。苦笑に近い表情で、片眉をくいと上げた。
「心配しなくても、回復したら俺が片付けるよ」
そう言って、再びテレビへ向き直る。
「俺を撃ったこと、絶対に後悔させてやる」
忌々しげに呟いた言葉は、独り言のようだった。そんな彼の言葉を耳で受け取りながらも、胸中ではやっぱり困惑していた。
回復したら、というのは、一体いつの話だろう。それまで家から出ないで生活するというのは無理がある。私には私の生活があるというのに。
昨日までは確かに、同じ日常の繰り返しにうんざりとしていた。全てを投げ捨てて、日常から逃れたい。確かにそう思っていたけれど。
でもそれは、命の危機と隣合わせのような日々を送りたい、というわけではないのに。
それからは、もうこの話は一旦終わりになった。私自身、内容を完全に受け入れられていない、ということもあり、彼とこれ以上話し合うこともできない。
会話もほとんどしなかった。お兄さんの名前が『長義』ということを知ったぐらいで──その見た目にそぐわない名が、偽名なのかは定かでないけれど──会話のラリーも続かない。腹ごしらえにカップ麺を啜っていれば、怪訝そうな顔を向けられたくらいだ。
長義さんはソファーに座ってテレビを眺めていたり、携帯を弄ったりしていた。
私は私で、いまだに身体は怠く、軽くシャワーだけ浴びて早々に寝ようとした。
けれどふと、昨夜の後片付けが気にかかって玄関へ向かう。
玄関はさぞ荒れているだろうと、そう思ったものの。
そこには血の跡も無く、一見していつも通りの玄関だったのだ。パッと見た時、あれ? と思ったくらいだ。昨夜のあの怒涛の時間は、夢だったのではないか、と。
しかし、端に纏められているものを見て、その考えは否定される。タオルと、ピンセット類。綺麗に畳まれたタオルの上に、ピンセットが置かれている状態だった。私がまとめた覚えはないのだから、長義さんだろう。
それらには一切、血はついていない。
そして少し離れたところに、銀色の光を放つ物が放置されていた。
銃弾だった。映画や写真でしか見たことがなかった物が、自宅に転がっている。
水蒸気となって消え失せた血液。タオルとピンセット。転がる銀色の銃弾。
ああやっぱり昨夜のことは夢ではなかったのだ、と、このときに再度、確認することとなった。
翌朝、怠さの抜け切らない身体を叩き起こし、仕事へ向かう準備を始めた。
家から出ないほうがいい、と言われたところで、会社を休むという選択肢をどうしても取れなかったのだ。社畜精神だろう。それにまだ、私の中で受け入れきれていないということもあった。
長義さんは朝が早いようで、私が起きた頃にはすでにソファーでテレビを眺めていた。結局、貴族出身のような彼をソファーで寝かせることになったけれど、文句が飛んでこなかったため良しとする。
一人暮らしだった部屋に他人が居るのは、違和感でしかなかった。けれど忙しい朝、そんなことに気を取られている暇もなく。元々この部屋の主です、みたいな風貌で寛ぐ彼を視界の端に入れながら、慌ただしく準備を進める。
「俺は昨日、忠告したはずだけど」
声をかけられたのは、玄関で靴を履いている時だった。後ろから突然声をかけられ、勢いよく振り向いてしまう。
今まで話しかけもしてこなかったのに、ご丁寧にも見送りに来てくれたのか。
長義さんは壁に軽く凭れ、腕組みをしてこちらを見ていた。
「言ったはずだよ。家から出ないほうがいいと」
長義さんは眉をひそめている。
そうは言っても、と内心で反論してから、口を開いた。
「……仕事は休めないので」
理由を言えば、沈黙が落ちた。
しばらく会社を休むなんて、そんなこと出来るはずがない。クビになったらそれこそ生活が出来なくなるのだから。
長義さんはじっとこちらを見た後、小さく溜め息をつく。
「分かった。どうぞご自由に」
やれやれと言いたげな身振りをした後、彼は居間へと戻って行った。
見るからに呆れたような態度だった。そんな態度、わざわざ取らなくてもいいのに。
胸のモヤモヤを紛らわすように私も溜め息をついて、玄関を出た。
家を出れば、命を狙われる可能性がある。長義さんはそう言っていたけれど、実際に朝日を浴びながら―途中、犬の散歩をする人が、何事もない様子であの公園から出てくるのを見ながら―駅まで歩き、通勤ラッシュの電車に乗り込めば、すっかり日常へと戻っていた。
人の多い車内、電車の揺れる音、流れる景色──全てが、今まで通りの日常で。一昨日の夜からの出来事は夢だったのではないかと、そう錯覚するくらいだった。
唯一違ったのは、会社の上司の態度くらいだ。若干、というくらい些細なものだけれど。相変わらず、私の体調など気にかける素振りも見せず、嫌味ったらしいのはいつも通りだ。
しかし、思ったより理不尽な言葉が飛んでこなかった。休んだことをネチネチと、それはもう粘着質に言われるかと身構えたものの、予想よりあっさりしたものだったのだ。もしかすると、長義さんの電話効果かもしれない、とふと思う。
けれど日常と違ったことはその一瞬だけで、決められた仕事をこなし、いつも通り昼食で息抜きをして。また午後も同じように仕事をすれば、命の危機があるなんて思えなかった。
決められたレールの上を走るように、普段通りの一日が過ぎていく。
定時になり、さすがに今日は残業せず、最寄り駅からもタクシーを使うことにした。ただ、毎日タクシーを使うわけにもいかないから、何かしら考えないといけないと思うと少し面倒なのはある。
そんなこんなで、拍子抜けするくらい何事もなく帰宅した。けれど自宅の前まで来て、思わず立ち止まる。
このドアを開ければ、いつもの一人暮らしの日常ではなく、長義さんが居るという非日常が再開する。そう考えるだけで、一気に疲れた気がした。私は彼の、あの気位の高い態度がどうにも苦手だ。
はぁ、と重い溜め息を吐いて、鍵を差し込む。ドアを引いて玄関へ入れば、今朝と同様に男性物の靴があり、彼の存在を再確認して肩を落とす。
「ただいま帰り──」
ました、と最後まで言わずに言葉を切る。不意に、いい匂いが漂ってきたからだった。温かみのある、美味しそうな香りが、鼻先を掠める。
靴を脱ぎ、まさか、と思いながら廊下を歩く。
部屋のドアを開け、ダイニングキッチンを覗き込めば、その『まさか』な光景に目を丸くした。
「おかえり。早かったね」
キッチンに立つ長義さんはそう言うと、鍋から視線を上げてこちらを見た。ただこちらへ視線を向けただけの、笑みもない、無表情に近いもの。
クツクツと煮立つ音と、換気扇が回る音。充満する美味しそうな香り。彼が持つお玉はゆっくりと回され、鍋から湯気が立っている。
それはどこからどう見ても、長義さんが料理をしている姿だった。
思わず唖然としてしまう。何も言葉を発せずにいれば、彼は訝しそうに眉を歪めた。
「何かな。そんなにまじまじと見て」
「あ……いえ、その。料理してるの、びっくりしちゃって」
本音がそのまま口をついて出る。ほんの少し近づき、恐る恐る鍋の中身を見れば、野菜などの食材がコトコトと煮込まれていた。
まさか彼もこういう物を食べるとは思わず、驚きに拍車がかかる。まるで、人間のような……もしかして本当は人間なのでは? と、ふと疑問が過るほどだった。
「長義さんも、こういう食事するんですね」
「俺が?」
「はい。食べるから作ってるんですよね?」
「これは貴女の分だよ」
サラリと言い放ったその言葉に、ますます唖然とする。
「えっ?」と疑問も口から溢れれば、彼は小さく溜め息をついた。
「昨日思ったんだが……まさか、普段あんな物ばかりを食べているんじゃないよな」
「あんな物? ああ、カップ麺ですか?」
「そう、それ」
指摘され、言葉に詰まる。いつもという訳ではないけれど、高確率でお世話になっている。
「いつもじゃないですけど……」口から出たのは、まさに言い訳だった。
「まあ、いいけど」彼は鍋をかき混ぜながら言う。
「冷蔵庫にはほとんど入っていなかったからね。そんなところだろうと思ったよ」
「……」
返す言葉もない。何なんだ、この親と子のような会話は。
一昨日会ったばかりの他人に、ここまで言われるなんて。釈然としない気持ちが胸に広がり始める。けれど、そうは言っても料理をしてくれているのだ。わざわざ、私のために。
鍋の中を覗けば、色鮮やかだった。ブロッコリーに、にんじん、きゃべつ、じゃがいもとソーセージ、ベーコンまで入っている。ポトフだろうか。
確かにカップ麺とは比べ物にならないくらい、栄養面が考えられている。
「そういえば、買い物に行ったんですか?」
食材を眺めながら、不意に思った。どれも、うちの冷蔵庫には入っていなかったはずの食材だ。
長義さんは、「いや」と首を横に振る。
「ネットスーパーだよ。まさか、こんなに早く届くとはね。便利な世の中になったものだ」
そう言った彼は、ふ、と口元に笑みを滲ませた。鍋に視線を落とすその横顔は、どこか記憶を辿るようなものにも見えて。
彼が本当に、人間ではないのなら。一体、どのくらい生きているんだろう。
そう疑問が湧きつつも、あまり深入りしないために聞かないでおいた。
「……食材、いくらかかりましたか? 支払います」
「いや、別にいい。大した額でもないしね」
「でも、私のために買ってくれたんですよね?」
「俺のためでもあるかな。貴女にはちゃんと栄養を取ってもらわないと、俺が困る」
長義さんはこちらを見やる。
微笑を乗せたその表情を見て、彼の言わんところを察した。
「これは、俺の『食費』に該当するものだから」
彼はにっこりと微笑んでそう言った。
彼の言う『食費』という単語を聞いて、我に返った。同時に、腑に落ちた部分もある。それはそうだ。私の栄養面を純粋に心配するわけがない。
本当に彼は、私の血を吸うつもりなのだろうか……そう思って身構えていたものの、この日も、その翌日も、更にその翌日も全く兆候がなかった。
その上、やはり彼は人間の食事を取らないらしい。作ってもらった食事はどれも私のためだけのもので、彼が口をつけるところを一切見なかった。
私が食事を取っている間、彼はテレビを見るか、携帯を見るか。最近はパソコンを自費で買ったらしく、時々カタカタとキーボードを鳴らしていた。私の栄養面より、彼の栄養面の方が気になり始める。
とはいえ、自ら「血、飲みますか?」なんて言えるはずもなく。彼にその気がないなら、まあいいか、と思っていた。
いつも通り仕事をして、何事もなく帰宅する、を繰り返して。やっと週末を迎えることができ、明日は待ちに待った休日だ。といっても、初めて長義さんと一日過ごすことになる。
この数日、ほとんど会話らしい会話もしなかった。顔を合わせるのは朝と夜、という生活もあるだろう。
そもそもお互いにあまり深入りせず、間仕切りドアを閉めてリビングと寝室を分断してしまえば、互いの空間で各々が生活をするという状態だった。それぞれの部屋から廊下には出れるため、トイレも浴室へ行くにも困らない。ただそれが、日中一緒にいるとなるとどうなるか分からず、不安はある。
不安はあるけれど、とりあえず明日になってから考えよう。そう思い、間接照明だけをつけて、ベッドに潜り込んだ。
仕事の疲れもあって、意識はあっという間に沈んでいく。いつもなら、朝まで起きることもない。
それなのに、この日。なぜか、ふっと意識が上昇した。
あ、目が覚めちゃった、と頭の片隅でぼんやり思う。
薄目を開ければ、間接照明の僅かな明かりを感じ、そのまま目を閉じた。まだ、もう少し寝ていたい。今ならすぐ眠りにつけるはず……と、意識を手放そうとする。
しかし、不意に違和感を覚えた。何に、というのは分からない。
直感的に感じ取った違和感を、確かめるように。再び静かに目を開け―息を呑んだ。
誰かが、目前にいた。
その『誰か』は私を見下ろしている。
それが一体、『誰』なのか。この状況は一体、何なのか。
これは夢なのか。
突然のことに悲鳴も出ず、驚愕と困惑が入り混じり、声も出せなかった。
ただただ、私を見下ろす『誰か』を注視する。間接照明の明かりが、その人をぼんやりと照らしていた。
その人も目を見開いて、驚いているような表情をしている。
一体、何──とそこで、その人の顔を、やっと脳が認識した。
──え、嘘。なんで……。
混乱しかけたその時、彼は人差し指を自身の口元に当てる。
静かに、とのジェスチャーを視界に捉え、反射的に唇を引き結んでしまった。従う必要など、無いはずなのに。
私が口を結んだことを確認すると、彼は静かに上体を起こした。
離れていく彼の姿を見ながら、頭は混乱し、段々と状況を把握し始めた心臓は早鐘を打ち出す。
──寝込みを、襲われそうになっていた。ということ、だろうか……?
いまだに現状を理解できていない。ドッ、ド、と心臓が痛いほど胸の内を叩いている。
ベッドの端に座る長義さんは、項垂れていた。
「な……なに、なんで、」
寝起きの言葉は掠れに掠れていた。
私も上体を起こし、彼から離れるように後退る。
そうはいっても、ベッドの上では距離の取りようがなく、掛け布団を引っ張って、彼との間に少しでも壁を作ることしか出来ない。
長義さんは額に手をあてがい、相変わらず項垂れたままだ。
「……すまない」
やっと口を開いたかと思えば、謝罪の言葉が飛んでくる。
訳が分からなかった。頭を垂れる彼は、見るからに落ち込んでいるようで。そんな彼に、謝られて。
何、この状況……。
「……あの。あ、の。どうしたん、ですか?」
恐る恐る質問することしかできなかった。段々と覚醒し始める脳で、先ほどの光景を思い出す。
あれはやっぱり、どう考えても寝込みを襲われかけていた、としか思えない。
「……起こすつもりはなかったんだ」
長義さんは、ぼそりと呟く。そして再度、「すまなかった」と謝罪を口にした。それは弱々しくも聞こえる。
何が、何だか。彼の言葉を聞いても、現状が理解できない。ただ分かるのは、長義さんがひどく凹んでいることだ。
何に対して、そんなに落ち込んでいるのか。この状況、被害者はおそらく私であるのに、こんなに気落ちしている彼を見れば、責める気持ちがなかなか込み上げてこない。
「あ……あの、長義さん。せめて、ここに居る理由を教えてください。弁解くらい、聞きますから」
彼が理由を言いやすいよう、なるべく落ち着いた声色を心がけた。
──本当は私、もっと彼を非難してもいい立場では?
心の片隅で冷静な自分が呟いている。
けれど、もし本気で私を襲うつもりであったなら。私が目を覚まそうが、強引に襲えたはずだ。それをせず、おまけにこの落ち込みようは、何か理由があるのかもしれない。
その上、あんなに気位の高い彼が、謝罪までしている。
理由くらいは聞いてから判断しようと思える私は、寝起きとはいえ随分と冷静だった。
長義さんはチラリと私を見ると、再び頭を垂れて嘆息を漏らす。長くゆっくり息を吐き出すその姿は、気持ちの沈み具合をよく表していた。
「……食事を」ぽつりと、呟くように彼は言う。
「食事を、させてもらおうかと。貴女が寝ている間に」
静かに言葉が落とされる。その内容に、思考がすぐには追いつかなかった。
食事……食事?
頭の中で自問してから、遅れてやっと、彼の食事とは何を指すのかを思い出す。
コクリと唾を飲んで息を整えた後、おずおずと口を開いた。
「食事、って……私の、血、ですよね?」
「ああ。……だが、起こすつもりはなかったんだ」
くそ、なぜ……と彼は小さく悪態をつく。けれどそれは、私に向けてというより、彼自身に向けたもののようだった。それが分かるほど、彼の落胆具合がひどい。
よほど、彼の中で許せないことだったのだろう。私を起こすということが。
「あの、食事をしに来たのは、まあ……分かりました、けど。でも、なんでわざわざ夜に?」
起きている時に言ってくれれば良かったじゃないか。こんな、夜這いのような真似なんてせずに。
そう思いつつ、それは胸中に留めておいた。そこまで言ってしまうと、彼のプライドをずたぼろに傷つけそうな気がしたからだ。何となく。今の状態だと。
長義さんは静かに顔を上げて、こちらを横目で見る。
眉根を寄せるその表情は、睨まれているのかと、一瞬だけ思ったものの。どちらかというと不貞腐れているように見えた。
「なぜって、嫌だろう? 起きている時に血を吸われるなんて。だから貴女が寝ている間に、サッともらうつもりだったのだけど」
そう言うと、長義さんは上体を起こして両手を後ろにつき、天を仰いで溜め息をついた。
「こんなミス、一生の恥だな」
言葉はほとんど音になっていない。ただ自分に言い聞かせるためだけに、呟かれたようなものだった。
気位の高い彼には、相当堪えたのだろう。相手を起こさずに『食事をする』という絶対的な自信があったのだと、その様子から窺えた。
「あの、状況は分かりましたから。そりゃあ、確かに驚きましたけど。夜這いでもされるのかと。でも私は長義さんを責めませんから、長義さんも自分を責めないでください」
我ながら、慰めているのかそうでないのか分からない言葉を紡いでいた。これでも、譲歩したつもりだったのだ。寝込みを襲われたような状況に、心臓が止まりかけた私の気持ちも察してほしい。
長義さんは、不機嫌そうな視線をこちらへ寄こす。それでも負けじと言葉を続けた。
「その……食事をしたいのなら、ちゃんと言ってください。それなら心構えができるので、驚かずに済みますし。取引をした以上、食事のことは弁えてますから」
そうは言いつつ、若干、半信半疑だったのは否めない。
気化して消えていく彼の血液を見たあの日以来、目の前の人が『人外』だという部分を実感していないからだろう。
長義さんが本当に『吸血鬼』だということを、百パーセント信じきれていない気がする。それはおそらく、今現在も進行形で。
そんなことを考えながら長義さんを見ていれば、彼もまた何かを考えているように、黙って視線だけをこちらへ寄こしていた。
少し間、沈黙が落ちる。
「それなら」
沈黙を破ったのは、長義さんだった。彼はゆっくりとこちらへ向き合う。
「食事、今しても?」
そう言った彼は、私の顔を覗き込むように小首を傾げる。その際、さらりと垂れた髪に、思わずドキリとした。
こちらを見つめる、切れ長のその瞳も。通った鼻筋も、形の良い薄い唇も。
そうだ、彼は。有り得ないほど顔が美しく整っていたのだった、と。間近で見たことにより、再確認する羽目になる。
言葉が出てこなかった。急激に、意識し始めてしまったためだ。
それでも、返事はしなければと思っていた。あれほど、物分かりの良いことを言ってしまったのだから。
「ど……どうぞ」
出た声は緊張混じりなもので、いたたまれなくなった。長義さんから思わず視線を逸らす。
まさか、こんなにも緊張することになるなんて。彼の顔の良さに気づいてしまったせいだ。
どうしよう、やっぱり取り消したい──そう思っても、近づいてくる彼の姿が視界の端に入り、呼吸を潜める。
彼の手が伸ばされ、その指先が、私の顎に添えられる。
誘導されるように顔を上げると同時に、そっと首元に顔を埋められ、息を呑んだ。
彼の唇が、首筋に触れる。
その冷たさに、思わずビクリとしまった。けれど次の瞬間、食むように動かされたその唇に、別の意味で肩が震え始める。
「……っ」
呼吸が甘く震えそうになる。情事を思わせるような行為に狼狽えた。
咄嗟に、長義さんの肩を押し退けようとしたものの。腰に回された彼の手に引き寄せられ、密着する形になってしまう。
まるで、首筋に深い口づけをするように。食むような口づけの合間に舌を這わせられ、くちゅりと湿った音が耳に届く。同時に甘い痺れが背筋を駆け抜け、思わず鼻に抜けた声を出してしまった。
「んっ……ふ、ぅ」
声は出さないよう、唇をきつく引き結ぶ。
その快楽とも呼べる強い刺激に、困惑していた。
ただ、首筋にキスをされているだけなのに。敏感な箇所を触られたわけでもないのに、甘美な刺激が脳を揺さぶり、身体の芯が甘く疼き出す。
身体が震え、力が入らなくなっていた。背中を長義さんの手で支えられ、促されるようにゆっくりと後ろへ倒れ込む。
彼の重みを直に感じ、胸が淡くときめいてしまった。
このままだと、女としての性が、これ以上を望んでしまいそうで。
さすがにそれはまずい、と、再び彼の肩を押せば、今度はすんなりと離れていった。
唇を薄く開いた彼に見下され、心臓が切なく締め付けられる。
垂れた髪から覗くその顔はあまりに美しく、それでいて男性の色気を放つような、蠱惑的なもの。
早鐘を打つ自分の鼓動すら恥ずかしくて、それを知られたくなくて、彼から目を逸らした。
「ご馳走さま」
耳触りの良い、テノールの声が落ちてくる。
恐る恐る見上げれば、彼は微笑をたたえていた。気品の滲むその笑みは、悔しいほど美しく、また悔しいほど余裕のあるものだった。
「……お粗末、さまでした」
ぼそりと言ったその言葉は、精一杯の返しだった。視線を再び逸らせば、ふ、と笑みを溢す音が聞こえる。
長義さんはゆっくり上体を起こすと、そのまま静かに部屋を出ていった。
彼が完全に部屋から居なくなったことを確認した後、掛け布団を引き寄せて、潜り込む。
心臓の鼓動が、外に漏れないように。穴があったら入りたい、という心情をそのまま表した行動でもあった。
まさか……まさか、こんなことになるなんて。
この感覚、確かにあの日と同じだった。彼を助けた後に、血を吸われた時の、あの感覚と。あの時はすぐに気を失ったため、ほんの一瞬だったけれど。
今回は貧血で失神するほどではなかったものの、これが彼の言う『食事』だなんて。
取引したことに、後悔を覚えつつ。
こんなことなら、寝ている間に済ませてくれれば良かったのに、と、彼のミスを内心で非難した。
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