バロ龍web再録 2019年5月6日発行
『Parody, Parody, Parody!』の続編です。ネタバレ:2クリア推奨
@saeki_f
Parody 1 ねこのあいさつ
「いいお天気ですねえ」
「そうだな」
ニャンジークスが住む部屋の窓際で、二匹は日向ぼっこを楽しんでいる。ちゅうのすけは丸まったニャンジークスの背に乗り、ふわふわの毛皮を存分に堪能していた。温かい日差しに包まれながら昼寝をする二匹は、間違いなく今の倫敦で一番幸せな猫とネズミだろう。
ニャンジークスの主人がたまに横を通るが、ネズミの存在を気にする様子はない。それもひとえにニャンジークスの努力の賜物である。主人がネズミに気付いて追い払おうとする度に、ニャンジークスが割って入って毛繕いをしてみせた。「これは私の大事なネズミだ」と主張し続けたのだ。
妙なことだと思った主人だが、比較的清潔なネズミであったのもあり最終的には諦めた。今では飼い猫の飼いネズミくらいに思っているようだ。
「そろそろ見回りの時間では?」
「……そうだな」
まだ眠いのだろう。反応は鈍いし声も小さい。そもそも見回りは義務などではないのだから無理に起こす必要もないのだが、今日は一緒に出かけようと言ったのはニャンジークスの方だ。
猫はゆっくりと目を開けて、鼻先の白ネズミに焦点を合わせた。
「起きましたか?」
「ああ。すぐ支度しよう」
ちゅうのすけがあまりにも近くに居るものだから、ニャンジークスは起き上がる前にその柔らかい頬を一舐めする。
「ひえ」
固まるちゅうのすけを他所に大きく伸びをして、帽子と外套を拾う。それらを身に着けてから二、三度顔を洗えば準備は完了だ。猫の身支度は早いのだ。
「いつまで固まっている。行くぞ」
頭に帽子を乗せてやるとちゅうのすけはようやく動き出した。寝そべるニャンジークスをよじ登り、首の上の定位置に落ち着く。
「毛繕いするときは一声下さいって、言ったじゃないですか……」
明るい夏の気配を感じる午後、二匹は活気に満ちた倫敦の街中へ繰り出していった。
倫敦の猫と東京のネズミが友達になってから早数ヶ月。ちゅうのすけは頻繁にニャンジークスの下へ足を運ぶようになっていた。
彼と一緒に居れば他の動物から狙われることがないというのも理由の一つだが、友達と過ごすは単純に楽しい。ニャンジークスも同じように感じているようで、いつ訪問しても快く受け入れた。
毎日の見回りについて行ったり、一緒に昼寝したり、過ごし方は様々。ちゅうのすけが高い場所を苦手だと知ってから、ニャンジークスは無闇に高い場所を歩かないという気遣いも見せるようになった。関係は至って良好である。
今日の見回りはいつもの経路だ。裁判所を出たら左に曲がって、広い通りを左へ。大聖堂でいつも井戸端会議をしているおばさん猫達に挨拶したら、公園の中を抜けて街の中心部を少し回る。人間の飲食店が多いから、食べ物を探しに来ているネズミの仲間によく出会う。馬車を引く馬と少し世間話をすることもあって、ちゅうのすけはここらの情報にはかなり詳しくなっていた。
そこまで行ったら、後は適当に細い通りを選んで裁判所へ帰る。広い通りは人間も多いし、悪い奴は大抵裏通りを好むためだ。
とはいえ、見回りで悪い奴に出くわしたことはない。少なくともちゅうのすけが一緒に回るようになってからは一度も。ニャンジークスのお膝元なのだから、当然と言えば当然の話かもしれない。
裁判所に戻る前に、公園に寄ることにした。今の時間は人間が少ないし、なんといっても今日はとてもいい天気なのだ。すぐに戻ってしまうのは勿体ない。
腰掛に乗って、穏やかな風と温かい日差しを楽しむ。園内に居るのは年配の人間が三人ほど。これならば追いかけられたりする心配もない。安心したちゅうのすけはころりと寝転がった。
「失礼する」
さり、さり。ニャンジークスの舌がちゅうのすけの頭を撫でた。先ほど注意されたばかりだから、ちゃんと一声かけてから。会うと一日に一度は必ず毛繕いされるので、これはもうニャンジークスの趣味なのだろうとちゅうのすけは思っている。
大きな耳の付け根を舐められるとくすぐったくて、少し身じろぎする。と、その直後だった。
「成歩堂から離れろ!」
小柄だが俊敏な動きで、鋭い爪が二匹の間に割って入った。ニャンジークスは紙一重でそれをかわしたが、乱入者はちゅうのすけの首根を咥えて腰掛から飛び降り、距離を取ってしまう。
「何だ、貴様は」
それは雄の猫であった。毛は短く、ニャンジークスより二回りほど小柄に見える。頭に巻いた赤い鉢巻と八割れ模様、そして自信に満ちた顔が印象的だ。
彼はニャンジークスを無視してちゅうのすけに話しかけた。
「無事か、相棒!」
「その声……にゃそうぎ!?」
その正体はにゃそうぎ一真。ちゅうのすけと共に英国へ渡り、到着直後から行方不明になっていた猫である。
「と、とにかく下ろしてくれ」
ちゅうのすけはにゃそうぎに咥えられ、顔が全く見えないでいた。しかし彼がニャンジークスを敵と勘違いしているのはよく分かる。このまま連れ去られても面倒なことになるのは明らかだ。
「しかし、あの猫に食われそうになっていたではないか」
「大丈夫だから。あの猫はネズミを食べないんだ」
渋々ではあるが、そこまで言うのならとにゃそうぎも折れた。そっとちゅうのすけを地面に下ろすが、ニャンジークスに駆け寄る前に前足でその尻尾を捕らえてしまう。
「ふぎゃっ」
勢いよく走りだそうとしていた分、ちゅうのすけは地面へ強かに顔をぶつけた。振り返って恨みがましそうに背後の猫を見る。久し振りに会った親友は、以前よりも逞しくなったようだった。
「何するんだよ!」
「まだヤツが敵ではないと認めたわけではない。あんなに顔を近付けて、食われるのでなければ何をしていたのだ?」
無防備に寝転がったネズミに猫が顔を近付けていれば誰だって食べられる場面だと思うだろう。にゃそうぎの焦りももっともだ。
「ただの毛繕いだよ……いつもやってくれるんだ」
それを聞くとにゃそうぎの尻尾と鉢巻がゆらりと揺れた。どういう原理で動いているのか分からないが、鉢巻はにゃそうぎの一部なのだ。
「オレというものがありながら、他の猫に毛繕いをさせていたのか!」
「ややこしいことを言わないでくれ! 第一、お前はぼくの毛繕いなんてしたことないだろう!」
にゃそうぎは確かにちゅうのすけの親友だが、そういう間柄ではない。汚れていれば砂を浴びてこいと言い、毛並みが乱れていたら水を浴びせてくるような奴である。万が一優しく毛繕いなどされた日には病気を疑うことだろう。もしかしたらこの猫は、ニャンジークスを揶揄っているのではないだろうか?
眉間に皺を寄せて黙っているニャンジークスを見て、にゃそうぎは余裕の笑みである。
「それで、成歩堂。コイツは何者だ」
そう言って尻尾から前足を離した。初めからそう聞けばいいものを。ようやくまともな会話になったと、ちゅうのすけは小さな胸を撫で下ろした。
「バロック・ニャンジークスさん。ぼくの、ええと……友達だよ」
一瞬だけ言葉に詰まった。友達と呼んでも良いのかと迷ったのだ。しかしニャンジークスの眉間の皺が薄くなったのを見て、ちゅうのすけはそれで正解だったのだと知る。
「ほう、オレはにゃそうぎ一真。このネズミの〝親友〟だ」
親友という言葉を殊更に強調するあたり、まだ喧嘩腰が抜けていないらしい。
(だから話をややこしくしないでくれえ……)
「では貴公も遠い国から来たのだな」
「うむ。旅に誘ったのはオレの方だ。倫敦でひと暴れしてやろうとな」
互いにちゅうのすけの友達であることを確認すると、ひとまず敵意は収まった。三匹で腰掛に並ぶ。
「今までどこに居たんだ? 心配してたんだぞ」
「うむ、それが……船を降りた直後に船の人間に見つかり、ネズミ駆除のためにとまた船に乗せられてしまったのだ……」
その船が運よくまた英国に寄ったので、今度こそはと逃げ出してきたということだった。ずっとネズミ狩りをさせられていたのなら、逞しくなったように見えるのも納得である。
「あの時は急に居なくなったから驚いたよ」
「オレも抵抗はしたのだがな」
親友と名乗るだけあって、にゃそうぎはちゅうのすけと親しげに話す。しばらく会えなかった期間があったことなど感じさせないほどだ。ちゅうのすけもニャンジークスと居る時よりも口数が多いように見える。
(彼と出会って、まだ数ヶ月か)
過ごした時間の差は如何ともしがたい。自分以外にも猫の友達が居たという事実は、ニャンジークスの心に翳りを生んでいだ。
「にゃそうぎ、今どこに住んでるんだ?」
「決まった家は無いが、人間の家を三、四軒回りながら暮らしている。ネズミ狩りの報酬に食べ物を貰ったりな」
にゃそうぎはネズミ狩りが得意だ。その腕は東京随一と謳われたほど。無論ちゅうのすけを襲うことはないが、ネズミを敵視している家で厄介になっているのならば。
「……遊びに行くのは止めておこうかな」
「それが良いだろう。代わりにキサマの巣を教えてくれ」
ニャンジークスがハッとした。聞く必要がなかったからとはいえ、ニャンジークスも知らないちゅうのすけの巣を、こうもあっさり聞き出されては。
「二町隣の公園にある一番大きい木だよ。他のネズミやリスも住んでるから、あんまり怖がらせないでくれ」
「分かっている」
これが親友というものなのか。それともニャンジークスが奥手すぎただけか。間接的とはいえちゅうのすけの住処を知ることができ、今度から見回りの足をそこまで伸ばしてみるかと心の中で考えるのだった。
「ほう、ここがニャンジークス卿の家か」
「ここの司書が主人なのだ。猫好きの良い人間だぞ」
主人が猫を可愛がっていることはニャンジークスの毛艶からもよく分かる。ちゅうのすけがいつもふわふわの毛皮を堪能できるのはそのお陰だ。
「最近はぼくを見ても追い払わなくなったんだ」
「……ほう?」
重要なのは〝追い払わなくなった〟という点である。そのためには何かを人間に働きかける必要があるのだが、一体誰がどうやって? にゃそうぎは賢い。それくらい簡単に想像がつく。
「では、今日はこれで失礼します」
「ああ。またいつでも来るといい。ニャソーギも」
「いいのか?」
ちゅうのすけとの時間を邪魔されたくないのではとにゃそうぎは想像していたのだが、意外とそうでもないらしい。寛容というか、割と何でも受け入れがちな猫なのか。
「私の縄張りに寄りつく猫は少なくてな。腕も立つようだし、見回りの手伝いでもしてもらえると助かる」
「よかったな、にゃそうぎ!」
(よかったのか?)
にゃそうぎが踵を返そうとしたがちゅうのすけがついて来ない。どうしたのかと振り返ると、何も言わずニャンジークスと見つめ合っていた。
何をしている、と声をかけようとして、息を飲んだ。ニャンジークスがちゅうのすけに向かってゆっくりと瞬きをしている。
それを確認するとちゅうのすけはなんともない顔でにゃそうぎの方に向き直った。
「さ、帰ろうか」
「おい、今のは」
「今の? あ、ゆっくり瞬きするやつ?」
信じられないと言いたげなにゃそうぎに対し、ちゅうのすけはけろりとしている。あんなことをされて平静を保っていられるなど、猫同士ならば有り得ない。
「いつも帰り際にああするんだ。猫でいう別れの挨拶なんじゃないのか?」
「ちが……いや、まあ、そんなところか……」
含みを残す言い方を不思議に思いつつも、ちゅうのすけは特に突っ込まなかった。
(同情するぞ、ニャンジークス卿)
猫の合図はネズミには通用しない。ニャンジークスもそれは分かったうえでやっているのだろうが、ここまで伝わっていないといっそ可哀相でさえある。
にゃそうぎは違うと言ってやりたくても、こういうことはニャンジークスが自分で言わなければならないだろうと思ってなんとか踏み止まった。
ニャンジークスの家へ遊びに行く途中、ちゅうのすけはにゃそうぎが寝床にしている場所の近くを通った。もしここに居たら挨拶しようとしたのだが姿はない。今日はここではなかったのかと去ろうとしたが。
「今日もヤツのところか。仲睦まじいことだな」
上から声がしたと思ったら、次の瞬間には背後に立っている。音も気配もなく後ろを取られると、にゃそうぎが友達で良かったと思う。そうでなければ今頃ちゅうのすけは腹の中だ。
「羨ましいなら、にゃそうぎも来るか?」
「いや、オレはやめておく。馬に蹴られそうだからな」
「? 馬車道は通らないけど」
にゃそうぎは呆れた顔をして、とにかく今日は用があるとだけ言って去っていく。
ちゅうのすけが到着すると、ニャンジークスは既に出かける準備を整えていた。
「今日も見回りへ?」
「いや、今日は知り合いに届け物をするのだ」
見れば首に袋を提げている。ニャンジークスには丁度良い大きさで、主人が作ってくれた専用の鞄なのだという。
「へえ、どんな方なのですか?」
「私が懇意にしている情報屋でな。拠点は川の向こう岸の路地裏にある。少々遠いぞ」
情報屋。非日常的な響きにちゅうのすけの心が踊る。
裁判所の近くには大きな川が流れており、その向こう側は治安が悪い地域だ。動物にとってもそれは同じで、気性の荒い野良犬や野良猫の割合が高くなる。
少々不安はあるが、ニャンジークスと一緒ならばちゅうのすけはどこへだって行けるのだ。
いつもの経路とは反対、西側に向かって進む。川のこちら側、特にその西部は非常に治安の良い高級住宅街である。そこを通ってから橋を渡ろうという算段だ。
「あら、ニャンジークス卿。今日も見回りですの?」
不意に機嫌の良い高い鳴き声が頭上から聞こえる。二匹が見上げると、身なりの綺麗な白猫が塀の上に寝そべっていた。立派な門構えの大きな屋敷で、白猫はそこで飼われているようだ。
彼女は嬉しそうな顔でニャンジークスの前に音もなく飛び降りた。淑女とでも言い表すのが適当だろうか。一目で高貴な出自だと分かる。毛並みはよく手入れされて艶々としており、その合間からきらきらと光る石がたくさん付いた首輪が覗いている。高い鼻と青い瞳が美しい猫だ。
「ご機嫌麗しゅう、レディ」
流石は紳士というか、女性には丁寧に挨拶をする。彼女は長い尻尾を優雅に躍らせた。
「最近はお会いできなくて、また怪我でもなさったのかと心配でしたのよ」
「この辺りはあまり見回りの必要がないのでな」
今日は別に見回りではないのだが、説明するのが面倒なのかニャンジークスは肯定も否定もしない。
彼女はそれに気付かないままニャンジークスの背後を見る。
「あの……首に掴まっているのは?」
なんだか出て行きづらくて隠れているつもりだったが、そもそも彼女は上からニャンジークスを見ていたのだから丸見えである。
ニャンジークスが居るとはいえ知らない猫の前に降り立つのは抵抗があるので、ちゅうのすけは横から半分だけ顔を出してみせた。
「彼は私の友達だ」
「まあ! 流石はニャンジークス卿、交友範囲が広くていらっしゃるのね」
白猫は目を見開いた後、ちゅうのすけに向かって軽く首を傾げた。怖がらせるつもりはないという意思表示なのか、近寄る様子はない。ネズミにそんな気遣いを見せる猫も珍しい。これが持てる者の余裕だろうか。
「それでは失礼する」
「またこちらに来てくださると嬉しいわ」
にこりと笑ってニャンジークス達を見送ると、また長い尾をふわりと揺らして元居た塀の上に戻っていく。育ちの良さを感じる猫であった。
橋を渡って更に歩いて、人間の気配が薄い路地裏に入る。ちゅうのすけの仲間の気配がするが、姿は現さない。ニャンジークスが居るからだろう。
奥へ進むと行き止まりになっていて、人間が捨てたらしい道具の山があった。猫が何匹でも隠れられそうで、いかにも裏社会を生きる者の住処といった様相だ。
と、また上から声がした。
「待ってたわ。待ちくたびれて寝ちゃうくらいにはね」
「遅くなってすまない」
積み上がったガラクタの頂上。日向で昼寝をしていた雌猫が今回の外出の目的である。灰色と黒の雉虎で、首輪はしていない。野良猫だ。
先ほど会った白猫のような可憐さはないが、気の強そうな鋭い金の目に、長い髭が揺れる口元。声には年季を感じるのに時折あどけなさが見え隠れする、不思議な雰囲気を纏っている。
雉虎はゆったりと伸びをしてから、適当に積まれているだけのガラクタに乗って器用に下りてきた。近くで見ると金目が一層強く光って見える。しかしバンジークスは臆する様子もなく話し始めた。
「先日は助かった」
「あんたの頼みだもの。で、報酬はその生きたネズミかしら?」
にやりと歪めた口元から鋭い牙が覗き、瞳孔が閉じる。狙いを定めた狩人の顔だ。ちゅうのすけの背筋が凍って思わずニャンジークスの首にしがみつく。それを感じ取った彼は毛を逆立て気味にして睨みを利かせた。
「彼は違う。食料ではない」
「冗談よ。あんたにネズミのお友達ができたことくらい耳に届いてる。あたしにもネズミの手下が居るしね」
表情を元に戻してくすくすと髭を揺らして笑う。彼女はニャンジークスよりも一枚上手らしい。確かに情報屋ならばその程度の話はすぐに入手できるだろう。
それにしても、ネズミと共存する猫は意外と居るものなのか。日本ではにゃそうぎくらいしか見たことがなかったので、自然と受け入れられているのは驚きだ。流石、大都会は進んでいる。
「……これが報酬だ」
ニャンジークスは首から提げていた包みを渡した。そこそこ重みのある物らしい。
るんるんと嬉しそうに開くのをちゅうのすけも見守る。何を持ってきたのか気になるところだ。匂いからして生き物の死骸などではないはずだから、その点は安心して見ていられる。
中から出てきたのは、丸くて平べったい銀色の。
「あら、あらあら! 一クラウン銀貨じゃない!」
金色の目をきらきらと輝かせて、硬貨とニャンジークスを交互に見る。その姿は子猫から成猫になったばかりの娘のようにも見える。
「いいの? こんな良いもの貰っちゃって」
「貴公の情報の価値には見合っている。それに、私には必要ない」
ちゅうのすけにはどういうことか分からないが、この〝報酬〟は彼女にとって非常に価値があったことだけは伝わってくる。すりすりと自分の香りをつけて、いそいそと宝物箱にしまい込んだ。
「ああ、あんたって本当になんていい男なのかしら!」
うっとりと目尻を下げると、つい先刻までの鋭い表情が嘘のようだ。この表情の豊かさも情報屋の為せる業ということか。
たいそう上機嫌の彼女に見送られて、二匹は川の向こう岸へ戻っていった。
橋を渡りながら、ちゅうのすけはニャンジークスに話しかけた。
「どうして彼女はあんなに喜んでいたのですか? 人間のお金など、ぼくらには必要ないではないですか」
動物の社会において、お金という概念は存在しない。取引が必要な場合は物々交換だ。人間が使うお金など、紙幣ならまだ巣作りに使えるが硬貨に至っては本当に邪魔なだけだ。
情報屋といっても人間と取引するわけでもなかろうに。光物好きのカラスに渡すのだろうか。
「猫にも様々な派閥があってな。特定の持ち物を目印にして、部外者を入れないようにしている場所がある。しかし情報屋としては、そういう場所にこそ欲しいものがある」
倫敦にはたくさんの猫が居る。集団生活をしない生き物だが、それなりに社会の仕組みが出来上がっている。今日出会った白猫やニャンジークスのように立派な場所で飼われている者が上流、普通の家猫が中流、そして野良猫は下流。犬の社会も似たようなものだ。
一方で、ネズミの社会には特に上も下もない。それは寿命や人間との関わり方に起因しているのだが、今は割愛しよう。とにかく、ネズミにとって派閥や階級は縁遠いものなのだ。
「とある大きな派閥では、人間の硬貨を目印にしている。それが高額であればあるほど機密性の高い場所に入れるという仕組みだ」
人間のお金を手に入れられるということは、お金持ちの家に飼われているか、そうでなければ非常に身体能力が高いことを意味する。高額になればなるほど入手は難しいから、能力の低い者や階級の低い者は自動的に篩にかけられる。なかなか理に適った仕組みだ。
「先ほど渡した銀貨はそこらに落ちているものではない。あれでかなり上位の部屋に入れるようになるはずだ」
「へえ……なるほど、あれで彼女が仕事をしやすくなるというわけですか」
「左様。そしてその情報をまた私が買う。ここらの治安を守るのが私の仕事だからな」
安心して昼寝ができる街を作るため、そして人と動物が上手く共存できる環境を作るため、中央刑務裁判所の猫は日々倫敦の街を歩く。動物の社会も大変なのだ。
「ところで、ニャンジークスさんってモテるのですね」
「そうか?」
「あの白猫も、雉虎の猫も、あなたに気があるように見えましたが」
「……いや、雉虎の方は口で言うだけだと思うが」
あの二匹だけでなく、ニャンジークスが街を歩けば多くの猫が振り返る。尊敬の眼差し、憧れの眼差し、敵意の眼差し、色々あるが好意的なものの方が多い。女性からは引く手数多だろうことが予想できるが、ニャンジークスは気にしていない様子だ。
「興味がないのですか?」
「自分が好いた相手からでなければ意味がない」
意外だった。ちゅうのすけはてっきり、一切興味がないと切り捨てられると思っていた。つまりこの堅物も、好いた相手から好意を寄せられるのは嬉しいということか。
「そういうものですか」
「私にとっては、な」
ニャンジークスが好きになる相手はどんな猫だろうとちゅうのすけは思う。白猫のような可愛らしい女性でも、雉虎のような格好良い女性でもないというのなら、想像するのが難しい。
と、そこで思考が途切れた。ニャンジークスがあちこち次々に飛び移るものだから考え事などしている余裕がなくなったのだ。細い塀の上を歩いたと思ったら次は屋根の上、そこから出窓を足場にして地上に降りる。上へ下へと振り回されて、ちゅうのすけは目が回ってしまった。
なんとかしがみついて振り落とされずに済んだが、着地した直後に力が抜けてぽてっと地面に落ちた。まだくらくらする頭を起こして、大きく深呼吸する。
「どうしたのです? 急にあんな飛び回るなんて」
高い所が苦手なちゅうのすけのために、ニャンジークスは必要がない限り塀の上に登ったりしない。
「すまぬ。反対側から面構えの悪い猫が来ていた」
「そ、それはどうも」
理由を聞いてしまうと複雑だ。ニャンジークスだけなら、わざわざそんな相手から逃げるような真似をしなくて済んだだろう。
せめて自分が猫であったら。にゃそうぎのように見回りを手伝うことだってできたかもしれないし、行く先々でニャンジークスが妙な視線を向けられることもなかっただろう。にゃそうぎや情報屋のような、理解ある者の方が少数派なのだ。
もちろんネズミでいて良いことも沢山あった。特にニャンジークスを助けた時など、ネズミでなければあんな芸当はできなかった。それでも、もし。ちゅうのすけは、時々そう思わずにはいられないのだった。
広い公園の中程にある大きな木。そこがちゅうのすけの寝床である。人間で言う共同住宅のようなもので、木の幹はリスやネズミ用、枝葉は小鳥用だ。朝になると皆が次々と起き出してどこかへ出かけていく。
今日は何の約束もしていないので、ちゅうのすけはゆったりと二度寝を決め込んでいた。すると誰かが入口をこつこつと叩く。
「ちゅうのすけさん、起きてください」
「んん……ん!?」
そこに居たのは知らないネズミだった。灰色の短い毛に黒服を着た若い雄。流石のちゅうのすけも飛び起きて壁に張り付く。なぜ名前どころか家まで知られているのか気になるが、聞くのが怖い気もする。
「だ、誰ですか!?」
「私は姐さんの使いです。ついて来てください、ちゅうのすけさん」
「??」
何のことか分からないまま、いいからいいからと手を引かれて木を降り、結局そのネズミについて行く。この場ににゃそうぎが居たら、知らない奴にほいほいついて行くなと説教されていただろう。
「姐さんって誰のことですか?」
「私達も名前は知りません。色んな名前を持っている方ですから」
ますます分からなくなって首を捻るばかりであった。
橋を渡った辺りでやっと「姐さん」の正体に心当たりが出てきた。この道は一度通ったことがある。というか、先日来たばかりだ。確かに彼女ならば色んな名前を持っていると言われても頷ける。
「いらっしゃい、チューノスケくん。急に呼び出して悪かったわね」
情報屋の猫は、今日も小山の上で笑っていた。
「ぼくに何かご用でしょうか」
「ちょっとキミに興味があって。お菓子も用意したわよ」
手下のネズミに集めさせたのだろうか、彼女の横には南瓜の種が積まれていた。それを見ると緊張していた心がぐらりと傾く。彼女はネズミに害を為さないし、話をするくらいならお安いご用ではないか。そんな考えでつい引き込まれるように彼女の横に座った。
彼女が本当にネズミを害さないから良かったものの。何度も言うが、ここににゃそうぎが居たら説教されていたところである。
「さてと。さっそく質問なんだけど、どこであいつと知り合ったの? 地下でネズミ狩りしてたくらいなのに」
「まあその、地下書庫に迷い込んだ時に殺されかけまして……よく分かりませんが、なぜか見逃してもらえたのです」
その時ニャンジークスが何を考えていたかはちゅうのすけには分からない。ニャンジークスが教えてくれるとも思えないので、きっとこれは永遠に謎のままなのだろう。
「猫に抵抗はない? 大抵は姿を見ただけでも逃げ出すものだけど」
「ああ、元々にゃそうぎっていう猫の友達がいるんです。そいつとは幼い頃に出会ったので自然と友達になれましたし……だから全く」
猫が傍に居ても危機感を覚えないのはある種危険なことだが、本当に周りが良い動物ばかりだったのだろうと雉虎は思う。でなければこんな風に損得考えず動く性格には育たなかったはずだ。
「キミがあいつを犬から助けたって聞いたわ。それは本当?」
「ええ。それがきっかけで友達になったのです」
「なんで助けたの? 一度は殺されかけたんでしょ」
恨みこそあれ、わざわざ自分の身を危険に晒してまですることか。相手は天敵だ。普通の猫には理解できない。
「でも見逃してくれましたから。それに怪我しているところを見たら放っておけません。誰だってそうではないですか?」
「……いい子なのね、本当に」
ネズミとじっくり話すこと自体が初めてだが、ちゅうのすけには不思議な魅力があった。ニャンジークスも無意識にその気配を感じたのだろうか。今ならその気持ちも少しは分かりそうだった。
「猫とネズミが友達になるのは、やはり倫敦でも珍しいのですか? まあ、東京でもぼく達くらいのものでしたが」
「利害関係なしに仲良くするのは珍しいわ。猫は本能的にちょろちょろ動く生き物を捕まえたくなっちゃうし、普通のネズミは猫を怖がるものよ。あたしが手下に引き入れるのも、ちゃんと話が通じる子だけ。あの子達も他の猫には近寄らない」
ごく単純で淡白な関係だ。情報と報酬が彼らを繋ぎ、必要な時だけの付き合い。彼女の場合は手下も多い。効率的に仕事をするには友達のような関係は不要なのだ。
彼女は好んでネズミを食べないだけであって、どうしても食べる必要があれば食べるだろうし、元気な時は駆け回る小動物を追いかけたくなったりもする。実際にしたことはないが。
「でも、絶対に友達がキミを食べないって、本当に言い切れるのかしら? いつか背中から食べられてしまうかもしれないと思ったことはないの?」
仕事での付き合いでないのなら尚更、契約も何もない。雉虎もニャンジークスの性格はよく知っているが、少しこんな意地悪な質問をしたくなってしまうのは、ちゅうのすけがあまりにも素直だからだ。彼女の周りにはあまり居ない類の動物である。
「ニャンジークスさんもにゃそうぎも、自分の言ったことは曲げませんから」
ちゅうのすけの返事に迷いはなかった。彼らがその約束を破るなど有り得ないと、一点の曇りもなく信じている。
情報屋として生きる彼女にとっては、それがとても眩しく美しい姿として映った。
「ふうん、信頼してるのね」
雉虎は何の気なしに言ったつもりだろうが、信頼という言葉はすとんと腑に落ちた。そしてそれはとても心地良いもので、胸が温かくなる。
この友情は信頼の上に成り立っているのだ。強く固く、種族を越えた絆。外側から言葉で表現されて初めてそれに気付けた。
なぜちゅうのすけが猫と友達になれたのか、理由はそこにある。彼は相手を信じることができるネズミなのだ。それはとても難しく、ときに命取りにさえなるが、一度でも信じ合えた相手とは無二の関係を築ける。ネズミという弱い生き物にとって、それは大きな武器であった。当のちゅうのすけにそんな自覚はないが。
「ありがと。面白い話が聞けたわ。あたしのネズミ達にも使えるかもしれないし」
このネズミがどれほどニャンジークスに気に入られているかも知ることができた。どちらかというとそれが本題だったのだが、言ってしまっては警戒されてしまうからそれは黙ったまま。
別に彼らを利用しようと思っているのではない。ただ、誰と誰がどういう関係なのか調べるのが趣味のようなものなのだ。
そうとも知らずちゅうのすけはにこりと笑ってそれほどでも、と言った。
「お礼に、今のキミに一番必要な情報をあげる」
「ぼくに必要な情報?」
彼女から貰う情報など、ただの矮小なネズミには必要ないのでは。治安維持を仕事にしているわけでもなく、その筋の者でもない。
しかし彼女が与えようとしているのは、そういった類のものではないのだった。ふふ、と悪戯っぽく口角を上げる。整えられた髭がさわりと揺れた。
「猫の挨拶よ」
「?」
はたしてこの情報屋はどこまで掴んでいたのやら。話を聞き終わったちゅうのすけは、慌ただしくぺこりと頭を下げて大急ぎで裁判所へと向かうことになった。
ちゅうのすけはひた走る。早く彼に会って確かめたいという気持ちと、湧き上がるなんともいえない感情が彼を突き動かしている。
会って何と言おうかなど考えてはいない。ただ今は一瞬でも早くニャンジークスに会わなければと思う。
(裁判所って、こんなに遠かったかしらん?)
「にゃ、ニャンジークスさん!」
脇目もふらず一直線に走り続け、ちゅうのすけは転がるようにニャンジークスの前に参上した。急に目の前に現れた友達に、流石の彼も驚いた。
息を乱して何かを訴えようとするネズミの背中を前足でさすってやる。小さな心臓が信じられない速さで脈打つのを感じだ。
「どうした、そんなに慌てて」
知らない猫にでも追われたのかと心配になる。それほど急いで走った様子だった。
ちゅうのすけは顔を上げ、切れ切れの息でなんとか話そうとする。
「いつもの、あの、挨拶」
「?」
まだ頭が混乱しているせいで言いたいことがまとまっていない。言葉が殺到して立ち往生しているかのようだ。一度深呼吸をして、言いたいことを整理する。
「ゆっくり瞬きするあれの意味、聞きました」
「……そうか」
短い返事だったが、全て悟った。ちゅうのすけがずっと正しい意味を知らなかったことを、ニャンジークスは分かっていたのだ。
意図が伝わっていなかったにもかかわらず、彼は必ずあの瞬きをした。会う度に告白されていたのだと改めて気付いて顔が熱くなる。言葉よりもよっぽど重く、寡黙な彼らしい情熱的な告白ではないか。
「あの、ぼく、ネズミですよ?」
「知っている」
「オスですし」
「そうだな」
そんなこと見れば分かるとばかりにニャンジークスは鼻を鳴らした。
「子供など作れませんよ?」
「当たり前だ」
ここまでくると、何を言っているのだという顔になってきた。あえて言われるまでもないし、ニャンジークスは別にそれを求めてはいない。全て呑み込んだ上でちゅうのすけに好意を抱いているというのに。
「それがそんなに重要なことか?」
ちゅうのすけは驚いて固まってしまった。子孫を残すという、植物にさえ備わっている本能を否定しようというのか。そんな考え方自体が初めて出会うものだ。
「人間と暮らして、思うことがある。彼らはいつも意味を求めて生きていて、それはときとして生物の本能をも凌駕する。猫やネズミがそういう生き方をして何が悪いのかと」
そう問われるとちゅうのすけは口を噤むしかない。生き方は自由だ。孤独を愛し生きて死ぬ者も居るし、望んでも子供を残せない者だって居る。必ずしも全ての個体が生き物としての本能を果たせるとは限らず、それでも世界は回るようになっている。
しかしだからといって、自分の意志で本能を放棄する動物は観たことがない。
「人間よりもずっと短い時間しか生きられぬなら、なんとなく子孫を残すより、私は私の想う相手と過ごしたい。その方が意味のある生だと思うのだ」
意味のある生き方。それを聞いて、ちゅうのすけも思うところがある。そもそもちゅうのすけとにゃそうぎが危険を冒してまで英国へ渡ったのは、広い世界を見てみたいと思ったからだ。
「駄目、だろうか」
珍しく眉尻と耳を少し下げて、ニャンジークスはちゅうのすけに目線を合わせた。いつだって彼は、そうやって真正面から話しかけてくれる。
「寿命も……あなたよりずっと短いです」
「……承知の上だ」
こればかりはどうしようもない。どんなに健康でも、生き物の限界を超えることはできないのだから。とても悲しいことだけれど。
「しかし貴公の寿命が短いなら尚更、その時間を共にしたいと私は思う」
本当に全部、何もかも分かった上でなおちゅうのすけを選んでいるのだ。あんなに有能で立派な立場も持っている猫が、ただの小さなネズミを。
彼を助けたからだろうか。天敵と被捕食者というだけの関係が、あの時から変わった。ニャンジークスがちゅうのすけを認め、ちゅうのすけはニャンジークスを信用するようになった。信頼が作る絆は強い。それが愛情に変わっていったとして、不自然なことは何もない。
ニャンジークスは只者ではない。高度な思想と確固たる理念を持った高尚な猫だ。彼と居ると世界が新しく見える。彼と過ごすのは楽しいし、毛繕いされるのも好きだ。向けられた好意は純粋に嬉しいと思う。
認めざるを得ないだろう。ちゅうのすけも、残りの寿命を彼にあげてもいいと思えるほどニャンジークスのことが好きになっていた。
「ニャンジークスさんはぼくのことを変わったネズミだとよく言いますけど、ニャンジークスさんこそ変わった猫ですよ」
ちゅっ
それはネズミの鳴き声ではなく、新たな可能性の扉が開く音だったのかもしれない。
「どうして教えてくれなかったんだ」
次の日、ちゅうのすけはにゃそうぎを捕まえて詰め寄った。赤い鉢巻がゆらりと風になびく。
「何の話……ああ、ニャンジークス卿のことか」
にゃそうぎはちゅうのすけからニャンジークスの匂いを感じ取っていた。それも、いつもより強く。長時間一緒に居たのは明らかで、その上でこんなことを聞かれたらどんなに鈍くても気付くというもの。
「ああいったことはちゃんと自分から言わねば意味がないだろう。それに、いつまでも気付かないキサマもキサマだ」
「猫の挨拶なんて知らないもの……」
身近な猫であるにゃそうぎが心を寄せる相手が居れば知っていたかもしれないが、生憎そんな猫は居たことがなかった。普通のネズミが知っている猫の仕草といえば獲物に狙いを定めた顔や、毛を逆立てて威嚇する姿、人間に甘えてごろごろと喉を鳴らす様子くらいのものである。
「だが上手くいったのだろう? 良かったじゃないか」
「それはまあ、そうだけど」
照れて頭を掻くのを見ると、にゃそうぎの心になんだかもやもやしたものが湧き上がる。少しだけ意地悪がしたくなった。
「番が出来たからといって、あまり親友のことを蔑ろにしてくれるなよ」
「つがっ、あ、あ、当たり前だろ、親友!」
分かりやすく狼狽えるちゅうのすけを見て、にゃそうぎはなぜか満足気である。
親友が誰かのものになってしまうのは寂しいが、それで友達付き合いが悪くなる男でもない。ちゅうのすけを揶揄う話題がまた一つ増えたと、にゃそうぎは楽しそうに尾を立てるのだった。
Parody 2 成歩堂龍ノ介と新たな世界
「鏡よ鏡、ミスター・ナルホドーの様子を映してくれ」
魔法の鏡に話しかけるのは怪しい科学者、シャーロック・ホームズ。その声に応えるように鏡は目覚め、初老の男性の姿を映し出した。
『またですか……いい加減、プライバシーの侵害になりますよ』
鏡の中の男性、ミコトバは呆れた顔をしている。原因は単純。ホームズが一日に何度も同じ要求をするせいだ。
「プライバシーを侵害するためにあるようなキミが言うのかい。ボクのような善良な市民の友達で良かったじゃないか」
『善良な市民は狂言でも人を毒殺しようとはしません。ハア、まったく……少しだけですよ』
やれやれと思いつつ、ミコトバも件の青年がどうしているのか気にかかっていた。彼を頻繁に見るようになったせいか、物語の主人公に感情移入するような感覚になってきているのだ。
鏡から男性の姿が消え、雲のようなもやもやとしたものが渦を巻く。次第にそれが晴れてぼんやりと人間の輪郭を描き出した。
「おっ、これはいいところだよミコトバ!」
ホームズが興奮気味に身を乗り出した。ここ最近、何度彼の姿を映しても家で掃除か洗濯をしている場面ばかりで退屈していたのだ。
今日の成歩堂龍ノ介は珍しく森を出て、どこかの屋敷に来ているようだ。鏡の力を借りて周りをよく観察すると、そこはバンジークスの自宅であることが分かった。
『龍ノ介君、大丈夫でしょうか? バンジークス家の人間に会うなど』
「まあ貴族の息子が男の恋人を連れてきたとあっちゃ普通は大騒ぎだけど、そこは心配ないさ。カレは次男だし、何よりクリムトは弟に激甘だからね」
鏡から声が聞こえてきて、二人は自然を耳を澄ませた。見られている本人は知らないが、本当にプライバシーも何もあったものではない。
「評判通りの素晴らしい方ですね、クリムト様」
「ああ、自慢の兄だ」
バンジークスに連れられ、先ほどまで龍ノ介は彼の兄、つまり領主クリムトに会っていた。どんなことを言われるかと身構えていた龍ノ介だったが、クリムトは弟の恋人を温かく出迎えてくれた。事前にバンジークスが話を通していたというのもあったが、男性の恋人を見ても全く驚かず受け入れたのだ。
話してみるととても穏やかで聡明な人物で、若くして良き領主と慕われるのも理解できた。今日は会えなかったが妻と娘が居り、家族仲も良いそうだ。会話の端々からクリムトが弟を可愛がっているのが伝わってきて、龍ノ介は微笑ましい気持ちになったものだ。
「領主たるもの異なる意見も等しく聞き入れ、多様性を認めるべし、と。そういう教育の下に育ったからな」
「多様性、ですか」
田舎ではあまり聞かなかった言葉だ。都会の考えは進んでいる。他の人間との交流がほとんどなかった龍ノ介には、都会の何もかもが刺激的であった。
「まあ、そういう訳で……こういった形の愛情にも理解があるのだ」
この国では同性同士の恋人は珍しい。地域によっては根深い偏見もあり、公表しない者も多い。龍ノ介自身も人には言わず黙っていようとしていたのだが、相手が相手だけにそうもいかず。
「けっこう心配していたんです。でも安心しました。紹介してくださって、ありがとうございます」
兄にとって弟が可愛い存在であるように、弟にとっても尊敬する素晴らしい兄だということもよく分かった。そんな相手に紹介してもらえたのだ。バンジークスが龍ノ介をどれほど大切に想っているか、言葉にするよりも明らかだろう。
「ミスター・ナルホドー、その……この度、貴君をここへ呼んだのは理由がある」
バンジークスが立ち止まったのにつられて龍ノ介も止まる。
「は、はい」
龍ノ介の手を握って、バンジークスは真剣な表情になった。何か大事なことを言おうとしているのを察して身構える。
「もし君が構わなければ、ここで私と暮らしてはくれまいか」
「!」
家族に紹介された上でのこの申し出。それはつまり、プロポーズも同然である。バンジークスは続けた。
「あの森は遠い。君に何かあっても、私がすぐに駆けつけることはできぬ」
最初に出会った時のことを思い出しているのだろうか。あの時の龍ノ介は一刻を争う状態だった。もしまた似たようなことが起こったとして、バンジークスが家に居たら? 助けるのは不可能と言っていい。
「しかし私は仮にも領主の弟だ。姪もまだ幼く、兄が不在の間は手伝わねばならぬことが多い。ここを離れるのは難しいだろう」
クリムトのことが無くても、バンジークスの仕事は主にこの街にある。龍ノ介のために時間を作っていたのであって、本来はここを離れる方が珍しいのだ。分かっていたことだが、改めて胸は痛む。
俯く龍ノ介の頬に手が添えられた。向けられる視線は熱く、蒼い目はこれからが本題だと訴える。
「それに私は……日に日に君が恋しくなる。これは私の我儘なのだ」
バンジークスの手に力が込められた。それに呼応するように龍ノ介の心臓が大きく跳ねる。
龍ノ介とて気持ちは同じだ。会う度にバンジークスを愛しく思い、その分だけ別れの瞬間が苦しくなる。毎日会えれば良いのにと考えないわけがない。喜んで申し出を受けたいところだが。
「か、考えさせてください」
今はその手を握り返すことができないでいる。
「もちろん、あなたのことは好きです。お誘いもすごく嬉しい、ですけど……ずっと一緒に暮らしてきた家族のことを思うと……」
龍ノ介はあの森を出たことがなかった。家族たる妖精たちから離れて暮らしたこともない。大きな街に来たのは今日が初めてで、龍ノ介の反応はむしろバンジークスの方が驚いたほど。所謂箱入り息子なのだ。
彼らも本人も、龍ノ介が居なくなるなど想定すらしていない。そこから急に生活を変えてくれというのは少々難儀な話である。
「分かっている。ままならぬ身ですまない」
「謝らないでください。あなたは悪くありませんから」
結局、バンジークスはこの日の内に龍ノ介を森まで送り届けた。
「なぜだ! なぜそこで即答しない! あっコラ切るなミコトバ!」
ホームズが鏡に向かって叫んだところで映像は途切れた。これから面白くなりそうな場面であっただけに、鏡に姿を現したミコトバへ食ってかかる。
「少しだけと言ったでしょう。小説でもあるまいし、そうコロコロと展開が変わるものではありませんよ」
ミコトバは呆れた顔で友人を見た。実際、この後を見続けていても龍ノ介が家に帰る映像が延々続くだけだろう。
『ずっと妖精と共に過ごしてきた龍ノ介君にとっては、彼らと離れて人間と暮らすというのはかなり勇気が必要なのでしょうね』
「だからこそこのボクがちょっかい出したんじゃないか。まったく、死神クンももっと強気でいけばいいのに」
声が届かないのを良いことに外野は言いたい放題である。元はといえばホームズが仕掛けた案件。なんやかんやでバンジークスと龍ノ介が付き合いを始めたまでは順調だったが、それから大きな動きもなく、今日ようやく進展したかと思えば龍ノ介は答えを保留にした。
仕方なく、ホームズは鏡から離れて支度を始める。火の点いていない灯りを入れたところを見るに、帰るのは遅くなるのだろう。
『おや、出かけるのですか?』
「ちょっと隠れ家まで。可愛らしいお客さんと約束をしているんだ」
ここ最近のホームズは、やることがなくなると足繁く隠れ家へ向かう。ミコトバは何をしているか知らないが、危険なことではなさそうなので止めはしない。
荷物を持ったら変装をして扉を開ける。近い街道に出て馬車を捕まえれば、目的地までは一時間ほど。
「それじゃ、行ってくるよ」
自由に出歩けない鏡の中の友人を置いて、ホームズは家の鍵を閉めた。
(バンジークスさんは悪くないんだ。悪いのは、皆に甘えきりなぼくの方)
龍ノ介は自室に一人蹲る。
家族は大事だ。だがバンジークスの申し出は非常に魅力的だし、大きな街も決して怖い場所ではなかった。どちらかを選べと言われてもすぐに決めることはできない。
もちろん、どちらを選んでももう一方を完全に捨てるわけではないと分かっている。龍ノ介が望めば、森に住んでもバンジークスは会いに来てくれるだろうし、街に住んでも家族に会いに帰るのを止める者は居ないだろう。だからこそ迷うのだ。
誰もが龍ノ介に優しくしてくれるし、意思を尊重してくれる。これは自分で決めなければならない問題だ。
しかしどちらを選ぶにせよ報告は必要。ちょうど夕食の準備もできたようだ。龍ノ介は顔を上げて立ち上がった。
「皆に相談があるんだ」
夕食後、全員が揃った時を狙って龍ノ介がそう切り出した。神妙な面持ちに妖精たちは身構える。彼がこんなに真剣な顔をするなど滅多にない。最近起きた事が事だけに、一同はドキドキとワクワクが混じって内心落ち着いていられない。
「何ですか? 相談とは」
うさとが続きを促すと、龍ノ介は意を決したように口を開いた。
「バンジークスさんに、家に来ないかって提案された」
「「「!!」」」
全員が目を見開き、息を飲み、喜ばしいような寂しいような表情に変わった。いや、全員ではない。ちゅうのすけだけはぽかんと不思議そうな顔をしている。
「? 改めて言われなくても、昨日遊びに行ったばかりではないですか」
「チューノスケ、違う」
「ええと、つまり……バンジークス邸に住まないか、って……」
それを聞いたちゅうのすけの驚きようといったら、飛び上がって椅子から転がり落ちるほどであった。
「それは要するにプロポーズってヤツじゃないか?」
「うさろっくさま! そんなハッキリと!」
「なかなかやるではないか、バンジークス卿」
わいわいと興奮気味に喋る様子を見る限り、その提案に反対する者は居ないようだ。それについては龍ノ介も一安心だが、問題の本質はそこではない。
「それで、どうするのだ? ミスター・ナルホドー。相談ということは、貴公の中で結論が出てないのだろう」
「……うん」
流石は冷静なにゃんじーくす。浮かれていた一同も龍ノ介の方を見て口を閉じた。
「なるほどくん、嬉しくないの?」
「もちろん嬉しいよ。でも、ここを離れる覚悟が……まだない」
ふと何かに引っ張られたような気がして、龍ノ介はそちらに目を向ける。隣に座っていたにゃめんが服の裾を掴んでいた。いつもは何を考えているのか分からない顔だが、今ばかりは痛いほどよく分かってしまう。
「寂しいって思ってくれるのか? にゃめん」
にゃめんは俯く。肯定と否定は常にはっきりする彼も、こればかりは控えめな態度しかとれないようだ。
他の者だって、寂しくないと思っている者は一人もいない。だが龍ノ介の幸せを考えれば、ここで引き止めるべきではないと分かっている。彼がそうしたいなら誰も止めはしない。妖精たちにとっては、いつか来るかもしれないと予想はしていた展開だ。寂しい気持ちに蓋をするくらいの覚悟は持っていた。
「キミが迷ってるのは、ボクたちが寂しがると思ってるからかな?」
「それもちょっとだけ。でも、寂しいのはぼくの方なんです。四六時中人と一緒に過ごす生活に不安もありますし」
こんな辺鄙な森の中でも、人間と接触する機会はもちろんある。それでも人間と一緒に暮らした経験が龍ノ介にはないのだ。妖精に拾われたのが幼過ぎて、実の親の記憶もない。
優しく善意に満ちた妖精たちの下を離れて、急に新しい生活などできるのだろうか。そう思うのは自然なことだ。
「人当たりは良いからどこでも上手くやっていけるとは思うが、少々騙されやすいのがな」
「しかしバンジークス家ならば警備も万全なのでは? 少なくとも毒を飲まされるような危険はないだろう」
「街の中には悪い商人も紛れていると聞きますよ」
彼らが心配を口にすればするほど、龍ノ介はここを離れがたくなる。随分と甘やかされて育ってきたものだと自分でも思った。
「人と暮らすのは思うほど難しくないよ。重要なのは、キミがどうしたいかだ」
うさろっくの言葉は優しい。不安な気持ちを和らげてもらい、龍ノ介は頷いた。
しかし結局は最初の問題に立ち戻る。龍ノ介がどうしたいか、その答えが出ないからあれこれと理由を後付けしていたのだ。恋人と家族。どちらかを選ぶのは、とても難しい。
いつか龍ノ介がここを出ていくかもしれないとは思っていた。けれど外の世界にそこまで興味がなさそうな様子を見て、ずっと一緒に暮らすかもしれないともここ数年は思っていた。
寂しいが喜ばしくもある。そして、彼の人生に助言はできても指図はできない。妖精たちは親身に、しかし深入りはし過ぎないよう龍ノ介を見守るのだった。
答えは出ないまま、再び龍ノ介はバンジークスの家を訪ねた。いつまでにとは言われていないが、いつまでも待たせるわけにもいかないだろう。本当は今日の内に返事をするつもりでいたのだが、肝心の結論が出ないことには返事のしようもない。
いつもならば朝から急いで準備して出るのに、今日ばかりは足取りが重い。街に着いた頃には日が傾き始めていた。
(今日は……来るべきじゃなかったかもしれないな)
思わず溜息が出てしまう。こんな中途半端なままで遊びに来ても、お互い楽しめないのではないか。優しいバンジークスは気にする素振りも見せず接してくれるだろうが、逆にそれが心苦しい。
しかし今日こそここへ来るべきであったのだ。龍ノ介はすぐにそれを知ることになる。
屋敷は騒然としていた。使用人が駆け回り、龍ノ介という客人が来ているというのにまるで誰も気付かない。
「バンジークスさん!」
やっとバンジークスを捕まえたが、彼もまた焦っている人間の一人だ。龍ノ介の姿を視界に入れてようやく焦点を合わせた。
「何があったのですか?」
尋常でないことは分かるが、皆口々に「馬を出せ」だの「灯りが足りない」だのと要点を得ない。
「アイリスが……兄上の娘が居なくなった」
「!」
龍ノ介がまだ会ったことのない、この屋敷の住人。確か年齢はまだ十歳。もうすぐ暗くなるというのにそんな少女が行方不明だとは、この慌ただしさにも得心がいく。
「来たばかりの客人に申し訳ないが、緊急事態だ。あの子を探すのを手伝ってはいただけないだろうか」
「もちろんです。人手は多い方が良いでしょう」
「ありがたい。馬を借りても良いか? 我が家の馬だけでは足りぬのだ」
「構いませんが……」
馬が無ければ遠出はできない。近場を探せということだ。人力だけで捜せる範囲は狭く、貸せる力はあまり大きくないだろう。
「この辺りの地理には明るくないだろう。君をあまり遠くへ行かせたくないのだ。私のためだと思って」
こんな時でさえ恋人を気遣うのだから、それ以上の反論などできるはずがない。龍ノ介は黙って頷いた。
「代わりに西の森を探してほしい。最後に見た者がそちらへ向かったと言っていた」
「分かりました」
屋敷を離れる際、バンジークスがランプを渡してきた。龍ノ介が受け取ろうとすると、その左手を掴まれる。
「知らぬ場所には入るな。君まで危険な目に遭っては元も子もない」
そして手の甲に唇を寄せた。緊急時だというのになんという優雅さだろうか。龍ノ介は少しだけ怯んでから、ランプを受け取って元気に出発した。
話によると、アイリスはいつも大きな黒い犬と共に出かけるそうだ。よく訓練されているので、一緒ならばそこらの獣に襲われる心配はない。だが一人と一頭で迷子になっているならまだしも、家出や誘拐、事故、いろんな可能性が考えられる。そんなことは想像したくもないが、今はとにかく無事を祈って足を動かすしかできないのだ。
龍ノ介は森の入口に立ち、大きく口を広げる薄闇の中に一歩踏み出した。
西の森はそれほど広くないが、木が高く昼でも薄暗い。夕方ともなればほとんど夜のようなものだ。ここにはかつて魔法使いが住んでいたという噂がある。夜に住む彼らは、この暗い森を好んでいたらしい。
(もしや悪い魔法使いに攫われたなんてことは……いや、それはいくらなんでも考えすぎか)
街から離れるほど捜索している人とも顔を合わせなくなっていく。森の広さに対して手元の灯りは心許なく、不安が内側からじわじわと龍ノ介を蝕んでいくようだ。闇を進む足取りは無意識に慎重になる。
日は沈み切って、もうすっかり暗くなってしまった。慎重に進まなければ道から外れてしまうかもしれない。バンジークスの言う通り龍ノ介にはこの辺りの土地勘がないのだから、足手まといになる前に街へ戻るべきだろうか。
だがもし小さな女の子が迷子になっているのだとしたら、龍ノ介よりもよっぽど大きな不安を抱えているに違いない。そんな子を放って戻るのは、龍ノ介の考える正しさに反する。世間知らずとはいえ大人なのだ。そして子供を守るのは大人の義務だ。
(もう少しだけ進んでみよう)
この判断が正しかったのか間違いだったのか、後からでも決めるのは難しいことだった。
「うわっ!」
足が滑った、と思った時にはもう体が傾いて宙に浮いていた。木々に体をぶつけ、枝で擦り傷を作りながら龍ノ介は急勾配を転がり落ちる。
最後に強く背中を打って、龍ノ介の体は止まった。幸いにも歩けなくなるほどの怪我は負わなかったが、体中が痛い。なんとかランプは手放さなかったものの、当然割れて火が消えてしまった。月明かりは高い木々に遮られ、頼りは月の明かりだけ。
先ほどの時点で戻るべきだった。落ちてしまってからでは遅い。崖は大した高さではないが、自力で登れる傾斜でもない。
別の道を探すか助けを待つか。道から外れてしまった以上、無闇に動き回るのは悪手だ。しかしこの近くまで人が探しに来るとは限らないし、ましてや崖の下。人が分散していることも考えれば自分で戻る方が現実的に思える。
(立ち上がらないと……でも……)
心細かった。皆アイリスを探しているのだ、龍ノ介の窮地など誰も知らない。暗い森の中で一人という状況は心を弱くする。疲労もあり、立ち上がりたくても元気が出ない。龍ノ介は遂にその場に蹲ってしまった。
今この瞬間、心に思い浮かぶのは──
俯く頭に濡れた感触と、ぴすぴすという音。生温かい風が龍ノ介の旋毛に当たっている。
「⁉」
驚いて顔を上げると、近過ぎてよく見えないが四足歩行の生き物が目の前に居ることだけは分かった。慌てて焦点を合わせると、真っ黒な犬が龍ノ介の顔を覗き込んでいた。風の正体は鼻息だったようだ。
犬は龍ノ介の顔を嗅いだり、鼻を押し付けたりする。敵意はないようでひとまずは安心した。しかしなぜ真っ黒な犬が見えているのだろうか。森は暗く、龍ノ介のランプは消えたというのに。
そこまで考え至った時、犬の後ろからランプを掲げた少女が顔を出す。
「お兄さん、どうしたの? 迷子?」
「あ……」
灯りに照らされた青い目と視線が重なった。何が起きたかすぐ整理できずに固まっていると、犬がぺろぺろと龍ノ介の顔を舐める。が、そんなことに構ってはいられなかった。
「あ?」
「アイリスちゃん、だね?」
黒い犬と一緒に居る、十歳くらいの女の子。間違いない、この子がクリムトの娘だ。
アイリスには特に怪我もなく、とても元気なようだ。どちらかといえば龍ノ介の方がよっぽど迷子の子供に見える。流石にそれは情けなく思えて龍ノ介は立ち上がった。
「そうだけど……もしかして、探しに来てくれたの?」
「うん。みんな心配してるよ。お家の人が総動員で君を探してる」
それを聞くとアイリスは表情を曇らせた。まずいことをした、という顔だ。
「そっか、そうだよね。早く帰らなきゃ。お兄さん、道が分からないなら連れて帰ってあげるの」
「……お願いします」
行方不明だった子を探しに来たのに、その子に連れて帰ってもらうというのも変な話である。ともあれ、アイリスの案内で龍ノ介は無事に屋敷まで戻ることができたのだった。
「アイリス!」
屋敷で報せを待っていたクリムトとその妻は、可愛い娘の姿を見るや駆け寄って抱きついた。
「無事で良かった……」
「ごめんなさい……あたしは大丈夫だけど、あのお兄さんの方が大変なの」
親子三人の視線が龍ノ介に集まる。本人としては大変と言われるほどの怪我はしていないのだが、見た目が泥だらけな上に顔の擦り傷が痛々しい。
「ミスター・ナルホドー、娘を連れて帰ってくれて本当にありがとう」
「いえ、連れて帰ったというか、連れて帰ってもらったというか」
アイリスは別に道に迷ってなどいなかった。放っておいても自力で帰っただろうし、むしろこれほどの大事になっていたことに驚いていたくらいだ。言ってしまえば龍ノ介は勝手に迷って勝手に怪我をして、挙句の果てには子供に連れて帰ってもらったのだ。礼を言われるようなことは何もない。
「すぐに医者を呼んできますわ」
「そ、そんなに大きな怪我はしていませんよ」
アイリスが無事に帰ってきたという連絡は瞬く間に広がり、捜索に出ていた人が続々と帰ってきた。皆アイリスの元気な姿を確認すべく我先にと彼女が居る居間に向かう。だが、バンジークスだけは違った。
「リューノスケ!」
アイリスを連れ帰った青年が大怪我を負っているという話が耳に届き、血相を変えて戻ってきた。
「あ、おかえりなさい」
話が広がる際に随分と大きな尾ひれがついたらしい。当の本人がけろっとしているのを見ると、バンジークスは脱力して龍ノ介を抱き締めた。
「君が大怪我をしたと聞いて……」
「皆さん、ちょっと大袈裟なんですよ」
しかし簡単には離してもらえず、結局あちこち確認して全ての傷が軽いものであるとバンジークスが納得してからようやく、龍ノ介は部屋を出ることが許されたのであった。
「それにしても、どうしてこんな時間まで帰ってこなかったんだ? いつもは暗くなる前に帰るだろう」
バンジークス家と龍ノ介揃っての夕食の後、クリムトがアイリスに向かって質問した。本当は皆ずっと気になっていたのだが、アイリスが落ち着くのを待っていたのだ。
「それは……」
少女の歯切れは悪い。俯いてしまって、続きを聞き出すのは難しそうだ。
龍ノ介が会った時、アイリスはおそらく家に帰ろうとしていた。帰りたくなかったわけではないのだ。何らかの事情で出発が遅れただけで、その理由に問題があるらしい。
「後ろめたいことがあるのはなんとなく分かる。でも、私も理由を聞かなければ何も判断できないんだ」
「お父様……あたし……」
「そこの小さな客人は、今日ボクの隠れ家に遊びに来ていたのだよ、諸君」
食堂を真っ直ぐ突き抜けるような声だった。龍ノ介もこの声を知っている。もう二度と聞くこともないと思っていたのだが。
「シャーロック・ホームズ、どこから入った!」
かつて龍ノ介を死の危機に陥れた張本人、シャーロック・ホームズが食堂の入口に立っていた。バンジークスが凄んだが、ホームズはどこ吹く風である。
「普通に玄関から。誰にも止められなかったよ」
バンジークスは苦い顔をした。今日は人の出入りが多かったから仕方がない部分はある。というか、そのタイミングを狙って来たのかもしれない。この男ならばそれくらいのことはする。
「アイリス、彼の家に居たというのは本当かい?」
「うん……」
元々ホームズは極度の変わり者として知られていたが、龍ノ介の一件もあって最近は要注意人物という認識に変わってきていた。国内の各地に小さな隠れ家を持っているという話は有名で、この街の近くにそのうちの一つがあったのだ。
「彼がどういう人か知っての行動なのかな」
「違うの! ホームズくんは皆が言うような悪い人じゃないの!」
初めてアイリスがはっきりと主張した。その勢いには流石のクリムトも驚いたようで、一度言葉を切る。
父はホームズと娘を見比べてから、小さな頭を優しく撫でてやった。
「アイリス、私も彼がどんな人なのかは知らない。変わった人だとは聞いているけどね。だから、アイリスが彼と何をして、どう思っているか聞かせてくれるかな」
あくまで温和な、しかし冷静な言葉だった。
ホームズには謎が多い。直接話したことがある人間は希少で、善人か悪人かの判断を下すための材料があまりにも少ないのだ。だが子供の前でだけ善人を装う悪人も存在する。本人が姿を現した今だからこそ、総合的にホームズという人間を見ることができるとクリムトは考えていた。
「初めて会ったのは、二ヶ月くらい前。バルムング号が噛みついちゃって、お詫びにクッキーを渡したの」
「あの犬、まだたまに噛みついてきそうなんだよね」
「貴公は黙っていろ」
緊張感のない茶々を入れるのは天然か、それともわざとか。なんにせよアイリスの緊張が少し緩んだ。
「ホームズくんは物識りで、自分が街でどんな風に噂されてるか知ってるけど全然気にしてないし、本当はとっても優しいの。悪い人に騙されないようにって、色々教えてくれるんだよ」
「色々って?」
「魔法とカガクの違いとか、外国の生き物のこととか、おいしい紅茶の淹れ方とか……なんでも知ってるの」
「それは興味深い」
クリムトが初めて理解を示した。
魔法が存在するこの世界だが、ただの人間には魔法など使えない。そこで徐々に発展の兆しを見せているのが科学である。各国が争うように研究を始めたのは最近のことで、新しい技術が日々生み出されているため、優秀な科学者の存在は今後の国の発展を大きく左右するのだ。もちろん、その技術を悪用されないためにも。
「そうだとしても、貴公はミスター・ナルホドーを殺しかけただろう。どんな善行を重ねたとてあの事実は消えぬぞ」
バンジークスがホームズを敵視する決定的な理由はそれである。今となっては可愛い恋人。彼を危険に晒した者を放置はできない。
「ああ、アレね。キミは信じないかもしれないけど、あの毒は放っておいても息を吹き返す類のものだよ。最初から誰も死なないように仕組んでおいたのさ」
「……はあ?」
思わず声を上げたのは龍ノ介だ。あれだけひっかき回しておいて全部狂言でした、なんて、あまりにも性質が悪い。
「まあいくつかウソは言ったけど、ミスター・ナルホドーが死ぬ可能性なんてなかった。なんなら、今からあの薬を飲んでみせようか」
後になってからなら何とでも言える。この場に居る大人達は懐疑的だった。そんな薬は聞いたこともないし、仮にあったとしても今ホームズが持っているものが同じ薬だと誰が証明できるのか。
半ば呆れている大人達に向かって声を上げたのは、やはりアイリスだった。
「ほんとだもん! ホームズくん、あたしの前でほんとにその薬を飲んだもん!」
「えっ」
予想外の言葉に全員が唖然とする。どういう流れで十歳の少女の前で仮死の薬を飲むということになるのやら。
「それで、どうなったのだ?」
「急に倒れて息も止まっちゃったけど、二時間後に起こしてみてって……そしたらちゃんと生き返ったの。魔法みたいだった!」
状況は龍ノ介の場合とも一致する。同じ薬であったことを証明する術はないが、そういった薬が存在するというのは見過ごせない要素になる。
しかし、龍ノ介は別のことに気付いていた。
「もしかして、アイリスちゃんの帰りが遅くなったのはそれが原因なのでは?」
ホームズ以外の全員が一斉にアイリスを見る。言ってしまった、という顔の後、観念したように口を割った。
「う……うん……暗くなってきたのは分かってたけど、起こさなかったら死んじゃうかもしれないと思って放っておけなかったの」
今度は視線がホームズに集まる。そんな状況になれば大抵の人はアイリスと同じ行動を取るだろう。結局、原因はホームズにあるのだ。
「えーっと、なんかゴメンね!」
綺麗な笑顔で片目を瞑ってみせても、今ここに居る大人達には何の効果もなかった。
「なるほどね、大体分かった。でも、どうして黙って出ていったんだ? 皆が心配したんだよ」
「ごめんなさい。でも、ホームズくんに会いに行くって言ったらみんな反対すると思って……」
シャーロック・ホームズが本当はどんな人物であろうと、噂は一人の力でそう簡単に消せるものではない。もし十歳の可愛い女の子が怪しい科学者の隠れ家に行くと言えば、この家の誰もが止めただろう。
実際に今日、本人のことを知るまでは。
「……この男がろくでもない人間だとは思っている。しかしそれほどまでに興味があるというのならば、止めてもいずれまた同じことをしてしまうだろう。それでまた今日のような騒ぎが起きては皆に迷惑がかかる」
「……」
アイリスが目に見えてしゅんとしてしまった。今日の騒ぎが迷惑だったとか、バンジークスが言いたいのはそういうことではないのだ。上手く伝わらないのを察した龍ノ介がフォローを入れた。
「バンジークスさん、言い方がちょっと」
「……すまぬ。つまり、黙って会いに行かれるよりは事前に言ってからの方が我々も安心できるということだ」
満点ではないが、彼にしては及第点だろう。意図はちゃんと伝わったらしく、アイリスがぱっと顔を上げた。意外そうな、しかし期待を込めた視線だ。
「アイリス、約束だ。お出かけする時はちゃんと行先を言うこと。それと、必ず暗くなる前に帰ってくること。いいね?」
クリムトの言葉で彼女の期待は膨らむ。誰も彼女に、ホームズに会いに行くなとは言わないのだ。
「ホームズくんのところ、また行ってもいいの?」
「ちゃんと約束を守れるならね。彼とは少し話をさせてもらうけど、アイリスが心配するようなことはしないよ」
クリムトがホームズに目配せをした。どうやら危険人物という認識は撤回されたようで、ホームズも目配せを返す。
「ありがとう! お父様!」
賢く優しい少女の、少々変わった友人。今後はそういう扱いになるのだろう。今晩ここへ来たのもおそらくアイリス一人が責められることを防ぐためだ。意外とちゃんとした一面を見て、各自はシャーロック・ホームズの認識を改めねばならないと感じたことだろう。
アイリス捜索に随分と時間を取られ、肝心の話ができていなかった。言わなければならないことがあるのに、龍ノ介は疲れ果ててもう起きていられそうにない。
「今日は疲れただろう。よく休むがいい」
せっかく遠くから恋人が遊びに来たというのに、相手もできないどころか人探しを手伝わせ、挙句に怪我をさせてしまった。バンジークスは申し訳ない気持ちと安堵する気持ちで一杯である。
詫びるように、バンジークスは寝台の縁に座って愛おしげに髪を撫でている。龍ノ介が眠るまで傍に居るつもりのようだ。その手は優しく、温かさが一層眠りを誘う。だが今、できるだけ早く言いたい。龍ノ介は最後の力で眠気に抗い、なんとか声に出した。
「あの、ぼく、考えたことがあるんです──」
「うさろっくさん、どこにこんな量の荷物が入っていたんですか!」
「どこって、そりゃあボクの部屋にさ」
「にゃめん、自分のが終わったら手伝ってくれ……」
一人で三つも箱を抱えているにゃめんがこくりと頷いた。彼の部屋は物が少ないので、一番初めに片付けが終わりそうだ。
「妖精も七人ともなれば大荷物だな」
「ええ、本当に。馬と荷車を貸していただけて助かりました」
「一度で運び終わればいいが……」
今日は龍ノ介がバンジークス邸に引っ越す日。そして、七人の妖精たちがその隣に引っ越す日でもある。
あの夜、龍ノ介はバンジークスに提案をした。彼の家族たる七人の妖精をこの街に住まわせてもらえないかと。龍ノ介はそれだけ言うと力尽きて寝てしまったので、翌朝バンジークスが快諾した。更にどうせなら近くに住めば良いと、屋敷の敷地内に妖精たちのための家を建ててやることとなったのだ。
「しかし、全員で移り住むとは考えもしなかった」
「もともと町が遠くて不便だと皆で話していたんです。ぼくが成長してからは手狭になっていましたし、良いことばかりですよ」
「最初からそう頼めば良かったのだな」
妖精たちの仕事場はバラバラで、そもそも一定に留まらない者もいる。別に便利だからあの家に住んでいたわけではなく、人数と家の大きさと価格など諸々の事情で住んでいたに過ぎないのだ。
夕方にはなんとか引っ越しが完了し、とりあえず妖精たちが生活できる環境は整った。片付けにはまだ数日かかるだろうが、それは個人の問題である。
「専用のお家まで建てていただいて、ありがとうございました」
「とっても素敵なお家なの!」
うさととくまりすがバンジークスのところまで来て、ぺこりと頭を下げた。片付けの早かった二人だ。
「妖精の大きさだ。大したことではない。元はといえば私が言い出したことだしな。姪とも仲良くしてやってくれ」
「ええ、それはもう!」
「今度、女の子だけのお茶会をするの!」
いつの間にそんな仲になっていたのか。うさととくまりすは顔を見合わせて笑った。
「まあボクらのことは離れに住んでる小姑だと思ってくれていいから」
片付けが終わっていないはずのうさろっくが現れた。今日の内にどうにかするのはすっかり諦めているらしい。
「小姑?」
「可愛い家族を預けるんだ。悲しい顔をさせたらタダじゃおかないからね」
「成歩堂さまを泣かせた時は、うさと投げをお見舞いいたしますとも!」
二人のウサギの妖精が力強く言い切った。一度は龍ノ介の背中を押したとはいえ、やはり皆寂しかったのだ。近くに住めるとなれば子供を甘やかす気満々である。
「……心に留めておくとしよう」
無論、龍ノ介に悲しい顔などさせるつもりはない。出会いが突然でも、そのきっかけが変人による狂言であっても、二人はお互いを運命の相手だと思うから。
彼らが街へ越してきて、最初の夜が更ける。龍ノ介はバンジークスと七人の妖精たちに見守られ、幸せに暮らすのだった。
「ほら、結局やっぱり一緒に住むんじゃないか。だからさっさと頷いておけば良かったのに」
遠く離れた場所だと分かっていても、鏡の向こうに居る相手に突っ込みを入れてしまうのは何故だろうか。直接本人に言える機会もあったが、流石のホームズもそれは遠慮した。覗きがばれたらバンジークスに烈火のごとく怒られるのは火を見るよりも明らかだ。
『まあまあ、こういう過程が必要なこともありますよ』
ホームズは恋をしない。理解はしているが、そういった情緒的な部分はミコトバの管轄だ。
ともあれ二人の生活は上手くいき、ホームズの誤解も一応は解け、大団円である。しかし探偵にとってそれは絶望の始まりなのだ。
「あーあ、また面白いことが一つ減った」
龍ノ介の姿を鏡から消して、ホームズは項垂れた。
『おや。もう見守らなくてもいいのですか?』
彼らの様子を覗き見るのが最近の楽しみだったのだが、もう見るつもりはない……というよりも、興味を失ったらしい。今の彼は、事件を解決してしまったときの様子と似ている。
「もう十分だろう。何かあればきっとアイリスが教えてくれるしね」
『そうですか。彼らが上手くいって、あなたが世話を焼いた甲斐もありましたね』
ホームズは首を横に振る。
「いいや、彼らが出会うのも一緒になるのも運命だよ。ボクはちょっとそれを早めただけさ」
それを聞いたミコトバは目を丸くして耳を疑った。あのシャーロック・ホームズの口から運命などという単語が出てくる日が来ようとは。長い付き合いの友人も初めて聞いたかもしれない。
『あなたがそんな非科学的なことを言うとは思いませんでしたよ』
科学者ゆえに、ホームズは運命というものを信じていない。それはどちらかというと魔法の領域だ。
「ボクの言葉じゃない。信頼できる魔女が占った結果さ。キミに会う前に飛んで行ってしまったけど」
そう話す楽しげな表情でミコトバにはその正体が分かったし、納得もした。彼と親しくしている魔女はこの世にごく僅かだ。
『ああ、寿沙都ですか。忙しくしているようですね』
「キミを元に戻すためじゃないか。今度はしっかり時間を作ってくるってさ」
ミコトバはきっとどこかの空を飛んでいるであろう娘に思いを馳せた。
「さて、新しい事件でも探すとしようか。ミコトバ」
Parody 3 飛行機を降りた後に
「げ」
龍ノ介は大学から届いたメールを見てげんなりとした顔になった。遊びに来ていた亜双義が横から手元を覗き込む。
「ああ、それか」
「ほんの何ヶ月か前に入ったばっかりなのに、もうこんなこと考えなきゃいけないのか……」
「学部時代から考えれば十分待ってもらっただろう」
亜双義は他人事といったでコーヒーを飲んだ。同情の言葉の一つもない親友に、龍ノ介は恨みがましい視線を向ける。
「いいよなあ、お前は試験一本だろ」
「なになに? 何の話?」
横で話を聞いていたアイリスも首を突っ込む。
「就職活動、だよ」
口に出すのも嫌なのだろう。重い声色でそう言った後、龍ノ介は長い長い溜息を吐いた。
「アソーギくんはやらなくていいんだ」
「亜双義は検事を目指してるから、司法試験に通りさえすればいいんだ」
「簡単に言ってくれるが、合格率は五パーセント以下だぞ」
司法試験はもちろん日本で受ける。亜双義はその勉強をしつつイギリスのロースクールに通っているのだ。常人にできる業ではない。
「お前が落ちるところなんか想像できないよ」
日本に居た時から成績上位で、現在もそれは変わらない。龍ノ介は法学部関係の生徒や教授と何度か顔を合わせたことがあるのだが、入学して数ヶ月で亜双義の名前は名声と共に知れ渡っていた。
頑固で口が悪いところもあるが、この男なら就職活動をしても引く手数多なのだろう。龍ノ介には羨ましい限りである。
「で、なるほどくんは行きたい会社決まってるの?」
「それが決まっていればねえ……」
大学からのメールは就職活動を始める学生へ窓口などを案内する簡単なものだったが、それを考えなければならないと意識するだけで憂鬱だ。龍ノ介はパソコンの前で項垂れた。
「とりあえず九月に入社できるところ……夏休みは一回帰国しないとなあ」
留学生の採用においては、長期休暇のタイミングに説明会や面接をまとめている所が多い。龍ノ介は一時帰国など考えていなかったが、こういうことなら話は別だ。今からスケジュールを検討しておく必要がある。
「なるほどくん、日本でお仕事探すの?」
「うん、そのつもりだけど」
「そっかあ、帰っちゃうんだ……こっちで就職すればずっと一緒なのに」
同居人たちは龍ノ介のことをとても気に入ってくれている。ここは学生寮ではないから、残ろうと思えば彼らは歓迎してくれるだろう。ありがたいことだが。
「うーん、考えたことなかったなあ」
学部時代に留学していた同級生も、一年か二年で戻ってきて日本で就職するのが当たり前だ。外資系企業を受ける割合は確かに高かったが、あくまでも勤務地はその日本拠点である。
龍ノ介も生活や勉強には困らない程度に英語はできるから、その点は問題ない。言語に問題がなければ大体の企業は国籍を問わず受け入れてくれるだろう。しかし、外国で働くというのはかなり大変だ。日本の企業に所属して出向するのとは訳が違う。文化が違う土地でいち社会人としてやっていくのは、相当な気力と体力が必要になる。何より、会社員になると気軽に帰国するのが難しそうだ。
そもそも龍ノ介は何を仕事にしたいのかさえ曖昧なのである。日本に居た時でさえ想像できていなかったのに、今ここでさあ考えよと言われても。
「真面目に考えておけよ。エントリーシートの添削くらいは手伝ってやる」
「ええ……お前、めちゃくちゃダメ出ししそうだからなあ……」
「ダメ出しされそうなものを書くな」
就職活動を始める者は、就職活動をしない者が羨ましくて仕方がないものだ。試験の方がまだ分かりやすい。
(ぼくも資格試験である程度どうにかなる職業を目指していたら良かったのかなあ……まあ、今更か)
現実逃避していても仕方がない。とりあえず大学からのメールをちゃんと開き、研究室の予定と就職活動スケジュールを確認するところから始めるのだった。
「聞いたぞ。就職活動を始めるらしいな」
「うう、はい……あまり考えたくないですが」
大学はもちろん、その外でも人に会えばその話題だ。遂にこんな人の耳に届いてしまったと、龍ノ介は露骨に嫌そうな顔をした。いつか知られることとは分かっているのだが、恋人とのプライベートな時間までそれに侵食されるのは地味にダメージだ。
「亜双義は試験勉強一本だから羨ましいです」
あちこち出向いて面接をしたり、企業のことを調べたり、よく分からない試験を受けさせられるよりは、難しくても目標の立てやすい国家試験の方が単純だ。
しかしそれを聞いたバンジークスは、何かを思い出したように首を傾げた。
「……いや、彼は来月からインターンを始めるぞ?」
「え!?」
まるで初耳である。先日遊びに来た時でさえ何も言っていなかったのに、なぜバンジークスがそれを知っているのか。
親友だからといって何もかも報告し合う必要はないが、結構大きな話ではないだろうか。
「外国籍でも参加できる検事局の募集案件はないかと聞かれてな。いくつか法務省関連の案件を紹介してやったのだ。その内の一つに参加すると聞いたが」
「な……なんてヤツだ……」
ロースクールに通いながら日本の司法試験の勉強、更にインターンまで始めるなんて、どこまで意識の高い奴だと目眩がしそうになる。優秀でなければできない業だ。
「君はどういう仕事を探すつもりだ?」
「まずは九月入社できるところから絞っていくつもりです」
留学生はどうしても夏に帰国する。春の入社には間に合わないので、現実問題として四月からの入社しか受け付けていない企業は受けられないのだ。
今時そんなところは多くないが、ある程度は的を絞れる。無闇に探すよりはマシだろう。
「九月入社が珍しいのか?」
不思議そうな顔をするバンジークスに、龍ノ介も不思議そうな顔で返す。そして、二人の間にある認識の違いに気が付いた。
「あれ、アイリスちゃんからそこまでは聞いていませんでしたか? ぼくは日本で就職するつもりなのですが」
「……!」
今この場で取り乱すことはなかったが、バンジークスは殴られたような気分だった。視界が揺らぐ。龍ノ介は別段なんとも思っていないようで、その様子がまたバンジークスの心を刺した。
「でも、インターンか……こっちでもできるなら探してみようかな」
「あ、ああ。法務省でさえ受け入れているのだ、探せばいくらでもあるだろう」
分かっていないのか、それとも本当になんとも思っていないのか。定かではないが、バンジークスは平静を保った。
バンジークスには酷な選択だが、龍ノ介を責めることができるだろうか。彼の人生だ、彼の選択に口を挟む資格があるのか。
龍ノ介がそれ以上この話題を続けたがらなかったので、話を元に戻すこともできない。結局、バンジークスが聞きたかったことは何一つ聞けないままその日を終えるのだった。
数日後、龍ノ介が研究室へ入ろうとすると、中から言い争うような声が聞こえた。物々しい雰囲気だ。急いで入ってみると、同級生一人に対して、一つ上の先輩二人が詰め寄っている。部屋にはその三人だけで、教授は居ない。いつもは奥の部屋に居るのだが、今は外出中なのだろうか。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「それが……」
「こいつが俺の発表資料を盗んだんだ!」
「だから、僕じゃないんですって」
研究室内での窃盗で、同級生が先輩に疑われている。にわかには信じがたい話だ。こんなやり取りを何度も繰り返しているのだろう。同級生は疲れ切った顔をしていた。
彼は龍ノ介とも仲の良い学生だ。他人の資料を盗むような人間でないことはよく知っているし、先輩も彼の人となりは少しくらい知っているはずなのに。ここで何が起きたのだろうか。
「そんな……なぜ彼が盗んだと言い切れるのですか?」
「そいつにしかできないからだよ。鞄を見せろって言ってるのに、絶対に開けようとしないんだ。無実ならさっさと見せればいいだろ」
確かにその通りだ。しかし同級生は頑なに鞄の口を押さえている。何か事情があるようだが、それも言いたくないのか。
当事者は自分の主張を曲げないだろう。これでは永久に解決しない。そこで龍ノ介は、もう一人の先輩に話を聞くことにした。
「あの、具体的にはどういう状況だったんでしょうか」
「後輩君は朝からずっとここに居たみたい。私と彼が昼前に来て、例の資料を机に置いたのね。で、私たちがちょっと席を外してる間に資料がなくなっちゃったの」「その間、誰も部屋に入らなかったと?」
「そうなの。それは本人が言ったことだし」
この部屋で、学生はロの字型に席を組んでいる。同級生の席は扉のすぐ傍で、誰か来れば気絶でもしていない限りは必ず気付く。生憎彼はずっと起きていたようなので、本当に誰も入ってきてはいないのだろう。
一方、先輩の席は一番奥にある。部屋の中程に棚があって入口からは見えない。同級生が机で何かしていたら、先輩が資料を置いて出たことさえ分からないはずだ。
「無くなってたこと自体に気付かなかったんだ」
「そう言って、俺の資料を自分の論文にでも使うつもりだろ? さっさと出せよ」
まあまあ、と先輩を宥めるが、どうしたものか。部屋に一人しか居ない間に資料が消えたなら、それはもうその人物が動かしたという他に考えられない。
そもそもこの部屋に入るのにはカードキーが必要で、研究室の関係者以外は自由に出入りができない。ここは三階だから窓から入るのも不可能だし、廊下に続く扉は一つだけ。
「何か物音とかは聞かなかったのか?」
「音楽を聴きながら論文を書いてたから、音はちょっと……」
この同級生が真犯人を庇っているというのなら話は別だが、鞄を見せようとしないのがなんとも。しかしやはり彼が嘘を言っているようには見えなかった。もしそうならば、他に誰かが入ってきたとか、自分も席を外していたとか、言い訳はいくらでも考えられる。そもそも盗みを働こうとするならば、明らかに自分だけが疑われる状況では実行しないはずだ。
「無実なら鞄見せろよ! 何も無かったら綺麗に返すって言ってんだろ」
他に可能性は無いのか。友達が嫌がろうと、無実を証明するために鞄を開かせるしか方法はないのだろうか。もう説得に回ろうかと思って顔を上げると、友人越しに見えたものがあった。
「いや、待ってください。一人だけ居るじゃないですか、この部屋に入ったかもしれない人」
「「?」」
なぜこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう。この部屋の奥には、もう一つ扉がある。廊下に続く扉ではなく、この部屋を通らないと入れない小部屋だ。学生がそこへ入ることがないから存在を忘れがちなのだ。
「教授ですよ。あのドアの向こうは教授の部屋でしょう? 彼の席からは棚が邪魔で見えません。音楽を聴きながら論文を書いていたなら、教授が少しだけ入って出ていっても気付かなかった可能性はあります」
可能性はあるというよりも、本当に同級生が盗んでいないのならばもはやそれしか考えられない。なぜ鞄を開けられないかは別の問題として、筋は通っているはずだ。
「で、でも、なんで教授が資料を盗むんだ?」
「盗んだつもりはないんじゃないでしょうか。その資料は、教授にチェックしてもらうために持ってきたのですよね」
発表を行う際、教授が資料に目を通さないなど有り得ない。三人ともハッとした。
「机の上に完成したらしい資料を見かけて、チェックしてやろうと持ち帰ったのではないでしょうか。まあ、ご本人に伺った方が良さそうですね」
憶測ばかりで証拠は一つも無い。しかしこれならば辻褄が合う。先輩も同級生も、見られたくないものを見ようとする行為が挟まったせいでヒートアップしてしまい、話が拗れたに過ぎないのではないかと龍ノ介は思う。
結果ははたして、龍ノ介の推理した通りだった。資料の表紙に「チェック用」と書かれていたので、後で返そうと教授が部屋に持ち込んでいたのだ。
資料は数点の赤ペンと共に持ち主へ返却され、事件は幕を閉じた。
「本当に悪かった。証拠もないのに後輩を疑うなんて、俺は最低だ」
「いえ、僕も紛らわしいことをしてしまってすみませんでした」
誤解も解け、二人は無事に仲直りだ。疑ったお詫びと解決のお礼に、先輩が後輩二人に今度何か奢ってくれるという。
先輩達が帰った後、研究室には龍ノ介と同級生だけが残った。龍ノ介はつい好奇心に負けて、聞くまいとしていたことを口に出してしまう。
「でも、そこまでして見られたくない物って何だったんだ? まさか怪しい薬とか……」
もしそうならば窃盗の方がまだ罪が軽いくらいだ。それこそ信じたくはないが。
「ち、違うよ! でも……ナルホドーになら言ってもいいかな。僕を信じて庇ってくれたし」
そう言うと彼は鞄をごそごそと漁り、紙の束を取り出した。ちょうど先ほどの先輩が探していた資料とそっくりな見た目で、表紙もどこか似ている。極めつけには「チェック用」などと書いてあるではないか。開いてみると文字がびっしりと並んでいたが、ざっと読むだけで論文ではないことが分かった。
「これは……小説の原稿?」
「あっ、詳しくは読まないで! 僕、小説を書くのが趣味で……今度、賞に応募してみようと思ってて……」
文学院の学生だ。小説家を目指す人も珍しくはないだろう。しかし彼がそうだったとは初耳である。
「でもまだ粗削りだし、知ってる人に読まれるのが恥ずかしくてさ。これ、一見論文と見分けつかないだろ? 見つかったら中身をしっかり読まれちゃうと思って」
「それで鞄も開けないし理由も言わなかったのか」
今回の件は先輩が彼に疑いの目を向けたことから始まっていたが、事を大きくしたのは彼のその行動である。想像よりも小さな理由で龍ノ介は拍子抜けした。ただ、人の守りたいものに口を挟むことはしない。それは個人の裁量だからだ。
「ナルホドーが助けてくれて本当に良かった! 君、文学よりも弁護士みたいなのが向いてるんじゃないか」
「ははは、大袈裟だなあ」
そんなことを言われたのは初めてだった。ともあれ、人を助けるというのは気持ちが良いものだ。もし受験していたのが文学部でなく法学部だったら、そんな未来もあったかもしれない。
(弁護士か。もし目指していたら、いつかバンジークスさんと働くこともあったのかな)
その日はバンジークスの様子がおかしかった。ずっとそわそわしているし、ミルクティーを作る際など紅茶を先に注いだ。あまりに挙動不審だったものでその時は龍ノ介も突っ込めなかったほど。
「……で、結局は教授が資料を返してくれたんですよ……聞いてます?」
上の空のバンジークスを見かね、遂に龍ノ介が切り込む。一緒に居るのに、これでは全く意味がない。
「あの、何か心配事でも?」
「いや、心配とは……少し違う」
歯切れも悪い。やはりバンジークスはずっと何か考えているのだ。心配事でないなら何なのか。龍ノ介には心当たりがない故に、彼から言い出すのを待つばかりだ。
数十秒ほどああでもないこうでもないと悩んだ様子を見せて、バンジークスが意を決したように龍ノ介を見据えた。
「結婚してくれ」
「はい?」
何を言っているのか自分で分かっているのだろうか。どこからどうそんな話に飛ぶのか。脈絡もなくとんでもないことを言われ、龍ノ介はたじろいだ。
「……ええ? あの、ぼくまだ学生なんですけど……男ですし」
「イギリスは同性婚が認められている。それに学生が結婚してはいけないという法はない」
法律を持ち出してくるあたりは流石現職の検事というか。感情を軸に考えるべき話題において、理論武装で説得しようとしているのだろうか?
「……どうしたのですか? あなたらしくもない」
龍ノ介はどこか懐疑的だった。龍ノ介の知るバンジークスはこんな突飛なことを言わない。何が彼をそうさせるのか、そこには必ず原因があるはずだ。
見抜かれたバンジークスは勢いを削がれた。そして今になって羞恥心に襲われたのか、頭を抱えてしまう。
「君は留学生だろう。卒業すれば帰国する」
「そう、ですけど」
「それが嫌だ。帰ったら君は私を忘れてしまう」
ここまではっきりと言われてようやく、バンジークスが何を言いたいのか理解した。龍ノ介が日本で働く以上、卒業はそのまま二人の別れを意味するのだ。
少し考えれば分かることなのに、すっかり頭から抜けていた。
「忘れたりなんか……!」
忘れたりなどしない。だが似たようなことだ。龍ノ介はそこから先を続けることができない。
「私は検事で、この国を離れることができぬ。仮にそれができたとしても、日本で検事になるには日本の国籍が必要だ。何もかも私の都合だ……分かっているが、それでも君を諦められない」
これほどまでに想ってくれる相手を置いて帰国するのはあまりに残酷ではないだろうか。かといってずっとイギリスで働くのか? 家族も友人も日本に居るし、親友は卒業後に帰国する。そんなこと想定していない。
龍ノ介が言葉を選べないでいる内に、バンジークスは続ける。
「だが……そうだな。私らしくもない。忘れてほしい」
突き放されたような感覚だった。どんな時も優しく受け止めてくれる彼が。いや、それを言わせてしまっているのは龍ノ介だ。何か言わなければと思うのに、安い慰めのような言葉しか浮かばない。
離れたりしないと、故郷よりあなたを選ぶと、思い切って言えたらどれだけ楽だったか。龍ノ介は若いが、簡単に何もかも擲てるほど軽率な子供ではないのだ。
バンジークスが席を立った。今日はもう帰るのだろう。出ていく彼を止められはしないのに、じっと座っていられず遅れて後を追う。
いつもより強めに閉まったドアを、龍ノ介が開くことはなかった。
龍ノ介は急に不安に駆られる。時間に限りがあるのならば、あと何度会えるのか?
バンジークスの言葉が頭を離れないでいる。何度反芻しても飲み込めそうにない。確かにイギリスでは同性婚が認められているし、恋人への言葉としては自然ともいえる。ただあまりに性急すぎた。
(あの冷静な彼があそこまで……)
龍ノ介が日本で就職すると聞いて焦ったであろうことは伝わってきた。まだ一年以上は先の話だが、龍ノ介と違ってバンジークスはいずれ何が起きるかを想像したのだ。
(そうだ、ぼくは何も想像できていなかった)
また彼を傷付けるのか。浅い考えのままでは同じことを繰り返してしまう。自分とその未来に、ちゃんと向き合うべき時が来たのだ。
(そもそもぼくは、何がしたくてイギリスまで来たんだっけ?)
もちろん家族や友達と離れる心細さもあるし、海外と日本では何かと勝手が違う。ほんの数年留学するのと、本拠地を移すのは覚悟も手続きの多さも別格だ。
しかし日本で就職しようと思っていたのは、それが当然だと思っていたからではないか。どこかでそんな流れに身を任せようとしていた部分があったのではないか。そう思うと、あれだけ色々と調べた企業の情報も、少しだけ考えてみた志望動機も、今はどこか薄っぺらく見えてしまう。
なんとなく受かったところに行くのでは、きっと後悔することになる。もっと真剣に考えるべき問題なのだ。
例えば亜双義など随分と前から検事になると決めていた。目標として掲げ始めたのは中学生の頃で、それからずっとそのために勉強してきたという。極端な例ではあるが、それくらいの熱意があるからこそ現在あそこまで目標に近付いているのだ。
龍ノ介にはそれほど長い時間を掛けてきたものが特にない。今持っている手札と、残りの時間で勝負しなければならない。
龍ノ介にとって何が最善なのか。そしてバンジークスと別れずに済む方法はあるのか。最適解を導き出せなければ、バンジークスと別れて日本で適当な仕事に就くことになるのだろう。
彼を諦めずイギリスで就職先を探すという大博打に出るのは難しそうだ。というのも、その選択肢が出る頃には大学院の卒業が控えている。日本でならば実家からでも仕事は探せるが、イギリス滞在の延長は厳しいものがあるという自覚は流石にあった。
とはいえ難しい問題だ。世の中にはごまんと仕事があるが、龍ノ介に向いていて、なおかつ諸々の条件をクリアする職業など存在するのだろうか?
日本とイギリスをできるだけ自由に行き来可能であることが必須だが、それが一番難しい。
結婚してくれと言ったバンジークスは、正直なところ血迷ってはいたが目は真剣だった。彼は彼で悩み抜いて出した結論なのだ。
告白された時もそうだったが、バンジークスは人に黙って色々と悩み過ぎるところがある。今回など特に、龍ノ介の人生を左右することだからと言い出せなかったのだ。それで求婚するのも些か唐突だが。
日本に住んでいると想像しにくい話だ。この国ならば、性別を問わずに結婚ができる。就職の件を抜きに考えればかなり魅力的な誘いだった。環境とタイミングさえ悪くなければ即座に受け入れていたかもしれないと龍ノ介は思う。
だが今回はあくまでも、そうしないと龍ノ介を引き止められないと考えて出た話なのだろう。それほど好いてもらえていたことは嬉しいが、それでは駄目だ。人として自立した魅力のある大人になって、その上で結婚したいと思わせるくらいでないと。
だからこそ仕事についてちゃんと考えなければという、最初の問題に戻るのである。
彼に惹かれなければ良かったのだろうか。それこそ有り得ない話だ。付き合いはまだほんの数ヶ月だが、バンジークスと過ごす時間はとても居心地が良い。歳は離れていてもそれを殊更に強調することもなく、むしろ一人の人間として敬意を持って龍ノ介に接してくれる。気遣いもスマートで、誠実さもあって、彼のような社会人になりたいという憧れさえ抱くほど。
その一方でプライベートではたまに抜けているところもあるものだから、そんな面を見る度に「ああ、離れがたいな」と感じていた。
こんな相手が他に居るだろうか。世界は広いから、全ての人に会えれば似たような人間は居るかもしれない。だがそんなことは不可能だし、龍ノ介の代わりもバンジークスの代わりもこの世には存在しないのだ。
でも、万が一。万が一彼と龍ノ介が道を違えることになったらどうする?
どんなに仲睦まじい恋人同士であっても、上手くいかずに別れることはよくある。そうでなければ離婚制度など存在しない。自分だけはそうならないと、どうして言い切ることができるだろうか。
もしそれが起こった場合、イギリスで働くことに疑問を抱いてしまうかもしれない。仕事とプライベートはできることならば別で考えたいが、そうも言っていられない状況だ。
悪い想像ばかりしてしまう。夜に考え始めてしまったのも原因だろう。最後のバンジークスの態度が龍ノ介を不安にさせた。
(こんな考えなしじゃ、愛想を尽かされるかもしれないな……そもそもバンジークスさんなら、ぼくよりもっと相応しい人が居るんだろうに)
実際にそれを口に出したことはなかった。言ったらバンジークスはきっと怒るだろうし、もし仮に頷かれでもしたら二度と立ち直れないと知っている。だが常に龍ノ介の頭の隅に燻っている考え。
お互いがお互いを選んだと理解はしている。それでも〝永遠〟や〝絶対〟を信じるほど龍ノ介も幼くはないのだ。この先の人生、本当にバンジークスが最後の相手になるとは限らない。そう信じたい気持ちはあるのだが。
理想と現実の間で、龍ノ介の思考は揺れて漂うばかりだった。
一週間ほど、龍ノ介の頭の中はそのことで一杯だった。しかし一人で考えたところで良い案など出るはずもなく。行き詰った龍ノ介は、リビングにあるソファでぼんやりしていた。そこへホームズが帰宅する。
「ただいま! このボクが帰ってきたよ!」
悩み多き就活生は、社会人が羨ましい。無駄に元気な同居人を見て自然と溜息が漏れてしまった。
「はあ……おかえりなさい」
「なんだいなんだい溜息なんて! 幸せが逃げちまうぜ」
今日は特に上機嫌らしく、ホームズは肩など組んで龍ノ介に絡んできた。難しい依頼でも入ってきたのだろうか。悩める人間には些かうざったいテンションだ。
とは思いつつ邪険にするわけにもいかないので、龍ノ介は慣れた様子ではいはいと相手する。
「ホームズさんは探偵なのですよね」
「ああそうだとも。この世でボクを知らなかった人間など君くらいだよ」
それは言い過ぎである。が、今の龍ノ介は突っ込むことも忘れて話を続けた。
「つまり形態で言えば自営業ということですね?」
「……夢がない話だけど、まあそういうことだね」
「うーん、ホームズさんくらい適職があれば自営業という手も……?」
そしてまた考え込んでいく。龍ノ介が就職活動で悩んでいるのはホームズも知っているが、いかんせん彼は生まれた時からの探偵だ。これに関しては龍ノ介にアドバイスを求められたことはなかった。
「ボクほどの才能があると、警察や検事みたいな職業では最大限にそれを発揮できないからね! でもキミ、探偵には向いてないと思うよ」
「いや、探偵にはなりませんよ。イギリスと日本を自由に行き来したかったら、やっぱり会社員は難しそうだなと思っていたところで」
自分の才能に絶対の自信があるからこそ彼は探偵になることを選んだし、それ以外の道はほとんど無かったに等しい。
多くの人はそれほど突出した才能を持たない。だからこそ会社という場に集まって大きなことを為そうとするのだ。龍ノ介は、はたしてどちらなのか。
「ふーん。ま、ボクから言えることはこれだけだ」
ホームズは人差し指を天に向け、綺麗な顔でウインクした。
「会社員てのは窮屈だけど、責任は軽いし安定もある。自営業も良いことばかりじゃないぜ。大事なのは、キミが本当にやりたいことをできるかどうかなんだよ。働きたくないなら実家に帰って親の脛をカジったって、それも一つの生き方さ」
ノリこそ軽いが普段のホームズとはうって変わって真面目なアドバイスで、龍ノ介は呆気にとられる。まさか仕事をしないという選択肢を提示されるとは思っていなかったが、そこまで広げて考えればもう何でもありだと思える。
「だって見てごらんボクを! 正にやりたいことしかやってないだろう!」
笑いながらその場で大きく手を広げてくるくる回るのを見ると、今のは目の錯覚だったかなと思ってしまうのだが。
「ふっ、あはは、ありがとうございます。ホームズさん」
少し肩の力が抜けた気がした。真剣に考えることに変わりはないが、必要以上に重く深く考える必要もない。
「礼はいいから、一日くらい就職活動のことを忘れてボクらに構いたまえよ!」
結局二週間ほどの間、龍ノ介からバンジークスに連絡することはなかった。毎日とまではいかないものの、週に何度かは話題を問わず連絡を取り合っていたのに。こんなに長い期間で連絡が途切れたのは初めてだ。
あんなことを言ってしまった上、突き放すような態度を見せた後だ。見放されても仕方がないのかもしれないと、時間が経てば経つほどバンジークスの思考はネガティブになる。
そんな折、久し振りに届いたメッセージで「話がある」と持ちかけられたらどう思うだろうか? 今のバンジークスの精神状態では、どう考えても別れ話を切り出されるとしか思えなかった。
「バンジークスさん。ぼく、弁護士になります」
「…………は?」
だから、考え直してくれと言う前に龍ノ介から言われたことの意味が全く理解できなかった。噛み合っていないにも程がある。
「だってほら、検事だと日本から離れられませんし、弁護士なら自分で事務所を構えたり国際資格もあって自由じゃないですか」
「ま……待て、貴公、何の話をしている?」
エイプリルフールはまだ当分先だ。龍ノ介があまりにも淡々と決定事項を伝えていくので、バンジークスが噛み砕く前に話が進んでしまう。何がどうしてそういう流れになったのかさっぱり分からないでいた。
別れ話ではなかったことにひとまずは安心するが、それとこれとは話が別だ。
「ぼくもちゃんと考えてきたのです。自分が将来どうしたいか……どうなりたいか。ぼくは、ぼくも、あなたと一緒に居たい。あんなことを言い出すくらい考えていてくださったこと、とても嬉しかったんです」
先日の勢いに任せたプロポーズのことだと分かってバンジークスは少々頭を抱えた。あんな醜態を晒したことは早々に忘れてほしいと思っていたのに、龍ノ介は律儀にも真剣に考えてきたのだ。嬉しいやら恥ずかしいやら。
「それで、なぜ弁護士なのだ」
「自営業の方が何かと動きやすいではないですか。会社勤めはなかなか気軽に日本とイギリスを行き来できませんし」
国際弁護士になれば海外に拠点を作って仕事ができる。帰国してもそのまま仕事を続けられるので、いざという時もリスクが少ない。もちろん万事上手くいくとは限らないが、会社勤めよりはずっと自由度が高い。
全て捨てるわけではない。両方に拠点を持てるようにして、仕事をしながらいつでも行き来できる環境を作る。いわばモラトリアムだ。
「そもそも君は文学院の学生だろう。勉強は?」
「ぼくが弁護士になるの、反対ですか?」
あれこれと理由をつけるのは、弁護士の道を諦めさせようとしているのではないか。つまりバンジークスにとって、龍ノ介が傍に居ようとするのはそれほど重要ではなかったということなのか。真剣に考えて出した結論ではあるが、もしそういうことなら龍ノ介も引かざるを得ない。そもそもバンジークスに求められなければ出なかった選択肢だ。
悲しそうな顔をした龍ノ介に見上げられて、バンジークスはその意味を悟った。
「そんなわけがない。そうなればどんなに良いか……だが、君がやろうとしていることはあまりに無謀だ。堅実に進める道を捨てようとしているのだぞ。若い君の人生を、私のような男が振り回すべきではない」
バンジークスも考えたのだ。将来をこれから考えるような若者を、同性で、かなり年上で、国籍も違う人間の衝動的な想いだけで縛っていいはずがないと。
しかし、そんな言い分ならば龍ノ介は引かない。俯くバンジークスの手を取って、しっかりと目を見た。
「堅実な道を進むのが幸せとは限りません。ぼくは今、新しい夢を見つけたのです。それに挑戦したい。後悔しないために」
単にバンジークスだけのためではない。自分のためでもあるのだと黒い瞳が訴える。二人のためになることでなければここまで思い切った決断などできるものか。
「……そこまで言うなら反対はしない。だが実際、学生の内に試験を受けるならばあと一年ほどしかないぞ」
一般的な大学生は四年とロースクール分の勉強を経て試験を受けるが、今からそれだけの時間をかけることはできない。最速で受けられるのは来年度になるだろうが、それが留年せず学生の内に受けられる最後の試験でもある。
留年にもお金はかかるし、イギリスなら尚のこと。来年の試験に通るのが理想だが、生半可な努力では到底叶わない夢だろう。
「もちろん、簡単にはいかないと思います。なのでもし現役の検事なんかが色々と教えてくだされば、たいへん心強いのですが」
そう思いませんか? とバンジークスに目配せする。龍ノ介はもう決めたのだ。できることは何でもするし、使えるものは何でも使う。
「……手は抜かんぞ」
「望むところです」
バンジークスも恋人の顔から検事の顔になる。龍ノ介が見るのは初めてだ。仕事をする彼はこんなにも厳しく、頼もしく、格好良い。
なかなか遠大な夢だが、なんとなく目標もないまま適当な会社で働くよりずっと意味がある。龍ノ介の戦いはこれから始まるのだ。
「今から弁護士を目指すだと!? キサマ気は確かか! 今のゼミを続けながら司法試験の勉強をするのだぞ!」
バンジークスの次に報告したのは亜双義だ。概ね予想から外れない反応ではあったが、肩を掴んでガタガタと揺すられるところまでは予想できなかった。
(亜双義だってイギリスの大学院に通いながら日本の司法試験の勉強をしているくせに……)
「オレのは方向性が同じだろうが」
「なんで心の中を読めるんだ」
元々顔に出やすいタイプではある。大学で四年も友達をやっていれば龍ノ介の考えなど筒抜けなのだ。
「……バンジークス検事のためか」
「!!」
どこまでもバレバレである。弁護士という発想は同級生を庇った経験から生まれたものだが、周りに法曹界関係者が居たことも大きい。それに、龍ノ介がそこまでの決断をする要因たれる人物はイギリスにごく僅かだ。もちろん基本的には龍ノ介自身のために決めたことであるが。
「まったく、キサマは時々とんでもないことを考えるな」
「……分かってるよ、急に無茶なことを言ってるのは。でも、大学院まで入ってやっと見つけた目標なんだ」
もう少し早く、せめて大学に入る前に見つけられていたらと思わないこともないが、それでも今気付けたのだからそれで十分だ。
亜双義は掴んでいた肩を離し、腕を組んで溜息を吐いた。諦めたというより、認めた顔という方が近いか。龍ノ介の意志の強さは親友のよく知るところだ。
「……分かった。キサマが本気ならオレも協力しよう。同じ試験を受けることになるのだ。効率よくやるぞ」
そう言う友人の顔は頼もしい。バンジークスだけでなく、亜双義も助けてくれるのならば百人力どころではないだろう。
亜双義は元々勝負好きだ。しかも勝ち目が少ないほど燃える性質である。学部生時代に塾講師をしていたこともあるし、一年間で龍ノ介を司法試験に合格させるという目標にいま火が点いた。
「亜双義……お前と友達で良かった!」
「大袈裟な」
と言いつつ亜双義もにこにこしている。そこに突っ込むのは流石に藪蛇なので、龍ノ介は黙っているのだった。
数年後、龍ノ介は飛行機に乗っていた。目的地は懐かしい留学先、彼と初めて会った空港。あと三十分ほどで着陸する。
今は隣に亜双義が居ない。寿沙都も同じ飛行機に乗っていない。亜双義は無事に検事になり、寿沙都は大学生になった。二人とも日本で龍ノ介を見送ってくれた、良い友人達だ。
目的地の空港にはあの日に出会った面々が居る。龍ノ介を迎えるためだ。直接会うのは一年振りになるだろうか。
(やっと、会える)
随分と待たせてしまった。会えなかった間に愛想を尽かされるのではと心配したほど。しかし彼は決して心変わりなどせずに待っていてくれた。今も空港で龍ノ介の到着を出迎えてくれようとしている。
彼のような人と出会えて、人生の目標を見つけられた。あの一年間の留学は意義のあるものだったと言えよう。そして遂に、今日からロンドンで弁護士として働く日が来たのだ。感慨深いものがある。
(傍で見ていてください、これからのぼくを)
飛行機を降りた後に、まず彼には何と声をかけようか。今の龍ノ介の頭は、それで一杯なのだった。