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マロリク02:後編

全体公開 64 2112 2 30727文字
2024-01-21 16:54:14

いただいたマシュマロのお話(後編)

・大学生の世界線
・モブ(名前あり)たくさん出てきます
・日置の情緒不安定気味
・キス描写有り
・バイトの内容間違えていたらすみません
---
【新しい登場人物】
近衛:このえ
佐山:さやま
吉野:よしの
獅堂:しどう
新山:にいやま
---
渡会はバレーボール部です

Posted by @RcNfe37

「気合い入れすぎじゃない?」


 開口一番、教室に入ってきた近衛は俺の容姿を見るなり頭を押さえた。それは俺に対するものではなく、頭痛に耐えているだけのように見える。
 隣に腰を下ろした近衛はペットボトルの水を飲み干すと流れるように机に突っ伏した。しんどいなら休めばいいのに、根は真面目らしい。


「たかがバイトの、面接だけなの…………に?」


 顔だけこちらへ向けた近衛は不自然に言葉を区切るとスンスンと鼻を鳴らした。急に犬と化した友人から身を引こうとすると勢いよく腕を掴まれる。


「え、めっちゃいい匂いすんだけど、何?やっぱ気合い入れてるよね?」
「入れてないよ」
「嘘つくなって、髪型もなんか違うし」
「さっき友達に会ってただけ」
「それだけで?こんな違うことある?まさか……彼女できた?」
「できてないよ」


 名推理と言うようにピシッと人差し指を立てた近衛に首を振ると、教壇近くの扉がガラリと開いた。途端に私語の少なくなった教室内で講師の声だけが大きく響く。
 回ってきた出席確認用のQRコードを読み込んでいると、諦めきれないらしい近衛は小声で話しかけてきた。


「な、香水か柔軟剤か分かんないけど何使ってるか教えて」
「えー……やだよ」
「この世にいい匂いの人間が一人増えるんだぜ?いいことじゃん」
「これは渡会だけでいい」
「誰それ?同じ学校の人?」
「あ」


 しまった。普通に言っちゃった。
 学籍番号を入力して送信すると、何事もなかったように言葉を続けた。


「そういえば、佐山は?」
「体調悪いから休むって……てか、話逸らすなよ」
「分かったよ」


 どうしても引き下がってくれない近衛に、スマホをいじる"フリ"をしてから顔を上げると、できるだけ残念そうな表情を浮かべた。


「あー……廃盤ぽい」
「え〜………………


 近衛はシュンと眉を下げるとそのまま講師へ向き直ることなく、また机に突っ伏した。
 主演男優賞狙えるかもしれないな。自分の演技を過大評価してからスマホをしまいかけると、画面にメッセージが表示された。


『授業間に合った?』


 見慣れたアイコンに思わず頬が緩む。
 来週は小テストがあるからしっかり聞くべきだけど、テストか渡会かと言われれば渡会を選ぶ。


『余裕で間に合ったよ』
『良かった』
『あと、香水いい匂いだって』
『誰に言われたの?』
『友達』


 すぐに返ってきた返信はここで一度途切れた。けれど、画面下を見ると『入力中……』の文字が表示されている。
 気になって机下のスマホを眺めていると、教壇の方から講師の咳払いが聞こえた。慌てて顔を上げるが、ただ喉の調子が悪かっただけのようで、特に指摘されることなく講義は続いた。
 なかなか送られてこない返信にアプリを閉じようとしたところで、タイミングよくメッセージが更新された。


『あんまり近付きすぎないで』


 …………これは、どっちだ。
 怒らせたかな、と心配になっていると『お願い』と手を合わせているキツネのスタンプが送られてきた。安堵の息を吐いてから『OK』と敬礼のポーズをするネコのスタンプを送るとスマホをバッグへしまった。
 パラパラとノートを捲ればホワイトボードに書かれていく文字に目を凝らす。そういえば、この講師は文字が小さいのだった。
 座る位置を間違えたと、隣の近衛を窺えば彼は相変わらず真っ青な顔で、真っ白なルーズリーフの上に突っ伏していた。講師を横目にボールペンの先で突っつくが、死んでるのではないかと疑うくらいぐったりとしている。
 この講義が終わったら、医務室へ連れて行ってあげよう。
 近衛から目線をホワイトボードへ移せば、また講師の咳払いが教室に響いた。





「失礼します」
「はーい、ありがとね」


 保険医に一礼して医務室の扉を閉めると、急いで校門へと向かった。バイトの面接まであと40分。近衛を運ぶことに思っていた以上に時間をかけてしまった。
 腕時計を確認しながら長い廊下に差し掛かると、ある一室から講師の声や、紙の捲られる音が聞こえてきた。高校時代の癖で走るスピードを緩めると、背後から控えめな声が聞こえた。


「日置、これから面接?」
「うん」
「俺も一緒に行っていい?昨日忘れ物しちゃって」


 隣に並んだ吉野は教材を抱えながら恥ずかしそうに笑った。そんな彼に頷こうとすると、抱えられていた教材の中からバサッと紙の束が抜け落ちた。たちまち廊下は白い紙に染まる。


「わ?!ご、ごめん!」
「ううん、手伝うよ」


 慌てた様子で掻き集める吉野の隣に座り込むと、通路に広がった紙を回収した。見る気は無くとも勝手に目に入ってしまう紙面にはびっしりと明朝体の文字が連なっていた。けれど、明らかにどの講義にも関係無さそうな単語ばかり。


「うわー!見ないで!」
「あ、ごめん……


 俺の手から二枚のメモを奪い取った吉野は、集めきった紙の束を大事そうに胸に抱えた。
 過剰な反応に思わず後退れば、吉野はハッとした表情を浮かべたあとに泣きそうに眉を八の字に歪めた。


「ごめん、違くて、これ……これは…………
「あ、いや……無理に言わなくていいよ。勝手に見ようとしてごめん」
…………だ、誰にも言わないで」
「え」
「俺がおもしろくない小説書いてるって、誰にも言わないで」
「小説、書いてたの?」
「え、見てないの?」
「そこまで読んでないよ……
「え、嘘」
「ほんと……


 そう答えれば、吉野はポカンと口を開けて固まったかと思えば、一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。天然というか、ドジというか、こういうタイプの友達は初めてだ。
 完全にフリーズしてしまった吉野をどう対処したらいいか分からず、目の前で手を振ると、今度は急に泣き出した。
 主演男優賞は吉野に譲ろう。


……お、終わった、おれの……大学生活、終わったぁ…………
「だ、誰にも言わないって……


 めんどくさいな。
 若干の苛立ちを覚えつつ、立ち上がろうと膝に手を当てると、ピリッとした痛みが走った。嫌な予感に手の平を開けば、薬指のハラがぱっくり切れている。吉野に紙を抜き取られた際に切ったらしい。
 気付いてしまうと、益々痛みを感じた。けれど生憎、絆創膏など常備していないのでまた医務室に行くしかない。
 まじまじと切れた箇所を見ていると腕時計が目に入った。同時に面接のことを思い出して立ち上がる。


「ごめん、俺面接行かないと」
「うぅ、置いて行かないでぇ……
「じゃあ立って」
「待って、今クリップで留めるから……あれ、クリップどこだっけ……


 リュックを漁る吉野の姿に、苛立ちが徐々に募っていく。面接時間が迫っているから尚更。
 モタモタと動く吉野に痺れを切らすと、自分のバッグから資料の入ったファイルを取り出した。資料を抜き取って雑にバッグへと突っ込んむと、空になったファイルを吉野へ突き出す。


「これ、使って」
「え、でも」
「時間ないから早く……!」


 講義中の教室を気遣って控えめに声を荒げると、吉野はおずおずとファイルを受け取った。リュックに収まったことを確認すると、身を翻して校門へと急ぐ。今からなら……ギリ間に合うだろう。
 足速に一号館を出ると、隣の吉野を窺った。リュックがガバ開きではないかとか、靴紐は解けていないかとか。あとは……


「ICカード持ってる?」
「え?うん」
「先に出しておいて」
「わ、分かった」


 改札に入る直前に探されては困ると先手を打つと、自分もポケットからパスケースを取り出した。
 本日二度目。息を切らしながら改札を通ると、筋肉痛の脚が悲鳴を上げた。今朝も思ったけど、本当に運動不足が過ぎる。
 ホームへ続く階段を目指せば、背後で「ポーン」という音が聞こえた。嫌な予感に振り返ると、吉野は改札の二つのフラップに止められていた。赤く光るランプから顔を上げれば申し訳なさそうに眉を下げる吉野が映る。


「ごめん、チャージするの忘れてた……
………………先行ってる」


 悪いけど、もう待つことはできない。
 吉野にそう伝えると、限界な脚を叱咤して階段を駆け降り、乗車していく人混みに紛れると、目についた吊り革に掴まって息を整えた。これから面接を受けるどころではない疲れ具合に辟易する。
 ガタンガタンと揺れ始めた車内でスマホを確認すれば約束の時間まであと20分を切っていた。焦りで冷や汗が背中を伝う。
 どうか、間に合いますように。
 こういう時だけ神に頼りながら、メモアプリを開くと、用意しておいた面接用の回答を頭に叩き込んだ。





「じゃあ希望日はある?」


 父親より少し歳下くらいの新山と名乗る館長は、予め送っておいた履歴書のファイルをパソコン上に表示させながら淡々と告げてきた。
 緊張感など全くない採用宣言に思わず言葉を詰まらせる。


「え……採用、なんですか?」
「うん」
「そういうのって後日通知されるものじゃ……
「一般的にはね、本来ならうちもそうなんだけど。最近一気に人手が足りなくなっちゃって」
…………それって」
「あぁ!違う違う。激務だとかパワハラとかじゃなくて」


 俺の言いたいことを汲み取ったのか、新山さんは優しい印象を抱く垂れた眉を更に下げた。


「隣のカフェにね、どうやらかっこいい子が入ったみたいで、若い子はみんなそっちに流れてね」
「へぇ。そうなんですか」
「たしか日置くんと同じ大学だった気がするよ……名前は…………獅堂くんだったかな」
「あ、もう大丈夫です」


 思い出したくない記憶を無理やり封じて新山さんの言葉を遮ると、机上のカレンダーに目を向けた。


「希望日は……えっと、人手が足りないのであればなるべく入った方がいいですか?」
「それはそれでありがたいけどね、無理強いはしないよ」
「いえ、基本的に暇なので」
「そっかー……それじゃあ」


 時間割を確認しながらシフトを組み終えると、新山さんはチラッと掛け時計を窺った。
 現在の時刻は20時半。ここの図書館は働く大人でも気軽に立ち寄れるようにと22時まで開けているらしい。その為、平日は社会人の来館者が多いのだとか。


「慣れるためにちょっとだけ体験してく?」
「え、いいんですか?バイト自体初めてですけど……
「いいよいいよ、初日なんてそんなものだよ。時間大丈夫かい?」
「はい、ありがとうございます」


 席を立った新山さんに続いて、面接室を出ようとすると、またピリッとした痛みが走った。
 そうだ、指切れてたんだった。


「あの、絆創膏っていただけますか?」
「絆創膏?どこか怪我したのかい?」
「はい……ちょっと」
「えっとー……たしか、この辺に……あぁ、あった。どうぞ」
「ありがとうございます」


 新山さんから受け取った絆創膏を薬指に巻き付け、改めて面接室を後にすると、初めての感覚に心臓が高鳴った。客ではなく、従業員側に立った途端、違う世界のように見える。
 館内スタッフだと分かるようにネームカードを首にぶら下げると、本が連なったワゴンの前に到着した。


「これが今日返却された本だよ。ここに置いてある本は全て"貸出可"になったものだから元の棚に戻してね」
「はい……あの、元の場所ってどうやって調べたら」
「あぁ、それは分類番号を確認すると分かるよ」


 そう言って新山さんは一冊手に取ると、背表紙に貼られたシールに記されている"923"を指差した。そして迷いなく本棚の間を進んでいけば、迷いなく陳列された棚に戻した。
 一連の流れを見ても分からず疑問に思っていると、新山さんはニコリと微笑んで手招きした。


「ほら、ここの棚は同じ番号が集まってるでしょ?」
「あぁ、本当ですね」
「これを頼りに戻していけばいいよ。多少順番は違くてもジャンルが合っていればOKだから」
「へぇ……勉強になりました」
「いや、なんのなんの」


 新山さんは照れくさそうに顔の前で手を振ると、「戻ろうか」と来た道へ足を向けた。本棚を横目にその背後を追えば、今まで気にしたことのない背表紙のシールに自然と目が向いた。
 ワゴンの前に戻り、また一冊の本を手に取った新山さんは今度は俺へと差し出してきた。


「じゃあこの52番の本を戻してきてくれるかい」
「52……3桁だけじゃないんですか?」
「うん。困った時は棚の側面を見るといいよ」


 新山さんの指先を目で追うと、近くの棚の側面に取り付けられたプレートには"100〜199"などと丁寧に数字が振られていた。それを確認すれば新山さんに向き直って首を縦に振る。


「俺にもできそうです」
「はっは!それは良かった」
「あの、よければですけど……ここにある本、全部戻しても大丈夫ですか?」
「あぁ、もちろんだよ。ありがとう」


 新山さんの了承を得ると何冊か抱えて聳え立つ本棚へと足を向けた。
 一冊一冊数字を確認しながら不慣れな手付きで棚へ戻す。接客よりこういった単純な作業のほうが好きだから、ここの面接を受けて正解だったかもしれない。吉野に感謝しないと……あ、そういえば彼はあれからどうなったのだろう。仮勤務中といえど、もしものことを考えて吉野に連絡を入れようとスマホを取り出すと、頭上から「あの……」と女性の声が降ってきた。見上げれば、本を数冊抱えた年配の女性がこちらを窺っていた。


「本を返したいのだけれど」
「あ、はい……少々お待ちください」


 と、冷静に答えたのはいいものの、頭の中は大パニックを引き起こしていた。
 まず、返却口が分からない。あちこちに本を戻していたら方向感覚がおかしくなってしまった。俺はどこから来たっけ……
 ウロウロと挙動不審に動き回る俺の後ろを年配の女性は何も言わずに付いてくる。申し訳なく思いつつ、なんとか返却口のカウンターに辿り着くが、そこには誰もいない。今日の館員やバイトはどうなっているのだろう。新山さんを探すが彼の姿も見当たらない。
 仕方なく受付側に立つとパソコンの画面に開かれているメニューを眺めた。「貸出・返却」のタブを開くが、次の工程が分からない。中学の時に図書委員をしていたけど、あの時はどうしていたっけ。手元のバーコードリーダーを掴んで固まっていると、女性の背後からヒョコッと人影が現れた。


「返却ですか?」
「えぇ、この本を」
「かしこまりました」


 救世主として登場した吉野は慣れた手付きで女性から本を受け取ると、カウンターの内側に回って来た。


「代わるね」
「うん、ありがと」


 吉野に場所を譲ると一連の流れを覚えるようにジッと見つめた。カードを読み込んで、本のバーコードを読み込んで……手際よくこなされる動きを黙って見届けていれば、いつの間にか女性が手にしていた本は返却用ワゴンに移されていた。


「ご利用ありがとうございました」
「こちらこそ。また来ますね……あなたは新入りさんかしら?」
「え、あぁ、はい。今日から」
「私、よくここに通わせてもらっているのよ。よろしくね」
「よろしくお願いします」


 女性の笑顔につられて頬を緩めると、彼女はまた穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと出口へと足を向けた。
 もし、あの女性ではなく気の短い人だったら初日からクレームを食らっていたかもしれない。安心と共に息を吐くと、座っていた吉野に声を掛けた。


「ありがと、助かった」
「いや、全然……もう働かされてるの?」
「今日は体験のはずだったんだけど」
「大変だね……あ、ここは俺がやっておくから」
「え、でも今日って忘れ物取りに来たんだよね?」
「あぁ……それはもう大丈夫。それに、この時間は館長しかいないし」
「そうなんだ。じゃあ俺ももう少し残ろうかな」


 吉野に返事をしながら先程返却済みになった本を手に取ると、背表紙を確認しながら本棚へと向かった。
 結局、あと少し、あと少し……と延ばすうちに閉館の時間まで居座ってしまった。体験だというのに今日の分の給与も貰えるらしく、逆に申し訳ない。
 それと、思っていたより疲れた。本を貸出して戻すという作業だけかと思っていたが、フロアを掃除したり、蔵書点検をしたり、貸出期限を過ぎている人への督促を行ったり、最後は広い館内に残っている人がいないかチェックしたり……と意外に重労働だった。しかも今日は電灯がチカチカと寿命を告げていたので、その取り替えもした。


「いやぁ、助かったよ。二人ともありがとう」
「いえ、色々体験できて良かったです」
「俺は、たまたま忘れ物取りに来ただけなんで……
「また次回もよろしくね」
「「お疲れ様でした」」
 

 新山さんに挨拶すると、静まり返った館内を歩いて出入り口へ向かった。夜の館内はちょっと怖いかもしれない。
 街道に出ると薄暗い夜を僅かな街灯が照らしていた。


「あのさ、日置は次いつ入ってるの?」
「明日。講義終わったらすぐ」
「そっか……週2とか?」
「ううん、週4」
「あぁ、そういえば落ち込んでたんだっけ」
「そういうわけじゃないけど……


 渡会から自立するため、なんて言えないし、社会経験ということにしておこう。実際、バイトには興味があったから間違ってはいない。
 口籠もりながら答えた俺に、吉野はクスクスと笑いを溢すと、駅への階段を昇りながらこちらを見上げた。


「給料貰ったら何買うの?」
「んー……特に決めてない」
「欲しいものないの?」
「今はないかな」
「誰かにプレゼントしたいとかは?」
「プレゼントか……


 吉野の言葉に階段を上るスピードを緩めると、自然と頬も緩んだ。
 いいな、それ。めっちゃいいじゃん。渡会の大会も今月で終わるし、そのあとはおそらく時間に余裕も生まれるだろう。
 どこか遊びに誘おうかな。どこか奮発して食べに行こうかな。給与の使い道に胸を躍らせていると、吉野が何か期待したような目を向けてきた。


「やっぱり、日置って彼女いるでしょ」
「え、なんで?」
「プレゼントに反応したし」
「別にプレゼントは彼女だけじゃないでしょ」
「それに、なんか、今日の格好気合い入ってるし」


 近衛もそうだけど、なぜそう見えるのか。いつもだって多少は身なりに気を付けているのに。渡会の私物だからだろうか。オーラが違うのかな。
 とは言え、渡会の存在は知られたくないので、なるべく悟られないように首を振った。


「彼女はいないし、気合いも入れてない」
「嘘だ〜、誰にも言わないから教えて」
「いないって」
「お願い……!」
「この話終わり。俺こっちだから」


 手を合わせてくる吉野を無視して改札を通れば、上り線のホームを指差した。
 吉野は物足りなそうに口をへの字に曲げると下り線のホームへと体を向けた。


「じゃあ、また明日」
「気が向いたら教えてね……バイバイ」


 だから、いないって言ったじゃん。
 諦めの悪い吉野に手を振ると、彼の背中を見送ってからホームへ降りた。停まっている電車に乗り込むと、疎な人の波を縫って座席へ腰を下ろし、スマホを開いた。
 プレゼント何にしようかな。やっぱり形に残る物がいいだろうか。バイトで稼げるお金は制限があるし、高い物は難しいかもしれないけれど。
 揺れる電車の中で普段は検索しないブランドのサイトをスクロールしていると、徐々に眠気が襲ってきた。久しぶりにたくさん動いたから体が限界を迎えているらしい。お腹も空いていたはずなのに、今はそれよりも早くベッドにダイブしたい気分。
 誤タップを懸念してスマホをしまうと、重い瞼を閉じた。

 本能なのかなんなのか、最寄り駅に着く直前に目を覚ますと、寝惚けたままホームに降りた。眠い眼を擦りながら改札を出ると近くのコンビニへ向けた足を自宅の向きへ変えた。せめて何か腹に入れようと思っていたけど眠すぎる。
 コンタクトが霞む視界で、いつもより時間をかけて自宅に到着すると、荷物を玄関へ置いたまま脱衣所に入った。せめて、顔は洗っておこう。
 気合いで洗顔を終えると、上着を椅子にかけ、靴下を道標のように脱ぎ散らかし、倒れ込むようにベッドへ身を沈めた。抗えない睡魔に目を閉じると、時間を要さずに意識は途切れた。





 高校生の時より起きれるようになったものの、アラームをセットしなかった朝はドタバタと大忙しだ。
 目を覚ました俺は、ベッドの上に転がっている五分遅れた置き時計を見て慌てて体を起こした。
 講義まであと30分。急いで服を脱ぎ捨てると、雑にシャワーを浴びて、乾ききっていない髪のまま顔を洗い、歯を磨き、着替えを済ませた。
 玄関に放置されていたバッグを手に取ると、鍵を閉めて駅へと向か……いかけて、回れ右で戻るとマスクだけ手に持った。もう一度鍵を閉めると急ぎ足で駅へと走る。昨日といい今日といい、走ってばかりだ。
 ちょうど停車していた電車に乗り込むと、息を整えながらポケットに手を突っ込む。けれど、探せど探せどスマホが見つからない。


「(あ…………忘れた)」


 おそらく昨日着ていた服のポケットに入れっぱなし。現代人の感覚なのかスマホが無いと落ち着かない。時間を確認することもできずに、ただ間に合うことを願うしかなかった。
 大学の最寄り駅に停まると、左側に長蛇の列を作るエスカレーターの右を駆け抜けて、南口へと走る。信号も待つのが惜しく、歩道橋を走って、近道の路地裏を走り抜けた。けれど、学校の敷地を跨いでもまだ着かない。


「(大学、広すぎ……)」


 講義のある一号館へと入ると混んでいるエレベーターを横目に階段を駆け上がる。昨日の疲れも残っている脚はもう悲鳴を上げるどころではない。
 息を切らしながら教室のドアを開ければ、同じタイミングで前方のドアから講師が入ってきた。よかった、ギリギリ間に合った。


「日置、こっち」


 空いている席を探しながら歩いていると、聞き覚えのある声が後方から聞こえた。顔を向ければ吉野が小さく手招きしていた。その隣には眠そうな近衛と佐山の姿も見える。
 席を詰めてもらって腰を落ち着けると、ノートとペンケースを取り出した。


「今日は気合い入れなさすぎじゃね〜?」
「寝坊したんだよ」


 クルクルとペンを回しながらこちらを窺ってくる近衛に苦笑いを浮かべると、回ってきたQRコードに頭を抱えた。
 ………………忘れたんだった、スマホ。
 仕方なく隣の佐山の肩を叩けば、眠そうな眼が俺を捉えた。


「俺のも送ってくれない?」
「え?自分のスマホは?」
……忘れた」
「は?」


 あり得ないと言わんばかりに切れ長の目をパチクリと瞬いた佐山は、スマホと俺を交互に見て首を傾げた。


「もしかして……原始人?」
「現代人現代人、てかお願い」


 スマホを忘れたくらいで、そこまで退化させなくてもいいだろ。
 若干呆れつつも再度頼み込むと、佐山は渋々といった表情でスマホを貸してくれた。学籍番号を入力して佐山に返すと、今日も咳払い絶好調な講師へと目を向けた。
 講義が終わると、学食で昼食を済ませ、もう一限講義を受けてからバイト先へと向かった。
 スマホが無いと本当に不便だ。時間が見れないと遅れているように感じて結局予定より早く着いてしまった。


「あれ、日置くん。風邪?」
「いえ、これは、……予防です」
「最近寒くなってきたからね」
「はい」


 寝坊して身だしなみを怠ったからとは言えずに、言い訳で誤魔化した。
 新山さんはニコリと微笑むと、机の上に置いてあったネームプレートバッヂを一つ手に取った。


「これは日置くんの。オリジナルバッヂだよ」
「あ、ありがとうございます」


 名前の彫られたバッヂを受け取ると、パチンッと胸ポケットに留めた。昨日はネームカードをぶら下げたのみだったが、本格的にバイトらしくてテンションが上がる。
 新山さんとの会話もそこそこに、カウンターに回ると母親と同年代くらいの女性に声を掛けた。


「お疲れ様です。代わります」
「お疲れ様……あら?新人さん?」
「はい。昨日からお世話になってます、日置です。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。若い子がいると助かるわ。早速だけど今日の返却された本を戻してくれるかしら。私、最近膝の調子が悪くて」
「はい……あの、お時間は」
「大丈夫よ〜、私次も入れてるの」
「分かりました」


 女性に頭を下げてから返却用ワゴンを見ると、午前中から一つも戻していないのではと疑うくらい溜まっていた。
 手に持てるかどうか以前の問題なので、仕方なくワゴンごと移動させると一冊ずつ本棚へと戻す。まぁ、やる事がなくて暇よりやる事が多すぎて忙しい方が今はありがたい。
 一冊、また一冊と戻すうちに昨日は気にしなかった本のジャンルに意識が向いた。この本を借りた人は歴史が好きなのかなとか、なぞなぞや間違い探しの本は小学生だろうなとか。
 なんとなく背表紙だけではなく表紙にも意識を向けると、派手な紫とピンクの色を纏い『恋愛占い』とデカデカにトップを飾る本に思わず苦笑が漏れた。小学生の女の子が好きそうなジャンルだと本棚へ戻そうとしてピタリと手が止まる。
 周囲を確認してから本を開くと適当にページを捲った。星座の一覧が記された左ページと相性を解説した右ページ。


「(双子座…………水瓶座………………)」


 指でなぞりながら俺と渡会の星座を探すと、相性の解説欄に目を通した。


『二人の相性はイマイチ!お互い素直になってみたら何か変わるかも……?!』


 パタンッと本を閉じると、棚へ戻し、何事も無かったかのように作業を再開した。
 さて、次は……これは美術系の本か。ワゴンを移動させながら奥の本棚へと足を進めると背表紙を確認して表紙を眺めた。
 明治時代あたりの西洋文化の混ざり合いを感じる建物。絵画や美術品といった鑑賞品はあまり興味ないが、建築は意外と心惹かれるものがある。


「(美術館行くのはどうだろ……渡会は興味ないかな……)」


 給与の使い道を考えながら本を戻すと同じ列を確認した。教科書で見たことのある絵画や建造物など様々な種類の本が見受けられる。
 勤務中にも関わらず一冊手に取ると、パラパラとページを捲った。紅葉の綺麗な庭園のページで手が止まると、写真右下の所在地を確認する。残念ながらこの付近ではないが、紅葉は今のシーズンにはピッタリだ。


「(この近くに庭園ないかな……)」


 本を抱えたまま、ポケットに手を忍ばせるが、いつもの四角い有機物は見当たらない。そういえば、今日はスマホを忘れて来たのだった。
 諦めて本を棚に戻すと、まだ大量に残っている返却本へと手を伸ばした。





「お疲れ様でした」
「お疲れ様、今日もありがとうね」
「はい、次もよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね」


 新山さんに挨拶してから帰路に着くと、静かな街道を歩いた。いつもは手にしているスマホの代わりに、一冊の本を抱えて。きっと電車内で暇だろうと、カードを発行して退勤間際に借りて来てしまった。
 テレビでも度々取り上げられる有名な作家が書いた十年前の本。今発売されている新刊は流石に置いていないから、デビュー作の本を借りた。
 本をバッグへとしまい、駅へと繋がる暗い夜道を歩いていると背後からポンと肩を叩かれた。振り向けば、薄暗くても分かる今は見たくない顔の先輩が立っていた。そういえば隣のカフェで働いているとか言っていたっけ。


「この前バーベキューに来てた子だよね?」
「あぁ……はい」


 頬を引き攣らせながら頷くと、獅堂はなぜか隣に並んだ。訳が分からず一歩も踏み出せずにいると、獅堂は不思議そうに首を傾げた。


「どしたの?」
「な、何かご要ですか?」
「駅行くんだよね?」
「はい……
「俺も駅行くから一緒に行こうよ」
「え、あの、ご友人とかは……
「え?今はいないけど、なんで?」
「何でって……俺と面識ないって言うか……
「面識はあんじゃん。てか、知り合いと帰るのって別に変じゃなくね?」


 えぇ……会った人全員友達だと思っているのか、この人は。
 あまりにも不審な行動に僅かに距離を取ると、獅堂は困ったように頬を掻いた。


「えー?そんな変?てか、この前のこと謝りたくて」
「この前って……
「急にキスしちゃってごめんねって」
「え?」
「酒が入ってたとはいえ、悪かったよ……じゃあ、またね」


 獅堂はそう言うと、軽く手を振って駅へと歩いて行った。呆気に取られてしばらくその背中を見つめることしかできず、現実に戻ってきたのは獅堂の姿が見えなくなってから数分後だった。
 なんだ、意外と常識ある人じゃん。過剰に嫌悪感を抱いてしまったことが逆に申し訳ない。
 本を抱え直して駅へと向かうと停車している電車に乗り込んだ。スカスカな車内で、座席に腰を下ろすと、文庫本より二回り大きい表紙を開いた。


『嫌いなあいつを好きになってしまった…………


 冒頭、いきなりの告白に一度本を閉じると裏表紙を確認した。SFらしい未来都市のデザインに地球外生命体の本性を暴くというあらすじ。とても恋愛の絡む話だとは思えない……けど、そういう要素が入ると面白くなるのだろうか。
 もう一度表紙を開いて読み進めると、さすがはプロの作品で意外と引き込まれた。人間と地球外生命体の恋愛かと思いきや、普通に人間同士の恋愛だった。地球外生命体との共存反対派の男性と、賛成派の女性が元凶の地球外生命体を通してお互いを理解するという話。


「間もなく発車致します……ご乗車のまま──」


 本に夢中になっていると、ふと車内放送が耳に届いた。
 そういえば、ここはどこの駅だろう。そう思って顔を上げると見覚えのある看板や建物が目に入り、慌てて本と荷物を抱えてホームへ飛び出た。俺が降車すると同時に扉が閉まり、電車が背後を駆け抜けていく。心臓をバクバクと響かせながら安堵の溜め息を吐くと、エスカレーターへ向かった。
 改札を通る時と階段を降りる時以外、暗い夜道も街灯頼りに本に没頭しながら自宅のドア前に到着した。
 物語の余韻が抜けないまま鍵を取り出そうとすると、部屋の中から何かの音が聞こえた。隣人宅のテレビかと思ったが、明らかに俺の部屋から聞こえる。
 誰かいる?
 途端に鼓動が急加速すると、鍵を持つ手が震えた。恐怖心で動けずにいると更に部屋の中の音が鮮明に聞こえる。何度も聞いたことのある、耳馴染みの…………


「あ」


 ポツリと静かな通路に言葉を落とすとガチャンと鍵を開けて中に駆け込んだ。
 後ろ手に鍵を閉めて靴を脱ぐと手探りで電気スイッチを探す。明るくなった短い廊下を進んで部屋に入ると椅子に掛けてあった上着のポケットからスマホを取り出した。
 今も尚着信音を鳴らしているスマホの画面には『渡会』の文字が表示されている。イヤホンが見当たらずとりあえずスピーカーのまま通話ボタンをタップした。


「もしもし……?」
………………………………た』
「ん?ごめん、なに?」
………………なんかあった?』


 上手く聞き取れずに聞き返せば、通話越しの渡会の声はいつもより低く耳に届いた。怒っているような、泣きそうになっているような、そんな声色だった。


「な、なにもないけど」
『今どこいる?』
「家」
『誰かと一緒にいる?』
「いない…………な、なに?どしたの?」


 訳が分からず問うが、返事はすぐに返ってこなかった。渡会は外にいるようで、車のエンジン音や風の音、会話のような声が遠くから聞こえてくる。
 疑問を抱えたまま待っていると、しばらくして溜め息のような音と呆れた声がノイズ混りに聞こえてきた。


『どしたのって……こっちが聞きたいんだけど』
「なんで……
『昨日のメッセージも、今日のメッセージにも、既読つかないし返信も無かったから』
「あ……ごめん。今日スマホ忘れちゃって」
『昨日は?』
「昨日は疲れて寝落ちした」
…………そう』


 腑に落ちたのか落ちないのか分からないが、渡会はまた黙り込んでしまった。
 もしかして、と通話画面からトーク画面に切り替えると、昨夜にメッセージが1件、今朝にメッセージが1件、昼にメッセージが1件、夕方頃にメッセージが2件、そして今から三時間前は一時間ごとに1件ずつの着信を確認した。


「ごめん、心配かけたよね」
『うん……
「これからは気を付けるよ…………


 そう言葉にしつつも、俺はあまり納得できなかった。スマホを忘れることなんて滅多に無くとも有り得ないことではない。心配してくれて嬉しい反面、少し大袈裟すぎるのではないかとも思う。
 モヤモヤした感情のまま、気が付けば口を開いていた。


「でも……一日くらいでそんな心配しなくても大丈夫だよ。一週間とかなら分かるけど」
…………今までそんなに空くことなかったのに?いきなり一日も空いたら心配になるだろ』
「高校の時だって返信無しなんて何回かあったじゃん」
『高校?その時は毎日会ってたから返信無くても気にしなかったよ。次の日に会って聞けばいいし。けど今は状況が違………………


 渡会はそこで言葉を区切ると、一呼吸置いて先程より柔らかい口調に切り替えた。


『いや、ごめん……喧嘩するために電話したわけじゃなくて…………無事ならよかった』
……こっちこそ、心配かけてごめん」


 若干気不味い雰囲気に落ち着きなく目を泳がせると、渡会とのトーク画面をもう一度見直した。
 昨夜送られていた『洗濯した服いつ持っていけばいい?』というメッセージに目を付け、嫌な空気を振り払うように話題を切り出した。


「えっと……服のことだけど、その、日曜日ならいつでも」
『日曜……朝でもいい?9時とか』
「うん。俺は大丈夫」
『分かった。持って行くね』
「え、いいよ。取りに行く」
『この前は日置が来てくれたし今度は俺に行かせて』
……分かった。気を付けてね」
『うん。じゃあ……おやすみ』
「おやすみ」


 プツンと通話を切ると、同時に緊張の糸も切れてその場に座り込んだ。
 愛されてるなとは感じているけど、ここまでとは。だって一日、たったの24時間。子供じゃないんだし、気にしすぎではないだろうか。
 立ち上がる気力もなく廊下から漏れてくる灯りに照らされた画面を眺めていると、ポコンと新着メッセージが表示された。


『さっきは言い方強くてごめん』
『日曜日、会えるの楽しみにしてる』


 連投で送られてきた文字に目を通すと、さっきまでのモヤモヤは嘘のように消え去ってしまった。
 渡会に唯一の欠点を挙げるとすれば、俺に甘すぎること。
 正直、それが厄介だ。底無しに好きになってしまうし、我儘になってしまう。だから渡会が多方面から好意を寄せられているのを見ると不安になる。ふいにその優しさが俺以外に向いてしまうのではないかと焦りが生まれる。
 せっかく自立しようと決意したのに、また振り出しに戻ったような気がした。





 いつの間にか迎えた日曜日。
 なんとなく気分が乗らない。
 渡会と会えるのは嬉しいけど、やはり先日の一件があったからか気不味い。
 落ち着かずにパーカーの紐をクルクルと指に引っ掛けていると、スマホが振動してメッセージの着信を告げた。


『着いたから今から向かうね』


 渡会からのメッセージにスタンプを送ると改札から出てくる人の波を眺めた。小学生やカップル、外国人や年配の人など、さまざまな層が行き交っている。
 しばらくして、見慣れた姿が目に入った。これから練習試合らしく大きめのボストンバッグを肩に下げ、ラフなスポーツウェアの格好。特別着飾っていないのに、それでもお洒落に見えるのは天性の才能だと思う。
 見慣れているのに目を奪われたまま動向を追っていると、こちらに気付いた渡会は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に自然と肩の力が抜けた。


「おはよう。待たせてごめん」
「おはよ。俺も今来たとこだから大丈夫」


 意外と面と向かって話せばいつもの調子を取り戻せるらしい。
 普段通りの自分に安心して心の中で息を吐くと、ふと渡会の肩越しに三人の女の子がこちらを窺っているのが見えた。こちらと言っても彼女たちの目には渡会しか映っていないけど。


「────き。日置」
………………ん?あ、ごめん。なに?」
「大丈夫?何か気になる?」
「いや……あっ、そうだ。服洗濯してくれてありがとう」


 女の子達から意識を戻すと渡会が持つ紙袋へと手を伸ばした。ここからでも丁寧に畳まれているのが分かる。もう少し雑でも良かったのに。
 けれど、紙袋を受け取ろうとしたその手は何故かふわりと宙を掠めた。手渡されない紙袋に顔を上げると、渡会は優しく笑みを浮かべたまま俺を見下ろしていた。意図が分からず俺は首を傾げることしかできない。


「ど、どした……?」
「今日は緊張してないの?」
「え?」
「先週みたいに緊張してないのかって」
「あぁ…………うん。今日は大丈夫みたい」
…………そっか」


 渡会は残念そうに瞼を伏せると紙袋を差し出した。
 そういえば、前回は異様に緊張していたな。渡会には悪いけど、これはある意味自立への一歩かもしれない。最近バイトを始めたおかげで一人の時間が減ったし、余計なことも考えなくなった。これで迷惑をかけることも減っただろう。
 紙袋を受け取りながら達成感に浸っていると、渡会は俺の手元を指差した。
 

「中身、ちゃんとあるか確認してくれる?」
「うん」


 紙袋を開いて中を覗けば、当たり前だけど自分の服が綺麗に畳まれて収まっている。トップスに、ズボンに、靴下や下着も…………
 僅かに恥ずかしさを感じていると、紙袋の奥底に衣類ではない"なにか"が見えた。それを取り出してみれば、包装の施された細長い箱が現れる。


「これは?」
「それは……この前のお詫び」
「お詫び?………………え、もしかして」


 返信一日しなかった時のお詫び?
 あれは俺が悪いのではないのか……それも、まだ納得できてないけど、渡会が詫びることなんて1ミリもない。口調が強くてごめんねとは言われたけど、そんなん全然気にしていない。
 さすがに、受け取れない。そう思って返そうとすれば先に口を開いたのは渡会だった。


「俺の自己満足だから気にしないで」
「そういうわけには……
「んー……じゃあプレゼントとして受け取ってくれない?」
「プレゼントって……貰っていいようなことしてないよ」
「してるよ、こうやって会ってくれてるじゃん。それに、返されても悲しいから受け取ってくれると嬉しいんだけど」


 そんなこと言われたら貰う以外のことなんてできるわけないだろ。仕方なく渡会の本望通り頷けば、満足そうな笑みを向けられた。
 やはり尽くされているばかりでは嫌だな。渡会みたいにスマートにはいかなくとも、俺だって何か喜んでもらえるようなことをしたい。
 改めてバイトへのモチベーションを上げていると、微かにスマホの振動音が聞こえた。それは渡会のスマホからだったようで、画面を確認した渡会は申し訳無さそうに眉を下げた。


「ごめん、マネージャーから。今日の試合のことだと思うけど……少しだけ出てもいい?」
「うん」


 箱をしまいながら頷くと、渡会はその場で通話を始めた。聞こえてくる会話は敬語ではなくタメ口なので、おそらく同級生のマネージャーなのだろう。あの"芽衣"という女の子だろうか。
 渡会の通話が終わるのを待つ間、行き交う人の波を眺めていると、見知った顔がこちらを見ていることに気付いた。
 俺が気付いたことに気付いた獅堂は、先輩達の間から手を振ってくる。渡会を窺ってから会釈すれば、獅堂は人の波を縫ってこちらに駆け寄って来た。


「(ちょっ、ストップストップ……!)」


 まさかこちらに来るとは思わず、慌てて首を振るが獅堂は俺の反応などお構いなしに話しかけてきた。


「一人で何してんの?」
「一人、違う、ます」


 外国人のようにただ単語を発して隣を窺えば、頭にハテナを浮かべた獅堂は隣を見上げてポカンと口を開けた。
 やはりイケメンから見たイケメンも何か感じるものがあるのだろうか。と言うか、何か起こる前に早く戻ってほしい。


「あの、今はちょっと……


 渡会に変な誤解を与える前に切り上げようとするも叶わず、通話中の渡会は獅堂の存在に気付くと口元だけニコッと弧を描いてまた通話に戻った……かと思えば「切るね」と言ってスマホをしまった。


「友達?」
「いや、……大学の、先輩」
「へぇ……初めまして」


 渡会は俺に確認すると、人当たりの良い笑顔を浮かべた。多分他所行き用。
 獅堂は渡会を見つめていた目を瞬くと、同じく笑顔を作った。


「初めまして〜、うわ、めっちゃかっこいいね」
「ありがとうございます」
「何繋がり?」
「高校からの……というか、何かご要でしたか?」
「ううん、知った顔がいたから話しかけただけ」


 獅堂は俺の顔を見ると「な?」と言うようにニコリと微笑んだ。渡会の視線を感じつつ苦笑いで誤魔化すと、何も知らない獅堂は思い出したようにスマホを取り出した。


「そういえば、連絡先教えてよ。名前も知らないし。せっかくバ先近い──」
「あの、また、あとで、今急いでて……


 渡会には知られたくないアレコレに獅堂の言葉を遮って慌てて口を挟む。もう既に遅い行動かもしれないが、これ以上被害が広がっては困る。


「あ、ごめんごめん。じゃあ、また今度〜」


 獅堂は俺と渡会に手を振ると先輩達の元へ戻って行った。
 一瞬で地獄に変わり果てた空気感に怖気付きながら隣を見上げれば、なんとも言えない表情の渡会が映る。
 これはもう話題を変えるしかない。


「じ、……時間大丈夫?……部活の」
………………
……渡会?」
……日置は今夜予定ある?」
「いや?特には」
「今日泊まりに行っていい?」
「え……
「都合悪くなった?」
「いや……


 先に今夜の予定は無いと言っておいて、泊まりはダメなんて言えない。まんまと渡会の手のひらで転がされて言葉を詰まらせる。
 意地悪そうに笑う渡会に首を振ると、また時間を確認した。


「泊まるのはいいけど片付けてないから……試合終わるの何時?」
「20時」
「夕飯は食べてくる?」
「ううん、日置と食べたい」
「お……うん。着替えとかは……
「この中に入ってる」


 そう言って渡会は肩にかけているボストンバッグに目線を落とした。どうやら、最初から泊まるつもりだったらしい。


「じゃあ20時くらいに迎え行くよ」
「ありがとう。急にごめんね」
「いや、全然」
「じゃあ、そろそろ行かないと」
「うん、気を付けてね」
「ありがと」


 渡会はニコリと微笑むと改札へと足を向けた。その後ろ姿を見送ると、俺はすぐにエスカレーターへと向かった。目指すは駅ビル内の百円ショップ。
 店の入り口でカゴを手にすると、ブラシやスポンジやゴミ袋など……ありとあらゆる掃除グッズを手に取った。さすがに汚い部屋では迎えられない、ただでさえ最近はバイトで忙しかったし、幻滅されたら多分泣く。
 会計を済ませて掃除グッズの入った袋をぶら下げながらホームへ向かうと、時刻を確認した。目標は18時に全て綺麗に終わらせていること。今はまだ10時過ぎだし、普通に間に合うだろう。
 謎の余裕を感じながら電車へ乗り込むと、窓から見える晴天の空の見上げた。

 帰宅後から数時間。現在の時刻は17時。進捗は6割と言ったところだろうか。
 困ったことに、掃除が得意でないことが仇となり、どこまでが終わりか分からなくなった。風呂やキッチン周り、床は綺麗にしたけど、机の上はただ物を端に避けただけだったり、服は畳んだだけだったり、そもそも元の場所がどこだか迷子になってしまった。


「あ、そうだ。布団しまわないと」


 洗濯したシーツや毛布を取り込むと、ベッドに敷いてから我慢できずにその上に倒れ込んだ。干したての布団はなんでこんなに魅力的なのだろう。
 名残惜しく体を起こすと、また机の上を片付けるべく一つのボックスを手に取った。最終手段の"とりあえず見えなくする"作戦だ。
 モバイルバッテリーや、筆記用具、いつ買ったか分からない手帳など雑にボックスの中に放り込む。
 粗方片付け終わり、部屋を見回すと、引越し当時のように綺麗になっていた。疲労感にラグの上に腰を下ろすとそのまま体を横たえた。
 今、何時だ。
 スマホを手繰り寄せて時刻を確認すれば19時半。一瞬、見間違いかと目を擦ってもう一度確認するがやはり19時半。18時台を目にすることなく約束の時刻に迫っていた。慌てて立ち上がると、荷物を持って玄関へと向かった。余裕だと思っていたのに結局バタバタすることになってしまった。
 掃除は定期的にしよう。遅めの今年の抱負を掲げると駅への道を急いだ。





 外食、減らさないとな。
 財布の中を見つめながら溜め息を吐くと、隣の渡会は心配そうにこちらを窺ってきた。


「美味しくなかった?」
「え?そんなわけ……すごい美味しかったよ」
……それなら良かったけど」


 渡会は僅かに微笑むと前に向き直った。
 この前調べた限り、美術館のチケットは一枚約一万円に近い値段だった。二人分のチケット代と移動費と外食費と……色々計算した結果、今月の給与を考えると目標の金額まで届くか届かないかのギリギリになってきた。渡会の大会が終わるまでそんなに日数もない。
 一人悶々と考え込んでいると、グイッと腕を引かれた。顔を上げれば、渡会が駅の掲示板を指差していた。


「遅延してるみたい」
「え、遅延……?」
「どのくらいで動くか見てくるね」
「あ、うん……ありがと」


 状況が理解できないまま周りを見渡せば、確かに……というか気付かない方がおかしいくらいの人集りができていた。駅員の声も改札前で大きく響いている。
 ボケッとその場に突っ立っていると、ドンッと肩に何かがぶつかった。


「チッ、気を付けろよ」
「すみません」


 遅延で気が立っているらしい。明日仕事の人は焦るかもしれないけど、他人に当たらないでほしい。文句を言いたいところをグッと飲み込んで素直に謝れば邪魔にならないように端へ避けた。
 場所移動したことを伝えるため、スマホを取り出すとタイミングよく着信がきた。


「もしも……
『どこいったの?』
「邪魔になってたから端に避けただけ」
……どこいる?』
「えっと……コーヒーショップの前」
『あぁ……見つけた』


 プツンと通話が切れると、目の前に影が差した。見上げれば、若干不満そうな表情を浮かべる渡会が立っている。


「移動するなら一言連絡くれても良かったのに」
「あー…………ごめんごめん」


 また小競り合いになりそうで先に謝ると、渡会は一瞬眉を僅かに動かしたが、隠すように人集りへと顔を向けた。というか、連絡しようとは思ってたんだけどね。


「人身事故だって、運転見合わせてるらしい」
「ふーん……どうする?歩いて帰る?」
「混んでるかもしれないけど、タクシーは?」
…………ここからだと結構お金かかるんじゃない?」
「俺が出すよ」
「いや、そういう問題じゃないだろ……って思うんだけど」


 語尾の強くなった自分の声に驚いて声量を落とすと、渡会から目を逸らした。先程荒波を回避するために折れたのに、結局自分で荒波を立ててしまった。
 しばらく沈黙が流れると、駅内の音だけが耳に流れ込んできた。ピリピリとした雰囲気に感化されて上手い解決法も浮かばない。
 仮に、このまま俺の家に帰れたとしても、こんな空気で過ごすのはお互い気が休まらないのでは。今朝のこともあるし……


「あのさ…………今日は、泊まりやめない?」
………………
「電車動くまで一緒に待つけどさ、……今日はやめておこうよ……
「そうだね……無理言ってごめん」
…………大丈夫」


 そこで会話が途切れるとまた沈黙が流れた。渡会を窺うこともできずにホーム床の正方形を眺めることしかできない。
 結局、電車が運転再開したのは一時間後。その間、どこかへ移動するわけでもなく会話も数えられる程度にお互い帰路に着いた。
 帰宅後に渡会から『一緒に電車待ってくれてありがと』と連絡してくれたのに、俺はスタンプで返すことしかできなかった。





 渡会とは先日の一件から連絡の頻度は減った。元々渡会の大会が近くて忙しいというのもあるが、さすがに三日に一回は今までで過去最低記録だ。俺から送ろうとしたものの何度も打っては消してを繰り返すだけで結局送れたことはない。


「なんかまた最近落ち込んでない?」
……俺ってそんなに分かりやすいの?」
「うん……多分、日置が思ってる以上に顔に出てるよ」


 バイトが始まる数分前。控え室でお菓子を腹に蓄えていた吉野は心配そうに机に肘をつく俺を覗き込んできた。
 実際今回はかなり落ち込んでいるので、否定することはできずに目を泳がせることしかできない。多分こういうところが分かりやすいのだろう。


……振られた?」
「は?」
「あ、いや、ごめん。彼女さんに振られたのかと、思って……
「彼女いないって、前言っただろ……
「ごめん……


 揶揄うならもうちょっとマシな揶揄い方をしてほしい。振られるとか、意外とありそうな展開なので胃がキリキリと痛む。


「あ、そろそろ……日置、行こ」
「うん……


 吉野はお菓子の包みを纏めてゴミ箱へ捨てるとバタバタと控え室の扉を開けた。俺も後を追って控え室を出ると、まずは深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
 カウンターへ入ると、吉野が来館者の相手をしながら返却用ワゴンを指差した。


「ごめん、いつものお願い」
「了解」


 また今日も溜まっている本を抱えて本棚へ向かうと背表紙に記されている珍しい番号に足を止めた。
 評論や宗教の本はあまり借りられていた記憶がない。必然的にほぼ初めて踏み込む本棚の列に謎の開拓感を得た。掃除はしているものの人の踏み込みが少ないためか、やけに埃っぽく感じる。
 同じ番号を探しながら歩みを進めていると、奥の棚から微かに人の声が聞こえた。
 本と本の隙間から様子を伺うと、男女のカップルがイチャついていた。それはもう堂々と。
 評論や宗教を読みそうなタイプでは無さそうなので、そういう趣味なのだろうか。
 こういう時の対処が分からず戸惑っていると、男女カップルは俺の存在など微塵も気付かずにイチャつき続ける。


「もぉ、こんなところでやめてよ」
「なんで?そう言いながら興奮してんだろ?」
「もぉ〜、違うもん」
「ここでしか会えないんだから、いーじゃん。彼氏にも内緒な?」
「絶対言わないでね?」


 まさかの浮気現場。ますます注意しづらい雰囲気に頭を抱える。
 どうしよう。新山さんを呼ぶか、警察を呼ぶか……。あれこれ考えるのに答えはなかなか見つからない。
 最悪なことに、ほんの少しだけ、本当に少しだけ。こんな不純な現場を羨ましいと思ってしまった。最近渡会とギクシャクしているから。俺だって渡会と手繋いだり、ハグしたり…………


「でもぉ、最近彼氏と上手くいってないから別れるかも」
「えぇ?そうなの?なんかあった?」
「単純に連絡遅いし、メッセージも来ないからあたしに飽きたんじゃない?」
「え〜、最低だね。それ浮気確定だよ。ねぇ、いっそ別れて俺のとこ来ない?」
「もぉ〜、もうちょっと待って」


 あまりにもタイムリーな話に一瞬思考が途切れた。
 渡会が浮気をするなんて考えられない。ただ、狙っている女の子は山ほどいる……もしかしたら男だってあり得るかもしれない。
 余計なことを考え始めた頭を正すように左右に振ると、足音を忍ばせて男女のいる棚へと近付いた。
 人目も憚らずイチャつきまくる二人を目に映すと、控えめにコンコンと棚を叩いた。


「あの、他の利用者のご迷惑になるので…………あ」


 まさかの知った顔に息を詰まらせた。
 女性のほうは俺を目に留めたかと思えば顔を青くしてそそくさとその場から立ち去ったけれど、男性のほうは機嫌を損ねたように俺を睨みつけた。


「あーあ、邪魔しないでよ」
「場所考えてくださいよ」
「言っとくけど、マジじゃないからね?あの子がそういうのが好きなんだって」
「どっちでも引きますけど」
「はぁー、もう、最悪」


 溜め息を吐いた獅堂は本棚に寄りかかると、頭を抱えていた。
 良い人かと思ったけど、やっぱり最低な人だな。落ち込む彼を無視して本を戻すべく一歩踏み込むと、長い腕がシャツを引っ張った。バランスを崩した俺はなぜか本棚に押し付けられる。


「いって……な、なんですか」
「さっきのこと黙っててくれる?」
「黙るっていうか……防犯カメラに映ってるんじゃ……
「ここ死角になってるから大丈夫だよ」


 獅堂は俺を見下ろすと、ピンッとネームプレートバッジを弾いた。


「もうやらないのは約束するけど。言ったら……そうだな。キスより酷いことしちゃうかも」


 獅堂はニコリと微笑むと服を正しながら本棚の海へと消えて行った。


「酷いことって…………


 何故あっちが悪いのに俺が脅されなくてはいけないのか。そもそも面倒だから言う気もないし。
 とりあえず、今日はここを念入りに掃除しよう。そう心に誓いながら本を戻すと、カウンターへと戻った。
 ちょうど対応を終えた吉野の隣に座ると、彼はソワソワした様子で俺に声を掛けてきた。


「そういえば、今日このあと近衛と佐山と合流してご飯食べに行くんだけど、日置もどう?」
「んー……ごめん。また今度」
「そっか……


 吉野は寂しそうに眉を下げるとパソコンに向き直った。俺も倣ってパソコンに向かうが、なかなか集中できない。


「そういえば、吉野がここをバイト先に選んだのって小説書いてるから?」
「えっ…………
「あ、ごめん……なんとなく気になって。答えたくなかったら全然……
「いや、……へ、変じゃないかな?」
「変?なんで?」


 吉野はパソコンに向かったまま恥ずかしそうに目を伏せると、カチカチとゆっくりキーボードを叩いた。


「昔、その、揶揄われたから……
「ご……ごめん」
「いやいや、日置は悪くないけど、やっぱ地味かなって……
「そんなことないと思うけど……熱中できるものがあって逆に羨ましいし」
「そ、そうかな……?」


 吉野は照れくさそうに笑みを浮かべると、キーボードを打っていた手を止めて椅子の背もたれに寄りかかった。


「あんまり、胸張って好きって言えなくて……自分の性格もあるけど……自慢できるほどの作品書いたわけじゃないし……周りの目が怖いっていうか……
…………うん」
「でも……好きだからこれからも書き続けると思うけどね。他の趣味もあったけど、結局、これが一番合ってるみたいだし」
…………そっか」


 へへっ、と嬉しそうに笑う吉野が眩しくて目を背けると手の止まったパソコンの画面を眺めた。
 同時に、なぜか、今まで忘れていた寂しさが、忘れた分を取り戻すように大きく膨れ上がった。
 今日、連絡してみようかな。
 チラッと掛け時計を窺えば、退勤までの4時間がものすごく遠いものに感じた。





 退勤前、最後にモップがけをして、特に奥の棚は念入りに床を磨き、吉野と駅へ向かった。金曜日だからか、やけに賑やかな気がする。


「そういえば、"どうぶつの木林"やってる?」
「あ、ごめん……全然忘れてた」
「えー、めっちゃ面白いのに」
「最近いろいろあって」
「あー…………そうだよね」
「言っとくけど、彼女じゃないから」
「うんうん……分かってるよ」


 絶対分かっていない吉野と改札前に着くとグルリと駅構内を見回した。


「待ち合わせここ?」
「いや?あっちの出口のほう」
「そっか。気を付けて」
「ありがと……あと、話も聞いてくれてありがと。なんか色々スッキリしたかも」
「それは……良かった」
「じゃ、また月曜日」
「またね」


 吉野を見送ると、すぐに改札を通らずに柱に寄りかかった。
 ポケットからスマホを取り出すとチャットアプリを開いた。いつも一番上に表示されている渡会のアイコンは今は四番目になっている。トーク欄を開くと『今度いつ会える?』と打ち込むが全て空白に戻してしまう。
 自分の不甲斐なさに絶望していると、いきなり肩に重みがかかった。嫌な予感に顔を上げると、さっきぶりの獅堂とサークルの先輩達が立っていた。微妙に頬が赤く染まっているので、おそらくどこかで一杯引っかけてきたのだろう。


「よ、さっきぶり〜。日置くん」
「ど……どうも」
「調子どう?」
「まあまあです」
「ふーん」


 獅堂は俺の顔をまじまじと見つめると、ズイッと耳元に顔を近付けてきた。


「さっきの誰かに言った?」
「言ってないですよ」


 右耳を塞いで獅堂から体を捩ると、嬉しい報告のはずなのになぜか不満そうな顔を向けられた。
 まさか、言ってほしかったのだろうか。本当にこの人の趣向はよく分からない。
 戸惑いと、ドン引きで頬を引き攣らせていると、周りにいた先輩達もワラワラと群がってきた。


「これから暇?一緒にご飯行かない?」
「行かないです」
「いーじゃん、遊ぼうよ。俺らキス仲間じゃん〜」
「いや、ほんとに…………っ?!」


 また顔を近付けてくる獅堂を拒んでいると、いきなり腕を引かれて視界が左右にブレた。反動で目を瞑るが衝撃は無く、ポスンと何かに包まれる。


「どこ行ってたの?」


 恐る恐る顔を上げれば、少し髪の乱れた渡会が俺を見下ろしていた。


「すごい探したんだけど」
…………え、……ごめ、ん」


 頭の整理が追いつかないまま言葉を捻り出すが、やはり頭にはハテナが浮かぶだけだった。なぜここにいるのか、何か約束していたっけとか、色々な疑問が頭の中を埋める。
 渡会は頭を真っ白にしている俺を一瞥すると、目の前で呆けた顔を浮かべている獅堂たちを見下ろした。


「あ、すみません。何か取り込み中でした?」
……………………いや、……ちょっと話してただけ」
「もういいですか?」
「あ、……うん…………


 渡会は有無を言わさない笑みを貼り付けたまま俺の腕を引くと、できるだけ獅堂たちから離れた場所へと移動した。


「怪我ない?どこか痛いとかは?」
…………ない」
「一応確認だけど、ふざけ合ってたわけじゃないよね?」
…………うん」


 導かれるまま壁際に立たされると、乱れた髪や服を直された。
 俺はただ頷くしかできない。目の前の彼は真剣に心配してくれているのに、俺は夢のような感覚から抜けきれずにいた。
 会いたいと思った日に、本当に会えることなんてあるんだ。
 ボーッと渡会を見上げたまま固まっていると、俺と視線を交えた渡会はいつものように優しい笑みを浮かべた。


…………なんで、」


 ここにいるのか。
 一番の疑問を口に出そうとすれば、その答えは渡会からではなく背後から聞こえてきた可愛らしい声が教えてくれた。


「紬嵩くん。そろそろホテル決めないと……あ、お友達?」


 渡会の後ろから顔を出した女の子は、ジャージの裾を指先まで伸ばし、結った髪を靡かせながら、大きな瞳で渡会を映していた。可愛いと思ったのは俺だけではなく、周りの通行人もその姿を横目に捉えて頬を染めていた。
 そういえば渡会もジャージ姿だし、また練習試合でもあったのだろうか。隣に視線を戻せば、渡会は僅かに笑みを浮かべてマネージャーらしい女の子を見下ろしていた。


「呼びに来てくれたのはありがたいけど、また変な噂流されるよ」
「大丈夫だよ。紬嵩くん好きな子いるの皆知ってるし……あっ!そうだ!部長がついでにミーティングもしようよって」
「とか言っていつも脱線するじゃん」
「あはは、そうだっけ」


 マネージャーらしい女の子は口元に手を当てて小さく笑い声を上げると、コテンと首を傾げた。その姿を見ていた通行人のサラリーマンは胸に手を当てて何かを噛み締めていたが、渡会には効果が無さそうであった。


「とにかく、戻ろ…………きゃっ!」


 渡会の袖を引いて一歩下がった女の子は、通行人にぶつかると後ろに倒れかけた。けれど、尻もちをつくことなく渡会に支えられている。


「人多いから危ないよ」


 渡会はぶつかった通行人に会釈しながら、女の子を立たせるとパッと手を離した。


「あ、ありがと……
「うん」


 頬を染めて俯く女の子とそれを見下ろす渡会。
 ドラマを見ている気分だった。自分はここに居るようで居ない存在。
 お似合いの二人から顔を背けると、劣等感を抑えるようにギュッと下唇を噛んだ。
 なんで隣に立つ人間がこの子ではなく俺なのだろう……。誰が見てもお似合いなのは目の前の二人なのに……。他の子に優しくしないで……。俺と出会わなければ……。俺だけ見ててよ……


「じゃあ…………日置、帰り気を付けてね」


 頭上から柔らかい声色が落ちてくると、スニーカーが床を擦る音が聞こえた。
 色んな感情が渦巻いていた俺はその姿を見送ることは出来ず、無意識に渡会の裾をギュッと掴んだ。


「日置……?」
……………………ホテル」
「ん?」
…………ホテルって絶対行かないとダメ?」
「絶対、じゃないけど……今からだと……


 顔を上げれば困惑した渡会の表情が映る。
 

……俺のうち来て」
「え……
……お願い」
「でも……
「行かないで」


 もう、いい。もう、やめた。
 今、俺がすべきことは我慢じゃなくて、我儘だ。
 

…………ごめん」


 渡会は顔を伏せると、俺の手をそっと離した。
 行き場の無くなった手は宙を彷徨ったが、それは一瞬のことで、すぐに自分より大きな手に繋がれた。


「俺先に帰るね」
「え、で、でも……先輩に……
「俺から連絡入れておくから。じゃあ、また」


 渡会は簡易的に女の子へ伝えると、足速に改札へと歩きだした。隣に並んだまま後ろを振り返れば呆気に取られている女の子が映る。
 俺の印象最悪だろうな。
 でもごめん、渡会は俺のだから。
 女の子から隣へ目を向ければ、先輩へメッセージを打っているのかスマホを操作していた渡会は、俺の視線に気付くと柔らかく微笑んだ。
 やっぱりこの笑顔は俺にだけ向けてほしい。





「なんか俺に隠してない?」


 テレビから笑い声が響く部屋の中。風呂上がりにラグの上で寛いでいると、グイッと顔を上に向かされた。サラサラの髪を下ろす渡会は微笑みを浮かべながらも目は笑っていない。
 離れた手から顔を起こすと、リモコンを手に取ってテレビを消し、そのまま渡会の隣に腰を下ろした。渡会の家よりは小さい、男二人が座るには狭いソファは小さく音を上げる。


「怒る?」
「喧嘩したくないから努力する」
……うん」


 何から話そう。ここ数週間を振り返れば、伝えたいことが山のように積み重なっていた。
 纏まらない内容に口籠もり、渡会を横目に窺えば、急かされる様子はなくジッと俺の言葉を待っていた。


「最近……バイト、始めた」
「へぇ」
「渡会から……ちょっとだけ、ほんとに少しだけ……離れようと思って」
…………なんで?」
「さ……寂しくなるから」


 案の定、渡会は理解できないと言うように眉を顰めた。
 予想通りの反応に口を噤めば、渡会は先を促すように優しい口調で呟いた。


「離れたほうが寂しくない?」
「だから……寂しいって思いたくなくて……一人に慣れるように、バイト始めた」
「連絡してくれれば良かったのに……って、言ったところで変わらないよね?」
…………ごめん」
…………まぁ、それは一旦いいとして、それで?寂しくなくなったの?」
「ちょっとだけ……でも、疲れて寝落ちしたり、連絡できなかったりで……気不味くなるし……それに、渡会と会うとダメだった」
…………そっか」
「前よりは好きになったけど……
…………うん」


 これまで不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた渡会は、一瞬だけ戸惑ったように瞳を揺らすと嬉しそうな笑みを浮かべた。
 俺も大概チョロいけど、渡会も同じかもしれない。そんな俺だけに甘いところが好きだけど。


「嫌なんだよね自分が……気にしなければいいのに、他人と比べたりして……たまに、情け無いくらい女々しくなって」
「嫉妬してたの?」
「うん……意地悪もした。渡会が戸惑うかなってわざと女の子からのメッセージ確認させたり」
「意地悪っていうか……あれ、そういうことだったんだ」
……ごめん」
「別に気にしてないよ」


 渡会はまた優しく微笑むと背もたれに体を沈めた。


「日置の気持ちは分かったよ。話してくれてありがと……これからはどうするの?」
「もう、やめたからいいよ」
「バイト?」
「いや、そうじゃなくて……え、辞めてほしいの?」
…………ちょっとだけね」
「それは……叶えられないかも。普通に楽しいし」
「うん……今のは気にしないで」


 力無い笑い声に振り向くと、俺も同じように背もたれに体を預けた。二人分の重さにまたソファが音を上げる。


「これからは俺が思うままに連絡する」
「うん。ありがと」
「でも一日くらい返信なくても、大目に見てよ」
「んー……善処する」


 どうやら納得してくれなかったらしい。
 不満気な渡会に笑いを溢すと、立ち上がって自分よりも筋肉のついた腕を引いた。本当に、いつからこんな差がついたのだろう。
 素直に立ち上がった渡会の背に腕を回せば、ポスンと肩に頭を預けた。


「仲直りしよ」
……喧嘩したつもりはないけど?」
「あー……じゃあ、普通にハグ」
「日置」
「ん?」


 顔を上げる前に、俺の体は強い力で抱き締められた。


「好きだよ」


 耳元で響いた甘く優しい声が全身を幸福感で満たした。
 今日は俺のものと同じボディーソープの匂いが鼻を擽る。擦り寄るように肩口に額を埋めると、僅かに笑いを溢す声が聞こえた。そして気付けば渡会に抱えられていた。
 家主は俺なのに、渡会は自分の部屋のように扉を開けてベッドに一人分の体を沈めた。背中に柔い感触を得たまま、押し倒されている形になった俺は、なかなか動かない渡会を見上げて息を呑んだ。
 電気もつけずに隣から漏れる光に照らされた渡会は、先程の甘い雰囲気など微塵も感じさせずに俺を見下ろしていた。


「日置」
…………な、なに?」
「まだ隠してることあるよね?」
「え、もう、ないよ。さっき全部話した」


 ただ瞳を震わせて見上げている俺に、渡会は数秒見つめてからニコリと微笑んだ。


「キスしたのって本当?」


 瞬間的に抱いた感情は、獅堂とキス(仮)を説明しなかったことに対するものではなく、冗談で流せなかった自分への態度に対するものだった。
 冷や汗を流して頬を引き攣らせている俺は、口では言わずとも"しました"と薄情してるのと同じであった。主演男優賞狙えるとか言っていた、いつの日かの自分が恥ずかしい。


……あれは、……あの……事故で…………
「したんだ?」
………………ごめん」


 素直に謝るが、その程度で許されることはなく、渡会は俺を見下ろしたまま首を傾げた。


「なんで?」
「相手が酔ってて……いきなり…………
「危機感無さすぎ」
…………ごめんなさい」


 耐えられずに目線を伏せれば、渡会は優しく俺の顎を指で持ち上げてまた上を向かせた。抵抗できる力の強さなのに、俺には従う以外の選択肢など無い。


「どこにされたの?」
「えっ」
「どこにキスされたのかって」


 手の甲、手首、首、鼻、おでこ……人間の部位なんてたくさんあるのによりによって唇。せめて少しでも外れていたら頬だと言えたのに。
 いや、もしかしたらいけるか。渡会と獅堂が会うことなんて滅多にないし、日が経てば忘れるだろうし……。そう思って渡会を窺えば全てを見透かしたような澄んだ目がこちらを捉えていたので、観念した俺は恐る恐る口元に手を当てた。
 

…………………………………………ここ」


 ふにっと唇を押すと、渡会は見るからに不機嫌を露わにした。部屋が薄暗いから余計に怖い。
 でも、舐められただけ。なんて悪あがきも甚だしい言葉は伝えることができずに、事の行く末を見守っていると、渡会はコツンとおでこを合わせてきたかと思えば、次の瞬間には唇に柔い感触が伝った。
 すぐに離れた体温を追ってから目線を上げれば、渡会は俺を見据えたまま呟いた。
 

「このくらい?」
…………もっと」
「それは……もっとされたってこと?それとも日置からのお願い?」
…………どっちも」
「お願いだけで良かったのに」


 罪悪感と欲望の天秤は僅かな差で欲望に傾いてしまった。
 強請るように渡会の首に手を回せば、呆れつつも嬉しそうな表情をされる。こういうところが俺をダメにするのに、渡会は分かっててやっているのだろうか。
 背を浮かせて俺から唇を重ねれば、ちゅ、と控えめなリップ音が静かな部屋に落ちる。
 いつの間にか首に回されていた手は優しく頸を撫でた。ぞわぞわとした嫌悪感ではない何かに身動ぐと、ポスンとシーツに体が落ち、同時に薄く開いた唇の間を舌が割って入ってくる。


「ぅん…………んっ、…………っ、……


 あ、声。
 唇の隙間から漏れる自身の声に、顔や耳が熱くなった。必死に抑えようにも意識が別のところに持って行かれて集中できない。渡会の肩を押してもビクともしない。
 結局、渡会が離れた頃には大きく胸を上下させて、ほぼ酸欠状態になっていた。せっかく風呂に入ったのに、すごく汗をかいた気がする。


「さすがに、こんなにしてないよね?」
…………うん」


 放心したまま声だけで頷くと、渡会は俺のおでこに張り付いた前髪を払ってそのまま唇を重ねた。それだけでは留まらず、頬や瞼にもキスをしてくる。もう、体力切れの俺は抵抗するように顔を背けるが、ただ渡会の機嫌を損ねるだけだった。


「他のやつにはさせるのに」
……こんな、させてない。てか、さっきいっぱいしたじゃん」
「足りないんだけど」
「今日はもういい……なんか、渡会とキスすると……ふわふわする」


 弱い力で渡会の肩を押すと、パタリと腕を下ろした。もう一度風呂に入りたいのに動く気力さえ起きない。
 渡会は俺の隣に体を横たえたると、背後から腕を回してきた。


「それって……気持ち良かったからじゃない?」
…………え」
「ふわふわすんのって、気持ち良いからじゃないの」


 俺の肩口に額を埋めた渡会は、小さい声でそう呟いた。
 ボーッと机上の分厚い本を眺めていると、徐々に自分の発言を咀嚼した。完全に理解した頃には火が出そうなほど顔が熱くなっていた。
 恥ずかしさを誤魔化すように枕を手繰り寄せると熱い顔を押し付けた。最初はひんやりとしていた枕も俺の熱に当てられて段々と温かくなってくる。


「日置」
……ごめん、何も言わないで……違う話して」
「違う話って」


 困ったような声色が聞こえてくると、しばらく沈黙が流れた。いつもはうるさいサイレンの音でさえ今日だけは小鳥の囀り程度にしか聞こえない。


「これは聞き流してくれていいけど……


 気を遣ってくれた渡会は少し遠慮気味に静かに語り始めた。


「正直、日置にはバイトしてほしくないし、大学も…………行ってほしくない」


 違う話とは言ったけど、本当に180度違う話だった。思ってもいない本音に体が強張ると、それを感じ取った渡会は焦ったように口を開いた。


「本当に辞めろって訳じゃなくて。日置が大学生活楽しみにしてたの知ってるし、受験にかかった時間も、大学にかかってる費用も…………全部、分かってる」
…………うん」
「俺から出来ることは連絡したり、通話したり、たまに会ったり…………
…………うん」
「断捨離したからとか嘘ついて服持って行かせたり……香水も、日置は嫌かもしれないけど、恋人の存在を周りに感じ取ってもらえるようにしたり……練習試合もなるべく日置の家の近くにしてもらったり……そんなことくらいしか……でも、結局変なやつに絡まれてるし」
…………ちょっ、ちょっと待って」


 急に処理しきれない言葉の羅列に枕から顔を上げて体を起こすと、無垢な顔でキョトンと目を瞬く渡会を見下ろした。


「それって言っても大丈夫なやつ?なんか全部言ってない?」
「日置は全部言ったじゃん」
「俺のは言わないと誤解生むやつで……てか、そんなこと考えてたの…………全然分からなかった」


 善意だと思っていた行動の裏にはそんな思惑があったのか。
 結果的に、近衛や吉野には彼女の存在を疑われ、駅では獅堂から守ってくれた……全部しっかり効果を発揮している牽制計画に関心していると、渡会も起き上がって俺の顔を覗き込んできた。暗闇に慣れた目はしっかりと不安そうな渡会の表情を捉える。


「嫌だった?」
「嫌じゃない……けど、俺以外にはしないで」
「しないよ」
「俺だけ見てて」
………………うん」


 渡会は驚いたように目を見開くと、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて俺の腕を引いた。力強く優しい腕に抱き締められれば、また唇に柔らかい感触を得た。
 今日はキスしないと言ったばかりなのに……まぁ、いいか。
 俺も大概渡会に甘い。
 ふわふわとした感覚に身を任せると、ゆっくりと瞼を閉じた。


-終-


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@oyon_got
感謝すぎます…原作者さまからの供給で身体中に栄養が行き渡ります!ありがとうございます…
2026-03-01 09:37:08
@0127renren
もう何回も読んでるんですけど、良きです💕💕この後のわたぴおの様子もみたいし、もっといろいろなわたぴお読みたいです。またお時間ができましたらぜひぜひ執筆していただけたら幸せです!
2026-04-15 17:56:42

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