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人と成る

全体公開 神無三十一受け 32 51 24878文字
2023-10-21 16:26:45

カルみと大前提のクソモブみと
シナリオネタバレあり

 

 一つに括った、艶やかな長い髪。
 宝石のように曇りのない、純粋な瞳。
 安堵して微笑むその姿を目にしたとき、とぽん、と心の底の泉に音を立てて赤く丸い何かが沈んだ。

 きっと彼女は女神だ。
 女神が自分を見そめてくれた。
 あの日から、彼の世界はがらりと大きく変わったのだ。


 ※
 

 「結局今日まで大きな手掛かりは無しか

 スパローの応接室にて、集めた資料を手に縞斑は深いため息を吐いた。反対の席に座る神無も同様に、疲労の滲んだ表情でこくりと頷く。

 最近この街では、アンドロイドの誘拐事件が相次いでいるのだ。
 事件の概要は名前の通り、アンドロイドが次々に所持者の元から連れ去られるというもので、犯人は随分慎重な性格らしく足取りが全く辿れなかった。

 「青木の調査曰く、解体されてダークウェブで部品が売り捌かれているというわけでもないそうです。」
 「とはいえ誘拐されたアンドロイドの傾向を見るに、価値の高い最新型をターゲットにしているように思えますね。」

 ディーノとアサギリがそれぞれ、相棒の隣で集めたデータを元に口を開く。
 誘拐されたアンドロイドたちは今も犯人の元にいるのか、売られた形跡が見当たらないのだ。

 「このアンドロイド誘拐事件……またあの組織が関わってるのかな?」
 「考えられるよねぇ、ここまで足取りが一切辿れないとなると。」

 以前の事件のように、有馬を唆した組織の関与を疑う神無に同意した縞斑は、ソファの背に身を預けて項垂れる。
 ドロ課とスパローは連携して捜査を続けているが、事件解決の手掛かりが掴めないまま、被害は広がる一方だった。

 「上層部はなんて?」
 「……このままだと、囮作戦を実行しそうなんだ。」

 縞斑の言葉に神無は小さく頷く。
 その焦った態度を目にした縞斑は、その話が神無にとってアンドロイドを餌にするという行為以上に問題視していることを察する。
 ぎゅっと隣の相棒の手を握りしめた彼の姿を見て縞斑は、大方の予想を立てて口を開いた。

 「ディーノちゃんを使うつもりなんだ。」
 「………だと思う。」

 警視庁に配備されているアンドロイドの中で、最も最新の型はディーノのものだ。加えて彼が所属する部署がドロ課であるとなれば、上が目をつける存在として納得である。
 不安げな表情を浮かべる神無の手のひらを握り返したディーノは、安心を促すようにそっと頬擦りをすると口を開いた。

 「上層部の判断通り、僕は餌としては適しています。最近はその兆候も出ておりますので。」
 「兆候?」

 できる限り神無の心を守りたいディーノだが、これ以上悲しむ人を作りたくない気持ちも本物だ。事件を解決するために自分が囮となることは、現在のディーノにとって納得するものだった。
 そんなディーノの言葉に首を傾げる縞斑を見て、神無は重い口を開く。

 「ディーノが最近、外に出た時に視線を感じるらしい。」

 部屋の中に静電気のような鋭い緊張が走る。
 俯く神無はぽつぽつと、この数日ふたりに起こった異変を縞斑たちへ打ち明けた。

 ディーノがその視線に気がついたのは、今から一週間前のことだ。
 アンドロイド誘拐事件に伴って、調査やパトロールなどの外回りの仕事が増えたドロ課の中で、ディーノはふと外に出るたびに向けられる視線を感じ取った。
 最初は最新型のアンドロイドを物珍しく思う人間だろうと気に留めていなかった彼だが、それが数日も続けば異常だと気づくことができるだろう。
 加えてその視線は日に日に悪意を孕んでいるような気すらして、ディーノは神無に念のため報告をしたのだ。

 「悪意の視線ねぇ……
 「もしも仮に誘拐したアンドロイドが悪意をもって破壊されていたとしたら部品が売られることはありませんね。」

 犯人の意図がわからない今、誘拐されたアンドロイドがどうなるか見当がつかない。そんな危険な場所に、悪意の感情を向けられているディーノを差し出すことが神無にはどうしても納得できなかったのだ。

 「青木に頼んで、無理言ってもう少しだけ調査の時間を貰った。……もしその間に、手掛かりが掴めなかったら、」
 「……ディーノちゃんが危ない、と。」

 神無の震える声の続きを繋ぐ縞斑の言葉に、彼はこくりと頷いて息を吐く。
 疲弊した様子の彼は、相棒を守ろうと寝る間も惜しんで調査に乗り出しているらしい。このままでは事件を解決する前に彼が倒れてしまう、そう眉を寄せた縞斑はひとつ頷くと、受け取った資料をスパローの解析メンバーへ共有しながら言葉を続けた。

 「こっちも出来る限り急いで調査を進める。だから君も、ちゃんと休息を取ること。」
 「でも
 「いざという時君が動けなくなったら、ディーノちゃんのお荷物になるだろう?万全の状態に体調を整えることも大事な仕事だよ。」

 多少の厳しい言葉を向けてでも、今は神無を休ませることが先決だ。そう説得する縞斑に便乗するように、ディーノは神無の手を取る。

 「神無、少し休みましょう。最近はほとんど家にも帰らずに、ドロ課で調査を行なっていますよね。」
 「ディーノ……
 「お願いです。僕は神無が倒れるところなんて、見たくありません。」

 神無が自分の身を案じてくれることは嬉しいが、そのために無理をして弱っていく彼をこれ以上見たくない。そうディーノが精一杯に言葉を伝えると、苦しそうに表情を歪めた神無はやがて小さく頷いた。

 「……わかった。」
 「無理して調査をせずとも、神無さんがディーノさんに気を配るだけで十分だと思います。」
 「そうそう。彼をひとりにしないことは、相棒の神無ちゃんだからできることでしょ?」

 アサギリと縞斑の言葉に頷いた神無は、肩の力を僅かに抜いた様子で息を吐く。バランスを崩したその体を三人の腕が慌てて支えた。

 「っと、ほら無理しないで休んで。」
 「……わるい、ちょっと、」
 「神無、大丈夫です。まだ戻るまでに時間がありますから、少しだけ休ませて貰いましょう。」

 ソファに神無の体を横たえると、アサギリはディーノを連れて別室に置いてある毛布を取りに行くためにその場を離れる。
 さりげなく気を遣って二人の時間を作る相棒に内心感謝をして、縞斑は神無のそばに膝をついた。

 「まともに食べてもないだろ。」
 「………わすれて、つい」
 「起きたら好きな物食べていいから、何がいい?」
 「クッキー食べたい。ジャム乗ったやつ。」

 今は栄養よりも、摂取することそのものを優先すべきだ。相棒が席を外したことで素直に甘える神無に頷くと、縞斑は疲れた様子の彼の頭を撫でる。

 「準備しておくから、とにかく今は休んで。」
 「ごめん……
 「言いたいことは山々あるけどまずは元気になって、事件を無事に解決してからね。」

 相変わらず無理をする恋人を厳しく叱りたい気持ちはあるが、弱った彼を更に追い詰めるだけだと思い直して休息を促す。
 優しく髪を梳く手のひらの感触にほっと息を吐いた神無は、やがて静かな寝息を立て始めた。
 少しだけやつれてしまった神無の頬を撫でた縞斑は、冷たい体が少しでも温まるように羽織っていたジャケットを掛ける。背をあやすように軽く叩きながら、彼は眉を寄せてその寝顔を見つめていた。

 ディーノが視線に気がついたことは、事件を追う中で大きな進展だ。これまでは人の気配があったという報告すらあげられていないのだから。
 最新型のアンドロイドが少ないスパローは、未だ被害をほとんど被っていない。価値という点においては旧型のアサギリにも警戒を促していたが、今のところ変化はなかった。
 
 「……杞憂だといいんだけど。」

 じわりと縞斑の心の内を巣食う違和感。
 嫌な予感という漠然としか例えようのないその感情を、縞斑は口にすることを躊躇った。
 どうかその予感が現実とならないことを祈って、彼は神無が目を覚ますまでそばに寄り添っていたのだ。



 

 空中に投影したモニターを操作した神無は、パトロールに異常がないことを報告すると深いため息を吐いた。

 「神無、幸せが逃げます。」
 「仕方ないだろこうも手掛かりがないんじゃ
 
 バイクにもたれて報告の終了を待っていたディーノは、暗い表情を浮かべる神無を心配するように眉を寄せる。
 スパローにふたりが訪れてから三日。相変わらず事件に進展はなく、神無はある程度言いつけを守って休息を取りながら調査を続けていた。
 
 「はやくしないと、もう時間がない。」

 迫る囮捜査の日取りに、焦った表情を浮かべた神無がぽつりと呟く。そんな顔色の悪い彼を放っておけないディーノは、手を取って額を合わせた。

 「大丈夫です、神無。」
 「なにが、」
 「だって僕が囮になったら、何かされる前に神無が絶対捕まえてくれるでしょう?」

 神無はきっと、ディーノに危害が及ぶ前に犯人のことを見つけ出して捕らえてくれるはずだ。
 神無を信じているからこそ、ディーノは上層部の考える囮捜査を受け入れている。そう伝える相棒の信頼の眼差しを受けた神無は、ぐっと言葉に詰まると小さく息を吐いた。

 「当たり前だ。なんたって俺は
 「大天才の神無三十一、ですからね。」
 「もー……分かったよ、分かったから。」

 神無の言葉を遮って先取りをした彼が笑う。
 この元幼馴染には時々敵わないときがある。言い負かされたわけではないけれど、昔からの性分を理解して、上手く言いくるめられた気がしてならない。
 苦い顔で小さく頷くと、ディーノは満足そうに頷いて最後に神無に擦り寄って離れた。神無の熱が移った温い頬に嬉しそうに手を当てる彼を見下ろして、神無はようやく笑みを取り戻す。
 ディーノの髪を緩く撫でると、彼は穏やかに口を開いた。

 「ありがとう、ディーノがいてよかった。」
 「当然です。僕は神無の相棒ですから。」

 得意げに胸を張るディーノに小さく声を上げて笑った神無は、気持ちを切り替えてドロ課に戻ろうとバイクに手を掛ける。

 「ん?」

 そうしてふと、彼は路地へ視線を向けた。
 そこには背中を丸めた老人が、よたよたと大きなスーツケースを転がして歩いている姿が見える。
 あの体で荷物を運ぶことは骨が折れるだろう。そう考えた神無は座席に資料を置くと、バイクに跨っていたディーノを振り返った。

 「神無?」
 「すぐ戻るから、ここで待っててくれ。」

 人手は多い方が良いかもしれないが、事件を警戒している今はディーノを路地に近づけたくない。神無がすぐ戻る旨を伝えて歩き出せば、背後のディーノも大体の目的を察した様子で座席に座り直した。

 「お気をつけて。」
 「ディーノこそ、変な奴が近づいてきたらすぐに声上げろよ!」

 人の多い大通りで、白昼堂々ディーノを攫う輩はいないだろう。そう考えている神無だが、困っている様子の一般市民を無視できない。
 僅かに後ろ髪を引かれながら路地に向かった神無は、角を曲がって尚もスーツケースを両手で押している老人の背に声を掛けた。

 「おじいさん、運ぶの手伝おうか?」
 「あぁありがとうございます……

 振り返った老人が安堵した様子で笑う。急に声を掛けて警戒されるかもしれないと警察手帳を表示する準備をしていた神無は、ほっと端末から指を離して駆け寄った。

 「どこ向かうつもりだったんだ?」
 「ええとそこの、角の向こうに止めた車に乗せようと思いまして……
 「じゃあそこまで付き合うよ。」

 荷台まで運べば、そのあとは移動先の誰かが荷物を下ろしてくれることだろう。このご時世ならば自宅には家庭用のアンドロイドもいるかもしれない。
 話しながらスーツケースに近づけば、老人は何度も礼を言いながら神無に場所を譲る。

 「やっぱり警察の方は親切ですねぇ
 「ははそれが仕事だからさ。」

 公安局に所属している都合で、市民と直接触れ合う機会は少ない神無だが、もちろん人に頼られて悪い気はしない。
 笑みを浮かべた神無は、スーツケースを抱えようと両手を伸ばした。

 「……え?」

 しかし、重たいだろうと神無が身構えていたそれは簡単に持ち上げることに成功する。思わず背後に仰け反り掛けた神無は、慌てて体勢を立て直してまじまじとスーツケースに視線を落とした。
 スーツケースの中身はおそらく空だ。老人は重たそうに運んでいたが、おそらく年老いた彼でも運ぶだけならば苦労のない重量である。

 「なぁ、これって……

 不思議に思った神無が声を掛けようとしたとき、ふと彼はそれまで抱いていた違和感の正体に気がついた。

 自分はいつ、彼に警察だと明かしただろうか。

 うぞりと背筋を舐める嫌な予感に従って、距離を取ろうと神無は背後を振り返る。そんな彼を目掛けて、老人は手の中の小さな機械を彼の首に押し当てた。

 「あ、ッ?!」

 ばつんという何かが千切れるような嫌な音と同時に、神無の体が大きく痙攣する。
 びりびりと痺れる体と熱を持つ首筋に、思わず悲鳴を上げようとした唇は相手の手によって塞がれてしまった。
 四肢に抵抗する力が上手く入らない神無は、明滅する視界を必死に動かして何が起こったのかを理解しようとする。
 倒れる神無を押さえる彼の手には、スタンガンが握られていた。

 「な、」

 どうしてそんなものを。そう狼狽える神無の目の前で、ばちばちと稲妻が瞬く。
 躊躇いなく押し付けられたそれから放たれた電流は、神無の意識をいとも容易く焼き切った。


 ※


 「神無、おそい。」

 バイクにもたれてぼんやりと雑踏を眺めながら待っていたディーノは、ぽつりと呟いて身を起こした。
 市民の手助けに向かったのだろう彼を見送ってから、すでに10分が経過している。一体どこまで付き合っているのだろうかとディーノは首を傾げた。
 お礼の甘いものにつられて、そのまま油を売っているのではなかろうか。そう考えたディーノはバイクから離れると、神無が向かった路地へ足を向ける。

 「神無?」

 路地の奥へそっと声を掛けてみるが、返事は聞こえない。
 人気のない場所に行かないことを約束しているディーノは、その奥に進むことを少しだけ躊躇った。

 「神無、居ないのですか?」

 再度声を掛ける。相変わらず返事はない。
 念のために通信を飛ばしてみれば、路地の奥から聞き覚えのある着信音が耳に届いた。

 「……?」

 近くに居るにも関わらず返事のない神無を心配して、ディーノは路地の奥へと慎重に踏み出す。
 そうして彼が角を曲がろうとしたとき、反対側の道から人影がぬっと現れた。鼻先が触れたディーノは慌てて背後に飛び退る。

 「っとごめんね、前を見ていなくて。」

 そんなディーノに向けて、道の奥から現れた中肉中背の男性が謝罪をした。通行人にぶつかってしまったことに気がついたディーノは、慌てて深く頭を下げる。

 「いえ、こちらこそ申し訳ありません。お怪我はありませんか。」
 「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう。」

 アンドロイドに対して丁寧に返事をした男性は、そのままディーノとすれ違って歩いていく。重そうなスーツケースを転がす彼の背を見送ったディーノは、再び路地の奥へ向かった。

 「神無?なに……

 路地の奥の開けた場所に出たディーノは、端末の着信音が聞こえた地点にあたりをつけて声を掛けながら覗き込む。
 しかし、その場所に広がる光景を目にしたディーノの言葉はぴたりと途切れてしまった。

 路地には端末と、ヒビの入ったサングラス型コンピュータが転がっていたのだ。

 「かみ……神無!!」

 駆け寄ったディーノは、それらが間違いなく神無の物であることを確かめる。そうして周囲を注意深く探る彼だが、付近に人の気配は見当たらない。

 「神無!どこですか!!神無っ!!」

 神無が路地に向かってから10分が経っている。交戦する音や彼の声は、ディーノの耳には聞こえなかった。
 ディーノは咄嗟にその場を駆け出すと、路地を抜けて道の先へ飛び出す。反対の通りに出た彼は、不安定に熱暴走を起こそうとする体を、荒い呼吸を模倣してどうにか排熱しながら立ち尽くした。

 「……アサギリ、アサギリ。」

 しばらく誰もいない道の先を見つめていたディーノは、ぽつりと呟いて再び通信を起動する。

 『ディーノさん?どうされまし、』
 「僕じゃありませんでした。」

 間も無く聞こえた仲間の声と同時に、ディーノは言葉を続けた。

 『ディーノさん?』
 「僕じゃなかった僕の勘違いの、僕のせいで、」
 『落ち着いてください、ディーノさん。マスターに代わった方がよろしいですか?』

 普段の彼とは異なる空気を感じ取ったらしいアサギリが、心配した声をあげる。短い会話を交わす声が聞こえた後、近くにいたらしい彼の主人がディーノに声を掛けた。

 『やぁディーノちゃん、何があったのかな?』

 アサギリからディーノの異変を伝えられたらしい縞斑は、努めていつも通りの明るい口調で声を掛ける。
 ディーノがそんな状態であるにも関わらず、神無の声が聞こえないのは何故だろうか。そんな当たり前の疑問を抱いた縞斑は、脳裏を犯す嫌な予感を必死に振り払いながらディーノの言葉を促した。
 
 「……な、です。」
 『ディーノちゃん?』
 「ッ、狙いは!僕じゃなく神無です!!」

 取り乱して叫んだディーノの声が、アサギリが共有したスピーカー越しに響く。じくり、じくりと、現実になろうとする最悪に縞斑の背筋を冷たい汗が滑った。
 趣味の悪い冗談であってほしい。そう願う縞斑の耳に、無情にもディーノの震える声が届く。

 「神無が連れ去られました!!」

 


 

 「……

 つきりと目の奥が痛んだ神無は、小さな呻き声を上げて意識を取り戻した。
 二度三度瞬きをして、霞む視界をどうにか整えた彼はゆっくりと体を起こす。

 「ここ?」
 
 薄暗い部屋のベッドの上、柔らかなシーツに包まれた神無が辺りを見回した拍子に、ぱさりと音を立てて金色の髪が揺れる。
 不思議に思った彼が首を傾げて室内の姿見に視線を向ければ、そこには長い髪の女性の姿があった。

 「えっ?!」

 慌てて両手で自らの体を確かめた神無は、自分がウィッグと女性物の衣服に袖を通して、化粧まで施されていることに気がつく。
 潜入の際に行う女装によく似たその格好を唖然と見ていた神無は、耳に届いた金属音に導かれて自らの左足へ視線を向けた。

 「な、なんだこれ!」

 神無の左足首には足枷が繋がれており、その厳重な鎖はベッドの足に繋がれている。
 慌てて拘束を解こうとシーツを蹴る神無だが、擦れた足首が痛んで虚しく鎖が鳴るだけに終わってしまった。

 途方に暮れた神無はふと、狭い部屋の奥から視線を感じて顔を向ける。
 そこに広がる光景に、神無は小さく息を飲んだ。

 「ひっ」

 奥の壁を埋めるように張り巡らされていたのは、神無三十一の写真だった。
 大量のそれらは全てカメラを見ておらず、神無の知らないところで撮られていたものなのだと理解できる。
 身に覚えのあるものから、全く覚えのないものまで。ずっと見られていたのだという事実に、吐き気を伴う恐怖心を覚えた神無は声を震わせた。

 「なんなんだよ……!」

 そう呟いた神無の背後で、扉がゆっくりと開く。ぎくりと肩を震わせた神無がおそるおそる振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのない男性だった。

 「……あんた、だれ?」

 目を細めた神無は、そう中肉中背の男に声を掛ける。怪訝な色をした神無の声に気分を害した様子もなく、男は目を覚ました彼に向けて明るい笑顔を向けた。

 「あぁ、おはよう。やっぱり覚えてないかぁ。」

 言いながら男が神無に一歩近づく。警戒するように肩を震わせた神無はベッドの上で後ずさるが、すぐに背中が壁に触れてしまった。

 「覚えてないって、俺……会ったことなんて、」
 「うんうん、無理もないと思うよ。だって僕が君に会ったのはもう、3ヶ月と4日前のことだからね。」

 人違いなのではないかと声を掛ける神無に向けて、男はつらつらと会えなかった時間をそらで言って見せる。
 物腰が柔らかく仕草も丁寧だが、そのひとつひとつから滲む不気味な気配に神無は小さく唾を飲んだ。
 3ヶ月と4日前。サングラス型コンピュータを取り上げられたため、自身の記憶だけを頼りに神無は過去の事件を思い出す。
 3ヶ月前の神無は、アンドロイドの違法売買を行う組織の摘発のために、その組織が配置されているビルのカフェ店員として様子を見守っていたはずだ。
 薬物中毒の組織の長を刺激しないように女性の姿に化けて穏便に観察していたが、結局店内で暴れ出した目標を制圧するためにやむを得ず武力行使を行った。

 「……組織の?」
 「うーん残念。僕はアンドロイドを売り物にするような悪人じゃないのに、ひどいなぁ。」

 あの時摘発から逃れた組織の残党だろうか。そう警戒心を露わにする神無を安心させようと、男はひらりと手を振って笑う。
 尚も警戒を緩める気配がない神無に微笑んだ男は、一歩ずつ彼に歩み寄りながら両手を広げて話し始めた。

 「君にとっては当たり前の行動だったのかもしれないけれど僕はね、あの時君に命を救われたのさ。」

 男はその日、偶然にも神無が潜入していたカフェに寄って買い物をしたのだ。
 その時不幸なことに、神無が目標としていた組織の人間が暴れ出して、その騒ぎに巻き込まれてしまった。
 ただの会社員である男が、そんな暴動に慣れているはずがない。その場で腰が抜けて動けなくなった男に向けて、反乱狂の組織の人間は店の椅子を掴んで振り上げたのだ。
 当たりどころが悪ければ命を落とすかもしれない。そう死を覚悟して身構えた男だったが、唐突にその腕が背後から強く引かれた。

 「一つに括った、艶やかな長い髪……宝石のように曇りのない、純粋な瞳。全てが美しくて感動して景色がスローモーションになるって、きっとああいうことを言うんだろうね。」

 腕を引いたのは、変装をしていた神無だった。彼は咄嗟に襲われた男をカウンターの奥に引き込むと、入れ替わりに相手の前へと飛び出したのだ。
 このままでは、美しい彼女が怪我をしてしまう。咄嗟に声を上げて引き止めようとした男だったが、軽やかにカウンターを飛び越えた神無はそのままの勢いで相手を蹴り倒した。
 自分より一回りは大きな体躯の相手の側頭部を的確に捉えた神無は、地面に転がって気を失った相手に油断なく手錠を掛ける。
 まもなく、駆け付けた他の警察たちの誘導で騒ぎは収束した。共に誘導を行っていた神無はふと、カウンターの奥から呆然とこちらを眺めている男の存在に気がついたのだ。

 『さっきは乱暴なことしてごめんな。』

 男の鼓膜を揺らした声は、想像よりも少しだけ低いものだった。小さく目を瞬く男の前に膝をついた神無は、彼に怪我がないことを確かめて安堵の表情を浮かべる。

 『無事でよかった。』

 とぽん、と心の底の泉に音を立てて赤く丸い何かが沈んだ。

 きっと彼女は女神だ。
 女神が自分を見そめてくれた。
 あの日から、彼の世界はがらりと大きく変わったのだ。

 「ずっと探して、ようやく君を女神見つけたんだ。」

 公安局に所属する神無のことを見つけ出すのは骨が折れたことだろう。それでもこの3ヶ月間、男は全ての時間を神無の捜索に注いだ。
 そうしてようやく見つけ出した神無を、男は変装して路地に誘い込み、持っていたスーツケースに詰めて自宅まで運び込んだのだった。
 人形のように折り畳まれて、好きなように運ばれた自分を想像した神無は、青い顔で吐き気を覚えて口を押さえる。

 「あぁ大丈夫?」
 「はなせ!」

 心配するように背に触れた手のひらを、思わず神無は反射で叩き落とした。
 虫が這うような気味の悪さを覚える神無が顔を顰めれば、叩かれた手を呆然と眺めていた男がにこりと笑みを浮かべる。

 「っ!」
 「そっかそっか、まだここに来たばかりで混乱してるんだよね。」
 「ちがっいいからこれを外して、」
 「でも大丈夫だよ。女神である君はもう、怖いことや危ないことなんて何もしなくてもいいんだから。」

 腫れた手の甲に気分を害した様子もなく、歩み寄った男は彼の左足に繋がれたら鎖を強く引いた。
 引きずられてシーツに倒れ込んだ神無が体勢を立て直すより先に、彼の上に馬乗りになった男はその鼻先に小さな機械を向ける。

 「な、」

 目の前で瞬く稲妻に神無の体がぎくりと強張った。スタンガンを握る男は、怯えた表情を浮かべる神無に満面の笑みを浮かべる。

 「だからまずは、外に出たいなんて二度と思わないようにしないとね。」


 ーーーばちん。

 


 

 ドロ課の応接室にて。
 青木と縞斑は険しい表情を浮かべて資料を睨みつける。そばには青白い顔で俯くディーノと、それを宥めるレミとアサギリの姿があった。

 「もう5日動きは無しか。」
 「監視カメラも路地だったせいで周辺にはなくて上も調査に乗り気ではないみたいです。」

 呟く縞斑に対して申し訳なさそうに眉を寄せる青木は、すでに神無の捜索について範囲の拡大や人手を求めて直談判した後だった。
 しかし、付近の防犯カメラに神無の姿は映っておらず、アンドロイドであるディーノの主張だけでは上層部が動く気配はない。神無の失踪はこのままだと、自主的なものとして処理されることになる。
 悔しげに表情を歪める青木の隣で、ディーノは何度も頭を下げながら呟いた。

 「ごめんなさい、ごめんなさい、僕がもっとはやくはやく気付いて、あのとき、」
 「ディーノさん、落ち着いてください。」
 「そうですよ。誰もこんな事故は想定していなかったでしょう。」
 「でも、でもっ」

 レミとアサギリの言葉に慰められて、ディーノは俯いたままぽろぽろと涙を流す。
 彼が感じていた視線は誘拐を狙うものではなく、隣の神無に危害を加えるにあたって邪魔な存在に向けたものだったのだ。
 その勘違いが神無の誘拐を生んだのだと、ディーノはあの日からずっと落ち込んでいる。
 主人が姿を消して不安定な彼の姿に眉を寄せた縞斑は、改めてテーブルの上の資料を指で叩いた。

 「事件の犯人の逆恨みを疑って漁ったけど、それっぽい情報は出てこないね。」
 「はい。……まさか、例の組織に?」

 有馬を唆したあの機関は、今も本拠地が割れておらず摘発もできていない。天城の息子である神無は以前から組織に認知されている上に、黒田の病室で構成員の一人と接触をしたこともある。
 万が一組織が神無を攫ったのだとしたら、監視カメラに映らない犯行も頷けるだろう。そう白い顔で呟く青木の向かいで、縞斑は口に手を当てて考え込んだ。

 「……いや、その線も薄いかも。」

 縞斑は小さく首を横に振ると、渡されていた現場の様子や周囲の監視カメラの配置が記された資料をもう一度覗き込む。

 「そもそも、犯人は神無ちゃんのことを本当に恨んでいるのかな?」
 「どどういう意味ですか?」
 「全体的に犯行に詰めが甘いんだよ。」

 監視カメラを掻い潜ったにも関わらず、現場には神無の端末とサングラス型コンピュータが落ちていた。
 付近のカメラは探せば目につくものばかりで、レンズの構造を把握する者であればある程度撮影の範囲を特定することができるだろう。
 目に見えるものの回避は用意周到だが、神無が外部と連絡が取れるような通信機器を処理する方法は分からず現場に置いていった、と考えることが妥当だ。

 「端末にも、神無ちゃんのサングラスにも、GPS機能が搭載されてるだろう?」
 「電源を消したり破壊したとしても、そこまでの追跡はこちらでできると思います。でもそれも装置があれば無力化……
 「そう。それができないから、あの場に捨てることしかできなかったんだ。」

 神無以外の指紋が見当たらなかったのは、神無を恨む犯罪者の犯行に思わせるためのミスリードだろう。
 おそらく犯人は、追跡されたら困るような本拠地で神無を囲っている。細かい場所に着目して推理すると、とても設備が整った組織の犯行とは思えない。

 「まさか犯人は素人?」
 「知識豊富なただの一般人である可能性が高いね。」

 そこまで頭の中で考えを整理した縞斑は、ふと顔を上げてレミへと視線を向けた。

 「レミちゃん、直近で神無ちゃんが関わった事件の被害者リストを持ってきてほしいな。」
 「被害者ですか?」
 「そう。アサギリちゃんがいれば抜けるはずだから。」

 言いながらアサギリに視線を移せば、縞斑の意図を理解した彼はこくりと頷いて立ち上がる。
 
 「リストの在り方を確認していただければ、データベースにハッキングを行って情報を抜き取ります。」
 「なるほど、便利ですね!」
 「レ、レミ建前として一応そこは便利って言ったらダメだよ警察側の欠陥だよ

 素直に感心するレミを嗜めた青木は、聞かなかったふりをして二人の背中を見送った。
 一方縞斑の気遣いで席に残されたディーノは、それまでのやり取りを振り返って首を傾げる。

 「なぜ被害者リストなのですか?」

 刑事である神無を誘拐した人間ならば、真っ先に疑うのは逆恨みをした犯罪者だろう。
 ドロ課設立以降のパトロールで、神無が素人知識の元一般人を捕らえたことも少なくない。

 「例えるなら、吊り橋効果かな。」
 「吊り橋効果?」
 「そう。危険な状態で抱いた緊張を、それを救ってくれた人間への恋愛感情だと錯覚する、みたいな。」

 犯罪に巻き込まれて、抱いた緊張や恐怖が心拍数を上昇させる。そんな時に現れて状況を打開した刑事は、救世主のように輝いて見えたに違いない。

 「時々あるんだよね。助けられた人間が歪んだ恋愛感情を抱いて、そのまま暴走しちゃうケース。」
 「そんな
 「それにこれは欲目を捨てて考えたとしても、彼ほどの顔が良い子に助けられたら恋に落ちる人がほとんどだと思うよ。」

 もっとも、神無の持つ美貌は決して彼自身のの責任ではない。何においても、法を侵した人間が悪いという事実は覆らないことだ。
 言葉を失うディーノと、その背を撫でる青木を見守っていた縞斑は、あの日抱いた違和感の正体を突き止められなかった自分を深く悔いていた。
 ディーノが感じた悪意の視線は、これまでのアンドロイド誘拐事件とは異なる情報だ。それを進展だと勘違いして見過ごしたのは、間違いなく縞斑の油断だった。

 「……落ち着け、縞斑狩魔。」

 今すぐ神無を探すためにあてもなく飛び出してしまいたくなる衝動を抑えて、縞斑は自分にそう言い聞かせる。
 冷静に、確実に、集めた情報から神無の居場所を突き止めることが最善だ。がむしゃらに動けばきっと、また失ってしまう。嫌でも重なってしまう消えた白の少女の姿に、縞斑は小さく首を横に振った。

 「みなさんっ!!」

 その時、扉が開いてレミとアサギリが部屋に転がり込む。慌てて戻ってきたらしい二人は、息を吐く仕草で排熱を行いながら主人の元へ駆け寄った。

 「被害者リストを入手したときに、気になる報告を見つけて!!」

 言いながらレミは、空中にモニターを投影する。その画面を覗き込めば、表示されていたのは複数の通信記録だ。

 「1ヶ月前に、カフェで自分を助けてくれた女性にお礼がしたいから、部署と名前を教えてほしいという問い合わせが何度もあったそうです。」

 隣のアサギリは狼狽えるレミを補佐するようにそう呟くと、表示された各部署に向けた通信を指し示す。
 被害者の人間が助けてもらった刑事にお礼がしたいと申し出ることは、決して珍しいことではない。名前も所属もわからない刑事を探すということも警視庁内では見慣れたものだ。
 しかし、公安局に所属する神無の情報は中でも厳重に保護されているため、もちろんその通信に対して情報を開示することはなかった。
 教えることができない旨を丁寧に説明している刑事たちの履歴を確認していた縞斑は、最後の記録に目を留める。

 「最後の担当者は、探そうとしてやめた……?」
 「はい。8回目の通信で担当した者は新人だったらしく、該当者が公安局所属の場合の対応の把握が漏れたそうです。」

 新人の担当者は最初は親切に特徴を聞いて、お礼状を送れるように探そうとしたらしい。
 そうして事件の詳細を聞いた担当者は、それが公安局のドロ課預かりの仕事であると気づいて、慌ててマニュアル通りに断ったようだ。
 何度も通信を行っているその人物はおそらく、その反応を見て探し人が公安局所属であることを察したのだろう。
 アンドロイド関係の事件を担当する部署が存在することは、例の事件の時に一般人にも公になっている。ドロ課所属まで絞り込めば、あとは見つけ出すことは容易だったことだろう。

 「通信者の特定は!?」
 「アサギリさんがそこまでハッキングしてくださってこちらの方だそうです。」

 青木に急かされたレミは、言いながらデータを新たにモニターに投影する。表示された画面には、通信者の写真や名前や住所などが細かく記されていた。
 カメラに視線を向ける真面目そうな中肉中背の男をじっと見ていた縞斑の向かいで、ディーノがソファから勢い良く立ち上がる。

 「この、ひと」
 「ディーノの知ってる人?」

 青い顔で呟くディーノの様子を見て、席を立ってレミを宥めていた青木は彼のそばへと歩み寄った。膝を追ってディーノの顔を覗き込めば、モニターを凝視していた彼の青い瞳がゆらりと不安に揺れる。

 「5日前、神無が消えた路地のそばで会いました。」
 「それって
 「でもあの人凶器なんて何も持ってなくて、荷物もスーツケースくらいしか……

 曲がり角でぶつかった男性は、ディーノの記憶では間違いなくモニターに表示された男だった。しかし、彼に敵意は全く感じられず、アンドロイドであるディーノに対しても丁寧に対応していたのだ。
 ディーノのその言葉を聞いた縞斑は、表情を歪めて席を立つ。

 「そのスーツケースだ。」
 「え?」
 「その中に、多分神無ちゃんがいた。」

 無力化した相手をスーツケースに詰めて運ぶことは、誘拐の手口のひとつだ。神無は身長こそ高いものの華奢であるため、意識がない状態で体を畳まれたなら、スーツケースに難なく収まってしまうことだろう。
 ディーノは縞斑の言葉を聞いて、目に涙を浮かべたままぶるぶると震える。まだ未熟なディーノが、すれ違った男の持つスーツケースの中に相棒が入れられているという想像に至ることは難しかった。

 「そんな、じゃあ、僕は」
 「熱センサーは常に付けるものじゃないから、気付かないのも無理はない。普通そんなところに入れて運ぶなんて考えないよ。」

 神無に代わってディーノを宥めた縞斑は、その男を疑うに値する情報があったのだろうとアサギリに視線を向ける。
 目のあった彼は主人の意図を汲み取ると、こくりと頷いて口を開いた。

 「職場を調べたところ、男は5日前から仕事を無断欠勤しているそうです。」

 男が職場を無断で休み始めた時期は、神無が姿を消した時期と一致する。

 「当たりだな。」

 誰もが小さく息を呑む中、ぽつりと呟いた縞斑は懐から取り出した小さな装置を手に取ると部屋の窓を開けた。
 憎たらしいほど雲一つない晴れた空に向かって、彼は手の中の装置を放り投げる。
 空中で小さな鳥の姿に変わったその機械は、鉄の翼を羽ばたかせてその場から街へと真っ直ぐ飛んでいった。
 
 「座標の地点に飛ばした。アサギリちゃん、ニトとリトにも連絡して。」
 「承知しました。」
 「ごめんね青木ちゃん。犯人のことはちゃんとそっちに引き渡すから、ちょっとだけ勝手させてもらうよ。」
 「は……?」

 淡々と呟いた縞斑は、アサギリを連れて部屋を出ていく。
 殺意に満ちたその背を呆然と見送った青木は扉の閉まる音を聞いてはっと我に返ると、慌てて現場へ向かう刑事の手配を行うべく席を立つのだった。

 


 
 
 「じゃあ、仕事に行ってくるね。」

 薄暗い部屋の中、じゃらりと鎖を鳴らしてベッドから体を起こした神無の頭を撫でて、男はそう笑った。
 目を細めて首を傾げた神無の仕草に合わせて、長い髪がさらりと彼の肌を撫でる。

 「いってらっしゃい。」
 「今日もなるべく早く帰るから。」

 笑顔で頷く神無の頬や頭を子猫を愛でるように撫でた男は、やがて名残惜しそうに鞄を手に部屋を出ていく。
 扉の前で足を止めた彼は、神無を振り返って穏やかに言った。

 「もう逃げ出したりしたらだめだよ。」
 「……うん、ここで待ってる。お仕事頑張って。」

 澄んだ瞳の神無がこくりと頷いて笑えば、満足そうに頷いた男は今度こそ部屋を後にする。
 その背が見えなくなるまで手を振って見送った神無は、男の気配が遠ざかったことを確かめると深く息を吐いた。

 「……今日で、たぶん5日目?」

 段ボールで厳重に目張りされた室内には、陽の光がほとんど差し込まない。時計もないこの場所に監禁された神無は、狂いそうな時間感覚を必死で繋ぎ止めていた。
 男の出勤と朝食と夕食を体内時計の起点にしているが、それだけで自我を保つことは至難だ。気が狂って男の手に堕ちてしまいそうになりながら、それでも神無は現状に抗おうと模索していたのだ。

 「はやく……逃げないと

 今頃ドロ課では、失踪した神無のことをディーノたちが探していることだろう。事件の元被害者に誘拐された神無のことを彼らが突き止めるのは、おそらくまだ少し先のことだ。
 助けを黙って待つのは性に合わない。自力で抜け出す術を探す神無は、鎖の繋がれた足を引きずってトイレへと向かった。

 今日までの5日間で、男が神無から外に出る気力を着実に奪おうとしていることに気付いた。時間感覚を狂わせていることも、その狙いのひとつなのだろう。
 神無の行動範囲はベッドを中心にしたこの室内と、隣室のトイレのみ。窓は厳重に目張りされていて外の様子が一切分からない。
 通信端末の類は全て取り上げられたか、誘拐された現場に捨てられてしまったらしい。神無が機械類の知識が豊富であることを知っているらしく、AIが搭載された機械はひとつもない。
 絶望を植え付けるには十分過ぎる環境だったが、まだ神無の意志は死んでいなかった。

 「あとちょっと

 トイレの扉を開けた神無は便座の蓋に膝を乗せて身を乗り出すと、奥の小窓のカーテンを捲る。
 その窓には寝室と同様に段ボールの目張りが施されていたが、寝室に比べて接合が甘かった。
 通り抜けることができそうにない小さな窓であったため、男が油断したのだろう。男に見つからないようにこの場所を開くことができたなら、脱出の糸口を掴むことができるかもしれない。
 そう考えた神無は、表向きは大人しく男に従うふりをして、男が出掛けている間や眠っている間に少しずつ段ボールを引っ掻いて剥がしていたのだ。

 「もうちょい……

 今日まで見つからないように慎重に剥がしていたが、あともう一歩で一部の段ボールを完全に剥がすことができそうだった。
 剥がした後の隠し方は考えなければならないが、外の景色を見ればこの心を満たそうとする絶望も多少は晴れることだろう。そう考えた神無は、今日こそ剥がしてしまおうと意気込んで爪先でテープを引っ掻いた。

 「はやく出なきゃはやく、」

 あの場に残してしまったディーノのことや、神無が消えたことを聞いているであろう縞斑とアサギリのことが気掛かりで仕方ない。
 彼らにこれ以上心配を掛けたくない。こと誘拐においては特に敏感な恋人の顔を思い浮かべた神無は、焦る指先を必死で動かした。

 「もうちょっと!」

 どれほど時間が流れただろうか。
 まだ空腹を覚えていないから、男が帰宅する時間まで多少は余裕があるはずだ。
 数日を掛けてようやく剥がれ始めた段ボールの端に、神無は安堵の息を吐く。
 自分が通り抜けることは難しいが、通行人に声を掛けて警察に通報してもらえば、ここから無事に脱出して男を確保することもできるはずだ。

 「剥がれた!!」

 べりべりと音を立てて目張りの一部が剥がれる。隙間から香る久方振りの外の匂いに、神無は思わず感動を覚えた。
 まだ安心するには早い、さっそく助けを呼ばなければ。そう神無が自身を叱咤して声を上げようとした、その時だった。

 「………そこで、何してるのかな?」

 背後から聞こえた声に、神無は一瞬で血の気が引く。
 油断して周囲の気配への警戒を怠った神無が慌てて背後を振り返れば、そこには血走った目の男が立っていた。
 ゆらりと一歩こちらへ踏み出そうとする男の姿を目にした瞬間、神無は男を突き飛ばしてトイレの扉を勢い良く閉める。

 「っ、おい!開けろ!!ここを開けろ!!」

 慌てて扉をこじ開けようとする男だが、神無は咄嗟に足の鎖をドアノブと洗い場の手すりに絡ませた。

 「逃げないって言ったのに!ずっと、ずっと僕を裏切っていたなんて!!うそつき!!!うそつき!!!!」

 男はこの5日間、仕事に行くふりをして隣室で神無の様子をずっと観察していたのだ。
 トイレの窓の目張りをあえて甘くしたのは、神無が本当に外に出る意思を捨てたことを確かめるためだった。
 怒鳴り声と共に簡易的なつっかえ棒の役割を果たした鎖がぎしぎしと軋む音を聞きながら、冷や汗をかいた神無は窓へ駆け寄る。

 「誰かっ誰か!誰か!!」

 隙間から必死で声を張り上げるが、久しぶりに出した大声は掠れていてほとんど音になっていなかった。

 「外に出なきゃ!」

 呟いた神無は、慌てて窓の目張りを更に剥がしに向かった。
 小さな窓だが、目張りを剥がせばどうにか体を滑り込ませることができるかもしれない。そんな希望に縋った神無は必死で段ボールに爪を立てる。

 「っ、い

 ぱきんと音を立てて神無の爪の一部が割れる。この数日でぼろぼろになってしまった指先を見下ろした神無は、剥がれた爪の隙間から響くじくじくとした痛みに顔をしかめた。
 これ以上は指が痛んで剥がせそうにない。鎖が壊れるのも時間の問題だ。裏切られたことを知った男は、神無を殺すかもしれない。
 もう帰れない。ずっと頭の隅に居座り続けていた不安が、ついに神無の心を侵し始める。

 「やだ……、やだ、っいやだ

 それまで脱出だけを考えて、懸命に策を練っていた神無の脳裏が絶望に埋め尽くされた。かたかたと震えた神無は唇を噛むと、もう一度窓の隙間から声を張り上げる。

 「誰かッ!!けほっげほ、」

 痛む喉を押さえて咳き込んだ神無は、以前男がこのアパートの左右の部屋には人がいないと話していたことを思い出す。叫んでもきっと、声は誰にも届かない。

 途方に暮れた神無が、その場に立ち尽くしたときだった。

 「っ、うわ!?」

 開いた窓の隙間から小さな何かが部屋の中に飛び込んできた。
 驚いて後ずさった神無の前に降り立ったそれは、見覚えのあるスズメの形をしたロボットだ。目を瞬く神無の前で、ロボットのスピーカーから声が届く。

 『みとい!?みといだ!!レオ!見つけたよ!!』
 『みとい!!大丈夫!?』
 「ニトリト?」

 スパローで暮らす双子たちの焦った声の後ろで、アサギリが何か声を上げている。珍しく焦った彼の大きな声を聞いて、ニトとリトが慌てて返事をした。

 『わ、わかった!みとい、ちょっと待って!!』
 『これからボスに通信を繋ぐわ!!』

 慌ただしい展開に頭が追いつかない神無の目の前で、スズメのロボットは一度沈黙する。
 そうして次に彼の鼓膜を揺らしたのは、喧騒の中で息を切らす聞き慣れた声だった。

 『神無ちゃん!!!』
 「せん、ぱい……
 『今そっちに向かってる!!もう大丈夫だから!!』

 聞こえた声に、神無はおそるおそるロボットへと手を伸ばす。小さなスズメを手のひらに乗せた神無の瞳から、ぽたりと雫が伝い落ちた。

 「けて……
 『神無ちゃん?』

 耐え続けていた神無の涙腺は、愛する人の声を聞いた瞬間決壊してしまった。

 「たすけて……ったすけて!!」

 とめどなく溢れる涙を拭えないまま、神無は手の中の小さな希望に縋って声を上げる。
 弱りきったその声を聞いた縞斑が目を見開いたとき、神無の背後で音を立てて扉が開かれた。

 「や、あッ?!」

 振り返り身構えようとした神無だったが、壊れた鎖を引かれた彼は足を取られて床に倒れ込む。痛みに呻く彼に向けて容赦なく、男は手の中のスタンガンを押し付けた。

 「あぁ!いっあ"ぁ!!」
 「僕は君に!!何不自由ない幸せな暮らしを与えたのに!!!」

 何度もスタンガンが神無の肌に押し付けられる度、彼は悲鳴を上げて大きく痙攣する。
 咄嗟に目の前の男を跳ね飛ばそうとした神無だったが、固めた拳は宙で止まってしまった。
 男は、自分の軽率な行動のせいで惑わされてしまったただの一般市民だ。閉じ込められていた神無は、自身でも気づかないうちに正常な判断能力が欠落し始めていた。
 刑事である神無が加減せずに抵抗したならば、男を確実に傷つけることだろう。それは正当防衛の域を超えてしまうかもしれない。
 結局神無が選んだのは、乱れた呼吸の合間に否定の言葉を紡ぐことだけだった。

 「おれは、ちがうっめがみじゃな、ッ」

 神無の言葉を聞いた男はぴくりと肩を揺らすと、彼の腕を叩き落として足で床に押さえつける。
 抵抗もままならない弱った体で見上げれば、ぶつぶつと何かを呟く男の手が近くに転がっていた椅子の脚を掴んだ。

 「そうだうそをつくなんて、裏切るなんて、女神じゃない。お前は女神を侵す悪魔だ。」
 「だから、ちがっ!ちがう、ちがう!!」

 危機感を覚えて必死でもがく神無の手の中から、スズメのロボットが男に立ち向かうように飛んでいく。

 「邪魔だ!!こいつのせいで女神が!僕の女神がぁっ!!」

 男は怒鳴り声を上げて掴んだ椅子を振り回す。それらを避けて果敢に立ち向かっていたロボットだが、やがて叩き潰されて床に転がってしまった。
 ばらばらに壊れてしまった最後の希望を前に、とめどない涙を流していた神無は引き攣った悲鳴を上げる。 
 ゆらりと神無の顔を覗く男の瞳には、すでに光が失せていた。数ヶ月前の彼に向けられた暴虐な行為を、女神と崇めた神無に自ら行っているという事実に気づく冷静な思考もないまま、男は椅子を大きく振り上げた。

 「僕の僕の女神を返せ!!」

 錯乱した男の声に、神無は襲い来る衝撃を覚悟して目を閉じる。
 当たりどころが悪ければ命を落とすかもしれない、そう神無が身を強ばらせたとき、彼らの背後で扉が蹴破られた。

 「三十一!!!」

 部屋の中に転がり込んだ縞斑は、男が神無に向けて凶器を振り下ろそうとしていると気づくと、迷わず声を上げて男へと駆け出す。
 声と物音に振り返った男は、咄嗟に縞斑を追い払おうと手にしていた椅子を振り回した。その動きを読んでいた縞斑は、ひらりと躱して男に体当たりを食らわせる。

 「なんだお前っ!?」

 衝撃によって椅子を落とした男は目を白黒しながら声を上げるが、それに構わず縞斑は男の頬目掛けて拳を振り下ろした。
 鈍い音と共に再び床に転がった男は、ぐらぐらと揺れる脳を押さえて顔を上げる。拳を握りしめたまま殺意に満ちた瞳を向ける縞斑は、細く息を吐くと男の腕を後ろに回して手早く拘束を始めた。

 「やめ、ろっはなせ!」
 「うるさいな。蜂の巣にされなかっただけ良いと思ってくれる?」

 一般人の抵抗など、元刑事の手に掛かれば造作も無い。そうして動きを封じた男を転がして、縞斑は床に倒れたまま呆然と成り行きを見守っていた神無へと真っ先に駆け寄った。

 「三十一!三十一!!」
 「かるま、せんぱい……?」

 抱き起こされた神無は、ぼやける視界に映る望んでやまなかった恋人の姿に目を丸くした。
 本当に助けに来てくれた。そんな安堵で体から力が抜けた神無を抱えて、縞斑は手早く通信で神無の保護を報告する。

 「よく頑張った。もう大丈夫だから、一緒に帰ろう。」
 「……うんうん、」

 頷く神無の体には、夥しいほどの火傷の跡があった。何度もスタンガンを押し当てて外に逃げ出す気力を奪おうとしたのだろう。
 卑劣なやり方に唇を噛んだ縞斑は、再びふつふつと湧き上がる殺意のまま男を振り返る。
 びくりと肩を揺らして怯えた表情を浮かべる被害者面の男を、できることなら殺してしまいたかった。けれど、こんな最低な人間でも死ねば神無は悲しむだろうし、手を汚した縞斑に対して責任を抱いてしまうのだ。

 「……お前、この子がお前に対して一般市民だと遠慮してることに気づいてただろ。」
 「え、な
 「刑事は一般市民を守る義務があるまぁもっとも、“善良な”って前提の言葉がつくと俺は思うけど。」

 相手に二度とその気が起こらないように、言葉で縞斑は着々と追い詰めていく。言葉を紡ぐ暇もなく震える男を見下ろして、衝動に任せて向けたくて堪らない銃口を必死で抑えた。

 「優位な立場に胡座をかいて、同じ土俵に降りもしないクズ野郎が。そんな人間が恋愛ごっこだなんて、笑わせないでくれよ。」
 「ああぁ、」
 「次この子に手を出したら命は無いと思え。」

 神無を抱えて冷たく言い放つ縞斑の背後で、通信を受けて駆け付けたらしいパトカーのサイレンが聞こえる。
 間も無く男は拘束されて、然るべき罰を受けることになるだろう。傷ついた神無が事情を知らない刑事の目に触れないように、着ていたジャケットで縞斑は彼を覆い隠そうとする。
 その直前、薄く目を開いた神無は床で震える男へ視線を向けた。
 性懲りも無く神無に縋ろうとする絶望に揺れた瞳に、縞斑が敵意を剥き出しにするより早く、神無が眉を寄せて小さく呟く。

 「あんたの神様になれなくて、ごめん。」

 今度こそ意識を失った神無を抱えて、縞斑は男を一瞥すると踵を返した。呆然とその姿を見送った男は、ぼたぼたと涙を流しながらその場に蹲る。
 その涙が後悔か悲しみか、ふたりには知る由もないことだ。
 
 


 

 あの事件から数日後。男が罪を認めたという話を、縞斑は神無の口から聞かされた。

 「あの人捕まる時に、抵抗しなかったんだって。」
 「そう。」

 同時に発生していたアンドロイドの誘拐事件も、全くこの事件に関わりのない形で犯行組織が明らかとなり解決したらしい。
 無事に療養期間を明けて、ドロ課で手に入れた情報と共に元気な姿を見せようとスパローに顔を出した神無を、ニトとリトは大泣きして出迎えた。
 安堵した様子のアサギリと泣き止まない双子たちに心配を掛けたことを詫びた神無は現在、縞斑の私室で話をしている。

 「警視庁の今後の対策は?」
 「うん。相手が元被害者だとしても守秘義務を徹底すること、ってさ。今回の担当の人からも謝罪が来た。」
 「なるほどね。」

 情報を開示したわけではないが、神無を公安局所属の刑事だと裏付ける結果になってしまった担当の刑事からは、神無の元に直々に謝罪があった。
 一方当の本人である神無はというと、こんな事故が起こるなんて誰も予想してなかったから、とその謝罪を丁寧に受け入れて落ち込む刑事を慰めたらしい。
 神無は優しすぎる、とディーノから通信を受け取っていた縞斑は複雑な表情を浮かべて頷いた。

 「謝罪といえば……あの人も、留置所で俺にちゃんと謝りたいって言って、」
 「それは絶対に許可しないよ。」

 きっぱりと言い切った縞斑を見上げて、仲間たちにも反対されたらしい神無は俯いて小さく頷く。

 「やっぱりそうだよな。」
 「……神無ちゃんが来た時からずっと落ち込んでるのは、面会することをみんなに反対されたから?」

 神無の顔を見た時から縞斑は、彼が精神的にひどく疲弊していることに気がついていた。
 ニトやリトやアサギリに対して気丈に振る舞おうとする神無のことを見兼ねて、縞斑は彼を私室へ連れて行ったのである。

 「んーん、そういうんじゃないけどさすがに俺もだめだろうなって思ってたし
 
 縞斑に沈んだ気持ちを見破られた神無は、言葉に悩むように目を伏せた。慰めるように神無の手をそっと握れば、指先を絡めて握り返される。
 縞斑の温もりに促されて、神無はぽつぽつと自分の思いを吐き出した。

 「犯人から恨まれたり……復讐とか、そういう覚悟はしてたんだけどさぁ」

 刑事として誰かの罪を罰する以上、犯人やその遺族から逆恨みを受けることを神無は覚悟している。刑事なら誰もが持つもので、その殺意や悪意への対処は警察学校でも必ず教わるものだ。
 けれどまさか、助けた人間が自分をきっかけに歪んでしまう覚悟や対処法は、神無の中には固まっていなかった。

 「……助けたこと、後悔してる?」
 「ううん。今でも俺はあの人に怪我がなくて良かったって心から思うよ。」

 事件に巻き込まれた男を助けたことは、神無にとって当然のことだった。怪我がないことを確かめたとき、罪のない人間を守れたことに心の底から安堵して、自分のことを誇らしく思えたのだ。
 けれど。ぽつりと小さく呟いて、首を振っていた神無は再び俯く。

 「あの人がああなる前に、止められなかったのかなって思わずにはいられない。」

 逮捕された男は素直に罪を認めていたが、同時に精神疾患を疑われて検査が進んでいるらしい。
 普段の真面目な彼からは想像もできない非道徳的な暴走は、行動に移す前に止められたのではないだろうか。

 「あいつが歪んだのは、あいつの選択だ。そこに神無ちゃんが責任を感じる必要はないよ。」
 「……でも、」

 自分は男を助けたつもりでいたが、彼にとって神無の存在は、人生を台無しにする毒になってしまった。神無は手を強く握って唇を噛む。
 呆れてしまうほど優しい神無の顔を覗き込んで、縞斑は言い聞かせるようにゆっくりと言葉を続けた。

 「厳しいことを言うけど、君があいつを許すのはお互いのためにならない。」
 「それって?」
 「神無ちゃん、解放されたあいつがもう二度と同じことを繰り返さないって言い切れる?」

 縞斑の言葉に、神無は小さく息を呑んだ。
 動揺に揺れる疲弊した瞳にこれ以上負担をかけたくないが、これは神無が今後刑事として生きていくためにも大事なことだった。

 「優しさと甘やかしは全くの別物だよ。ここで君があいつを甘やかして、行為がエスカレートしたら誰が責任を取るの?」
 「………、」
 「もしも殺されでもしたら、あいつは殺人犯だ。仮に精神疾患があろうと許されない罰を背負うことになる。」

 男の今後を慮るのであれば、神無が今回の一件を許さないままでいることが正しいのだ。
 元刑事の先輩として縞斑が告げた言葉は厳しいものだったが、神無は正しく受け止めて納得ができた。
 これ以上男が罪を重ねないように神無にできることは、半端な甘やかしを捨てて振る舞うことだけだった。

 「そう、だよね。」
 「そうだよ。それに

 こくりと頷いた神無の手を引いて、縞斑は清潔な包帯に包まれた彼の指先を慈しむように撫でる。

 「こんな傷だらけなのに、自分のせいだって言われる恋人の気持ちも考えてくれると嬉しいな。」
 「うご、ごめん。」

 保護された当初の彼の指先は、無理に目張りのダンボールを剥がそうと引っ掻き続けていたせいで血塗れになっていた。
 剥がれた爪が治るまでには、まだ少しだけ時間が掛かるらしい。ようやく腫れと痛みの引いた細い指を見下ろす縞斑の表情は自分よりもずっと苦しげで、神無は咄嗟に明るい声を上げる。

 「もう痛くないよ。痕も残らないだろうってレミが言ってたから。」
 「……なら、良かった。」

 眉を寄せた縞斑は手を引いて神無を胸に抱いた。少しだけ早い鼓動の音を聞きながら、神無はようやく取り戻した日常に息を吐く。

 「来るのが遅くなってごめん。」
 「そんなことないって。あの時は言えなかったけど来てくれて本当にありがとう。」

 笑う神無の肌には未だ僅かに火傷の痕が残っていた。今後薄れるものだとしても、彼の味わった痛みは計り知れない。
 あと少しでも縞斑の到着が遅れていたら、彼は男の振り下ろした椅子に打ちのめされていたのだ。そう考えるだけで、縞斑は心臓を握りつぶされるような恐怖を覚える。
 震えを誤魔化すように抱きしめた縞斑の腕の中で、神無は穏やかな温もりに包まれながら目を閉じた。

 「刑事として情けないけどさ。先輩の声聞いたらあぁ俺今怖かったんだって自覚して、同時にもう大丈夫だって安心して泣いちゃったんだ。」
 「情けなくなんかないよ。犯人が向ける殺意とは別物なんだから、怖いと思って当たり前だ。」

 犯人が刑事に向ける敵意と、男が神無に向けた歪んだ愛情は、似ても似つかないものだ。刑事ではなく神無三十一個人に向けられたそれに、彼が恐怖を抱くことは当然のことだった。
 スピーカー越しに神無の泣き声が聞こえたとき、その直後に扉が破壊されて神無の悲鳴が聞こえたとき、縞斑は顔から血の気が失せたのだ。
 間に合わないかもしれない、そんな絶望を必死に拭って、縞斑は男の自宅へ駆け付けたのだった。

 「それにしても、女神ねぇ。」
 「なに?」
 「いやそんな神聖なものじゃないのになーと思って。」

 縞斑の呟きに、がんと頭を殴られたような衝撃を受けた神無は僅かに身を逸らす。確かに自分は女神ではないが、恋人に改めて否定されることは堪えることだ。
 どうせ生意気なクソガキだとでも言いたいのだろう。そう考えて唇を尖らせる神無の一方で、縞斑は彼の顔を覗き込んで笑った。

 「人間だよ。神無ちゃんは俺と同じ、ただの人間だ。」

 神無はその言葉に目を瞬く。悪戯が成功した子供のように笑って見せた縞斑を見て、神無もふにゃりと表情を崩した。

 「……そうかな、」
 「そうだよ。」
 「なら、いっか。」
 「いいんじゃない?」

 同じ言葉を繰り返すだけの時間は不毛なようで、二人にとってはとても大切なものだった。
 腕の中で嬉しそうに笑う神無を抱きしめた縞斑は、取り戻した温もりにようやく安堵のため息を吐くことができたのだ。
 そうして戯れていた神無はふと、ふわりと部屋の外から良い匂いが漂っていることに気がつく。

 「甘い匂い?」
 「お、そろそろ焼けたかな。」

 首を傾げる神無の手を引いた縞斑は、席を立つと部屋の外へ足を向けながら言葉を続けた。

 「アサギリちゃんが、神無ちゃん復帰のお祝いにパンプキンパイを焼いていてね。」
 「え!?アサギリが!?」

 アサギリなりに元気になった神無を迎えたいと考えたらしく、その提案を受けた縞斑は思わず驚いて目を瞬いたのだ。
 今朝から支度をするアサギリを手伝おうとした彼だが、マスターが台所に立つと仕事が増えるので、と追い出されてしまったのである。

 「そろそろディーノちゃんも着くらしいから、みんなで食べよう。」
 「うん!食べる!!」

 嬉々として頷いた神無は縞斑の手を握り返し、率先して廊下を歩き出す。
 素直な恋人の姿を可笑しそうに笑った縞斑は、部屋の扉をゆっくりと閉めた。



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