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夏の影

全体公開 65798文字
2023-10-14 09:48:50

2023年10月22日(日)に開催する文学フリマ福岡に出店し、新刊「幻想小説集 夏の影」を発行します。ここ二年ほどで書いた掌編、短編、中編を収録した小説集です。
新刊に収録する書き下ろし中編小説「夏の影」の全文です。

Posted by @chabobunko

2023年10月22日(日)に開催する文学フリマ福岡に出店し、新刊「幻想小説集 夏の影」を発行します。ここ二年ほどで書いた掌編、短編、中編を収録した小説集です。
https://c.bunfree.net/p/fukuoka09/32310

新刊に収録する書き下ろし中編小説「夏の影」の全文です。サンプル代わりにして下さい。暇つぶしに読んで頂いてももちろん嬉しいです。あんまり暇つぶしって感じの内容ではないですが
音楽と、手を伸ばしても届かなかった永遠と、それでもその指先が奏でたものの話です。
サンプル代わりのつもりなので、文フリ福岡が終了したら非公開にします。





 夏の空はいつも淡いクリーム色で、その奥から青白い黄金の光の帯が、眩《まばゆ》く輝きながら滑り降りてきます。すると空いっぱい、黄金を背景に、ぱっと一瞬、いくつもの橙色の礫《つぶて》が散らばるのです。
 礫はやがて細かい粒子となって、揺らめきながらゆっくりと地上に向かって降ってきます。光の粒の降る速度に合わせて、空は下から深い藍色に変化していきます。地上近くでは、薄い灰色が陽炎のように燃え立ちます。その炎に炙られるように、橙の粒はまた黄金に照り映えながら、地上の隅々まで降るのです。
 空は地上で鳴る音を映して刻々と変化します。変化を許されているのは空だけです。地上に在るものは、全て影絵だからです。私たちは皆あの日、天の光によって地に灼《や》きつけられた影なのです。
 影絵の私たちは言葉を持ちませんが、代わりに六十一の絃を持っています。私たちは言葉の代わりに、その六十一絃を奏でます。音域は洋琴《ピアノ》の八十八鍵を遥かに超え、十余オクターブ、全音階、半音階のみならず、四分音《Quater tone》などの微分音程を用い、一番太い絃はまるで鉄棒、一番細い絃は嬰児《みどりご》のうぶ毛のごとく細く、それらが震い、顫《ふる》え、大気を伝い、振《ふる》わせ、生じた音が天上へと昇っていく、それだけが影絵の私たちの生活です。
 其は楽音か。影が問います。是。別の影が肯《うべな》います。問い掛け、答え。それぞれか大小の絃をかき鳴らし、空へ震う。
 では、彼《あ》の天の色彩は楽音か。また別の影が問う。其もまた是。いずれかの影が応え、共鳴し、私たちの六十一絃は千々に震い、地上に万《よろず》の楽音が溢れます。その光景は、歓《よろこ》びに似る。
 ならば、ここでは時は流れるか。否。時計の針は彼《あ》の時止まった。我らはただここにのみ存在し、もう、どこにも存在しない。
 少女の小指のような絃を柔らかく震わせてそう答えた、その影がふと、かつて私の見知った誰かであった気がしました。雫のような小さな疑問が、私の絃を弾《はじ》きます。すると私たち影絵の六十一絃はまた一斉に共鳴します。絃鳴がわんわんと天地に響く中で、他我の響きは弁別出来なくなります。私の疑問も、響きの中に紛れてゆきました。
 もしやあの影は、かつての私の大切な誰かではなかったか。
 私の胸に生まれたこの懐かしさも、きっとすぐ、千々に鳴り響く六十一絃の歓びの歌に紛れて、溶けて流れて消えていってしまうのでしょう。橙色の礫が、ゆっくりと、燦《きら》めきながら舞い降りてきます。天から黄金の光の帯が滑るように流れて、拡がる蜜の輪のような絃の響きと、一つになって溶けてゆきます。
 そうして私は、また全てを忘れ果てました。

 *

 坂の多い街である。
 斜面が多いのだ。坂と階段の隙間を縫って、人が住んでいるような街である。街の造作は昔から変わらない。木崎の幼い頃から、ずっとこうだ。
 木崎はここ、長崎で生まれ育った。ほぼこの街しか知らないで生きてきたようなものだが、数年前までは軍隊に居たから、大陸の方の戦地やら、負傷して日本に帰ってきてからの転院治療で、東京や広島を転々としたことはある。支那では山地にも平地にも行かされたが、山は山、都市は都市といったように、山間部と人の多く住む場所はきっちりと分かたれていた。それは、大陸の山岳が九州のそれよりもずっと険しく、平地は水平線を見晴《みはる》かすほどにどこまでもだだっ広かったせいかもしれない。こんなゆるゆると背の低い山や丘陵の中に、坂や階段を無理やり削り込んで人間が住み込むような街は、少なくとも大陸の方では見かけなかった。
 木崎にとっては、ここは慣れた土地である。不満は無い。と言うよりも、新しいものに慣れることが苦手な木崎にとっては、他の所へ行くよりも、ここで暮らした方が楽なのだ。
 ただ、戦場での負傷が原因で左足の萎《な》えた今となっては、この街に住むことに対して不便を感じることのほうが多い。
 陸軍病院を退院する際に賜った、恩賜《おんし》の義足を装着した脚をいたわりながら、ゆっくりと坂を登る。季節は夏の盛りだった。八月の強い太陽を遮る日陰もあまり無く、切断した足と鉄の義足の接地面が、熱されて痛かった。一歩一歩、のろのろと坂道を登る間じゅう背中や首筋を焦がされて、木崎は全身にじっとりと汗をかいた。
 この長い坂は、丘の上へと続いている。そこに建つのは、小さな教会だ。豊田という初老の男が、手伝いも無しに一人で神父をやっている。木崎はその豊田と、十五時に会う約束をしていた。
 豊田とは、祖父の代からの付き合いである。木崎の家はガラス工場を営んでいるが、教会のステンドグラスの補修を祖父が請け負ったのが縁で、木崎は子どもの頃からよく豊田の教会に出入りしていた。豊田自身に子どもは無く、そのせいか昔から、木崎や兄妹のことを夫婦でよく可愛がってくれていた。連れ合いの女性は早くに他界して、今は教会に一人で暮らしている。
 木崎に信仰は無い。しかし、豊田の教会は好きだ。丘の上の小さな教会は、訪れる人も少なく、木崎は一人になれる。豊田の方でも、木崎のその性分を知っていて、訪れた時にはそっとしておいてくれる。
 しかし、今回ばかりは事情が違った。豊田の方で、木崎に頼み事があると言う。何でも、東京の方から甥っ子が来るので、ぜひ会ってみて、良ければ友人付き合いをしてやってほしいという話だった。
 木崎の足取りは重かった。聞けば、豊田の甥とやらはまだ学生、しかも今年の春に大学に入ったばかりと言う。将来の学士様である。木崎の接したことの無い種類の人間だった。歳は十八か十九か、いずれにせよ子どもみたいなものだろう。
 木崎は、今年で二十六になる。もう五十近い豊田からすれば、二人は歳近く見えるのだろうが、木崎にしてみれば子どものお守りを頼まれたのと変わらない気分だった。頼みは、断りにくかった。
 しかし、豊田の甥とやらにしてみても、七つも八つも上の相手に友人付き合いをしろと言われても、困惑するだけではないか。木崎は、元から人付き合いの得意な方ではない。まず何を喋れば良いのか、と下らぬことをぐるぐると思い悩んでは、嘆息しながら坂を登った。
 教会には、オルガンがある。せめて、モーツァルトでも弾いてはもらえまいか。そうすれば気まずさも紛れるかもしれない、と木崎は苦し紛れに、都合の良いことを考えるのだった。
 ——東京の音楽学校の学生さんとは、さぞかし俊英でいらっしゃることでしょう。
 豊田の秘蔵の甥の話は、常から耳に挟んでいた。豊田は人の良い男で、いつも顔面に柔和な笑みを浮かべているのだが、甥の話題を口にする時には格別、それは嬉しそうに目尻を下げるのだった。
 ——はい。ただ、体が少しばかり弱かけん、長崎には、静養に。
 東京はきっと賑やかだから、若い友人が一人も居ないのは寂しいだろうと、豊田はにこにこと微笑んだ。木崎は、やはり憂鬱だった。元々人付き合いが苦手な上に、数年前に戦場から帰って以来、神経症のきらいがある。憂鬱と億劫さが勝ったまま、木崎は惰性で重い足を動かし続けた。坂を登りながらだらだらと、益体の無いことを考える。
 音楽は好きだ。けれど、近頃の音楽は好きじゃない。巷には軍歌が溢れている。勝ってくるぞと勇ましく、ばかりの世の中には、嫌気が差していた。優しい音楽が聴きたかった。早く日本が勝って、戦争が終わり、ドイツでもアメリカでも好きな音楽が聴けるようになると良い。
  ようやく近付いてきた丘の上の教会と、その上に広がる青空を見上げて、木崎は汗をぬぐいながら立ち止まった。晴れた青空はいつだって、モーツァルトのピアノ曲の明るく悲しいハ長調に似ている。
 教会にたどり着き、入口の扉の取っ手に手をかける。そのわずかに開いた扉の隙間から、小さくオルガンの音が漏れ聞こえた時、木崎の胸は高鳴った。
 豊田が弾いているのではない。それは、一度聴いただけではっきりと分かった。随分と闊達に指が回る演奏者だ。木崎はピアノ曲のレコードを今までにいくつも聞いたが、実在の人間がこんなに自在に鍵盤を操れるということに、新鮮に驚嘆した。しかもその奇跡的な楽器の操作が、扉一枚隔てたすぐ身近で行われているということに、木崎は酷く神経を昂らせた。
 その瞬間に、木崎がここまでの道々で抱いていた憂慮の全ては、すっかりどこかに吹き飛んでいってしまった。
 自分の人見知りや、相手を子ども扱いして面倒がっていたことすら、現金なことに全く忘れ果て、木崎は扉の隙間に耳を寄せてじっと目を閉じた。これは、何の曲だ。バッハ。モーツァルト。ベートーヴェン。木崎の知るクラシック音楽は、全てレコードで聞き知ったものだ。甘美な音に耳を傾けながら、自分の持っている記憶をたどる。恐らくは、木崎の知らない楽曲だ。未だ聞き知らぬ音楽が、扉の向こうで己を待っている。
 木崎は汗ばむ手のひらに、興奮と好奇をにじませながら、ゆっくりと勿体ぶるように扉を開けた。
 教会のオルガンは小さなもので、音楽好きの木崎も何度か、戯れに触れたことがある。豊田が讃美歌の伴奏に使っているのも聴いたことがあった。しかしオルガンは今、それらとは全然別物のように響いていた。この楽器はこんなにたくさんの音を一度に鳴らすことが出来たのか、と木崎は感嘆の溜め息を吐いた。
 教会の中は、たくさんの音で満ちていた。小さなオルガンから噴き上がるように音が溢れ、それらは生き生きと、色とりどりの表情を見せながら天井へと昇り、光のようにまた木崎の頭上に降ってきた。教会という背の高い建造物の中では、オルガンの音はこんなにもよく反響するのだと、木崎は初めて気付かされた。
 視線を巡らすと、扉近くの壁際には豊田が立っていた。豊田は相変わらずの優しい微笑を浮かべたまま、少し困ったような顔で木崎に会釈した。
「こんにちは。すみません、もうすぐ木崎さんがお見えになるよと言うたとばってん、かえって意固地に鍵盤から離れんくなりまして。照れとうようばい。何ぶん、人付き合いん苦手な子で、数日前から見合いに臨《のぞ》む小娘んごと、緊張しとりまして」
 ここにたどり着くまでの道々の心理であったなら、友人付き合いをしてくれと頼んだのはそちらだろう、と不快に思っただろう。けれど今となっては、一心不乱に鍵盤に向かう、他人を全て拒絶するようなその背中に、木崎は何故だか親しみすら覚えていた。
「あれが、甥の保《たもつ》です。桐原《きりはら》保と言います」
 保青年の後ろ姿は、真っ直ぐだった。痩せていて、上背があるのが座っていても分かる。木崎よりも身長がありそうだ。その長い背骨を屈めることなく、鍵盤を真上から見下ろすように、長い首を根元から曲げていた。国民服ではなく、白いシャツを着ている。短く刈り込んだ髪と、薄い耳の間から、黒い眼鏡のつるが伺えた。
 彼のオルガンへの集中は、熱気となってその背中から立ち上るようであった。そのくせ、その後ろ姿は、妙に静かな印象も与えた。何と青白い熱だろう。
「保」
 遠慮がちな豊田の呼びかけを、青年は無視した。邪慳にしたと言うよりは、まるで耳に入らぬようだった。
「良かです、聞かせて下さい」
 呆れる豊田に向けて、木崎が本心からそう力強く頷いた時、オルガンが突然、鍵盤を最高音から最低音まで全ての音を、竪琴のように一気にかき鳴らした。最低音の響きを不穏に残して、演奏は終わった。まるで、シューベルトの転調のように唐突な終わり方だった。
 青年は無言で椅子から立ち上がり、振り向いた。先ほどまでの繊細な演奏から想起される通りに、神経質そうな顔立ちの、まつ毛の長い青年だった。木崎がじっと見つめると、青年は耐え難そうに視線を逸らし、その長いまつ毛を伏せてうつむいた。
 絶望と焦燥。木崎は何故だか、そんな言葉を思い浮かべた。
 椅子に座っているときから分かっていたが、青年の姿は、立ち上がると余計にひょろりとして見えた。痩せていて、しかも上背がある。しかしうつむく青年の姿は、一心にオルガンに向かっていたときよりも、何故か一回りほど小さく見える気がした。
「はじめまして」
 保青年は、あの華麗で饒舌なオルガンよりも、ずっと低く穏やかな声で口を開いた。夜半にそっと鳴らされる、チェロの音色に似ていた。人見知りのようだが、客人を放り出して鍵盤に熱中していた気まずさもあるらしく、眼鏡の奥で視線をさまよわせている。山羊のように優しく、神経質で怯えやすい、繊細な人柄が瞳の奥に覗いていた。
 木崎は歩み寄り、おずおずと、しかし彼にしては熱を込めて名乗った。
「木崎と言います。木崎洋二。保君の評判は、豊田神父から常々伺うています。先ほどは、良かもんば聞かせて頂きました」
 まごまごしつつ、青年は「桐原です」とお辞儀をした。木崎はすっかり、この若者に興味を引かれていた。重ねて、問うた。
「いや、実にご立派な演奏でした。今のは、何ちゅう曲でしたか。存じ上げんでして。ちょっと巷じゃ聞かん調子の曲ですね。シューマンかな、ブラームスかな。ぜひ、教えてもらえれば幸いです」
「違うんです」
 途端に、さっと頬に赤みが差して、青年は首を横に振った。音楽の話になると、彼も木崎と同様、いささか舌が軽やかになるようだった。
「そんな立派な人たちと、肩を並べるようなものじゃないんです。あれは、自分の曲です」
「えっ、すると今のは、君の御作なんですか」
 木崎は、すっかり感心してしまった。保は、あくまで謙虚に言った。
「御作なんてそんな大層なものではないけれど、自分で作ったという意味では、そうです」
 そう答えた保青年の小さな瞳に、ほのかな暗い影が差したのを、木崎は敏感に見て取った。しかし、その理由までは見当がつかなかった。若い才能溢れる青年が頑なに恥ずかしそうにしているところが、木崎には好ましかった。
「器楽の演奏も出来て、作曲まで手掛くるとは、流石、東京の音楽学校の秀才ですね」
「保の専門は、作曲たい」
 それまで会話の成り行きを見守っていた豊田が、にこにこと機嫌よく口を挟んだ。才能溢れる秘蔵っ子の甥を前にして、豊田はさながら孫を自慢する好々爺のようだった。保も、答えた。
「本当は、ピアノを専攻したかったのですが。演奏の技量が足りず、諦めました。本科は作曲部で受験して、この春から学んでおります」
 青年の背負う陰が、何故か昏《くら》さを増した。
「この時局ですので、どれほどの事を学べるか分かりません。しかし、励める限りは、精いっぱい勉学しようと思っております」
 豊田が、少し慌てた気配を見せた。木崎が支那で、御国のために戦ってきたことを気遣ったのだろう。
 木崎は気にしなかった。保に一歩近付き、距離を縮めて、言った。
「良ければもう一曲、何か弾いて頂けんですか。近付きんしるしが、僕からは何も無《の》うて恐縮なんですが。君の作った曲でん、君の好きな曲でん、何でん良かです。どうぞ、何か一つ、音楽ば」
 青年はまた、恥ずかしそうに眼鏡の奥で視線をさまよわせた。
「何か、木崎さんのお好きな曲はありますか」
「僕の好きな曲、ですか」
 桐原は頷いた。どうやら希望のものを弾いてくれるらしい。
「モーツァルトば、好きです」
 悩んだ末に、木崎は我ながら華やいだ調子で言った。己の内側の、一番柔らかい部分を、相手に全て差し出した気がした。それは軍国主義のこの時代、人前にさらけ出すことを、誰もが禁じられているものだった。
「明るうて、悲しゅうて、優しいですけん」
 保はそのとき初めて、にっこりと笑った。無言で、オルガンの椅子に腰かけた。
 そうして奏でられた音楽は、モーツァルトの『きらきら星変奏曲』というピアノ曲だった。保青年はこの小さくて可憐な、無上に美しい音楽を、見事にオルガンで奏してくれたのだった。父の手回し蓄音機で、ベートーヴェンやブラームスの壮大な交響曲を、針が擦り切れるまで聴いていた木崎にとっては、実に清冽な音楽との出会いであった。
 昭和十八年八月のこの日、長崎の小さな教会で、二人は友人となったのだった。

 *

 蜜の雫の滴りが、なめらかに、輪のように広がっていきます。
 止まったままの、永久《とこしえ》に動かぬ時の中で、私たちはただ、小波《さざなみ》のような黄金の蜜を浴びます。
 悲しいことも、恐ろしいことも、憤《いきどお》ろしいことも、ここにはありません。ただ甘く、美しいものを、影である私たちは謐《しず》かに甘受します。
 生きている人間が味わう痛みも、苦しみも、羞恥も怒りも憎しみも、ここでは最早遠いものです。甘やかな心地に身を委ね、私は、六十一絃の余韻の中に、自らを溶かします。
 ——しかし、絶望が無いということは、ここにはきっと希望も存在しないのでしょうね。
 少女の小指のような絃を柔らかく震わせて、何《いず》れかの影が、私にそう言いました。その影がやはり、かつて私の見知った誰かであった気がしました。
 その誰かは、私が決して忘れてはいけない、大切な人であったのだと思います。しかし私は、それが誰であったのか、やはり永久に思い出せません。
 一人、また一人と、影たちは消えていきます。次第に消えゆく六十一絃の余韻と共に、黄金の蜜に溶けていき、一つ、また一つと、その姿が消えていきます。
 私は、一人になりました。
 甘やかな心地の中、孤独だけが最後まで手放せず、私と共に在り続けます。
 
 *

 木崎は音楽の歓《よろこ》びを、幼い頃、夜の工場《こうば》の片隅で覚えた。
 彼の幼い頃、家は小さなガラス工場だった。割れ物が密集し、高温の火を扱う工場は、日中には立ち入りを父親から禁じられ、近寄ることすら許されぬ場所だった。
 その代わり、炉の落ちた暗闇の工場は、幼い彼にとっての小さな夜の王国であった。
 夜になると木崎は毎晩、工場に、子どもには重たい手回し蓄音機をこっそりと持ち込んだ。それから、何枚かのレコードも。それらは全て父の持ち物で、普段は家の蔵の中に、厳重にしまい込まれているのだった。まるで捨てるに捨てられぬ、今は亡き恋人からの手紙のように。
 傷つかぬよう丁寧に風呂敷にくるまれ、長持に仕舞われたたくさんのレコードの様子から、父がそれらを愛していたことは明白だった。昔はヴァイオリン弾きを目指していたのだと、木崎は母から一度だけ聞いた。
 母は、幼い木崎が父にレコードについて尋ねるのを禁じた。父は、彼がこっそりと蔵や工場に出入りしているのにおそらくは気が付いていて、何も言わなかった。
 木崎の父は、戦争に行ったことが無かった。そして、そのことを酷く恥じていた。だから父は、木崎やその兄が長じてから出征したときには、涙を流して喜んだのだ。御国のために征ってきなさいと、母におはぎをこしらえさせ、お前は音楽が好きだからと言って、勇ましい曲をレコードでたくさん掛けた。父親が自分で蓄音機を触っているのを見たのは、木崎は、それが最初で最後だった。
 しかし戦場に行った木崎は、父親の期待したような活躍は出来なかった。向かった支那の戦場は、地獄だった。逃げ回り、生き恥をさらし、立派に散った同期の屍の傍で無様に長らえ、片脚に傷を負って帰ってきた。
 戦地で負傷を負って内地に送還されてからは、まず広島の陸軍病院に送られて、しばらくそこで過ごした。転院で東京にも送られた。萎《な》えてしまった左足を一生引きずって歩かなければならないことは早々に分かった。軍にはもう戻れなかった。そのまま職業訓練を受けて、東京の補導所の世話になる話もあったが、慣れない街で暮らすことに億劫さを感じる性分で、結局は長崎に戻った。それが昨年のことである。
 帰って来た頃には、気付けば世の中ではドレミファソラシドのことを、いろはにほへとと呼ぶようになっていた。ラジオからは、しきりに軍歌が流れるようになった。ベートーヴェンやシューベルトが掛かる時には、ドイツ音楽の、とわざわざ枕詞が付けられるようになっていた。
 長崎市の職業補導所に通ったりもしたが、結局は、父と並んで家のガラス工場で働くことにした。他に職人が二、三人居るだけの、小さな工場だった。その頃には国の指導で、零細ないくつかの工場は合併し、戦闘機の計器用ガラスなんかを委託で請け負うようになっていた。
 戦場に行き、大した活躍も無く戻ってきた息子のことを、父はどう思っただろう。木崎は毎日、日々の大半を父と工場で過ごしたが、怖くて尋ねることが出来なかった。
 長兄は、帰ってこなかった。大陸で戦死したという。帰ってきた骨を握りしめ、母は玄関でくずおれて泣いた。
 気付けば家の蔵からは、蓄音機とレコードが無くなっていた。処分されたのだろう。
 何も聞けないまま、父は今年の初め、家の中で首をくくって死んだ。

 *

 木崎は現在、市内のとある軍需工場で働いている。家の工場とは比べ物にならない、大きな工場だ。
 父が亡くなってから、家の工場は畳んでしまった。まるっと設備を処分するのも金が掛かるから、窯などの設備はそのまま残してあるのだが、職人には全員暇を出してしまった。木崎自身も、家の工場には立ち入っていない。
 母などは、木崎が父の仕事を継いでくれると嬉しいといったようなことを、折に触れそれとなく木崎に伝えてくる。しかし木崎にとっては、あの手回し蓄音機を失った工場は、幼い夜の王国ではなく、ただただ父を思い出す辛い空間なのだった。
 この頃は世間の仕事も軍隊に倣い、まさに月月火水木金金、休日の無い工場も多くなっていたが、幸いに木崎の働く工場では、月二日の休日がまだ守られていた。
 木崎は最初、仕事が休みの日にだけ、教会へ顔を見せようと思っていた。けれどすぐに、足繁く教会に通うようになった。工場での一日の仕事が終わってから、帰宅する前の時間を使って、丘の上の教会にせっせと顔を出す。
 目的は言わずもがな、保と、彼の奏でるオルガンの音色であった。
 木崎の通う軍需工場から教会までは、丘を一つ越えねばならず、木崎の足にはひどく堪えた。しかしその労を惜しまず、木崎は保の元に足を運び続けた。
 教会の小さなオルガンを使って披露される保の演奏は、音楽好きの木崎の心を掴み、すっかり魅了してしまった。彼の演奏は、秀才らしく端正で、明晰な音色だった。木崎はそれに、目の覚めるような思いで毎度聴き入った。
 モーツァルト。ベートーヴェン。シューベルト。ショパン。名立たる音楽家たちの名曲が、木崎の目の前で、生きた人間の指ですらすらと演奏されてゆく。それらの音楽をレコードの演奏のみで聴き知っていた木崎にとっては、とかく感動しきりの事態であった。
「鍵盤が六十一鍵までしかないので、元の曲とはどうしても、響きが変わってしまいますが」
 そう言って保は残念がったが、木崎の素人耳には、何がどう違うのかさっぱり分からなかった。言われてみれば、教会のオルガンの鍵盤は、小学校の唱歌室で馴染んだピアノよりもわずかに幅が狭い。保の長い指は、その鍵盤の上を縦横無尽に、かつ非常に洗練された動きで立ち回るのだった。
 木崎はすっかり、この若い音楽家の虜になっていた。とはいえ、木崎がそうであるように、保も人見知りの性分には違いなかった。あまりこちらからは声を掛けずにそっとしておいた方がいいのか、それとも、仮にも年長のこちらが小まめに声を掛けてやった方が、向こうも気おくれせずに済むのか、人付き合いの苦手な木崎にはそれすら分からなかった。分からなかったが、保の素晴らしい演奏を聴くとどうにも気分が高揚してしまい、今のは何という曲ですか、とか、実に華麗な指さばきですね、とか、子どものような無遠慮さで逐一話しかけてしまうのを、どうにも止められないのだった。
 保も最初は戸惑っていたようだが、そうやってどちらが歳上だか分からぬふうに振る舞っているうちに、段々と心が解れてきたらしい。木崎のことを「洋二さん」と呼び、段々と、まるで身内のように口を聞いてくれるようになってきた。木崎にとっても保にとっても、こんなに一度に友人と距離を詰めることができたのは、恐らく人生で初めてのことであった。
「洋二さんは、ご自分では楽器を演奏されないのですか」
 距離が近しくなってきた頃に、保は木崎にそう尋ねた。木崎は慌てて、首を横に振って否定した。豊田神父に頼んで、戯れにオルガンを触らせてもらうことは今までにもあったが、こんなに達者な演奏家の前では、素人の手遊びを披露する気にはとてもなれなかった。
「いや、自分でも曲ば弾けたらと、そう願うたことも実は一度ではなかとです。ばってん、ここには先生も居《お》らんけん、諦めました。どうにも、自己流では上達せんじゃろうと思い」
 焦って、どこに向けたものかも分からぬ言い訳をする木崎に、「僕で良ければお教えしましょうか」と、保は事もなげに申し出た。
 木崎は飛び上がり、間髪あけず縦に頷いた。またと無い機会であると意気込んだものの、オルガンの前の狭い椅子に保と並んで座り、鍵盤を見下ろすと、にわかに木崎を緊張が襲った。試しに両手を出して、鍵盤の上に置いてみる。工場勤めの作業で荒れた手先は、オルガンの白く美しい鍵盤に、何とも不似合いに見えた。
「音符は、読めますか」
 一音も出さぬうちからしおれてしまった木崎に、保は優しく問い掛けた。木崎に並んで、鍵盤に手を置く。それだけで、向こうはもう様になっている。
「小学校で習うた程度です」
 並んで比べた時の保の手の大きさや、指の長さに、これが音楽家の手というものかと見惚れながら、木崎は答えた。
「教師が和音を弾いて、その音ば当てる試験なんかをやりました。懐かしかね」
「へえ」
 保は、ちょっと驚いたように目を見開いた。
「試しですが、これが何の音だか分かりますか?」
 片手で隠しながら鍵盤を隠しながら、保が音を三つほど同時に鳴らす。木崎は眉をひそめて、考え考え、ド、ミ、ソ、と聞こえた音を答えた。
「洋二さんは、音感がとても良いですね」
 当たっていたのだろうか。名ピアニストと尊敬する保に褒められて、木崎は大いに照れた。
 そんなのは自分をその気にさせるための、ただの世辞であろうとは承知していた。しかし保は、あくまで真面目な顔だった。木崎さんならもしかすると、こんなものもすぐに弾けるかもしれません、と呟きながら、保は床に置いてあった鞄から、楽譜を取り出してオルガンの楽譜立てに置いた。
 くすんだ青い表紙の楽譜には、ごちゃごちゃとアルファベットが書きつけられていた。その中で一番大きい文字は、こう書かれていた。
『Fauré』
 もちろん、読めない。そしてその下には、『Dolly Opus56 für Klavier zu vier Händen』と、やや長ったらしい文字列が並んでいた。どれが作者で、どれが曲名なのかも、木崎には判然としなかった。
 久々に目にするアルファベットに、木崎は少しどぎまぎとした。米英撃滅という絶対のお題目の元に、英語は敵性語とされ、排斥が進んで久しい。
「ドイツ語ですよ、これは」
 木崎の動揺を見透かすように、保は眼鏡の奥で愉快そうに笑った。「同盟国だ」。
「とするとこれは、ドイツ人の曲と?」
 妙にほっとしながら尋ねたが、しかし保は、しれっと首を横に振って答えた。
「いいえ。楽譜自体はドイツで出版されたものですが、これはフォーレという人物が作った、『ドリー組曲』という連弾曲です。フォーレはフランス人ですよ」
 敵性音楽、という言葉が瞬時に脳裏にちらつき、木崎がはっと息を呑む。その間隙を突くように、保が動いた。
 保はまるで歌い出すかのように肺に息を溜め、体の深いところにぐっと力を矯めた。背筋が木の幹のように真っ直ぐに伸び、指先が鍵盤に深く沈んだ。
 木崎の意表を突いた保の動作とは対照的に、深い靄の向こうから段々と姿を現すような、密やかな始まりの曲だった。どこに向かっているのか分からない、悩ましげな音の小波《さざなみ》が、寄せてはまた遠のいていく。薄暗い森の中で目隠しをしたまま手を引かれるような、そんな甘い不安に木崎は流され、身を任せた。
 音楽は不意に、開かれた場所にたどり着いた。目隠しを解かれ、現れた景色に、木崎はほうと嘆息した。こんなにも抒情的で、優しい音があったのか。こんなにも胸しめつけられる、美しい、甘やかで愛らしい音楽がこの世にあったのか。
 演奏はすぐに終わった。時間にすれば、三分ほどの短い曲だったはずだ。木崎はそれを、じっと息を詰めて聴き入った。演奏の終わりと共に訪れた、穏やかな静けさの中、拍手すらも忘れた。保は言った。
「組曲の中の一曲、『Tendresse』という曲です」
 日本語で言うなら、優しさ、といった意味になるでしょうか。保の言葉を、木崎は胸の内で繰り返した。Tendresse。優しさ。何とこの曲にぴったりの題名だろう。音楽を聴いている間ずっと胸に溜めていた呼吸を、木崎は一度に吐き出した。感嘆の溜め息だった。
「良かった。洋二さんは、優しい曲がお好きと仰っていたから」
 木崎の様子や態度が、よほど分かりやすかったのだろう。満足してか、保は照れたように笑った。妙に大人びたところのある青年だが、そうしていると年相応に若々しく見えた。
「いや、これはたまがった。モーツァルトや、ベートーヴェンなど、僕は思えばドイツ人の作った曲ばっかり聴いてきたとですが、フランス人もなかなかやりますね。ドイツ人の曲とはまた違うた風で、良か曲でした」
「ええ、そうなんです。フランス人の有名な作曲家は、時代がぐっと現代に近いこともあるのですがね。作風が変わって、なかなか素敵な曲が多いのですよ」
 僕はフランスものが好きなんです、と言って、保ははにかんだように笑った。敵国の文化が、敵性音楽、などと言って目の敵にされる時代である。フランス人の曲が好きだ、とは普段なかなか口にしづらいのだろう。青年は、本当に嬉しそうで、どこか自慢げですらあった。
「今の曲は、本当は二人で演奏する連弾曲なので、二つのパートをまとめて一人で弾いたんです。元々は、フォーレが子どもに向けて作った曲ですから、旋律だけなら簡単なのですよ。洋二さんなら、きっとすぐに弾けるようになります」
 そう言って早速『ドリー組曲』の楽譜を開く保に、木崎はずいっと近寄った。
「いや、ほんなこて素敵でした。世ん中には、こがん音楽もあるんやと、視界が開けた気分です。良ければ、連弾ば教えてもらう前に、君の演奏でフランスの音楽ば、もっと聴かせてくれんですか」
「本当ですか。嬉しいな。もちろんですが、何を弾きましょう。フォーレの曲が良いかな。この組曲は、全部良い曲なんですよ。あなたと一緒に弾けたら、嬉しい」
「フォーレ以外でも良かです。せっかくやけん、君の好きな曲が良かね」
 しばし考えて、保は口を開いた。
「音楽は何で出来ているか、洋二さんは、ご存知ですか」
 まるで学校の授業のように、唐突な質問だった。木崎は面食らった。それでも真剣に考えてから、「音やろうか」と真面目に答えた。
 木崎の回答に、保はきょとんと意外な顔をした。そうして、「そう、確かに音ですね」と、あくまで真面目な顔で答えた。
「音楽は、三つの要素で出来ているんです。旋律と、和音と、リズムです」
 幼子に向けて言葉を選んで伝えるような保の言い方に、これはきっと音楽家の中では常識なのであろうと察し、木崎はちょっと恥じ入った。旋律と和音とリズム、と頭に刻み込むように復唱する。何も知らぬ奴と思われた気がするが、当の保が馬鹿にしないでくれているのが、ありがたかった。
「けれどフランス音楽では、音楽の材料が違うんです」
 光と、水と、風です。そう答えて保はまた、深く息を吸って背筋を伸ばし、鍵盤を見下ろした。
 長い指が、力強く鍵盤を打つ。
 その瞬間、オルガンから噴き出した音色で染め上げられるように、丘の上の小さな教会に、色とりどりの光が満ちた。

 *

 その年の一月には、既に米英楽曲は「敵性音楽」とみなされ、内務省と情報局より、演奏やレコードの発売の禁止が通達されていた。
 翌年、昭和十九年には、戦局の悪化に伴い、個人による演奏会の開催も禁止された。あらゆる物資が不足し、国民生活が窮乏を極める戦時下において、音楽活動は目の敵とされた。規制が強まり、音楽に対する風当たりはいよいよ厳しくなっていき、空襲による楽器や楽譜の喪失なども伴って、多くの演奏家や楽団、楽器工場やレコード会社が、活動を停止していった。
 昭和十八年の二人の夏は、小さな教会に守られて時の流れを止めてしまったかのように、ゆっくりと過ぎていった。

 *

 いつだか保が連弾の前に弾いてくれたのは、『キリストの昇天』という曲だった。
 メシアンという、これまた木崎の知らぬ、フランスの作曲家の曲らしかった。保によれば、メシアンは非常に色彩感覚に富んだ作曲家であるという。この和音はクリーム色だとか、黄金色を背景に、ぱっと橙色の礫《つぶて》が散らばって、それが下から深い藍色に変化していくようにとか、音に対して非常に具体的に色彩を見出しながら、曲を書く人物らしい。
 確かに自分もあの時、オルガンから色が噴き出したように感じたと言うと、保はまた木崎の感性を誉めてくれた。木崎は、教師に褒められた子どものように照れた。
「彼はまだ、若いんですよ。今は三十路半ばではなかったかな」
 そんなに新しい外国の作曲家を何故知っているのだ、とびっくりして木崎が尋ねると、「十歳かそこらの頃だったかな。父親に連れられてパリ万博に行きました。昭和十二年頃でしょうか」と、保は答えた。
「そこで、メシアンの曲を初めて聴いたんです。衝撃だったな。メシアンは万博の会場で、オンド・マルトノという電子楽器を使って、オーケストラと共演させたんです。あんまりにも驚いて、フランスに居る間、父に泣いてせがんでレコードや楽譜を買ってもらいました。教会での演奏も聴きに行きました。彼の曲は、教会の中で響くときが一番美しく聞こえた」
 木崎は、二度びっくりしてしまった。音楽、しかも作曲なぞという高度なものを本格的に学んでいるくらいだから、この青年の家はよほど裕福なのだろうと思っていたが、海外旅行とはちょっと裕福の程度が違っている。
 あ然とする木崎に、「父親の仕事のついでに、子どもが連れて行かれただけです」と保は恥じらうように謙遜した。しかし、木崎の感心は止《や》まなかった。年少の保の方が、よほど色々と物を知った、しっかりとした人間に見えた。
 家庭の話をするとき、保は何故かいつも、少しだけ後ろめたそうだった。体が弱く、学業を休み親元を離れていることへの、屈折した何かがあるのかもしれなかった。木崎は強いて尋ねないようにしていたのだが、そのうち保の方から、ぽつぽつと事情を教えてくれるようになった。
「うちには、優秀な兄が居るのです。頭が良く、体も頑健で、海軍の予科練に行きました。父にとっては、こんな出来損ないの弟は要らず、うちには兄さえ居れば良いのです」
 そんなふうに、暗い心情を直接的な言葉で吐露することもあった。その告白を聞いたとき、木崎は豊田神父が何故、この甥っ子をこんなに可愛がっているのか、分かったような気がしたのだった。
 木崎には、保が胸のうちに抱いている屈折が何か、この青年の若さの表れのように見えていた。それは、触れれば手の切れる刃物のようで、どこかきらきらとした、木崎が既に失ってしまった青春の象徴に映った。
「そう言ったって、洋二さんもまだ、二十六かそこいらでしょう」
 良いように言えば老成した、悪く言えばいやに大人びた生意気な口を聞いて、保は困惑したように眉をひそめた。
「いいや、僕は、生まれも育ちもこの町ですけん。なかなか、世間っちゅうもんを知らんのです」
 そう答えながら、木崎は思った。昭和十二年と言えば、木崎自身は、何をしていたか。それは、大陸での戦争が始まった年ではなかったか。
「叔父には、洋二さんは広島や東京に居たと聞きましたが」
「あくまで、療養のためです。すぐに出てきてしまいました。東京に住もうかと思うたこともあったばってん、土地に馴れんで。この、」
 木崎はと自分の左足を見た。保も、木崎の視線を追った。鉄で出来た義足だ。
「足のことがありましたけん。この町は、坂が非常に多いでしょう。流石に不便かと悩んだとばってん、結局は馴れた土地ば選びました。僕は、土地にも人見知りするんです」
 笑い話のつもりだったのだが、保は何とも微妙な顔をした。
「その足は、戦場で……
「ああ、そうなんです。ばってん、気に掛けず接してくるると嬉しかです。たしかにこれは、戦闘の中で負うた傷です。ばってん、名誉の負傷などといった言葉とは縁遠か、取るに足らん傷なんです」
 取るに足らない傷などありませんよ、と言って、保はまるで自分が傷ついたかのような顔をした。
 正直に言えば木崎には、御国のために戦ってきたとか、そのために名誉の傷を負っただとか、そうした感慨はまるで無い。ただ流されるように戦場に赴き、惑い、情け無く負傷して日本に帰って来ただけである。勇敢さとは程遠い傷だ。左足が動かないおかげで、もう二度と戦場に立たずに済むことにはこっそりと安堵しているが、そんなことは口が裂けても他言出来ない。
 木崎は、卑怯な男なのである。少なくとも自分では、そう思っている。その実態と他者から向けられる視線がずれているからこそ、世間からは戦場で立派に戦って来た勇士として扱われることに、内心では辟易としていた。
 もっとも傷痍軍人と違って、ただの障害者であれば、世間では役に立たないごく潰しと罵られ、それは辛い目に遭わされる。木崎の勤める軍需工場にも一人、足の萎えた者が居る。片足が動かないのは生来のもののようなのだが、「米食い虫」などと酷い言葉で罵倒され、他の従業員から蹴ったり殴られたり、杖を取り上げられたりと散々に酷い虐めを受けている。木崎はそんな扱いを受けたことが無いが、その男と自分で何が違うのかもよく分からない。
 なのに、皆はそれが当たり前だと思っている。木崎もそれを受け入れている。けれど、後ろ暗い気持ちにはなる。
 木崎は木崎で、屈折しているのである。しかし、だからこそ木崎は、繊細な保の反応に勝手に少し救われたような気持ちになったのだ。
「けれど、洋二さんはちょっと尋常でないくらいの音楽好きですね。楽器を習ったことがないとは思えないくらい、音感もすこぶる良い。どなたか、ご家族の影響ですか」
 木崎が黙ってしまったことで、触れられたくない話だと思ったのだろう。話題を変えて、保が尋ねた。
 木崎の頭には、当然、父の姿がよぎった。保の質問に、木崎は亡くなった父の影響であるとだけ答え、後はあいまいに濁した。
 ともあれ、今まで一方的に親愛の気持ちを寄せていたこの青年の、好きな音楽の傾向や生い立ちが少しは分かって、今までしなかったような話も互いに打ち明け合い、木崎は保という人間にわずかに近付けた気がしたのだった。
 そうして保の作る曲に耳を傾けてみると、彼の作曲は、随分とフランスものの音楽に影響を受けていることがわかった。
 あまり他人に聴かせるようなものでは無くて、と最初は恥ずかしがっていた保も、親しくなってくると木崎に請われて少しずつ、自分の曲も演奏してくれるようになってきた。保の曲はほとんどがピアノ曲で、四、五分の小曲が多かった。
 それは木崎が今までレコードから流れる演奏によって親しんできた、ドイツ音楽とは全くの別物だった。ドイツ音楽の、綿密に構築された建築物にも似た堅牢さとは、正反対の性格を有していた。
 保は、フランス音楽の材料を、光と水と風だと言った。その言葉が正確に意味するところは、木崎のような門外漢には分からない。しかし、画家がキャンバスに絵具で絵を描くように、鍵盤から生み出す音を色彩とし、その色づけで独自の絵画を描いていくような彼の作曲には、既存の形式に囚われぬ清新な自由さが感じられた。それを木崎は、光と影の濃淡や、水の揺らぎ、風の流れの自在さに似ていると思った。
 保の作る曲の隅々には、感覚的な鋭敏さと繊細さが、震えるように輝いていた。それらが保の明晰な演奏の技術に支えられて奏でられるとき、彼の音楽は、光となって教会の中を満たした。ずっと保の音を聴いていたい、この響きの中に浸っていたい、と木崎はいつも願った。
 しかし、こんなにも才能豊かであるにも関わらず、自分の曲を披露する時、保はいつも恥ずかしそうだった。その理由が木崎には分からなかったのだが、次第に打ち解けるうち、ある日、彼は打ち明けた。
「自信が、無いのです」
 その言葉に、木崎はびっくりしてしまった。こんなにも闊達に、鍵盤の上を自らの王国のように十指でもって駆け回る青年が、自信が無いとは何事であるか。
 しかし保の話を聞くうちに、木崎はこの青年を哀れんだ。この春に学校の本科へ進学したものの、戦争が続く影響で、授業はほとんど行われていないらしい。作曲も、演奏も、本当はもっと時間を掛けてたっぷりと学びたいのだと、保は悔しそうに語った。
「叔父や洋二さんは、僕のことを大げさに褒めてくれますが。学校に行けば、僕くらいピアノが弾ける奴は珍しくも何とも無いんです。己の凡庸さはよく知っています。だからこそ、もっとゆっくり、時間を掛けて音楽を学びたい。足らぬ才を補うような、知識や技量を身に付けたいのです」
 保にすっかり心酔している木崎には、その言葉はぴんと来なかった。才能溢れる上に努力家とは、大した若者だ、と重ねて感心したのみである。
「良かったですね、長崎では、ゆっくりとできて」
 言ってから、しまった、と木崎は内心で焦った。不要なことを言ってしまった。体の弱い保はここに、療養で来ているのだ。遊びに来たわけではないのだから、足踏みするようなもどかしい思いもしているはずなのに。
 しかし保は、木崎の無神経な言葉にも、「本当ですね」とどこか安らいだ表情で頷くのみだった。いつもどこか緊張したまま、油断無く背筋をぴんと伸ばしているような青年の、眼鏡の奥の瞳がこんなに穏やかな光を湛えている瞬間を、木崎は初めて目撃した。
 まだ硬い果実のような若さと、生来の真面目さゆえであろう頑なさが、眩《まばゆ》い光の奔流のような才能の底に、昏《くら》く見え隠れしていた。それは、時代や世間の波に抗いながら、埋もれて窒息しそうになっている保自身であった。木崎はそれを、何より愛した。
「まあ、僕はただの音楽好きですけん。演奏の練習も、作曲の作業も、目の前でいくらでも気軽にしてくるると嬉しかです。僕はそれを、ほんの少し聞かせてもらえれば光栄なんです」
「ありがとうございます」
 お気遣いのおかげで、ありがたい時間を過ごすことが出来ています、と保は頭を下げた。鍵盤の前に座っては、年齢など関係なく保の方が先生なので、木崎もすっかり慌ててしまったのだった。
 連弾の授業は、保の予言通り順調に進んだ。木崎の上達は、彼自身が驚くほどめざましかった。小学校の音楽の授業とは全く違っていて、教師の教え方が良いと、こうまで生徒も変わるのか、と木崎は感心しきりだった。しかし保は、音楽は耳が全てですから、と相変わらず木崎をむやみに褒めた。そういう、生徒の気分を良くしてくれるところも良い教師だと、木崎はこの年少の先生を尊敬した。
 じっくり、ひと夏たっぷりと時間を掛けて、木崎は鍵盤に置く手の形から姿勢、指の運び方まで、保から演奏の基礎を教わった。そうして、フォーレのドリー組曲の中から例の「優しさ」と、それから「子守歌」、「ドリーの庭」の全部で三曲を少しずつ習得していった。
 最初は、一ページ。次の日には、もう一ページ。
「ほんなこて、随分と上達しましたね」
 連弾の授業が始まって、一週間と少しが経った頃、様子を見に来た豊田神父もそう言って驚いてくれた。「二人の息が合わさって、一人の名ピアニストん演奏んごと聞こえるばい」と褒められて、木崎はむずがゆいながらも、母親に褒められた幼子のように嬉しかった。
 連弾では、木崎が上の第一パート、保が下の第二パートを担当した。第一パートが演奏するのはほぼメロディのみで、本来はこちらが子どもの弾くためのパートなのであろうと、木崎は素人ながらに推察した。木崎の第一パートに比べると、第二パートはリズムにしろ和音にしろかなり複雑で技巧的なことをやっており、それでも保はそれらをすいすいと、難なく弾きこなしてみせるのだった。木崎は、横目でそれに憧れた。
 だから、自分たちの演奏がちょっとでも高尚に聞こえるならば、それは紛れもなく保のおかげであり、自分はむしろ邪魔しかしていない……と、木崎はそう思っている。しかしそれでも、保の指に支えられ、また誘《いざな》われ、訥々と歌うように音楽の世界に足を踏み出すのは、何とも心地好いことだった。
 フランスの音楽は、光と水と風で出来ていると保は教えてくれた。音楽家たちの言葉の上では、印象主義音楽と言うらしい。絵画における印象派の画家たちは、光による刻々とした対象の見え方の変化を、キャンバスの上に表現しようとしたという。音楽における印象主義とは、感情や物語を表現するよりも、気分や雰囲気を喚起することに重きを置いたもののことを言うらしい。
 確かに、保がオルガンで奏でてくれるフランス音楽の響きは、ベートーヴェンの交響曲の中に描かれる壮大な激情や、ショパンのピアノ曲で歌われる主観的な叙情とは、あえて遠いところに佇《た》とうとしているように思えた。その姿勢は、音楽に向かい合う時の保の根底にある静けさや鋭敏さに、相通じているようだった。
 木崎には相変わらず、音楽の難しいことはわからない。しかしその響きは、確かに光に似ているかもしれないと感じていた。保と二人で静かに鍵盤に向かい合う時間は、教会のステンドグラスを通して透ける、夏の光のきらめきに似ている。
 とうとう練習していた三曲を、すっかり弾き通せるようになった頃、不意に保がこんな提案をした。
「せっかくだから、演奏会を開いてみたいですね」
 木崎は、仰天してしまった。豊田神父は好々爺だから、木崎がえっちらおっちらと鍵盤の上でぎこちなく手を動かすのも、孫のお遊戯のように褒めてくれるけれど、これが演奏会とあってはどうだろう。豊田神父と保以外に、自分の演奏を褒めてくれる人がいるとは木崎には思えなかった。保はともかく、自分の存在は、どう足掻いても保の邪魔にしかならないのではないか。
 それに、こんな時局である。音楽学校やプロのオーケストラでさえ、楽器や楽譜の調達や練習場所の確保に苦心していると聞く。何よりも、この非常時に歌舞音曲とは何事か、という嫌な風当たりの強さから軍部に睨まれ、演奏会の開催もままならないとの噂であった。
 しかし、保はあくまで乗り気であった。「せっかくこんなに練習されたのですから、披露の場があったって罰は当たらないでしょう」などと、しれっとしたことを言う。しかも惜しそうに、「本当はオルガンじゃなくて、ピアノがあると良いのですが」と言って、真剣に思案しているようだった。
「ピアノとオルガンでは、そこまで違うと?」
「全然違います。全く別の楽器ですよ。ピアノは打弦楽器ですが、オルガンは気鳴楽器です。まず、ピアノの機構は中にハンマーを持ち、打鍵によってそのハンマーが対応する鋼鉄の弦を……
 保は、生き生きと講釈した。好きな音楽の話をしている時には、保の表情も十八歳の少年相応になるので、木崎は何だかいつもほっとする。
……アップライトピアノと、グランドピアノを比較しても、全然別の楽器ですよ。ハンマーによる打弦の機構がまるで違うんです。それが結果として、音色の違いや指先のタッチの違いに表れてきます」
「そがん違うんですか」
「全く違います。グランドピアノは、楽器の王様ですよ」
 子どものようなことを言って、何故か自慢げに胸を張る保に、木崎は思わず笑った。それから、その楽器の王様で、この音楽を愛する若者はどんな音色を奏でるのだろうと想像した。
 二人で一緒にピアノを弾きたい、と思った。一番近くで、保の音を感じたい。
 それに実は木崎の方でも、せっかくならば豊田神父以外の、他人の前でも演奏してみたいな、などという野望をこっそりと抱いていたのだった。
 ふと、木崎は思い出した。市内に、木崎が幼い頃通っていた小学校がある。この教会からもそう遠くない。あそこの講堂には、確か大きなグランドピアノがあったはずだ。
 まるで、天啓のようなひらめきだった。不遜を承知で、思いつきのままに、木崎は保にそれを伝えた。保の目がきらりと輝いた。
「では、その学校の校長先生に頼みに行きましょう」
 木崎は頑なに首を横に振り続けたのだが、保に引きずられるようにして、とうとう母校の小学校の校門をくぐるはめになった。保は木崎と初対面の時の、寡黙で気弱な印象はどこへやら、校長先生相手に闊達に喋った。木崎は圧倒される思いでその爽やか過ぎる弁舌を見守った。
 全く意外なことに、保の熱弁はあっさりと通った。このご時世に音楽なぞけしからん、と一喝して放り出されるのではないかと、木崎は最初から最後までびくびくし通しだったのだが、校長先生は迷惑そうにもせずに、二人の話をじっくりと聞いてくれた。
 それには一応、裏があった。何でも現在、校長先生の実家の寺が寄宿舎として陸軍に貸し出され、兵隊たちが宿営している。その兵士たちが戦地に出動することになったので、出陣を見送るために、小学校では近々、学芸会を開くことになっているのだという。
 演《だ》しものは合唱や演劇がほとんどなのだが、全校生徒と兵隊たちを集めると、音楽室では手狭ゆえ、講堂を使うのだと校長先生は言った。グランドピアノが使える、と木崎と保は思わず目を見合わせた。
「子どもたちが一生懸命、兵隊さんたちに感謝ば伝える、ちゅうとが大切とは思います。ばってん、何せ子どものすることですけん。音楽学校で学ばれとう学生さんが、本格的な演奏ばして下さるんなら、兵隊さんたちの慰労になって良かろうと思います」
 それを聞いて、木崎はすっかり青くなってしまった。そういう理由で許しをもらうのならば、やはり自分の演奏は邪魔になってしまうのではないかと再三主張したのだが、背中を後押ししたのは意外なことに、保ではなく校長先生だった。
「いやいや。木崎さんは、大陸で御国のために立派に戦って来られた方ですけん」
 木崎は思わず、返事に詰まった。木崎の弱腰を励まそうと、何か言おうとしていた保も、そこで黙った。
 校長先生は、続けた。
「豊田神父とは、昔から知り合いで。よう、木崎さんのお話も伺うとりましたばい。何でん激戦のさなか、そん左足も名誉ん負傷やったそうで。いやはや、我が校ん卒業生が立派なことやと、感心しとった。戦地から帰って来てからも勤労に努め、兵隊さんたちば戦地に送り出すお手伝いばすることになるとは、再起奉公の手本のような話やなかですか。ぜひ、子どもらにも木崎さんの演奏ば聞かせてやってくるると嬉しかです」
 機嫌好《よ》く話す校長先生に、保はさっきまでとは人が変わったように、無表情でうつむくだけだった。木崎はあいまいな笑みを浮かべながら適当に相槌を打ち、とりあえずは校長先生が、宿営中の兵隊さんたちに話を伺ってみる、ということでその日の訪問は終わった。
 とんとん拍子に話がまとまり、何だかあっけないような気持ちで二人は帰路に着いた。放課後に邪魔したのだが、どうやら随分話し込んでしまったらしい。もう、日暮れ時だった。
「洋二さんは、僕のことをどう思っていますか」
 二人で並んで歩く帰り道、保は唐突にぽつりと呟いた。
「どうとは、どういうことやろう」
 やや困惑して木崎が尋ね返すと、保は校長先生の前でうつむいてしまった時の、あの暗い無表情のまま、「勤労もせず、惰弱な心身のせいで戦場にも行かず、軽佻浮薄な音楽にばかり耽っている不謹慎なやつ、とお思いではないですか」とぼそぼそ呟いた。
 木崎は、びっくりしてしまった。それで思わず、こう尋ねた。
「僕が一度たりとも、君に対してそがんふうに思うたことが無かことは、一緒に過ごした時間で分かってもらえると思います。やからそれは、君が自分のことを、不謹慎なやつと思うとる、ちゅうことやなかですか」
 保は、今度こそ黙り込んでしまった。
 夕闇の中、二人は無言で歩いた。夕焼け空の下で、二人は同じ色に染まった。季節により、時間により、表情を変える光。保の音楽の材料。教会のステンドグラスはきっと今、真っ赤に燃えているだろう。
 保の才能は光だ。その光輝は、木崎にとって疑いようも無い。しかし、光が強烈であればこそ、影が濃くなるのも道理なのだろう。その影が今、保を侵食し、苛んでいる。
……洋二さんの信頼を疑うつもりは無かったのです。すみません」
 ややあって、保はようやく絞り出すようにそう言った。胸中に湧き出る全ての言葉を言いあぐねて、それでもこの言葉だけは伝えなければと、決心してようやく口にしたような、そんな調子だった。
 音楽のこととなるとあれだけ達者に口が回るのに、不思議な青年だと木崎は思わず笑った。元より、保の言葉に腹を立てたわけではなかった。ただ、保がそんなふうに、自分を虐めるような考えを持っているのは悲しいと、そう思っただけなのだ。
「僕は君が、好きなように音楽をしてくれれば、それだけで嬉しかです」
 木崎は、思ったままのことを素朴に答えた。保は、ようやく少し笑った。木崎は左足をかばいながら、保はやや猫背になって、坂の多い夕暮れの町を歩き続けた。
 音楽の材料。光と水と風。ぬるむ大気。熱くなった地面を冷ます夕どきの風。夏のにおい。ひぐらしの、聲《こえ》。
「もうすぐ、夏が終わりますね」
 教会の建つ丘の下。別れ際に、保は言った。
「学芸会の日の翌日、僕は東京に発《た》ちます。例の兵隊さん方の返答によっては、参加させてもらえないかもしれませんが……。最後に洋二さんと、楽しくピアノが弾けたら嬉しいです」
 保は、深々と礼儀正しくお辞儀をした。保のその姿を見た時、木崎は何故か胸が詰まったようになってしまった。また明日とか何とか、通りいっぺんのことだけを言い合って、別れた。
 背の高い、細長い保の影が、夕闇に溶けながら遠くなっていく。その後ろ姿を、木崎は坂のふもとに立って、いつまでも眺めていた。

 *

 校長先生はああ言ったものの、良い歳をして戦場にも行かぬ男二人が、兵士たちの前でピアノを連弾するなど言語道断……などと、下手をしたら兵隊たちの前まで連れて行かれて一喝されるのではないかと、木崎は数日の間ひやひやして過ごした。
 だから小学校の教頭先生から連絡が来て、軍から許可が下りたと言われた時には、全く意外な気持ちに包まれた。何でも、宿営中の兵隊たちの将校の中に、無類の音楽好きが居たらしい。東京の音楽学校に通う秀才の演奏を、若い兵たちに是非とも聴かせて欲しいと、逆に請われたくらいだと言われた。
 しかし流石に、そんな場でフランス人の曲を演奏するのは不味いのではないかと、木崎は心配した。すると保は、しれっとこんなことを言った。
「それなら、ドイツ人だということにしてしまいましょう」
「君は、大胆なことを言うなあ」
 呆れる木崎に、保は真顔で「こんなに素晴らしい曲に、誰が作ったとか、その作曲家がどこの国の人間だとか、そんなことが関係ありますか」と返す刀のように問うた。
「作曲家が何じんで、その国がどこと戦争をしているだとか、そんな無粋なことが曲に関係ありますか。こんなに優しい曲ですよ。僕は、この愛らしい曲が、フォーレの素晴らしい音楽が、この国の誰にも知られず何の日の目も見ないでいることの方が、何よりも嫌なんです」
 保に頑なにそう押し切られては、木崎の方では何も言えない。露見《ばれ》なければいいなと、小心に心臓をどぎまぎさせることしか出来なかった。
 学芸会当日の朝、木崎は久々に国民服ではなく、洗いたてのワイシャツに袖を通した。将校さんもいらっしゃるなら、きちんと襟のついた服が良いのではと、木崎よりも気を揉んだ母が前日に用意してくれたものだった。豊田さんのところの甥っ子と一緒に小学校の学芸会に出るのだ、と家族に報告した時には、母は変な顔をしたものだが、結局はそうやって取っておきのシャツを出してきてくれたり、何かと世話を焼いてくれた。何だか七五三のような気分で、木崎はむずがゆかった。
 祖母は、何も言わなかった。祖父が存命であれば、何か小言のようなことでも言われたかもしれないが、既に故人だった。この家は、女の多い家なのである。
 ピアノの演奏や合唱が聴けるということで、身重で里帰りしていた妹の、まだ幼い長女の裕子が一緒に来たがった。木崎の姪っ子である。
 このお腹では自分が連れて行けないからと、妹の泰子は渋ったのだが、裕子はぐずって聞かなかった。親子喧嘩の気配を見かねた木崎が、演奏や演《だ》しものの間じゅう静かにしているならという約束で、裕子をお守りしながら連れて行くことになった。
 裕子ははしゃいで喜んだ。自らも学芸会に出るような気分で、「のどかなりや春の空、花はあるじ鳥は友……」などと、幼い高い声で機嫌好く歌っている。父親である、泰子の夫には生まれた瞬間、「なんだ、女子か」と残念がられた子だったが、木崎はこの姪っ子を可愛がっていた。
 今、泰子のお腹にいる子はどちらだろうか。男の子だろうか、女の子だろうか。泰子は何も言わないが、次も女の子だと良いと願っているのが、兄である木崎にはうすうす感じ取れた。生まれたのが女の子なら、その子は大きくなっても戦場に行かなくて済む。泰子の夫は、先月徴兵されたばかりだった。
 姪っ子を連れて向かった小学校の講堂は、大人や子どもでひしめいていた。全校生徒と教員、それから兵隊たちが集められ、皆が整然と並んでいるのを見た瞬間、木崎は緊張で自分の心臓がどくどく言い出したのを感じた。
 見回すと、講堂の後ろの方に、既に保が来ていた。ぽつんと一人で立っている彼に手を振ると、木崎に気が付き、保は妙な顔をした。
「お子さんがいらっしゃったんですか」
「いいや、妹の子です。裕子、あいさつなさい」
 裕子は礼儀正しくお辞儀をし、おじちゃんこんにちは、とはきはきした声で言った。いくら保が大人びているとはいえ、二十歳にも満たぬ青年が小父《おじ》ちゃんなどと呼ばれたのは、初めてのことだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする保に、木崎は思わず吹き出し、それで緊張が少しほぐれた。
 校長先生のあいさつで学芸会が始まると、子どもたちが順に合唱や演劇を披露した。合唱に合わせてピアノを弾いているのは、若い女の教員だった。子どもたちは「兵隊さんよありがとう」「日の丸行進曲」などの曲を声を合わせて歌い、曲の最後には決まって兵隊たちに向かって、感謝や励ましの言葉を述べた。将校たちの機嫌が好《よ》さそうだからか、兵たちの気分も緩みがちのようで、「めんこいの」などと拍手に紛れて、どこかの方言のような言葉で楽しそうに囁き合うのが聞こえた。
 最後に、木崎と保の出番が回って来た。
 学芸会に出ることが決まった時から、木崎は緊張しきりだったのだが、講堂の舞台の上に立ち、何百人の人間を前にすると、いよいよ腹の具合でも悪くなりそうなくらいあがってきてしまった。
 保の言った通り、オルガンとグランドピアノは全く別の楽器だった。学芸会のための練習という名目で校長先生に頼み、二人はここ数日、教会のオルガンではなくこのグランドピアノで練習をさせてもらっていたのだが、鍵盤の数や指の感触、音の響きなどとにかく全てが丸っきり異なるので、木崎は世界が引っくり返ってしまったようだった。久々にピアノを触れて嬉々とする保を横に、木崎はピアノという楽器に馴れるので精いっぱいだった。
 ピアノの鍵盤の上で、保はまさに水を得た魚だった。同じ鍵盤、同じ楽器を演奏しているはずなのに、保と自分ではまるで音の響きが違う。本当にこの青年と同じ舞台に立つのかと、気が引けてしょうがなかった。楽しみと後悔を比べたら、保には言えないが残念ながら後者の方が圧倒的に勝つ気分で、木崎は今日という日を迎えたのだ。
 壇上に立ち尽くしたまま、そっと隣を伺う。保の方はいたって慣れた様子で、観客に向かって堂々と面《おもて》を上げている。木崎は慌てて、真似するように背筋を伸ばした。
 子どもたちの演目の最後に突然大人が出てきたので、講堂の中は静かにざわめいていた。事情を知っているのは教員と、将校たちだけのようで、大多数の子どもたちと兵隊たちは静かに囁き合いながら、好奇の目を二人に向けている。
 司会の教員が、声を張り上げた。
「ご紹介します。本日の慰労学芸会の最後は、こちらのお二人がピアノば弾いてくれます。こちらの桐原保さんは学生さんで、現在、東京の音楽学校で音楽を専門的に学ばれとる方です」
 潮騒のようなざわめきが、どよめきに変わった。観客たちの期待が瞬時に膨れ上がるのを肌で感じながら、自分が保の演奏の邪魔をしてしまうのではと気を揉む木崎は、出来るなら自分を先に紹介して欲しかった、と重圧にげんなりした。
「そして、こちらの木崎洋二さんは、本校の卒業生です」
 司会の紹介が、木崎に移った。木崎は、緊張でうつむきがちになる顔を、何とか気合いで正面に向けた。
「木崎さんは四年前に、支那の戦場におられました。K省という場所です。非常に激烈な戦闘があった場所ですが、木崎さんは勇敢な日本国兵士として、立派に戦うてらっしゃいました。小学生の皆さん、木崎さんの左足に注目して下さい」
 その場に居る全員の視線が、木崎の萎えた左足に注がれた。木崎は、胸が凍ったように感じた。
「これは、戦場で勇敢に戦うて、無念にも足ば失うてしもうた兵士に贈らるる、恩賜の義足です。戦場から帰ってからも、木崎さんは御国んため、立派に軍需工場で働いてらっしゃいます。鐡脚《てっきゃく》勇士である木崎さんは今日、再起奉公の思いば胸に、戦地に起《た》つ兵隊の皆さまを、ピアノ演奏でお送りします」
 わっと拍手が起こった。講堂の後ろの方では、先にピアノを弾いていた女教員の膝の上に抱えられ、裕子も周りを真似てぱちぱちとあどけなく拍手をしていた。
 木崎は、それら全てを遠くの出来事のように感じていた。講堂の外の蝉の声だけが奇妙に近く感じられた。それから、自分の心臓の音。無関係な音にだけ、意識が散漫に散っていく。
 立派ではなかった。勇敢でもなかった。自分は何も出来ず、ただ怯えて、戦場で最も卑怯な真似に走っただけなのだ。
 夏が、遠くなっていく。
「洋二さん」
 不意に、保が木崎の名を呼んだ。木崎は、一気に現実に引き戻されたように、隣の保を見た。
「楽しみましょう。せっかく、ピアノがあるんです」
 誰が聴いているかなんて関係ないですよ、と保は言った。いたずらっ子のような無邪気で、眼鏡の奥から瞳を輝かせていた。
 何か言おうとしたが、保が観客に向かって深々とお辞儀をしたので、木崎も慌てて礼をした。拍手が更に大きくなった。二人は、ピアノの椅子に座った。
 途端に、観客はしんと静まった。木崎は鍵盤に向き合うと、さらに全身から血の気が引いていくようだった。指先が針金のようになって、固く冷たく震えていた。
 椅子の高さは本番の前に、しっかりと調整したはずなのに、鍵盤をやけに遠く感じた。衆目の集まる舞台の上で、木崎は自分が孤立無援の、非常にちっぽけな存在のように感じられた。
「ピアノは、孤独な楽器なんです」
 保はいつものように、鍵盤を見下ろしながら囁いた。
「八十八鍵も鍵盤があって、オーケストラの音域をたった一人でカバー出来てしまうんです。こんな楽器は、鍵盤楽器以外にありません。何でも出来るから、一人で舞台に立つことが多い。孤独な王様です」
 ですから今日は、洋二さんが隣に居てくれて心強いです、と保は言った。木崎は意外さに打たれ、思わず保の顔を見た。
「君のような人でも、こがん時は緊張すると」
「しますよ。人前に出る時は、毎度のことながら心臓が飛び出そうになります。特に今日は、兵隊さんたちの前で、粗相があってはならないでしょう」
 フォーレをドイツ人と偽ろう、などと大胆なことを言っていた青年と、同一人物とは思えない神妙な発言に、木崎は思わず笑ってしまった。保は、嬉しそうに唇の端に笑みを溜めた。
「ここが、教会だと思いましょう。普段と同じ、僕たちの演奏をしましょう」
 結局はそれが一番難しいのですけれど、と言って、保は柔らかく笑った。
「教会……
 呟いて、木崎は講堂の窓を見上げる。ステンドグラスから透ける夏の光が、ほんの一瞬、白と黒《モノクローム》の鍵盤上にきらめいた気がした。
 二人の発表は、つつがなく終わった。木崎の指は結局、練習の時のようには動いてくれず、しょっちゅう音符が飛んだり、つかえたり、間違えたりした。けれどそれらの間違いが目立たぬよう、保は鍵盤上で器用に立ち回り、十分弱の連弾を木崎に弾ききらせてくれた。
 保の手を借りながらよろよろと立ち上がり、ステージに立つ。緊張が解けて、尋常のようにとはいかないまでも、ようやく落ち着いた気持ちで講堂の中をぐるりと見渡した。自分を押し潰す巨大な群衆であった観客一人ひとりの顔が、ようやく個人のものとして木崎の視界に入ってきた。
 熱っぽい拍手が、舞台の上の二人を包み込んでいた。
 おそらく人生で初めて耳にしたであろう、可憐で甘美なフランス音楽の響きに、子どもたちはうっとりするというよりも、不思議そうに目を丸くしていた。
 そのたくさんの無垢な瞳を目にした瞬間、木崎は不意に撃たれたような気持ちになった。この子どもたちも、大人になればいつかは、戦場に行くのか。講堂の後ろに目をやると、裕子もまた、無邪気にはしゃいで手を叩いていた。
 次いで、居並ぶ兵士たちを見た。皆、意外なくらい感激した顔で、木崎と保に拍手を送っていた。その無防備な、あどけないくらい素直な表情を見て、木崎はようやく気付いてしまった。皆、ひどく若い。おそらくは自分と、ひょっとしたら保とすら、そんなに変わらないくらいに。
「お二人とも、本日はありがとうございました」
 拍手がいつまでも鳴り止まぬ中、舞台上に歩み出て来たのは校長先生だった。
「兵隊さん方への壮行会ということで、よろしければ桐原さんに、最後に一曲、『海ゆかば』を弾いて頂き、子どもたち皆の合唱で戦地に旅立つ兵士の皆様を盛大に送り出したいと存じます」
 しん、と講堂の中が静まった。全員の注目が、木崎の隣に立つ保に集まった。
 打ち合わせには無い出来事だった。木崎と、それからきっと保にとっても、霹靂《へきれき》のように感じられた言葉だった。
 木崎は、保を見た。固い横顔だった。潔癖過ぎて、抗えない大き過ぎるものの前には、今にも折れてしまいそうな青年の横顔だった。
 保は無言で、ピアノの椅子に戻った。木崎は、慌てて舞台袖に避けた。木崎がその背中を見守る中、保は黙ったまま鍵盤に向かい、細く、長く息を吸った。鍵盤に、長い指先が酷くゆっくりと沈んだ。
 暗い和音が鳴った。木崎は耐えきれず、保から目を反らした。
 講堂から、保のピアノと低い合唱が聞こえる。木崎はじっと目を閉じてそれを聴きながら、まぶたの裏に灼《や》きついた光景を反芻していた。
 大人に裏切られた子どものような保の横顔。何かを雄弁に語りたいのに、黙さざるを得ない孤独な背中。西陽に変わった夏の午後の日差しは、青年の大きな手を、痛いくらいに強く灼いていた……

 *

 翌日の朝早く、保は木崎の家まで別れを告げに来た。
 豊田神父に所在を教わったのだろうか。昨日の疲れでだらしなく寝こけていた木崎は、無精ひげもあたらぬまま、取るものも取りあえずで玄関に出た。保はいつものこざっぱりとした格好で、何か大切なものを諦めたかのような、静かな笑みを浮かべていた。
「楽しかったです。おかげさまで体も、だいぶ具合が良くなりました」
 このまま戦場にだって旅立てそうですよ、と言って笑う保に、木崎は何と言ったら良いかわからなかった。保は、真面目な顔で言った。
「必ず、手紙を書きます。また、洋二さんにお会いしたいです。いつかきっと、必ずもう一度、僕と一緒にピアノを弾いて下さい」
 こうして保は、一夏の夢のように長崎を去って行った。
 
 *

 拝啓 木崎様
 すぐに手紙を書くとお約束していたのに、気が付けばひと月も間が空いてしまって、申し訳ありません。
 段々と秋も深くなって参りましたが、木崎様はお元気にしていらっしゃいますか。
 東京はもう、秋のあの青硝子《がらす》のように透き通った空そのままに、どこもかしこも冷ややかです。夏の気配はどこにもありません。そのせいで、長崎で過ごしたあの時間がふと、全て嘘だったような気がしてしまう時があります。それがこの頃は毎日で、そのことが、酷く寂しい。
 長崎では夏の間、静かで安らいだ時間を過ごすことが出来ました。この目まぐるしい世の中で、木崎様と過ごしたあの時間だけは時が止まってしまったかのようでした。まるでフォーレのレクイエムを聴くような心地だ、とずっと思っておりました。
 洋二さん(お許し下さい。手紙の中でも、長崎で過ごしたあの時のように、洋二さんと呼ばせて頂いてもよろしいでしょうか。僕は、長崎が懐かしくてしょうがないのです)は、フォーレのレクイエムをご存知でしょうか。実に良い曲なんです。ヴェルディやモーツァルトのレクイエムと違って、怒りや悲しみに慟哭するのではなく、死者に安らぎを奏するための祈りの曲です。内省的なところが気に入っていますが、洋二さんも必ずお好きだと思います。もしもレコードが手に入りそうでしたら、聴いてほしいのですが、難しいでしょうね。
 ここがあの夏の教会で、目の前にオルガンがあって、隣に洋二さんが居て下さったらと、想像するだけでうずうずしています。きっとあなたは、喜んでくれるはずですから。
 あなたと過ごす時間が、僕は本当に楽しかった。夏の間、面と向かって言えなかったことを、もっときちんと言葉にすれば良かったと後悔しながら手紙にしたためています。僕にとってはあまりに愛しい、夢か幻のようなひと夏でした。
 洋二さんには、感謝しております。こんなひねくれた、わがままな子供に、ひと夏ものあいだ時間を割いて下さいました。
 こんな時代です。音楽など、不要不急のもの。何の役にも立たぬ、贅沢で下らぬものと頭では分かっております。洋二さんと出会って、損も得も無く、ただ単純に僕が音楽をすることを受け入れ、喜んでくれる人がいることを、初めて知りました。有難く、稀有なことだと思います。あなたと出会えて、本当に良かった。
 洋二さんにしか打ち明けられませんが、戦争というものが始まってから、東京ではずっと窒息しながら過ごしておりました。我ながら弱いことだと恥じ入りつつ、体を壊したのもきっと、そのせいだと思っています。存在を必要とされないことに、人間は弱いものですね。
 もう一つ、恥ずかしいことを申します。僕の性格からきっと、洋二さんはお分かりでしょうが、学校にはあまり友達が居ないのです。音楽は好きだけれど、学校は嫌いです。授業はほとんど受けられませんし、周りには馴染めません。焦りもあって、空回りばかりしています。洋二さんと一緒に教会で過ごしたあの時間の方が、よほど作曲や演奏の勉強に打ち込めました。
 長崎のあの、近過ぎて今にも落ちてきそうな夏の濃い青空を懐かしく思います。目を閉じれば今でも、教会のステンドグラスから透きとおる、眩《まばゆ》い夏の光が僕の眼裏《まなうら》を赤く燃やすのです。
 ちゃんとお礼を申し上げようと、ようやく決心して筆をとったはずなのに、随分と取りとめの無い中身になってしまいました。とにかく、感謝を伝えたかったのです。それだけはどうぞ、ご承知下さい。
 またすぐに、手紙を書きます。洋二さんも、お体に気をつけて。ご自愛ください。
 
 [#地付き]敬具
 
 *

 日本ニュース 第百七十七號

(モノクロームの映像に、軍楽隊の奏でる陸軍分列行進曲が流れる。重く苦しい変ロ短調)
(小雨の降る中、一糸乱れぬ隊列を組んで整然と行進する青年たち)
(青年たちはそれぞれ、学生服に巻脚絆、編上靴を身に着け、古びた歩兵銃を担いでいる)
 秋雨煙る明治神宮外苑競技場。全日本学徒が多年、武技を練り、技を競ったこの聖域に、十月二十一日朝まだき、出陣学徒壮行の式典、厳《おごそ》かに挙行。
(音声中断)
(音楽は変ホ長調、ハ短調の転調を経て、一転して明るいヘ長調へ)
(飛び交う号令)
 大君に召されて戦いの庭に出で立つ若人。今日こそは省みなくてはるかに宮城を遙拝《ようはい》し奉る。
(皇居に向かい、銃を捧げ、校旗を棒持する学徒たち。屹立する何千本もの銃身)
(君が代のオーケストラ演奏)
 奏上、内閣総理大臣閣下に対して敬礼。頭、右、直れ。

 東條内閣総理大臣
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日《こんにち》来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日《こんにち》来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対《あいたい》し、気魄《きはく》においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります」

 学徒代表
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予《か》ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸《ほとば》しめ得たりし生《せい》らは、ここに優渥《ゆうあく》なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈《あに》、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉《ことごと》くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和十八年十月二十一日、出陣学徒代表」

(静かに流れ出す「海ゆかば」の合唱。潮が押し寄せるように、歌声は高らかになっていく)
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳」
 万歳、万歳、万歳。
(日本ニュース 終)

 *

 来ると言った保からの手紙は、待てど暮らせど来なかった。
 元気にしているかと、木崎からも二度ほど、便りを送ってみた。けれど、それにも返事は無かった。
 木崎は時おり豊田神父の教会で、保に教わったオルガンを弾いてみた、一人では完成しない連弾は、いくら鍵盤をなぞっても空《むな》しい気持ちになるだけだった。

 *

 保が再び教会に姿を現したのは、翌年の夏、昭和十九年の八月のことだった。
 その日、木崎が教会を訪れたのは、夜遅い時間のことだった。前日から、豊田神父に報せを受けていたのだ。保がもう一度東京から、長崎を訪れるのだと。
 保の到着は深夜になるとのことだったが、豊田に許しをもらい、木崎はその日のうちに教会まで向かった。毎度のことながら、木崎の足にこの勾配はきつい。義足の左足を引きずり、汗をかきながら坂を登りきり、教会の扉の取っ手に手を掛けた。そして扉の向こうから漏れ聞こえたオルガンの音に、木崎は思わずぴたりと手を止めたのだった。
 去年のあの夏、保に初めて出会った日のことを、木崎は思い出していた。心臓が、痛いくらい切実に高鳴った。
 祈るような気持ちで扉を開くと、果たして、そこには保の姿があった。忘れるものか。あの真っ直ぐ伸びた後ろ姿。薄暗い教会の中でわずかな明かりを灯し、保は背筋をぴんと姿勢よく伸ばして、鍵盤をひたむきに見つめながらオルガンを演奏していた。まるで、彼自身の音楽に対する態度のように、真っ直ぐに。
 短く刈り込んだ髪も、身に付けた白いシャツも、薄い耳の間から覗く黒い眼鏡のつるも、何も変わらなかった。静かで、寡黙な後ろ姿だった。
 話したいことがたくさんあった。すぐに笑顔で駆け寄りたいのをぐっとこらえて、木崎は教会の後ろの壁に背を預け、保のオルガンに耳を傾けた。
 静謐な印象の曲だった。激情は極限まで抑えられ、怒りや悲しみなどの苦痛は、注意深く遠ざけられている。ただひたすらに穏やかで、安らかな至福に満ちた、聴く者を慰撫するような音楽だった。
 音楽は、密やかに終わった。
「お久しぶりです」
「保君」
 保は、鍵盤に手を置いたまま呟いた。木崎の遠くから話しかける声が、上《うわ》ずった。
「何の曲やろうか」
「フォーレのレクイエムの中の、『Pie Jesu』という曲です」
「フォーレの、レクイエム……
 木崎は、思わず笑顔になった。保が、手紙の中で教えてくれた曲だ。ぜひ聞いてみたいとこの一年、ずっと願い続けていたが、レコードがどうしても手に入らなかった。
 足早に駆け寄って、木崎は保の隣に並び立った。
「保君……
 そうして、近くまで来て、木崎はようやくハッと気が付いた。
 この青年は、こんなに痩せ細っていただろうか。
 上背の割に、痩せた体格の青年だとは思っていた。物資が不足する生活の中、ろくに物を食べていないのはこちらも同じだったが、それにしても酷い変わりようである。保のような境遇の人間ならば、食うには困らないと思っていたのだが、そうでは無いのだろうか。
 いったい、この一年間で保に何があったと言うのか。
「ずっと、木崎さんに弾いて差し上げたいと思っていました。僕の、一番好きな曲なんです」
 保は生気の抜けた、虚ろな眼差しで呟いた。木崎は、嫌な胸騒ぎを感じながら言った。
「良い曲ですね。子守歌のようだと思いました。それから、まるで天国にいるようだと。安らいだ気持ちになる曲ですね」
 保は、ようやく振り向いて微笑んだ。
「やっぱり、木崎さんは耳が良い」
 何と返事したら良いか分からず、木崎はまごついた。保は、静かに続けた。
「僕は今、十九です」
 歳の話だ、と鈍い木崎が遅れて理解する。保の表情が読めない。彼の好む音楽そのもののように、静謐な態度だった。
「先日発表された在学徴集延期臨時特例で、文系の学生が徴兵されることになりました。満二十歳になれば、徴兵です」
 木崎は、うろたえた。学生の徴兵については、もちろんニュースで知っている。ラジオを聞いた。東京の明治神宮で行われたという壮行会で、学生代表の青年が、勇ましい声で答辞を読み上げるのを耳にした。
「あの壮行会では、軍楽隊と一緒に、音楽学校の学生も行進曲を演奏していたんです。自分たちの演奏で、戦地に赴く先輩方を見送りました」
「それは……
 自分たちの奏でる音で、共に演奏の腕を競った朋輩を見送ったのか。
 木崎は、胸がしめつけられるようになった。辛かっただろう、と音楽学校の学生たちの胸中をそっと偲んだ。辛かった、などという言葉では、到底表せないだろうけれど。
 保は、皮肉に唇を歪めた。
「あの行進曲はね、実はフランス人の作った曲なんですよ」
「そうやったんか」
 木崎は知らなかったので、意外さに目を見開いた。
「あれは、『抜刀隊』じゃろう。軍歌や。そこら中で耳にするが、フランス人の作った曲やったんか」
「そうですよ。けれどあれは、日本の陸軍の象徴のような曲でしょう」
 軍の正式では分列行進曲というそうです、と保は言った。
「フランス人の曲とは言え、日本人の耳に馴染み過ぎた曲ですから。今さら排除という訳にもいかなかったのでしょうね。しかしあれを作ったのは、ルルーというれっきとしたフランス人ですよ。酷い話じゃないですか。こちらには、ドイツとイタリア以外の音楽は演奏するな、出来るだけ軍歌を歌えだとか、演奏会でサキソフォンは使うなとか、散々に理不尽な注文を付けておいてです。カンツォーネとシャンソンを聞き分ける耳も無いくせに、頽廃的な発声は止《よ》せだとか、ジャズは止めろとか軽佻浮薄な音楽は禁ずるだとか、好き勝手を言ったくせに、自分たちが戦地に向かう学徒を送り出す曲には、都合を曲げてフランス人の曲を使うんです。はなから筋の通らない理不尽を、我々は鼻をつまんで無理やり嚥下させられていたわけじゃないですか」
 他に聞く者居ない小さな丘の上の教会の中とはいえ、聞いていてひやひやするようなことを保は一息に口走り、珍しく吐き捨てるような口調で言った。
「いったい、敵性音楽とは何だったんですか。僕たち音楽家は、何のためにこんな屈辱と我慢を強いられていたんですか。あれは全部、最初から最後まで嘘だったんですか」
 保の剣幕に、木崎は何も言えなくなった。無言。しばらくして、保が口を開いた。
「すみません。木崎さんには、関係の無いことでした」
 激情を無理やり押さえつけてようやく唇を動かしていることが、震える語尾からありありと伝わって来た。「君は悪くないけん」と、木崎は声を掛けた。
 その慰めの、何と無意味で、無力で空虚だったことだろう。木崎は自分の中を、乾いた風が吹き過ぎていったようだと思った。触れただけで、互いを傷付ける風だった。
 木崎は、今の世の中を嫌だと思って生きてきた。木崎の好むような優しい音楽は、女々しい、惰弱なものとされ、国体に反するといった木崎には上手く理解できない理由で排斥されてきた。数年前、徴兵されて支那の戦場に赴いた時は、この世の地獄に来てしまったと思った。もう一度あの戦地に立てるかと問われれば、恥ずかしながら、もう二度と御免だとしか思えない。
 けれどそれに対して、怒りを覚えたこともなかった。理不尽だが、非常時ならば仕方が無いのだろう。老人から幼子まで同じように我慢を強いられているのだから、きっと自分も耐え忍ぶべきなのだ。そう、受け入れて生きてきた。だからこの目の前の青年のように、抑え込まねば今にも溢れてしまいそうな、憤怒や悲嘆や慟哭を感じたことは無かった。
 木崎はどぎまぎとした。こんなにもはっきりと、この国が行う戦争への怒りを露わにする人間に、木崎は今まで出会ったことが無かった。そして、保の抱く怒りや悲しみに上手く共感できないまま、それでも嫌だと思った。この若い、年少の友人を戦争に取られるのは、どうしても嫌だ。
 木崎は、あえぐように言った。
「君は、体が弱いじゃろう。徴兵検査も、まだ先のことやなかと」
「この八月の終わりで、僕は満で二十歳になります」
 血を吐くような保の言葉に、木崎はくらりとした。目まぐるしい世の中で、保と過ごす時間だけは時が止まったかのように錯覚していたが、目の前の若者の肉体は確実に成長していたのだ。いっそ、残酷なくらい健やかに。
「ばってん、それまでには日本が勝って、戦争も終わっとうかもしれんです」
 保への慰めというより、自分に向けた口当たりの良い言葉だった。保はまた、皮肉な形の唇で呟いた。
「終わりますか。自分の国の学生を戦地に送り出すのに、自分たちの手で作った曲すら用意できないような国が、本当に戦争で勝てますか」
 木崎は、また言葉に詰まった。勝つんじゃないのか。日本は、連戦連勝なんじゃないのか。新聞やラジオも皆、そう言っている。それを疑ったことなど無かった。今の生活は苦しいけれど、忍従し続けていれば、いつか全てが終わるのだと信じていた。耐え忍べばいつかまた、好きに音楽を楽しめる日がくるのだと。それまでの我慢なのだと。だから、
「音楽は……今は、必要の無いものですけん」
 木崎の言葉に、保は裏切られた顔をした。
 その保の表情を見て、木崎はようやく、絶対に言ってはならないことを口にしてしまったことに気が付いた。傷ついた油彩画のような表情で、保は口をつぐんだ。
「すまん。そがんことば言いたかった訳やなくて……
 木崎が下手な言い訳を重ねようとした、その時。
 不吉な音が鳴った。
 遠く聞こえるその音は、甲高く、上下しながら不快に長く尾を引いて、繰り返し鳴った。ドのシャープ、と木崎はつい癖でその音程を聴き取った。これはサイレンだ、とその正体に気付いて身を凍らせたのは、その次だった。
「空襲だ」
 保はさっと立ち上がり、大股で出口に向かい、扉を開け放った。
 教会の扉から覗く夜空が、花火が打ち上がったように明るくなっていた。

 *

 昭和十九年八月十一日。
 中国基地から発進した米軍B29[#「29」は縦中横]爆撃機が、初めて長崎市を空襲した。
 B29[#「29」は縦中横]は同年六月十六日、七月七日の二回、北九州工業地を爆撃し、第三次空襲で長崎を襲った。軍需工場の集まる、長崎の工場地帯を狙った攻撃であった。
 空襲は目標を外れ、工場地帯にはほとんど被害は出なかった。B29[#「29」は縦中横]の落とした焼夷弾は、隣接の平戸小屋町・稲佐町と古河町の一部を焼いた。それが、長崎という町が初めて経験した空襲であった。

 *

 空襲警報を聞いて、慌てて家に帰ろうとしたところを、木崎は保に腕を掴んで止められた。
「まだ、空襲は終わっていません。危険な状況かも」
 木崎は、保の手を振り払った。
「家には、女手しかおらんとや。妹や、幼か姪も二人おる」
 言ってから、木崎は胸がふたがれたようになった。何と頼りないことだろう。唯一の男子である自分の足はこのありさまで、家に戻ってもきっと、足手まといにしかならない。
 木崎は戦死した兄や、自死した父のことを思い出していた。戦場に行ったことの無い父は、そのことをずっと恥じていた。父がずっと感じていた慙愧や羞恥と、今の自分のもどかしい無力さは、少しだけ似ているだろうか。
「豊田さんば、どこに」
「叔父なら、母屋の方で寝ているはずです」
 二人で様子を見に行こうとしたところで、寝間着に身を包んだ豊田神父が駆け付けて来た。初老の彼の身を案じたはずが、逆に足のことを心配され、ともかく空襲が収まるまでここで待てと、保と二人がかりで説得されてしまった。木崎は、歯がゆかった。
「灯りが」
 気が付いて、保が急いで灯りを消した。ふっと、教会の中に暗闇が訪れた。
 木崎は、耐え難い気分に襲われた。こんな夜遅く、暗い闇の中で、家族の女たちはいつ終わるとも知れない恐怖に耐えているのか。幼い姪などは、いかばかりか恐ろしいことだろう。
 やはり、早く家に戻らねば。役に立てなくても、せめて傍に居てやりたい。
 暗闇の中で、保が口を開いた。
「行くなら、僕が行きます」
 保は断固として言い切った。「洋二さんは、叔父と二人でここに居て下さい。空襲が収まって、辺りが安全なことを確かめてから、家に戻って来て下さい」。
 そう言えば、保は木崎の家を知っているのだった。
 木崎が慌てて止めるのも聞かず、保は教会を飛び出した。そして、木崎の足ではとても追い付けないような速さで、坂の下へと駆けて行ってしまった。
 自分よりも若い、子どもとそう変わらない年齢の保を危険な目に遭わせてしまったことに、木崎はまた唇を噛んだ。
 空襲は、おそらく一時間ほどで止んだ。もっと短かったような気もするが、夜だというのに明るい空を見上げて、敵の航空機が爆弾を落としていくのをただじりじりと見守ることしか出来ない時間は、無限の長さに感じられた。
「家族と、保くんの無事ば確かめてきます」
 豊田神父を置いて、木崎は坂を下りた。暗闇の中で焦って、義足の足がもつれて、途中で何度か転んだ。情けない泥まみれの姿で、木崎はようやく帰宅した。
 木崎の慌てように反して、家族は皆無事だった。家にも傷一つ付いていなかった。焼夷弾はほとんど、川を挟んだ向こう側の町や、それから山の方に落ちたらしい。この辺りは三菱の工場を始め、軍需工場が多いから狙われたのだろうと、妹の泰子は重たいお腹をさすりながら言った。攻撃の狙いが外れたらしいことにほっと肩の力を抜きつつ、木崎は不穏な気分を抱いた。同じ理由で、またこの辺りが狙われるかもしれない。
 木崎が家に着いた時、保は裕子の相手をしてくれていた。怖かったやろう、と木崎が話しかけると、花火大会のようで楽しかった、と幼子はあっけらかんとした調子で言った。母親である泰子は、不謹慎だと叱ったが、木崎はほっと胸を撫で下ろした。後から、保が来る前は怯えて泣いて大変で、彼が来てからぴたりと泣き止んだのだと泰子に教えられた。
「一応、工場の方ば確認してくるばい」
 そう言って母屋を出た木崎の後を、保が着いて来た。
「家の敷地に、工場があるんですか」
「うん。小さか工場です」
 木崎は、ガラス工場のことを初めて保に話した。
「ばってん、今は動いとらんです。この二年は、窯に火も入れとらん」
 父親が死んで以来のことである。足を踏み入れてもいない。そこだけは、木崎は口をつぐんだ。
 ずっとほったらかしのまま工場を閉じてしまったから、あそこには当時のガラス製品が、そのまま残されているはずであった。万が一、棚が倒れたりしていたら、随分な惨状となる。
 幸いにして、工場の中はきれいにそのままだった。戦争が激しくなってから、軍需工場の下請けを始める前に作っていた、ガラスのコップやワイングラス、風鈴なんかの作品まで、ほこりをかぶってそのまま残っていた。すっかりその存在を忘れていた木崎は、平和だった頃の昔の暮らしを思い出して、ちょっと胸が詰まったようになった。
「可愛らしい工房ですね」
 教会よりもさらに狭い、工場の中をきょろきょろと物珍しそうに見回して、保が言った。
「ここ数年は、軍需品ばっかり作ってましたがね。元は工芸品のガラス細工ば作る、小さな工房やったとです。軍需品は全て軍に渡ったはずやけん、残っとっとは、自分や父の作品のみです」
 戸棚に並ぶガラス細工を眺め、保はほうと溜め息を吐いた。青や赤、黄色や緑や紫の色とりどりのグラスや風鈴。薄い玻璃で出来た細工たちが、薄暗がりの中で輝いていた。
「まるで、ステンドグラスのようだ」
 保の芸術的感性の鋭さに、木崎は嬉しくなった。
「まさに、その通りです。うちは教会のステンドグラスの納品や、修復なんかも請け負うとったんで。豊田神父とはその縁で、昔から家族ぐるみの付き合いなんです」
 触れても良いですか、と言って、保はグラスを手に取った。天井から下がる橙色の灯火に、藍色のグラスを透かす。夜の底で保の顔が、海のような青に照らされた。
……教会では取り乱してしまい、すみませんでした」
 保が、ぽつりと呟いた。
「去年の夏、ここを去ってからというもの、ずっと狂おしい気分で過ごしていました。例の学芸会の後からは、我ながらほとんど気が狂《ふ》れたようでした。学校では友人たちに遠巻きにされ、家では父に疎まれたのか、もう一度長崎で静養してこいと言い渡されて、体《てい》良く追い出されました。厄介払いです」
 家には、兄が居れば良いのです。いつか聞いたようなことを言って、保はまた皮肉に片頬を歪めた。
「やっぱり僕も、不必要なものだったようですね。音楽と、同じで」
 木崎は、保に何と声を掛けたら良いか分からなかった。保は、続けた。
「その兄も先日、戦場に発《た》ちました。南方です。きっと帰っては来ないでしょう。父は、兄を立派だと誉めました」
 生ら元より生還を期せず、と保は呟いた。
 皆、征《い》ってしまったのか。保の兄も。たくさん居た学友たちも。若い命が、こうして惜《あた》らに散っていくのか。
「分かっています。本当は、世間一般の人々と同じように兵役の義務に就くべきところを、僕ら学生は特別に猶予されていただけなのだと。普通は、二十歳になれば皆、徴兵検査を受けることになります。富裕な学生だけが猶予の特権を甘受するのは本来、卑怯なことであると」
 全て頭では分かっているのです、と保は繰り返し言った。己に言い聞かせるようだった。
「今日、この町が空襲に遭って……夜空を見上げながら叔父の身を案じたり、怯える木崎さんのご家族の傍に居たりして、この国に迫っている危機について、今更ながら骨身に沁みました。この人たちを守るためと思えば、僕は戦場にも立てる。確かにそう思いました。その気持ちに嘘はありません。しかし、」
 保は、耐え難そうにかぶりを振った。そして、吐き捨てるように言った。
「あなたにだけ、本音を言います。僕は、戦場になど行きたくありません。まだたくさん、学びたいことがあります。もっとたくさん曲を書いて、いつまでもピアノを弾いていたい。それもまた、僕の本心であるのです」
 喉から血を絞るような声で、保が最後に言った。
「軽蔑して下さい。僕は、あなたが羨ましいのです。もう戦場に行かなくても良いあなたのことが羨ましくて、どうしてもこの一年、手紙の中であなたに宛てる言葉が見つかりませんでした」
 保の告白に、木崎は堪らず、もう喋らなくていいよと制した。
 限界だった。これ以上、この弱りきった青年が己を虐めるところを見るのは、木崎には耐えられなかった。
「辛かことは、もう話さんでも良か。代わりに、音楽をしましょう。世間には必要が無うても、今の僕らにとっては、きっと必要なことですけん」
 木崎の言葉に、保は力無く顔を上げた。瞳に、少しだけ生気が戻って来ていた。
 とは言っても、ここは教会と違って木崎の家である。楽器の類《たぐ》いは何も無い。蓄音機やレコードを持って来ようかと思ったが、この家にはもうそんなものは無い。とにかく何か、保を元気付けるものは無いかと辺りを見回して、木崎はふと気が付いた。
 保が光に透かして眺めていた、藍色のグラスが目に留まったのである。
 消沈したままの保の横で、木崎はグラスを手に取った。そして庭に出て、井戸からグラスの中に水を汲んで帰って来た。
「見て下さい、保くん」
 木崎は保の前で、水の入ったグラスを微笑んで掲げた。木崎の中によみがえっていたのは、幼い頃の記憶であった。
「君は音楽にとても詳しかですが、こがん楽器はご存知ですか」
 そう言って、木崎は人差し指の腹で、ゆっくりとグラスのふちを撫でた。
 すると、楽音が鳴った。そうとしか表現できないような、美しい音色だった。
 保が、目を見開いた。その瞳が、途端にきらきらと輝き出した。
「今のは、何でしょう」
「面白いでしょう。楽器などと、大げさな言い方ばしてすみません。無学なもんで、原理なんかは全く知らんのですが。こがんして、濡らした指でグラスのふちばなぞると、存外に良か音が鳴るんです」
 子どもの頃はよう、これで遊びましたと言って、木崎は指の腹で円を描くように、もう一度グラスのふちをなぞった。
 ピアノでもない。オルガンでもない。歌にも管楽器にも似ていない。他の何かには喩えようが無い、甘やかで美しい音色が、木崎の指先が描く円に合わせて拡がった。それはさながら、音で出来た蜜の輪のようであった。
……グラスハープ」
 保が呟いた。その名前は、むしろ木崎には聞き慣れないものだった。
「おや、ご存知でしたか。しかもこれは、そがん立派な名前があるもんやったと」
「西洋では、意外に古い楽器ですよ。モーツァルトなんかも、この楽器を使って曲を書いています。本当は、専用のグラスを使って演奏するのですが」
「へえ、モーツァルトが!」
 そりゃあぜひとも聴いてみたかね、と言って、木崎は幼時に帰ったように笑った。保は、木崎の手元の薄手のグラスをじっと見つめながら呟いた。
「水の量を調節すると、音の高さが変わるんです。グラスハープを演奏する時は、水の量やグラスの大きさを変えて、様々の音程に調律したグラスをたくさん並べます。演奏にコツが要《い》るのと、演奏の準備が大変なこともあって、めったに演奏されない楽器です」
「なるほどねえ。いや、実に君の言う通りなんです」
 木崎は、嬉しそうに何度も頷いた。
「音の調整が、一番厄介なんです。何せ、ちょっと水ばこぼしただけでん、音の高さが変わってしまうんです。その上、僕は子どもで、大した音楽の教育も受けとらん素人やったけん。小学校の音楽の授業やなんかで、ピアノの音ば必死に覚えて帰って、夜に——日中は親父に、工場の立ち入りば禁止されとりましたけん——学校のピアノの音ば思い出しながら、少しずつ水を注ぎ足したり捨てたりしながら、音の調節ばしました。頑張れば、一オクターブくらいの音階はハ長調で作れましたよ」
「洋二さんの音感は、この工場の中で鍛えられたんですね」
 保は何故か、顔をくしゃくしゃにして笑った。少しだけ、泣きそうに見えた。木崎は自慢げに言った。
「君が居《お》れば、もう少し楽にやれそうばい。どうやろう。せっかくやけん、二人で遊んでみませんか」
 木崎の提案で、二人は色とりどりのグラスを取り出し、バケツに水を汲んできて、グラスハープの調律に取り掛かった。知ってはいたが、保の耳は驚くほど正確だった。機械も無いのに、それは少し高過ぎるとか、こちらのグラスはもう少し音を低くとか、てきぱきと指示を出していく。あっという間に、ドレミファソラ、の六つの音が出来上がった。
「この六つのグラスだけで、演奏出来る曲がありますね」
「それなら、僕にも分かります。モーツァルトの、」
 保の言葉に、木崎も頷いた。二人は、同時に口にした。
「きらきら星」
 ドの音に調節したグラスのふちを、保の指がなめらかに滑る。グラスの中の水面にかすかな波紋が広がり、柔らかな光の波が二人を包む。保の波を木崎が受け継ぎ、木崎の波がまた小さな部屋の中に広がっていく。
 保の指が曲の最後、ドの音を奏で、光の輪は途切れた。しんと静かな夜の底に落ちた部屋の中で、保が不意に呟いた。
「死にたくありません」
 それは、口にすることを許されない言葉だった。軍国主義のこの時代、人前にさらけ出すことを誰もが禁じられている、人間の内側の一番柔らかい部分だった。
「僕も、死にとうありませんでした」
 保に和して、木崎も呟いた。保は、木崎をじっと見つめ返した。
「僕が向かった支那の戦場は、過酷なところでした」
 K省でしたか、と保がすぐさま口にした。覚えていてくれたんですね、と木崎は青年に微笑んだ。
「あそこは、激戦区でした」
 木崎が招集されたのは、昭和十三年のことである。
 父母や祖母、その頃はまだ存命であった祖父にも見送られ、木崎はこの町を発《た》った。陸軍に入隊して初年教育を受けた後に、青島《チンタオ》で歩兵中隊に編入された。
 最初の任務は、南寧の警備であった。しかし、大陸の乾いた木枯らしが木崎たちの中隊が駐留する町にも吹きすさぶようになった頃、南寧奪回を狙った敵部隊南下の報が届いた。そうこうしているうちに、あれよあれよという間に、南寧北東の日本軍陣地は、中国軍に囲まれてしまった。
 木崎の部隊は、友軍救出を目的として目的地に向かった。木崎にとっては、初めての作戦参加であった。上官の命に従い、おろおろと怯えているうちに、すぐに敵の部隊と遭遇した。砲弾や榴弾の炸裂する音を、木崎は初めて耳にした。
 初めての戦闘をどうやって生き残ったのか、木崎は全く覚えていない。ただただ恐ろしく、無我夢中で上官の命令を聞き、雨のように降る銃弾や爆発の中をもがいていただけのような気がする。気付けば戦闘は終わり、辺りは死体の山になっていた。敵も味方も、たくさん死んでいた。敵の部隊は抗日学生軍だったようで、子どもと見まがうような若い青年の死体が血を流して倒れていた。生き残った木崎は、その場で嘔吐した。
 最初の戦闘で部隊の人数はかなり減ってしまったというのに、戦闘はその後、一ヶ月も続いた。ほんの少し進軍するだけで、次々と敵軍に遭遇しては容赦無く戦闘が始まる。補給や援軍もろくに無しに、敵の陣地へ切り込むようなものだった。
 食糧は、早々に尽きた。倒れた軍馬の肉を食い、死んだ敵や味方の衣服や軍靴を剥いで、無理やり先へと進んだ。戦闘の後には、裸の死体が積み重なった。地獄絵図だった。雑兵だけでなく、上官も次々と戦死し、指揮系統はめちゃくちゃになった。そんなふうになっても、後退だけは許されなかった。
 ようやく友軍の陣地にたどり着いた時には、隊の人数は半分以下に激減していた。しかし、救出を待っていた小隊の状況はもっと酷く、生存者は十数名ほどしか居なかった。うち半数以上は負傷者であり、こんなにわずかでもこの戦場で生き残っていたのが不思議なくらいであった。
 邂逅を喜んだのもつかの間、互いの惨状に呆然としているうちに、また敵部隊の猛攻が始まった。降り注ぐ銃弾の雨をかいくぐりながら、負傷者を背負い、基地と輸送用のトラックを必死に往復した。
 しかし、トラックがようやく発進する間際、敵の榴弾が炸裂した。重傷者も軽傷者もまとめてトラックごと吹き飛び、皆、息絶えた。
 ぐちゃぐちゃと雪崩れる味方の死体の山に埋もれながら、木崎はあえいだ。血の臭い。汗と臓物と糞尿の臭い。木崎は朦朧とする頭で考える。人間とは、こんなものなのか。夜半に聴く美しい音楽もこの恐怖も絶望も、全て同じ地上で人の手が生み出したものなのか。
 もう、戦いたくない。木崎の全てを、その思いだけが支配した。その瞬間、木崎は小銃を構え、自らの左脚を打ち抜いた。
 銃弾は、左脚の関節部をきれいに貫通していた。というのは、医者に後から言われたことである。左脚はもう一生動かないだろうと、陸軍病院に運ばれて早々、手術の前に言われた。木崎はその時、心底安堵した。同胞や敵の屍体に埋もれて自らの左脚に銃口を押し当てた時からずっと、こんなことで前線を離れられるのだろうか、負傷から回復したら、また戦場に送り込まれるのじゃないかと、不安に駆られ続けていたのだ。
 療養や、細かい骨の破片を取り除く手術のために、内地に帰ってからも転院や入退院を繰り返した。酷い痛みが木崎を苛んだ。けれど、戦場で命のやり取りをする苦痛に比べれば、全てがずっとましだった。
「死んでいった仲間たちへの罪悪感が生まれたのは、除隊されて長崎に戻ってからのことでした」
 木崎が、ぽつりと呟いた。
「全ては、今お話した通りです。本当は、僕はとてつもない卑怯者なんです。世間から、どれほど口ば極めて罵られても当然の、日本男児にあるまじき臆病者です。ただ、あの時の僕は、もうどがんしてん自分が戦争ちゅうもんに関わることに、あれ以上耐えられんじゃった」
 たとえ片足ば失っても、と木崎が続ける。話の切れ目で、保は小さく唾を呑んだ。
「今のお話を、他のどなたかにお話したことはありますか」
「いえ。流石にこがんことは、誰にも話せんやったです。ばってん、去年の頭、初めて父に」
 保は、低い声で尋ねた。お父様は、亡くなられたのですよね、と。木崎は、頷いた。
「死にました。僕が戦場での秘密ば打ち明けた翌日、父はこの工場で首ばくくって死んどらした」
 保は、黙った。木崎もしばし、口をつぐんだ。二人の周りでだけ、時が止まってしまったかのようだった。
「父は、戦争に行きたかったのです」
 木崎はもう一度口を開いた。
「そん時は、うちの兄が戦死したばっかりやった。帰ってきた兄の遺骨ば抱いて、母は泣きました。みっともなかことと知りながら、僕もこらえきれず泣いてしもうた。穏やかで優しか兄でした。大きかった兄の体が、わずかばっかりのただの骨になってしもうたことが信じられず、二、三日は呆然として過ごしました。戦場であがんようけ、人が死んでいくんば見た後なんにばい。我ながら情けなかことです」
「それは……
 何かを言い掛けて、保は口を閉じた。しょうがないことだ、とか、あなたは悪くないとか、慰めの言葉を掛けてくれようとしたのだろう。
「御国のためによう死んだと、父は喜びました。僕はその言葉ば聞いた瞬間、目の前が暗うなったごと感じた。自分は、死にとうなどなかったと……それまで黙っとった左脚の秘密ばその時、父に打ち明けました」
 真実を知った時の父の表情を、木崎は忘れることが出来ない。深い絶望が、もうすぐ老境に差し掛かる父の顔にしわと一緒に刻まれていた。そして、
「父は……翌日この工場で、首ばくくって死んどらした。自死でした。作業机の上には、遺書が置かれとらした。息子の行いば深う恥じ入る、とだけ書かれとらした」
 父の縊屍体は弛緩し、あらゆる体液が垂れ流しになっていた。父はただの、血と肉と臓物と糞尿の塊になった。木崎は、戦場で慣れた臭いを久々に嗅いだ。
「僕は、卑怯者です。もう二度と戦地に向かうとは御免やし、そもそも僕の足はもう動かん。ばってん……
 木崎は、そこで口をつぐんだ。今となっては君の代わりに、僕が戦場に行きたい。そう言おうとした。しかし、そんなことを言っても、この青年は喜ばないだろうと思った。
「君が居てくれて、良かったです。人間の手が醜か争いだけで無《の》うて、美しかものも生み出せることを思い出せました。君のおかげです。ありがとう」
 木崎は保に頭を下げた。保はじっと、真っ直ぐに木崎を見つめていた。やがて、保は口を開いた。
「曲を、作っても良いですか」
 木崎が頷く。「もちろんです。僕に、君の曲を聴かせて下さい」。保は、静かに続けた。
「あなたのために、僕は曲を書きます。僕がずっと、本当に作りたかった曲です。必ず、美しい曲を書きます。ですがきっと、未熟な曲になると思います。僕が全てを注ぎ込んでも、僕らの愛する数々の名曲たちには、とても及ばないはずです。あなたはそれを、覚えていて下さい。僕の全てを、あなたが覚えていて下さい」
 保の瞳に、木崎は頷いた。不意に木崎は、青年の瞳を、ガラスのようだと思った。薄い玻璃で出来たその瞳が爆風で粉々に砕け散る日を想像して、木崎は初めて、この国が始めた戦争というものを、心の底から憎んだ。

 *

 翌日から二人の音楽の場は、木崎の家の工房に移った。
 木崎の軍需工場での仕事が終わって帰宅する夕方頃、保は木崎の家を訪れる。木崎の家の人間は最初、保を不審がったが、彼が非常に折り目正しい青年であるのと、世話になる礼にと米や砂糖を持って来たのとで、ころりと現金に保を受け入れた。
 また、姪の裕子はあの空襲の日以来、すっかり保に懐いたようだった。夕方が近くなると妙にそわそわとし始め、ごめん下さい、という保の声が聞こえると、玄関に飛んで行って出迎えをする。
 裕子は保君のことが好きなんだな、と微笑ましい気持ちで木崎が声を掛けると、裕子はぷいっとしてどこかに行ってしまい、その日は姿を現さなかった。止《よ》しなさいよ、と泰子には呆れた顔で尻を叩かれたが、それがどうしてなのか木崎には皆目分からなかった。
 最初のうち、保は工場で毎日、水を入れたグラスのふちをなぞってばかりいた。そがん気に入ったと、と木崎が不思議がると、これで曲を作れないかと思いまして、と保は真剣な顔で言った。
「ちゅうことは、グラスハープで曲ば作るちゅう試みなんですか」
「はい。ぜひ完遂したいと考えています」
 言いながら保は、グラスの水量を微調整して次々と音程を作りあげていく。木崎はそれを、魔法でも見るかのような思いであっけに取られて見守った。
『きらきら星』ならば六つのグラスで演奏できたが、複雑な譜面の曲になるとそうはいかない。もっとグラスはありませんか、と保に請われ、木崎は慌てて工場の中をひっくり返すようにして大小さまざまのグラスをかき集めて来た。中にはガラスが厚手過ぎたり、形状が不向きだったりして、上手く音が鳴らないグラスもあった。結局は、集めることが出来たグラスは十脚ほどであった。
「これで、どんな演奏が出来るじゃろうか」
 期待を込めて木崎は保を見たが、保はにべも無く首を横に振った。
「いいえ、これでは全然駄目ですね。一曲を作ろうと思ったら、やはりオルガンやピアノの鍵盤の数くらいは、グラスが必要になります。一つのグラスにつき、一つの音程しか担当出来ない訳ですから」
「そがんたくさんのグラスば操って、演奏が出来ると」
 木崎は驚嘆して尋ねたが、習熟次第ですね、と保は平然と答えた。
「鍵盤の数、ちゅうと……確か、教会のオルガンの数は六十一鍵やったね」
「そうです。ピアノならば、八十八鍵です」
 木崎は、目の前が眩むようだった。そんなにたくさんのグラスは、ここには無い。いいや。この工場の中のほとんどは、父が亡くなってからそのままだから、珪砂《ケイシャ》や曹達灰《ソーダはい》なんかの材料も残っているはずである。それらを使えば炉を動かして、新しいグラスを作ることも可能か……などと、木崎が思案していると、保が再び、難しい顔で口を開いた。
「問題は、もう一つあります。微細な水量によって音程を調節せねばならないので、時間が経つと水分の蒸発で、どうしても音が変わってしまうのです。その辺りの問題を改良した、グラスハーモニカという楽器もあるのですが……
「色々な楽器が、欧州にはあるんやなあ」
「この楽器は、脚の無い椀《わん》状のグラスを重ねて、その状態のまま芯棒を通して、横向きに容器に入れるのです。そして容器に水を張り、芯棒を回転させます。すると容器の中の水と、芯棒の回転によって、グラスのふちは常に濡れた状態が保たれます。これならばわざわざ指を濡らさずとも、触れただけで音が鳴るので、演奏が容易になるといった仕組みです。音程についても、グラスの大小にだけ依っているので、水の蒸発如何に関係無く常に一定を保ちます。
 一度だけ、渡欧した時に実物の演奏を聴いたことがあります。ピアノの鍵盤のような感覚で、指で和音を押さえることが出来るので、グラスハープのよりも複雑な演奏が可能、といった印象でした。美しかったな。教会の中で奏でられるのにふさわしい、天上から降り注ぐ光のような音でした」
 想像して、木崎は思わず溜め息をついた。グラスハーモニカ。それはまさしく、保の理想である光と水と風の音楽を体現する楽器なのではないか。
 しかし、と狭い工場の中を見回して、木崎は表情を暗くした。
「ここじゃ、そがん複雑な仕組みの楽器は、作れんですね」
 モーターでもあれば別なのだろうが、今は新しく物資を手に入れるのも大変な世の中だ。今自分たちが調達できるものでやっていくのが精いっぱいだろう。
「理想の音色の追求のためには、いっそ新しく、楽器を考案してみるのも手かもしれません」
 保はあくまで真面目な顔で、さらりととんでもないことを言った。
「楽器を作る、ちゅうことですか」
 木崎はまた目を剥いて尋ねたのだが、才気煥発なこの青年は、自分の発想に対してもう、すっかりその気になっているらしかった。保はぶつぶつと、独り言のように呟いた。
「作るというより、改良というのが正しいでしょうか。動力を用いない形で、グラスハープやグラスハーモニカの美点を残した、独自の楽器を考えてみることから始めてみたいと思っています」
「ピアノやオルガンやないんですね」
 不思議がって木崎が尋ねると、保は頬に微笑を浮かべた。
「あなたが僕の全部を覚えていてくれるなら、僕はあなたの一部を使って、一番美しい曲を作りたいと思いました」
 そうやって曲作りは、楽器の考案というとんでもないところから始まる、途方も無い計画となっていった。
 保のため、木崎は久々に、本当に久々に炉を動かした。窯は工場の中心にある。火を入れると、中の温度は千度を超える、超高音の窯である。コンクリート造りの窯の蓋を開けると、中はすっかり橙色で、太陽が燃えているようだった。
……すごい」
 いつもとはまるで真逆の立場で、保が木崎の背後から息を呑む。木崎は額に汗を搔きながら、上手くいくだろうかと不安になりながら、鉄の棒を窯の中に突っ込んだ。
 木崎が棒を引くと、先の方にとろりとした橙色の液体がついてきた。溶けたガラスであった。
「君の音楽に対する知識や、楽器演奏の技術に比べたら、こがんもんは何でんなかとですばい」
 興味深げな保の視線をちらちらと気にして、恥ずかしそうに呟きながら、木崎は伸ばしたガラスをやっとこばさみで挟み切った。
 出来上がったガラス棒を、保は手に取ってしげしげと眺め、水で濡らした指先でなぞった。保の長い指先が棒の上を滑る瞬間、木崎は期待でわずかに華やいだ気持ちになったのだが、残念ながら音は鳴らなかった。
「鳴らんね」
「確かに、ワイングラスの脚の部分なども、指でなぞっても音が鳴りませんね。中に空洞があるという構造が肝要なのかもしれません」
 グラスの中の空気が鳴っているということでしょうか、と木崎が問うと、保は首を傾げた。
「実は僕も、グラスハープの鳴る仕組みに分からないところがあるのです」
 保は近くにあったグラスを手にして、濡れたままの指でそのふちをなぞった。実験のために持ってきたものの、まだ水を入れていない、空のグラスであった。けれど、音は鳴った。
「水はあくまで、音高の調律のみに影響するんやね。音は指の摩擦による、ガラスの共鳴のみによって鳴るとね」
「そのようです。そして僕は最初、水が多い方が、ガラスの振動する部分が小さくなるので音が高く、水が少ない方が振動する部分が大きくなるので、音が低くなるのかと思ったのです」
「と、言うと……
「弦楽器における、弦の長さのようなものかと想像しました」
 保の答えに対して、木崎はすぐさま、ヴァイオリンやチェロ、コントラバスの音高の違いを思い浮かべることが出来た。
「ピアノの弦も、そうですね。高音の弦は細く短く、低音の弦は太く長いのです」
「僕の経験からですが、確かにグラス自体の大きさについても、同じことが言えるとです。小さかグラスは高か音、ふとかグラスは低か音が鳴ります。ピアノに例えると、小さかグラスは短か弦、ふとかグラスは長か弦に相当するちゅうことやろうか」
 小学校で演奏したグランドピアノの形も思い描きながら、木崎が答える。まさか、幼い頃の自分の手遊びに、こんなに真剣に頭を悩ますことになるとは思わなかった。
「そして、同じグラスでも、水かさば増やした方がガラスの振動する部分が小そうなるけん、音が高うなって、水かさば減らした方が音が低うなるんやなかかと。君が言いよっとはつまり、こがんことですか」
「そうなんです。しかし、結果は逆でした」
 保は、グラスに半分ほど水を汲んだ。もう一度、指先でグラスのふちをなぞる。すると、ドの音が鳴った。木崎はようやく保の言わんとするところを悟り、アッと小さく叫んだ。
「そうや、そうなんです、確かに君の言う通りばい。水かさば増やすと、グラスの音は低うなるんです」
 幼い頃の経験で、実験結果を知っていた木崎も、改めて首をひねった。先ほど空のグラスで鳴らした音は、ミの音だった。明らかに、水を入れた方が低くなっている。
「言われてみれば、不思議やなあ。幼か頃のことで、深う考えてもみませんでした。いったい、どがん原理なんじゃろう」
 木崎の問いに、保は顎に手をやった。考え込む時の癖らしかった。
「水の重さまで含めて、楽器なのかもしれません」
「と言うと、つまりはどういうことじゃろう」
 ピンとこない表現に、木崎が首を傾げる。保は、考え考えしながら答えた。
「先ほどは振動という言葉を使いましたが、音というものの正体は振動なのです。振動数が大きくなると音は高く、振動数が小さくなると音は低くなります。振動数は、振動を発する物体が重くなるほど小さく、物体が軽くなるほど大きくなるという決まりがあります」
「今度は弦の長さや大きさじゃなく、重さとね」
「はい。それで言うと、水かさが少なければグラスの重さは軽いので音は高く、逆に水かさが増えるほどグラスは重くなるので、音は低くなります」
 木崎は溜め息をついた。上手く理解出来ないところはあったが、グラスハープのあの澄んだ美しい音色が物理現象で説明出来るというところに、何だか音というものの神秘を覗いた気がしたのだ。
「いや、たかが子どもん手遊びと思うとりましたが、なかなか研究しがいのある楽器やねえ」
「すみません、グラスハープの仕組みについてはただの素人考えです。ですが、面白い楽器という部分には同意です。グラスの口の形が適しているのか、案外大きな音が鳴るのも演奏に向いていますね」
 そう言って保はグラスのふちを、人差し指の腹でくるりと撫でた。人の声とも、弦楽器とも管楽器とも似つかぬ、甘い音が鳴った。
 木崎は、呟いた。
「モーツァルトやなんかが、これで曲ば作るくらいに有名やった楽器が、なして今日《こんにち》廃れてしもうたんじゃろう」
「これも推測ですが、音量のせいだと思います。意外に大きな音ですが、オーケストラなんかの大編成の音楽の中では、流石に埋もれてしまいますから。鍵盤楽器にも実は、ピアノやオルガンだけでなくチェレスタやヴァージナル、スピネットなど色々な種類がありますが、皆、音量の大きさに負けて、忘れられていきました」
 保は作業台の上の、先ほど木崎が作ったガラス棒に目を転じて、ふと思いついたように呟いた。
「もしかしたらこの棒も、音自体は鳴っているのかもしれませんね」
「指で摩擦しとうっちゅうことは、大なり小なり振動自体は起きとうはずですからね」
「はい。しかし、やはりこのグラスの口のように、音量を増幅する仕組みが無いと楽器としては成り立たないのだと思います」
 二人は相談し、ガラスの扱いに慣れた木崎の発案で、今度は棒でなく管状のガラスを作ってみることにした。
 ガラス管を作るのは、本来は二人がかりの作業である。今度は鉄棒ではなく、最初、吹き棹の先に溶けたガラスを巻き取っていく。そしてもう一人が、別の鉄棒にガラスを巻き付け、ガラスの円盤を作る。その円盤に吹き棹の先のガラスを押し付け、息を吹き込みながら後ろ歩きでガラスを伸ばしていくのだ。吹き込む息の量や、ガラスを引っ張る速さなど、厚さの均等なガラス管を作るためには、慣れた職人の技が要る。
「手引き法と言います。今は、大きな工場には専用の機械や型がありますけん、こがん方法でガラス管ば作るところは、ほとんど無かろうばってん……
 及び腰の保に、おっかなびっくりとガラスの円盤を持ってもらいながら、木崎が後ろ歩きでガラスを伸ばしていく。ある程度の長さで、木崎はまたやっとこばさみで管を切った。
 作業に熱中し、ずっと話し込んでいるが、窯が稼働し通しの工場の中はかなり暑い。外気の方が涼しいくらいだ。二人は全身にだらだらと汗をかきながら、完成したガラス管を見た。
「化学の実験で使う、試験管のようですね」
「ちょうど、そんくらいの太さば目指しました。お望みであれば、もっと太うも細うも出来ます」
「ありがとうございます。もっと薄手の方が良いかもしれません。口径はもう少し太く、ガラスは薄く作れますか」
 管の口ではなく、側面を濡れた指でなぞりながら保が呟く。「やっぱり、鳴らんですか」と肩を落とす木崎に、保はきっぱりと首を横に振った。
「いいえ、鳴っています。震えています。今まで誰にも見つけられずに埋もれていた、小さな音が、かすかに」
 保の言う通りにガラスを細工物のように薄く、口径を太くすると、果たしてガラス管は鳴った。木崎は、弾かれたように保を見た。
「鳴った!」
「鳴りましたね」
 二人は、顔を見合わせて喜んだ。これならば、水分の蒸発による音程の変化を心配せず、安定した演奏が可能となる。
 そのためには、ガラス管自体の音高の調整という課題は残されているが、管を切断したりといった試行錯誤で何とかなりそうだった。二人は寝る時間も惜しんで、この新たなガラス楽器の創作に打ち込んでいった。

 *

 夏の空はいつも淡いクリーム色で、その奥から青白い光の帯が眩《まばゆ》く輝きながら滑り降りてきます。
 炉のような色をした空いっぱいに、いくつもの橙色の礫《つぶて》が散らばります。礫は砕けた硝子《がらす》のように細かい粒子となって、ゆっくりと地上に降ってきます。
 空は段々と、深い藍色に変化します。夜の色です。闇よりも濃い、黒々とした青です。私たちが悲鳴をあげて泣き叫び逃げ惑った、あの夜の昏《くら》い青色です。
 地上では、薄い灰色が陽炎のように燃え立っています。あれは私たちが炙《あぶ》られた地獄の炎。死は、そこに佇《た》つ全ての生き物へ平等に、地上の隅々まで降り注ぎました。
 あの日、私たちは影絵になったのです。
 圧倒的な天の光は、私たちを影として地上に灼《や》きつけました。影絵の私たちは、もはや言葉を持ちません。どんなに愛しいと思ったものも、心から厭わしいと思ったものも、ここでは全てが無意味です。彼我の全てがただここにのみ存在し、私たちはもう、どこにも居ない。
 私たちは言葉の代わりに、六十一の絃を全身でかき鳴らします。音域は洋琴《ピアノ》の八十八鍵を遥かに超え、十余オクターブ、全音階、半音階のみならず、四分音《Quater tone》などの微分音程を用い、一番太い絃はまるで鉄棒、一番細い絃は嬰児《みどりご》のうぶ毛のごとく細く、一番太い絃は鉄棒のよう、透き通ったそれらは震い、顫《ふる》え、大気を伝い、振《ふる》わせ、生じた音は天上へと昇っていきます。その光景は、歓びに似る。
 私はただ、私の絃に指先で触れます。すると六十一絃は一斉に共鳴し、わんわんと天地に歌います。千々に鳴り響く六十一絃の歌。降り来る橙色の礫。私たちを灼いた天の火箭《ひや》。この世の終わりのような閃光。爆風。粉々に砕かれていった私たち。光と水と風の音楽。拡がる蜜の輪のように静かな、君の横顔。
 それは、私の大切な誰かではなかったか。私はどうしても、何があっても、この記憶を抱きしめたままでいなければならぬのではなかったか。
 鳴りやまぬ六十一絃の共鳴の中、そうして私は、また全てを忘れ果てました。

 *

「共鳴が美しいのです」
 保は、いつになく興奮気味に喋った。自らの発見に、興奮を抑えきれぬようだった。
 楽器の改良は、二、三週間のうちに大きく進んでいた。木崎の職人技術で作られた非常に薄手のガラス管を、保の絶対的な音感で調音していく。作った管を音階順に並べて、一オクターブごとに木枠に嵌め込むと、竪琴に似た、弦楽器のような見た目になった。この木枠も振動を邪魔せぬよう、割れそうなくらいに薄く削りだした特別製である。
 整然と並んだガラスの弦を見て、透明なパン・フルートのようだと保は感心した。木崎は知らない楽器だった。いずれにせよ、見たことの無いような美しい楽器だった。この世のものではない音がしそうだった。
 低音を担当するガラスの弦は、かなり太い管となった。口径が裕子の腕の太さくらいはある。反対に細い弦は、試験管よりもずっと細かった。試作や調音がまだまだ追い付かなかったが、六十一本のガラス管を並べたいと保は言った。教会の、オルガンの鍵盤の数に倣ったものらしかった。
 未完成ながら、それらのガラス管を並べて音を鳴らすと、不思議なことが起こった。一つのガラス管を指でなぞって鳴らすと、触れていないはずの管の音も鳴るのだ。そのまま別の管に触れると、さらに別の管の音が鳴る。あたかも一人が歌い出すと誰かが歌につられ、全員が声を合わせて合唱し始めるように、ガラス管全体がわんわんと響き合い、その音は螺旋を描きながら天に昇っていくようだった。
「設置したガラス管同士が、共鳴しているんです」
「そがんことがあるとね」
 不思議の感に打たれて木崎が呟くと、保は熱っぽく答えた。
「実は、ピアノの弦でも同じことが出来ます。倍音という音の仕組みが関係しているのですが……ペダルを踏みながら弦に向かって、あ、でも、お、でも何でも良いので、何か大きな声を出すと、声の振動に共鳴して弦が鳴るのです。このガラス管でも、同じことが起きているのだと思います。それも非常に美しく、奇跡的な形で」
 保はまた、長い指先で愛おしそうにガラス管を撫でた。ガラスで出来た弦たちが、またわんわんと鳴った。
「天に昇っていくための音色ですね。教会の高い天井に、さぞかし美しく響くでしょう」
 保の言葉に、木崎はうっとりと天井を見上げた。工場の煤けた天井が、今の木崎の目には、どこまでも昇っていけそうな教会の天井に見えているのだった。
「早う完成した楽器で、君の曲の演奏ば聴きたかです。場所はあの、丘の上の教会が良か。きっと、そうやろう」
「ええ、そうです」
 力強く頷いてから、保は表情を曇らせた。
「僕の時間が、間に合うと良いのですが」
 夏が終わればまた、保は東京に帰ることになっていた。この八月で保は満二十歳になるのだと、木崎はつい先日、本人から教えられたばかりだった。
「君は体が弱かけん、きっと丙種ばい」
「近頃は、乙種や丙種の者でも、無理やり検査をやり直して甲種にしてしまうそうですよ」
 そんな会話も交わした。不思議だった。世間では丙種の結果は不名誉であるとされ、甲種合格は男の名誉であるとされる。甲種は嫌だなどと、外では口が裂けても言えないが、保となら気安くこんな話が出来る。
 先日、八月二十三日には、学徒勤労令が発令されたばかりだった。二十歳未満の学生は、軍需工場に動員されるらしい。たとえ東京の大学に戻っても、保の望む勉学が出来る場所は、もうどこにも無いだろう。
「間に合わせましょう。絶対に」
 木崎はそう言って、保を勇気付けた。二人は更に、楽器の製作と、作曲の試行錯誤にのめり込んでいった。
 しかし、時はただ残酷に流れ過ぎ去った。保が長崎を去る最後の日にも、曲と楽器は、どちらも完成していなかった。望んだこともやり遂げようとしことも、全てが中途半端なまま、二人は工房で朝を迎えた。
 窓から差し込む朝陽に絶望しながら、木崎は保を見つめた。保は机の上に散らばったままの譜面をじっと眺めていたが、やがてそれら一枚いちまいを、丁寧に拾い集めた。
「楽器を、お預けしてもよろしいですか」
 静かな口調だった。激したものは何も無かった。壮大な激情も、主観的な叙情も、全ては遠くへ隔絶し、保はただ静かに孤独を守っていた。その姿からは、一つの音符もこぼれなかった。
 夏の最後の朝陽が、保の顔を残酷に照らしていた。光に塗《まみ》れて見えなくなりそうな保を見つめながら、木崎は悟った。保と二人で、鍵盤に向かい合う時間。静かに保のオルガンを聴く時間。二人でガラスの音響に耳を傾けながら、命と情熱を捧ぐ時間。あの夏の光のきらめきそのもののような時間は、もう二度と自分たちには訪れないのだと。
「必ず、また帰って来ます」
 保は言った。木崎は無言でうつむいた。
 非常時であることを理由に、特急電車は運行しなくなって久しい。今回ここまで来る電車の切符を手に入れるのだって、保は相当に難儀したはずだ。検査の結果如何に関わらず、ここに再び戻って来るのは難しいだろう。
 しかし、保は微笑んでいた。
「僕の魂がある場所はここです。どこに居ても、僕の心はこの楽器と共にあります。東京に戻っても、戦場に向かっても。この世のどこにも居場所が無くても、ここでだけは、僕は僕で居ることが出来ました。あなたと出会えて、本当に良かった」
 木崎は、弾かれたように顔を上げた。あえぐように、唇を引きつらせた。
 行かないでくれ。
 君のことを必要としている人間が、ここに居る。
 自分だけではない。荒れ果てた廃墟に佇み、住むところも無く、着るものも食べるものも無く、全てを失った人々が、やがて君を必要とする日がやって来る。君の手が生み出すただただ美しく純粋で優しいものが、人々の生きる糧となる日がいつかきっとくる。君は、その時まで生きなければならない。
 いつか訪れるその日、君は堂々と楽器を取れ。五線譜の上でペンを走らせろ。歌え。タクトを振れ。ピアノの鍵盤を叩け。君は、そのために生きろ。どこに居ようとも、絶対に生き延びろ。
 溢れる言葉は、音となって保の鼓膜を震わせることは無かった。木崎は、口をつぐんだ。代わりのように、保は口を開いた。
「曲の名前をまだ、お伝えしていませんでした。夏の影、と名付けるつもりです。ここを再び訪れるその日まで、僕は曲を書き続けます。言葉に出来ず、時代に圧《お》し潰された、僕たちが本当に奏でたかった音楽です。光の傍に無言で佇む、歌えなかった僕らの歌です」
 洋二さんは、楽器を作り続けて下さい。そう、保は続けた。木崎は困惑した。
「無理ばい。君の耳が無うては。それに君がおらんば、君の欲しか音が僕には分からんです」
「洋二さんの耳は、僕の耳です。大丈夫ですよ。きっと全部、分かります」
 保は、笑った。陽の光の角度で、彼の笑顔は隠れた。保は、影になった。
 そして保は、再び長崎を去って行った。

 *

 保がいなくなってから、木崎は抜け殻のように過ごした。
 まるで、生きる意味を失ってしまったかのようだった。木崎はただ生き、呼吸し、心臓を拍動させ、朝を迎え、夜を過ごし、仕事に向かい、家族と会話をした。健やかでもあった。そして世間にとっては、人間とはそれで十分な生き物なのだった。
 木崎はしばし、保のことを考えた。しばしというにはあまりに頻繁に、二人が過ごした夏の日々の思い出をなぞった。木崎は、正常な時の流れの中に自分が位置していないのを感じた。自分はきっとあの時、保と一緒に影になってしまったのだと思った。
 豊田神父から、聞いた。検査において、保は甲種合格となったらしい。そんな訳があるか、と木崎は珍しく激昂した。自分の時は、もっと厳しく検査を行っていた。
 保が生まれるのが、もう少し早ければ。自分が生まれるのが、もう少し遅ければ。自分たちの立場は、もしかすると逆だったのではないか。今頃戦場に向かっているのは自分で、ここで安閑と暮らしているのは保だったのではないか。
 その夜、木崎は夢の中で保の脚を撃った。目覚めてから自分を許せず、その時以来、木崎は教会に足を運ぶのを止めた。
 失ったものを求めるように、木崎は工場でガラスの弦に触れた。縋るように伸ばした震える指先の下で、ガラス管は美しく鳴った。他のガラスの管も、その音に共鳴して鳴った。
 足りない、と木崎は気が付いた。もう一度ガラス管をなぞり、その音に耳を澄ます。そして、確信した。共鳴で鳴る響きの中に、本来あるべきいくつかの音が足りていない。
 その音が保の求める音であることを、木崎はすぐに理解した。すぐさま工房に閉じこもり、夢中で炉を動かした。作らなければならない。保が求めている音がある。
 木崎はようやく、別れ際の保の言葉の意味に納得がいった。保の耳は、自分の耳。自分の手先は、保の手先なのだった。
 炉の中で、太陽がどろどろに融けてゆく。
 木崎は、作り続けた。保が欲している音を、来る日も来る日も作り続けた。空襲は激しさを増していった。B29[#「29」は縦中横]が上空にやって来て警報が鳴る度に、木崎は布団でガラス管をくるみ、防空壕にも入らず工房で一人、楽器を守った。
 やがて秋が過ぎ、冬も終わり、春を迎えた。一切の季節と時間は、木崎の周りでただ無意味に過ぎ去った。
 夏が、三度訪れた。
 その日、木崎は予感した。ちょうどガラス管を、一つ仕上げたところだった。出来上がった管を楽器の中に配置して、試しに撫でた。その共鳴を聴いて、分かったのだ。楽器が、完成したのだと。
 ガラスの管を弦として、その数は六十一弦。音域はピアノの八十八鍵を遥かに超え、十余オクターブ、全音階、半音階のみならず、四分音《Quater tone》などの微分音程を用い、一番細い弦は嬰児のうぶ毛のごとく、一番太い弦はまるで鉄棒のようだった。美しく透明な異形の楽器が、そこに在った。
 木崎は確信した。彼はきっと、今夜ここを訪れる。必ず、自分の前に姿を現すはずだ。
 その夜、木崎は夕食も取らず、ひたすらに工場で待った。果たして、扉は静かに開かれた。
 夢の中のように、保は工場に現れた。短く刈り込んだ髪も、薄い耳の間から覗く黒い眼鏡のつるも、何も変わらなかった。歓びで木崎は、体の中《うち》が震えた。木崎は三度《みたび》、この青年に出会った。
 夜半にそっと鳴らされるチェロのように、保は静かに口を開いた。
「こんばんは。お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」
「いいや。こちらこそ、申し訳なかったです。随分、しびれば切らしたんやなかとですか」
「大丈夫ですよ。こちらもたった今、曲が完成したところなんです」
 木崎は心配になって、完成した楽器をちらりと横目で見た。教会で演奏しよう、と去年の夏は二人で話していた。その願いは、叶わなかったことになる。残念がらせてしまうのではないか。
 保は、微笑んで言った。
「ここが相応しいでしょう。教会と同じで、ここは僕らの祈りの場所です」
 始めましょう、と言って、保は楽器の傍に立った。
 薄暗い工場の中で、わずかな明かりを灯し、保は背筋を姿勢よく伸ばした。本当に、何も変わらなかった。教会でオルガンの鍵盤を見下ろす時の、静謐で寡黙な立ち姿だった。
 わずかに離れたところに、木崎は立った。オルガンの鍵盤を叩く寸前のように、保は肺の底まで深く息を吸い込んだ。
 長い指先が、ガラスの弦の上を滑った。
 楽音が鳴った。管楽器とも弦楽器とも、ピアノの音色とも違う、不思議な音がだった。音は水の波紋のようであり、風に漂うようであり、光に揺らぐようだった。
 木崎は、その音にじっと耳を澄ます。一つの音の中にも、静かに耳を傾けないと分からない、かすかな音がいくつも潜んでいる。水が水を呼ぶように、風が新たな風を誘うように、光が角度や時間によって表情を変えるように、一つの響きの中でたくさんの音が鳴っている。
 保の手が伸びる。指先が、ゆっくりと低音の弦をさする。すると、ガラス弦が一斉に歌い出すように、共鳴が一度に膨れ上がった。
 同じ音をピアノや、管弦楽で演奏したならば、人の耳はとても耐えきれないのではないか。そのくらいたくさんの音が、一度に鳴った。この透明な、無感情な音色だからこそ、この音は音楽として鑑賞に耐えうることが可能なのだ。
 木崎は総毛立った。全身が、今まで耳にしたことも無いくらい、異様なたくさんの音に包まれている。その全ての音は透き通っていて、怒りや苦しみ、悲しみといった激情からは、遠い場所に佇《た》っている。その音色は、歓《よろこ》びに似る。
 音と音楽の狭間に立ち尽くし、戸惑いながら、木崎の耳は楽音を欲した。ちょうどその瞬間、不意に甘やかな旋律が、黄金の蜜のように天から滑り降りて来た。
 無上に美しい旋律の断片が、木崎の全身を柔らかく撫でた。ずっと、欲しかったものだった。それはこの時代、人前にさらけ出すことを誰もが禁じられている、人間の内側の一番柔らかい部分で奏でられるものだった。明るくて、悲しくて、優しい音楽だった。
 もっと聴きたい、もっとこの蜜を飲ませてくれ、と木崎が渇望した時、旋律はふっつりと止んだ。保の片手は、低音の鍵盤を撫で続けている。木崎にはそれが、酷く残酷なことに感じられた。
 もう片方の手がもう一度、今度は別の旋律を奏でる。かと思いきや、今度は中音域の鍵盤で大胆な分散和音が奏され、浮かび上がった旋律は搔き消される。歌い切られることの無い旋律が、幾度も幾度も繰り返された。
 その繰り返しに鼓膜を蹂躙されているうちに、木崎はふと、旋律の断片たちが、何かの問いであるかのように聴こえてきた。言葉を持たぬものたちの言葉、黙さざるを得なかったものたちの、その言葉の代わりがこのガラスの六十一弦であるような気がしたのだ。
 其は楽音か。影が問う。是。別の影が肯《うべな》う。問い掛けと答えがそれぞれ、大小の弦をかき鳴らし、空へ震う。
 では、彼《あ》の天の色彩は楽音か。また別の影が問う。其もまた是。いずれかの影が応え、共鳴し、六十一弦が千々に震い、顫《ふる》え、大気を伝い、振《ふる》わせ、生じた音は天へと昇っていく。地上には、万《よろず》の楽音が溢れる。
 音は、次第に少なくなっていった。途切れ途切れに奏でられていた旋律は、ほとんどただの断片のようになっていき、やがては途絶えた。残響だけが、残った。
 その響きも最後に途絶え、空間の中に音は無くなった。演奏は、終わった。
 静寂の中で、木崎は呆けたようにただ、保の手元を凝視していた。素晴らしい演奏だった。今まで聴いたことの無い音に包まれた、奇妙な余韻が木崎の全身を支配していた。体が甘く痺れているような気さえした。
 しかし木崎の中には、どこか満たされない空虚が存在していた。そのことに、木崎は静かに動揺していた。
 これはいったい、どういうことなのか。保という素晴らしい、天性の音楽家が、その生命を削るようにして作った曲だ。今の演奏が、彼という音楽家の全てであると言っても良い。そんな楽曲への感想に、空虚であるなどといった言葉が許されるものか。
 しかし、木崎の耳には分かっていた。この曲は、はっきりと未熟だ。もちろん、保の音楽的才能のきらめきや、この聡い青年の機知を楽曲の端々に感じることは出来る。素晴らしい作品である。けれど古今に存する数多の名曲たちには、まだ遠く及ばない。
 その正体が何であるのか、木崎には分からない。保が学び得なかったもの、知り得なかったもの、磨き得なかったもの。木崎はそれらに思いを馳せた。そして保がずっと抱いていた、本当の絶望をようやく実感して、木崎は愕然とした。
 ——己の凡庸さはよく知っています。だからこそ、もっとゆっくり、時間を掛けて音楽を学びたい。足らぬ才を補うような、知識や技量を身に付けたいのです。
 ——この時局ですので、どれほどの事を学べるかは分かりません。しかし、励める限りは、精いっぱい勉学しようと思っております。
 足りなかったのは、時間だった。溢れる若者の才能が、才気が、時代に負ける瞬間を木崎は目撃してしまったのだった。
 絶望する木崎の前で、しかし保は涼やかだった。静かにガラスの弦を見下ろし、じっと佇んでいた。まるで、そうしないと聞き逃してしまうような小さくてかすかな音に、耳を傾けているかのように。
 その音は、木崎には聞こえない音だった。木崎は保の魂が、自分と分《わか》たれて二度と手の届かぬところへ飛び立って行くのを見た。
「ありがとうございます。この世に生まれてきて、良かったです」
 僕を音楽家にしてくれて、ありがとうございました。保は、夜半に鳴らされるチェロのような声で呟いた。
 木崎は、夜の闇の底へと落ちた。
 
 *

 どれほど深く絶望を噛もうが、どれだけ強く己の無力さに打ちひしがれようが、変わらずに朝はやって来た。
 目を覚ましてみれば、全てが一夜の夢のようだった。木崎は自分がどうやって母屋に帰り着いたのか、それすらも定かに覚えていなかった。
 このまま永遠に眠り続けたいような疲労と倦怠感の中で、朝陽の眩しさや家族の寝息、己の血の巡る音や拍動、こめかみの疼痛に、木崎はどう足掻いても自分の肉体が、今現在という時間の流れの中で、厳然としてこの場所に存在しているのを自覚した。そしてそのことに、言い知れぬ孤独を感じた。
 仕事は欠勤した。飯も食わずにぼんやりしていると、家族に心配された。今年から小学生になった裕子は近付いてきて、おじちゃん大丈夫と、と幼子ながらに木崎を優しく労ってくれた。
 昨年に生まれた裕子の妹は、何も知らぬげににこにこと、機嫌良さそうに笑っていた。どこの家でも食料が足りず、赤子のいる母親は母乳の出ないのに苦しみ、もらい乳に奔走するご時世だったが、幸いに母親の泰子の乳は涸れることが無かった。赤ん坊は大きな病気をすることも無く、奇跡的なほどすくすくと健康に育っていた。
 急に腑抜けた魂が、ぐんと体の側に引っ張られて地に足が着いた心地がした。自分には守るべき者が居る。生活をしなければならない。
 その日も暑い夏だった。ほとんど幽鬼のような表情で、木崎は玄関で靴を履いた。とにかく仕事に行かねば、いつも通りの日常を送らねばと、その思いだけで立ち上がった。
 十一時をほんの少し過ぎたところだった。朝というにはもう遅い時間だった。扉を開けた瞬間、じりじりと、灼熱の太陽が木崎の全身を焦がした。
 額から流れた汗が頬を伝うのもそのままに、木崎は空を見上げた。その時だった。
 空から。
 光が。
 空から、黄金の光の帯が。
 上空で炸裂した青白い閃光は、たちまちに街中を飲み込んだ。人々が何も理解出来ぬ間に、轟音と共に爆風が押し寄せた。灼熱の熱風がそこら中を蹂躙し、街は一瞬にして廃墟となった。

 *

 街は消えた。
 建物は壊れ、融け、崩れ去り、消し炭となった。人間は焼け爛れ、膨れ上がり、生者と死者の別さえ分かち難く、血を垂れ流し、呻き、皮膚はめくれ、手足は折れ曲がり、人々はこの世の全ての苦痛と恐怖と悲嘆と絶望を味わい尽くしてから、肉と血と内臓と屎尿の塊となった。
 そうして、私たちは影絵となった。
 夏の空はいつも淡いクリーム色で、その奥から青白い黄金の光の帯が眩《まばゆ》く輝きながら滑り降りてきます。すると空いっぱい、黄金を背景に、ぱっと一瞬、いくつもの橙色の礫《つぶて》が散らばるのです。礫はやがて細かい粒子となって、揺らめきながらゆっくりと地上に向かって降ってきます。微粒子の降る速度に合わせて、空は下から深い藍色に変化していきます。地上近くでは、薄い灰色が陽炎のように燃え立っています。その炎に炙られるように、橙の粒はまた黄金に照り映えながら、地上の隅々に降るのです。
 水が水を呼ぶように、風が新たな風を誘うように、光が角度や時間によって表情を変えるように、六十一絃が歌います。それぞれが千々に震い、顫《ふる》え、大気を伝い、振《ふる》わせ、生じた音は天へと昇っていきます。
 歌は途切れ途切れに断片となり、影は一人、また一人と消えていきました。次第に消えゆく六十一絃の余韻と共に、黄金の蜜に溶けていき、一つ、また一つと、その姿が消えていきます。
 最後の二人となった時、私はその影に、居なくならないでくれと希《ねが》いました。その人は、私のとても愛しい人であった気がします。爆風に傷つき、ガラスの破片が無数に突き刺さった血まみれの小さな体を抱いて、私はいつまでも慟哭していました。少女の小指のような絃を柔らかく震わせて何かを訴える、その影はかつて私の見知った誰かであった気がします。その誰かは、決して忘れてはいけない、大切な人だったのでしょう。しかし私は、それが誰であったか、もはや永久に思い出せません。
 ここは、影の世界。夏の光に圧《お》し潰された、歌えなかった僕らの歌。止まったままの、永久《とこしえ》に動かぬ時の中で、私たちはただ小波《さざなみ》のような黄金の蜜を浴びます。悲しいことも、恐ろしいことも、憤ろしいことも、ここにはありません。ただ甘く、美しいものを、私は謐《しず》かに甘受します。
 影は、震える私の手をかすかに握り返してくれました。そうして、奏でられた一つの音がやがて減衰していくように、その影も姿を消しました。私は、一人になりました。
 私たちは皆、影絵。あの日、天の光によって、地上に灼《や》きつけられた影。
 私たちはもはや言葉を持たない。時計の針は止まったまま。ここでは時は流れない。私たちはもう、どこにも存在しない。私はもはや記憶も持たない。全てを忘れ果て、ガラスで出来た六十一絃をなぞり、天に向かって奏でるのみ。
 しかしこの六十一絃は、これは、私の大切なものではなかったか。私の大切な人が、愛した者が、命を賭して創り上げたものでは無かったか。
 苦い疑問を抱えて触れる。六十一絃が、天に向かって震えだす。その音は、歓びに似る。
 怒りも憎しみも悲しみも苦しみも、痛みでさえもが、甘い蜜のような滴りの中に溶け、希釈され、透明で甘やかな心地だけが残る。共鳴だけが、この世界に美しく拡がっていく。
 忘れたくなかった。
 苦しんでいたかった。
 こんな甘くて優しいだけのもので、誤魔化されたくなかった。この体と魂に刻まれた痛みも苦しみも悲しみも憎しみも怒りも、全てをいつまでも憶《おぼ》えていたかった。
 私はゆっくりと崩壊する。光と風。爆風。教会のステンドグラスが砕け散る。熔《と》ける。太い絃も細い絃も、全てに蜘蛛の巣のようなひびが走り、粉々に砕けゆく。君に縋ろうと手を伸ばす、私の体も指先から砕けてゆく。砕けた私と君の破片が光を映す。夏の光。千々の破片を通して散乱する、千々の光を映す影絵の中で、私と君は再び出会う。きらきらとした苦痛が明滅するその一瞬、私は全てを思い出す。
 繰り返される影絵の中で君はまた、うつむいた神経質そうな顔で、あの丘の教会を訪れるだろう。君は小さなオルガンを弾き、そして私は何度でも、君の抱える叫び出したいほどの絶望と、輝く才能の光輝を知るだろう。私は君を愛するだろう。千々に砕けた破片の中で、千度君に出会うたび、何度でも、何度でも私は君を愛するだろう。
 私たちは千度、二人で同じ夢を見る。夏の光の音楽を。
 幾千の破片のきらめく光が、幾千の音楽を奏で、私たちは出会い、惑い、失い、別れ、千々の破片はまた千々に散る。
 其は楽音か。是。甘い蜜の輪。永久《とわ》に未完の音楽。芸術の永遠に手を伸ばし、届かなかった君の指先。その指先で、君は確かに奏でた。私はそれを、きっと受け取った。だから私は、憶《おぼ》えていなければならなかった。なのに。それなのに。
 幾千、幾万、幾億の光の中で、私と君は奏で続ける。人に忘れ去られても。誰が憶えていなくとも。存在を凌辱されても。生命を芥《あくた》のように軽んじられても。もう、私たちがどこにも居なくても。
 地上から天に奏でられ、千々に鳴り響く楽音に、千々の私たちが交じり、溶け、光の粒となる。やがて私の影も消える。私たちがこの世界に確かに存在した、どんな証も、もうどこにも残らない。私たちの残響でさえも、もはやどこにも存在しない。

 *

 瑛子が六年ぶりに長崎に帰って来たのは、通夜の夜のことだった。
 我ながら、薄情なことだと思う。危篤の報《しら》せを受け、急ぎパリから飛行機に乗ったが、豊田の死に目には会えなかった。
 瑛子は、画学生だ。高校を卒業すると同時に、絵の修行がしたいと言ってほとんど無一文で家を飛び出し、育ての親である豊田を置いて海外に飛び立った瑛子のことを、豊田はずっと気に掛けてくれていた。
 豊田と瑛子は、血が繋がっていない。戸籍上の親子でもない。瑛子は、孤児だった。二十数年前に市内で被爆し、一家全員が命を落とした。赤ん坊だった瑛子だけが、瓦礫の中で運良く生き残ったのだった。
 あんな悪夢のような時代のことである。赤子一人が荒地に残されて、そのまま野垂れ死んでも何の不思議も無かったのだが、またもや運の良いことに、物心も付かぬうちに豊田に拾われて育てられた。豊田は当時から教会で神父を務めていたようで、被爆をきっかけに身寄りの無い子どもを集めて、孤児院を開いたようである。どこに行っても食べ物も着る物も無い時代のことで、大変に苦労したことは想像に難くないのだが、豊田は全ての子どもたちに親子同然の愛情を注いでくれた。
 絵を学びたいのだ、と瑛子が初めて告白した時、豊田は笑って背中を押してくれた。せっかく自由な時代になったんだ、自分のことは気にしなくて良いから、精いっぱい学んで来なさい、と言ってくれた豊田に、瑛子は感謝してもしきれない。恩義は、何も返せなかった。
 豊田の言葉に甘え、六年間、必死に学んでいたら、時間はあっという間に過ぎ去っていた。もっと小まめに日本に帰って来れば良かった、と今さらながら後悔する。豊田は瑛子に対して隠し通したが、最期の方は病気が酷く進行していたらしいと、通夜の夜に親戚や他の子どもたちに聞かされた。
 豊田も、瑛子も、近距離被爆者だ。豊田の死は、後年に突然発症した原爆症に、苦しみ抜いての死だった。瑛子は教会で育ったが、信仰を持っていない。ただ、豊田に関してはこれ以上、苦しむことなく安らかに眠ってくれるようにと、彼の信じる神に祈っている。
 信仰心は無いものの、小さな丘の上の教会に帰って来ると、瑛子は安堵する。自分の家はここだ、と思う。豊田や、一緒に育った兄弟分たちへの情もあるから、自分の実の家族について、どんな人たちだったかと想像を巡らすことはあまり無い。
 ただ、自分の家族と豊田とは、元から家族ぐるみの親交があったのだと聞かされている。教会の小さなステンドグラスを見上げながら、豊田は一度だけ、懐かしそうにそのことを教えてくれた。暑い夏の日のことで、ぎらぎらとした太陽の光がステンドグラスに透けて、自分も豊田も眩しく目を細めていたことを覚えている。
 豊田の死によって、瑛子の家族について知る人間は、この世に誰も居なくなってしまった。そのことに対して寂しいと思う気持ちも、瑛子の中にはあまり無い。誰と血が繋がっていようと、繋がっていまいと、自分は自分である。瑛子はそう思っている。
 ただ、豊田との死別については、心に穴が開いたように悲しい。
 その穴を埋めようとして、ようやく告別式が終わった日の夜、瑛子の足が向いたのは教会だった。幼い頃はよく、教会で下らないいたずらをしては、豊田に叱られた。またあの豊田の叱声が聞けるような気がして、ポケットから煙草を取り出し、火を付けて口にくわえた。
 そうして煙草をふかしながら、教会の扉の前に立ち、瑛子はようやく違和感に気が付いた。中に灯りがついている。しかも建物の中からは、音楽が漏れ聞こえていた。流れているのは、オルガンの音だった。
 この教会のオルガンはいささか古いもので、戦前からあるのだと言う。買い替えないのかと昔、豊田に尋ねたが、これだけは残しておかなければならないのだと、豊田は寂しそうに笑った。
 先の通夜でその存在に気付き、まだあったのか、と感慨深く思ったものだった。そのオルガンが、鳴っている。教会の中で、誰かがオルガンを演奏しているのだ。誰だろう。今日、告別式に集まった者たちの中に、ピアノが弾ける人間など居ただろうか。
 まさか泥棒という訳でも無いだろうが、といささか緊張しながら、瑛子は煙草の火をもみ消し、扉を開けた。
 教会の中は、たくさんの音で満ちていた。小さなオルガンから噴き上がるように音が溢れ、それらは生き生きと、色とりどりの表情を見せながら天井へと昇り、光のようにまた瑛子の頭上に降ってきた。教会という背の高い建造物の中では、オルガンの音はこんなにもよく反響するのだと、瑛子は初めて気付かされた。
 オルガンの前に座って居たのは、瑛子の見知らぬ男だった。痩せていて、上背があるのが座っていても分かる。瑛子は、日本人女性の中では身長が高い方だが、この人が立ち上がったら視線を合わせるために見上げなくてはならないだろうと想像した。男はその長い背骨を屈めることなく、鍵盤を真上から見下ろすように、長い首を根元から曲げていた。短く刈り込んだ髪と、薄い耳の間から、黒い眼鏡のつるが伺えた。
 背の高い、見覚えの無い男が、夜の教会で一心不乱にオルガンを奏でている。不思議な光景だった。しかしそのこと以上に瑛子を驚かせたのは、男の体だった。
 右腕が、無い。
 体のどこかに戦争の爪跡を大きく残したまま暮らしている人間が、この国には今もたくさん居る。日本だけでは無い。瑛子は海外でも、そんな人たちをたくさん見た。しかしこの町には、心身に戦争の傷を抱えたままの人々が特に多い。腕や足、目、体の一部を失い、皮膚はケロイドとなって引き攣れ、奇妙な病に肉体を蝕まれ、死の恐怖に怯えながらの生活を、人々は今も余儀無くされている。
 赤子の頃に被爆した瑛子の肉体にも、今だにガラス片が埋まっている。細か過ぎて除去しきれないその破片たちは、成長と共に皮膚を突き破り、肉に食い込み、少女だった瑛子の体を激痛で苛《さいな》んだ。今でも日常のふとした動作で、全身の関節が痛むことがある。生涯消えない苦痛と共に、瑛子は生きている。
 そんな時、瑛子の耳は幻の音を聴く。自分の体の中にあるガラスが、肉に擦れて涼やかに鳴る音だ。自分の中で、聴こえないはずの音楽が鳴る。
 腕を失った人間を見掛けるのも、悲しいけれど珍しいことでは無い。しかし瑛子を驚かせたのは、別のことだった。右腕が無いまま、左手のみで、男は完全にオルガンを弾きこなしていた。両手を用いても常人であれば、これほど闊達に鍵盤を操ることは叶わぬであろう。男の演奏は驚くほど自在で、正確で、理知的だった。瑛子は、しばし耳を奪われた。
 曲は、瑛子の知らぬ曲だった。ぽかんと口を開けて聴き入っている間に、いつの間にか演奏は終わった。男が、立ち上がって振り向いた。
 演奏から受ける印象そのままの、神経質な顔立ちをした中年の男だった。皮膚のはりや体つきにはまだ若さを残しているのに、表情は倦み疲れた老人のようだった。不思議な顔だった。
 視線が絡むと男は、初めて瑛子に気が付いたかのように軽く目を見開き、それから頭を下げた。瑛子も、会釈した。
「すみません。この教会の方ですか」
 男は、堅苦しい東京の言葉で喋った。低く、静かな声だった。夜半にそっと鳴らされる、チェロの音色に似ていた。
 瑛子は、はきはきと喋った。
「豊田の娘です。父のお知り合いでしょうか」
 血の繋がりこそ無いが、他人に豊田との関係を問われた時は、そう答えることにしている。瑛子の問いに、男は答えた。
「僕は、豊田さんの甥です。長い間、顔も見せずに申し訳ありませんでした」
 瑛子は、二度仰天した。豊田に甥が居ることは、話には聞いていたが、直接顔を合わせたことは無かった。
 正確に言えば、瑛子の記憶に残っていないだけで、幼い頃に何度か顔を合わせたことはあるらしい。瑛子が長じるのと入れ替わりのように、姿を現さなくなったと聞く。いつかまた顔を見せて欲しいと、豊田はいつも寂しそうに語っていた。
 豊田からすれば、もう少し早く顔を見せてくれても良いのにと恨み言の一つでも言いたくなるだろう。しかし、好き勝手に生きてきた瑛子としては、そんな言葉を言えた義理では無い。代わりのように、瑛子は尋ねた。
「今の曲は、何と言う曲やろう」
「『左手のための協奏曲』と言います。本当は、オーケストラと演奏するのですが。ラヴェルというフランス人が、戦争で右腕を失ったピアニストのために作った曲です」
……その腕は、戦争で」
 聞かないつもりだったはずのことを、瑛子は尋ねていた。男は、頷いた。
「終戦間際、南方戦線に送られました。僕の配属していた部隊はほとんど全滅だったので、これでも運が良かった方です」
「ピアノが、お上手なんですね。すっかり聞き惚れてしもうた。片腕で弾いてるとは思えんじゃった」
 男はかぶりを振って、眩しそうに目を細めた。
「罰が当たったんです。大事な人を、醜い理由で羨んだ罪です。命は長らえたけれど、二度と両手で鍵盤を触れなくなりました。音楽から離れるべきかと思いましたが、どうしても諦めきれず、今は細々と曲を書きながら暮らしています」
 そう言った男の表情が、不安定に揺らいだ。その時、瑛子の目には、老成して落ち着いた男の顔が、奇妙に幼く映った。まるでどこか時の流れの狭間に落ち込んで、心だけが少年のまま、時を止めてしまったかのようだった。
「あなたは、私を……
 私のことを、憶えていますか。そう尋ねようとして、男に向かって足を一歩踏み出した、その時。
 膝の関節に、鋭くきらびやかな痛みが走った。瑛子は思わず、左足を押さえてうずくまった。肉の中に埋もれたガラス片が、悪さをしたのだ。最近は落ち着いていたというのに。
 苦痛に唇を噛みながら顔を上げると、男と目が合った。男は、じっと瑛子を見つめていた。男の唇が、わなないた。
「ガラスの、音……
 瑛子は、はっとした。自分の中で鳴る、かすかな音。幻の音楽。小さな小さな、ガラス片の音。
 聞こえたのか。この男にも。誰にも知られずに鳴る音に、瑛子の抱える傷に、この男は気が付いたのか。
 男は、静かに瑛子の姿を見下ろし、じっと佇んでいた。まるで、そうしないと聞き逃してしまう小さくてかすかな音に、耳を傾けているかのように。男は、呟いた。
「あなたは、もしかして……
 男の声が震えた。今にも泣き出してしまいそうな、少年のように弱々しい声だった。男が何を言わんとしたのか、瑛子には分からなかった。けれど、瑛子は首を横に振った。
「違います。私は私です。この痛みは、私の痛みです。私がこの先ずっと、死ぬまで抱えて生きていく苦痛です。きっと私は、あなたの求める何者かになることは出来ません」
 男は、はっと身を引いた。瑛子は、真っ直ぐ射るように、男を見つめた。じっと視線を交えた後、男はふっと長く息を吐いた。
 安らかな顔をしていた。憑き物が落ちたようだった。
……すみませんでした。何でもありません。どうぞ、全てお忘れ下さい」
「忘れんばい。大丈夫」
 瑛子は立ち上がった。そうして、男が座っていたオルガンの椅子に、半分だけ場所を空けて右側に座った。
 大丈夫。私が憶えておくよ。
 あなたが忘れたかったことも。誰かが憶えていられんじゃったことも。全部ぜんぶ、憶えておくよ。
 やけん、あなたも、私のことを憶えとってね。
「私とあなたは、別の人間やけど……隣で一緒に、オルガンば弾くことくらいは出来るばい」
 どうぞ、と瑛子に誘われ、男は目を丸くした。それから、くしゃくしゃと泣きそうな顔で、笑った。
「何を弾きますか」
「実は、オルガンば弾いたことが無かと。教えてくるると嬉しかです。曲は、あなたの好きな曲が良か」
「僕の好きな曲、ですか」
 男はちょっと間を空けて、こんな曲はどうですか、と呟いた。
「明るくて、悲しくて、優しい曲です。モーツァルトの……
 そう言って、男は深く息を吸った。まるで歌い出すかのように肺に息を溜め、体の深いところにぐっと力を矯めたまま、真っ直ぐに背筋を伸ばした。
 左手の指先が、深く鍵盤に沈んでいった。
 楽音が、鳴った。


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