@Mementomori_em
「君、憑かれてるね」
そう言ってくる輩は大抵ペテン師だと思っていた。
S暦XXX年。大きな戦争から数年、漸く日常の平穏を取り戻しつつある東京のある下町。
「それで、最近はどうですか」
「ああ……まあ、ぼちぼち」
診療所で青年が診察を受けている。彼は先の戦争で心の傷を負い、多少生活に支障を来たしていた。身体的な負傷なら、どれだけ良かったことか。心に傷を負うとずっとずるずる引き摺っていくことになる。だから生活がままならない。自分のような成人男性がこんなザマで情けないことこの上ない、と彼はまた無意識に頭を掻いた。
「落ち着いてまた本腰入れて仕事したくなったら私のところに来なさい、それまでは焦らず回復に努めること」
「……天宮センセ」
「うん?」
「センセイだって戦争帰りだったじゃないですか。どうしてそんな……普通で居られるんですか」
診察をしている医師・天宮香史朗も青年・那岐寛太郎と同じく先の戦争で戦地に赴いていた。
「私は元々、人の生き死にに身近でしたから。……那岐君がおかしいわけではありませんよ」
「……」
「これから寒くなります。眠れなかったら温かいものでも飲んで落ち着かせなさい」
「何がいいですかね」
「緑茶、白湯……あたりですかね」
「覚えときます。それじゃ、また」
「ええ、お大事に」
那岐は診療所を後にして、帰路を辿る。ジャケットの内ポケットから煙草とライターを取り出し、火を付けた。煙たい環境に慣れてしまったせいか、煙草を吸っていないと落ち着かない。昔はそんなものに興味すらなかったが、戦地から帰って来てから何もかもが変わってしまったように思う。
「ああ、そういやセンセにあのこと相談するの忘れたなぁ」
ここ最近、肩が重いというか、疲労が抜けない感覚がするのだ。精神がやられているからそうなることもある、と以前聞いたことはあったのだが、日に日に重くなっていくような気がしてならないし、こんな風になるとは那岐自身聞いたことも体験したこともなかった。
「クッソだりいな……」
頭に靄が掛かったように、ぼんやりとした調子で歩を進める。今日の飯は何だろうとか、明日は何しようとか、それほど重要でもないことに思考を割く。
「那岐……那岐…………」
どこからともなく声が聞こえる。ああ、まただ、と那岐はウンザリしたように溜息を吐く。拍子に煙草が落ちた。
「那岐、先に行け」
「こっちはもう駄目だ」
「熱いよう、痛い」
「おっかさん、おっかさあん……」
共に戦地に赴いた仲間の声だ。だが、彼らはもうこの世には居ない。目の前で、自分の後ろで死んでいった。未来を那岐に託すと云って、みな灰になった。那岐は呼吸がままならなくなって、その場に蹲った。
「おれが、何したっていうんだよ……」
逃げることしか出来なかった。だから帰ることが出来た。命があればそれ以上のことはない。死地から帰ってきた那岐には、無意識に罪悪感が残っていた。
「おれは、悪くないだろ……ほっといてくれよ……」
唇を噛む。煙草の味が、鉄の味に塗り変えられていく。徐々に呼吸が落ち着き、那岐は顔を上げた。
「…………は?」
先程まで歩いていた街並みではない。霧がかった、どこかの山道のような場所に居た。
「冗談よせよ……」
引き攣り気味に笑って、那岐は自分の両頬を抓った。どうやら夢ではないらしい。最悪だ。
「何なんだよ……」
来た道を引き返そう。そう判断して那岐は後ろを向いた。人のようなものがそこにいた。情けない声を上げ、那岐は尻餅をついた。青白い顔。毛むくじゃらの、那岐よりは大きな背丈の、何か。毛の間から大きな目玉がこちらを見下ろしている。
戦地を経験した兵士でも、人間ではない未知の何かには流石に対抗出来ない。那岐は尻餅をついたまま、じりじりと後ろへ退いていった。化け物は何をするでもなく、ただその眼で那岐を見ている。
「…………ア」
か細い声だった。あの毛むくじゃらが、何か言葉を発しようとしていた。
「……ッ、んだよ、文句あんのかよ?!」
漸く出た声で那岐は意思の疎通を試みる。
「ア…………アアアアああああああ!!!!」
耳が痛くなるような音量だった。こんなやつ相手に意思疎通を図ろうとする自分が馬鹿だ、と那岐はやっと立ち上がり、蹴つまずきながらも逃げた。背後で金切り声のような化け物の声が聞こえる。
「うるせえ!何だよ!!何なんだよ!!!!」
怖い思いはもう十分体験したのに、これ以上何を強いるのか。この世の無情さを呪いたくもある。
「ひどいひと」
耳元ではっきりと、声が聞こえた。不意に足が止まる。誰だっただろうか、聞き覚えのあるようなないような、女の声であった。那岐は声のした方を向こうとした。
「見るな!」
力強い声に、那岐は目が覚めたような感覚を覚える。気がつけば、いつもの帰り道だった。那岐の前には袴姿の人物が立っていた。
「……楸かよ」
「開口一番のセリフがそれか。君を心配して損した」
楸と呼ばれた人物は、嘆息して那岐の身なりを確認した。
「怪我は?」
「ちょっとコケて手のひら擦りむいたくらいだよ」
「唇が切れているが」
「自分で噛んだ」
「……」
「つか食客サマが俺に何だよ」
「明里が君を心配していた。俺は嫌な予感がしたからここに来た。以上だ」
明里は那岐の幼馴染で、家が焼失した関係で現在居候をさせて貰っている。そして那岐の目に立つ彼、楸は明里の家の関係で時折滞在しているよく分からない青年である。楸はその時々で探偵のような仕事をしていたり、何かの代行をしていたり、難しそうな本を書いていたり、暇そうに学術書を読んでいたりする。歳がいくつなのか分からない。見た目からして那岐達と歳は離れていないように見える。歳に見合わず色々知っていて、浮世離れしているようにも見えた。とにかく那岐にとっての楸は謎の人物なのである。
「そうかよ」
「君はもう少し警戒心を持った方が良い。戦争が終わったとはいえ、平和ボケするのはどうかと思うぞ」
「説教かよ」
「こんなところで説教を垂れる気はない。明里が夕飯を作って待っている、帰るぞ」
「はいはい、さっさと……」
楸が那岐の前に立ち止まったまま、微動だにしない。また何かおかしなことに巻き込まれたのではないか?と那岐は内心不安になった。
「おい、帰らねえのかよ」
「君、疲れているか?」
「ああ?まあ……そうだな、今日は走ったから少し」
「ああ、違う。取り憑かれているのかと聞いている」
「は?」
そんな台詞を、こんな奴から聞くなんて、これからよく分からないことに巻き込まれるなんて、俺は露ほど思ってなかった!