@ayu_14mana
その時の光景を、彼は生涯忘れることはないだろう。
戦闘後に怪我をして地面に転がっている事など珍しくもなかったが、ジゼルはこの時、ひと目で状況が普通ではない事を理解した。力なく横たわっていた身体を抱き上げれば、深い傷から溢れる血がジゼルの手袋を瞬く間に染め、急速にエーテルが失われていく感覚がダイレクトに伝わってきた。戻ってこいと叫ぶように名を呼び、得手とはいえない癒しの力をありったけ注ぎ込んでも、黒い前髪の下で閉じられた目が開く事はなかった。失うかもしれない、という恐怖に全身が冷えるような感覚に襲われて、その後のことはあまり覚えていない。
戦地の病院には他にも深刻な症状の兵士が多数担ぎ込まれていた。前線で武器を振るった方が自軍の為になる事を頭では理解していたが、いつ命の炎が潰えるかも知れないタナカを置いていく事は、ジゼルにはどうしてもできなかった。どんなに呼びかけても目を覚まさないのに、全身にびっしょり汗をかき苦痛に表情を歪めて呻く姿に胸が潰れるような思いを抱きながら、まるで己の命を分け与えるかのように延々と、エーテルを流し込み続けた。
悪運か、並外れた生命力か、それとも必死の看病か。何が作用したのかは分からないが、一週間の後にタナカはようやく、薄く目を開いた。手を取り、悲痛な表情で見下ろしている男の姿を見て、小さく唇が動く。それが己の名であることを理解したジゼルは大きな安堵の息を吐き、次いでぐらりと視界が揺れるのを感じた。
「これ以上病人を増やさないでおくれ!」
忙しなく働いていた熟練のヒーラーから叱咤の声が飛び、どうにか意識を繋ぎ止める。タナカは再び目を閉じてしまったが、すぐに駆け付けた医師の見立てでも、ほとんど消えかけていたエーテルが仄かに彼の体内で揺らめいている事が確認され、少しずつでも回復に向かっていることが証明された。
それから日を重ねるごとに少しずつ、タナカが覚醒する時間も増えていった。補助を受けながらどうにか上体を起こせるようになるまでには更に2週間を要した。ジゼルはその間、タナカの看病をしながらも、恩返しとばかりに病院の中で癒し手として、また荷物の運び入れから洗濯に料理までなんでも引き受け、そこで働くものたちからは大いに喜ばれた。
帝国の魔導兵器が放った爆弾を半身に食らったタナカの怪我は酷いもので、腹の傷は内臓にまで達していたし、脚は二度と立てないのではという折れ方をしていた。負傷したのが右側だったことで利き手も満足に動かせない不便さはあったが、これが左側なら確実に死んでいたのだからまだ良しとすべきなのかもしれない。
焦りなのか悔しさなのか申し訳なさなのか、タナカは自力で歩こうとしてはベッドから落ち、無理矢理に食事を押し込んでは受け付けられずに吐き戻した。その度にジゼルが世話をすればまた一層情けなさを感じるようで、痛みや苦しさも相まって硬い表情でいる事が殆どだった。
「帰るか」
ある日、唐突にジゼルはタナカに告げた。
まだこの戦場でやるべき事はいくらでもある。だが今のジゼルにはそれよりも何よりも大切なものがあった。既に軍の上層部には、彼を連れて一度戦地を離れると話を通してある。元来は冒険者である二人が兵士として戦いに尽力した事への感謝と、これ以上二人の力を借りずともどうにでもしてみせる、という力強い回答も得ていた。
ベッドに仰向けに横たわったまま、タナカはジゼルの言葉に反論するかのように口を開いた。だが、ジゼルの声と視線に宿っていた強い意志を感じ取ったらしく、静かに口を引き結ぶ。
ここからウルダハの家まではかなりの距離がある。いまのタナカではエーテライトを介したテレポに耐えられないので、キャリッジを使った長旅になるだろう。それも見越した「絶対に、なんとかしてやる」という覚悟の上での言葉だ。
帰りたくない、ここで諦めてたまるかとタナカの金色の瞳は語っている。だが、これは敗北ではなく、今は傷が癒えるまで耐える時だと、声には出さずにその目を見つめているうちに、タナカは再び口を開いた。
「…………帰る」
その言葉と同時に、ゆらりと幕を張ったように瞳の金色が揺らいだ。タナカがそのままふいと顔を背けたので、ジゼルはわざと気づかないふりをした。
戦地まで駆け付けてくれたリテイナーに荷物を託し、ジゼルはまだろくに力の入らないタナカの身体を抱えて移動する。リテイナーはアウラ・レンの物静かな男で多くを語らず聞きもしない。手配したキャリッジの運転もそつなくこなしてくれるのは有難かった。
キャリッジの床に毛布を敷き詰め、そこに仰向けに横たわったまま流れていく景色をぼんやりと見ているタナカの表情には流石に覇気がない。リテイナーは十二分に気を付けてくれているが、それでも悪路にガタンと車体が揺れればその度に、傷に響くのか僅かに表情を歪めた。
負担を鑑みて途中で宿を取り、頻繁に休息しながらゆっくりと移動を続け、どうにかウルダハ、ゴブレットビュートの家にたどり着いたのは数日後の事だった。
家の中は別のリテイナーが管理してくれていたので綺麗に保たれている。長旅を延々と運転してくれたアウラの男に礼を言い、キャリッジを返しに行くその背を見送って、抱えていたタナカの身体を室内のベッドに下ろす。道中の疲れもあってか、また少し熱を出しているようで僅かに息が浅く身体も熱い。居たたまれない思いはあったが、それでもやはり安全で温かい家の中は落ち着く。
「帰ってきたなぁ……」
新鮮な水と絞った布を持って近づくと、力のない声でタナカは呟いた。額に浮いた汗を拭ってやりながら、
「そうだな」
とジゼルは応えた。安心したように目を閉じたタナカはそのまま静かに眠りに落ちていく。呼吸が深く規則的なものになるまでその姿をじっと見つめていたジゼルはやがて大きく息を吐くと、ベッドの横の床にばったりと倒れこんだ。
――帰ってきた。
この一カ月以上、生きた心地がしなかった。冒険者として、そして時には一兵士として武器を振るう以上、いつ突然の別れが来てもおかしくはない。それはもう最初から覚悟の上で一緒になった。はずだった。
だが、実際にこうして生死の境を彷徨う姿を目にしてしまって、平静でいられる訳などなかったのだ。今でこそ小康状態にあるとはいえ、もしこのまま永遠に目を覚まさなかったら、という思考はいつでも頭の中について回った。
戦線を離脱したのは、すぐにでも前線に戻りたいが為に無理をしてしまうタナカを休ませたかったのはもちろん、そこに蔓延している死の匂いが、彼を連れていくのではないかというありもしない妄想に襲われたせいでもある。「彼だけが無事ならいいと思っているわけではない」などと綺麗事を言うのは簡単だが、もしかしたら本当に、彼さえ無事なら、何でもよかったのかもしれない。
考えたところで仕方ない。たとえジゼル自身が所詮その程度の器だったとしても、ただこうして二人で生きて帰ってこられたこと、そしてこれから先、しっかりタナカに身体を治してもらうこと、しばらくはそれだけを考えて生活をすれば良い。
案外悪くないかもしれないな、と、ここまで一心不乱に走り続けてきた身としては、そんなことを思ってしまうのだった。
数日間は、眠っている時間の方が長かった。
目を覚ましている短い時間であちこちを覆っていた包帯を外して身体を綺麗に拭き、新しく清潔な布をあて包帯をきっちり巻き直す。消化しやすい薄い粥を食べさせて、手洗いまで抱えて連れていく。最初のうちは何もかもジゼルに手をかけさせる事に耐えられなかったようで複雑な顔をしていたタナカだったが、どうもジゼルが「手をかけさせられている」事を楽しんでいる節がある、と気付いてからは、多少素直にあれこれ世話を焼かれるようになった。
数日の後には体力が戻り始めたのか、タナカはある程度覚醒した状態で日中を過ごす事ができるようになってきた。ベッドにクッションを敷き詰めて上体を起こしていられる時間も徐々に増えている。喉の渇きを訴えれば適度に温めた水が出てくるし、姿勢を変えられずに背中が痛むと告げれば身体の向きを変える。傷口が痛んで仕方ない時には、和らげるための薬を飲ませて白魔法をかける。すぐ駆けつけられるようにとベッドのすぐそばの床を寝床にしているものだから、夜中だろうが早朝だろうが、ジズ、と小さく名を呼べば飛び起きて、痛むのか?水は?手洗いか?と、無事な左手を取って尋ねるのだ。
その甲斐甲斐しさといったら、王族の付人もかくやとばかり。ジゼルは自分でも少しやりすぎかと思わなくもなかったが、タナカが察した通り、こうしていつでも目の届く場所にいて何もかもしてやれるという事に妙な充足感を覚えてしまっているのだから始末が悪い。
家の中は様々なクラフトを行うために工房としても設えてあるが、タナカを運び込んでからは大きな音の出ない裁縫だけに従事している。買い物も納品もリテイナーに任せており、ジゼルが外に出ることはほとんどない。そもそも、これまでの稼業で蓄えは十分にある。少々値の張る、安全な痛み止めの薬を錬金術師ギルドから買い込んでも大して懐は痛まない。夜に薄く照明を焚いて手を動かすのは、生活のためではなく単純に気晴らしのためだ。
工房からは中二階に置かれたベッドを見上げる事ができる。呼ぶ声にも視線にも、すぐに気付けるので静かな裁縫は一番都合が良かった。
「別に、ずっと付いてなくてもいいんだけど」
タナカはそう言うが、まだ一人で動ける状態ではない彼を置いて家を空けるのは短時間といえど気が引ける。
「鬱陶しいか?」
「……そんなこと言ってないだろ」
拗ねたような口調にジゼルは思わず笑う。
申し訳ないとか、心苦しいとか、そういった事をタナカが口に出す事はなかった。どうせジゼルが「俺が勝手にやっていることだ」と流すのが目に見えているのだろう。むしろ甘えられればそれだけジゼルが喜んで応える事も身をもって理解している筈である。なので、ジゼルも遠慮なくタナカに尋ねるのだ。何かいるものはないか、してほしいことはないのか、と。
「焼いた肉が食いたい」
その夜、いつものように欲しいものを聞かれたタナカは、上体を起こしてベッドに座ったままそう即答した。ようやく薄い粥から普通の米粥やミルクを使ったパン粥、ほろほろになるまで柔らかく煮付けた野菜のスープや魚などを口にし始めた頃だった。体の表面にはまだ塞がらない痛々しい傷がいくつも残っていたが、やはり少しでも食べられれば気分も違うし、回復も早まる筈である。
「それはまだダメだ」
「流石にそろそろ硬いもん食いてぇ〜」
負傷する前は若者らしく食欲旺盛だった事を思うと、どうにかしてやりたいのはやまやまだったが。
「わかった、明日、鶏肉を煮てやろう」
「焼いたのがいいって言ってんのに」
大袈裟に溜息をついたタナカは、すっと真面目な表情になり、なぁ、とジゼルに声をかける。
「俺の、刀を取ってくれないか」
ジゼルはその瞳をじっと見つめた。身体は傷付いても、微塵も失われていない強い意思の炎が金色の瞳の奥で揺らめいている。やがてジゼルは無言のまま、タナカの武具を収めている不滅隊仕様のチェストを開き、一振りの刀を取り出した。持ち主が伏せっている間、ここでこうしてじっと眠っていたのだ。
鞘に収まったその刀を、タナカは左手で受け取った。右手をゆっくりと持ち上げ、柄を握るが、まるで力が入っていないのが傍らで見ていても明白だった。左手の親指で鯉口を切り、微かに震える右手を少しだけ引いて、白く鈍く光る刀身を露わにし、そこに映る己の痩せた顔を見て、なんともいえない小さな笑みを浮かべた。体勢を保てずに震える右手に呼応するように、かたかた、と刀がちいさく鳴いている。
ゆっくりと刀身を戻す。鯉口の合わさるかちりという音。膝の上に置かれる刀。タナカはじっとそこに視線を落としている。
悔しくて、不安で、痛くて、いつになったら元のように刀を佩いて駆け回れるのかという苛立ちもあって。その全てをそばでひしひしと感じながら、ジゼルは何も言わなかった。
――本当は。
ジゼルは少しだけ、今の状況が嬉しくもあった。言葉になどするつもりもなかったが、何にも邪魔される事なく、危険もなく、知らぬ間にどこかへ飛び出していったりもせず、自分がいなければ何もできないという状況が。
彼を、名実共に自分だけのものにできている、今の状況が。
けれど、タナカがタナカらしくいられないことを彼自身が望んでいるはずもない。それが全てだ。どこまでも自由で、己の思うがままにその両足で駆けているからこそ、ジゼルは眼を、心を奪われ続けているのだ。
「俺、治るのかな」
ぽつりと溢れた言葉は、負傷して初めて聞く弱音だった。
「当たり前だろう」
確証のない事は口にしない主義だったが、この時、ジゼルの口からは考えるより先にその言葉が転がり落ちた。
「動けるようになったら、一から鍛え直しだ」
タナカからの反論は飛んでこなかった。神妙な顔でこくり、と小さく頷いて、刀を持った左手を突き出す。ジゼルはそれを受け取ってチェストに納め直した。遠くない先に再び彼の手に収まる事を願いながら。
「さ、もう寝ろ。明日は少し外の空気を吸いに行こうか」
「あとさ」
今度は明らかに不機嫌な表情を浮かべてタナカはジゼルを見上げる。
「いつまで床で寝んの?」
不意を突かれてジゼルは一瞬言葉に詰まった。今タナカが一日のほとんどを過ごしているベッドはこれまで二人で寝ていたものだ。寝相が悪いわけでもないジゼルが、隣で寝てはいけない道理はないのだが。
「……せめて一人で歩けるようになったらな」
「……へぇ」
納得したとは到底言い難い表情のまま、タナカが左手で手招きしたのでジゼルは身を乗り出す。がっと勢いよくジゼルの首にタナカの左腕が回り、そしてすぐに離れた。言葉にすると何もかも安っぽくなりそうなこの状況下での一瞬の行動は、彼なりの、礼のようなものなのかもしれない。そう思い至った途端にぐっと息が詰まるほどの感情が湧き上がってきて、同じくらいの一瞬だけ唇にキスを落とした。
「……おやすみ、タナ」
背中を支えながら、タナカの身体を仰向けに寝かせる。そして、穏やかな眠りに包まれるまで傍にいる。こんなことをあと何回繰り返すのかは分からなかったが、早く終わって欲しいという気持ちにも、思うさま手をかけさせてほしいと思う気持ちにも、どちらにも嘘はない。
きっと、それでいいのだ。これから先、どんなことがあっても、彼がどんな選択をしようとも、彼の瞳の奥に金色の炎が揺らめき続け、そして彼が必要としてくれる限りは支え続けると、ジゼルはもうとっくにそう決めている。
【終】