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長い会話(アイスとサラ)

全体公開 TGM 8 59 3455文字
2023-12-23 22:57:54

アイスとサラが別れる話。20230409発行のアイマヴェ再録集の描きおろしでした。自分の描くアイスお元気アースはおおむねこの話が起点になっています。あーだこーだ、えっちらおっちら、二人暮らしというものを頑張るアイマヴェはきっとかわいい~~。

Posted by @diveforyou


長い会話


「トム……
 その、柔和な面持ちの下に、毅然とした『彼女』があることを自分は知っている。
「サラ」
 にこりと微笑みかけるつもりで、トム・アイスマン・カザンスキーはできなかった。職場だったらできたことかもしれない。三十数年という間連れ添ってきた妻に対して、部下や、上司に対するときの表情を、自分は作ることはできなかった。
「少し大丈夫?」
「ああ。何だ?」
 子供たちはそれぞれ独立し、今やこの広い家には自分と妻が残るのみだ。その安寧。その達成感。妻への感謝は絶えたことがない。この身体を蝕んだ病を退けられたのも、彼女の献身的な看病があったからだ。
「トム……
 彼女の複雑な微笑みは一度机のほうを向き、そして戻ってきたときには消えていた。青みがかったグレイの瞳が自分を見据え、上から下までをまじまじと見る。
(サラ……
 覚悟する必要などなかった。ただ、言いにくいことをこれから彼女は口にする。たとえば不満。たとえば、異存。
 たちまち、自分の中にある、夫ではない生き物がうごめいて、「代わろうか」となめらかな声を出した。慮るということ得意とする自分が。見越すということを得意とする自分が。
……いや、』
 トム・カザンスキーは告げた。悪いが、彼女が会話したがっているのはお前じゃない。何の後ろ盾も肩書もない、ただのトム・カザンスキーで対応する必要のある人だ。
「あなたは、……人生で何かやり残していることはある?」
 サラの言葉に自分は何か言いかけて、
………、」
 結局、何も言わないということを選択した。
 まず時間稼ぎのつもりで口を開いて口を閉ざすことを、たぶん選択とはいわないのだ。
(やり残していることか……
 視線を落としながら、トム・カザンスキーは自分ではなく『彼』のことを思った。目を瞑り、自分のことは棚に上げて、『彼』のことを思った。『彼』は今どうしているだろう。
(マーヴェリック……
『彼』の名を心で呼びながら、トム・カザンスキーは自嘲気味に唇を吊り上げ、そして前を向いた。妻はゆるく微笑んでいる。夫の何もかもを、きっと『看過』し続けてきた目だ。
 将官の妻というものは苦労が多い。
 トム・カザンスキーはそう思っているし、実際、サラの三十年間は途方とてつもないものだったろう。出世の道を邁進する自分の妻であり続けることは、常に憂苦と心労の連続だったはずだ。
 病める時も健やかなる時も、と誓った人生のパートナーが彼女の場合にはほとんどそばにいなかった。夫が海上勤務にあたっている間も、彼女は常に将官の妻であることを求められた。子供たちの世話だけではなく、後輩たち――つまりは新しく将官の妻となった女性たちの『よき上司』であることも求められたのだ。
 謙虚さと、リーダーシップを同時に求められて、彼女はどうそのストレスを跳ね返したのだろう。跳ね返せず、屈したこともあっただろうか。
「君こそだろう?」
 俯きながら言ったトム・カザンスキーに対し、彼女は少しだけ考える素振りを見せた。
後悔ばかりの人生だが、自分の場合は、やりたいことを押し通してきた人生でもあった。そしてこれからもそうなるだろう。こうして生きながらえたからには、まだやることがある。
「私、悔いてはいないのよ?」
 向かい合って、おそらくは五分が経過していた。それなのに自分の中には、ずっとこの会話をしていたという奇妙な疲労と充実感があった。
 悔いてはいないという彼女の言葉の意図を、果たして自分はどれだけ理解しているだろう。
 自分にとって、彼女は欠かせない人間だった。結ばれてからずっと。そしてこれからもきっと。
 いまだに感動することがある。
 おそらくは自分は、サラでなくては結婚できなかっただろう。
 思ってもいない『愛の言葉』をささやくのは難しくて、他人に嘘を吐くよりも、自分に嘘を吐くほうが苦痛だなんて、ろくでもない男だと自分のことを何度も思った。
 彼女はそんな自分を好きだと言ってくれた。そういうことよね、とわかってくれた。そんなことを言ってくれる女性は今まで一人もいなかった。あなたが私に愛していると言ってくれないのは、あなたが誠実な人だからなのよね……
 でも愛がなければ結婚なんて無理だろう? と思っていた自分に、彼女は何秒も迷った後、そうねと言った。肯定と突き放し。それ以上でも以下でもない言葉。
『そうね』
 そして自分は、彼女に敬愛の念を抱いていることに気付いたのだ。いったいどうすることが正解なのか、どこへ向かえば自分は失敗しないのか。そんな思考に囚われていた自分に舞い降りた『そうね』だった。
『もし君がこんな俺でもいいというのなら、結婚を前提に付き合ってくれないか』
 その言葉を口にしたとき、彼女は少しだけ泣きそうな顔になった。少しだけ逡巡して、それから『ええ』と柔らかく頷いた。
「あなたの妻でなくてはできない体験をさせてもらって、だから悔いはなくて。でももう少し好きにできる時間があった良かったのにって、そう思っているの」
「そうだな。君は本当に頑張ってくれたから」
「あなたは?」
……うん?」
「マーヴェリックと暮らしたいとは思わないの?」
……思うよ」
「なら、そうしたら? 私も自由になって、あなたも少し自由になるのはどう?」
「サラ。俺は……

 ――できるはずがない。
 ――今更君なしでどう生きていけと?
 ――そうしたいのは山々だが。
 ――果たしてマーヴェリックがどう思うかな。

 突然の提案に、トム・カザンスキーの脳は混乱した。混乱して、なのに次の瞬間には冷静だった。
 例えば決断しなければならないとき、トム・カザンスキーは夜光雲の光景を思い出す。まだ三十代だったころ、マーヴェリックと共に見上げた極中間圏の光景を。
 海面のように光る空の真下で、マーヴェリックは「くそ」と笑った。オゾン層よりも高い場所にできる雲というのを、自分もマーヴェリックもあの時初めて目にしたのだ。戦闘機でも辿りつけない場所。月の光を独り占めする雲。
 地球で最も高い場所にできる雲を突き抜けたくて、マーヴェリックは嬉しそうに笑った。トム・アイスマン・カザンスキーは、あれよりほかに美しい景色を知らない。
 宇宙と、地上の雲の狭間にある空間を飛びながら、「アイス、僕たちしか知らない景色だ」と言ってみせたマーヴェリックのきらびやかさ……
 決断には、後悔が伴うことを自分はすでに承知していて、だから自分は、何事かを決めるときには、必ず夜光雲の光景を挟む。あの一瞬の永遠に自分をくぐらせる。あの美しい世界を浴びていた時の自分は、純粋だったからだ。
「君はどうするんだ?」
「ペニーと一緒に暮らそうと思ってるわ」
「そうか。サラ……
「トム。私があなたと居たんじゃ、彼は絶対に砂漠から出てこない。でしょう?」
…………
 彼女の言う通りだった。トム・カザンスキーは、のこのこと砂漠から出てくるマーヴェリックというのを想像できない。彼はモハーヴェを気に入っている。寂しくてちょうどいいと思っている。今更自分の生活を変えることもないと思っている。誰にも迷惑をかけず、自分自身でいて大丈夫な場所……
 苦笑するサラを前に、トム・カザンスキーは頭を抱えた。
(ただし、『負い目を負わせた場合には、その限りではない』、か……
 自分とサラが別れたと知れば、マーヴェリックは勝手に負い目を感じるだろう。二人が別れた原因に、自分も関与しているのではないかと負い目を感じる。

 ――アイスがサラに捨てられてしまった。
 ――自分のせいで、アイスは一人になってしまう。
 ――申し訳ない。
 ――どうにかしなくちゃ。

 そう思ってのこのこ砂漠から出てくるマーヴェリックというのは、容易に想像できることだった。マーヴェリックは僚機を見放さない。そして、トム・アイスマン・カザンスキーは、僚機のためならばどんなこともできる男だった。負い目を負わせることだって。夜光雲たなびく極中間圏をマッハ10で突き抜ける、漆黒の戦闘機を与えることだって。

「俺とマーヴェリックはうまくいくと思うか?」

 トム・カザンスキーの前で、サラ・カザンスキーはくすくす笑っている。
 これから訪れる未来を、心から楽しむような笑顔だった。




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