夏の不思議な話。
湊と壱樹
@lianmiso
「オーライ、オーライ!」
バック虚しく左翼手の2メートル後ろに白球がぽてんと落ちる。打った相手がロケットスタート。あっという間に2塁まで到達する。得点圏しかも逆転の走者が着いたことで相手の応援団がわーわーと飛び跳ねる。点を取られた監督がベンチでぱしりと膝を叩いた。
5番バッターだから長打に気をつけろと言ったのにこの体たらくだ。
「………ん?」
ペットボトルを陽に翳す。先ほどから開けてはいた。しかし、試合に集中するため飲んだのはひと口だけだ。しかし、ラベルの上部ギリギリまで減っている。
こんなに飲んだだろうか。腑に落ちぬまま監督はキャップを開けると、飲み物を喉に流し入れた。
◇
木陰の下、湊は地図を広げていた。
地図にぺたりとシールを貼る。ポタリと汗が垂れて、丸い染みを作る。
暑い。
額から頬から身体中から噴き出る汗を手の甲で拭う。
じわじわとまだ夏を告げる蝉の中につくつくほうしは混じってきたものの、まだまだ暑さは去ってくれそうにない。
ぽすり。
「わっ!?」
被せられたのは麦わら帽子。首に掛けられたのはふわふわなもの。タオルだ。
深く被せられた帽子を被り直し、振り返ると心配そうな
壱樹が立っていた。
「なーにやってんだ?帽子くらい被れ!倒れるぞ!」
場所をカフェに移した。店員が湊と壱樹の前に飲み物を置く。
喉元でつっかえた言葉をメロンソーダと共に飲み込んで、湊は再度口を開く。
「最近、ペットボトルの中身が勝手に減るっていう事があって」
事件ってほどじゃないんですけど、と湊のグラスの炭酸が弾ける。
「溢したとか無意識に飲んだとか?」
「うーん、僕も、そう思ったんです。でも、野球応援の時、よく耳にしてやけに多いなって。変だなって」
湊がグラスを揺らす。からんからんと氷が涼しげな音を立てた。
「僕もね、見た気がするんです。蓋がしてあるのに減るペットボトルの中身を」
「誰かに相談したか?」
「でも気のせいかもしれないし」
段々と言葉が弱くなっていき、「いらっしゃいませ!」と明るく響く店員の声がやけに大きく聞こえる。
「俺にも相談しろって!そんな頼りないか?俺」
「でも、何もなかったら」
今年の夏は一味違った。壱樹も多喜も外へ連れ出してくれる。霧凍も「仕事のうちです」と言いながら。
同じ日など一度もない眩しい夏の思い出を自分の勘違いなどで壊したくなかった。
「湊がそこまで気に掛かってんだから何もない訳がない…」
壱樹が目を丸くする。
「何で笑ってるんだ?」
湊が口元を押さえる。
「あはは………いや、何でもない、です」
感を、違和感を信じてもらったのが嬉しかったなんて恥ずかしくて湊には口に出せず。
「地図に貼ってあるこのシールは?」
「ペットボトルの量が減る事があった所に貼ってます」
「へぇ、よく考えたなぁ。いつからやっているんだ?」
「気付いたのが友達の野球の応援の時だから…」
指折り数える湊の指から見ると仕事の合間を縫って4日以上は調査をしているようだ。地図を眺めると市内の住宅地図に貼られている丸いシールは多くはない。
公園、塾、野球場、スポーツセンターに貼られ、個人宅は片手で数えるくらいだ。
「よくできたな!すごい!」
壱樹が褒める。湊は照れ屋で恥ずかしがり屋だ。
よくここまでできた。
褒められて湊は真っ赤になる。
「ここまで話があるとやっぱり気のせいじゃねぇだろ…ん?この家は調べたのか?」
壱樹が一軒の家を指差した。
「あ、その家。壊したみたい。住んでた人も何処か遠くに引っ越してしまったみたいで話も聞けなくて」
「この家の周り、シールが多いんじゃね?」
太い指がシールをなぞる。
まばらであるが壱樹の言う通りシールが段々とこの家の周りに近付いている。
「僕、ここに行ってみたい、です」
「じゃあ、行こうぜ」
植物の葉も水分が失われ、木の葉が風に揺られてカサカサと葉が鳴る。触れるとパラパラと砕けて形を失う。ここ最近は雨すら降っていない。
熱気で数メートル先が揺らめいて形を失い、溶けていくように見える。気温が高く出歩く人もいない。
別の世界みたいだ。
後3分ほどで着くはずなのに、いつまでもつかない気になる。
もう少しで午後2時前。今が1番暑い時間帯。
「大丈夫か?」
「あっ…………」
壱樹が湊の顔を覗き込んでいた。現実に引き戻される。
「飲み物は?」
「水なら」
ズボンのベルトにペットボトルホルダーが下げられ、天然水が揺れる。
「こーら!水だけじゃダメなのよーくわかってんだろ」
近くの自販機に壱樹が向かう。
「ほら」と差し出された飲み物を湊は「ありがとう、ございます」と受け取った。
スポーツドリンクが乾いた喉に染み渡る。砂漠に水を落とすように無限に飲める。
そういえば水分補給を忘れていた。
「ぼんやりしている…顔も赤い。熱中症じゃねぇ?」
顔を覗き込みぺたんと額に手を当て始めた壱樹に湊は「大丈夫」と笑いかけた。
「なんとなく、早く調べた方がいい気がして。壱樹さんは無理に付き合わなくても…」
「いいや、行く。お前を1人にしたくねぇよ」
手が湊の片手をすっぽりと包む。汗ばむ大きい手はなんだか照れ臭くて外気温より体温が超えてる気がした。
この暑さで元気があるのは雑草だけ。瓦礫を覆い隠している。いや、よく見れば瓦礫ではない。
「井戸、だ」
湊が駆け寄る。壱樹も続く。
「枯れちまってるな」
「ん?何か、声が」
井戸の中から声が。
湊が覗き込んだ。確かに声が聞こえた。
底から伸びた手に頭を抱えられた。
「湊!」
落ちる。落ちる。落ちていく。
体温を持たない何かに抱えられて。底にはまだ着かない。
―――みず。水をくれ。水を。きれいなみずを。かえるのに水が足りない。
幸い手は動く。
手探りでホルダーからペットボトルの蓋を外して逆さまにした。水は底へ落ちる。見えない底へ。音も吸い込まれていく。
―――乾きは消えた。ありがとう。ありがとう。よかったら君も一緒に。生きづらいだろう。異形の心臓でこの世は。変わっていくこの世は。
「いかない、よ。だって、綺麗、だから。飽きなくて」
怖くても、辛くても。世界から目を離せない。
自分も他人も動いていてキラキラと変わっていく。
同じ瞬間など無い世界はまるで万華鏡で。愛おしくて。
何より掴んでくれた手を手放したくない。
帰らないと。壱樹の元に。
湊は胸の前にそっと手を当てた。
兄弟や親のような人の元に。親友の横に。
まだそこに行くには早すぎる。
―――そうか。天より君の幸運を祈る。
体に何か巻きついた。瑞々しく青臭い新鮮な植物のにおいが鼻を突く。体が持ち上げられた。
「湊!!!」
目を覚ます。
兄貴分の瞳が心配に揺れている。
首を横に向ければ、井戸の縁からは肉のついていない手が淵に掛けられ、熱風を受けてゆらゆら揺れている。
自分の手には空のペットボトル。
夢じゃなかった。でも、不思議と恐ろしさは感じない。
ぽつんと額に冷たいものが落ちる。さらにもう一つ、二つ。
パラパラと雨が降り出した。次第に勢いを増す。
数週間振りの雨だった。
◇
後でわかった話だが井戸のお祓いも息抜きも行われていなかった。これを機に解体の儀が行われ、井戸は閉じられることになる。
発見された骨は損傷が激しく、身元が分からず共同墓地に葬られることになった。ホームレスではないか?というのが警察の見解だ。
話しかけてきたのはその人ではない。もっと別の―――
「湊、貰ったスイカで俺特製!フルーツポンチ作ったんだ。食うか?」
「食べ、ます!」
湊は席を立った。
枯れ井戸/カレイド