「魚よ叫べ、鳥となれ」シリーズの3冊目。真実と、少女の正体。どうして魚を食べるのか?私であるという事はどういう事なのか?/140P・1000円
@humito727
呼ばれた場所は地下鉄に乗って二駅先の所だった。
降りてみると駅として成り立っているかもわからないほどに寂れており、駅員も乗客の姿も見えなかった。一つ街区が違えば世界が違うのに、駅一つですら治安の良し悪しが変わっていくらしい。
埜田は十街区の路地に踏み込んだ。改札を出てしばらく歩くと使われていない雑居ビルが立ち並びその隙間に入り込むようにして踏み入れる、入り組んではいるが大して迷う事はない、すぐに大通りに出られるという点もあるが、何よりこの独特の煙草の匂いを辿ればすぐにわかった。
十字路にたどり着く、遠目からでもそれは黒いビニールシートで覆われていた。それを囲うように二人の男が見下ろしている。
一人は短く切った白髪交じりの髪をした男、もう一人は学生を思わせる細身の若い男だった。
「悪いなぁ、昼から」
わざとらしい言い方をした白髪交じりの男は手に煙草を持っていた。先端は火がついており、独特な清涼感のある匂いがあたりを満たしている。手先は綺麗とはいえず、細かな傷や皺が多く見えた。
「用件は」
短く言葉を切ると、男は煙草を口につけてそれから煙を吐くとともに離した。
だから会いたくはなかったのだ。
仕方ないとはいえ、もう関わりたくない。
掻き消すかのようにして埜田も煙草を吸う。
この匂いを嗅ぐと、全身が変に痙攣しそうになる。あらゆることを思い出させる、衝動的な感覚が収まらなくなる、植え付けられた感情、それは思い出したくはないものだ。
「せっかちだな、昼まで寝てるとは羽振りがいいのか?」
「嫌味を聞かせたくてわざわざ呼んだのか?」
埜田が言うと、男は鼻で笑った。
「全く可愛くないな、お前は。あんだけ可愛がってやったのに」
「あんたの相手をしたことも、してもらったことも無い」
「……本気で受け止めるな」
白髪交じりの男、柘植はげんなりした表情をしてから顎でそれを見ろと言ってくる。視線の先は黒いビニールシートだ、人工照明の光によって明るくなった中層の街は関係なしに全てを露わにした。そしてこのビニールシートの下に何があるのかもくっきりと浮かび上がっている。
ビニールからはみ出すようにして広がっている黒いそれは舗装された道にこびりついた血液だ。
頭、胴、四肢が立体的になって見える、それが死体なのだろうという事も分かった。
「最近起きている不審事件は耳にしているな?」
柘植が若い男を見て軽く顎で促すと、ビニールがはがれ死体が露わになった。三十代後半、男、スーツと見れば会社員であろうという事は分かる、そして首がばっくりと開かれ赤と肉、わずかな骨を見せて絶命しており、かきむしったように両手を使って首を掻き切ったようにして動かなくなっている、どれだけの時間が経ったのかは分からない、だが血が渇いているのを見ると昨晩から明け方という所だろう。
銃殺でもない、飛び降り自殺にも見えず、自分の爪、指を使って首の肉が抉るまで掻いたということなのだろうか。
「突然暴れ出したり、人に襲い掛かったりするという奴か」
「そうだ、それに関係している案件を追っていてな。その中でこいつを見つけたわけだが」
男に見覚えはない、肉は無さそうに見える。しかしこんな生命活動を終えた人間などあとは捨てる他が無かった、求めるものはいつだって新鮮で、生き余っているような人間の肉だ。
この男がどういう経緯でこんな死に方をしたかは知らない、どうでもいい事だ。周囲を見る限り、暴れたような形跡はない、近くはすぐに大通りだ、人は通る方だし人目は多いだろう。
「自殺だろうな」
埜田も同意見だった。
「夕飯にはなれないな、肉が少なそうだ」
ミコトが言いそうな事を言うと、もういい加減に帰っていいかと振り返ろうとする。死体はどうでもいい、とにかくこの場から後を去りたい、煙草の匂いが変な気を起こさせる。
しかし柘植はそうはさせてくれなかった。
「見るべきはそこじゃないだろうが」
「……呼んだのはそれか」
「そうだ」
目を逸らしていた、血よりも赤くて、目に入ってしまうその死体の眼、かっと見開いたまま動かず、光は消え喜怒哀楽が失われていた、生死も無く凍り付いたその目は血染めされたように赤を帯びており、天を見たままだった。
埜田もまたミコトの眼を思い出していた、そして神楽という男もまたこのように赤い双眸を持っている。
「ミコト嬢に聞くより、お前さんに聞いた方がいいだろ」
「何故」
「そりゃあお前、お前が知らない所でミコト嬢に手を出したら嫌だろ」
「好きにすればいい、俺はあいつの保護者ではない」
「保護者以上だろ」
そんなもので済めばよかったのに。
埜田は肩をすくめた。
「想像にお任せする」
柘植はがりがりと後頭部を掻いた。
「で、言う事は?」
「死んでから時間が経ちすぎている、せっかくの食糧が台無しだ。自殺を選ぶより、誰かの胃を満たして死ねばよかったのにと感じた程度だ」
「違う、この赤い目の事だ」
「わからん」
きっぱりと答えるが柘植は納得入っていない様子だった。隣の若い男も同じようにこちらに疑念の眼を向けている。
しかし知らない事は知らないとしか言いようがない。
彼女は出会った頃から赤い瞳であった、淀みの無い純粋な赤はそう無いし目立つ、もし他の人が赤い目を持っていたとしたら印象に残るはずだ。
充血ではない、宝石のような透明度を持つ赤。
「最近の突発的な事件には共通点がある、それは死んだ奴または加害者が赤い瞳をしていたという点だ、そして大半はこうやって絶命する」
おぞましく、不可解に死んでいく。そんな奇妙な死体はまるで何かに苦しみ、藻掻いた末に死んだのだろう。単なる自殺とは思えない。
「ミコト嬢と何か関係があるのか?」
柘植の問いに、埜田はしゃがんで死体に近づいてみた。だからといって分かる事など何も無い、興味も無くぼんやりと眺める。
「あれには記憶が無い、だから素性が分からない。生まれてから赤いのか、少なくとも俺が会った時は赤い瞳を持っていた」
「本当に?」
「……どういう意味だ?」
埜田は立ち上がり柘植を見る。
柘植の表情は堅い、しかし元からだ。近づきはせずとも、言葉の圧で詰め寄って来る。
「商会」にいた頃から変わらない、やること言う事が全て追い込むようなやり口だ。その詰問するような態度が気に食わないのである。
だから会いたくないのだ、いくら仕事の関係者付き合いとはいえ、特にミコトの事には触れてほしくはない。
放っておいてくれと言いたいのだが、そうもいかないのが現実だ。
「本当に記憶を失っているのか?」
埜田は鼻で笑い返す。
「あれが嘘をつけると思うか? あんたもそれはわかっているだろ」
ミコトは嘘をついても結局の所はすぐに明らかになる、嘘をつくのはとんでもなく下手だ。それに隠せたとして隠し続けるような性格ではない、美味しい物は我慢せずにすぐ食べる。待てと言われた瞬間に動き出す、そんな少女に一時の嘘はつけても、嘘をつき続ける事なんて性格的に無理なのは埜田が一番わかっていた。
柘植もミコトとは面識がある、ミコトからすれば近所にいる気のいいおじさん程度の認識だった。柘植もミコトの事を可愛がっていた、柘植は子供好きでミコトの扱いが上手い。
「あれで嘘だったらとんだ傑物だ」
柘植はまだ納得していない表情だ、煙草を地面に捨てると再び水色の箱から煙草を取り出した。
赤い目。
神楽も赤い目をしていた、だがミコトも同様に異常な様子は無い。他の人間と同じだ、飲み食いはする、よく寝るし、口を開けば騒がしい。
それなのに違和感が残る、小さな異物が喉に引っ掛かる不快感。
「赤い目をした奴は全員死んでいる、事故死か自殺だ」
埜田は赤い目を持つ存在がまた別にいることを知っていた、それは下層にあるごみを処理する施設に潜んでいた赤い目の怪物。
以来、誰にも言えずにいる。
あれは何だったのか、ミコトも知らないと言っていた、ならば事実だ。下層で生きていた人間が知らなければ誰も知るはずがない。
異形、人間離れした怪物としか表現はできない。下層処理センターでの一件以来、遭遇はしたことはなかった。あれは幻覚だったのかもしれないと思ったが、二人が同じ夢を見る事は無いだろう。
「疑いたくはない、だがいずれミコト嬢に聞く事になる。今起きている事件の共通点は赤い目をしているという事だ。それをお前に言いたかったんだ」
「いちいち俺の許可を求めなくてもいい、だがあいつは何も知らないと言うぞ」
「お前に言っていないことがあるかもしれない」
埜田は黙ったまま遺体を見つめた。
酷く肉が抉れているのを見ると枯れた植物があるかのようだった。人はこんな風に死ねるのか、この男自身もまさかこんなふうに見下ろされているとは思っていないだろう。
どうしてこんな所で倒れていたのか、しばらくすれば回収され、何事も無かったように死体は消えていく。
そして可食部が残っていれば、その肉を抉って加工する。
そしてそれを食べる事になるのか。
「あいつが」
こんな風に死ぬのか?
そんなことを考える。
「なあ、埜田。そもそも、ミコト嬢は何者なんだ?」
柘植が言った。
「お前は死んだはずだ、下層に落とされて、死んだんだよ。皆がそう思っていた、今も思っている奴がいるのにお前は生きていて、そして何故か少女を連れていた。あの時お前は何も聞くなと言ったよな」
確かにそう言った。しかし、あの時はそう言う他がなかった。
埜田自身も生きているとは思わなかったのだ。「商会」から追放され、下層に落ちたら少女がいるなど想像なんてしなかった。落ちたら死ぬだけだと本気で思っていた。
下層は死体とゴミを捨てる場所、底が見えない闇。落とされた人間が戻ってきたなんて話は無い。
我を忘れ荒れ狂ったようなミコトを連れ、なんとか中層へと這い上がった、しかしその後の事を全く考える余裕もなく、選択の余地も無いままに柘植に助けを求めたという経緯がある。
「俺は死体以外で、赤い目を持っている奴はミコト嬢しか知らない。お前が俺の立場なら調べるだろ?」
逃がさないように煙草の煙が纏わりつき、やがては囚われる。
柘植の言う通りだと思った、自分がもし調べる立場にあれば真っ先にミコトに問い詰めるだろう。
だが彼女の正体なんてどうでもよかった。知らないままで良い事だってある、忘れているなら、忘れたままで良い事もある。
だがいずれは、目の前にやってくる。
どれだけ遠ざけても、目を逸らしても。
この世界は見たくない物を見せつけてくる。
「三森」
呼ばれた若い男がはい、と言ってから鞄の中からファイルを埜田に差し出してくる。中には数枚の資料と写真が入っているように見えた、写真にはわずかに見える赤、それは恐らく死体が映っている。
「ぜひとも協力してくれ」
「関わる気は無い、メリットが無い」
「知りたいだろう、素性が分からない物を抱えているのは不安だ、それが爆弾だったらどうする」
「そのまま死ぬさ」
視線の奥が全く見えない、腹の底が見えず探り合っても深みに嵌るだけ。
次第に柘植が諦めたようにため息を吐いた。
「なあ、あの時、お前が初めて必死になっているのを見た、だから何も言わなかった。だけどもういい加減話してくれてもいいんじゃないか? ミコト嬢はどこで拾ったんだ?」
「言っただろうが、下層だよ」
「下層で生活していたなんて到底信じられないな」
塔の街の足元、つまり自分たちが踏みしている更に真下には大きな空洞が広がっている。そこには千切れた人間の肉、人間の形をしていなかった塊、あらゆるゴミ、証拠隠滅には最適な大きな空間がある。
人が生きていけないはずの最下層で彼女はいた。
人間だったものを食べながら、そこにいた。