ギイと託生、15歳差の恋。歳上の託生と付き合っているけれど問題が山積みで、それらを解決しないことには『好き』の一言も言ってもらえない。ネタを山盛りにした結果、ギイ可哀想っ!な話になりました。
@hedgehog_218
小さな恋の物語
ピピピッ、ピピピッ……、と目覚まし時計のアラームが鳴る。暫くの間鳴り続けていたアラームだったが、漸くこの家の住人が目を覚ましアラームをオフにする。隣で眠る小さなもう1人の住人・壱佳を起こさないよう慎重にベッドから抜け出し、トイレに行って用を足してから顔を洗いに洗面所に行く。顔を洗い、髪にブラシを入れ、頭髪を整えた後は朝食作りに取り掛かる。壱佳には保育園で寂しい思いをさせている自覚があるので、時間のない朝でも朝食作りに手は抜かない。一人暮らしの経験はあり手抜き料理ばかり食べていたが、壱佳と暮らすようになり生活習慣はかなり切り替えたつもりだ。
8枚切りのパンにバターを塗り、ホットサンドプレートの型に嵌まるサイズに耳を切り落としたパンを型に嵌め、冷蔵庫から出したハムと蕩けるチーズを間に挟みスイッチを入れる。
タイマーを使い出したのも壱佳と暮らすようになってからだ。
鍋に水を張り火を点け、銀杏切りにした玉葱を投入する。冷蔵庫から出したレタスをちぎってサラダボウルに入れ、プチトマトは適当な分量を掴み取りレタスに添える。
タイマーが鳴るまでに壱佳を起こすが、こちらはあまり苦労しない。壱佳は朝に強く1度呼び掛ければ目が覚めるという、なんとも羨ましい体質だ。
「壱佳、朝だよ〜」
朝に強くても暫く布団の中でモゾモゾしていた壱佳だったが、パチっと目を開け、
「たぁくん、おはよう」と挨拶する。
「おはよう」
寝起きの悪い託生と違い、しっかりとした足取りでベッドから下りてトイレに行く。けれども、まだ5歳児なのでトイレで失敗することは多い。
壱佳がトイレに行っている間に託生は身支度を整える。子供相手の職場だからスーツではないが、長袖のシャツにジーンズ姿だ。
童顔とも、女顔ともいえない中途半端な顔の造りだが、偶に居酒屋に行ってビールでも注文すると年齢確認をされる。同僚の章三はどう見ても二十歳の男の顔をしているので、呑みたい時には彼を誘うようにしている。
「壱佳、トイレできた?」
トイレの扉をノックしながら聞くと、弱々しい応答がある。パンツを汚してしまったのかもしれない。
シャワーで身体を洗ってから朝食にしようと思い、タイマーがまだ鳴っていないのに気付く。取り敢えずコンロの火とプレートのスイッチを止めて壱佳を風呂に入れることにする。
「開けるよ〜」
トイレの扉を開けて壱佳の様子を見ると、おしっこがうまく便座まで届かず床や便器の縁に掛かっていた。ズボンもパンツもグシャグシャだ。
「たぁくん、ごめんなさい〜」
「謝ることないって。ぼくも壱佳くらいの時、よくやった」
壱佳のパジャマのズボンとパンツを足首から抜き取り、壱佳を抱えて脱衣所に突入する。シャツの袖とジーンズの裾を捲り、浴室で壱佳のパジャマの上着も脱がせてしまうと、温度調節したシャワーを身体に掛ける。ボディーソープを掌で泡立て壱佳の身体に擦りつけていく。
「熱くない?」
「うん」
壱佳の身体を洗い、シャワーで泡を落とす。
「ごめんね」
託生が壱佳に謝る理由は1つしかない。
託生が勤める祠堂保育園は金持ちの子息や令嬢が集まる。両親は会社経営に忙しく、園児たちは決められた通過点のように祠堂保育園に入園する。先生方は勿論平等に園児に接するが、まだ何も知らない園児たちは親に言われたーーーーー同じカーストの園児とばかり遊ぶ。決して楽しいとは言えない保育園に毎日通う壱佳が不憫だ。いじめがないのが唯一の救いだ。
「大好きなたぁくんがいるから楽しいよ?」
「ありがとう」
濡れた壱佳の身体をバスタオルで拭き、脇の下に腕を差し込んで壱佳を脱衣所に下ろす。
こんな小さな子供の大好きにも託生は簡単に答えることができない。壱佳が大好きと返されるのを待っているのはわかるが、頑なな託生の心は溶けそうにない。
「朝ごはん作らなきゃなんだけど、1人で着替えられる?」
「任せて」
壱佳の返事を聞いた託生が箪笥からパンツと今日着て行く服を出し壱佳に渡す。
「今日は牛乳……」
飲もっか?と続けようとした託生に被せるように、
「いらない」ときっぱり即答される。
壱佳がそうなった理由を知っている託生も強く言えない。
「オレンジジュースは?」と聞くと、
「飲む」
1人で着替えられる壱佳を脱衣所に残して託生はキッチンに移動する。
途中で止めたコンロの火とプレートのスイッチを再び入れ、ホットサンドプレートは念の為開けてパンの焼け具合をみる。黄金色にする為にはもう少し火を通した方がいい。
「もうちょっとだな」
そのタイミングでタイマーのアラームが鳴り、オフにして玉葱の火の通り具合をみて冷蔵庫から生卵を取り出し、器の中で割って溶く。沸騰した鍋に塩胡椒で味付けを薄めに入れた後、溶いた生卵を投入する。お玉で攪拌していると着替え終えた壱佳がキッチンに入って来る。コンロの火と、ホットサンドプレートのスイッチを切って壱佳の着替えを手直しした後、食事中に着るスモックを手渡す。
「暑いよ〜」
「そろそろ半袖を出しておくね」
スモックを着た壱佳をリビングの椅子に座らせ、託生は朝食をテーブルに並べる。冷蔵庫から壱佳のオレンジジュースを出し、グラスに注ぐ。託生も席に着いた後、掌を合わせ、
「「いただきます」」
「どうぞ召し上がれ」
食後の後片付けを託生がしていると、壱佳にシャツの裾を引っ張られて水を止める。
「お薬は30分以内だよ」
「そうだった」
1回抜いたらどうなるのか。試したことはないが、多くの人に迷惑を掛けることはわかる。
冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、テーブルの上に置いた後、薬袋から朝食後の薬を取り出して飲む。吸入も忘れない。
「歯磨きしよっか」
しっかり者の壱佳は既に歯ブラシを洗面所から持って来ていた。
託生がリビングの床に座り、壱佳が膝の上に頭を乗せる。保育園では立ったまま歯磨きをさせるが、壱佳の母親が膝枕で歯磨きをしていたので託生は後を継いでいる。歯磨きをした後、脱衣所の洗面所の前に小さな踏み台を置いて壱佳に口を濯がせる。
この踏み台には壱佳1人では決して登らせない。
「もう少し時間があるからタブレット見てていいよ」
登園前にタブレットを見るのは壱佳の日課だ。
保育園にタブレットを持って行くのは保育園のランク的に禁止されていないが、サラリーマン家庭の壱佳が高額なタブレットを見ているといじめに発展しそうで、託生は禁止している。その代わり今日読む絵本を家から持って行ったりする。保育園にも絵本はあるが、園児たちはタブレットで絵本を見ているので数が少ないからだ。
食器を片付けた後、トイレの掃除をしているとスマホのアラームが鳴る。平日にセットしてあるアラームは、保育園に行く時間を示している。他の園児たちはもっとゆっくり登園するが、託生は出勤しなければならない時間で、家族の壱佳も一緒に登園する。
「壱佳、行くよ〜」
「待って〜」
バタバタと壱佳が走って来る。スモックを脱がし、保育園の鞄を提げさせた後、
「今日は何を見るの?」
「ぐりとぐら」
「好きだね。ぼくも好きだった」
「でも、保育園にはない」
この家にある絵本は殆どが託生の実家から送られてきたもので、過去に託生だけでなく兄の尚人も見たものだ。絵本には3人の名前が書かれていて、改めて両親の愛を感じる。
玄関の脇に置いてある壱佳のヘルメットを被せ、手を繋いで家を出る。
鍵を掛けた後、エレベーターで1階まで降り、裏口に回り駐輪場に向かう。電動アシスト自転車の鍵を解錠した後、駐輪場から出し、広いエリアでもう一度スタンドを立てる。壱佳の身体を抱き上げ、電動アシスト自転車のチャイルドシートに座らせる。
この瞬間は本当に大きくなったと実感する。
病院に彼女の見舞いを兼ねて壱佳を見に行った時は本当に小さく、手なんて小さ過ぎて握れず、託生が指を1本近付けると小さな掌で一生懸命握ってきた。懐かしいでしょ、なんて母に言われたが、託生に当時の記憶はなく、この頃から今の自分の姿をみると生命の神秘を感じる。
「じゃあ、行くよ〜」
「頑張れ〜」
壱佳が腕を振り上げて託生を応援する。
街の樹々が青々と繁る中、この地域特有の爽やかな風が吹いていた。
コンコンコン、と3回保健室の扉をノックした託生は、応えを待たずに扉を開ける。
園長室など自分より立場が上の人に対しては応えを待つが、保健室の主の中山は職種は違うし、年齢も上だが、そういったことにこだわりがないのと、手すきでない場合が多いので皆ノックだけして勝手に扉を開けている。
「親御さんは?」
「佐智くんのお母様が来て下さるそうです」
保健室に入った託生は、突然倒れた園児ーーーーー義一が眠るベッドの脇に丸椅子を持って来て座る。
顔色はよくなっているが、さっきは色白な義一の顔が真っ赤になっていて、高熱を出したのかと心配した。義一の口元に紙袋を被せていると、荒かった呼吸も落ち着きをみせた。中山の指示で保健室に運び入れ、託生は義一の家族に連絡を取って来たところだ。
意識はないが、額に掌を当てて熱を測ると微熱があって、風邪のひき始めかもしれない。
「ご自宅でも過呼吸を起こしたことはないと仰っていました」
過呼吸は精神疾患をもつ人がよくなる症状だが、5歳児の義一は健康優良児で、メンタルクリニックの通院歴もない。
「風邪が原因で過呼吸になる症例って初めてです」
「風邪じゃないね」
託生の想像を一刀両断にして中山が否定する。
中山は保健室にセットされているコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注ぐと、託生に手渡す。
中山のマグカップは奥様とペアのデザインで、託生に渡されたマグカップはその他大勢の先生方も使う真っ白なマグカップだ。
ベッドにコーヒーの染みをつける訳にもいかず、託生は保健室の中央に置かれている楕円形のテーブルへと移動する。
「でも、微熱ですが確かに熱も出てます」
「託生先生。状況を整理しますと、新しく赴任してきた託生先生が義一くんと佐智くんに自己紹介をしたんですよね」
一緒に入った章三は他の園児に、託生と同じように挨拶して回っていたので現場は見ていない。
「先にぼくが挨拶をして、義一くんは何て言うのか待っていたんです」
声が出せなくなったのか、義一は託生の顔を見たまま固まったように動かなくなった。気が付くと義一は口をパクパクと開け閉めし、一生懸命息をしようとしていた。過呼吸を起こすと思った託生は、周りにいる先生に紙袋を持って来てもらうように頼んだ。
義一が倒れたのはその直後だ。
託生がガードして頭を打つことはなかったが、既に意識はなかった。
「惚れられたかな」
「相手は5歳児ですよ」
「まあまあ。コーヒーでも飲んで。向こうじゃ水も飲めないだろう」
中山の勧めを、ありがとうございます、と言ってコーヒーを1口飲む。
「ビリビリってきちゃったんじゃないかなぁ~」
「ビリビリ?雷に打たれたんですか?」
「義一くん的には正にそうだね。運命の相手」
就職して初日でこんな事態になるなんて予想もつかなかった。保育園の先生が園児に恋される現象は短大でも話には聞いていた。けれど、まさか自分に降りかかってくるなんて思ってもみなかった。
「でも、義一くんは2年後にはアメリカに帰る子ですし」
園児が薄情なのは実際に託生がそうだったから知っている。
託生が通ったのは保育園ではなく幼稚園だった。幼稚園の先生に恋をするような男の子でもなかったが、幼稚園を卒業して小学校に入学すると幼稚園の先生の名前など忘れてしまった。託生の幼馴染の彼のことは小学校も同じだったので覚えていたが、彼から幼稚園の頃の話を聞かされても記憶に残っていない事象の方が多かった。
「普通の出会いなら忘れるかもね。でも、義一くんは雷に打たれた。余程のことでもない限り忘れないよ」
壱佳も義一と同じ5歳児だが、託生と一緒に暮らしているので忘れられることはない。
「たぁくん」
小さな声がして振り返ると、保健室の扉を開けたところに壱佳が立っていた。小走りに走ってきて託生の胸に掌を当てる。
「息、苦しい?お薬、飲んだ?」
壱佳は託生の身体に不具合が起きて保健室に来たと思ったらしい。
「心配してくれてありがとう。でも、ぼくは何ともないよ」
「誰か苦しくなった?」
託生はマグカップをテーブルの上に置き、壱佳の手を引いて義一が眠るベッドの傍らに立つ。
「彼は崎義一くん。壱佳と同じ5歳で、ひまわり組。壱佳と話すようなことはないと思うけど覚えといて」
「偉い人の子供?」
「壱佳と友達にはなれないだろうけど、もし義一くんが苦しそうにしてたら、誰でもいいから先生を呼んでくれる?」
「たぁくんと同じ病気?」
「心の病気かな。毎日の生活が安定していれば問題はないから何もないかもしれないけど」
「わかった。保育園にもお医者さんがいるならたぁくんも診てもらいなよ」
ちゃっかりした壱佳の発言に苦笑が漏れる。
「葉山壱佳くん、こんにちは」
ベッドに来た中山が壱佳に挨拶する。
壱佳も保育園1日目なので、見知った顔は託生と章三。それに、保育園に入園する手続きで会った園長の島田だけだ。
「保健室の先生の中山です。託生先生の身体のことは聞いているので心配しなくていいよ」
壱佳のことは中山に任せ、託生はベッド脇の丸椅子に再び座る。
もし、本当に義一に恋されていた場合、託生はどんな態度を取ればいいのかわからない。彼女と別れて僅かしか経っていないとはいえ、もう託生に恋をする情熱は残されていなかった。
崎義一、御歳5歳。
ただいま人生を謳歌しています。
ポンポン、と軽く肩を叩かれ振り向くと、幼馴染の佐智が立っていた。
「なんだよ」
今、託生ウォッチ中なんだ。くだらない用件なら張り倒すぞ。
……とは託生の前だし、義一くんって乱暴者、などと思わせないためにも口にしない。義一がいい子でいれば裕明や島岡は喜ぶだろうが、正直義一の知ったこっちゃない。
義一と託生が出会ったのは桜咲く今年の4月。
2年前、来日した義一が祠堂保育園に入園したのは、母親が妹の絵利子を生んだからだ。
ただでさえ育児は大変なのに引っ込み思案な義一は母にべったりで、どこへ行くにも母の後をついて回っていた。裕明は仕事で忙しくしていて、義一を始め、絵利子の面倒は母と、それぞれの乳母に一任している。けれど、母以外に懐かない義一の将来を案じた母が裕明に相談し、多少強引だが母と距離を置いて生活させよう、と遠く離れた日本に、裕明の秘書の島岡とやって来たのが始まりだ。勿論、島岡にも仕事があり、義一は祠堂保育園という、かつて裕明も通っていた保育園に入園することになった。
アメリカ人の義一は琥珀色の髪の毛と、同じ色の瞳。日本人より白い肌の色を異質なものと園児たちに捉えられ、園児たちは義一を遠巻きにしていた。当然、友達も出来ず、義一の様子を遠く離れたアメリカで知った母は、幼馴染の佐智を同じ保育園に途中入園させた。
都合よく当時、佐智は幼稚園にも保育園にも通っていなかった。
佐智を目に入れても痛くない程溺愛している佐智の父親が、佐智1人を見知らぬ環境に置くのを躊躇った為で、義一と一緒なら、というのと、裕明と佐智の父親は親友で、佐智の父親も祠堂保育園出身だったので、祠堂ならば、と佐智を通わせた。
佐智の父親も仕事で忙しくしていて、2人が住む家は崎家の別荘で、義一と佐智の送り迎えは朝は佐智の母親のマリコが、帰りは仕事帰りの島岡が担当した。
島岡はFグループ東京支社に出向中で、朝は誰よりも早く起きて東京まで行く。一方のマリコは専業主婦だが、ゆったり別荘生活を満喫している。
佐智が入園し、義一と片時も離れずにいると、日本人の佐智がいる所為か、義一にも話し掛けてくる園児が現れるようになった。
日本語を習い始めたばかりの義一は、他の日本人の園児たちと遜色ないくらい日本語が達者になったが、気持ちが昂ったり喧嘩をしたりするとマシンガンのように英語で喚き散らす。一方の佐智は日本生まれ日本育ちで公用語も日本語だが、幼馴染の義一がアメリカ人なので日本語と一緒に英語の教育も受けていた。従って、義一の英語が飛び出す場面になると、佐智が仲裁に入る構図ができ上がっていた。
ここに母がいればまた状況は変わったかもしれないが、義一がホームシックに掛かることもなく、園内ではわんぱく坊主になった。
面白みのない……と言ったら佐智がブチ切れるだろうが、退屈な生活は2年で終了した。託生が祠堂保育園にやって来たからだ。
園児と大分コミュニケーションが取れるようになったといっても、初対面ではやはり引かれる。だが、託生は初対面でも義一に話し掛け、いい子いい子と頭を撫でてくれた。
『葉山託生です。よろしくね』
可憐な花が咲き綻ぶような笑顔を見て、義一の心臓はバクバクと早鐘を打ち鳴らし、呼吸が乱れる。あ、これは過呼吸だ、と認識した時には、義一は意識を失って倒れていた。
「義一くん。向こうで由美ちゃんが呼んでるよ」
由美というのは桜庭コンツェルンの1人娘の名前だ。
ここ、祠堂保育園は全国から各種企業のお坊ちゃん・お嬢ちゃんが集まる、所謂富裕層向けの保育園だ。右を見ても、左を見ても金持ちだらけの祠堂でただ1人、託生はパンピーだった。
「また託生先生見てたの?」
義一の視線の先を目で追った佐智が、ふふふ、と意味深な笑い方をする。
「なんだよ」
「諦めた方がいいんじゃない?」
義一の目の前で黒板の文字を消していた託生が黒板消しを両手に持ってスニーカーを脱ぎ、サンダルを突っ掛けて園庭に出る。黒板消しについたチョークの粉を黒板消しクリーナーで落としていく。吸引される粉が殆どだが、あたりにチョークの粉が舞うのは仕方がない。
チョークの粉を吸い込んだのか、託生が激しく噎せる。
咄嗟の判断で遊戯室を走って出た義一は、自分のロッカーからプラスチック製のコップを取り出し、洗面所に向かう。蛇口を捻って並々と水を注ぎ、託生のところまで走って持って行く。
義一が通った後にはコップから溢れた水が床を濡らしているが、後で拭けばいい。
「たく……」
義一の足が遊戯室の真ん中で止まる。
託生は同僚の章三に背中を摩られていた。
園庭には運動場で遊んだ園児たちが直ぐに手を洗えるように、室内のものより個数こそ少ないが水道の蛇口がある。背中を摩られ咳の止まった託生は、外の水道で水を掬い、口の中を濯いでいた。
「気管支弱いんだから、こういうのは僕に言えよ」
託生の気管支が弱いなんて知らなかった。託生と章三は同じ短大を卒業したと島岡から聞いたが、同級生がそんなことまで知っているものだろうか。
「あ」
「何?」
章三の魔の抜けた声を訝しく思ったのか、託生が振り返り義一と目が合う。
突っ掛けていたサンダルを脱ぎ、靴下だけで託生が義一に駆け寄る。
「ぼくが咳してたから、お水を持って来てくれたんだ」
フリーズする義一の前に膝をつき、目線を合わせて頭をいい子いい子、と撫でてくれる。
「ありがとう、義一くん」
義一の小さな手からプラスチックのコップを受け取った託生は室内の洗面所に行き、既にうがいは済んでいたが義一を傷付けない為に口を濯いでくれる。
指先が熱い。
コップを託生に渡す時に、微かに互いの指先が触れ合った。託生は気付きもしなかったが、義一の指先はジンジン熱をもって疼いていた。
「コップもありがとう」
洗面所から戻って礼を言った託生は直ぐに遊戯室を出て行き、洗面所から遊戯室まで、義一が濡らした床を掃除用具を入れたロッカーからモップを出して拭く。託生を手伝おうと洗面所に走って行き、雑巾で床を拭こうとしたが託生に止められる。
「でも、オレが零したから」
「うん。その姿勢は偉いと思う。でも、佐智くんが義一くんと話したがってるよ?」
そういえば由美が呼んでるって言ってたな。どうせ告白とわかっている。
奥ゆかしい日本人あるあるで、最初は砂場で遊んだり、滑り台で滑って一緒に過ごした後、義一くん、好きです、と告白されるのだ。
佐智が入園するまではなかったセレモニーが、佐智という緩衝材を経て行われるようになった。
義一がエンジェルならば、佐智は日本人形のように可愛らしい、とよく言われる。みんな、外見に惑わされてるだけだ。確かに他の園児よりは可愛いだろうが、だからといって義一のことを知っている訳がない。義一がどういう人間かもわからずにする告白を本気と受け取れなかった。
「義一くんが好きです」
義一が由美の待つ砂場に行くと、いきなり告白劇は始まった。しかも、砂場のど真ん中で。
由美は顔を真っ赤にして相当の覚悟で告白したようだが、義一の胸に響くものがない。義一は由美を好きではないのだから当然の反応だ。
「義一くん?」
反応を示さない義一を訝しく思った由美が、義一の傍の佐智を見る。
日本語が駄目なら佐智に英語の発音を教えてもらい再チャレンジするつもりだろうが、義一の心は由美には靡かない。
もしかして、これは義一と託生のパターンでもそうだろうか、と考える。勿論、由美が義一で、義一が託生だ。今の義一と託生の関係ではあの優しい微笑みで、ごめんね、義一くんは園児だから、と断る場面が簡単に思い浮かぶ。
「義一くん、返事しないと」
いつまでも黙ったまま突っ立っている義一の袖を軽く引き、注意を促す。
「オレ、好きな人がいるし、由美を前にしてもここがドキドキしないから、無理だ」
ここ、と自分の左胸。心臓の上をトントンと指し示す。
初めて託生に会った時の胸の高鳴りは恋で合っていると思う。さっきも託生の指先に触れて義一の指先がまるで凍傷になったみたいにジンジン痺れた。こんなに自覚症状が出ているのに恋でない訳がない。
「その子だと、義一くんはドキドキするんだ」
ドキドキなんて生優しいものじゃない。呼吸さえうまくできなくなり、託生に告白もしないまま死ぬのかと思った。
「その子に内緒で私とも……とかは?」
保育園児が二股とか、親はどういう教育してんだよ、と思ったけれど、5歳児の義一と二十歳の託生の恋も同レベルだ。けれど、義一はこの初恋を諦めたくない。初恋は実らないものと相場が決まっているが、だからこそ足掻きたい。
「無理。そんなことしたって誰も幸せになれない」
義一は自分に後ろめたく感じるし、由美には時間を浪費させるだけだ。もし、託生が義一と由美が付き合っていると知ったら、誤解させる。義一が告白しても、本気と受け取ってもらえなくなる。
「佐智、行こう」
そろそろお昼寝の時間だ。
遊戯室に出ている玩具を片付け、布団を敷くのだが、先生たちだけでは大変だ。その他にも園児にパジャマを着せたり、トイレに連れて行く仕事がある。
お昼寝の時間は、遊戯室いっぱいに敷かれた布団に園児たちは雑魚寝する。遊戯室の照明が落とされ、園庭とを隔てる硝子窓にはカーテンが引かれるが、太陽の日差しは薄暗くなって届く。
薄暗い遊戯室で布団に寝ていた義一は薄目を開け、隣の佐智の様子を窺う。佐智は掛け布団を跳ね除け、大の字になって寝ていた。熟睡モードだ。
義一はそうっと布団を捲り這い出ると、足音を立てないように遊戯室を出る。
こういうことは初めてではない。先生たちも義一がお昼寝の時間に抜け出していることを知っている。託生が来る前は先生たちの部屋で時間を潰していたが、託生に恋をしてからは託生のところに行く。園児たちがお昼寝をしている時間、託生は裏庭の花壇に水やりをしていることが多かった。
「託生先生」
今日も花壇の水やりをしていた託生は、義一の顔を見付けるとフワッ、と柔らかい微笑みで迎えてくれる。
「また眠れなかった?」
上呂に入っていた水を全て花壇の花にやると、水道の傍に上呂を片付けて義一のところにやって来る。
「昼寝ができないんだよなぁ〜」
「夜は寝られてる?」
「いつも食事の途中で睡魔がやってきて、島岡が部屋まで運んでくれる」
「緊張してるのかな?」
「先生がいれば、オレはどこでも寝られるじゃん」
託生は精神安定剤だ。
壁に凭れるようにしゃがみ込んで託生ととりとめもない話をしているうちに義一は船を漕ぎ、瞼は下がりいつの間にか寝入ってしまう。託生の膝を枕に貸してもらったこともあるし、託生が着ていたカーディガンをパジャマの上から掛けてもらったこともあるが、その間、義一はピクリとも目を覚さなかった。
そういう事情があるので、他の先生たちも義一と託生のことを問題にしないのだ。
義一の耳にタッタッタッ、と誰かが走って来る足音が聞こえ、閉じ掛けていた瞼を開ける。走って来たのは章三だった。
「章三、どうしたの?」
借りていた託生の膝から頭を持ち上げ、章三を睨む。
もう少しで眠れそうだったという理由ではなく、自分と託生の邪魔をする程の理由とは何だろうと考える。
「壱佳が熱出しちゃって」
壱佳は義一と同じひまわり組の男の子だ。親は余程忙しい仕事をしているのか、壱佳は毎日かなり早い時間に登園し、いつも1番最後まで残る。島岡も忙しくしているが、義一が壱佳より遅く帰ったことはない。
「わかった。……義一くん、先生、病院に行かなきゃならないから、先生たちの部屋でみんなが起きるの待っててくれる?」
託生の仕事の邪魔をしたい訳じゃない。わからないのは園児が熱を出したり、怪我をして病院で診てもらう場合、保健室の中山が応急処置をしてくれるが、必ず親が迎えに来て、親が病院に連れて行くのに、何故託生がしなければならないのか、だ。
パジャマのまま保育園の正門のところに行くと、チャイルドシートが装着された電動アシスト自転車の後ろに、熱の所為でぐったりした壱佳を乗せ、託生は章三に何度も頭を下げていた。
壱佳の苗字って何だったっけ、と考えて息が止まる気がした。
葉山壱佳。
託生は二十歳だけれど、親子の可能性もない訳ではない。今時の若者は中学生でも妊娠してしまえる程栄養状態もよく、医療設備も整っている。今まで託生は結婚していないと漠然と信じ込んでいたが、実は可愛い奥さんがいるのではないか?託生と壱佳が親子なら、毎日早い時間に登園し、最後に帰るのも肯けた。託生の左手の薬指に結婚指輪がないのは、仕事の邪魔になるからかもしれないし、細い指から指輪が誤って抜けてしまい、それを園児が飲み込む可能性もあるからだ。
託生が結婚していたとわかっても、義一はこの初恋を諦められなかった。
裏庭の花壇の花に水をやった後、壁に凭れて座り込み、エプロンのポケットからスマホを取り出す。
壱佳の熱は、リンゴ病というウィルス感染する病気だった為、病院の医師に診断書を書いてもらって保育園を休ませている。託生にも仕事があり、勿論実家の母ーーーーー琴子の手を借りるが、彼女にもすべき家事や用事があり、こちらには昨日の夕方着いた。託生は壱佳の看病をしなければならず、昨日は1日休みを取った。
休み明けの今日、いつもなら現れる義一が来ないので、スーパーの値引き商品をスマホでチェックする。
「レノアはマストだな。後は……」
納豆と食パン、それから壱佳がいないので5kgの米。
託生と壱佳だけならばパンで代用するが、琴子が来ているので米も今は必需品だ。
「お米を買うならこのくらいが限界かな。……っと、ジュースを忘れるところだった」
牛乳も欲しいけれど、重量オーバーだ。壱佳に牛乳を飲ませたいけれど、好き嫌い以前の問題で壱佳は牛乳を飲まない。壱佳の気持ちもわかるし、今は病人だから好きなジュースを飲ませてあげたい。
「買い物リスト?」
スマホの画面に集中していたので、人が来る足音に気付かなかった。咄嗟にスマホをエプロンのポケットに仕舞い顔を上げると、果たして章三が立っていた。
「びっくりした~」
「義一くんかと思った?」
「遅いから寝れたのかな?とは思ったけど」
章三も託生の隣にしゃがみ込み、エプロンのポケットからスマホを取り出し、まるで時間潰しのように弄り始める。
「昨日は1日機嫌が悪かったからな」
「珍しいねぇ」
義一は園児だけでなく、先生方ともコミュニケーションを取るのが上手い。入園するまでお母さん子だったと聞いているが、少なくとも託生の前でお母さんに会いたい、と言ったことはない。
「買い出し、僕が行こうか?」
章三は祠堂に車で出勤している。抑も、祠堂は山奥の辺鄙な立地に建てられた富裕層向けの保育園で、最寄り駅からは市営バスが通っている。駅からはバスで約1時間の旅だ。園児は各家庭の送迎車で送迎されるのが普通で、例外は車に乗れない託生と、託生の犠牲になっている壱佳だけだ。
「おばさんはもう、こっち来てるんだろ?なら、僕が買い物を済ませてマンションに届けるけど」
「悪いよ」
託生の家庭環境を知っている章三は、何でもしてやりたくなるから頼ってほしい、と常日頃から口癖のように言っている。託生の身体を考えると、章三としては当然の行為だ。
託生が健康体だったら、片道1時間半も壱佳を電動アシスト自転車の後ろに乗せて起伏のある山道のペダルを漕がない。章三が毎日託生のマンションに寄り、託生と壱佳をピックアップして車で祠堂に登園する。それ以前に、託生も車の免許を取るだろうし、何よりこんな辺鄙な田舎に住まない。
「いつでも頼っていいんだぞ」
託生が倒れたら壱佳の面倒をみる者がいなくなる。保育園にも通えなくなるが、今回のように琴子の手を借りることになる。琴子は可愛い孫の為手伝ってくれるが、彼女も歳老いて以前のように身体が動かない。
「じゃあ、頼んでいいかな?」
「おう。車だから変な遠慮するなよ」
早速エプロンのポケットを探り、ボールペンとメモ用紙を取り出し、今日の買い物リストを書き出していく。
託生も章三も短大は東京だったが、道路を走る車の排気ガスで託生は度々喘息の発作を起こしていた。態々空気の悪い東京の短大を選んだのは、保育士になるのに講義を担当する教授陣が精鋭揃いだったからだ。章三は子供好きなだけで短大を選び進学したが、短大で知り合った託生が身の丈に伴わない頑張り屋だったので、託生をサポートしたいと思い、卒業後も一緒に連んでいる。
「モテモテだな」
ふと、章三が言う。
視線はスマホの液晶を見たままなので空耳かと思ったが、続けて義一くん、と言われて何のことかわからず聞き返す。
「義一くんが何?」
「恋してるだろ」
「ぼくが?義一くんに?」
ありえない。
相手は5歳児で、歳の差は15歳。犯罪の域に達している。
「そんなことないよ」
託生は誰にも恋しない。
高校の卒業式に告白された元カノの橘ゆかりとの関係はほぼ良好で、婚約までした仲だった。短大を卒業後、結婚する予定まで立てていたのに、彼女を連れて静岡の実家に帰る日、託生はゆかりに振られた。
「託生じゃなくて、義一くん。託生に惚れてるって」
「いや、無理だって。だって相手は5歳児だよ?犯罪だよ」
「それは今だから気になるんであって、義一くんが15くらいになったら気にならないって」
「でも、たとえそういう風に感じられるようになっても無理だよ」
「何で?」
「だって、義一くんはアメリカのFグループの御曹司だよ?たとえ、万が一にもぼくがアメリカに行けたとして、飛行機の中で死体になってる自信がある」
「大袈裟だな」
「でも、たとえ生きてアメリカの地を踏めたとして、義一くんの実家のマンハッタンの空気でぼくは死ぬ」
東京の排気ガスで駄目だったのに、東京より人口密度の高いマンハッタンの車の量は考えが及ばない程多いと思う。そんな中で喘息の発作が起きない確率は0に近い。
「それに卒園したらぼくのことなんか忘れるよ」
保育園児の記憶程あやふやなものはない。今は毎日楽しく過ごしているが、卒園して小学生になったら今よりもっと多い情報量に呑まれて保育園に通っていた時の記憶なんか薄れていく。
「義一くんが忘れるか?」
けれど、どんなに想われていても、2度とあんな思いをしたくない。あの日以来、乗り物酔いをすることは勿論だが、乗り物に乗ることに恐怖を感じている。その為、たとえ相手が気心の知れた章三でも、託生は車に乗らなくなった。
「託生先生」
同じ保育園で働く真行寺が走ってやって来る。真行寺が託生に用がある時点で用件が想像できる。
「すんませんっ。6月の遠足なんすけど、ばあちゃんの法要とぶつかっちゃって」
遠足の予定は昨日の会議で決定した筈だ。託生は始めから頭数に入れないでほしいと前以て言っているので気にも止めなかったが、行けない先生が出るかもしれないことを失念していた。
遠足にはマイクロバスを借りて現地に行くのだが、託生は車に乗れない。酔い止めの薬を飲んでも、それでも酔うので島田の判断で移動を伴うものの場合は、保育園で事務処理をすることになっていた。けれど、今回は日曜日で、基本的に保育園は休みだ。
「市内だったよね」
「そうっす」
保育園まで電動アシスト自転車で壱佳を送り届け、園児の出発は見届けず託生はその足で現地に向かう。日曜日なので仕事のない父兄も一緒にマイクロバスに乗るので、職員は楽できる。
「いいよ。ぼくが行く」
「僕は反対だ」
章三が立ち上がって真行寺に立ち向かう。
「確かに市内だから自転車で往復可能だが、喘息の発作が起きたらどうする?」
確かに車道は車通りが激しいところもある。車道の脇を走る自転車はもろに排気ガスを吸う。
「マスクするから平気だよ」
「それに、仮に託生が救急搬送されたとして、兼満先生がいないということは三洲先生も不在なんだろう?」
三洲は託生の担当医師で、真行寺のパートナーでもある。毎日飲む喘息の薬は勿論だが、念の為、酔い止めの薬も処方して貰っている。
「そうっすけど、他の先生もいるし、アラタさんが申し送りしといてくれるって」
「確かに託生は診てもらえる。でも、託生が病院に運ばれたと聞いた壱佳の気持ちはどうなる?どんなに大丈夫だと言われても気休めにしかならない。他の先生は空いてないのか」
託生に懐いている真行寺が休暇を取る度に自分の受け持ちを託生に頼む回数は比較的多い。託生も苦にならない性分だし、保育園で移動を伴う行事に参加できないこともあり、誰か困っていると直ぐ手を出してしまう。
「わかりました。章三先生の言う通りっす。他の先生に聞いてみます。甘えて頼んだりして、すんません」
ペコっ、と勢いよく頭を下げて走り去って行く。
真行寺の代わりをしてやりたいのは山々だが、章三の言い分も尤もだ。
「壱佳のこと、よろしくお願いします」
章三に頭を下げると、肩をポンポンと叩かれる。
「託生は出来ることだけすればいいんだ。無理を押せばどうしたって身体に影響する」
壱佳の為。
悔しいが章三の言う通りだった。
一昨日、壱佳を病院に連れて行った託生は保育園に戻って来なかった。
仕事が忙しい壱佳の父親に代わって、家に着いて託生が壱佳の看病をしたのかもしれない、とまだ託生結婚説を信じ切れないもう1人の義一が言う。
翌日は託生も保育園を休んだ。壱佳は熱が出ているという話だったから、まだ風邪が治っていないと考えれば当然だ。
もしかしたら、義一の想像通り、壱佳の父親は託生で、昨日の休みも壱佳の看病だったのかもしれない。そうすると、託生は既に結婚していて、家にはかわいい奥さんがいる。
だが、そうなると昨日の休みの理由がわからない。奥さんがいれば託生が保育園を休んで壱佳の看病をする必要はない。
わからなければ聞けばいい。
義一は布団の中からこっそり抜け出し、遊戯室を出た。
「義一くん」
薄暗い廊下に佐智の声が響く。周りに賑やかな園児がいないから、余計に大きな声に聞こえる。佐智の対処をしなければ、他の園児も起きて来るかもしれない。託生に会うことばかり気にして、隣の布団の佐智に今日は注意を向けていなかった。
「義一くん、今までにも何回かお昼寝の時間抜け出してるよね」
どう見ても熟睡していた佐智だが、お昼寝が終わる時間に義一は託生の膝枕で眠っていて、佐智が目を覚ました時に隣にいなかったこともあるので、バレて当然だ。佐智の様子だと先生たちの部屋も探した雰囲気があり、正直に告白する。
「ここだと響くから移動しよう」
託生が結婚しているのか、聞けなくなったがまだ時間はある。今日、託生が保育園に来たのは、奥さんが壱佳の看病をしているからかもしれない。
「先生、部屋の隅っこでいいので貸してください」
義一は佐智の手を引いて先生たちの部屋に入って行く。この部屋で先生たちは雑談や、保育園のイベントの打ち合わせをするので、他の園児より情報は早い。
義一と佐智が部屋の隅っこで体育座りをすると、先生の1人が飴玉を持って来て義一と佐智の口の中に入れる。
「ここで聞いたことは秘密にしてね」
「わかったか?」と義一は佐智に確認を取る。
この部屋のルールを義一は既に知っていた。
「それで、どこに行こうとしてたの?」
義一にとっても、佐智にとっても、互いに隠し事は今までなかった。佐智は口が堅いけれど、今まで義一が見てきたのは熟睡している佐智で、だが、それは理由にならない。義一と佐智はいつも一緒にいて、保育園から帰る時も、家に着いた後も一緒だからだ。
「オレたちが昼寝してる時間、託生先生は裏庭にいるんだ」
「お昼寝の時間なのに、託生先生は何も言わないの?」
「去年まで、オレは家で食事中、睡魔に負けてダウンしてただろ」
「島岡さんが寝室に運んでた」
「オレが託生先生を好きなのは知ってるだろ?」
「義一くん、顔真っ赤にして倒れたもん。あの時、託生先生が義一くんを抱き留めて保健室に運んでくれたんだよ」
倒れた直後のことは知らないが、気が付くと託生が心配そうな顔をしていたのは覚えている。保健室には中山という立派な医者がいるのに、義一に付き添ってくれたことが嬉しかった。
「昼寝の時間なのに、オレは眠れなかったんだ」
「1度も?」
「託生先生は緊張してるのかも、って言ってた」
「おばさんがいないから?」
「それは克服したと思う」
託生に会って。それに、今は佐智もいる。
「裏庭で託生先生の隣に座ってるだけで自然と眠れるんだ。だから、今年になってから、食事中に潰れることは少なくなっただろ?」
「そういうことだったんだ」
昨日、託生が保育園を休んで、壱佳もいなくて、胸の奥にグルグルと汚いものがいっぱいになって、去年までのように他の園児を誘ってハードな遊びをしたくなった。この遊びでは最終的に喧嘩が勃発するような要素が含まれていて、佐智には絶対に加わるな、と言い含めている。放任主義の裕明なら元気で何より、と気にも止めないが、佐智の父親は違う。喧嘩に発展するような遊びに佐智を交えたら、父親たちの間にも亀裂が走る。
「昨日の義一くん見て、珍しいって島岡さんが言ってた」
託生が休みだった昨日は、身体を動かして遊んだ疲れもあるだろうが、お昼寝の時間は眠れず、先生たちの部屋で時間を潰した。家に帰って食事の時間に睡魔に勝てず、島岡に部屋まで運ばれた。
「託生先生が結婚してるか気になって、聞きに行こうとしたんだ」
「結婚してるでしょ」
「なんで?」
「だって、壱佳くんいるし」
「苗字が葉山ってだけだろ」
「でも、託生先生が壱佳くんを病院に連れて行ったよ」
義一も考えたことを次々上げられると反論の余地もない。奥さんと幸せに暮らしているなら家庭を壊すことはできないが、かといって諦めることもできない。
「僕が聞いてあげようか?」
「託生先生に?!」
同じ聞くなら義一本人が聞くべきだ。
「僕の恋人に」
「お前、恋人いんの?!」
義一の恋も問題だらけだが、佐智が恋をするなんて、相手ではなく、主に佐智の父親が卒倒しそうな問題だ。
「SPの聖矢さん。聖矢さんも僕が好きで、結婚もしてない。優良物件だろ?」
年齢はわからないが、優に義一と託生の間にある年月を超えていると思う。要は託生より老けて見える、ということだ。
その時、ガラっと部屋の扉がスライドして開き、完全に意気消沈した真行寺が入って来る。
「託生先生は何て言ってました?」
先生の1人が真行寺に聞く。託生の名前が出て、義一は耳をダンボのように大きくする。
「託生先生は良いって言ってくれたんすけど、章三先生に理路整然と反対されて……」
浮かれて忘れていたが、託生のバックには章三がいる。章三は託生が最も信頼している先生で、義一は2人の関係も怪しいと思っている。不倫なんて言葉は託生に似合わないが、佐智の言うことが事実ならそうなのだと思う。
「先生、何の話?」
口止め料の飴玉は貰っている。託生に関する情報なら喉から手が出るほど欲しい。
「みんなにはまだ内緒にしててね」
「はい」
後ろを向いて確認を取るように佐智を見る。佐智もうん、と大きく頷く。
「6月にバスハイクで動物園に行くんだけど」
託生と一緒に動物園!保育園では一緒に食べられない弁当も一緒に食べて、移動は託生と手を繋いで……
「あっ、日曜日だからお家の人も一緒よ」
島岡は運転席の真後ろに座らせ、義一は託生と後ろの方の先生たちの目の届かない席に座り、プライベートな話をする。時々目を見交わして隠れてキスをする。
パラダイスだぁ~~~~~!!!
「でも、託生先生は乗り物全般が駄目でね。園長先生と話し合って移動ものは頭数に入れない取り決めができ上がってるの」
そんなぁ~~~~~!!!
託生と初デートがっ!
「なのに、何で兼満先生は託生先生に聞きに行ったんですか?」
ショックを隠し切れない義一に代わり、佐智が聞く。
「そりゃ、託生先生って優しいでしょ?密かに狙ってる先生方、多いのよ」
「でも、託生先生って結婚してるんですよね?」
「あ〜、壱佳くんね」
既婚者とは言わなかったが、子供として壱佳の名前が出た。これは結婚はしたが、離婚か死別したかで奥さんはいないということかもしれない。
「先生方~~~っ!それより俺の代わり、どうしましょう」
「簡単じゃない。おばあさまの法事を前後にずらせば済むでしょ」
「そんな~~~っ!アラタさんとのデートが~~~っ!」
真行寺が頭を抱えてしゃがみ込む。
「兼満先生は法事とデート。どちらが本命?」
「勿論、デートっす」
託生が来られないなら、誰が引率でも構わない。義一はそれ以降の会話を意識的にシャットアウトした。
「アラタ先生って保育園にいました?」
佐智の問いに真行寺ではなく、他の先生が答える。
「兼満先生のパートナー兼、託生先生の主治医。市立病院に勤務してるイケメンドクターよ」
託生の名前が出た途端、義一の耳は再びダンボになる。
「託生先生、どっか悪いんですか?」
「ん〜?喘息って聞いたことある?」
「実際の症状は見たことありませんけど、名前だけなら」
「呼吸器が弱い人に多いみたいなんだけど、すっごく胸が苦しくなって、息ができなくなるの」
呼吸器が弱い話なら、章三が話していたから知っている。
「それって放っておいたら?」
「義一くん。あなた、お昼寝の時間、託生先生と一緒にいるでしょ?」
「はい」
「託生先生が激しく咳込んだり、苦しそうにしてたら、周りの人に助けを求めて」
それは、放っておいたら死ぬ、ということではないか。そういう理由ならば章三が託生を構うのも納得がいく。
ピピっ、ピピっ、ピピっ……、とアラームが鳴る。
義一はこの音の意味を理解していたが、先生たちの部屋に入るのが初めての佐智は辺りをキョロキョロ見回している。
「お昼寝終了の合図だよ。眠くない?」
「なんか凄い話が出てきて、眠気が吹っ飛んだ」
確かに。
佐智が調べるまでもなく、託生が結婚していて、既に奥さんはいなくて、遺された壱佳を育ているのはわかった。更に、乗り物が駄目で、喘息持ちなことも。
「先生。それじゃ、壱佳の風邪が遷ったら凄い大変ですよね?」
既に立ち上がっていた先生方が一斉に義一を見る。
「壱佳くんのは風邪じゃなくて、リンゴ病っていう子供が多く罹る病気だから、大丈夫よ」
託生には遷らない病気だと聞いて、義一はホっと胸を撫で下ろした。
ゼフュー、ゼフュー、と身体の内側から笛が鳴るような音が漏れている。早めに薬を吸入しなければ大事になると思い、託生はいつも身に着けているエプロンのポケットを探る。指先に触れた薬のキャップを外し、口に充てて薬剤を吸入する。
梅雨時になるとどうしても薬剤を吸入する回数が増える。予定では薬剤の残量が半分程の筈なのに、今掌にある吸入薬は軽い。
島田に事情を説明して有給をもらい、病院に行かなければならない。
運の良いことに、壱佳の送迎が今日はない。
「結構降ってるな」
遊戯室の硝子扉に寄り掛かって外を見るとはなしに見ていた託生の肩に章三の大きな掌が置かれる。続けて、大丈夫か?と託生の体調を気遣う言葉も。
数時間前まで傘をさした父兄や、父兄に頼まれたSPが園児と一緒に帰って行く光景が広がっていたが、下園する時間を過ぎて残っている園児は壱佳の他に2人しかいない。
「先に帰るか?それとも休んだ方が楽?」
どんなに託生の身体を気遣っても託生の苦しみは章三にはわからない。けれど、章三は託生が頼りやすいようにしてくれる。
「雨、降ってる、から、壱佳、を、家まで、送ってもらう、けど」
返す言葉も途切れがちになる。
雨の日は、章三に壱佳の送迎を頼んでいる。壱佳に雨合羽を着せて電動アシスト自転車に乗せるのは可能だが、いくら合羽を着ていても1時間半も壱佳と雨の中飛び出すのは風邪をひかせるかもしれないし、雨の日は視界も悪く事故るかもしれない。
自分の子供でない分、余計に慎重になる。
「壱佳、を、頼める?」
「了解。三洲先生に来てもらった方がいい?」
「薬、も、あるし、行ける」
残る園児は義一と佐智だけだから、然程苦労はない。
「兼満、先生は、帰っ……ゲホッ、ゴホッ」
肺から押し上げられた空気が塊になって出る。その後は痛みと苦しさで言葉にならない。
「託生先生?」
託生の様子を見ていたらしい義一の心配そうな声色が耳に届く。大丈夫、とまだ意思表示できることを証明するように、片手を上げて見せた。その拍子に吸入薬が手から離れ、カツン、と床に跳ね返る音がする。タタタッ、と軽い足音が聞こえ、章三がありがとう、と礼を言う。園児の誰かーーーーー恐らく義一だーーーーーが吸入薬を拾ってくれたのだろう。
「託生先生、具合が悪いからちょっと寝かしてくるな」
章三に肩を貸してもらい遊戯室を出て行く託生の後ろを義一も追う。だが、
「義一くんは向こうにいて」と章三に言われ、目の前で先生たちの部屋の扉が閉められる。
どうして壱佳は託生先生の側に付き添わないのだろう?自分の父親が心配じゃないのだろうか。まさか、自分の父親の病気を知らない訳じゃないだろう。
タタタッ、と遊戯室に走って戻ると、壱佳の前に仁王立ちになる。普段、壱佳と遊ばない義一が彼に近付くことさえ珍しく、佐智も義一と壱佳の様子を遠巻きに見る。
「託生先生が心配じゃないのか?」
絵本を見ていた壱佳は顔を上げ、義一を視界に入れた後、また絵本の続きを見る。そんな壱佳にムッ、とした義一は、壱佳が読んでいた絵本を取り上げ、床に投げ付ける。
「何するんだよっ!」
怒りのまま立ち上がった壱佳が義一にタックルを決める。後ろ頭をぶつけるゴンッ、という音の後は素早く起き上がった義一と殴り合いの喧嘩になった。
佐智が止める間もない。
直ぐ隣の先生たちの部屋にまで物音が聞こえたのだろう。数人の先生たちがやって来て、義一と壱佳を引き剥がす。
その中に託生と章三の姿はない。
「何があったの?!」
腰に手を当てて義一と壱佳に厳しい視線を送った先生が聞く。
「託生先生が死ぬかもしれないのに、悠長に絵本見てる壱佳に腹が立って」
「あれくらいじゃ死なないよ」
壱佳の口振りを想像すると、もっと酷い発作に託生が見回れたことがあるようだった。けれど、だからと言ってちっとも心配しないのはおかしい。
「てめえっ!」
再び義一が壱佳に突撃するが、今度は先生たちに阻まれる。
「壱佳くんもそんな言い方しないっ!」
託生に彼女がいないなら、彼氏に立候補したかった。託生が結婚してると聞いて、託生の旦那さんになりたかった。託生に子供がいると知って、託生の子供になりたかった。託生と一緒に暮らせる壱佳が羨やましかった。
「僕がいても……、たぁくんの苦しみがなくなる訳じゃない。苦しくても、たぁくんは僕のことを考える。そんなたぁくんに……、僕は何もしてあげられない。だったら、邪魔にならないようにするしかないじゃん」
壱佳の頬を涙が伝う。
その言葉を聞いて、義一は自分のことしか考えていなかった、と気付かされた。
自分たちはまだ子供で、役に立てることなんかない。だから、壱佳はせめて苦しむ託生の邪魔にならないように、絵本を見ていたと知った。
「ごめん。オレ、壱佳の気持ち、全然わかってなかった」
「義一くんはたぁくんが好き?」
「大好き。結婚したかったんだけど、奥さんがいるんじゃ」
たとえ、壱佳の母親が離婚していないか、死別していない事情があったとしても、情の厚い託生が元奥さんを忘れられるはずがない。
「怪我の手当てするぞ」
ファーストエイドキットの箱を持って来た中山に義一と壱佳は囲まれ、大人しくその場に座り込む。壱佳の気持ちを知った義一が距離を取ることはない。
「結婚してないよ」
先生から怪我の有無を診てもらっていた壱佳が呟くように言う。
目から鱗の情報を聞いて、ハァッ?!と裏返った声が出る。
「でも、壱佳のお父さんだよな」
「違うよ。僕のパパは仕事でアメリカにいる。たぁくんはパパの弟」
壱佳からみれば叔父だ。けれど、何故、壱佳を託生が育てることになったのか?母親は何をしているのか、がわからない。
「お母さんは?」
「死んじゃった。パパは仕事でアメリカだし、たぁくんも学校に通ってたから、僕はおじいちゃんおばあちゃんに預けられてた」
「お父さんとお母さんがいなくて、寂しくない?」
「義一くんだって」
義一の両親は2人とも生きていて、壱佳とは違う。会いたいと思っても会える距離ではないが、電話で声を聞ける。
「うちは生きてるから」
「僕にはおじいちゃんも、おばあちゃんも、たぁくんも、遠いけどパパもいるけど、たぁくんは1人なんだ。みんな僕を愛してくれるけど、たぁくんは愛されることを拒絶する」
「何で?」
それは、恋人はいらないということだ。
託生くらいの年齢ならば恋人を作るのに一生懸命で、将来結婚して、一緒に暮らす計画を立てる最も幸せな時期だ。
「ごめん、わかんない。でも、たぁくんに呼ばれておじいちゃん家に行ったパパが凄く怒るし、おじいちゃんは倒れるし、滅茶苦茶だった」
「はい。仲良くなれたとこ悪いんだけど、傷の手当てするからちょっと黙って。義一くんは後頭部を打ったんだよね。吐き気はない?」
先生に呼ばれて保健室から駆け付けた中山が先に義一の治療をする。ふと、見れば遊戯室の外では島岡が怖い顔をして立っていた。
「壱佳くん。託生先生は病院に連れて行くことになったから、章三先生とお家で待ってて」
「お留守番くらいできる」
「でも、おばあちゃん帰っちゃったでしょ?託生先生もいつ戻って来るかわからないから」
「オレも託生先生ん家に行く」
遊戯室の入り口で革靴を脱いだ島岡が靴下のまま、義一の側に立つのがわかった。中山が義一と壱佳が殴り合いの喧嘩をしたことの経緯を話す。
「申し訳ありません。託生先生には後日改めてお詫びに伺う旨、お伝え願えますか」
まるで託生の家に寄らないような口振りにムッ、としてもう一度、
「託生先生の家に行く」とがんぜない子供のように我儘を言ったが、願いは聞き届けられなかった。
朝食の最中にも拘らず三洲はスマホのアプリを操作し、最新の情報を入手するのに余念がない。行儀が悪いのはわかっているが、病院に勤める三洲は入院患者の他に外来も受け持っているので、朝は情報収集の時間に当てている。同棲した当初は真行寺が子供のようにむくれたが、夕食時は会話をすると約束し、真行寺が折れる形になった。ただのSNSのチェックなら真行寺も不機嫌になり止めさせるが、朝のチェックは人命に関わる。
三洲と真行寺の出会いは、三洲が勤務する市立病院だ。
祠堂保育園では職員の健康診断先の病院を決めていない。頼れる人もいない田舎の保育園に赴任してきた真行寺は、1人で市立病院に健診に来た。複数ある診察室には医師も複数名いて、真行寺を担当したのが三洲だった。
朝食抜きの健診を終え腹が限界まで減っていた真行寺は、病院の最上階の食堂を利用しようとエレベーターに乗った。エレベーターの扉が閉まる寸前、両方の腕をグググっと張り、無理やり扉を押し開いて乗り込んで来たのが三洲だ。三洲も食堂を利用しようとエレベーターに乗ったようで、人混みに紛れて2人は最上階で降りた。
この偶然を後に真行寺は神様の思し召し、と公言して憚らない。
「一緒していいっすか?」
中華丼の列に並ぶ三洲の後ろに真行寺が並び、会話のキャッチボールを試みる。特に中華丼が食べたかった訳ではないが、診察室でパソコンに向かう三洲の横顔を見て、真行寺のハートにエンジェルの矢が刺さった。
「山奥の祠堂保育園の保育士をしてる24歳独身、真行寺兼満。只今フリーっす」
「どこかでお会いしましたか?」
「酷いっ!5分くらい前まで密室で2人きりだったのにっ」
診察室には担当の看護師もいたが、自分の仕事で忙しく、真行寺が三洲に色目を使っていたことなど気付きもしない。当然三洲はそんな真行寺に気付いていたが、診察室を出れば見ず知らずの他人になると思っていた。
「病気の方が敬遠しそうな方ですね」
「はいっ!餓鬼ん時にインフルやって以来健康そのもの。毎年、健康診断ではA判定っす」
前の方に並ぶ客が中華丼を受け取ったので、三洲と真行寺も1歩前に進む。
「この食堂のシステムはご存知ですか?」
前の方の客を見ると、何か薄いカードのようなものを持っているのに気付き、慌てたように真行寺が列から飛び出す。
「中華丼っすね、買って来ます」
真行寺が食堂の入口の脇に立つ自販機の方に走って行く。その後ろ姿を眺め、
「馬鹿め」と三洲は呟くが、前後の客の耳に入らない。
この食堂では食券制度はなく、代わりに食堂内の全ての商品を購入出来る電子カードを購入する。値段は1000円、3000円、5000円があり、職員の三洲は既に5000円のカードを持っていた。
ネームカードを入れているカードケースから件のカードを抜き出し、カウンターのトレイの上に載せる。
知らない振りをした真行寺の名前も顔も、三洲の優秀な脳味噌にインプット済みだ。ただ、真行寺が昔飼っていた犬によく似ていたから揶揄うだけのつもりだった。
受け取り口まで進み、三洲が中華丼の丼とレンゲをトレイに載せる。いつもならここでカードで精算するのだが、何を思ったか、もう1つ、中華丼の丼とレンゲをトレイに載せる。支払いは2人分だが、支払機にカードを挿入しても1人前の金額しか引き落とされないので、2度挿入する。律儀に列の最後尾に並んでいる真行寺を名前で呼ぶと、満面の笑みを浮かべて三洲の方に走って来る。
「お前の分だ」
「ゴチになりますっ」
「誰が奢ると言った。カードは買って来たんだろ?」
「はい、1000円のを」
「それを俺が貰えば万事解決だ」
「やっ、でも、中華丼って340円」
この食堂はリーズナブルで味もいい。市立病院の食堂としては恵まれた環境だ。
「健診の結果を聞きに来た時にまた一緒に飯を食えばいいだろう」
厳密にいえば三洲の取り分の方が多いが、懐の狭い奴と思われるよりはいい、と判断した真行寺は買ったばかりの1000円のカードをトレイの上に置き、三洲から重いトレイを受け取って空いているテーブルを探した。
それに、また三洲とランチデートができるのだ。
真行寺が焼いた朝食のプレーンオムレツはもう冷たくなっている。いつもなら一度見たアプリを繰り返し開いたりしない三洲が、メッセージアプリや気象アプリを繰り返し見る。
「託生先生っすか?」
「葉山さんだけじゃないが。やはり昨日のことがあるからな。それにまた気圧が下がってる」
昨日、市立病院に来院した託生は点滴を投与し、呼吸機能の検査結果も正常値に落ち着いたので、真行寺が送って帰って行った。三洲はその日、時間外受け持ちではなかったので、帰って来た真行寺から話を聞いただけだったが、翌朝になっても雨が止まず、気圧も下降しているので、余計に気になった。更に、託生が倒れた場合、頼りになるのが6歳児の壱佳しかいないことも心配だった。
三洲と壱佳の出会いは、祠堂保育園に赴任してきた託生と章三を連れて真行寺が市立病院に行ったことがきっかけだ。まだ保育園に入園していない壱佳を託生は連れて行き、託生は三洲の診察を受けた。
問診で託生に極度の乗り物酔いと、喘息があったので、三洲は託生の家庭環境を聞き、その上で壱佳にキッズ携帯を渡した。
託生に何かあった時にボタンを1回押すだけで三洲のスマホにメッセージが届くという優れ物で、提携しているMRが持って来たものだ。
「もう起きてる時間だし、電話……」
しますか?と真行寺の言葉に被せるように三洲のスマホが鳴る。真行寺が設定した緊急用で、救急車のサイレンだ。本物はドップラー効果があるが、この音は狭いリビングで鳴り響いている。
素早く三洲がスマホを手にし、発信者を確認する。その間にも先方は余程焦っているのか、メッセージの『SOS』の吹き出しが何度も立ち上がる。
「壱佳くんだ」
「車出します」
その間に三洲は救急車の手配をして家を飛び出す。
今までにも壱佳からSOSが届いたことはあったが、連打されたことはなかった。
「真行寺っ、スマホっ!」
真行寺に車の運転を任せ、三洲は真行寺のスマホで託生の家の固定電話を鳴らす。いくら三洲の受け持ちの患者でも、託生の自宅マンションの電話番号は登録していない。
SOSに気を取られていたら壱佳の耳に入らないが、電話を取れば壱佳は少しは安心する。三洲は気付いてくれ、と祈るように電話を掛け続けた。
章三が自宅マンションで出勤の支度をしているとスマホが鳴った。
今日も雨が降っていたので壱佳の送迎連絡が託生から入ったと思い、深く考えずにスマホの液晶画面を見ると、相手は託生ではなく真行寺からだった。途端に悪寒が全身を掛け巡る。
「はい」
電話の向こうから壱佳の泣き声が聞こえる。
滅多に泣くような壱佳ではないが、託生の身に異変が起こったのだろう。異変に気付いた壱佳が、三洲に渡されたキッズ携帯でSOSを伝えた。
「俺です。すみませんが祠堂には休みの連絡を入れさせてもらいました。これから病院に来てもらえますか?」
普段の真行寺からは想像もつかない敬語で用件だけを伝えられ、章三はわかった、と短く答える。
昨日、託生を診察した医師の落ち度はなかったと思うが、念の為一泊でも入院させればよかったと思ってしまう。或いは託生のマンションに泊まり、様子を見ればよかった。少なくとも壱佳に怖い思いをさせることはなかった。
車を飛ばして病院に着き、受付で託生の名前を告げると、ICUに入っていると教えられた。
病院の廊下に貼ってあるカラフルなビニールテープが恨めしい。病院に来る人たちの大半は自分の足で病院を去ることができる。身体に異常があって検査が必要でも、ICUに行くようなことはない。
小走りになってICUに向かうと、廊下の合皮のソファーに真行寺が座り込んでいる。真行寺に抱かれた壱佳がいた。
「兼満先生」
救世主にでも会ったような顔で真行寺が振り返る。釣られて章三の顔を見た壱佳はまた泣き出してしまった。
「兼満先生、託生は?」
「取り敢えず一命は取り止めました。お呼びしたのは、これからのことをアラタさんからも話したいみたいで」
ICUの室内を硝子窓から覗き見ると、三洲が託生のベッドの傍に立ち、繋がっている計器類の数値を見ている。託生の身体にはたくさんのチューブが這っていて、この中の1本でも不具合が生じれば託生の生命も危ぶむ。
自動扉を開けて三洲がICUから出て来る。
「相談室にご案内します」
真行寺もソファーから立ち上がり、歩き出し掛けたが、真行寺に抱かれている壱佳が真行寺の胸を打って足を止めさせる。
「ここにいる。たぁくんの傍にいる」
先日、誕生日を迎えた壱佳はまだ6歳だ。病院で蛮行に及ぶ人はいないと思うが、絶対ではない。何しろICUの前の廊下は人があまり通らない。
「事務の人間を借りて来ます」
三洲が正面玄関の方に歩いて行き、外来会計の制服を着た女性にカウンター越しに話し掛ける。頷いた女性は同じ制服を着たスタッフに事情を説明し、三洲と一緒にやって来た。
朝早い時間帯だったから外来会計はまだ稼働していなかったのが幸いした。
壱佳が女性と一緒にソファーに座ったのを見て、三洲を先頭にして真行寺と章三は歩いて行く。行き着いた相談室は正面玄関の直ぐ先にあり、ICUから2分と離れていない。たとえ僅かな距離でも壱佳は託生の傍にいたいし、2分の距離でも6歳の壱佳を1人にしない三洲の配慮はありがたい。
相談室に入ると、白いテーブルが1つ、向き合うように4つの椅子があり、三洲は奥の椅子に座る。相談室まで章三の前を歩いていた真行寺が扉側の奥の椅子に座り、章三はその手前に座った。
「飲み物も何もないのですが」
「構いません。壱佳も心細いでしょうし」
「そうですね。少し葉山さんと話ができて、保育園は辞めるとおっしゃっていました」
園長の島田に話を付けてくれ、ということらしい。
「葉山さんにはお伝えしてあったのですが、山道を1時間半掛けて自転車を漕ぐのは健康な成人男子でもキツいものです。少しは呼吸器官が丈夫になっていたと思いたいのですが、やはり梅雨時は負荷がいつも以上に掛かります」
三洲の話は託生からも聞いたことがある。その為、気圧の低い雨の日は時間を気にせず託生が登園できるように、章三が壱佳の送迎役を買って出ていた。託生が保育園を辞めれば章三がその役割を担うが、少しも負担ではない。
「僕が壱佳の送迎をします」
「ちょっといいっすか?」
「なんだ」
「託生先生が保育園を辞めるのは残念だけど仕方がないってわかるっす。けど、またいつ心臓が止まるかわからない託生先生を壱佳くんとこの町に住まわせるより、実家の静岡に帰った方が良いんじゃ。……そりゃ、電車に酔うのはわかるっすけど、ちょっと我慢すれば静岡だし、そこから移動する訳じゃないし」
真行寺は保育園に届け出ている事情しか知らないから、最善の方法を提案する。
「兼満先生。託生には実家に帰れない理由があるんです」
章三がトラウマにもなった忌まわしい日の出来事を明かす。
高校の卒業式の後、同級生の女子に告白されて、託生は彼女と付き合うことにした。章三の目にも彼女との交際は、金銭面を除けば巧くいっているように思えた。託生も彼女に好意を寄せていたし、デート代に駆けずり回るのが男の甲斐性だとも思っていた。
託生が彼女にプロポーズした時も、一緒に実家の両親に会ってほしいという託生の頼みも彼女は笑顔で受けた。
東京から静岡まで新幹線で1時間の距離だが、乗り物酔いが激しい託生は彼女に前以て申告していた。婚約した彼女に吐瀉物の片付けをさせるつもりのなかった託生は自分でエチケット袋を複数用意して新幹線に乗った。特別な日でも酔ってしまった託生はエチケット袋に物音を立てないようにリバースした。彼女は一切手を貸さない。
途中駅に停車する新幹線が徐行し始めると、窓際の席に座っていた彼女が突然立ち上がり、体調の悪い託生を押し除け新幹線のデッキに向かう。彼女に何が起きたのかわからないまま、託生もよろめきながらデッキに向かうと、彼女は無言で途中駅で下車してしまった。
「何その女。最低っすね」
彼女を追いたいけれど託生は実家に行って彼女が来られない訳を説明しなければならない。
静岡で新幹線を降りて酔いの幾分楽になった状態で託生は彼女に電話をしたが、託生の番号は着信拒否されていた。仕方なく1人で実家に帰って事情を説明したが、父親の雅美も兄の尚人も激怒して散々な帰省になったと言っていた。
東京に戻ったら彼女の家に行ってみるよ、と託生が実家を出ようとした時、突然雅美が頭を抱えてのたうち回った。何が起こったのかわからず、兎に角救急車を呼んで病院に着くと緊急手術が始まった。
くも膜下出血だったそうだ。
「怒りでお父さんの血管、ブチ切れちゃった、ってことっすか?」
「そういうこと。以来、託生は家族に後ろめたくて実家に帰れないんだ。こっちにおばさんを呼んだのは、相手が壱佳だったからなんだ」
いくら両親と疎遠になったといっても孫の壱佳に関わることならば託生は両親に頭を下げる。両親も壱佳は可愛く、雅美の介護がなければ引き続き両親が壱佳を育てたかもしれない。
「それで、ここから先は託生の両親も知らない話なんだが……」
「もしかして、二股っすか?」
就職先が決まった託生と章三はお祝いを兼ねて東京のレストランに壱佳を連れて食事に来ていた。食事が終わり、引越し先の町より東京の方が品数が豊富なので、帰りに壱佳の服をデパートで見ていた。
ふと、マタニティー売り場で会計をしているカップルに目が止まる。女の方は連れの男と腕を組み、左手の薬指にはダイヤの指輪が輝いていた。彼女のお腹は僅かに膨らんでいた。
託生が彼女と付き合い始めたのは高校を卒業した後だが、彼女は託生と章三の通う短大にも顔を出していたので、章三にもその人物が託生の彼女だとわかった。
「えっ?!わかんないっす。葉山さんの子供を妊娠しておきながら違う男と結婚?」
「そうじゃない。託生は彼女に指1本触れていない。勿論、キスも」
「付き合ってたっすよね?」
「まだお互いに未成年だったから、責任の取れる歳まで待ってたんだ」
「託生先生らしいな。でも、今時の女って肉食系が多いから、託生先生みたいな考えは鼻で笑うっすね」
「もし、ご両親に他の男の子供を妊娠した彼女を合わせていたらどうなったと思う?」
2人とも頭の血管がブチブチ切れまくっていただろうし、ありえないはずのお腹を見たら卒倒して天国に旅立ちそうだ。
「あー、ご両親厳しそうっすね」
「それだけじゃない。ふしだらな女に引っ掛かったと託生を責めるだろう。そういうこともあって託生は静岡に帰れないんだ。おじさんも身体に麻痺が残ったから、おばさんとヘルパーさんとで介護してる」
ある意味、彼女も託生に抱かれなかったのはかわいそうとも言えるが、託生に性的なアプローチをしてきた彼女に託生ははっきり、二十歳になるまでそういうことをしない、と告げ、彼女も了承していた。それらを覆す何かが彼女にあったのは確かだが、既に託生は人に愛されることに興味を失ってしまっていた。
託生は翌日、保育園に来なかった。いつもと違う雰囲気に気付いたのは、朝の登園時だった。
いつもは託生と章三が園児を出迎えてくれるのだが、その日は2人ともいなくて、あまり園児の前に顔を出さない園長の島田が門の前に立っていた。
前の日に託生は具合が悪そうにしていたから、今日は大事をとって休むことにしたのかもしれない。章三は託生に付き添っているのだ。勿論、壱佳も。
他の園児に、託生先生は〜?と聞かれる先生たちも、暫くお休みするって、と答えているから、託生の体調はあまり良くないのかもしれない。
けれど、託生と一緒に休みを取った章三のことを園児が聞かなかったことは本人は知りたくないだろう。
託生がいないので運動をして昼寝の時間に備えようとして園庭を見渡すと、いつも園児に混じって走り回っている真行寺もいないことに気付く。
真行寺は、託生の主治医の三洲と恋人同士と聞いた。託生の身体の具合が悪くて、章三と真行寺が付き添っているということだろう。
こんな時、自分がただの園児の1人に過ぎないと実感する。先月誕生日を迎えて6歳になった壱佳でも、辛くても託生の側にいられるのだ。
園庭に出て、他の園児に混じってサッカーをした。
祠堂保育園は駅から車で1時間の山間の辺鄙なところに建つ所為か、1つ1つの施設はかなり広く場所を取っている。園庭を走り回りながら、先生が3人もいない大変な時なのだから昼寝の時間はしっかり眠ろうと思っていた。けれど、いざ昼寝の時間になるとやはり託生が気掛かりで眠れず、夏掛けの布団を剥いで遊戯室を出た。隣の佐智を見ると、ぐっすり寝入っているので起こさなかった。いつもより口数の少ない義一と一緒にサッカーをした佐智は、疲れ果て熟睡していた。
足は自然と裏庭に向かっていた。いつも花に水をやる託生がいなくて、花も喉が渇いていると思ったからだ。託生が休みの間、欠かさず水をやっていたら、託生が出て来た時に褒めてもらえると思った。
「目が覚めてしまったかな?」
裏庭で花に水をやっていたのは、島田だった。島田だったら園長だから託生の具合も知っているかもしれない。
「託生先生は大丈夫ですか?」
Fグループの社長令息の義一相手ならば島田はきちんと向き合って話してくれる。他の先生たちは義一を子供扱して当たり触りのない話で誤魔化されがちだが、島田は違う。
「託生先生が心配?」
「凄く」
喘息のことは少し調べた。壱佳の病欠を除けば託生が保育園を休んだことはなくて、けれど体調が悪いのを押して来ていることはわかった。
「章三先生や、兼満先生も休んでいるのに、託生先生だけが心配なんだ」
義一の気持ちを知らない島田ならばそう聞くのは当然だ。
「託生先生が体調崩しているの知ってるし、章三先生や兼満先生は託生先生の付き添いだと思うし」
このまま島田に打ち明けていいのものか、わからない。
義一は男で、託生も男。5歳の義一と今は結婚出来ないが、大人になれば歳の差なんて障害にもならない。託生のハートを射止めるのはこれからの課題として託生にアプローチしていくだけだが、日本では同性同士で結婚出来ないと法律で決まっている。日本でも同性で結婚と同じような意味をもつものを地域的に認めるようになったが、義一は託生と結婚したかった。
「し?」
「誰にも言わないって約束してくれますか?」
「島岡さんや佐智くんにも内緒?」
「島岡と佐智は知ってます。そうじゃなくて、保育園の先生とか、他の園児に知られると託生先生が困るから」
保育園には若い女の先生もいて、託生は優しいから人気が高いと聞いた。他の園児に知られてもアプローチ次第で託生のハートを射止める自信はあるが、先生を蹴落とす自信はない。義一が託生と結婚出来るまで後最低13年掛かるので、その間に託生が他の先生と結婚するとも限らない。義一が託生を狙っていると知られると、結婚を前倒しにされる恐れがあった。
「それで、内緒にしてほしいことって?」
ドキドキした。
5歳児が二十歳の託生を好きになって、結婚を考えていると言って信じてもらえるだろうか?
「託生先生って付き合ってる人、いるんですか?」
何故、託生先生が好きなんです、と言えなかったのか?このままでは、託生に告白もできない。義一は自分が臆病者であったことを初めて自覚した。
「なんで託生先生のプライベートなことを義一くんに教えなきゃいけないのかな?」
日本には個人情報保護法というのがあって、園児のプライベートなことを他の園児の親に教えられないばかりか、先生のプライベートも園児には伝わらない。卒園アルバムにも園児と先生の顔写真は載るが、住所は掲載されない。
「託生先生が好きだから。結婚したいから。でも、好きって言う勇気がない」
「どうして?」
言ってもいいのだろうか?義一の求婚は託生に迷惑を掛けることにならないか。
「オレが結婚出来るまで、託生先生を待たせてしまうから」
「婚約しておくって方法もあるね」
託生とフィアンセになっていれば、今のような不安は感じないのかもしれない。
でもね、と島田は続ける。
「義一くんがこの保育園にいる間は託生先生を好きかもしれない。けれど、保育園を卒園して小学校に上がったら?中学生、高校生、大学生。それぞれの場で出会いがある。託生先生より義一くんとフィーリングの合う人が現れて、その人といる方が幸せに思えてくるだろう。そうしたら、待たせている託生先生はどうする?託生先生のことだから、義一くんの言葉を信じて待つだろうね」
「告白するなってことですか?」
「義一くんは保育園を卒園したら、アメリカに帰るんだよ?」
両頬を掌で張られたような衝撃だった。託生が祠堂に来るまで、毎日のように早くアメリカに帰りたいと思っていたのが嘘のようだ。
ふと、携帯の着信音が鳴り、島田がポケットから携帯電話を取り出し、液晶画面に表示された発信者を確認する。義一に片手で拝むような仕草を見せ、義一から十分距離をとったところで相手と話し出す。
託生に関する電話と想像はついたが、島田が聞かせたくないと思っている以上、後をつけて盗み聞きする訳にはいかない。
保育園を卒園した後、アメリカの小学校に通うことは前々から決まっていた。たとえ、日本に残ったとしても小学校に入学する義一と、保育園に残る託生ならば、島田の言う通り告白しない方が良いような気もしてくる。託生への執着がどれ程のものか想像もつかないが、義一を好きではない託生が結婚するチャンスを奪っていい訳がない。
「話し途中で悪かったね」
「託生先生ですか?」
「章三先生だった」
電話を掛けられない程、託生の具合は悪いらしい。
次の予想もしていなかった島田の言葉を聞いた義一は尻餅をついてしまった。
「返せっ、返せよぉ〜っ!」
泣き叫ぶような声を耳にした義一は、開いていたタブレットのページを閉じて視線を声の方に向ける。
島田から、託生が保育園を辞めた話を聞いて以来、腑抜けたようになってしまい、毎日の日課にしている小学生レベルの課題の進みも遅い。裏庭の花壇の花に水をやろうと思ったこともあったが、託生が辞めて以来近寄りもしなくなった。園庭では殴り合いの喧嘩ばかりして、島岡は毎日のように喧嘩相手の親に謝罪に回っている。今までなら喧嘩して身体を動かしているので昼寝の時間はぐっすり眠れたが、一睡もできなくなり、先生の部屋で時間を潰している。
壱佳も託生が心配で眠れないらしく、先生の部屋の住人になった。
その壱佳が肌身離さず抱いているタオルケットが、今は餓鬼大将の手にあるのが目に入り、義一は立ち上がった。
保育園の園児にもカーストがあり、義一は餓鬼大将からも一目置かれた存在だ。
壱佳がタオルケットを肌身離さず持ち歩くようになったのは、託生が保育園を辞めてからで、何か理由はわからないが託生にまつわるものなのだろう。そんな大事なものを悪戯半分に壱佳から奪う餓鬼大将をとっちめてやりたかった。行き場のない怒りの矛先を探していたのかもしれない。
「香椎。壱佳にそれ、返しなよ」
香椎は家電量販店の息子で、カーストは下の方だ。けれど、会社を経営している立場ではサラリーマンの壱佳より上で、壱佳はこの保育園では最下層の園児だ。園児は同じカーストの園児と遊んだり、親も親交を深めたりしているので、壱佳はいつも1人でいた。他の園児も壱佳をいじめたりすることはなかったが、託生がいなくなって監視の目が緩んだ所為かもしれない。
「義一。お前、こんな奴の味方するのか?」
「味方も何も、壱佳は何も悪いことをしていない」
「じゃあ、何でこのタオルケットを壱佳が持ってるんだよ。託生先生のロッカーから盗んだんだろっ」
託生の持病がこれほど酷いものだと今まで知らなかったが、園児の目が届かない先生の部屋で休んでいたのは想像に難くなく、章三が託生のロッカーから私物のタオルケットを出している姿は何度も見ていた。だから、もしかして壱佳が託生のロッカーから盗んだものかと、一瞬思ってしまった。
だが、壱佳は託生の家族だ。家族のロッカーを開けるのは犯罪ではない。
「それはっ」
壱佳が義一の腕を掴み、頭を左右に激しく振る。壱佳は託生が家族だということを知られたくないようだった。或いは、託生の口から園児に語られるまで待っているような。
園児の母親は独身の先生をいやらしい目で見ている。義一は既に知っているが、壱佳が託生の子供じゃないと母親が知ったら、託生が困る。もしかしたら、他にも些細なことで親が保育園にクレームを入れることがあるのかもしれない。けれど、その親も義一にとってはカーストの下層にいる者たちだ。
「任せとけ」
軽く壱佳の肩を叩いて1歩前に出る。島岡の仕事は増えるが、ひと暴れしたかった。勿論、壱佳のタオルケットを取り返してやりたいというのはあるが、これを機に壱佳と仲良くなって、託生と縁を繋ぎ留めておきたかった。
「一応言っとくけど、オレの言う通りにしたら、お前らはお父さんに叱られないと思うけど」
園児たちは義一が世界的規模を誇る会社の御曹司だということを知っている。親は義一と仲良くなるよう必死だが、その気持ちはまだ子供にはわからない。そういった柵を壱佳は一切持たず、話すことはなくても壱佳の入園時から義一は好ましく思っていた。
「何訳のわからんこと言ってるっ」
香椎がタオルケットをバサっと放り投げ、ゴングが高らかに鳴った。一応、香椎が義一に1発食らわせてからお見舞いするのが義一流のしきたりだ。香椎の前に進み出た義一は、腕を体側に下ろし、軽く奥歯を噛む。
「義一、構えろよ」
挑発に乗るような義一ではない。棒立ちのままでいると、右の頬にストレートを食らった。殴られる覚悟はしていたが、威力は義一が島岡とやってきた喧嘩とは遠く及ばない。
「殴ったな」
「カバーしなかったのはお前だろ?」
「そうだな。けれど、これは正当防衛になる」
遠慮なしに香椎の腹に拳をめり込ませる。言葉もなく前屈みになった香椎の後ろから子分が出て来て義一を殴りつけた。その後は4人三つ巴の喧嘩に発展し、義一は佐智の名前を叫ぶ。勿論、喧嘩に加勢しろ、という意味ではなく、この隙に壱佳のタオルケットを回収しろ、という意味だ。遊戯室の隅で佐智が壱佳にタオルケットを渡しているのを目の端に見て、こんな時なのにホっと一息吐く。
「こらぁ〜っ!」
園児たちの喧嘩に気づいた真行寺が腕を振り回して走り寄り、義一と餓鬼大将を隔離させる。他の先生たちは怪我の有無を確かめ、医務室の中山を呼びに行ったりと大わらわだ。
「義一くん、ありがとう」
壱佳の顔色が悪いのは、喧嘩を目にしたからだけが理由じゃないことはわかる。託生と離れて眠れなくなったのだ。
「それ、特別なタオルケットなのか?」
正直に言えば、義一も餓鬼大将と同じように託生のタオルケットが欲しい。けれど、同学年でありながらも生まれもった環境から、義一は大人びた園児で、友達のものを奪うような真似はしない。子供らしくないのはわかっているが、義一はそうするように既に身に付けていた。
「たぁくんが洗ってくれた洗濯物。章三先生も洗ってくれるんだけど、たぁくんの匂いにならないんだ」
「洗剤が違うからじゃないのか?」
「多分、そう。たぁくんのタオルケットだと安心する」
壱佳は戻ってきたタオルケットに鼻先を埋めて匂いを嗅ぐ。好奇心を刺激された義一も、壱佳に断りを入れてタオルケットの匂いを嗅ぐ。壱佳の言う通り、託生のタオルケットからは義一も掛けてもらった託生のカーディガンの匂いがした。
「今って章三先生の家で寝起きしてるのか?」
「うん。暫くは退院出来ないって。お見舞いに行っても硝子の向こうからたぁくんを見るだけで話もできない」
「壱佳ん家から近いのか?」
「車に乗っちゃうから……。僕ん家は病院の近くなんだけど……」
ちょっと待ってて、と言い置いて壱佳が遊戯室を出て行く。壱佳が戻って来る前に唇の端に絆創膏を貼ってもらって手当は終了だった。廊下から戻って来た壱佳の手には登園用の黄色い鞄があって、義一に名札の部分を見せる。名札には名前と住所が黒のマジックで書かれている。書いたのは託生だろう。
「こっち来て」
義一が壱佳と佐智を自分のタブレットの近くに呼び寄せる。住所は読めない漢字が混じっていたが、タブレットで字を探しながら入力すれば託生の家がわかる。
「ここ」
義一がマップ上で探し当てた家は、パンピーな託生には似合わない高層階のマンションだった。
「島岡」
島岡が普段会社から持ち帰った仕事をする書斎の扉を薄く開け、そうっと中を覗き声を掛ける。けれど、名前を呼んでみたものの、続く言葉が見つからない。
「何です?」
島岡はノートパソコンの蓋を閉じ、目を通していた書類の束を伏せて机の上に置くと、椅子から立ち上がり義一を室内に促した。義一がソファに座ると、島岡は義一の正面のソファに座り、義一の話を聞く体勢を取る。
「壱佳のお父さんの会社って、実はもう調べてあるんだろ?」
オズオズと。でも、聞きたい内容ははっきり伝える。このあたりは既に義一が大会社社長のDNAを受け継いでいるからできることだ。
他の園児の父親の会社については、既に島岡から聞いて知っていた。けれどただ1人。壱佳の父親だけはサラリーマンとしか教わっていない。
保育園から帰って託生の住むマンションについてタブレットで調べると、地上11階建ての高層マンションで、保育園の先生になったばかりの託生の給料では買えないマンションだった。
「今はお教えできないこともありますが」
島岡は義一の為であれば他人はどうなってもいいと考える節がある。義一が敵わない相手は裕明しかいない。大人になれば気持ちの切り替えができるのかもしれないが、今の義一には無理と判断されているのだろう。けれど、義一は今の生活がどんな犠牲の元に成り立っているのか知る必要がある。
「壱佳のお父さんはうちの社員なんだな」
島岡は一つ溜息をつき、
「私の部下です」と言った。
島岡の部下ということは、秘書室に所属している、ということだ。
義一が日本の保育園に通うことが決まって、ずっと義一の世話をしてきた島岡も、社長直属の秘書で秘書室長でありながら、義一と共に日本に渡ることが決まった。アメリカで仕事をしていた島岡が抜ける補填として、各国から数人の秘書がアメリカに来ることになった、と聞いていた。
「壱佳のお父さんは、島岡の代わりにアメリカに?」
「サラリーマンに転勤は付き物です」
でも、幼い壱佳を残して遠く離れた異国の地に本気で行きたかったのだろうか。無理矢理という可能性もある。託生は島岡の代わりに壱佳の父親ーーーーー葉山尚人がアメリカに行った背景を知っているのだろうか。義一の為に父親と離れ離れにされた壱佳をかわいそうに思うだろうが、その元凶の義一を本当は憎く思っていたのではないだろうか。
「オレがアメリカに戻ったら、壱佳のお父さんは日本に帰国出来るのか?」
「壱佳くんと友達になれたんですね」
今は友達かもしれないが、事実を知った壱佳も義一を恨むだろう。抑も、託生がいなければ義一は壱佳と友達にならなかったと思う。
「下心満載だけどな」
「それだけ託生先生が欲しい、ということです」
否定はしないけれど、壱佳と顔を合わせ難い状況だ。
「転勤って断れないものなのか?」
「それぞれ、家庭の事情があるんですよ」
「壱佳の家も?」
「義一さんが帰国されても、必ず日本に戻れるとは限りません」
「島岡だってアメリカに帰るのにっ」
新しく出来た友達を失いたくない。もし、本当に義一が原因だったならば、壱佳は怒るだろう。
「壱佳くんが父子家庭なのはご存知ですか?」
「お母さんは死んじゃった、とだけ」
「当時、お母さんと東京で暮らしていましたが、壱佳くんの牛乳を買いに出て、交通事故に遭ったんです」
「けど壱佳、牛乳嫌いで一滴も飲まない」
「事故が原因でしょうね。お母さんと牛乳を結びつけてしまうのが辛いから」
「それはいつ頃?過失はどっち?」
「3年前で、壱佳くんのお母様は青信号を渡っていました。目撃者も大勢います。それから壱佳くんは静岡のおじいさんおばあさんの家で暮らし始めました」
情報は全て与えたのか、島岡は義一の顔を見て先を促す。これらの情報を精査して、結論を義一が出す。今はまだ島岡に多くの情報を与えられなければ答えが出せない。
壱佳の母親の交通事故に被害者側の落ち度がないなら、慰謝料や保険金といった金銭的な補償はあったのだろう。壱佳の母親が加入していた生命保険がどのくらいかわからないが、母親が亡くなった後静岡で暮らしていたのならば、父親はアメリカで仕事を続けているし、お金はプールしていたことになる。託生のマンションはその金を当てて購入したのだろう。3年より前から母親と暮らしていたのならば、義一の来日とは関係ない。
「結論は出ましたか?」
「このまま残る」
父子家庭と聞いた時から大変な思いをしているとは思ったが、だからといって義一が施しをする訳にはいかない。祠堂に残るとは決めたが、やはり託生がいないのは寂しい。
「託生先生が保育園を辞めたのはなんで?具合が良くなるまで休職すればいいじゃん」
「保育園の先生が楽な仕事だという訳ではありませんが」
前置きをしてから島岡が話し出す。
「託生先生が乗り物に極端に弱いことをご存知でしたか?」
もしかして、島岡は義一より託生のことを知っているのではないか。子供の義一より、託生と島岡のカップルの方が絵になりそうだ、と思ってしまう。
「先生の部屋で佐智と聞いた。後、喘息があることも」
「託生先生がこの町に越して来たのは、空気が綺麗だったからです。喘息患者が都会で暮らすのはリスクが高過ぎる。こんな田舎町に住むには車の運転が出来るのが好ましいのですが、託生先生は車だけでなく、隣町に行くまでの短い距離、電車に揺られるだけでも具合が悪くなる、いわば重篤な方です」
「だから、保育園に自転車で来てんだろ」
始めは保育園の近くに住んでいるから自転車なのだと思っていたが、託生のマンションは駅にも、病院にも近かった。
「その自転車も山道を1時間以上も漕ぐのはかなりキツいでしょう。就職先の保育園か、月に1度通院する病院か?託生先生の身体を気遣って引越し先を病院に近いマンションに決めたのは、壱佳くんのお父さんです」
「アメリカから?」
「いえ。一時帰国していたのでその時に」
「壱佳が言ってた。託生先生に呼ばれてパパが来たけど、すごく怒ってたって」
その時の壱佳の住まいは静岡だ。まだ6歳なのに色々な地域を転々としていた。
「その理由については、大人になった義一さんが聞いた方が良いです」
島岡は知っているんだ、と疎外感を感じた。恐らく、子供のうちは理解できないということだろう。
「保育園を辞めたのは?もう、通う体力もないってこと?でも、それなら職員宿舎に住めば」
祠堂保育園には冬場の大雪の季節になっても職員が休まず出勤できるように、職員宿舎を利用することが可能だ。春から秋に掛けてはそれ程利用する職員はいないが、冬になると雪の積もった山道の車の運転は恐怖を覚える、という理由で冬場だけ宿舎を利用する職員はかなりいる。
「壱佳くんはどうするんです?いくら託生先生の甥ごさんでも園児は宿舎に泊められない決まりです」
「知らなかった。じゃあ、託生先生が退院したら、壱佳はおじいちゃんおばあちゃんのところに?」
「静岡には介護の必要なお爺さまがいらっしゃるようですが、託生先生が静岡に帰ることはありませんので、壱佳くんも保育園を辞めません」
「託生先生が静岡に帰ったら、介護の手が増えて良いじゃん」
「そうできない大人の事情があるんです」
託生が近くにいてくれて嬉しいけれど、謎多き先生だな。
「最後の質問」
「何でしょう」
「島岡は託生先生について詳しいけど、それは先生から聞いて?」
「壱佳くんのお父さんです」
今の答えが義一を1番安心させた。少なくとも託生と島岡のカップルはなしに思えた。
裕明との通話を切り、島岡は重い溜息をついた。
隠していた訳ではないが、義一が託生に恋をしていることを裕明は知った。放任主義の裕明だが、さすがに5歳児と二十歳。しかも、男性が相手と知ると、普段の即決は見受けられなかった。勿論、5歳児の義一に託生が恋愛感情を抱いていないのはわかる。年齢差をなしにしても託生が簡単に恋をする訳がない。
かつては人並みに恋をし、彼女もいた託生だったが、彼女が託生から自信と人を信頼する心を奪ってしまった。裕明から義一に諦めさせろ、と言われなかったのは、託生が尚人の弟だったから強く言えない節もあったのかもしれない。裕明抜きに考えても、義一の恋は前途多難だった。
兎に角、裕明の意向を伝える為、子供部屋に入る。義一はタブレットに向かっているが、佐智はいない。恐らくSPの聖矢のところだろう。
佐智が好きな聖矢は、今はSPの仕事をしているが間もなく麻薬取締官になることが決まっている。SPを辞めた後、佐智と四六時中一緒にいられなくなることをいつ佐智に話すのか、こちらも不安要素満載だ。
「義一さん」
勉強机の上に小学校高学年程度のテキストを開いている義一の隣に、普段は家庭教師が座る椅子を持って来て座り、勉強の進み具合をみる。義一が問題を間違えることはないが、最近は進み具合がスローになってきている。
「お父様が託生先生のことをお知りになりました」
バッ、と音がしそうな勢いで義一が振り返る。こんなに早く裕明の耳に入ると思っていなかった表情だ。
「私には事実確認だけでしたが」
「壱佳のお父さんに迷惑掛けたな」
離れて暮らしているが、託生の身上調査を行わせて申し訳ないと思う。身体の弱い託生を働きに出すことに強く反対していたが、就職して僅か3ヶ月で園児に恋をされてしまった。その相手は義一で、尚人が働くFグループ企業社長の御曹司。反対したくてもNoと言えない相手だ。
「それで?」
「私は義一さんより託生先生のお人柄を存じております」
流石に義一より優れている、と言われた彼はふくれっ面になった。
「だから?」
人柄を知っていても託生と恋愛関係になることはない。手を差し伸べたくなるような人だからこそ、敢えて差し伸べず見ていることが1番の支えになることもある。
「託生先生は人格者です。たとえ、義一さんが好きでも、成人するまでお付き合いはしません」
「そんなんでオレが諦めると思ってる?」
思う訳がない。託生と初めて対面した時のインスピレーションを義一は信じている。
「二十歳なんて直ぐだ」
「けれども、託生先生はお父様に挨拶ができません。従って、義一さんと託生先生がお付き合いする日は訪れません」
「オレと託生先生の問題に何で親父が割り込んで来るんだよ」
「義一さんと交際をするのですから、お相手のご両親に挨拶に伺うのは大人として当然の行いです」
「挨拶に来られないって?」
「託生先生のご病気をお忘れですか?乗り物酔いが激しく、またマンハッタンに着けたとしても今度は喘息の発作で病院に担ぎ込まれるでしょう。義一さんはそんな思いを好きな人にさせて平気でいられますか?」
「そんな……、日本じゃ結婚出来ない」
「日本にもパートナーシップがあります」
「けど、結婚じゃないっ」
幼い義一は結婚に夢や憧れをもっていた。結婚すれば幸せな家庭を築けるとか、まさに夢物語だ。結婚してから相手と性格の不一致に気付いたり、相手に好きな人が出来たり。
世界は義一と託生だけで回っていない。
「勿論、優しい託生先生ですから体調が悪いのを押してアメリカに来て下さったとして、久しぶりに会った託生先生の頭が禿げていたり、メタボでお腹が膨れていても、義一さんは今まで通り託生先生を愛せますか?」
流石にこの質問は託生にも失礼だが、遠距離恋愛をして1番破局する理由だ。机の上のテキストを島岡に投げ付け、椅子から立ち上がって義一が叫ぶ。
「そんなの問題にならないっ!頭が禿げてたらピカピカで可愛いって言うし、一緒に外だって歩けるっ!託生先生が気にするなら一緒にウィッグを見に行くっ!メタボだって健康に問題ないくらいの数値だったら妊婦さんみたいってフクフクのお腹に耳を当てて触るし、病気に繋がるようなものだったらオレが食事を作って託生先生にダイエットさせるっ!一緒に公園をランニングもするのに、なんでそんな意地悪を言うんだよっ!」
今は託生に熱烈に恋している義一だからないと言い切れるが、未来のことはわからない。未来の社長になる義一が一時の感情に揺さぶられることはないと思うが、彼はまだ5歳だ。大人でも未来の確約はできないのだから、5歳児の義一は尚更だ。
「島岡。オレ、どうすればいい?」
感情が高ぶった所為か、義一の頬が濡れていた。琥珀色の瞳から涙が留まることなく溢れ出していた。今は5歳だが、義一の涙は久しぶりに見た。
「託生先生のフィアンセになりたい」
「まだ告白もしていないんですよね?」
力なく頷いた義一は島岡より未来をみているのかもしれない。託生とフィアンセになれたら、義一の将来像は固まってしまうだろう。
「結婚出来るまで待ってて、って言うのは簡単だ。けれど、オレが結婚出来る歳まで託生先生を待たせることになる。絶対に嫌なのに、オレじゃない人を託生先生が好きになっても、フィアンセになっちゃうと託生先生は結婚出来ない」
「譲る気はあるんですか?」
激しく首を横に振った義一に、託生が結婚する確率は0%だと伝えたらどうなるだろう。喜びもするが、落ち込みもするだろう。
「義一さんはもっと欲深くならなければいけません。託生先生に恋人がいたら横から掻っ攫うくらいの意気込みが大切です」
「でも、託生先生が幸せになれない」
「先ずは託生先生に告白することが先決です」
託生の答えは想像できるが、それから義一がどう動くかで未来は変わっていく。
「お父様も義一さんが大人になっても今と変わらず託生先生を愛すなら、お仕事の都合を付けて託生先生に会ってくださるとおっしゃっています」
「そんな先の約束を親父が?」
恋愛に関する託生の気持ちを島岡も、裕明も尚人から聞いて知っている。部外者の島岡が義一に言うつもりはないが、余程の人でも現れない限り、義一の恋を邪魔する者はいない。
「今はICUで面会もできませんが、一般病棟に移られたらお見舞いに伺うつもりです。一緒に行きましょう」
保育園を辞めた今、義一が託生に会えるのは見舞いでだけだ。その日を過ぎれば暫くは落ち込むだろうが、何れ元のわんぱくな義一に戻るだろう。
島岡の運転する車で義一と佐智は病院に向かっていた。途中、島岡が果物屋の前で車を止め、2人にじっとしているよう言い置いて運転席から降りる。10分程して戻ってきた島岡はフルーツの盛り合わせの籠を抱えていた。
「真っ赤な薔薇とかの方が良いんじゃない?」
運転席に乗り込んだ島岡に佐智が聞く。
「何で?」
見舞いといえばフルーツの盛り合わせだと義一も思う。花にもよるが、薫りがキツくて見舞いに向かない花もある。
「赤い薔薇の花言葉は、あなたを愛してます、とか、情熱なんだよ」
「病室には壱佳くんもいらっしゃるでしょうし、果物が良いんです」
薔薇の花束を病室に持って行くのは、恋人同士という関係が確約されたカップルが使うアイテムだと思う。島岡の言い方は、義一が振られる前提で話していると思うのは考え過ぎだろうか。
病院併設の駐車場で車を降り、正面玄関から院内に入る。正面玄関脇に立つ守衛のところに行き、病室番号と患者名と見舞客の名前をノートに記入した後、守衛からバッチを1つ手渡される。義一と佐智は子供なのでスルーされた。
「先客がいらっしゃいますね」
バッチをスーツの上着に着けながら、ノートを見て、他に見舞客がいることを義一と佐智に伝える。
「章三先生?」
「……は想定内ですが」
「誰?知ってる人?」
「義一さんのライバルです」
義一にとって章三はライバルだ。けれど、章三先生は想定内で、想定外のライバルを義一は知らない。
「誰?」と島岡を見上げ、答えを促す。
「保育園の先生方です」
ライバルというのだから、女の先生だろう。
託生が保育園を辞めた後は皆接点がなくなるから、入院中に見舞いに来るのは誰しも思いつくことだった。
託生の病室は5階の個室だった。パンピーの託生だが、尚人がFグループ秘書室の社員なので、体面を繕うために個室にしたのだろう。後は、託生の体調がまだ万全ではないから、急に具合が悪くなった時に周りの患者を不安にさせない為。
病室の中からは若い女性らしく明るい声が響いてくる。人数が多いのか、声は複数聴こえ声量も大きい。ここが病院だということを忘れているようだ。
先生が託生に告白する雰囲気はないが、最近のファッションや、雑誌に載っているイケメンモデルの話など義一が聞いても疲れを催す内容ばかりだ。彼女たちに退室してもらうのは早い方が良いと判断した義一は、廊下の扉を少し強めにノックする。
章三の声で応えがあり、その後扉が開かれる。
「島岡さん。義一くんに佐智くんも」
「託生先生のお加減は如何ですか?」
「だいぶ調子良さそうです。どうぞ」
島岡を先頭にして義一と佐智が病室に入ると、先生は一斉に腕時計を見て、やだ、こんな時間、と呟き帰り支度を始める。
「章三先生。紙袋の中にケーキが入ってますから、壱佳くんと義一くん、佐智くんにも出してあげて」
受け取ったままサイドテーブルの上に放置されていた紙袋の中を覗いた章三の顔が歪む。だが、敢えて先生に表情の変化を悟らせることなく、ありがとうございます、と礼を言った。託生も重ねて礼を言う。
失礼します、と先生が病室を出て行くと、章三はベッドの上に伏せてあったカーディガンを託生の肩に掛け、病室の窓硝子を全開にする。
「章三、ありがとう」
「いや。義一くん、佐智くん、もうちょっと待ってて」
「何で?」
「ここには男しかいないし、まあいっか。……香水の匂い。結構キツイんだよ」
体調が万全ではない託生に風邪をひかせるのはマズく、だが空気を入れ替える為にカーディガンを肩に掛けたのだとわかった。
香水なら佐智の母親のマリコで慣れている。
大丈夫、と答えて託生のベッドの脇に行く。
「冷やしてお召し上がりください」
島岡がフルーツの盛り合わせの籠を章三に渡す。フルーツの盛り合わせには王道の林檎や、バナナ、今が旬のメロン、桃が籠に入っている。
「やっと託生の口に入るものが来たな」
「ありがとうございます」
島岡に礼を言った後、託生が居住まいをベッドの上で正し、義一に頭を下げた。驚いた義一は託生の腕を掴み、体勢を元に戻そうとする。頭を上げた託生が義一に謝る。内容は、託生の具合が悪い時にした壱佳との喧嘩についてだった。
「オレが壱佳の気持ちもわかってやれず、心配しろって無責任なこと言ったから。でも、喧嘩したお陰で壱佳と友達になれた」
「そうなの?ぼくがこんなことになって話をする時間が取れなくて。でも、義一くんが友達になってくれてよかった。ぼくがいなくなった保育園に壱佳を残すのは心配だったんだ」
ふと、病室に壱佳の姿がないのに気づき、壱佳は?と聞く。
「先生たちの香水の匂いに負けて気持ち悪くなっちゃって。ベッドを借りて寝てるよ。呼んで来る?」
「ううん、まだいい。託生先生に話があって」
島岡と佐智はわかっていると言うように病室を出て行った。章三も壱佳の様子を見てくる、と言って一緒に出て行く。
「話って?」
触れたままだった手を託生の腕から手首に移し、強く握り締める。託生と島岡は歳は離れているが、大人の男という意味では託生の手首は細く、青白かった。
「オレ、託生先生が好きだ」
託生も義一の気持ちを知っている筈だ。ただ、託生は大人だから自分の気持ちに正直になれない時もあることは義一もわかっている。
「今も心臓がドキドキしてる。こんなになるの、託生先生といる時だけなんだ。託生先生の匂いを嗅いでいると凄く安心する。これって恋だよね?」
細長い指で義一の手を外した託生は、ごめんね、と一言だけ言った。
振られたのだろうか。一瞬のことで今一つ実感がない。
「オレが子供だから?」
義一が子供だから、恋の相手に選べないということだろうか。
「違うよ。たとえ義一くんがぼくと同い年でも答えは一緒」
壱佳は託生が他人からの愛情を拒絶している、と言った。そんな悲しい決意をしてしまう程の何が託生の身に起こったのだろうか。
「ぼくは人の愛情なんて信じない。どれだけ心を砕いて接しても、裏切られるのは一瞬で事足りる。そんな思いを2度としたくない」
「この世に絶対なんて言い切れるものはない。でも、託生先生を好きなままでいていい?オレが託生先生の悲しみも喜びも全て受け止める」
心優しい託生が人に想われるのも迷惑だなんて言う筈がなかった。由美に告白された義一は想われることを迷惑に感じるが託生は違う。
「義一くんの輝ける将来が台無しになるよ」
託生に告白しているのに、ちっとも動じない。義一はこんなに焦っているのに、託生は大きな一枚岩のように頑なだった。
「台無しかどうかはオレが決める」
「義一くんは保育園を卒園したら、アメリカに帰るんだよ?」
「遠距離恋愛ってあるだろ?オレはアメリカで大人になって、託生先生を迎えに来る。親父に挨拶しないと交際を始められないって言うなら、親父に日本に来てもらう。今の日本じゃオレたちは結婚出来ないけど、パートナーシップでもいいって思えるようになった。託生先生の彼氏になって、一緒に暮らしたい」
たとえ海外に託生を連れ出して結婚したとしても、託生が生活するのは日本だから結婚でなくてもいいと思った。義一が唯一折れたのはそこだけだ。
「じゃあ、ぼくからもいいかな?」
「交換条件?何?」
遠距離恋愛だから、浮気が発覚したら即終了、とかだろうか。固唾を呑んで託生の言葉を待つ。
「義一くんは可愛いし、格好いいから誰からも好かれる。もし、他の人から告白されたら全て受け入れる。1ヶ月付き合ってみて波長が合わないようならその人とは終わり」
何を言われたのか、頭の中が真っ白になってわからなかった。託生が好きなのに、他の人と付き合えと託生は言う。それは義一には微塵も愛情がないということだろうか。けれど、1ヶ月で切っていいと期限が定められるのは楽だ。
「勿論、結婚するのも自由。ぼくがいるから、新しい恋ができないなんてことがないようにね」
こんなに厳しい託生は初めて見た。それ程託生に恋の話は禁句だったのだろう。
「さて」
次は何を言われるのか、違う意味でドキドキしていると、義一が恋した花の綻ぶような笑顔になった託生が顔をずいっと義一に向ける。やっぱり好きだなぁ〜、と義一の頬が赤く染まる。
「ふふっ、可愛いね。……壱佳がナースステーションにいるから連れて来て。ケーキを食べて行ってほしいんだ」
告白の返事と、ケーキのお誘い。天国と地獄を行ったり来たりで頭が破裂しそうだ。
言い方は託生らしく柔らかかったけれど、義一は振られたのだ。
託生との交換条件がいつまでかはわからないけれど、義一に残された託生と恋人になる道は、まだ見ぬ他人と付き合うことから始まるのだ。
「義一くんと佐智くんと友達になれて良かったね」
義一たちが帰った後、早速壱佳は託生のベッドに上がり、託生の隣で2つ目のケーキを強請る。残りは3個だったが、章三と甘いものが大好きな壱佳がいれば平らげられる量だ。壱佳にケーキを出した託生は、紙袋の中に複数の封筒が入っているのに気付き取り出した。
「たぁくん、それ何?」
「お知らせかなぁ。保育園を辞めた後は章三に頼むって島田先生に伝えてある筈なんだけど」
封筒は可愛らしいシールで封をされていた。お知らせとは趣が違う。
嫌な予感がしたが、1通の封筒の封を指先で剥がし、開けて読む。手紙はピンク色の便せんに丸い可愛らしい文字で書かれている。普通の成人男性ならば浮かれて喜びそうな内容の手紙だった。次の手紙も内容は同じで、先生方で結託してラブレターを書くことにしたらしい。
「やっぱりラブレターか?」
病室の棚に託生の洗濯物をしまっていた章三が聞く。章三は始めから手紙の存在に気付いていたらしい。
「うん」
けれど、託生は告白されても喜べない。つい先程義一に告白されたが喜ぶどころか、託生のことを知っても変わらずに愛の言葉を囁けるのか、疑ってしまう。それに、義一は2年後にはアメリカに帰る。子供だから恋愛対象にならないと言うより先に、アメリカに帰った義一は託生を忘れる。
「ラブレターって?」
「大好きですって手紙」
「義一くんもたぁくんが好きだよ」
「みたいだね」
「どうするの?」
「三洲先生の許可が下りたらバスハイクに行くつもりだから、それまでに返事するよ」
「たぁくんは壱佳より義一くんや、手紙の先生が好きなの?」
壱佳から大好きと毎日のように言われているが、大好きと返したことはない。子供の大好き程当てにならないものはないと思うが、壱佳は託生の甥だ。けれど、肉親の情であっても、託生は大好きと言えない。
「壱佳も大きくなったら好きな人が出来るよ」
壱佳の髪の毛を指で梳いてやりながら託生が答える。
「義一くんはたぁくんに好きって言ったの?」
「さっきね」
「たぁくんは義一くんと結婚するの?」
壱佳が義一の恋心を知っていることから推測して、結婚したい、と言ったのだろう。子供は結婚に夢や憧れを投影するが、その殆どが叶わないことを知らない。
「その質問にはお答えできません」
「けど、義一くんは兎も角として、先生方は彼女と違うと思う。付き合ってみれば頑固な託生の考えも変わるかも」
章三の意見も理解はできる。壱佳の大好き、という言葉に、ぼくもだよ、と返してあげた方がいいこともわかっている。けれど、実際そうして裏切られた場合、もう託生は立ち直れない。あんな思いをするのは嫌だ。2度あることは3度あるなんて迷信にしておきたい。
章三の言う通り、保育園の先生であれば園児のトイレの世話をしたり、体調が悪くてもどしてしまう園児の片づけで慣れているから託生を振った彼女のような行動は取らないかもしれない。そう思うと同時に、子供だから許される場合もある。いくら託生が酔い易い体質をしているからといって、大人の託生の後始末はしたくないだろう。園児の世話をすれば金が入ってくるが、託生の世話をしても何の得にもならない。
「トラウマになってるのかなぁ?振られたことに対してショックとかそういうのはないんだけど、裏切られるのは経験したくない」
結局、託生は誰とも恋愛できないことになるが、1人で生きていく方が楽だ。人と関わるから裏切られる。
「他の先生方の手前、返事はメールで、って書いてあるから、よく考えて返事するよ」
けれど、託生にはメールを送るつもりはなかった。章三には考える素振りをみせておくが、恋愛はしないと決めている。
「壱佳はたぁくんが大好きだから、結婚してもいいよ」
口の周りに生クリームをべったり付けた壱佳にまで告白されてしまった。言葉にできないけれど、託生も壱佳が大好きだ。
「残念。壱佳はパパの子供だから、ぼくとは結婚出来ないんだよ」
「え~っ?!本当は壱佳のこと、嫌いだからじゃなくて?」
「法律っていうので決まってるんだ」
親族同士結婚出来るのは、従兄弟以上に離れた4親等からで、託生と叔父甥の関係にあたる壱佳は3親等になり結婚出来ない。
壱佳の口の周りの生クリームを指先で拭い取ってペロっと舐める。甘いものは敬遠していたけれど、久しぶりに口にしても生クリームの美味しさはわからない。
「たぁくん」
「何?」
「今度たぁくんが苦しくなったら、壱佳がちゅーする」
ちゅーの意味を考えるが、壱佳はキスをまだ知らない。託生もちゅーといえばキスしか思い浮かばず、首を傾げる。
「何のこと?」
小さな子供は大人のすることをよく見て真似る。けれど、託生が今までにキスした相手はいない。
「あれじゃん?mouth to mouth。相手は三洲先生だろ?」
託生が倒れた時、真っ先に駆け付けたのは三洲と真行寺で、救急隊はその後到着したと聞いていた。呼吸困難に陥り、一時的でも心臓の止まった託生を助けてくれたのは三洲だ。
「あれは人工呼吸っていうんだよ」
「ちゅーじゃないの?」
唇と唇が触れたことで壱佳はキスだと思っているようだが、そんなことになったら世の中大変なことになる。
「壱佳、ちゅー知ってるの?」
「佐智くんに教えてもらった。好きな人とするんだよね?」
「うん」
佐智が付き合っている園児に心当たりはない。佐智と一緒にいるのは義一だが、義一は託生が好きで、佐智とキスする筈がない。
「キスみたいだけど、れっきとした救命措置なんだよ」
「結婚出来なくても壱佳もまうつーまうできる?たぁくんを助けたい」
「ふふっ、ありがとう。でも、発作は起こさないようにしなきゃ。壱佳も怖かっただろ?」
「天国のママが寂しくてたぁくんを連れて行っちゃうかと思った」
託生が壱佳の母親ーーーーー葉山かなえと会ったのは、結婚式の時と、壱佳が生まれた時であまり交流はなかった。尚人もアメリカに転勤になって、あまり面識のない託生が尚人不在の葉山家にお邪魔するのは気が引けて、大きくなった壱佳と一緒に暮らすことが決まったのも今年に入ってからだ。全くと言っていい程会っていなかった壱佳と暮らすことに不安がなかった訳ではないが、いつまでも壱佳を静岡の両親に預けるのも、託生の件で雅美が介護が必要な身体になってしまった負目があり、尚人の助言もあり罪滅ぼしの意味も込めて託生が育てることになった。
「たぁくんはなんで壱佳に好きって言ってくれないの?ほおりつがあるから?」
「違うよ。大切な言葉は胸で温めているんだ」
「じゃあ、好き?」
章三が託生の耳元で何事か囁く。
わかっている。あの人たちと壱佳は違う。それでも、壱佳が大きくなって家を出て一人暮らしすると言われたら、託生は笑って見送ることができるだろうか。
「心配しなくても、託生は相当壱佳のこと好きだぞ」
「本当?壱佳もたぁくんだ〜い好き」
言葉にしなくても愛情を示す方法を託生は1つしか知らない。
託生はベッドの上の壱佳を抱っこして引き寄せ、ギューっとハグして壱佳に愛情を示した。
「たぁくん」
「何?」
託生がいなくなって壱佳は相当淋しい思いをしているだろう。託生の胸にしがみついたまま壱佳が呟く。
「早くお家に帰りたい」
壱佳が託生の胸元に頭を擦り付けて甘えた声を出す。
壱佳は小さな頃から家を転々と暮らしている。託生の両親の家が1番長かったが、託生の家に越してきた後も壱佳が不平を言うことは1度もなかった。
「なるべく早く退院するから」
「託生、僕が泊まりに行こうか?」
章三も壱佳の頭に掌を乗せ、優しく撫でる。
「悪いよ。それに保育園にはどうやって行くの?」
「来客用の駐車スペースがあるだろ。マンションで壱佳を拾うよりゆっくりできる」
託生が入院してからも壱佳は毎日1番早くに保育園に行き、最後まで残っている。結局のところ、章三に頼る他方法がないのだが、こんな時託生は病弱な己の身体を恨めしく思う。
壱佳の為と思えば誰にでも頭は下げられる。全ては壱佳の幸せの為に託生は決断するのだ。
病院から帰った壱佳は真っ先に電話に飛び付く。
家の電話は電話台の上にあり、爪先立ちすれば手は届くが液晶画面が見えない。それでも今は電話したい人がいて、壱佳は両方の手を伸ばして電話機本体を床に下そうとした。だが、後ろから腕が伸びて壱佳の身体を電話機ごと持ち上げる者がいる。言わずと知れた、今日から葉山家で生活することになった章三だ。
「やだっ!お電話するっ!」
「その前に手洗いとうがいだろ?今、壱佳が風邪ひいたら託生に会えなくなるんだぞ」
それはもっと嫌だ。
毎日託生に会いたいのに、今日まで会えなかった。しかも、ずっと託生の側にいたかったのに、保育園の先生から変な臭いがして、気持ち悪くなってしまった。
壱佳が洗面所に行って手を洗おうとするが、踏み台がなければ手が届かない。
「章三先生」
壱佳が顔を覗かせて章三を呼ぶとすぐに来てくれる。
「いつも台に乗ってるんだろ?」
洗面所の脇に置いてある踏み台を見て章三が聞く。
「1人じゃ乗っちゃ駄目ってたぁくんが言ってる」
「そっか。悪かったな」
章三は壱佳の前に踏み台を置いて、壱佳が手洗いをしたり、うがいをしている様子を見ててくれる。時々、託生は心配性だと思うこともあるが、章三も結構そうだ。
「それで誰に電話したかったんだ?」
ハンガーに掛けてあるタオルを渡しながら章三が聞く。章三は壱佳の家庭のことを知っているので気を使う必要はない。
「パパ」
「……ってアメリカの?壱佳、番号知ってるのか?」
「電話張のボタン押せば繋がる」
託生から尚人に電話することはあまりないけれど、掛け方なら知っている。
「向こう、何時だ?いや、もう出掛けたよな」
尚人はいつも仕事が忙しいから、託生も電話を掛けないことはわかっている。けれど、この難問は壱佳では解けそうにない。
「電話掛けてもいいけど……。パパの声を聴きたくなった?」
プルプル、とふくよかな頬を揺らして首を振る。
「我儘じゃない。一大事だから」
「僕に話せない?」
章三は壱佳の家族ではないから、壱佳の求める答えが得られるかわからない。それに、章三は義一が託生を好きなことを知らない。
「パパに聞く」
「わかった。ちょっと待ってて」
章三はアメリカの尚人に電話すると、電話機ごと床に下ろし壱佳に受話器を渡してくれる。
『章三先生を困らせちゃ駄目だろ』
真っ先にお小言をもらい、尚人は疲れているのに悪いことをしたと思った。けれど、壱佳同様、尚人も託生の幸せを心から願っている1人で、この重大事件は尚人にも知ってほしかった。
「たぁくんがお手紙いっぱい貰ったの」
『早くよくなってくださいって?』
「ラブレターって言ってた。今度会う時までにお返事するって」
『たぁくんが幸せになれるんだ。良いことだよ』
「義一くんはたぁくんと結婚したいって。たぁくんが結婚しても、壱佳はたぁくんと一緒に暮らせる?」
尚人が少し考え込むような間があった後、
『壱佳はどうしたい?』と反対に聞かれた。
『確かに新婚家庭に壱佳がいるとお邪魔虫になるね。そうすると、壱佳はアメリカに来てパパと暮らすことになる。勿論、保育園も辞める』
保育園には義一と佐智以外に友達がいないから、悲しいことはない。義一と佐智は凄い人たちで、小学校が一緒というのは考え難い。尚人に会えるのも魅力的だ。けれど、託生が1人になる。
託生の結婚相手は、身体の不調に気付いて三洲を呼んでくれるだろうか。どんなに綺麗で優しい結婚相手を思い浮かべても、壱佳以上に託生を気に掛けられる人材はいないと結論が出る。
「アメリカには行かない。たぁくんとずっと一緒にいる」
『パパは壱佳に嫌われるようなことをしたかな?』
「ごめんなさい。でも、今はたぁくんを1人にできないから」
『壱佳はたぁくんが大好きなんだ』
「うん」
託生から、ぼくも大好きだよ、と言われたことはないが、壱佳の心は決まっている。この好きが義一と一緒の好きかはわからないが、たとえ義一が相手でも託生には結婚してほしくない。
『なら、壱佳はたぁくんに気持ちを伝えた方がいいね。たぁくんも漸く今の生活に慣れたところだったのに、新しい生活を求めたりしない』
「たぁくんと一緒にいられる?」
『勿論。寧ろ、たぁくんから離れていくのは壱佳だと思うよ』
「そんなことしない」
『今直ぐの話じゃないから』
託生は将来何になりたい?と壱佳によく聞くけれど、夢はない。今は託生を守るのに精一杯で、他のことは考えられない。託生との生活も楽しく、壱佳から託生と離れるなんて信じられない。
「壱佳はたぁくんといるっ!壱佳がたぁくんを嫌いになるとかないからっ!そんなこと言うと、パパのこと嫌いになっちゃうよっ?!」
『え〜っ?!パパ、泣いちゃう。これからお仕事なのに、偉い人に怒られちゃうかも』
「知らないっ!パパがいけないんだからね。ごめんなさいしないと許してあげないんだからっ!」
『ごめんなさい。もう言いません。許してくれる?』
「うん」
『じゃあ、章三先生に代わってくれる?』
壱佳と尚人の話を笑いながら聞いていた章三に受話器を渡して壱佳はホっと息を吐く。
壱佳がすることは、託生に気持ちを伝えること。壱佳のお願いなら、託生は絶対にわかった、と言ってくれる。そうしたら、壱佳は託生と一緒に暮らせる。
義一が亀のように布団に潜っていると、子供部屋に向かって走って来る軽い足音と、スニーカーが床を擦るキュッキュッ、というこちらはゆっくりとした足音が近付いて来る。バターン、と盛大に扉を開け放った佐智がピョン、と兎のように義一の潜るタオルケットの上にダイブし、グェッ、と蛙が踏み潰されたような声が出た。
「今日も行かないの?動物園だよ?」
義一の上に乗ったまま、タオルケットの端を捲って佐智が聞く。
託生に振られた翌日から義一は保育園を休んでいた。体調が悪い訳ではなく、もう何もやる気が起きない。今までなら保育園に行けば託生がいたので、実際に熱が出た日はなかったが、熱があっても這ってでも登園したと思う。
「行かない」
父兄参加のバスハイクだから本当は島岡とマリコが行くのだが、日差しがキツくなり日焼けするとゴネていたマリコは結局不参加で、代わりに佐智の彼氏の聖矢が行くと知った佐智は大喜びだった。
今も身支度を整え、義一を迎えに来た。託生に振られた義一を心配しているのはわかるが、心配りが雑でいつか聖矢に振られるのでは、と義一は内心心配している。
「マリコさんいるし、島岡と聖矢さんと行って来いよ」
くぐもった声で義一が言う。
「本当にいいの〜?」
保育園をズル休みする時は、あっそ、と非常にドライな対応をしてみせた佐智が、今日はやけにしつこい。義一の知らない何かを知っているらしい。
「遠くからでも見たいんじゃないの〜?」
「何を」
「託生先生」
託生の名前を聞くだけで心臓がドキドキする。振られたとわかっているのに、未練タラタラで本当に情けない。
「託生先生がバスハイクに来る筈ないだろ」
壱佳の父兄として参加する託生は乗り物に弱く、隣の駅まで電車で行くだけで酔ってしまう。保育園に勤める条件として、移動を伴うイベントには全て欠席で、島田も了承している。それに、託生はまだ入院中の筈だ。
「託生先生の主治医が外出許可を出したんです」
島岡の説明を聞いてタオルケットから顔だけ出して、本当?と聞く。
動物園に行く島岡も今日ばかりは戦闘服のスーツではなく、半袖のポロシャツにコットンパンツでいくらか若く見える。
「兼満先生のパートナーのアラタさん?」
「ご存知でしたか。けれど、託生先生1人で動物園は不可能なので、三洲先生……アラタさんが同行されます」
真行寺の法事は動物園デートに変わったらしい。子供がウジャウジャいるし、託生もいるしで全然デート気分じゃないのは確かなのに、一緒にいられるだけで幸せな気分になれるのは義一もわかる。
「ねぇ、行くの?行かないの?」
答えは勿論決まっている。遠くからでも託生を見ていたい。
身体を左右に振って佐智をベッドから振り落とすと、バサッ、とタオルケットを剥いでベッドを降りる。リビングに走って行き、朝食のパンだけ口の中に突っ込み、咀嚼しながら着替えをする。洗面台の前に踏み台を置き、歯磨きと洗顔を済ませ、鏡に写った自分の顔を見ながら頭髪をブラシでとかした。
保育園に着くと、久しぶりの義一の登園を知って嬉しそうに先生が寄って来る。島田も、待ってたよ、と言ってくれた。
保育園の園庭に止まっているマイクロバスの前にはひまわり組の園児が列になって並んで座っている。園児の後ろに父兄が立っていて、直ぐに託生を探したが見付けられなかった。
「託生先生は?」
島田に聞くと、朗らかな笑みを絶やさず、
「動物園で待ってるよ」
確かに乗り物が駄目で、入院中の託生が態々保育園に来るのは体力を無駄に消耗するし、病院から動物園に行った方が時間も掛からない。往復のバスは託生と一緒にいられないけれど、動物園では付かず離れず託生を見ていようと決める。或いは、友達になった壱佳と行動を共にすれば、1日託生と一緒にいられる。
動物園の駐車場にバスが止まり、先に先生、園児、父兄の順にバスを降りる。駐車場に降り立った義一は辺りをぐるりと見回し、託生を探したがここでも託生は見付けられなかった。
そうしている間にも次々バスが駐車場に入って来て、義一たち園児は先生や父兄に手を引かれながら動物園の入場口まで進む。入場口の前で一旦整列し、島田の注意事項を聞いていると、園児の1人が、
「託生先生だっ!」と指差して立ち上がる。
どこどこ〜?と次々が立ち上がるので、義一も指差された方を立って見ると、半袖Tシャツにジーンズを履いた託生が立って手を振っていた。口にはマスクをしていて、病人という感じだ。託生の直ぐ後ろには少し茶色掛かった髪に眼鏡をかけた男性がいる。この人が三洲とわかる。
「みなさん、座ってください。お父さんお母さんも託生先生はご存知と思いますが、託生先生は身体の具合が悪くなったので保育園を辞められました。何人かの園児は知っていますが、託生先生は壱佳くんの叔父さんです。保育園は辞められましたが、父兄として保育園に来ることもありますので、知っておいてください」
島田が新しい託生の立ち位置を園児に説明した後、託生が挨拶をして壱佳を呼び寄せる。
「よろしくお願いします」と壱佳が小さな声で挨拶したので、義一は拍手で歓迎し壱佳を隣に座らせた。
「壱佳って託生先生の子供じゃなかったんだな」
義一の前に並んで座っていた餓鬼大将の香椎が振り返って素直な感想を言う。
「たぁくんは結婚してないよ」
壱佳の言葉を聞いた先生が何やら騒いでいる。そういえば今日の先生の服装は普段と違い、金が掛かっているのが丸わかりだった。
「先生たち、どうしたんだろ」
「たぁくんのメールを待ってるんだよ」
メールって、と聞こうとしたタイミングで園児たちが一斉に立ち上がり、入場門の方に歩いて行く。入場門を潜ったところで止まり、
「ここから先は自由行動です。園児のみなさんは必ず先生か、お父さんお母さんと一緒に回ってください。12時にお弁当を食べるので、その時間までにここに集合してください」
やったっ!壱佳と一緒にいれば、必然的に託生とも一緒に行動できる。予定通りの展開になりそうな雰囲気で、義一の胸は高らかに鳴る。
「壱佳、一緒に回ろう」
佐智には聖矢がいるし、義一が壱佳と回れば託生は自然と義一と壱佳に付いて回る。島岡は大人だから放っといても構わない。
やっぱり、バスハイクに来て良かった、と義一は思った。
……といっても入院中の託生が義一たち園児のすばしっこい足に付いていくのは不可能で、麒麟の檻の前で義一と壱佳は島岡に呼び止められた。後ろを振り返れば託生はしゃがみ込み、三洲が託生の口元に何か当てている。
「あれ、何?」
「酸素吸入器です」
「ずっとあんな感じ?」
「はい」
それならば義一が取る手段は1つだけだ。
「アラタさん」
義一が託生と三洲の方に走って行く。
「ここから先は島岡に来てもらうから、託生先生は休んでて」
寂しいけれど今我慢すれば昼は託生と一緒に弁当を食べられる。
「義一、くん。あり、がとう。壱佳、を、頼む、よ」
切れ切れの苦しそうな息をしながらも託生が義一の頭を撫でる。託生の癖かもしれないそれは義一を幸せな気分にさせた。
義一と壱佳が託生に手を振り、先を行く。島岡も託生に頭を下げ、すばしっこい義一と壱佳の後を追った。
動物園を一周して、弁当を食べる広場に着くと、何人かの園児と父兄は集まっていた。託生もいて、ピクニックシートの上に座っている。座っていられるのだから具合は良くなったのだろう。
託生の周りを囲むように園児の父兄がいて、託生に声を掛けたそうにしているが、いきなり現れた三洲がガードして喋ることもできない。
「そういえば、メールって?」
動物園を回る前に壱佳が言っていたことを思い出して聞く。
「先生たちが揃ってたぁくんにラブレターを書いたんだ。付き合うならその人にたぁくんがメールする。メールが来なかった人は、まぁ、残念だったね、ってそういうやつ。返事が今日までみたい」
義一が加わっても、託生から連絡は来ない。結果は身に染みてわかっている。
「託生先生」
託生の元に義一が走って行く。壱佳も遅れてついて来た。
「振られたのはわかってるけど、先生と一緒に弁当を食べたい。いい?」
「勿論、ここ座る?」
託生の隣の席を示され、やはり義一はドキドキしてしまう。
「じゃあ、俺はちょっと」と言って三洲は真行寺の方に走って行った。三洲と入れ替わるように今まで他の園児の引率をしていた章三がやって来て、ピクニックシートの上に弁当を広げ始める。
「義一くんのお弁当は島岡さんが持ってるんだよね?」
そういえば佐智と別行動をしていて、昼の相談をしていなかった。
「佐智とSPの聖矢さんも一緒だけど、いい?」
託生には佐智の彼氏とは紹介せずにSPと言った。
佐智が壱佳にキスの話をしているのを義一も聞いたが、佐智のキスの相手については黙っている方がいいと思った。こういうことは本人の口から知らせた方がいいこともわかっている。
「島岡さんを仲間外れにしちゃ駄目だよ」
「わかってる。探して来る」
義一が佐智を探し回っていると、樹々の梢枝の間に島岡の背中が見えた。声を掛けて近寄ろうとした時、島岡が見ていた光景が目に入った。自分の身に起きたことではないのに、頭にカアーっと血が上った。
怒りではない。佐智の好きな人がするのだから、やったな、おめでとう、くらいの言葉は掛けるつもりだった。けれど同時に、佐智はうまくいって聖矢とキスもしているのに、自分は託生に振られた。幼馴染なのにズルいと感じてしまった。
ふと、佐智の目に涙が光ったのが遠くからでもわかる。聖矢は佐智の涙を拭い、もう1度頬にキスをした。
大人であることを傘に着て嫌がる佐智にキスをしていると思い、島岡の脇を通り過ぎて走って行こうとした義一の腕を止める者がいる。島岡だ。
「なんで止める。佐智が嫌がってるだろう」
聖矢は託生と同じ二十歳だが手は早い。義一が頭を撫でられて喜んでいるのに、向こうは大人の恋愛をしている。
「今日が最後なんです」
「別れるってこと?」
「後は努力次第としか……」
「なんで?好きなんだろ?」
動物園に来るまでのマイクロバスの中で、2人は隣同士で座り、前の席に座る義一が赤面するような甘い台詞を吐いていた。
佐智は幸せそうだった。まさかその数時間後に別れ話があるなんて想像もしない。
「マトリに欠員が出たんです。元々山田さんはマトリを志望していましたが、定員オーバーで無職よりSPを一時的に選んでいたです」
「喜んでやらなきゃならないのか」
二十歳の男が6歳児にキスをするのだから、それなりの覚悟はできているだろう。
願わくは、また会おう、でも元気でいろよ、でもいい。別れの言葉を聖矢が言っていないのを祈るだけだ。
ふと、佐智がこちらを見る。素知らぬ振りもできないので、義一は軽く手を振った。佐智が聖矢の手を引いて義一のところに戻って来る。
こちらも遠距離恋愛決定のようだ。
「腹減った。託生先生も待ってるし、飯にしようぜ」
「何も聞かないの?」
「落ち着いたらでいい」
「ありがとう」
ピクニックシートに座ると、島岡が背負っていたリュックサックから弁当の箱を4つ取り出す。佐智の母親のマリコは専業主婦だが、家事は一切しないので全て家政婦任せだ。今日の弁当も家政婦が作り、朝出掛ける時に島岡が受け取っていた。
蓋を開けるといつも通りの食材に金を掛けた料理が出てくる。
「わぁ、義一くんのお弁当、豪華だねぇ〜」
義一の弁当箱を覗き込んだ壱佳が驚きの声を上げる。託生は入院中だから章三が弁当を作って持って来たのかもしれない。
章三が円を描くように座った真ん中に大きな弁当箱を蓋を開けて並べて置く。
「章三、ありがとう」
「どういたしまして」
紙皿に壱佳の分の唐揚げと卵焼き、タコさんウィンナー、ほうれん草のソテーとおにぎりを取って渡した後、章三の弁当を目を皿のようにして凝視する義一にもおかずとおにぎりを取ってくれる。
「でも、あるし」
「章三先生は料理の達人だよ」
確かに家政婦の作った弁当では満腹にならない。受け取っていいのか、島岡の方を見ると、構いませんよ、と頷いたので託生の手から受け取った。
託生は義一には弁当が足りないとわかっているからだ。
「佐智くんは唐揚げかな?」
「あっ、はい。……さ、3つ」
唐揚げは佐智の好物だが、流石に3つは多いだろう。佐智は少食ではないが、1人前はしっかり食べる。これは佐智を放置する決断をした聖矢への当て付けだろうか。
「島岡さんと聖矢さんもどうぞ」と託生の手ずからおにぎりとおかずを紙皿に取って貰っていた。
「ありがとうございます」
章三が託生におかずとおにぎりを取って渡す。
あれ?託生の野菜が減ってない。もしかして、野菜嫌い?
保育園では先生と一緒に園児は昼食を食べられないから、託生の好き嫌いはわからない。
義一の想像を裏付けるように、託生の紙皿に残ったほうれん草のソテーも食べなさい、と章三と壱佳が託生に注意して、和気藹々と弁当を食べ進めた。
「抱っこぉ〜」
食後のデザートとして託生が買って持って来たゼリーを食べていると、突然壱佳がごね出した。
保育園での壱佳は聞き分けがよく、誰の言うこともよくきく園児だったから義一も驚いた。周りでは園児は友達と走り回って遊び、父兄はピクニックシートを片付け始めている。
「お腹いっぱいで眠くなっちゃったかな?」
託生が壱佳を膝の上に乗せてあやすように背中をポンポン叩く。腕時計で時間を確認した託生だったが、壱佳の気持ちがわかったのか、
「ごめんね」と壱佳に囁く。
堂々と託生に甘えられる壱佳を羨ましく思う。今の義一には託生の隣に座ることしかできない。しかも、今日が最後で、暫くは会うことも儘ならない。
託生の胸元に頭を擦り付け、託生の匂いを胸いっぱいに壱佳が吸っている。保育園でも壱佳はまるで子犬のように託生の匂いを恋しがっていた。
「僕の家だと眠れなかったらしくて」
「今はぐっすり?」
「……でもないけど、前よりは寝られるようになった」
託生と章三は壱佳の両親ではないけれど、本当の親子のように義一の目に映り、堂々と託生の側にいられる壱佳と章三に激しく嫉妬した。
「駐車場の手続きは済んだ?」
「来客用じゃなくて、一般のとこな。入院中だけって言っても来客用は頻繁に貸せないんだって」
託生が入院中の今も、壱佳は1番早く登園して、最後まで残って章三と帰っている。章三が送り迎えをしているのは想像できたが、実際に耳にするとまるで夫夫のような会話で胸が痛んだ。
ピピーっ、と笛の音がしてそちらの方を見ると、他の園児が整列し出している。マイクロバスに乗って保育園に帰る時間だ。
「壱佳、集合だって。シートを片さなきゃだから立って」
「やだぁ〜っ」
壱佳が託生にギュッとしがみ付いて離れないので章三が強行手段に出る。
「義一さんと佐智さんも立ってください」
ゴミを集めていた聖矢にゼリーのカップとスプーンを渡し、義一は佐智から弁当の箱を受け取って島岡のリュックサックに入れる。壱佳は大泣きしていたが、結局章三に抱っこされ、託生から離される。
「たぁくんっ、結婚しないでぇ〜っ!」
壱佳の叫び声はかなり広範囲まで聞こえたようで、園児も先生も壱佳を見ている。
結婚しないで、というのは、以前義一が託生と結婚したい、と言ったからか、或いは他の先生が託生にラブレターを送ったからか?どちらにしても義一の耳は託生の返事を聞こうと耳がダンボになる。
「結婚なんかしないよ。ずっと壱佳と一緒にいる」
「本当?」
「本当。ぼくは誰とも付き合わないし、結婚もしない」
託生の言葉を義一は呆然と聞いていた。
義一の告白はなかったことにされたのか、幼い壱佳を安心させる為にいなしただけなのか。託生の言葉が本当なら、ラブレターを貰ったという相手は結婚相手にはならない。どちらにしても、義一も壱佳のように泣き叫んでしまいたい心境だ。
託生が章三の方に歩み寄り、壱佳の頭を撫でる。
「ぼくは結婚しないし、病院もなるべく早く退院する。だから、早く泣き止んで」
「約束だよ」
壱佳が短い小指を託生の前に突き出し、指切りげんまんを強請る。託生の細い小指が壱佳の小指に絡まった時、義一の瞳から堪えきれない涙が溢れた。
「っく、ヒック」
託生に泣き顔を見られるのは恥ずかしく、走って集合場所に行く。佐智が後から追って来るが、構う余裕もなかった。
マイクロバスに乗り込むと、壱佳は窓硝子に張り付き一生懸命託生に手を振っていた。託生は島田と何か話していたが、やがて島田もマイクロバスに乗り込み自動ドアが閉まる。壱佳の隣に座る章三が窓硝子を半分程開けると、託生の声が義一のところまで届く。
「いい子にしてるんだよっ!」
「うんっ、たぁくんも無理しないでっ」
託生が結婚しないと知ったからか、壱佳の涙は蒸発している。託生とまた離れる寂しさから笑顔はなかったが、寂しい別れではなかった。
「よかったですね」
義一の隣の島岡から声を掛けられても、なんでだよ、と悪態しか付けないのが情けない。
「保育園の先生方とお付き合いすることにはなりませんでしたし、義一さんにも希望があるということです」
「でも、振られた」
「義一さんはまだ5歳ですから、託生先生も交際には慎重になったのでしょう」
「託生先生と付き合える?」
「義一さんさえ諦めなければ」
今現在、託生は義一に対して1mmも恋心を抱いていないのはわかっている。普通、2人が諦めなければ、という言葉をよく使うが、義一と託生の場合は、義一が諦めた時点でこの恋は終わる。
マイクロバスを見送った託生の身体が突如、力を失ったように頽れる。咄嗟に三洲が抱き止めて身体を地面に強打することはなかったが、託生の顔色は悪く、呼吸も非常に荒い。託生を横に寝かせ、背負っていたナップザックを下ろした三洲は、中から喘息の吸入器と酸素ボンベを取り出し、この何もない広場でできる1通りの応急処置を終える。
よくここまで我慢したと思う。単に、壱佳の前で倒れなかった託生をあっぱれと思う。けれど、医師としてはそうは思わない。
三洲がスマホを取り出し、病院に電話を掛け車の手配をする。来る時は託生の体調もよく、病院から徒歩で来れたが、動物園の敷地内を歩いた後ではもう無理だ。
「どうしてここまでするんです?」
結局のところ、壱佳は託生の子供ではない。尚人が帰って来たら、託生の元を離れて尚人と暮らす。そんな壱佳に命掛けのプレゼントをするなんて、三洲には理解できない。
「ぼく、の、ため、なん、です」
切れ切れながらも託生が答える。意識があることにひとまず安心して、託生の身体を楽な姿勢にする。
「壱佳、の、バス、ハイク、は……」
壱佳の話は聞いている。託生の体調を考えれば断固反対したものを、壱佳の為と言われて頷いてしまった己が情けない。入院中の患者を、患者には非常に危険な場所に連れ出したら訴訟ものだが、何が起きても告訴しない、と強く訴える託生の言葉で許可してしまった。
「結局、ぼく、の、ため、なん、です。壱佳、に、捨て、られた、時、に、人生、の、糧、に、なる」
「何言ってるんです。壱佳くんは葉山さんが好きなんです。捨てる訳がないでしょう」
託生の瞳から涙が一雫溢れ落ちる。涙は目尻を通って顳顬を通っていく。
「大人、に、なった、ら、子供、は、家、を、出る。けれど……」
託生の呼吸に喘鳴が混じる。このまま話させる訳にはいかない。
「葉山さん、今は黙って。病院に着いたらいくらでも聞きます」
病院のマイクロバスが着き、ストレッチャーに乗せられた託生が病院に搬送される。喘息発作が起きていても車酔いはあり、容赦なく託生の体力を奪う。車内でも、病院でも嘔吐を繰り返した託生に経口補水液を飲ませる。
託生の言葉に続く思いは想像できた。
子供は、大人になったら家を出る。けれど……
病弱な託生は本当の意味で一人暮らしをしたことがなかったのだろう。
大学時代は一人暮らしをしていたと聞いたが、章三もいたし、託生を振った彼女もいた。夜毎帰る間柄でも人との縁はあった。
託生が保育園を辞めた今、壱佳が卒園すれば託生と章三の関係は希薄になる。託生が、壱佳との思い出を作る為に、今回のバスハイクに参加したとなれば全ての辻褄があう。
けれど、託生はわかっていない。
人の縁なんてそう簡単には切れないことを……
モニターで託生のバイタルをチェックしていると、軽く白衣の裾を引っ張られた。ベッドに視線を移すと、意識の戻った託生が横になっている。
「三洲先生」
酸素マスク越しに籠った託生の声がする。先程よりは力強い声で三洲は安心する。
「さっきの話」
さっき、とは、託生がバスハイクに行った訳だ。
託生が人差し指を酸素マスクの上に当て、軽く頭を下げる。触れたのは酸素マスクでも、託生は唇に指先を当てたつもりだ。
ーーーーー秘密。
託生がバスハイクに行った理由を、託生は秘密にしてほしいらしい。外出許可申請書に書かれた内容は嘘から出た誠なので、話す時はこちらを使え、ということだ。
「わかりました」
「ありがとうございます」
「でも、退院の予定は消えました」
「えっ?」
「あったんですよ、予定が。でも、あんな無茶をしておいて、当分は軟禁しておくことにしました」
退院日は託生には話していなかったが、部長には話をしてあった。2週間程先だったが、搬送されて来た託生の状態を診れば早い退院だった。
「そこをなんとか」
「無理です」
託生の病気で動物園に行くのは危険だ。託生が倒れた時も三洲は覚悟していたが、思いの他発作は軽く託生は意識を取り戻した。動物園に入場はしたが、殆ど回らないうちに園を出て広場に来たお陰だろう。問題はこれから先、発作が起こらなければの話だ。現時点でバイタルは安定しているが、油断はできない。
三洲の考えは的中し、3日後、託生は爆弾のように重い発作を起こし危篤状態に入った。
保育園のバスハイク以降、日を追うごとに託生の具合は悪くなっていった。保育園から帰る壱佳と章三は毎日病院に見舞いに行くが、話さえできない日もあった。
「たぁくん」
章三に開けてもらった扉を入り、ベッドで眠る託生の傍に行く。
以前は託生のベッドの上にも平気で乗れるくらい託生の体調も良かったのに、今は側に寄ることにも抵抗を感じてしまう。
「壱佳、おかえり」
壱佳の声を聞いた託生が瞼を開けて声を掛けるが、その声も覇気がない。
「調子悪そうだな」
章三がベッド脇に常備されている、見舞い客用に用意された丸椅子に座り、膝の上に壱佳を抱き上げる。
「あくび、する、気力もわかない、くらい」
言葉の途中で託生の瞼がまた下がる。
今日は帰った方が良さそうだ。
壱佳が布団から出ていた託生の手をしまおうと触れたのに、何故か手を離してしまった。不意に鳴り出す、託生の身体に取り付けられた計器類。
バスハイクに来られる程具合が良くなっていたのに、何故、急に悪化したのか。
「たぁくんっ?!」
ナースステーションからもリンクして託生の体調を知ることができる。看護師が2人駆け込んで来て託生を看る。
「三洲先生をっ」
このまま病室にいては医師や看護師の邪魔になると思った章三は、壱佳を抱いたまま病室を出る。章三と入れ違いに三洲が病室に到着した。
「壱佳、お腹空かないか?」
壱佳は託生の手を離してしまった自分の手を見詰めていた。
途中で壱佳を下ろし、手を引いて病院の最上階にある食堂に入る。今日は帰りが遅くなりそうだから、外食することに決めた。
「託生の手、熱かった?冷たかった?」
「凄い冷たかった。たぁくんが冷え性で、手が冷たいのは知ってるけど、あれは気持ち悪い」
「そんなに冷たかったのか」
三途の川を渡る直前かもしれない、と不吉なことを思ってしまった自分が腹立たしく、ウェイターが運んで来た水を一気に飲み干す。
「今日はここで晩飯にしよう。何食べる?」
テーブルの端に立て掛けられたメニューを壱佳に見せるが、壱佳は気乗りしないようだ。
「オムライスなんかどうだ?」
壱佳の好き嫌いは牛乳だけで、トラウマがあって飲めない、と託生から聞いたことがある。トラウマが何かは敢えて聞かなかったが、章三は牛乳を単品ではなく、料理に混ぜて出していた。壱佳も美味しいと言って食べてくれた。しかし、章三が無理矢理オーダーしたオムライスは食べてくれない。
「壱佳、今食べないと腹減るぞ」
……と突然、キャーっ、と黄色い悲鳴が食堂を包み込む。病院の食堂で黄色い悲鳴を聞くことは滅多になく、誰だ、と状況が悪く、いつもなら感じないが、腹立たしい思いで入口の方を見る。すると、先程病室で擦れ違った三洲が食堂の入口から店内を見回していた。
章三と目が合うと、急ぎ足で章三と壱佳のテーブルに着く。ウェイターがお水を出しに来たが、スマートに断りを入れて話し始める。
「葉山さんは集中治療室に移った」
「今日は、会えないよな」
「暫くは面会謝絶だ。静岡のお母様にも連絡を入れた」
章三の想像だけなら元気になった時に笑い話で話せる内容だが、医師が患者の実家に連絡を入れる意味は重い。
「冗談ですよね。まさか、託生が」
「残念だが、私は本気で戦っている。お母様は面会謝絶でもいらっしゃるそうだ」
琴子が来るようでは壱佳を静岡に連れて行く話も持ち上がるだろう。決して親子仲が悪い訳ではないが、壱佳の養育は今は託生に任されている。その託生がいなくなったら壱佳はまた静岡に戻るか、尚人のいるアメリカに行くことになる。
「三洲先生。何で急に悪くなったんですか?」
「葉山さんからは?」
「何も」
託生は具合が悪くなることを予兆していたのだろうか。きっかけはバスハイクだ。
「バスハイクで何かあったんだ」
章三が力を込めて言うと、三洲が答えてくれた。
「行き先が動物園だったからだ。壱佳くんのバスハイクは今年だけ。何が何でも参加したい、と言ってきた。勿論、医師として葉山さんにとって鬼門の動物園に放り出す訳にはいかず、私が同行することになった」
「鬼門?」
「マスクをしていても動物園というところは鳥獣の毛やら、埃やらが体積した場所だ。健康な我々には何の影響もないが、葉山さんのような肺に疾患を抱える人にとっては死を意味する」
「じゃあ、託生はこうなることを知って……」
愛してる、と言わない代わりに命を掛けて壱佳に愛を叫ぶ託生は男らしい男だ。
「壱佳。お前託生に愛されてるよ」
「本当?」
或いは、愛を叫べない代わりに命を掛けて行動に移した託生の意気込みを天晴れ、と褒めてやりたい。けれど、褒める代わりに罵声を浴びせるのは章三の役目だ。罵声を浴びせる存在が三途の川を渡ってしまっては意味がない。
「三洲先生。兼満先生に僕の休暇をあげますから、何が何でも託生を助けてください」
けれど、納得できない点もある。
三洲が去って元の人々のざわめきを取り戻した食堂で章三は考える。
託生が壱佳に責任を転嫁するようなことをするだろうか。
「壱佳、三洲先生の話、本気にするなよ」
「どうして?たぁくんはバスハイクに行って具合が悪くなったんだよ?壱佳の所為だよ」
どんなに違うと言っても、託生を好きな壱佳は自分の所為だと思うだろう。けれど、章三の見解は逆だ。
「託生って責任感が強いだろう?」
雅美が倒れたのは自分の所為だと思い、琴子の手を焼かせまいとして壱佳を代わりに育ている。同じ二十歳でも章三にはできないことだ。
「それと同時に凄い寂しがりなんだ」
「そうなの?」
章三やゆかりが託生のアパートに行くと、どんな状況でも必ずと言っていい程もてなしてくれた。夜遅くなり、章三が帰る素振りを見せると一瞬だが能面のような無表情になる。帰ってほしくないとわかる顔だった。
「託生は壱佳に大好きって言わないけど、絶対に好きだ。断言できる。託生がバスハイクに行ったのは、勿論壱佳の為でもあるんだけど、託生自身の為でもあるんだ。大人になった壱佳は、必ず託生の家を出る」
「パパと同じこと言ってる」
先日、電話で尚人に怒鳴っていたのは、壱佳が託生の家を出て行く、と言われたからだと知った。確かに今の壱佳には想像も付かない話だろうが、人は皆巣立っていくものだ。
「まだ壱佳は理解できないだろうけど、親っていうのは子供には自分たちを越えてほしいって考えるものなんだ。親を越えるって、親より収入を得るとか、1番身近なのだと親の身長を越えるとか、色々あるんだけど、その1つに家を出て一人暮らしを始めるってのもある。託生も一人暮らしの経験があるし、今は壱佳と暮らしてるけど、僕も一人暮らしをしてる」
「うん」
どこか、壱佳の声は元気がない。それも、大好きな託生の家を出る、と尚人だけでなく、章三にまで予言されたからだ。
「託生は壱佳とバスハイクに行った思い出を作りたかった。壱佳が家を出た時、1人になっても寂しくないように」
偶々雅美が介護が必要な身体になり、壱佳の面倒をみる者がいなくなったとはいえ、壱佳が託生の元に引き取られたのは託生にとってはいいことだった。壱佳がいてくれたから、託生は寂しさを感じることなく、暮らしていける。
「なんで言わないの?」
「言ったら、託生が壱佳を好きなこと、バレちゃうだろ?」
「いいのに。壱佳、嬉しいよ?」
「でも、大人は駄目なんだ。子供を1人前にして社会に出す。寂しがりの託生は壱佳と一緒にいたい。でも、一緒にいたら壱佳の将来の為にならない」
壱佳は何も喋らない。少し難しかっただろうか。
託生の為を思えば壱佳には家を出ないでずっと託生の側にいてほしい。けれど、先の将来は壱佳が決めることだ。
「それって絶対?」
「それ?」
「たぁくんと一緒にいたら、絶対壱佳の為にならない?」
それは人それぞれ違う。家を出なくても勤め先で伴侶を見つけ、夫婦2人伴侶のご両親と暮らしている人もいる。勿論、結婚が大前提ではないが、結婚するまでのプロセスは人を成長させる。
「絶対ではない。壱佳が社会に出るだけで、託生と離れずに済む方法も見付けられるかもしれない」
「なら、見付ける。たぁくんとずっと一緒にいられる方法を壱佳が見付ける」
なんだか託生の理想とは違う方向に壱佳を導いてしまった気がするが、壱佳が大人になれば思いは変わってくる。章三は託生と壱佳を見守ることしかできないが、2人には幸せになってほしいと思う。その為に託生と壱佳に降り掛かった困難を、章三も共に乗り越えることが大事で、その為なら章三はいくらでも手を貸す。
「頑張ろうな」
章三は正面に座る壱佳の頭を撫でながら決意を込めて誓った。
琴子は翌日の昼過ぎに病院に到着した。荷物はボストンバッグ1つという軽装で、静岡に残してきた雅美の介護もしなければならない身では当然の装いだ。
琴子が到着して直ぐに三洲と応接室に入った。壱佳は子供なので三洲の話に加えてもらえない為、章三が預かり、食堂で時間を潰すことにした。
「壱佳。何食べる?」
託生が危篤になってから章三も壱佳も保育園を休んで病院に来ている。章三は勿論だが、話ができなくても壱佳は託生の側にいたいと思い、連れて来ている。
「お昼ご飯食べたばっかりだよ」
「甘いもの好きだろ。ケーキとか、パフェもある」
テーブルの端に立て掛けられたメニューを壱佳に見せると、甘いものが大好きな壱佳の瞳が輝く。
「パフェがいい。チョコレートの、ある?」
「チョコバナナパフェでいいか?」
うんっ!と壱佳が大きく頷く。
これから壱佳に話す内容を考えるとパフェを食べるどころではないが、長期間静岡を離れられない琴子は明日には壱佳を連れて静岡に帰るだろう。壱佳に話ができるのは今だけだった。
「食べながらでいいから聞いてくれ」
運ばれて来たパフェを前にして、靴を脱いだ壱佳は椅子の上に立ち上がり、背の高いチョコバナナパフェのチョコレートシロップの掛かった大きなバナナを口に押し込んだ。
「美味しいか?」
「うん」
章三はホットコーヒーに口を付け、静かに深呼吸する。
章三自身人の最期に立ち会ったことはないが、できることなら避けて通りたい道だ。
章三は早くに母を亡くしているが、長期間寝込むことはなく、あっという間に死んでしまった。母の死後もいつも通りの日々を送っていたが、ある日突然、もう母と会うことはないという実感が湧いてきて、普段は役に立たない父親の胸で泣いた。
「おばあちゃんは三洲先生と託生の話をしているんだ」
「壱佳には?」
「壱佳は毎日病院に来てるから、託生の具合が悪いの知ってるだろ?」
うん、と頷いてパフェの上に乗っているアイスクリームを食べる。
「三洲先生は、おばあちゃんに、覚悟しておいてください、って言ってると思う」
「覚悟?」
「託生は今、死に1番近いところにいるんだ」
「ママがたぁくんを連れてっちゃうの?」
「そうならないように三洲先生は頑張ってる。もちろん、託生も」
壱佳はパフェ用の柄の長いスプーンをテーブルの上に置くと、椅子の上に座り直し、正面に座る章三を見る。
まだ、バナナとアイスクリームして食べていないのに、口の周りがチョコレートシロップや、バニラアイスクリームでベタベタだ。章三はおしぼりで壱佳の口の周りを拭いながら話す。
「もし、託生が病気に負けたら、壱佳は静岡か、アメリカに行くことになるんだけど、今はその前の話。託生が入院している間、6歳の壱佳が毎日病院に来るのは大変だろう、っておばあちゃんは思ってると思う」
「壱佳もおばあちゃんと静岡に帰れってこと?嫌だっ!たぁくんと一緒にいる」
壱佳に託生と離れる選択肢はない。壱佳を預かること自体章三は苦にならないが、その気持ちを母親が受け入れてくれなければ話が進まない。
ふと、壱佳が椅子からピョン、とジャンプして下り、靴を履いて食堂を出てエレベーターの方に走って行く。あっけにとられて後れをとった章三もパフェとコーヒーの代金を適当に財布から抜き出し、テーブルの上に置いて壱佳を追う。エレベーターの箱が来ていなかったのがせめてもの救いだ。壱佳はエレベーターの前に1人で立っていた。他に利用する客はいない。
チーン、と軽やかな音がして下の階からエレベーターの箱が上がってきた。両開きの扉が開いて、一斉に利用客が降りてくる。咄嗟に壱佳の腕を掴み、降りる人の妨げにならないように扉の脇に寄せる。
「やっぱりここにいた。壱佳にお話があるの」
エレベーターから降りてきた利用客の中に琴子がいて、壱佳を見付けて先程まで章三たちがいた食堂に入ろうとする。
「おばあちゃんっ、待ってっ!」
壱佳の叫び声を聞いて振り返る利用客がちらほらみえる。琴子もその1人で、足を止めて振り返り壱佳の話を聞く。
「壱佳、おじいちゃんもおばあちゃんも好きだよ。でも、たぁくんは大好きなんだ。たぁくんが辛い時に、壱佳だけ静岡に逃げる真似はしたくない。たぁくんが頑張ってるなら辛くても、悲しくても一緒にいて応援したい。ママがたぁくんを連れて行っちゃったら静岡に行くけど、それまではたぁくんの側にいさせて」
「壱佳1人じゃ何もできないでしょう」
「僕もっ!最期まで託生に寄り添います。壱佳と一緒に」
琴子にとっても壱佳がこちらに残る方が楽できる。しかし、今は章三に頼りたくても頼れない大人の事情が絡んでいる。
「章三先生っ、早くっ!」
言いたいことだけ言った壱佳に急かされながらエレベーターに飛び乗る。壱佳は背伸びをして1のボタンと、続けて▼のボタンを押す。あっけにとられた琴子に慌てて頭を下げ、元に直ると扉は完全に閉まっていた。
「急にどうしたんだ?」
「思い出した。おじいちゃんが倒れて、おばあちゃんが神社にお参りしてた」
「御百度参りか。神頼みって手があったな。だが壱佳、御百度参りっていうのは人に知られないって原則があるんだ。おばあちゃんは夜、お参りしてなかったか?」
「うん。夕ご飯食べて、お風呂入ってから行ってた」
「だろう?このことは誰にも内緒。ご利益がなくなるからな」
「わかった。夜にお参りするんだね」
章三と壱佳はそのまま帰宅したが、琴子はまだ病院にいるようで、2人が出掛ける時間帯まで帰って来なかった。夕食を壱佳と食べ、琴子の分はラップで包んでテーブルの上に置いておいた。
人に見られる可能性が少ないのは深夜だが、6歳の壱佳も一緒なので章三は夕食後に壱佳と出掛けた。
山の中腹にある神社の駐車場に車を止めて、頂上の社までは階段を徒歩で上がった。日没を迎えたが真夏の気温はまだ厳しいもので、途中見つけた商店でポカリスウェットと、茶のペットボトルを2本ずつ買った。
章三は御百度参りをしたことはなく知識だけだったが、壱佳は名前は知らなくても勝手を知っていた。
壱佳が裸足になろうとしたのを章三は止めたが、壱佳の本気度がより一層わかるだけで止めることはできなかった。
「足元に気をつけろよ。足を切ったと思ったら、僕の手を掴むこと」
御百度参り中は話すことも出来ないので、いくつか決まり事とサインを決めて社のお鈴まで進んで託生の病気の平癒を祈願する。熱中症を危惧して壱佳に飲み物を飲ませながら初日の御百度参りを終えた。
「疲れただろ?風呂にしよう」
病院から戻った琴子はもう寝入ってしまったようで、テーブルの上の夕食は片付けられ、丁寧な筆跡で食事の礼と、明日の新幹線の発車時刻が書かれていた。風呂の準備もしてあり、洗濯物を洗濯機の中に入れて壱佳と風呂に入る。
今日はスマホで参る回数を数えたが、他に数を数える方法はないか、とスマホで御百度参りについて検索していると、章三のスマホが鳴る。ビクッ、とスマホを持っていた腕が痙攣したかのように震え、持ち直す。託生が危篤になってから、電話の着信が苦手になってしまった。壱佳も麦茶を飲みながら章三の方を見ている。
「もしもし」
電話の主は三洲だった。声の調子から最悪の事態ではないことを悟る。
『葉山さん、回復の兆しが見えてきましたよ』
「本当ですか?」
『まだ、油断はできませんが、先ほど意識が戻られました。……と言っても朦朧として言葉も話せない状態ですが』
「ありがとうございます」
たった1回の御百度参りの成果が出たというのは烏滸がましいかもしれないが、確かに託生は回復への道程を歩み出した。
流石に今日、これから病院には行けないが、明日行くことを伝えて電話を切る。壱佳に託生の具合が少し良くなったことを伝えると、大泣きして喜んだ。
深夜、寝ていた章三は鍵の回る音で目を覚ました。室内は真っ暗だったが、玄関には灯りが点いている。壱佳を起こさないように布団から抜け出し玄関に行くと、カジュアルな服装の琴子が立っていた。
「お礼参りに行ってたのよ」
「僕たちがしてたこと、ご存知だったんですか?」
「前に壱佳に話したことがあるのよ。大切な人が大変な時には神様にお祈りしなさい、って」
章三の電話は寝ていた琴子にも筒抜けだったようだ。
「かなえさんの時は即死で、祈ることもできなかったけど」
かなえというのは、壱佳の母親の名前だ。壱佳が2歳の時に交通事故死している。
「おばさん。託生から壱佳を奪わないでください」
章三の言葉を聞いて目を丸くした琴子は、
「壱佳からの間違いじゃない?」
「どっちも正しいですけど、僕は託生の方が大切です。人を信じられなくなった託生が、壱佳だけは信じようとしている。頑固者だから口にすることはないですけど、命を掛けて壱佳を愛し始めている。自分の子じゃない、尚人さんの子供をですよ?余程の覚悟がなければできることじゃありません」
もし、琴子が無理に2人を引き離したとして、託生はまた人を信じられなくなるだろうし、壱佳は金を貯めて託生の元に戻って来るかもしれない。壱佳は空気を読むのが上手い子供だが、言いなりになる訳じゃない。したいことはしたい、と主張する子だ。
「おばさんも今壱佳を引き取ってもおじさんの介護もあって大変でしょう。その点、僕なら壱佳と同じ保育園ですし、子供も好きなので苦になりません」
「託生だけじゃなく、壱佳まで赤池くんにお願していいの?」
琴子の心境が手に取るようにわかる。
雅美も回復は見込めないと医師から言われていると託生から聞いたが、その前に託生の生命を危ぶむ危機が訪れている。不安にならない母親はいない。
「実際に壱佳と生活してみて、子育ての大変さは実感しました。自分の子供が出来た時の予行演習だと思えば身になることはあっても、苦痛に感じることはありません。それに、僕は託生の親友です。親友の危機に助けない男がどこにいますか?」
「ありがとう、ございます」
琴子は玄関先に膝をついて章三に感謝の気持ちを述べる。
その気持ちに報いることができたと実感するのは、託生の容態が良くなり退院してからだ。章三は琴子の身体を抱き止めながら、己のすべきことの重大さを今1度噛み締めた。
子供は意味を知らない言葉を不用意に用い、気付かない間に相手を傷付ける。義一と佐智は馬鹿な子供に該当しないが、当事者でもないのに我が事のように傷付いていた。
「それでは行って参ります。義一さんは本当によろしいのですか?」
真相を知りたいのは島岡ではなく義一だ。ただ真相を明らかにするだけでなく、自分の目で確かめたいに違いない。けれど、託生に振られた義一は、バスハイク以降保育園にも行くようになったが、以前とは纏う雰囲気が違っている。
義一のパーソナルカラーは何ものにも染まらない黒だったのに、今は正反対の白になった。人付き合いも佐智や壱佳の他にもするようになり、託生の影響を受けているのが明らかだ。
「この後、由美ちゃんと遊ぶから」
由美というのは、義一に告白してきた女子だ。一度は由美を振った義一だが、託生との交換条件通り告白してきた人間と付き合うようになった。由美は義一が誰を好きか知っていて、託生が保育園を辞めたのをきっかけに再度義一に告白してきた。
義一の託生を見る眼差しは誰の目にも明らかだった。
事の発端はある憶測から始まった。
バスハイクが終わって4日目の木曜日、章三と壱佳が揃って保育園を休んだ。その日以前も壱佳の元気がないことは島岡も保育園で会って感じていたので、託生の具合が悪くなったのだろう、と推測していた。
木曜日に章三と壱佳が揃って保育園を休んだことで託生の具合はかなり悪く、日が経つに従い、ついには亡くなったのではないか、とまことしやかに園児の父兄たちの間で噂になった。
子供は敏感で、父兄がひっそり話していることもしっかり聞いていて、園児同士話の話題に出したりする。家族で島岡の部下の尚人に聞けば済む話だが、ナイーブな内容だった為、島岡は保育園の園長の島田に話を聞きに行った。園児が元保育士の健康状態を聞きに行くのはあまりないが、託生は義一の初恋の相手だ。振られたが、もし噂が本当ならお線香の1本もあげさせて差し上げたい。
壱佳のいない遊戯室には義一と佐智しか残っていないので、2人にはそのまま待っているように言い置いて園長室の扉をノックした。
「託生先生のお体のことですが」
単刀直入に島岡が切り出す。
「章三先生からは何も」
「では、島田先生も噂の真偽はわからないんですか?」
「確かに、章三先生から託生先生の具合が悪いので暫く壱佳くんと保育園を休む連絡はありました」
託生の具合が悪くなったのは確かなようだ。けれど、その連絡は2人が保育園を休んだ時に入った内容で、もう1週間近く経過している。その後の情報を島田はもっていなかった。
「今度の日曜日に病院に行ってみます」
「しかし、島岡さんもお仕事が大変でしょう」
「義一さんの初恋の方の安否を調べるのも仕事ですから」
そして……
日曜日を待って、島岡は車で病院に乗り着けた。駐車場に車を停めて、病院の正面玄関から入る。守衛に面会バッジを貰う為、託生の病室番号と名前、面会者の島岡の名前をノートに記載する。
「葉山さんですよね?」
島岡が書いたノートを指でなぞりながら守衛が確認を取る。転院とか、死亡なんて言われたら調べようがない。壱佳と一緒にいる筈の章三の携帯番号は島岡も入手していなかった。
「ええ」
「ちょっとお待ちください」
断りを入れた守衛はハイテーブルの上の電話の受話器を持ち上げ、どこかに連絡を入れる。その場で待っていると、
「葉山さんとのご関係は?」
「祠堂保育園の父兄です」
守衛は電話相手と暫く話していたが、一旦受話器を置き、また電話を掛け始める。
「すいませんねぇ。私が案内することになったんで、代わりの守衛を呼んでるんです」
電話を切って5分程その場で待っていると、代わりの守衛が走って来て島岡の応対をしてくれた守衛と代わる。託生に何かあったのは間違いないが、死亡の線は消えた。
「こちらです」
守衛の後をついて行くと、病院の最上階の食堂に案内された。
「私はこれで」
任務を終えた守衛がエレベーターに乗って降りて行く。その様子を見守っていると、島岡さん、と章三に呼ばれた。
声の方に視線を巡らせると章三がテーブルから立ち上がり、島岡の方に歩み寄って来る。章三がいたテーブルでは壱佳がオムライスを食べていた。
章三と一緒にテーブルに行き、お食事中すみません、と断ってから空いている椅子に座る。
「お昼食べました?」
「いえ」
「一緒に食べませんか?」
さっさと調査を終えて仕事を片付けたい。けれど、章三と壱佳の前でそれを行っては人間として終わりだ。
テーブルの端に立て掛けられているメニューを取って開くと、定番メニューがズラっと並んでいる。食事をするつもりのなかった島岡の腹はメニューを見ても全く動じない。章三の皿はカレーで、壱佳はオムライスだった。
「では、カレーを」
章三が手を上げてウェイターを呼びカレーを注文する。遅れて島岡の前にも水のグラスが置かれ、おしぼりで手を拭いてから水を飲む。
「お話というのは何でしょう」
「今、保育園では託生先生が亡くなったという噂が立っています」
「たぁくんは死んでないっ!壱佳が章三先生と」
「壱佳っ!」
壱佳が立ち上がって叫ぶのを章三が止める。周りの客が壱佳に注目していたのに気づいた章三が軽く頭を下げて謝罪する。
「その話は駄目。ご利益がなくなるって話しただろ?」
壱佳は唇を噛んで悔しそうな顔をする。
「園内はその噂でもちきりで……。私も義一さんも全く信じていないんですが、ずっと章三先生も壱佳くんも保育園を休まれていて噂を肯定する材料しかないんです」
島田も迂闊に電話も掛けられない状況だと言っていた。
「あ……。壱佳、ごめん。噂は僕のせいだ」
「章三先生の?」
ウェイターが島岡のカレーを運んで来て、減っている章三と壱佳のグラスに水を足していく。
「食べながらで構いません」
「託生が危篤になって、壱佳と保育園を休む連絡は入れたんです。その後、別に忙しかった訳じゃないんですけど、託生が回復してきていることを島田先生に連絡するのを忘れていて……」
「気が動転していたんですよ」
「そう言っていただけると助かります」
噂の真相は究明できたので黙々とカレーライスを胃に納める。チープだが味は良かった。
「託生先生にはお会いできる状態ですか?」
食後の水を飲みながら聞く。
「まだ集中治療室から出られなくて……。僕たちも暫く会えてないんです」
「そういえば壱佳くん。少し見ないうちに逞しくなりましたね」
「階段登ってるから」
オムライスを食べながら壱佳が答える。章三は頭を抱えていて、どうやら聞かせたくない話だったようだ。託生のマンションは高層階にあるが、エレベーターも完備している。そんな家に住んでいながら毎日階段を登るのはどんな状況だろうか。
「章三先生。託生先生が退院するのを願っているのはお2人だけではないんです。義一さんも、佐智さんも噂を聞いて心を痛めています。何かお手伝いできることはないでしょうか?」
「手伝い」
ふと、考える素振りを見せた章三だったが、首を左右に振って、
「お気持ちは嬉しいんですが」と断ってきた。
確かに、祈願を成就させる為には人知れず行う方がよい、と言われており、島岡が申し出たところで無理なのはわかっている。章三と壱佳が神頼みしているのは間違いないが、義一と佐智には内密にしておいた方がいい。
「わかりました。島田先生には託生先生の具合が少し良くなった、と私から伝えますが、章三先生からも時々連絡を入れてください」
託生に会えなさそうなので完遂にはならないが、一応噂の真偽は確かめられた。食堂を後にした島岡は、章三と壱佳と共に集中治療室の前に来ていた。看護師は皆、防護服を完備した状態で集中治療室に入って行く。
「窓際のベッド。あそこに託生がいます」
章三が指差す集中治療室の中には託生と似たような緊張感を強いられる患者が他に3人寝ていた。皆、見舞いは禁止されているのか、家族と思われる見舞い客が集中治療室の外の廊下から様子を見ている。章三や壱佳が未だに見舞えないのは感染症の恐れがあるからだと推測する。
けれど、確かに託生の具合は悪そうだったが、なぜ今になって悪化したのか。
「バスハイクへは無理をおして参加されたんですか?」
隣に立つ章三に聞く。だが、答えたのは壱佳だった。
「壱佳の所為。壱佳のバスハイクは今年しかないから、動物園で危険でもたぁくんは来てくれたの」
「危険?」
「動物の毛とか、埃とか。僕たちには楽しい場所ですが、託生にとっては違うんです」
バスハイクが原因で体調が悪化した、ということだった。しかし、壱佳の所為で託生の具合が悪くなったとして、壱佳と同い年の義一は全くの部外者かどうかは託生しか真相を知らない。壱佳のバスハイクが今年だけ、というのは義一にも当て嵌まるからだ。
けれど、振られたことから考えると、託生は壱佳しか見ていないのかもしれない。
今日の託生のベッドは背もたれが少し上がっている。今日はまっ平なままだ。胸が苦しいのかもしれない。託生を見舞ううちにベッドの角度を見て、託生の具合を自分なりに想像できるようになった。
壱佳と章三が集中治療室の外の廊下から託生のベッドを見ていると、防護服を着た男性看護師が出て来て章三に話し掛ける。
集中治療室の中には特別なナースステーションのようなものがあり、彼らは1日の殆どを集中治療室の中で過ごしている。従って、この看護師の防護服はもうただの布切れになり、再び入室するには完全に滅菌した後、真新しい防護服に着替えなければならない。
「赤池さん」
「はい」
章三の隣に壱佳も立ち、一緒に話を聞く。
「葉山さん。今、口内炎が出来てて……。でも、林檎ジュースを飲みたいっておっしゃってます。それと、今度でいいので紙おむつも持って来てください」
「わかりました」
託生に紙おむつが必要な今の状態はショックだが、託生だけがするものでもない。具合が悪く、歩行不能であれば誰でも使うものだ。
「たぁくん、おむつしてるの?」
「トイレに行けないからな」
けれど、明日でいい紙おむつより、今はジュースだ。
売店に行って林檎ジュースを買って来るか、或いは林檎を擦りおろしてガーゼで絞ったジュースを出すか。
見舞い客がその場にいない時は看護助手が売店まで使い走りさせられる。章三がいるのにブリックパックのジュースなんて飲ませられず、章三は果汁100%のジュースを渡してもらうことにする。
「ガーゼとストローありますか?」
ストローは食堂に置いてあるのは知っているが、託生に使えるかわからないので念の為聞いてみる。それに、食堂のストローはビニールが掛かっていた。注意事項があるかもしれない。
「ええ。ガーゼはナースステーションに売るほどありますから必要な時はおっしゃってください。ストローは病院の食堂……、っていっても患者さん専用のですけど。そこに常備してあるのでこちらは自由にお使いください」
男性看護師はナースステーションに向かいながら説明する。
「託生。良くなってるんですよね?」
「ええ。呼吸もかなり落ち着いてきて……、でも、口内炎で食べられないのが影響して、栄養不足でまた口内炎が出来るって悪循環で」
「一般病棟へはいつ頃」
章三はいくらでも我慢できるが、壱佳の眠りがまた以前のように浅くなり始めている。いつ、癇癪を起こしてもおかしくない状況だった。
「僕たち看護師は病状については言えない決まりなんです。すみません」
「スマホも使えない状態ですか?」
会えなくても壱佳に託生と話をさせてやりたい。今まで託生の具合が悪く、スマホを握ることさえできなかったが、心のゆとりができたように思う。
「スマホについては僕から三洲先生に聞いておきます。壱佳ちゃんもお話したいでしょうし」
「お願いします」
確かに託生は回復への道程を進んでいた。
ナースステーションでガーゼを貰った後、食堂に入る。食事の時間ではないので閑散としていて、他に患者はいない。
「ストローはこれを使ってください。ビニールは僕たちが外しますから絶対に破かないでくださいね」
「ガーゼもその都度、新しいものを貰いに行った方がいいんでしょうか?」
「その方が僕たちはありがたいです。ガーゼを使う度にナースステーションに行くのが面倒とか、勿体ないっておっしゃる方がいるんですけど、全て患者さん第1に考えてですから」
それに、託生は今、重篤な状態だ。些細な雑菌が命取りになる可能性もある。託生の命に代えられない章三はガーゼを取りに行くことを面倒とは思わなかった。
それじゃ、僕はこれで、と言って食堂を出て行った男性看護師を見送り、章三は壱佳の頭を撫でる。
患者専用の食堂があるのは章三も知って利用もしている。託生は病室で食事をしていたが、見舞いの品は食堂にある大型冷蔵庫に患者の名前と病室番号を書いて保存していた。
大型冷蔵庫の扉を開け、託生の名前が書かれたビニール袋を取り出す。傷む直前に壱佳と食べていたが、もう残り少ない。林檎もあったが、かなり萎びている。
「壱佳。売店に行くぞ」
「林檎、あるよ?」
「新しいのでジュースを作るんだ。壱佳にはこの林檎でアップルパイを作ってやる」
売店に行き、林檎を買って食堂に戻る。途中で前の病室に置いてきた包丁のことを思い出し、集中治療室のある3階のナースステーションに聞きに行く。ナースステーションに行くと、包丁の他にも託生の着替えや洗濯物が籠に入れて保管してあった。
「すっかり忘れてて……、すみません」
「いいのよ。今は包丁だけでしょ?病室が決まったら洗濯物とかパジャマは取りに来ればいいから。それと、病室が決まるまで包丁はこちらで保管しておくから使い終わったら戻してね」
「ありがとうございます」
看護師長の女性の温かみのある言葉を聞いて一雫、涙が溢れる。服の袖で目元を拭っていると、肩をバンバン強く叩かれて、
「いつでも頼ってらっしゃい。若い子も子供もおばさん、大好きだから」
章三が食堂で林檎の皮剥きをして、種を取る。無言だったからか、壱佳はジッと章三を見ていた。
「章三先生。どうやってジュースにするの?」
今までにも託生が入院したことはあり、章三は託生の為におろし金を入院用品の中に入れている。けれど、今回は看護師長の温かい言葉に動揺してしまい、包丁しか取ってこなかった。
「おろし金、忘れた」
なんという失態だろう。これからまたナースステーションに行くのは恥ずかしすぎる。
「壱佳、行ってくる」
パタタッ、と足音を響かせて壱佳が走って行く。
「走るんじゃないぞ」
「はーい」
いい子の返事をした壱佳が1度章三を振り返り、手を振って歩いて行く。
章三の状態をわかっている訳ではない壱佳の言葉を聞いてホっとしたのと同時に、壱佳に気を使わせてしまった申し訳なさに自己嫌悪する。
壱佳を追い掛けようか考えて、物がおろし金なので壱佳に任せることにした。おろし金はプラスチック製で普通に触れるだけじゃ手は切れない。
けれど、ナースステーションに行った壱佳はなかなか戻って来なかった。
ナースステーションまでの道程は遠い。章三が一緒にいるとお互い頭を下げる程度で通過できるが、壱佳が1人で歩いていると声を掛けられ、人によっては菓子を渡そうとする。
壱佳は菓子が好きで本当は貰いたいけれど、この病院では患者同士の金銭が絡んだものの授受を禁止している。菓子など小さなものでも時と場合によって、大きな問題に発展することもあるので、病院側で禁止しているのだ。
「あらあら、壱佳ちゃん。忘れ物?」
さっきの看護師長がナースステーションに入って来た壱佳を見付けて声を掛けて来る。
「うん。林檎するやつ、章三先生が忘れちゃって」
「お使い偉いわね、ちょっと待ってて」
看護師長が壱佳に背中を向け、壁際の飾り棚の方に歩いて行く。その隙に壱佳は歳の若い看護師に声を掛け、ナースステーションに向かう途中で渡された菓子を渡す。
託生が困るとわかっているものを渡されるのは初めてではないが、これまで壱佳はなんとか菓子を断ってきた。けれど、今日のおばさんはいらない、と言っているのに無理矢理壱佳の手に菓子を握らせる、病院では常習犯で有名だった。
「これ、どうしたの?」
「あのおばさんに貰った。でも、人からものを貰うとたぁくんが困るでしょ?お姉さんから返してほしいんだけど」
「また森さんか。可愛い子がいると、ついあげたくなっちゃうのわかるけど、規則だからねぇ〜」
マンションのご近所さんにも矢鱈とおかずをタッパーに詰めて持って来る人がいる。年配の女性が多いらしいが、託生の家のご近所さんは若者ばかりで、ご近所におかずのお裾分けをするような人はいない。回覧板が回ってきて知ったのだが、年配が住む低層階ではご近所トラブルで引っ越しまでした家もあったそうだ。
貰い続けるのも駄目。貰ったものと遜色ないものをあげなきゃだから、結構面倒臭いんだよね、と託生がぼやいていた。
「看護師長さんに見つからないようにね」
先程、章三には優しかった看護師長だが、実は1番怖い人物だ。規則を徹底して守り、だからこそルール違反を見つけるとみっちりお小言が始まる。壱佳が森に菓子を握らされたのは初めてだが、看護師長が怖いことを患者たちの話で知っているので、若手の看護師に菓子の返却を頼んだ。
「あら、三洲先生。これからお昼?」
壱佳のおろし金を取りに行った看護師長がナースステーションに入って来た三洲に声を掛ける。
「ええ。医局にいますから何かあったら鳴らしてください」
三洲はナースステーションに立ち寄っただけのようで直ぐに出て行く。これから昼ということは、壱佳の話を聞いてもらえるかもしれない。
三洲の後を追ってナースステーションを出た壱佳はテレビドラマで見た刑事の真似事をするように、右側の壁際に寄ったり、観葉植物の影に隠れたりしながら三洲の後をついて行く。
「あ」
三洲の後をつけるのに必死で、エレベーターに乗られた後のことを考えていなかった。エレベーターの扉の前でう〜ん、と悩んでいると、
「壱佳くん」と声を掛けられた。
声の方を見ると、エレベーターに乗ったはずの三洲が立っている。
「あれ?なんで?」
三洲はエレベーターの扉の内側に確かに消えた。確かに三洲は医局に向かった筈なのに、何故壱佳の前にいるのだろうか。
「壱佳くんがつけているのはわかってたから途中下車して、非常階段でここまで戻った」
三洲が呼んだエレベーターに乗って壱佳も医局に行く。そういえば医局が何階にあるのか、壱佳は知らなかった。
医局には白い白衣を着た医師が大勢いて、壱佳はキョロキョロ辺りを見回しながらソファまで進む。
三洲はここで昼食を食べるらしいが、同じソファに白衣を脱いだ医師が寝ている。
「壱佳くん、おいで」
ソファの上のクッションを退けて三洲が壱佳の座る場所を作ってくれる。そこに壱佳が座ると、三洲はテーブルの上の弁当を開けて食べ始めた。コンビニで売っているような、透明なプラスチックの容器に入っていた。
「お昼はハンバーグ?」
弁当を食べながら三洲が聞く。
なんで知っているのだろう。狐につままれたように呆けた顔で三洲を見上げていると、
「ここ」と箸の先で胸元を指された。
「ソースが跳ねてる」
「章三先生に洗ってもらう」
三洲は壱佳が一言言う間にお弁当箱を空にして食事を終えた。
「それで話って?」
「壱佳の話、聞いてくれる?」
三洲は壱佳の話を聞く為に凄いスピードで弁当を食べてくれたのだ。
「そのつもりで壱佳くんを連れて来たからね。赤池さんは知ってるのかな?」
ナースステーションにおろし金を取りに行く理由で章三の側を離れた壱佳は、看護師長にも黙って来てしまった。
「知らない。ナースステーションに林檎するのを取りに行ったのは知ってる」
「わかった。話が終わったら一緒に行こう」
三洲は胸元のPHSでどこかに電話すると、
「もう大丈夫。でも、赤池さんが心配してたよ」
「ごめんなさい」
どうやらナースステーションに電話していたらしい。章三にも後で謝ろう、と決める。
不意にソファで寝ていた医師がムクリ、と起き上がりフラフラした足取りで冷蔵庫の方に歩いて行く。扉を開け、中からブリックパックのジュースを1本取り出すと、
「三洲っ」と声を掛けて放り投げる。
難なくキャッチした三洲がジュースを投げた医師にありがとうございます、と言った後、
「はい、蜜柑ジュース」と壱佳に差し出す。
けれど、ものを貰うと託生が困る。壱佳は首を横に振っていらない、と示す。
「あ、そうか」
壱佳が看護師と話していた内容を知っていた三洲は、
「大丈夫。俺たちは患者さんじゃないから」
「たぁくん、困らない?」
「困らない」
三洲が蜜柑ジュースのサイドに貼り付いているストローを剥がして穴に差し込み、壱佳に持たせる。少し迷った後、チュー、とジュースを吸った壱佳は続けてゴクゴクジュースを飲む。
「たぁくんに会いたい。お話したい。たぁくんはいつ退院するの?」
訴えるように叫ぶ壱佳の目からは大粒の涙がポロポロ溢れ落ちる。三洲に聞きたいことは他にもあったが、それよりも壱佳も章三も知りたいことを聞く。
「まだ当分は無理だな」
「当分ってどのくらい?」
「俺にもわからない。このまま良くなれば一般病棟に移るのも目処が立つが、葉山さんの容態は安定していない。この電話は患者さんに何かあった時の為に持っているんだが、今、この瞬間にもこの電話が鳴るかもしれない状態なんだ」
胸のポケットに入っていたPHSを壱佳に見せて三洲が説明する。
「ママが寂しくて、天国に連れてっちゃう?」
「そうならないように俺も、看護師も頑張ってる。勿論、葉山さんも壱佳くんとまた一緒に暮らす日の為に頑張ってる。みんな頑張ってる。壱佳くんは頑張れない?」
壱佳は一生懸命首を横に振る。
「壱佳、頑張る。後ね」
ズズっ、と洟を啜ると三洲がティッシュの箱からティッシュを2、3枚引き抜いて壱佳の鼻に当てる。三洲がティッシュを鼻に当てた状態のまま、ズビビっ、と洟をかむ。
「何?」
「壱佳にまうつーまうの仕方、教えてほしい」
「まうつー……?」
「たぁくんが苦しい時に三洲先生がしてた」
「ああ。mouth to mouth」
三洲は使用済みのティッシュをソファの脇の屑籠に入れる。
「今の壱佳くんには無理だな」
「なんで?」
一旦引っ込んだ涙がまた流れてくる。今日の壱佳の涙腺は壊れてしまったようで些細な言葉に過敏に反応する。
「壱佳くんが葉山さんを助けたいのはわかる。でも、子供の壱佳くんと葉山さんとじゃ肺活量が違う。今は壱佳くんが頑張るより大人を頼った方が葉山さんは助かる」
「壱佳、何もできない?」
また、涙が溢れる。こんな壱佳を見たら託生が心配するとわかっているのに、涙が止まらない。
「壱佳くんは俺に電話をくれただろう?あの電話がなければ……」
壱佳が三洲を見上げる。何を言われるのだろう、と思っていると、苦しそうな声で、
「葉山さんは亡くなっていた」と重い言葉を告げた。
あのまま医局にいる訳にもいかず、大声で泣き喚く壱佳を抱き抱えながら三洲は集中治療室のある3階のナースステーションに向かう。通り過ぎる患者や看護師、医師までもが三洲と壱佳を振り返って見ている。
「壱佳くん、泣かないでくれ」
職業柄、患者には事実しか言わない三洲だが、今回はそれが災して壱佳は大泣きしてしまった。医局で休憩を取る医師たちの邪魔をすることもできない三洲は、人の目を避けて非常階段を使い、漸く章三に壱佳を引き渡した。
「壱佳、どうした?」
「たぁくん、死ぬぅ〜!」
「すみません。壱佳くんが1番の功労者だと言いたかったんですが……」
子供のあやしかたはわからない。真行寺が保育士をやっているが、三洲には到底真似できない神業だと思う。
「こちらこそすみません。ここのところ、ずっと病院に来ていたから疲れも出たんだと思います。壱佳、帰ろう」
「いやだ〜っ!たぁくんとこいる〜っ!」
泣き叫んで暴れる壱佳を抱き抱えて階段を降り、ひとまず人の迷惑にならない車の中に移動する。壱佳を宥めていると泣いた疲れと、このところの睡眠不足も祟ってか、いつしか壱佳は眠ってしまった。
壱佳が三洲のところに行っている間に託生の林檎ジュースも作ってやれたし、今日はここまでだ。
泣き喚いた壱佳も明日には落ち着く筈だ、と思いながら章三も後部座席の壱佳の隣でいつの間にか眠りに落ちていた。
遠くから尚人と章三が話す声が聞こえたような気がして壱佳は目覚めた。身体を起こして手の甲で目をゴシゴシ擦って見るが、尚人も章三もいない。久しぶりにぐっすり寝た感じはするが、頭がぼーっとする。
部屋の扉を開けて、おはようと章三に挨拶すると、尚人の声で、
『お寝坊さん、もう昼だぞ』と返ってくる。
尚人はアメリカで仕事をしていて、ここは日本だ。
「壱佳、おはよう」
章三に挨拶され、パパの声がした、と言うと、壱佳、こっちこっち、と尚人が言う。
『こっちだぞ』
よく見るとリビングテーブルの上に託生のタブレットが立て掛けてあり、尚人の顔が画面いっぱいに映っていた。一気に覚醒した壱佳は急いでリビングに行き、尚人の正面の椅子によじ登って託生の具合が悪いことを懸命に伝える。
『章三先生から聞いたところだ。壱佳、よく託生を助けてくれたな、ありがとう』
話が始まって壱佳の隣に章三が座る。画面の向こうで尚人が腕を伸ばし、遠く離れた壱佳の頭を撫でる。
「でも壱佳、何もできない」
『そんなことはない。壱佳が託生の異変に気付いて三洲先生に電話をしてくれたから、託生は命を落とすことなく治療を受けられた』
「三洲先生も壱佳が電話しなかったらたぁくんは死んでた、って言った。でも、壱佳が電話しても、まだたぁくんに会えない。入院してる。こんなの全然助けてないよ」
『そうかな?壱佳のお陰で命がある。今は入院しているけれど、必ず退院して家に帰ってくる』
壱佳もそうなればいいと思う。けれど、昨日三洲に言われた言葉が衝撃的で、尚人の言葉を聞いても安心できない。
「昨日、三洲先生が言ってた。このまま良くなれば一般病棟に移るのも目処が立つのに、たぁくんの容態は安定しない。今にも三洲先生の電話が鳴るかもしれない状態だって」
理解できない言葉は多くあったが、言われた言葉なら覚えている。三洲の口振りをみてもいいこととは思えない。
『それは初耳だ』
「僕も。壱佳、それ、医局に行った時?」
壱佳はうん、と頷く。
「たぁくんに会いたい。お話したい。退院はいつ?って聞いた。それから、まうつーまうの仕方を聞いたら、壱佳は子供で肺活量が違うから無理って言われた」
昨日のことを思い出すだけでまた涙が盛り上がってきて、壱佳の涙腺が決壊してしまう。章三がティッシュボックスからティッシュを数枚抜き取ると、壱佳の目頭に当て涙を拭ってくれた。
「壱佳、頭がぼーっとするからたぁくんのお部屋に入院する」
『それは駄目だ。壱佳のは単なる寝過ぎ。章三先生から聞いたんだけど、ずっと保育園を休んでいるんだって?』
「うん。たぁくんが心配で」
『でもね、壱佳。章三先生にも言ったけれど、2人が病院に行ったところで託生の容態が好転するものじゃない。行くな、とは言わない。けれど、自分の役割を果たしてから病院に行きなさい』
「役割?」
『壱佳は祠堂保育園の園児。章三先生は保育園の保育士。保育園で1日過ごして、その後だったらパパも見舞いに行っていい、と言う』
「でも、たぁくんが……」
『心配なんだろう?それは壱佳だけじゃない。章三先生も、パパも、勿論おじいちゃんおばあちゃんだって託生を心配してる。けれど、やるべきことを優先させなきゃ駄目だとパパは思う』
壱佳のやるべきこととはなんだろう、と考える。
託生の病院に見舞いに行って、御百度参りをする。後は、託生が欲しがるジュースを章三と作って、看護師に渡す。壱佳が託生の為にできることはそのくらいだ。
そこまで考えて、壱佳は昨日、託生の林檎ジュースを作っていなかったことを思い出した。
医局で大泣きしてしまった壱佳は三洲から章三の手に渡ったが、気が付いたら家にいて、尚人と章三と話してる。
「壱佳、昨日、たぁくんの林檎ジュース、作ってない」
今の今までおろし金のことも、林檎ジュースのこともすっかり忘れていた。託生が林檎ジュースを飲みたがっていたのに、どうしたのだろうか。
「僕が作って看護師さんに渡したから心配しなくていいよ」
「ごめんなさい」
今日のパパは怖い。壱佳が何もできないから怒っているのだ。
『mouth to mouthは壱佳にはまだ早い。それはわかったね』
「うん」
『壱佳にできることを探す姿勢はいいと思う』
厳しい表情だったけれど、尚人は壱佳を褒めてくれた。しかし、この後に続く言葉は、壱佳の背筋をピン、と伸ばさせる厳しいものだった。
『けれど、意のままにならないからといって病院内で癇癪を起こすのはいただけない。壱佳の泣き声でどれだけの人が迷惑を被ったと思う?』
迷惑を掛けたことは自覚しているが、壱佳にも言い分はある。尚人の言葉を聞いて項垂れてしまった壱佳は何も言い返せない自分が悔しくて唇を噛む。壱佳も何か尚人に言ってやりたい。壱佳がずっと思っていることを……
「パパは……」
『ん?何?』
壱佳は項垂れていた顔を上げ、正面にいる尚人をキッと睨み付けるように見た後、胸のうちに燻っていたことを言う。
「パパはたぁくんが苦しんでるのを見てないから壱佳に保育園に行けって言えるんだ。パパはたぁくんのお兄さんなのに、なんでアメリカにいるの?たぁくんが心配じゃないの?」
尚人が大きな溜息をついたのが画面越しにもわかる。壱佳に呆れているのだ。
『たとえばの話をしようか。たとえば、僕が仕事を放り出して託生のいる日本に帰ったら、次の日から託生は元気になる?答えはNOだ。それはわかる?』
尚人が壱佳にパパ、ではなく僕、と言ったことに気付いた。きっと尚人は凄く怒っている。けれど大人だから怒鳴ったりしないで、壱佳を言葉で納得させようとしている。
「うん」
壱佳が託生の側にいるだけで託生が元気になるなら、一生壱佳は託生と一緒にいる。託生が好きとか関係なく、家族として託生の手助けをしてあげたい。
『次のたとえば。託生の入院に掛かるお金は誰が出す?おじいちゃんは寝たきりだし、おばあちゃんはおじいちゃんの介護だけで手一杯。毎月の生活費も僕が出してる。託生も保育園の仕事を辞めて収入はない。壱佳は6歳だから論外だ』
壱佳は無言で尚人の話を聞くが、尚人の追求の手は止まらなかった。
『それから、そこにいる章三先生』
壱佳は隣の章三の顔を見て、その後尚人に向き直って話を聞く。
『今までは章三先生の好意に甘えて壱佳の雨の日の送迎にお金を払っていなかった。けれど、託生の入院が長期になると確定した今、章三先生にもお金を支払わなければ壱佳の面倒をみてもらうことができない。章三先生にお金を払わなければ壱佳はご飯を食べることも、お風呂に入ることも、保育園に行くこともできなくなる。勿論、託生の病院にも章三先生がいたから見舞いに行けてた。6歳の壱佳が1人で病院に行ったら、守衛さんが来て、警察に連れて行かれる。そのあたりの自覚はある?』
金の存在は知っていたけれど、生きていくのに必要だという実感はなかった。菓子やジュースが欲しければ普通に託生が買ってくれて、金がどこからきているか、考えたこともなかった。託生の見舞いだって、子供1人じゃ行けないなんて知らなかった。
『パパだって、今直ぐにでも日本に帰って託生を見舞いたいよ?でも、パパが仕事を放り出したら、おじいちゃんもおばあちゃんも託生も壱佳も、生きていけない。それはわかってくれた?』
「うん、ごめんなさい」
『うん。パパも言い方がキツかったね。お金の話はこれで終わり』
壱佳のパパが戻ってきた。壱佳が納得したから怒りを鎮めてくれたんだ。壱佳にできるのは、毎日保育園に行って、その後病院で託生を見舞う。その後、章三と神社にお参りして、託生の回復を願う。
「わかった。ちゃんと保育園に行く」
『それから壱佳。壱佳は託生の側にいなきゃ……って考えてるみたいだけど』
「うん。昨日は忘れちゃったけど、たぁくんが林檎ジュースを欲しがってたら章三先生と一緒に作らなきゃ」
『それそれ。病院側も託生の要求を全て壱佳と章三先生にさせるつもりじゃない。昨日は偶々家族がいたから頼んだんであって、いなければ看護師がやってくれる。全部熟そうとするから2人とも疲れて、章三先生はおろし金を忘れるし、壱佳は癇癪を起こすんだよ』
「でも、看護師さん、大変だよ?」
『それも仕事のうち。こっちはお金を払って治療を受けているんだから、仕事はきっちりしてもらう。……ごめん、お金の話になってしまった』
尚人はやっぱり大人だ。章三も託生も大人だけれど、2人より早く生まれたから世の中のことを知っている。
「尚人さん、お仕事中にすみませんでした。それと、託生のことは任せてください。もう大丈夫です」
章三が画面の尚人に向かって頭を下げる。
『いやいや。礼を言わなきゃならないのはこっちの方で……。それと、母から連絡があって、託生に会えるようになったら連絡ください、と。やっぱり会いたいみたいです』
「わかりました。それじゃ、お仕事頑張ってください」
『See you.』
尚人が壱佳に手を振って意味のわからない言葉を言う。最後に尚人が何と言ったのかわからなかったけれど、プツッと小さな音がして尚人の顔は真っ黒い画面に吸い込まれるように消えた。
「壱佳、今日はどうする?」
疲れが溜まっていたのか、それとも大泣きして緊張感が途切れたのか。壱佳は珍しく昼まで寝てしまった。尚人の言葉が頭にまだあったけれど、やはり託生の様子は気になる。けれど、尚人に言われたのに保育園に行かなきゃ、尚人の怒りは海を渡ってやってくる。
「これから保育園って行ける?」
「大丈夫だ。僕も島田先生に連絡入れなかったこと謝らなきゃならないしな」
章三が託生のタブレットを片して昼食の用意をする。
章三はいつも嫌な顔1つしないで壱佳の面倒をみてくれるが、章三は託生の友達で、壱佳とは全く縁のない人だ。そんな人が壱佳の面倒をみてくれるのは、全て託生のお陰なのだ、と今になって漸くありがたみがわかった。
尚人とテレビ電話を使って3人で話をした日から章三と壱佳は一緒に保育園に再び通い始めた。久しぶりに登園した壱佳を園児たちが囲み、壱佳が泣き出してしまう場面もあったが、壱佳と友達になった義一と佐智が壱佳の背中を撫でて落ち着かせたので側で見ていた章三もホっと一安心だ。
章三の方は先生方から託生の安否を聞かれ、嘘を吐かず一進一退です、と答えた。
真行寺は託生の状態を三洲から聞いて知っていて、遅番の章三の仕事を一手に引き受けてくれ、壱佳と託生を見舞う時間帯も前より早くなった。尚人が最後に言っていたのは、大変な時は人を頼れ、ということだと改めて気付かされた。
章三は島田から呼び出しを受け、園児たちの昼寝の時間、寝静まっている園内の廊下を歩いていた。島田にも託生の状態は電話で伝えてあるが、やはり対面で話した方がいいのはわかっている。
園長室の扉をノックした章三は、島田の応えを待って扉を開けた。
「失礼します」
島田が指し示した皮張りのソファに座ると、温かいジャスミンティーをテーブルの上に出される。
「頂き物なんだけど、神経が落ち着くと聞いて。美味しいよ」
カップを持ち、軽く鼻に近付けるとジャスミンの薫りが漂ってくる。島田の言う通り、神経過敏になった章三に適した飲み物だ。
「お話というのは」
「託生先生……、いや、葉山さんのことなんだが」
託生は祠堂保育園の保育士をしていたが、今では壱佳の父兄だ。一父兄のことで章三に話がある、というのは珍しい。
「章三先生と島岡さんから話を聞いて、葉山さんがバスハイクに行ったのは壱佳くんの為だとわかりました」
「はい、その通りです」
多くの父兄は自分の子供の為に仕事の予定を調整して幼稚園。或いは保育園の行事に参加するのは普通だ。何も不都合のない章三は何も疑うことなく答えた。
「けれど、葉山さんにとって動物園は鬼門とも伺いました」
「はい」
動物園に行った所為で託生は今、生死の境を彷徨っている。一時に比べれば具合は良くなったが、まだ意識が朦朧としている時間が長く、章三も壱佳も託生を廊下から見舞うだけだ。御百度参りも欠かしていないが、最初の1回目でご利益があって浮かれていたのを嘲笑うかのようにその後は芳しくない状態だ。
「いえね、おかしいと思うんですよ」
「おかしい?」
「壱佳くんの所為で葉山さんの具合が悪くなる。絶対、壱佳くんには知られたくない情報です。けれど、島岡さんは壱佳くんがそう言ったとおっしゃる」
託生が秘密にしたいことを明らかにしなければならないのか、章三は考える。
「島田先生は事実を知ってどうなさるのですか?」
「特にありません。ただ、元祠堂保育園の保育士ですので1度、お見舞いに伺いたいと思っています。葉山さんと話をした時に齟齬のないように確認したいだけです」
「託生はまだ会える状態ではありません」
「わかっています。私が疑問に思っていることですが、義一くんも同感だそうです」
「義一くん?」
「義一くんの初恋の相手が葉山さんだということはご存知でしたか?」
「恐らくそうだろうと思っていました」
「義一くんは葉山さんに告白したそうです」
驚いて章三の顔が引き攣る。託生と話をした時はただの世間話という感じだったが、義一の愛を受け入れたという話はその後も聞いていない。託生が章三に隠し事をしたことはなく、小学生の時の事故の話もしてくれた。
「そんな怖い顔をしないでください。義一くんは葉山さんに振られたそうです」
義一を振ったのであればことなかれ主義の託生ならば話さない。託生にとって告白はなかったものと位置づけているからだ。
「壱佳くんは葉山さんに大好きオーラを飛ばしていますが、実は壱佳くんと恋仲だから義一くんは振られたのでしょうか」
「いえ。託生と壱佳は叔父と甥の関係で、それ以上のものはありません」
「すると、なんとも思っていない相手だから、壱佳くんの所為にしても平気ということか」
島田が人の色恋に興味を示す訳がわからない。託生の過去を話せば想像に過ぎない本当の理由は自ずとわかる。
「誰かから頼まれたんですか?」
「義一くんと壱佳くんは友達です」
「ええ」
託生の体調が崩れたことがきっかけで義一と壱佳は親しくなれた。託生が体調を崩さなければ壱佳は祠堂保育園で1人の友人も得ずに卒園しただろう。それはそれで問題があるが、カースト制度のある祠堂保育園ではそういうことが罷り通っている。
「本当に壱佳くんの所為で葉山さんの体調が崩れたなら、葉山さんを好きな義一くんは壱佳くんとどう付き合うか考えると思いませんか?」
島田の言うことは一理ある。好きな人の具合が悪くなったのが友達の所為だと言ってしまえば、あの義一も壱佳との付き合いを考えるかもしれない。
「壱佳の所為というのは外出許可申請書に記載された表立った理由で、僕は本当の理由を知らないのですが恐らく違うと思います」
「見当はついてる?」
「はい。壱佳にも話しました」
「私に教えてくれませんか?葉山さんは誰にでも優しい。その葉山さんが壱佳くんの所為にするなんて信じられない。葉山さんを雇用した立場としても考えさせられる案件です」
島田の立場を考えれば園児の為に働く職員が、体調の悪くなった理由を園児の所為にしたのは問題だ。島田の気持ちはわかるけれど、きっと託生は内密にしたいはずだ。
「外に漏らさないと約束してくださいますか?」
「勿論」
ごめん、託生、と心の中で託生に謝って章三は話すことを決める。けれど、過去に託生に遭ったことは語らないことを誓って、もう冷めてしまったジャスミンティーで唇を湿らせる。
「詳しいことはお話できません。島田先生は彼らと無関係ですから」
「わかっています。私は、葉山さんが鬼門の動物園に来た本当の理由を知りたいだけです」
章三はもう1度、しつこく食い下がる島田を訝しく思う。
義一は昼寝の時間、遊戯室を抜け出して先生たちの部屋に来る。託生の体調が良かった頃は裏庭にも来ていた。もし、この場に義一がいたら……
「失礼します」
一言断り、章三がソファから立ち上がる。まずは園長室の室内をぐるりと見回し、島田の両袖の机の方に進む。
「章三先生、何を」
「ここに義一くんが隠れている可能性もありますから、念の為」
両袖机の椅子を引いて天板の下を覗き込む。誰もいない、小さな空間が広がるだけのそこに椅子を戻し、園長室内の義一が隠れられそうな場所を徹底的に探す。
「義一くんはいましたか?」
余裕たっぷりの島田が気になるが、義一は本当にいないのかもしれない。
「いえ、いま……」
章三の声がフェイドアウトする。
園長室には続き部屋があり、職員が入ることは滅多にないが島田の客人であれば応接室に通される。応接室の扉を開けて室内を見渡すがやはり誰もいない。応接室の中央にある皮張りのソファで歪に凹んでいるところもなく、部屋の空気も動いていない。
「すみません」
園長室の元のソファに座り、ジャスミンティーを飲む。
島田に話すことは何れ義一にも伝わるが、なるべく過去のことに触れない範囲で話そうと決める。
「託生は人に優しい男です」
「それは私にもわかります。特に園児には人気者ですよね?」
園児の人気は章三より託生の方が上だ。イケメンではないが、章三の整い過ぎた顔は園児に好まれないらしく、平凡な風貌の託生の方が好き、という園児は多い。
「けれど、過去に優しい託生を裏切るような行いをした人物がいました」
「ほう」
「以来、託生は人を信じられず、壱佳にも好き、と言わなくなりました」
「壱佳くんは葉山さんが大好きなのに?」
「壱佳が託生に育てられるようになったのは今年からですが、1度も……」
「本当のところはどうなんです?」
「大好きです。けれど、いつか、壱佳が託生を裏切るかもしれない」
「臆病になってしまったんですね」
「もう、誰にも裏切られたくない、と言っていました」
「けれど、裏切りと今回のこととどう繋がるんです?」
「子供は大人になれば殆どが家を出て1人立ちします」
「もしかして、バスハイクを楽しみにしていたのは葉山さん?」
「ええ。恐らく、家を出て行った壱佳との思い出を作りたくて、託生は死を覚悟してバスハイクに行ったんだと思います」
「人との縁なんてそう簡単に切れるもんじゃない。葉山さんは知らないのかなぁ」
「託生を裏切った人物とはその後没交渉です」
「わからないのか」
ふと、島田の両袖机の上の電話が鳴り響いてソファから立ち上がった島田が電話に出る。軽く頷きながら、はい、はい、と応じる。腕時計を見ると昼寝の時間は終わっていて、先生方から章三を早く解放しろ、という催促の電話だったようだ。
「僕は失礼します」
頭を下げて園長室を出て遊戯室に走って行く。島田は章三の後ろ姿を見送った後、園長室に戻り続きの応接室の扉を開ける。
「章三先生は帰ったよ」
島田が誰もいない空間で声を張り上げると、分厚い本が納められている書架の下の扉がスライドして義一が出てくる。大人だったら余程の小柄な人でも隠れられないところに、子供の小さな身体を生かして義一は隠れていた。章三が応接室の扉を開けた時は冷や汗ものだったが、応接室が先生たちさえ出入りしない場所なのが吉と出た。
「知りたいことはわかった?」
島田が義一に聞くと、いえ、と短い返答がある。
「ガードが硬いです」
島岡に聞いても大人になってから託生に聞け、と言われたし、島田は知らない。島岡並みに託生のことを知っているだろう章三に今回アタックしたが、警戒されて託生の過去について聞けなかった。
けれど、吉報もある。島岡は託生が壱佳のことしか考えていない、と言っていたが、今日の章三の話だと託生が壱佳との思い出を作りたがっている。
今のところ義一は託生の眼中にないから対象は壱佳だが、義一が託生と相愛になったら託生は義一の思い出を作ろうとしてくれるだろう。
「島田先生、ありがと」
島田に軽く手を振って義一は遊戯室ではなく、裏庭の方に走って行く。昼寝の時間が終わった今、園内では先生たちが義一を探し回っている筈だ。もう、調べられたかもしれないが裏庭も広いので1度で義一を見つけるのは難しい。裏庭で寝た振りをしながらのんびり先生を待つことにした。
島岡から聞いて託生の容態を知った義一は、その日からいるかいないかわからない神様にお祈りを始めた。
島岡が託生死亡の噂があると章三と壱佳に言った時の壱佳の激震振りも聞いていた義一は、保育園に戻って来た壱佳をなるべく外で遊ばそうとした。
託生の具合が気になるのに絵本なんかよんでいたら余計に悪い妄想に取り憑かれると思ったからだ。
義一も午前中の勉強を壱佳に合わせ、園庭で走り回るようにした。家で消化する課題の量が増えたが、託生の為と思えば全然苦痛にはならなかった。ただの駆けっこではなく、チームプレーが要のリレーやサッカーなど、とにかく声を出しながら走り回って爽快感の得られるスポーツを選んでした。
始め壱佳は気乗りしないようだったが、義一が積極的に壱佳に声を掛け、バトンを渡し、パスを回すうちに壱佳もスポーツを楽しめるようになった。
その日も壱佳とサッカーをしていると、遊戯室の方から章三が何かを持って園庭に走って来る。しかも、室内履きのままだ。託生に何かあったのだろう。
「壱佳っ」
章三の周りに園児が集まる。夏の日差しも相俟って皆、汗でビショビショだ。
章三の手にはスマホが握られていた。
「託生からメッセージが来たっ」
園児がワアっ、と歓声をあげる。義一は島岡から聞いて託生の容態がよくないことを知っていたが、他の園児は生死さえ知らなかったのだ。人気のあった託生だから喜びもひとしおだろう。
「壱佳、こっち来て」
章三が壱佳を木製のベンチの方に連れて行く。義一も他の園児たちも一緒について行き、ベンチに座った章三と壱佳を囲む。
「ほら」
章三がスマホの画面を壱佳に見せる。
「約束守れなくてごめん、って書いてある」
どんな約束をしたかわからない他の園児が章三に聞くと、
「早く退院するって壱佳とげんまんしたんだ」と説明する。
「じゃあ、まだ退院じゃないじゃん」とつまらなそうに言う園児もいたが、託生が危篤だったことを知る義一は、スマホを打てるくらいには回復した、と喜んだ。
「壱佳、託生にメッセージ出せよ。きっと待ってる」
章三が壱佳にスマホを渡し、
「打ち方わかるか」
「大丈夫。わからなくなったら義一くんに聞く」
「そっか。高いんだから落とすなよ」
章三が壱佳の頭をグリグリかき回した後、ベンチから立ち上がりググーッっと背伸びをする。章三も今日来た託生からのメールで安心した筈だ。もしかして、章三はこれから託生の見舞いに行こうと考えていたのだろうか、と思い当たった義一は、
「ごめんな」と壱佳に謝る。
「なにが?」
「見舞いに行くつもりだったな、って」
「ううん。今は行かない」
「なんで?先生、待ってる」
「そうかもしれないけど、まだ会えないから。今、たぁくんのお見舞いに行ったらパパに怒られる」
「なんで怒るんだ。先生のお兄さんだろ?」
「うん。そうなんだけど、壱佳や章三先生が病院に行ってもたぁくんはよくならないから。役割を果たしてから行きなさい、って言われたんだ」
そういう考え方もあると義一は初めて知った。壱佳が託生に会いに行けば託生は喜ぶ、と単純に思っていたからだ。
けれど、今の託生の容態は壱佳に会える程良くはなっていないし、壱佳が病院に行っても看護ができる訳でもない。返って託生は気疲れして余計に悪くなってしまうかもしれない。
「壱佳。先生にメール打たないのか?」
餓鬼大将の香椎が、スマホをジッと見つめたまま打とうとしない壱佳に聞く。
「先、いいよ」
壱佳の手から香椎にスマホが渡る。
「俺も送っていいのか?」
「うん。たぁくんもみんなから貰えると喜ぶと思う」
香椎の周りには他の園児たちが集まり、まずはメールを打つ順番をじゃんけんで決めている。その光景を見た義一は、
「ストップっ」と声を上げ、香椎たちの方に走って行く。
「なんだよ」
「みんながそれぞれメールを打ってると時間が掛かる。メールより動画の方が良くないか?」
義一の提案を聞いて香椎たちはオオ〜っ、と盛り上がり、今度はメッセージを言う順番をじゃんけんで決める。
「章三先生。勝手にすいません」
「いや。僕も良い案だと思った。ついでだから義一くんの案をパクって先生たちも動画を撮るか」
「いいと思います」
動画メッセージを撮る順番が決まったようで、章三が香椎たちの方に行き、カメラマン役を買って出る。香椎は子分たちと一緒に託生に送るメッセージを撮ってもらっていたが、勿論1人でメッセージを言う園児もいる。
「あ、佐智を忘れてた」
佐智はスポーツに疎くはないが、バイオリンを習っているので怪我。特に指の怪我は厳禁だ。佐智にはバイオリンの才能があるらしく、バイオリンの先生も毎回張り切っている。
「呼んでくる」
遊戯室の方に義一が走って行くと、途中で佐智と会う。どういう事情かわからないが、佐智は園庭に向かって歩いていた。
「託生先生からメールが来たんでしょ?」
「知ってたのか」
立ち話をしても結局園庭の方に戻ることになるので、佐智の腕を引いて歩き出す。
「遊戯室の方はその話題でもちきり。章三先生が壱佳くんに見せたのは想像付くけど、なんて書いてあった?」
「約束守れなくてごめん」
佐智も託生が壱佳と交わした約束を知っているので、そっか、とだけ答える。
「ねぇ、義一くん」
「なんだ」
「義一くんのお父さんにお願して、託生先生に最先端の治療を受けられるよう頼めないかな」
「佐智」
「だって、託生先生は勿論だけど、壱佳くんがかわいそうだよ」
できることなら義一も裕明に頭を下げていただろう。義一だけでなく、尚人も裕明に頭を下げて頼んだ筈だ。
「無理なんだよ。喘息は治らない病気なんだ」
人によって程度の差はあるが、軽くても喘息は治らない。発作が暫く起きていなかった人でも、ある日突然、風邪などをきっかけに再発作に見舞われる。そして、喘息によって亡くなる人も少なからずいる。
「壱佳、終わったか?」
佐智と一緒に壱佳のところまで歩いて行き、動画メッセージの進捗を聞く。動画メッセージを撮り終えた他の園児たちは引き続き、園庭で遊び始める。
「どうした?」
壱佳の顔を覗き込みながら義一が聞く。
「何を言えばいいのか、わからなくて。たぁくんは壱佳が会いたいと思ってるのも知ってるし、また壱佳と一緒に暮らす為にたぁくんが頑張ってるのも壱佳は知ってる。壱佳たちは簡単に頑張れって言えるけど、今頑張ってるたぁくんにもっと頑張れって言えない」
側で見てきた壱佳だから言える言葉だった。そんな言葉を聞いても義一は最悪のシナリオの上を通らないように頑張れとしか言えない。
「なら、言わなきゃいい。最近、壱佳の身の回りで起きたことでも託生先生は喜ぶ」
「身の回り?」
「パパに叱られたって言ってたじゃん。託生先生は知らないんだから、壱佳とお父さんの間でどんな話をしたのか知りたいんじゃないか?」
「そっか。そういうことでもいいんだ」
託生は入院中だから外の世界のことを知らない。頑張れとか、早く退院しろよ、なんて言葉は託生にはわかりすぎるくらい当たり前な言葉だ。
「後、義一くんと壱佳くんだけだよ」
「お前、終わったのか?」
「うん」
「なんて言ったんだ?」
「うふふ、内緒。義一くんと壱佳くんに勉強させられました」
他の園児たちが言っただろうありきたりな言葉を避けた佐智の言葉は知りたいが時間がない。そろそろ昼食の時間だ。
「じゃあ、とりは壱佳に任せて行ってくる」
義一はスマホを構えている章三の前に立ち、動画メッセージを贈る。
「7月に入りました。山奥に建つ祠堂保育園にも夏がきて毎日茹だるような暑さが続いています。園児の服も汗でビショビショで、着替えの時間が待ち遠しく感じます。蝉もミンミン鳴いて、お昼寝の時間の静かな遊戯室まで忍び入ってきます。町では熱中症で病院に運び込まれる人も結構いて、だからこそ託生先生にはゆっくり養生してほしいです。冷房の効いた病室で、銀杏の実が落ちる秋まで静養し、雪が振り始める冬に元気になって退院して来てください。崎義一」
最後にペコリ、と頭を下げてお辞儀をし、壱佳の方に走って行く。壱佳は俯き加減でベンチに座ったままだ。義一が壱佳の隣に座り、
「頑張れ」と肩を叩きながら言う。
章三もベンチの壱佳にスマホのカメラを向けながら近づいて来る。
「葉山壱佳です。ずっと保育園を休んでいて、パパに怒られました。病院で大きな声で泣いて、たくさんの人に迷惑を掛けてパパに怒られました。パパに怒られてから保育園に行き始めて、義一くんと一緒に園庭を走り回ったり、サッカーをしました。たくさん走った後は気分がすっきりして、走っている間は悪いことを忘れられ、お昼寝の時間もぐっすり眠れました。お見舞いの林檎で章三先生がアップルパイを焼いてくれました。たぁくんがいたら変な顔しながら食べるぞ、と章三先生が笑って言いました。それから……」
壱佳の瞳から大粒の涙がポタポタ落ちる。カメラマンをしていた章三が壱佳に歩み寄り、もういい、と言う。
「もういい。ここは病院の廊下じゃない。我慢しないで思い切り泣いていいんだ」
「章三先生」
手の甲で涙を拭いながら壱佳が聞く。
「神様はどうしてたぁくんを病気にしたの?たぁくんが何か悪いことしたの?壱佳が神様にお祈りしてるのに神様は許してくれないの?」
壱佳が発した質問に義一は答えられない。病気になる人とそうでない人との差なんてないと思っている。運が悪かっただけだ。
けれど、章三は違った。
「そうだな。壱佳、毎日頑張ってるのに神様は託生を助けてくれないな」
「うん」
「でも、託生は少しずつ良くなってる。神様はわかってるんだ。託生なら乗り越えられるって。神様は乗り越えられない試練を与えない。託生は本当は強いってわかってるから、託生を病気にして試したんだ」
「神様の、ヒック……、意地悪」
壱佳と章三の話を聞いて、2人もいるかわからない神様に祈っていることを知った。
ふええん……、と壱佳が本格的に大泣きを始めると章三がスマホを義一に渡し、壱佳を抱き上げる。
「それ、先生に渡しておいて。僕はもう少し壱佳といる」
「わかりました」
佐智と2人で遊戯室に向かう途中、佐智が足を止め義一を呼び止める。
「あれ、本心?」
託生の体調が崩れたのは6月の始めだ。それから冬まで病室で過ごせ、なんて普通の人なら言わない。けれど、テレビニュースを賑わす熱中症の話題も気掛かりで、体力の落ちている託生が罹れば重篤化するのは間違いないと思われる。だから、熱中症になるよりは涼しい病室にいた方がいいと言ったし、本心だ。
「本心だけど、何かおかしい?」
ちょっとだけ見栄を張って義一が言う。
本当は他の園児と同じように1日も早く退院してほしいと思う。それは間違いなく義一の本心だが、これからくる秋が託生の病気には怖い季節なことも喘息について調べて知った。また危篤になることを考えたら、章三や壱佳は寂しいだろうがゆっくり、焦らずに回復してほしいとも思う。両方とも義一の本心だ。
「大人だなぁって思っただけ」
義一はまだ子供だ。壱佳や章三の話を聞いて、こういう考え方もあるのだ、と勉強させられた。佐智と一緒だ。
これから世界に出て、知識だけでなく、懐も立派な大人になる。託生と歳の離れた義一はまだ幼いにも拘らず人より上昇思考が強い。
全ては大人になった義一と託生の未来に掛かっていた。
ベッドに横になったまま窓の外の景色を託生が見ていると、視界に託生の担当看護師の瀬尾の身体が割り込む。視線だけで瀬尾を見上げると、瀬尾が託生にスマホを差し出す。言わずと知れた託生のスマホだ。
三洲が許可した日に限られるが、託生は1日に15分だけ、スマホを見る許可を与えられる。スマホで何を見るのも自由だが、託生はSNSでもなく、スマホに触れられなかった間に届いたメールでもなく、祠堂保育園の園児や先生方から送られた動画メッセージを見る。この動画を見ると元気が出る。
瀬尾からスマホを受け取った託生は壱佳の動画メッセージを選んで見る。義一や佐智のメッセージも他の園児と違い、託生には嬉しい内容だったが、壱佳の様子を知れる動画は何度見ても飽きない。他の園児は託生の回復を訴えるばかりで、今の託生には少々キツかった。
壱佳の動画は途中で切れていたが、カメラのレンズが向けられていないところで壱佳の泣き声が託生に届けられた。
自分は間違っていたのだろうか。壱佳が喜ぶと思ってバスハイクに参加したが、結果的に壱佳を苦しめるものになってしまった。動物園が託生にとって発作を誘発する場所だと知っていながら、入院してから体調が良くなっていたのもあり、自分は大丈夫だと思い込んでいた節もある。
死んでもいいなんて思っていない。
壱佳と離れて暮らすなんて、託生には考えられないことで、託生とずっと一緒に暮らしていたい壱佳を今度は託生が裏切ることになる。
「どう、すれば、よかったか」
託生の呟きを耳に入れた瀬尾がベッドの下から丸椅子を引っ張り出して座る。どうやら話し相手になってくれるようだ。
集中治療室に移ってから看護師は忙しく立ち回るばかりで、託生と話をしない。尤も、託生の体調が悪く、話ができる程頭が回らなかったのもあるが。
「壱佳と、バス、ハイクに行きたかった、んです」
口元につけられた酸素マスクを外して託生は訴える。酸素マスクを外すと息苦しさが増すが、瀬尾が側にいるので安心して外せた。
壱佳に楽しい思い出を作ってあげたかったのもあるが、託生に壱佳との思い出が欲しかったというのもある。どちらかといえば後者の思いの方が強い。
「場所が動物園っていうのが、運が悪かったですね」
瀬尾の言うことは尤もで、小さい頃から両親も尚人も託生をアミューズメントパークに連れて行く時は動物園と遊園地は避けていた。動物園は喘息の発作を起こすからだが、遊園地は乗り物に酔ってしまう託生の体質を考えたからだ。本当に家族泣かせな体質だと思う。
「でも、葉山さんは動物園に行っても耐えられそうなくらい体調が良かったのは事実ですし……、難しい問題ですね」
バスハイク当日の託生の体調はすこぶる良く、壱佳と園内を回る順路まで計画した。けれど、実際には叶わず途中でリタイアしてしまった。酸素マスクと喘息の吸入器だけで持ち堪え、壱佳と昼食まで食べられたので油断していたが、その後は最悪だった。
「でも……、葉山さんは壱佳ちゃんと暮らしていく訳ですし、無理なことは無理、って教えた方がいいと思います」
「嫌われ、ない、ですか?」
壱佳に嫌われ、静岡で暮らす、と壱佳に言われることが余程堪える。あの大きな瞳をキラキラ輝かせて大好き、と言われることがなによりの託生の活力になる。大好きと返せないことが不憫だが、託生は壱佳に愛情を示す方法を一つ覚えた。
「嫌われないです。壱佳ちゃんは葉山さんが大好きですし、それに大好きな人が健康でいる方がよっぽどいいです」
それは託生も思う。4月に壱佳がりんご病に罹った時、壱佳が早く元気になるように願った。仕事があったので静岡から琴子に来てもらったが、できることなら託生が看病したかった。
壱佳は物心がつくかつかないか、という時期にかなえを交通事故で亡くしている。
夜遅く、託生が実家で受験勉強をしていると警察から電話があった。壱佳が生まれてから転勤の決まった尚人は日本におらず、かなえのスマホに登録されていた葉山姓に片っ端から電話を掛け、繋がったのが託生の番号だった。夜8時には床に就く両親は就寝中だった。
電車を乗り継いで東京に行き、警察で話を聞いた後尚人の家に向かった。緊急事態にも拘らず乗り物酔いを起こした託生に刑事は優しく接してくれた。尚人の家には2人の刑事と婦警が1人いて、婦警がぐずる壱佳を抱っこしてくれていた。
「きっとミルクが欲しかったんだと思います」
かなえがスーパーで購入したのは牛乳だけで、買い物の後信号無視の車に轢かれたことがわかっている。動揺した車の運転手は警察に電話をし、その場で逮捕されたという。
「動物園と遊園地が駄目なことは赤池さんにも言う。結構ショックみたいでしたよ?」
章三は託生の体質を知っているが、瀬尾が言ったようなことは話していない。お互い大学生で、通った大学が短大で講義がみっちり集中していたから、アミューズメントパークに遊びに行く時間もなかった。託生が彼女持ちだったこともあるが、彼女に迷惑は掛けられない託生は彼女には打ち明けていた。
「壱佳ちゃん。赤池さんに懐いてたから、赤池さんとだったら動物園でも遊園地でも連れて行ってもらえそうだし。頼れる人がいるっていいですよね。それと、壱佳ちゃんの前の外国人」
「義一くん?」
壱佳の前の動画メッセージは義一だ。義一の何が瀬尾の関心を引いたのだろう。
「茶髪のモジャモジャの子、義一くんっていうんですか?彼は勉強したんでしょうね」
義一は祠堂保育園の先生方の間で、ひよこ頭の義一くんと異名がある。天然パーマの髪の毛は本当に鳥の巣のようで、見ていて心が和む。
託生は義一の動画を開き、瀬尾に見せる。瀬尾が動画を再生し、2人でじっくり義一の動画を見ている途中で瀬尾が動画を停止させる。
「ここっ。冷房の効いた病室で、銀杏の実が落ちる秋まで静養し、雪が振り始める冬に、ってとこ。彼は喘息のこと、勉強してますよ」
確かに、喘息は春や秋の過ごしやすい季節が1番発作が起こりやすい病気だ。他に花粉や梅雨、台風も影響を受けるが、季節としては春と秋だけで、義一が動画で言っていた熱中症は誘因にはならない。
「彼は、凄く大きな会社、の、御曹司、だから、結構、保育園でも、勉強、してましたよ」
「でも、5歳ですよね?話し方も落ち着いてるし、度胸が座ってるっていうか……。もしかして、葉山さんのことが好きなんじゃ?」
その話題はスルーしたい。
「気の所為、ですよ」とかわして託生は酸素マスクを口元に当てる。
結構な時間、マスクを外していた所為か、息苦しく感じる。
「わっ、すみませんっ」
慌てた瀬尾が託生の指にサチュレーションモニターをつけてサチュレーションを測定する。
瀬尾が言うように、義一なら喘息のことを勉強しそうな予感がする。託生が好きだから、とかそういう色恋ではなく、世界に出た時に彼には必要になる。就く職業ではなく、彼には知っていて当然。知らなければ勉強不足だと世間が捉えてしまう、厳しい世界だからだ。
扉がカラカラと音を立てて開き、その後園児が1人、顔を覗かせる。
この部屋は先生方の溜まり場になっているが、園児が入っていけない決まりはない。部屋に来る園児は固定しているが、やはり園児は園児同士遊んでいた方がいいと章三は思う。
けれど、その園児ーーーーー壱佳は室内を見回した後、章三に視線を止めてこっち来てビームを送ってくる。
他の先生方も壱佳の用事は章三へと担当を決め付けている節があるから、壱佳が来ると章三の仕事を代わってまで優先させてくれる。贔屓をしてはいけないと思いつつ、託生が入院中の今、壱佳に余計な負担を掛けまいと気遣ってくれる。
章三が部屋を出て壱佳を廊下の隅に連れて行く。
壱佳の用件はわかっている。託生から何かメッセージがきていないか、知りたいのだ。抑も、最初に託生からメッセージがきた日、託生の見舞いに行く車の中で壱佳はスマホを見せてくれ、と言ってきた。約束を守れなくてごめん、以外にメッセージのなかった章三は、きてないよと答えたのだが、それでもいい、と言って聞かなかった。1人スマホの画面を見詰める壱佳を見て、新しいメッセージは勿論見たいが、今の壱佳は託生の気持ちをみたいのだ、と知った。だが、壱佳は1時間と空けずに章三のスマホを見たがり、流石に限度を超えていた。
章三は廊下にしゃがみ込み、壱佳と目線を合わせて告げる。
「僕にも仕事があるんだ」
ハッとしたような顔をした壱佳の涙腺が緩み、涙が溢れてくる。
病院で癇癪を起こしてから壱佳は涙脆くなった。そのことで尚人に叱られた後癇癪を起こすことはなくなったが、園児と遊んでいる最中でも託生を思い出す壱佳は先生方の間でも要注意人物になってしまった。
「見せないとは言ってない。ただ、僕にも仕事があるから、往復の車の中とか、家に帰ってからとかにしてほしいんだ」
「ごめんなさい」
タタタッ、と壱佳が走り去って行く。
今のは……セーフ、だよな。
壱佳と暮らし始めて知ったのだが、壱佳は自分のタブレットを持っていた。もし、祠堂保育園がカースト制度のない普通の保育園だったら、壱佳は尚人の職業を気にしないで他の園児とタブレットを見ることができただろう。義一や佐智はないと思われるが、他の園児たちはタブレットを持つ壱佳を最下層の癖に生意気だ、と難癖をつけていじめるかもしれない。そのことを危惧して託生は保育園にタブレットを持って行かせないのだろう。
壱佳を納得させられるのは大好きな神様ーーーーー託生の言葉だ。その場で章三はスマホを取り出し、託生にメッセージを送った。
その日、病院に見舞いに行く車の中で章三は壱佳に話をする。今、壱佳が見ている画面にも書かれていることだが、漢字が混ざっているので壱佳には読めないし、理解できないかもしれないと思ったからだ。
「託生は1日に15分だけ、スマホを見る時間がある。15分ってわかるか?」
「うん。数字の1から3までだよね?」
「そう。けれど、毎日じゃなくて、託生の体調が良い日だけ。それは三洲先生が決めるそうだ」
「三洲先生を怒らせないようにしなきゃ」
壱佳の発想を聞いて、まだまだ子供だなぁ、と思う。
「三洲先生はそんなことしないと思うぞ。お医者さんだからな」
「お医者さんだもんね」
後部座席に座る壱佳の足がリズム感よくブラブラスイングしているのを見て、昼間の機嫌はよくなったのだ、とわかる。託生がプレゼントを用意しておく、と言っていたが、それが何か章三は知らない。
「これから病院に行くけど、昼間体調の良かった託生の具合が悪くなってメッセージを受け取れないかもしれない。それもわかるな?」
「うん」
既に削除したメッセージだが、託生が死を覚悟して動物園に行ったか聞いた章三に、託生は絵文字の大爆笑で違うよ、と返してきた。
『そんなことをしたら、ぼくが大好きな壱佳を裏切ることになるじゃないか』と。その後で、
『大丈夫だと思ったんだ。そんなに軟じゃない、って思い込んでた』
『ぼくの喘息って重い方なのか、三洲先生に聞いた』
自分の病気を知るのは大事なことだ。章三にとっても重い問い掛けをメッセージでやり取りする状況は、自分の常識を軽視させるような気がするが、今はこれしか方法がない。
『どうだった?』
『この状況でわかるだろ?』
やっぱり。
『壱佳が遊園地とか、動物園とか行きたい、って言ってきたら、章三に頼みたいんだ。瀬尾さんもそうした方がいいって』
『瀬尾さん?』
『ぼくの担当の看護師さん。男の人だよ』
もしかして、章三にガーゼとストローの説明をした看護師かもしれない、と思った。彼は託生の口内炎のことも知っていたからだ。
『壱佳のことは任せろ』
『ぼくは章三の車には乗れないからね』
アミューズメントパークに行く時は託生から壱佳を預かり、1日1人で壱佳の面倒をみる。託生は章三の車に乗ると必ず酔うからだ。元々乗り物酔いのある託生だが、尚人の運転だと比較的大丈夫な時もある、と言っていた。
『どうせ下手だよ』
病院の駐車場に車を止め、後部座席のドアを開け、壱佳からスマホを受け取る。座席から路面にピョン、と飛び降りた壱佳の手を引いて正面玄関から入る。守衛を通過してエレベーターで3階まで上がり、集中治療室の前の廊下へと進む。託生とメッセージを交わせたからか、章三の足取りも、壱佳の足取りも軽い。
集中治療室の前の廊下に、先日の男性看護師が立っているのが見え、章三が軽く会釈する。
「こんばんは」
「こんばんは。壱佳ちゃんもこんばんは」
「こんばんは」
壱佳は早速、廊下から集中治療室の中を覗き込んでいるが、壱佳の身長ではどんなに背伸びしても託生のベッドは見えない。壱佳の隣に立った章三が壱佳を抱き上げ、スライドドアの窓枠から託生のベッドを覗かせる。
「たぁくんとお話できる?」
章三の腕の中から壱佳が男性看護師を振り返って聞く。
「残念でした。今日はもう、15分過ぎてるからお話はできません」
「え〜っ?!」
「でもね」と瀬尾が続ける。胸元のネームプレートには瀬尾と名札がついていた。
「葉山さんから壱佳ちゃんにプレゼント。お家のタブレットに葉山さんからメッセージが届いてるよ」
瀬尾がさりげなく章三にメモ用紙を握らせる。
「章三先生の言い付けを守って、いい子にできたら葉山さんからメッセージが届くって」
「毎日?」
「それはわからないな〜。壱佳ちゃんが毎日いい子にできたらそうかもしれないし、葉山さんの体調もあるからね。後、壱佳ちゃんの動画、葉山さん毎日見てるよ」
「ほんと?!」
途端に壱佳が恥ずかしそうな顔をする。最後は泣き出してしまったのだから、恥ずかしい気持ちもわかる。
「壱佳、今日は帰るか?メッセージ、見たいだろ」
「うんっ」
託生の様子も見れたし、今日は特に瀬尾から申し伝えることはないらしい。
壱佳の元気な返事を聞いて、瀬尾の切羽詰まった様子もない廊下を章三は壱佳と帰り始める。車に乗る前に壱佳をトイレに行かせ、その隙に瀬尾のメモを見ると、アルファベットで壱佳から始まるメールアドレスが託生の字で書かれていた。素早くズボンのポケットにメモ用紙をしまい、壱佳の様子を見に行く。
「おしっこできたか?」
「うん。たぁくんに褒めてもらう」
壱佳は大概のことは1人でできるが、託生に褒められるのがなにより嬉しく感じる。壱佳の好きが義一と同じ意味の好きか章三にはわからないが、今は託生の健康だけを願う。
「じゃあ、今日もご飯食べたら御百度参りだな」
毎日、託生が壱佳を褒められるように、その為には託生が健やかなのがなによりだ。
神社で御百度参りを済ませ、マンションに帰って壱佳を風呂に入れた後、パジャマ姿の壱佳と一緒にベッドに潜り込む。邪魔な枕を脇に退け、枕のスペースに壱佳のタブレットを置き、早速託生が作ったメールアドレスの設定をする。
「ワアっ」
設定を終えた途端、画面に数件のメールが表示され、壱佳が驚きの声を上げる。最初の方のメールはプロバイダーからの案内メールで削除し、託生のメッセージのみを表示させる。
「まずはこれだな」
最初の託生からのメッセージを開くと、壱佳へのメッセージが表示される。
「なんて書いてあるの?」
先にざっとメールを読み、
「動物園に行った理由だな」と答える。
「三洲先生に提出した書類には壱佳の為に行きたかった、ってまあ、親代わりとしては当然の理由が書かれていたみたいだ。でも、実際は違ってた」
子供と一緒に保育園の行事に参加するのは、親として当然のことだ。けれど、今回ばかりはそれが仇となった結果になってしまった。
「託生が壱佳と思い出を作りたかったんだって」
「壱佳も思い出、できたよ」
辛い思い出になってしまったが、託生が元気になれば思い出話として話すこともできる。
「ああ。前に壱佳が家を出て行ったら……、って話をしただろ?」
「うん」
「託生も同じことを考えていて、壱佳が家を出て行った後の託生の思い出にしたかったってことだ」
「たぁくんも壱佳が家を出ると思ってるんだ」
「親はみんなそうだ。それから、三洲先生に忠告はされたけど、自分は大丈夫って驕りがあったって書いてある」
「おごり?」
「動物園は託生にとって発作を引き起こす場所だって今回のことで壱佳もわかっただろ?けど、託生は発作を起こさないって思い込んでたんだ」
「だってたぁくん、入院してても元気だったもん。壱佳がベッドに乗っても平気だったよ?」
「そういうのもあって、大丈夫って信じ込んでたんだって。壱佳と回る順路も考えてたそうだ」
メールには園内を回っている最中に息苦しさを感じて焦りを感じたことも書いてあった。けれど、壱佳と行動を別にして休憩したら息苦しさは消えて、壱佳と昼食を食べられたことでまた油断してしまった。
「それで、託生からのお願い」
「な〜に?」
「壱佳には動物園や遊園地を知らない子供になってほしくない。遊園地で一緒に遊ぶことはできないけれど、一緒に行くことはできる。動物園には行くこともできないけれど、その時は僕に壱佳のことを頼むから、壱佳には我慢する子供にはなってほしくない。託生の気持ち、わかるか?」
少し考えていた壱佳だったが、うん、と答える。
「たぁくんは壱佳と思い出を作るより、元気でいることを選んだ。……のかな?」
少し自信がなさそうに自分の考えを言う壱佳の頭を撫でる。
「そうだ。壱佳と遊びに行ける場所は動物園と遊園地だけじゃない。水族館も、映画館もある」
「場所を選べばたぁくんも壱佳も思い出が作れる」
「そう」
だから、もう壱佳には自分の所為で託生の体調が崩れた、なんて思ってほしくない。託生の気持ちは章三にもわかる。
次のメールには壱佳がこれから守っていく約束事が箇条書きで書かれていた。
「次のメールは壱佳に守ってほしいこと」
「守るっ」
「まだ読み上げてないぞ」
「たぁくんが言うことは守る」
ハハっ、と笑いながら1つずつ読み上げていく。
「1つ、章三先生の言うことをきく」
「きいてるよ?」
「ここんところ、ちょっと困った状況だったけどな」
特に午前中の自習の時間、3回は部屋に来る壱佳の接し方に困っていた先生は章三だけではない。壱佳の気持ちを知っている先生たちも強くは言えないし、何か注意すると直ぐ壱佳が泣く。本当に困っていた。
「ごめんなさい。章三先生が困ることもしません」
壱佳がベッドの中から片腕を上に伸ばして宣誓する。壱佳の誓いを信じて次の約束を見る。
「1つ、保育園にタブレットを持って行きません。もし、壱佳がタブレットを持って行きたがったり、章三先生の言うことがきけないようなら……、メールアドレスを削除する、って厳しいな」
「メールアドレス?」
「託生とお話できなくなるってことだ」
「絶対守る」
章三も壱佳に甘いところがあるが、少々厳しく接しなければならないようだ。約束は2つだけだったが、6歳の壱佳に守れるか章三にはわからない。けれど、2つの約束を守れなければ壱佳のメールは削除される。
壱佳には重大だ。
「ええっと、次のメールは……」
次のメールを開くと長文が書かれていた。これを打つだけで息苦しい思いをしただろう託生を思うと、やはり託生は壱佳を好きなのだ、と実感がもてる。
「なになに。今、ぼくは15分しかスマホに触れることができません」
「知ってる」
「その日の体調によって、その15分さえない日もあると思います。それも知ってるよな?」
「うん」
「壱佳にお願いがあります」
「なに?」
「1日に1回、ちょっとでいいのでこの間のような動画メッセージを送ってください、だって」
「泣いちゃったやつ?」
「内容はなんでもいいって」
久しぶりに壱佳と会った島岡が壱佳を逞しくなった、と表現していたが、壱佳と会えない託生も同じことを感じたのかもしれない。
「……メッセージをくれるって」
メールの最後の方にはイヤホンを持って来てほしい、と書かれていた。
集中治療室は音声通話が禁止されているので、それに準じて動画を見るのも看護師の目が厳しいらしい。瀬尾の計らいで今まで動画メッセージを見ることはできたが、できることならあった方がいいらしい。
「やったっ」
最後のメールには酸素マスクを付けた託生の写真が添付されていた。Vサインもしているから今日は調子のいい1日だったのだろう。
タブレットを見ているうちに眠ってしまった壱佳を章三のスマホで撮影して、託生のスマホに送る。今まで気付かなかったが、写真や動画には託生に元気を分け与える要素がある。明日からは壱佳の動画を撮ることが決まっているし、これから託生の体調は良くなる一方なのだろう。ただ、口内炎が原因でものが食べられない、と漏らす託生の体力が心配だった。
誕生日なんてつまらない。
園児の誕生日を月ごとに纏めて祝う保育園のお誕生日会にも、家で個別に祝われる誕生日会にも託生は来ない。元祠堂保育園の保育士だったのだから家は無理でも保育園のお誕生日会には来てくれるかも、と当時は淡い期待を抱いていたが世の中そんなに甘くない。
6月のバスハイクに参加した託生の具合は悪くなり、集中治療室に入ってしまった。島岡が見舞いに行ったけれど、章三も壱佳も暫く託生に会えていない状態だった。託生に送った動画では冬までのんびり静養してください、なんて無理して言ったけれど、本心では1日も早く元気になって退院してほしかった。佐智が大人だと褒め称えていたが、義一はまだまだ子供だ。
「これなんか咲きごろね」と1人呟きながらマリコが庭の花を鋏で切る。
花は綺麗だと思うけれど花の名前はわからない。余程有名な花なら別だが、今マリコが切った花はわからない。
ふと、託生の見舞いに行った時、行きの車中で佐智が言っていたことを思い出した。確か、赤い薔薇の花言葉が愛してる、とか、情熱だとか。
義一の託生に対する恋情は情熱的だったと思う。託生に出会った日の胸の苦しさは本物だと思うし、託生の後を可能な限り金魚の糞のようについて回った。託生にはっきり振られた後も壱佳と友達なのを理由にして一緒に動物園を回った。託生がまだ本調子ではなく、直ぐに別行動になったけれど託生は義一を避けていなかった。
けれど、今の義一は情熱的と言えないだろう。託生と交わした交換条件通り、由美と付き合っている。もしも本当に情熱的なら1度振られたくらいで落ち込んだりしないで、果敢に猛アタックしていた筈だ。
託生は保育園を辞め、何かイベントがない限り保育園に来ることはないだろう。お遊戯会も運動会もまだ先の話だし、クリスマス会に父兄は来ない。抑も、雪が降り頻る中、1時間半も自転車を漕ぐなんて、託生には自殺行為だ。
春になれば4月生まれの佐智と壱佳を含む園児のお誕生日会が開かれるが、クリスマス会と一緒で父兄は呼ばれない。今年あったバスハイクは年中さんだけの行事なので来年年長さんになる義一は対象外で託生も来ない。
そんなこんなで1年が経過する。毎日のように託生に会えていたのに、来年は2回しか会えない。
後、確実に会えるのは義一たちひまわり組の卒園式だ。この日は絶対に託生は来るだろう。
心の中で託生を想うだけでは何も始まらない。託生との約束は守るが、アメリカに帰っても託生を好きなことを証明しなければならない。
「マリコさん、純潔って花言葉の花って?」
切った花を銀のバケツに入れ、ゴム手袋をした手で顎を撫でながらーーーーーゴム手袋をした手で顎を撫でたら顔に泥がつくんじゃ、と思ったが声に出さない。花を切り終わったら洗面所で手を洗うのはわかっているし、もし本当に顔に泥がついていたら島岡がさりげなく注意するだろう。
「白薔薇ね」
「うちにある?」
「あるけど……、何をしたいの?」
「花束を贈りたい」
「花束……、無理ね」
「なんで?あるんだろ?」
義一はマリコの身体にしがみつき、なんで、なんで、と揺さぶる。
「花には開花時期ってものがあるんです。うちのは野生のようなものだからもう終わったの」
「花屋に行けばある?」
「この辺りじゃ……、きっと駅前だったらあるかもしれないわね」
「ありがとうっ!」
マリコにしがみついたままだった義一は最後にギュウっとマリコを抱き締めると足を引いて離れ、庭を駆け抜けて行く。ふと、足を止めた義一はマリコを振り返って、
「顔、洗った方が良いと思うっ!」
マリコの顔を見て、泥がついているのを見た訳ではなく叫んだ。
島岡に任せることなく指摘したのは、これから義一が島岡を使うからで、もし、顔に泥がついていても使用人では女主人に言えないと思ったからだ。
「お母さん、このくらいでいいんじゃない?」
マリコと一緒に背の低い花を切っていた佐智は銀のバケツの中に自分が切った花を入れる。花を切る様子をずっと見ていた義一の誕生日会が開かれる部屋に飾る花を切っていたのだ。
義一は花より団子の健康的な男子だが、佐智は花も団子も好物で、今回は義一の誕生日なのでマリコを手伝った。いくら好きでも、自分じゃ鋏を握らない。使用人任せだ。
「佐智。義一くん、花をあげる人、出来たの?」
保育園に顔を出さないマリコは義一の恋の相手を知らない。勿論、相手が15歳も歳上の男の人だということも知らない。
「振られちゃったけどね」
「義一くんらしいわ」
この世に生を受けてまだ6年しか経っていないけれど、義一も佐智も初めての恋をしている。相手は2人とも二十歳の男性で、佐智の父親は息子が恋をしていることに気付きもしない。愛がない訳ではなく、佐智を溺愛しているが故に佐智も父親一筋だと思っているのだ。放任主義の裕明より将来的に佐智の父親の方が厄介な相手と思われる。
「あらあら」
「どうしたの?」
「義一くんに純潔の花言葉の花を聞かれて白薔薇って答えたんだけど、振られたのに白薔薇を贈るって変よ。振られても告白するってことでしょ?それなら赤じゃないと」
早速手に嵌めたゴム手袋を外し、銀のバケツを持ってマリコが走り出す。
「佐智も早く。車が出ちゃうわよ」
島岡は仕事はできるが、花を贈るような相手はいない。過去にそういう相手がいたとは思うが、島岡が女性をエスコートしてデートする様子が想像できない。ゲイとかそういうことではなく、朝早くから深夜遅くまで仕事をしてストイックな生活を送っているからだ。
「それなら急がないと。島岡さんに任せたら本当に白薔薇を贈ることになっちゃう」
佐智はマリコとともに屋内に駆け込んだ。佐智はこのままでも出掛けられるが、マリコは支度に時間が掛かる。その為、まずは車を留めておこうと思い、島岡の姿を探した。
島岡はいつもタブレット端末を携帯している。島岡から借りたタブレット端末でブラウザを見ていた義一は1つ溜息をつき、タブレットの電源を落とした。
「納得した?」
一緒に後部座席に座っていたマリコに聞かれ、力なくうん、と返した。
島岡と花屋に向かおうとしていた義一をマリコと佐智に引き止められ、託生に花束を贈るなら白より赤の方が適している、と言われた。
「白薔薇っていうのは結婚した人とか、婚約が決まった人に贈る花なの。確かに純潔って花言葉だけれど、他にもあるの」
義一は今、由美と付き合っている。由美と付き合っていながら心では託生を想っている。大人になって、再び託生に告白するまでキスも、赤ちゃんが出来るようなこともしない真っ白な体を保つ気持ちは純潔の方が適している。けれど、マリコから聞いた花言葉を考えると、今の義一には的外れな花束になってしまう。
「贈る本数にも意味があるのよ?」
一旦頭の中を整理して考えた義一は先程と違ってうん、と元気に答えた。白薔薇を贈れなくても薔薇の本数で義一の気持ちを伝えることができる。
「赤にする」
託生に愛しています、と伝えるのに赤薔薇は適しているし、恋人に贈るならテッパン、と今見たサイトにも書いてあった。託生にはこれから毎年花束を贈るつもりだが、色を変えるつもりはない。
「ひまわり組の子?」
唐突にマリコに聞かれて違う、と答える。
「佐智は知ってるのよね」
「うん、素敵な人だよ。でも、病気持ちで今も入院してるんだ」
「あら。尚更赤だわ。お見舞いに白い花を贈るのは相手に死をイメージさせるから避けられてるのよ」
「そうなのか?」
今見たサイトには載っていない情報だ。
「社会に出て人と触れ合うようになれば色々な考え方も知識も得られるようになります。託生先生はそういうことを義一さんに教えているんです」
運転中の島岡が言う。驚いたのはマリコだ。
「義一くんが好きな人って先生なの?いくつ?」
「二十歳」
「まあっ!聖矢さんと同じっ?!」
オレは佐智と違って健全な付き合いしかできないけどな。
佐智と聖矢の関係を黙認しているマリコも2人がキスまでしている仲だと思っていない。聖矢とキスできる佐智を羨ましく思うが、義一は託生を好きになったのであってキスできる恋人を探している訳ではない。
「それで何本にするの?」
佐智の問いに義一は今しがた見たサイトを思い出す。
1本なら一目惚れ、あなたしかいない。2本はこの世界に2人だけ。3本は愛しています。告白に用いられる本数で王道だ。
4本 死ぬまで気持ちは変わりません。これは病気持ちの託生にふさわしくない。もっと未来を見据えたものがいい。
5本 あなたに出会えたことの心からの喜び。託生が祠堂保育園に赴任してくるまで、義一はつまらない毎日を過ごしていた。託生と初めて挨拶した日、義一が過呼吸で倒れた日から世界はそれまでと違いカラフルに変わった。託生と一緒に暮らしている壱佳ともやっと友達になれた。
6本 あなたに夢中、お互いに敬い、愛し、分かち合いましょう。7本 ひそかな愛。8本 あなたの思いやり、励ましに感謝します。9本 いつもあなたを想っています、いつも一緒にいてください。10本 あなたは全てが完璧。11本 最愛。12本 私と付き合ってください。告白の本数と迷うところだが、義一の年齢では相応しくない。
13本 永遠の友情。21本 あなただけに尽くします。24本 1日中思っています。50本 恒久。99本 永遠の愛、ずっと好きだった。100本 100%の愛。101本 これ以上ないほど愛しています。108本 結婚してください。365本 あなたが毎日恋しい。999本 何度生まれ変わってもあなたを愛する。
熟考して3本のあなたを愛していますの王道に決めた。どれも告白に用いる本数なのでかなり考えたが、ストレートに伝えた方が託生もわかってくれる。
車が花屋に着いてマリコ、佐智、義一の順に車を降りる。
赤い薔薇の花でも開ききったのだと人妻宛てになってしまうらしいので、店員に咲き始めを選んでもらわなければならない。蕾でも長く楽しめるが、目的は義一が諦めていないことを示さないと意味がない。
「やだ、メッセージカードがないじゃない」
崎家の別荘から花屋に直通で来てしまったのでメッセージカードのことを失念していた。託生の側に置いてもらえないとわかっていても、章三ならカードだけ病室に持って行ってくれるかもしれない。けれどそれは託生が一般病棟にいればの話で、集中治療室にいる今は両方無理だ。
「今、集中治療室にいるから」
「そんなに悪いの?」
「季節は外れたと思うんだけど……」
体力も落ちてなかなか回復できないのかもしれない。
「お店のカードでよろしければ差し上げますよ?」
親切な店員が申し出てくれたが、花束だけでも迷惑だろうに、その上メッセージカードを付けるのは気乗りしない。3本の赤い薔薇の花束だけで義一の気持ちは伝わる。
振られたけれどいまだに想っている。諦めない。
「保育園のこと書けば?」
「保育園?」
「義一くんが言ったんだよ?託生先生は病院の外のことを知らないって」
「迷惑だろ?」
「花束贈る気だけ満々なの、変だよ。託生先生は集中治療室にいるから花を見ることなく枯れちゃうかもしれないんだよ?そんな時の為のカードでしょ」
佐智の言う通りだ。集中治療室にいる今は花束もカードも届けられないかもしれないけど、カードは一般病棟に移ってからでも渡せる。
「カードもください」
「はいはい。ご希望のお花はありますか?」
店員が聞く。義一は店内を見回しもせずに、
「咲き始めの赤い薔薇を3本お願いします」
「ボク、告白するんだ」
店員が中腰になって義一に目線を合わせて聞いてくる。花屋の店員だけあって花言葉にも詳しいらしい。
「はい。それで今日中に配達してほしいんですけど」
「自分で渡さないの?」
「入院中で会えないんです。自宅に配送をお願いします」
義一は店員からメッセージカードを受け取り、店のペン立てから明るい空色のサインペンを選び、カードに言葉を添えた。
7月の終わりになって漸く集中治療室を出て一般病棟に移ることが決まった。未だに酸素マスクなしでは息苦しく感じるが、ずっと口の中に居座っていた口内炎も治り、少しずつだがものを食べられるようになった。体力がついてきたので最近は一般病棟に移った後、毎日往復するトイレの為に集中治療室の自分のベッドの周りを手摺りに掴まりながら歩く練習をしている。
壱佳のメールアカウントを作ってから、壱佳は毎日欠かさず動画を送ってくれる。保育園で撮影された壱佳の姿は暫く見ないうちに逞しく見え、壱佳は大泣きしているというのに嬉しく感じた。
章三の言うことをきくことと、保育園にタブレットを持っていかない約束は半分くらい守られている。少し前までは完璧、流石壱佳、と叔父馬鹿かもしれないがそう思えたのだが、託生が一般病棟に移ることが決まって章三だけが防護服を着て集中治療室に入れるようになったことでかなりごねたらしい。託生に言うぞ、とメールアカウントの削除が重石になってなんとか言うことをきいているが、壱佳がもう少し大きかったら章三は集中治療室に入れかったかもしれない。
けれど、そんな苦労も今日までだ。
「葉山さ〜ん、赤池さんがみえましたよ」
瀬尾に案内されて章三が集中治療室に入ってくる。勿論、防護服を着ていたが、章三の防護服姿にも慣れてしまった。
「何してた?」
「ベッドから見上げる天井に別れを惜しんでた」
「惜しむなよ。逆戻りはごめんだぞ」
「ごめん、言葉のあや。壱佳は?」
「ナースステーションに預けてきたけど、いつにも増して不貞腐れてる」
一般病棟に移る日くらいは章三と一緒に集中治療室に入れると思っていたのだろう。けれど、集中治療室へは壱佳だけでなく、子供全般入れない決まりだ。
「最近、壱佳太ったと思わない?」
「あー、ナースステーションで結構貰ってるみたい。前に壱佳に注意したら、看護師だから託生は困らないって反論してきた」
正論だが、壱佳に入れ知恵をしたのは誰だろうか。
「赤池さん、ちょっといいですか?」
瀬尾に呼ばれた章三が託生に手を振って彼の方に行く。そこには薬剤の他に、患者の身の回りのものが僅かだが置かれている。他にも託生のものがある筈だが、どこにあるか託生は知らない。
ベッドサイドの小さなテーブルの上にはポータブルCDプレイヤーとイヤホン、スマホだけが置かれている。イヤホンは託生が章三に頼んだもので、壱佳の動画や音楽を聴く時に使っている。
託生は会える状態ではなかったが、佐智も見舞いに来てくれた。その時に置いていったCDを章三に持って来てもらったポータブルCDプレイヤーで聴いている。佐智がバイオリンを習っていることは知っていたが、6歳の時の託生の腕前と比べると雲泥の差で、彼は将来有望だと思った。託生と同じ道を歩まないようにと願わずにはいられない。
僅かな荷物を纏めていると、託生のパジャマやタオルを両腕に抱えた章三が戻って来る。
「それだけだっけ」
「後は3階のナースステーションにある」
「3階?5階じゃなく?」
「5階は前いた個室。今、瀬尾さんから聞いて来たけど次の病室も3階。いつでも戻れるようにだって」
「嬉しくない」
「僕も。けど、マジな話、何かあっても看護師が飛んで来る。それと……」
章三がコショコショと託生に耳打ちする。確かに瀬尾には聞かせられない内容だ。
「気をつける。壱佳は大丈夫かな?」
「ちゃっかりしてるよ。若い看護師見つけて、内緒でお願い、だよ」
「アハハ。兄さんにそっくり」
瀬尾も戻って来て託生のベッドの脇に車椅子を用意する。ベッドに座り込んでいた託生が足を下ろし、恐る恐るリノリウムの床に足を着く。思っていた以上に体力が落ちているようで、たったそれだけの動作でも自分の身体の重みを感じる。瀬尾と章三に両側から身体を支えられ車椅子に座ると、すかさず瀬尾が車椅子の背後の酸素ボンベの酸素マスクを口元に当ててくれる。乱れてしまった呼吸を整えながら出るのはぼやきだけだ。
「こんなんで退院出来るのかなぁ」
託生のぼやきにも瀬尾は笑顔で、
「義一くんが言ってたじゃないですか。冬に退院すればいいって。喘息の発作を考えれば僕も同じ意見です」
「そうだ。ゆっくりでいいんだ」
章三にも笑顔で頷かれて託生はうん、と返す。
壱佳のことは気掛かりだけれど託生は壱佳と健康に過ごそうと決めた。壱佳に寂しい思いをさせるのは心が痛むが、壱佳に怖い思いを2度とさせたくない。
「じゃあ、動きますよ」
瀬尾に車椅子と点滴ポールを押されて集中治療室を出る。集中治療室に常駐している看護師が託生にお元気で、頑張ってください、と声を掛ける。
「お世話になりました」と託生も返し、2ヶ月近くいた集中治療室に別れを告げる。
「たぁくんっ」
ナースステーションにいる筈の壱佳が集中治療室の扉の前で託生を待っていた。
「壱佳っ」
2ヶ月近く触れることもできなかった壱佳の小さな身体をギュッと抱き締めたかったのだが、壱佳の足が一歩後ずさる。壱佳の表情も強張っていた。
「壱佳?」
どうしたのだろう。託生が壱佳に会いたいと思うのと同じで、壱佳も託生に会いたいと思い込んでいたが、託生の自惚れだったのだろうか。
章三が託生に耳打ちし、ああ、そうか、と納得する。
「髪もボサボサだし、髭まで生えて別人だよね」
2ヶ月あまりを集中治療室で過ごした託生の髪の毛は肩の辺りまで伸びているし、毛先も飛び跳ねている。
普段、託生は朝髭を剃るだけで夕方になっても見苦しくならない。男性ホルモンが少ないようだが、2ヶ月近くも風呂に入れなかったので髭も伸び放題だった。
壱佳が腕を伸ばし、恐る恐る託生の髭に触れる。
「ずっとお風呂に入れなくて……。お風呂に入れるようになったら髭も剃るし、髪も切るよ」
「うん、びっくりしただけ。元気になった?」
託生の姿を見て壱佳が涙ぐんでいる。壱佳の涙を点滴のチューブに繋がれていない方の指先で拭い、ううん、と答える。
「でも、前より元気。これからもっともっと元気になって退院する。壱佳と一緒に暮らす。臭いかもしれないけど、今は壱佳をギュッとしたい」
壱佳は満面の笑みを浮かべ、うん、と元気に頷き託生の胸に飛び込んで来た。
実際、今の託生には本当に退院出来るのかわからないくらいに息苦しさを感じるし、身体も思うように動かない。けれど、壱佳と暮らす日の為にゆっくり、回復していけたらいいと思う。
新しい3階の個室に移動して瀬尾と章三の手を借りて車椅子から下り、そのままベッドに倒れ込む。瀬尾がベッドの酸素マスクを託生の口元に当て、サチュレーションモニターを指先に付ける。はあ、はあ、と荒い息をする託生を壱佳が心配そうに見ている。託生のパジャマの胸元を手早く開け、心電図のモニターも付け終えた瀬尾は忙しそうだ。
「三洲先生を呼んで来ますね」
瀬尾は早足で病室を出て行き、残された章三は託生の身の回りのものを棚に片付けていく。
「たぁくん」
「体力が落ちてるから疲れたんだ。そっとしておこう」
壱佳の視線を感じながらも、たった数十メートルの距離の移動も耐えられなかった託生はちょっと目を瞑るだけのつもりで重い瞼を閉じてしまったが、結局そのまま軽く眠ってしまった。
目が覚めると目の前に壱佳がいた。集中治療室に子供は入れない決まりがあるから、ここに壱佳がいるのはおかしい。
「たぁくん、大丈夫?三洲先生呼ぶ?」
壱佳を目の前にしても微動だにしない託生を訝しく思った壱佳が聞く。
「ごめん。なんか頭の中がグチャグチャで……。章三先生は?」
「ナースステーションにたぁくんのもの、取りに行った」
まだ頭がこんがらかっている。
「ナースステーションって。壱佳、今日保育園は?」
託生が心配でまた保育園を休んだのだろうか。尚人に叱られた後は毎日通っていると思っていたのだが。
「今日はお引っ越しだから」
「引っ越し?」
「やっぱり三洲先生呼んだ方がいいよ」
壱佳が託生のベッドを離れてドアの方に向かう。壱佳を見送る託生の視界には集中治療室ではない個室の風景が見えてくる。それと同時に靄が晴れるように託生の頭の中の霧が消えていく。
「ストップっ、大丈夫だからっ」
ガバッ、と上半身を起こし叫ぶ。声を張り上げただけで呼吸が乱れる。けれど思い出した。
託生は今日、集中治療室から3階の病室に移った。病室を移り、ベッドに横になった途端睡魔が襲ってきた。体力の限界だったのだ。
「本当に大丈夫?」
「うん。寝ぼけただけ」
「なんだぁ〜」
託生が手招くと壱佳が戻って来る。
「引っ越しって、集中治療室からここに、だよね?」
「うん。たぁくんのものを移動しなきゃならないから、パパに電話して保育園はお休みしていいって」
抑も、午前中のうちに章三が集中治療室に現れた時から疑問に思わなければならなかったのに、本当に抜けていた。
「昨日、赤いお花が来たよ」
「お見舞いの花?誰から?」
「義一くん。綺麗だから持って行こうって壱佳が言ったら、お花だから三洲先生に聞いてからにしようって。たぁくんの病気にお花は駄目なの?」
「駄目ってことはない」
壱佳の頭を撫でながら託生が説明する。
祠堂保育園で託生は裏庭の花壇の手入れを買って出ていた。自分で花を買おうと思わないのは喘息の発作が起きる可能性が高いからで、花は好きだ。もし、喘息がなかったら自発的に花を買って部屋に飾っていたかもしれない。
「花びらの内側には花粉っていうのがあって、ぼくの病気にあまり良くないんだ」
「でも、保育園で……」
「あの時は元気だったから。今はちょっとしたことで苦しくなるから、だから章三先生は三洲先生に聞いた方がいいって言ったんだ」
今、壱佳に託生の病気の説明をして理解できるだろうか。
「ぼくの病気は、ハウスダストっていう家の埃が大敵なんだけどね」
「たぁくん、毎日掃除してるね」
「うん。病気だからじゃなくて、壱佳も帰るなら綺麗な部屋に帰りたいだろ?」
「うん」
「ぼくも汚い部屋より、綺麗な方がいいから毎日してるだけなんだけど」
「壱佳も掃除した方がいい?」
「フフフっ、まだいいよ。でも、お片づけはしてほしいな」
壱佳には掃除をさせたことはない。壱佳がよんだ絵本も出しっぱなしなので託生が所定位置に片している。
「壱佳がお片づけしてくれたら、掃除の手順が1つ減って楽になる」
「本当?するっ、お片づけ」
「ありがとう。章三先生と一緒の今もするんだよ?」
「うん、頑張る」
「壱佳、偉いっ」
託生が壱佳の頭を掻き抱き、髪の毛をクシャクシャに混ぜるとくすぐったそうな顔をする。久しぶりの壱佳の笑顔は託生をも幸せにしてくれる。
「それでぼくの病気だけど、ハウスダストの他は花粉。春と秋は特に気を付けなきゃいけないんだ」
「壱佳は4月生まれだよ」
「20日だよね」
「うん」
長くなりそうな話なので立ったままの壱佳の手を引いてベッドに座らせる。以前のように託生の上に乗せられないが壱佳は大人しくしてくれた。
「春と秋は花粉が飛ぶ季節。花とか樹は子孫を残す為に風に乗せて花粉を散らすんだ」
「悪者だ」
「ん〜、そんなことないよ。今はマスクが発達してるから、マスクをしていれば花粉をシャットアウトできる。梅雨時も注意が必要。それはわかったよね?」
「雨がいっぱい降って、咳したりして1番苦しそうだった」
「それと、台風。この街に直撃した話はあまり聞かないけど、静岡は凄かっただろ」
「電気が消えた時、おばあちゃんがお布団に入れて抱き締めてくれた。……あれ?」
「どうしたの?」
壱佳が何かに気付いたようで首を傾げる。
「義一くんが冬に退院してって……」
「うん。看護師さんも義一くんの動画を見て、勉強したんじゃないかって言ってた」
「たぁくんが好きだから?」
そうかもしれない。けれどそれとは別に、義一の生きる世界ではあらゆる物事の知識がなければならない。それは特別なことではなく、当たり前のことと皆が捉える。
「壱佳に話してなかったけど、パパは義一くんのお父さんの会社で働いてるんだ」
「パパがいるのはアメリカだよ?」
「凄く大きな会社で、いろんな国に支社がある。パパはその中でも本社って1番大きなところで働いてる」
「じゃあ、義一くんはパパの上司になるんだ」
「上司なんて言葉知ってるんだ」
「香椎くんたちがよく言ってる。俺はお前らの上司だぞって」
確かに餓鬼大将の香椎とその子分の父親は同じ会社に勤めている。香椎の父親は家電量販店の社長で、その子分の父親は経理課と庶務課だったか。
「遊んでる時にそんなこと言ってるんだ。でも壱佳の言う通り。将来、義一くんはパパの会社の社長になって、パパの上司になる。そういうのもあって、義一くんはいろんな知識を身につけなきゃならない」
「たぁくんが好きだからじゃないんだ」
なんだか壱佳ががっかりしているように見えるのは気の所為だろうか。託生大好きオーラを出していた壱佳らしくない。
「残念そうだね」
「壱佳はたぁくんと結婚出来ないんでしょ?」
またその話題だ。壱佳のことは大好きだが、何度聞かれても法律で決まっている以上、託生は壱佳と結婚出来ない。
「うん。法律があるからね。でも壱佳、男の子同士も結婚出来ないんだよ」
「えっ?!義一くんとも結婚出来ないの?」
「外国に行けば出来る国もあるけど、抑もぼくが行けると思う?」
「外国って飛行機で行くんだよね?」
壱佳の知識では尚人が日本とアメリカを往復するのに使われる飛行機が1番に思いつく。
「船でも行ける」
託生は乗り物全般が駄目だ。マンションのエレベーターでさえ酔って壱佳に身体を支えてもらったこともある。最近では慣れてきたのか、酔う頻度は少なくなったがそれでも乗り物の1つだ。
「無理っ。たぁくんが苦しい思いするなら義一くんと結婚しないでっ」
「賑やかだなぁ。目、覚めたか?」
託生の私物を抱えて章三が入って来る。
「章三先生っ、男の子同士は結婚出来ないって知ってた?」
「俺は大人だぞ。常識だ」
どうしよう、どうしよう、と壱佳が慌てふためく。章三はそんな壱佳を尻目に、託生の私物を棚に片付け始める。一方の託生はこんな壱佳は珍しく、暫く鑑賞していた。
けれど、このままじゃ壱佳がかわいそうだ。
「壱佳。ぼくは誰とも結婚しない」
「義一くんとも?」
「うん。壱佳が望む限り、壱佳と一緒に暮らす」
壱佳がいつまで託生と暮らしてくれるかわからないが、壱佳が家を出て行くと言い出した時には喜んで送り出そうと思う。
「そうだ、章三。今度来る時、便箋と封筒持って来てくれないかな」
「佐智くんに出すお礼状だな」
「あれ?義一くんにも出そうと思ってたんだけど。義一くんから花が届いたんだよね?」
「真っ赤な薔薇の花束。見舞い用には見えなかった。だから、ちょっと調べた」
花を贈るのに見舞い用以外にあるのか、託生は知らない。託生が実物を見ていないから感じることなのかもしれないが、まずは章三の話を聞くことにした。
義一から届いた赤い薔薇の花束は3本でラッピングされていたが、見舞い用にしては小ぶりな花束を訝しんだ章三はネットで薔薇について調べた。章三が調べたサイトは花言葉のページで、贈る本数についても記載があり、そのページも託生に見せる。
「愛……してます」
衝撃が大き過ぎてどう反応すればいいのかわからない。嬉しいと思う気持ちは正直なところ、全くない。それでもお礼状だけは出さなければならないこともわかっていた。けれど、託生がお礼状を出したことによって義一は叶わない望みをもつのではないか。出会ったばかりの義一に心奪われない自信のようなものが託生にはある。
「どうすればいいのかなぁ〜」
途方に暮れて伸び過ぎた前髪を掻き上げる託生に、無視すればいい、とこともなげに章三が言う。
「無視してれば義一くんも諦める」
章三の言葉を納得しきれない気持ちで聞いていると注釈が返ってくる。
「義一くんが贈ってきたのは愛してますという告白の花束だ」
「愛?」
壱佳にとっては初めて聞く言葉だ。本当は章三と2人で話したかったが、2ヶ月近く託生と離れて過ごした壱佳を除け者にすることはできない。
「大好きってこと」
託生は壱佳の肩を抱き寄せながら壱佳に説明する。
「でも、この前好きって言ったよ?また好きって言ったの?」
「ぼくがごめんなさいしたから。諦めきれなくてまた告白されちゃった」
何度告白されても託生の意思は変わらない。託生を好きだと言う義一の気持ちも、人を信じることができない託生には無理だ。
義一には交換条件も出してある。告白してきた人と1ヶ月付き合う。保育園での義一を見ていても人付き合いは上手そうだし、なにより周りが義一を放っておかない。1度や2度はフィーリングの合わない人と付き合い1ヶ月で破局するかもしれないが、あの天使のような可愛い顔だ。大きくなって多くの女性と付き合ううちにフィーリングの合う人と巡り合って結婚する。そうなれば保育園で出会った託生のことなんか忘れる。
「この花束に対して、どう返答する?」
「勿論、ごめんなさいだよ」
章三はベッドの脇に常に置かれている見舞い客用の丸椅子に座ると深い溜息をつく。
「この間、保育園でお誕生日会があったんだ」
「7月生まれの子たちだね」
託生の喘息が酷くなって、託生自身は5月生まれの園児のお誕生日会に参加したのを最後に保育園を辞めることになった。
「その園児の中に義一くんがいた」
章三が言いたい意味がわからず託生は首を傾げる。
「昨日、花束が届いて、念の為に島田先生に電話で義一くんの誕生日を聞いた」
「うん」
「義一くんの誕生日は昨日の7月29日だった」
誕生日に花束を贈るのが重大な意味を込めたものになるのだろうか。考えても託生にはわからない。
「覚悟しとけ。義一くんはストーカー気質だ」
「ごめん、さっぱり意味がわかたない。誕生日に花束を贈ることとストーカーってどう繋がるの?」
「恐らく、来年の7月29日にまた薔薇の花束が届く。今回と同じ3本だ」
「また愛してます?……でもっ」
託生と義一の間には交換条件がある。
「悪いが中は見せてもらった」
章三がジーンズの後ろのポケットから小さな封筒を取り出し託生に見せる。中にはカードが入っていて、水色のサインペンで由美と付き合い始めた、と書かれていた。ご丁寧にも付き合い始めた日付まで入っている。
交換条件のことは壱佳には知られたくなかった。
「壱佳。章三先生とお話があるからナースステーションに行っててくれる?」
「え〜」
「託生を困らせないんだろ?」
「どのくらい?」
「10分。できる?」
10分くらいなら我慢できると思ったのか、壱佳は渋々病室を出て行く。壱佳の姿が見えなくなるまで手を振って見送った託生にそれで?と章三が聞く。
「義一くんに告白されて断った」
「それは知ってる。このカードの意味は?」
「義一くんに告白してきた人と最低1ヶ月は付き合うように言った」
「それで由美ちゃん。いつまで続けるつもり?義一くんはこの先も花束を送り付ける」
「結婚も自由にしていいって言ったし、こんな最低なぼくのことなんて忘れるよ」
けれど、毎年7月29日に愛してますという意味合いの花束を贈ってくるのは免れられない。余計なお金を掛ける必要はないと言いたいが、託生の無理な交換条件を呑んでもらった。後は義一に可愛い彼女が出来て結婚出来れば託生への花束攻撃も止むだろう。
「兎に角、義一くんにお礼状は出すな。1度でもお礼状を出したら付き合うことを意味する」
章三の考えは託生には理解できないものだったが、お礼状を出すことによって義一に叶わない夢を抱かせるのなら勿論出さない。
「人を信じられない託生は義一くんを好きか、嫌いか?」
「人間としてなら好き……かな。でも、恋愛感情は……」
好きでも嫌いでもない。義一に関心がない。そう考えると曖昧な託生はやはり章三の言うようにお礼状を出さない方がいいのかもしれない。
「わかった。お礼状は出さない」
10分経ったのか、個室の扉が音もなくスライドして開き、隙間から壱佳が顔を覗かせる。
「お話終わったよ、おいで」
託生が手招くと壱佳が走って託生のベッドにやって来る。章三が壱佳を抱き上げてベッドの端に座らせる。
「あのね、義一くんから告白されたことは話したよね?」
うん、と壱佳が頷く。
「それに対してぼくはごめんなさいって義一くんを振った。義一くんに限ってそんな態度を取るとは思えないんだけど、義一くんや佐智くんが壱佳と一緒に遊んでくれなくなるかもしれない。ごめんね」
「大丈夫。前に戻るだけ」
そんな悲しいことを平気な顔で話す壱佳がいじらしくて託生は壱佳を抱き締める。
本当に壱佳には迷惑ばかり掛けている。挽回するためには1日も早く退院しなければならなかった。
崎家の別荘では毎日、家政婦が郵便受けに郵便を取りに行き、リビングテーブルの上に置いておく。郵便は殆どが島岡宛てで、義一や佐智宛ての郵便は滅多に来ない。テーブルの上に置かれた郵便物を仕分けして部屋に運ぶのは数少ないマリコの仕事だ。
今日も郵便物の仕分けをしていたマリコがあら?と声を上げる。
「佐智にお手紙来てるけど……」
マリコが郵便物の差出人を見て不思議そうな顔をする。
「葉山託生って義一くんの好きな託生先生よね?」
ソファで課題の予習をしていた義一は託生の名前を聞いてマリコの方に走り寄る。佐智も自分に来た手紙を受け取る為にテーブルの方に行く。
「そうだけど」
「佐智にお手紙が来てるのに、義一くんにはないの」
マリコがテーブルの上の郵便物を1つ1つ丁寧に差出人の確認をしながら見ていくが、義一宛ての郵便物はなかった。義一の想像通りの対応におかしくもないのにククッ、と笑いが漏れる。
「なに笑ってんの」
自分のことでもないのに些か憮然とする佐智もおかしくてついにアハハっ、と声を上げて笑ってしまった。
「後で説明する。今は手紙が先」
笑いを納めて手紙を持った佐智の手を引いてソファに行く。
佐智が納得するような説明の前に、義一には来なかった手紙の内容を知りたい。託生が義一に手紙を書かなかった理由はわかるが、義一と佐智が一緒に住んでいることを託生も知っているのだから、佐智の手紙が義一に読まれることもわかっているはずだ。
「先読んでいいよ」
「マジ?」
「うん。……っていうか、漢字は難しい」
佐智に来た手紙を……、しかも託生からの手紙を1番に読めることが幸せだ。
マリコが引き出しからペーパーナイフを持って来てくれ、義一に手渡し佐智と、なぜかマリコまでソファに座り、託生の手紙を拝聴しようとする。
「マリコさんも見たいの?」
「だって、義一くんの好きな先生でしょ?おばさん、興味ある〜」
3人が手紙の内容を知りたいのなら最初から手紙を読み上げた方がいい。義一はペーパーナイフを使って手紙を開封し、封筒から便箋を抜き出し、開いてまず目を通す。
初めて目にする託生の手紙は綺麗な字で書かれ、6歳児の義一や佐智にでもわかるように全てがひらがなで書かれていた。
「お前、先生にCD渡したのか?」
「うん。動画を撮った後、レッスンの時に先生にお願してスタジオを借りてもらったんだ。CDを持って先生に渡しに行ったんだけど会えなかった」
レッスンの日は佐智と別行動の義一は知らなかった。録音もレッスン絡みで行ったのだろう。
徐に義一が手紙を読み始める。
「佐智くん。バイオリンのCDをありがとう」
「どういたしまして」
「集中治療室には話し相手がいないので、音楽を聴いて退屈な時間を過ごしています。動画もだけれど、佐智くんのCDで凄く元気をもらえ、先日、一般病棟に移ることができました」
よかった、と素直に思った。佐智が義一に内緒で託生にCDを渡したと知った時はちょっと腹が立ったけれど、佐智のCDのお陰で一般病棟に移れたのなら帳消しにしてやれる。
「でも、一般病棟に移ったことは章三先生と兼満先生しか知らないから、もう少し内緒にしてくれって。見舞い客の相手ができるまでは回復してないんだろう。章三先生から話すって」
「託生先生ってどこが悪いの?」
義一が手紙を読み上げるのを一緒に聞いていたマリコが聞く。
花屋に一緒に行ったマリコは託生が集中治療室にいることは知っているが病名までは知らない。
「喘息。きっと重い方」
「じゃあ、お花は病室には飾ってもらえないわね」
「なんでっ」
佐智が叫ぶ。贈った義一といえば悠然と説明を始める。
「花粉は喘息に悪影響を及ぼすんだ」
「知ってて先生に花を贈ったの?」
「オレの決意を先生に知ってもらいたかったから。理由はわからなかったけど、先生は人を信じることができない。必ず裏切りがあると思ってる」
「なんで義一くんがそんなこと知ってるの?」
「島田先生に協力してもらった」
「手紙を貰えない。花も病室に飾ってもらえない。義一くんは何がしたいの?」
やった、と思った。何年掛かるかわからない義一の壮大な計画を人に話したかった。
「オレの計画、聞いてくれるか?」
「話したくてウズウズしてるくせに」
アハハっ、とまた笑ってまずは託生に告白して振られたことを打ち明けた。
「知ってるよ。いじけて保育園休んだじゃない」
「ただいじけてたんじゃない。どうすれば託生先生と恋人になれるか考えてた」
「どうするの?」
義一の誕生日に託生にものを贈る。毎年贈るつもりだが、絶対に同じものでなければ意味がない。
「それで花?手紙は駄目なの?」
「国際郵便になると郵便事故があるだろ。その点花なら日本の花屋に依頼出来る。必ず7月29日に届けてくれる」
後2年で義一はアメリカに帰ることが決まっている。花より手紙の方が誠意は伝わるだろうが、7月29日に届かなければ意味がない。
「なんで義一くんの誕生日なの?普通反対でしょ?」
「託生先生はもう成人してるから無意味なんだ。オレの誕生日に贈ると年齢がわかるだろ?」
もう、結婚は求めないことにした。勿論、託生に結婚願望があればやぶさかではない。託生と付き合うには義一が大人にならなければならない。託生に忘れ去られないように、毎年義一の誕生日に薔薇の花束を贈って◯歳になりました、と託生に知らしめる。
「先生から手紙がなかったのにも理由があるんだ」
今回、託生に振られた義一が改めて贈った薔薇の花束は3本で、愛してます、の意味合いがある。義一に恋情のない託生は当然義一を振るし、手紙も来ない。
「わかんない」
「おばさんも」
「オレが贈った薔薇の花束は3本。これの意味は?」
「愛してます」
「正解。でも、オレは振られた。レスポンスが来る訳がない」
「佐智のはお礼状でしょ?だったら義一くんにもあって当然じゃない?」
「佐智のCDで先生は喜んだ。でも、オレのは自分の気持ちを押し付けただけ。そんな相手にどんな文面を考える?」
寧ろ、病室は無理でも家に飾ってもらえるだけで光栄に思わなければならない。
パンっ、とマリコが手を叩いてわかった、と叫ぶ。
「確かに。義一くんには書きたくないわ〜」
「でも託生先生だよ?僕は手紙を送ってほしかったなぁ〜」
ソファに背中を預け、天井を見上げながら不貞腐れたように佐智が言う。
「佐智は聖矢さんが好きだろ?」
「うん、大好き」
「聖矢さんが大好きな佐智の留守中に聖矢さんではない人から3本の薔薇の花束が届いたら?」
「受け取らない」
「留守中って言っただろ。お礼状を書く気あるか?」
「花に罪はないけど、手紙は書きたくない」
「それと一緒。オレは先生の気持ちを知っていながら愛してますの花束を贈った」
「義一くんの説明はわかったけど、ショックだなぁ〜。託生先生が貰いっぱなしなんて」
託生も悩んだと思う。けれど、託生が義一に手紙を出すと齟齬が生まれる。
「出しちゃいけないんだ。寧ろ、出すとおかしくなる。オレを好きなのに先生は振ったことになる」
「実は義一くんが好きだったりして」
「それはない」
自分でも悲しい断言をして心が折れそうになる。
「さっき言った通り、託生先生は人を信じられないんだ。そんな人が出会って3ヶ月の6歳児を好きになると思うか?」
「ならない。でも、どうやって恋人になるの?」
これから毎年、義一の誕生日に託生に薔薇の花束を贈る。毎年、義一から花束を受け取っている託生も義一の恋心を本物と捉え、人を信じられない託生も義一を信じ気持ちを傾けてくれる。レスポンス イコール託生の返事だ。
「いつまでやるつもり?」
「先生と恋人同士になれるまで。いや、一生だな」
「付き合えないってこと?」
「反対。託生先生と付き合っても贈り続ける」
毎年、義一の誕生日に託生に愛してる、と告白し続ける。寧ろ、託生と付き合えた途端に花束の儀式をなくしてしまったら、人間不信の託生と義一の関係はたちどころにストップしてしまう。
「オレの計画、凄いだろ」
「凄いっていうか、ストーカー並みね」
ストーカーとは好きな子に四六時中まとわりついて危害を加えることを言う。確かに義一の計画はストーカー並みかもしれないが、犯罪は犯さない。
「それに先生は佐智とオレが一緒に住んでることを知ってる。佐智に来た手紙がオレの目に止まらない筈がない。他の人だったら佐智にだって手紙を出さない筈なのに、先生は手紙を出した。佐智の好きな託生先生だろ?」
「そっか」
「きっと章三先生あたりが止めたんだと思う」
「託生先生と章三先生って恋人同士なの?」
鋭い指摘をしたマリコに目を向けると、
「そんな睨まないでよ〜。男の先生と女の先生が一緒にいたら普通考えるでしょ?」
「お母さん。託生先生は男の先生だよ」
今までの話を思い出してみると1度も託生の性別に触れていないことに気付いた。確かに託生の名前は女性でも当て嵌まる。
「じゃあ、佐智も義一くんも恋愛対象が男性ってこと?」
「マリコさん。今の時代はジェンダーに捕らわれないもんだよ」
「あら?そうなの?」
現に保育園関係者にも同性愛者はいる。けれど、園児たちと上手くやっているので同性愛を理由に就職出来ないことはない。ただ、カミングアウトするかどうかは周囲の環境によっても変わってくるので今でも難しい問題だ。
義一と佐智が揃って男性を好きになったのは偶然で、マリコは問題視していないが、佐智の父親まで同じ意見かはわからない。裕明は前向きに考えてくれていると思うが、託生の気持ちが義一の元にないことは知っているのだろう。これから先、義一の策で託生の気持ちがこちら側に向けばいいが、そうならなかった場合は他の方法を考えるしかなかった。
集中治療室にいる間は風呂にも入れず、看護師の瀬尾に身体を温かいタオルで拭いてもらうだけだった。集中治療室から出たばかりの託生が1人で入浴するのはまだ無理で、介添えしてくれる看護師が必要だ。
3階の個室に移動して担当看護師も変わったが、トイレは仕方がないとしても入浴介助は絶対に男性がいい、と頼み込んだ。担当看護師は仕事だから男の裸など見慣れているだろうが、女性に貧弱な身体を見られるのは託生が嫌だった。託生はまだ二十歳で若いのだ。その為、以前から入浴の希望は出していたが、男性看護師の都合がつかず、一般病棟に移って5日が経過して念願の入浴を終えた。
僅かずつではあるが、日に日に体力は回復しているが、2ヶ月振りの入浴は託生から体力を奪い、体や髪はなんとか自力で洗えたが、最後の着替えは集中治療室で託生の担当だった瀬尾に頼ってしまった。
女性看護師はかなりの数いるのだが、男性看護師は数が少なく、今の病棟にはいない。同じフロアということもあって男性看護師はあちこちでフォローに回っている。
「お顔とお髭は病室でもできますし、落ち込むことはないです」
脱衣所で瀬尾に着せられたパジャマを大きく感じる程に託生の身体は痩せ細ってしまった。下着のゴムもユルユルで、章三にサイズダウンした下着を買って来てもらわなければならない。
瀬尾に抱き上げられて車椅子に乗せられた後、酸素マスクを口元に当てられる。この酸素マスクも楽でいいのだが、いずれは手離さなければ退院出来ない。
浴室から病室へと車椅子で移動すると、ベッドの傍に見舞い客用の丸椅子を出して座っている女性の後ろ姿が見えた。病室を無人にしても貴重品は鍵の掛かる引き出しに入れて保管しているし、引き出しの鍵は託生の手首についている。
「母さん」
瀬尾に車椅子を押してもらいながら女性に近づく間に、彼女が託生の母の琴子だとわかる。琴子は託生の呼び掛けに反応して椅子から立ち上がり、一歩託生に近づく。
「心配掛けてごめんなさい」
1歩踏み出した琴子はそのままつかつかと託生の前まで進むと、いきなり託生の頬を打った。驚いたのは瀬尾だ。1度だけ叩いた掌を託生の両肩に乗せ、体をガクガクと揺すぶられ頭が前後に振れた。
「なんでっ、なんで私たちの気持ちがわからないのっ!あなたに何かあったら……っ」
琴子が言っているのは、危険も顧みず託生が動物園に行ったことを指している。
小さい頃から両親は託生の身体に悪影響を及ぼすところに出掛けるのを避けていた。兄の尚人は健康な男子なのに、いつも託生に合わせて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
なんで、なんでと繰り返す琴子の顔は溢れ出た涙でグショグショだった。この場は自由に動ける瀬尾が琴子を託生から離し、丸椅子を引いて座らせる。託生も再び車椅子を押してもらい、瀬尾の介助でベッドに座る。酸素マスクを付けてから、ベッドの足元に風呂場で使ったタオルや下着、パジャマ、洗面器に入った洗面用具を置く。
「今、タオルを持って来ますね」
託生のタオルをしまっている棚からタオルを2枚出すと、洗面所でタオルを水で浸した後、絞って琴子に渡す。
瀬尾は細かいことによく気付く看護師だ。今だって殴られた託生の頬も、涙でグショグショな琴子の顔も後で自分でできるのだから放っておいていいのだ。
どうぞ、と瀬尾にタオルを渡された琴子は暫くタオルを見詰めていたが、やがてありがとう、と言って涙を拭い始めた。託生もタオルを受け取って頬に当てる。
「瀬尾さん。暫く2人にしてくれる?」
「何かあったらボタンで呼んでください」
琴子がタオルで涙を拭っているのを見て、顔を洗った方が早いような気がして、
「お化粧道具持って来てる?」
「マンションに寄らずに真っ直ぐ来たから」
マンションに寄っても章三も壱佳も保育園に行って留守だ。マンションの鍵は琴子にも預けているが、部屋には誰もいない。
「顔、洗っちゃった方が早くない?」
「あなたも、その無精髭」
託生を注意する間にも新たな涙が溢れてくる。そんな琴子を見て、託生は本当に申し訳ない気持ちになった。
「今、お風呂に入って来たんだけど、髭を剃る体力が残ってなかった」
涙を拭う手を止めて託生の身体を、頭のてっぺんから足の爪先までじっくりと見た後、痩せたわね、と呟く。
2ヶ月近く集中治療室に入っている間に、ジャストフィットだったパジャマはブカブカになり、下着も同様に大きく感じるようになった。1人で自由に歩く前に衣類を新しく買い揃えなければウエストがずり落ちて違う意味で歩けない。
「私やお父さんも着てるんだけど、尚人のお下がりでよかったら送るわよ」
「本当?」
「私と今のあなたの体重、殆ど変わらないんじゃない?尚人が中学の頃のシャツとかスウェット、私は丈が長いから無理だけどズボンも大丈夫そうね」
「そんな古いのがまだ着られるんだ」
尚人のお古を着たくない訳ではなく、今から10年近く前の服を未だに取ってあり、尚且つ両親が着ていることに驚いた。
「あなたの服も取ってあるけど殆どがパジャマでしょ?」
中学・高校は制服で学校に通っていたので私服は少なく、また託生は昔から入退院が多かったのでパジャマを多く持っていた。
「尚人は入らなくなったものも含めると結構な衣装持ちなのよ。高校は私服だったから余計」
高校の途中で一人暮らしを始めた尚人の様子は託生にはわからないが、衣替えの度に服を段ボールで実家に送り、しかも全て新しいデザインの洗練された服で驚いたことを覚えている。
琴子に頼めるなら章三には下着を買って来てもらうだけで済む。頼っていいと言われているが、章三は他人でなるべく身内に頼りたい気持ちはあった。
「じゃあ、送ってもらえる?」
託生は尚人と違い、着るものに頓着しない。入ればそれでいいという考えだから、あまり服を買いに行くこともない。
「わかったわ」
「それと、三洲先生に病気のこと聞いた」
琴子は何も言わない。それでも託生は話を続ける。
「ぼくは自分の病気を甘くみてた。母さんたちの苦労を知ってたのに、動物園くらい大丈夫だって勝手に思い込んでた」
「壱佳を育てるのは無理そう?」
「ううん。壱佳が頼ってくれる限り、ぼくは壱佳を育てたい。一緒に駆けっこができなくても、アミューズメントパークに行けなくてもいい。無理をしないって決めた。壱佳もわかってくれた」
「それでも壱佳はまだ子供よ?遊びに行きたい年頃じゃない」
「それは章三に頼んだ。保育園でも友達が出来て……、って言っても卒園して暫くは疎遠になると思うんだけど、大人になった時、一生ものの友達だったとわかると思う」
託生を好きな義一を利用するつもりはないが、壱佳の友人としてなら義一が側にいても構わないと思う。
琴子が丸椅子から立ち上がり、ベッドサイドのテーブルの鍵の付いていない方の引き出しを開けて何かを探している。
「何?探し物?」
「病院の案内図。前にあなたが入ってた病院に理髪店があったのを思い出したの。その手じゃ危ないでしょ」
琴子に指摘されて膝の上の手を見ると、細かく震えていた。琴子の言う通り、こんな手で髭を剃ったら肉片も切り落としそうだ。
「瀬尾さんに聞かなきゃ」
「理髪店があるならお母さんが予約するわよ」
「それはわかるけど、情けない話、今のぼくには酸素マスクがないと駄目なんだ。髪を切ったり、髭を剃ったり、長時間は無理なんだ」
情けない話だが、琴子には事実を伝えなければならない。
ボタンを押して瀬尾に病室に来てもらい、理髪店の話をするとあっさりといいですよ、と言われた。
「あそこのマスターは医師免許を持っているので、酸素マスクも適宜付けてくれます。施術が終わったら連絡も入りますから僕がお迎えに上がります」
「いい看護師さんに当たってラッキーね」
瀬尾は集中治療室の看護師で、今の託生の担当ではない。けれど、瀬尾がいい看護師なのは体験済みなので、うん、本当にそう思う、と答えた。
「尚人も心配して、帰国しようか、って言うし、そうしたら一家路頭に迷うじゃない?」
尚人の帰国しようか?はFグループを辞めて日本で再就職先を探すことを意味する。バブル景気だった昔とは違い、今は就職難で、1度会社を辞めたら次の就職先はなかなか決まらない。託生が保育園を辞めた今、葉山家の稼ぎ口は尚人しかいない。
「本当にごめんなさい。兄さんには今のままでって伝えてくれる?」
「あなたが謝ることないの。私がもっと元気な子に生んであげられたら、とか、尚人の半分でも健康だったら、とか色々考えた時期もあったけど全ては運なのよ」
運と言われると凄く納得する。託生の病気も、あの事故も、彼女の裏切りも、雅美の病気も、全ては託生が不運だったから今の環境になった。かなえが亡くなった尚人は託生よりは運が付いているし、なにより健康な壱佳がいる。
「こっちに帰って来た方が楽じゃない?」
確かに今の託生に壱佳を育てることはできないし、静岡に帰った方が琴子も気が休まるだろう。けれど、託生は静岡に帰れない。
「まだお父さんのこと、気にしてるのね」
託生がゆかりに振られた日、父の雅美は倒れて介護が必要な身体になった。両親も尚人も託生の所為ではないと言ってくれたが、実際身体が不自由になってしまった雅美の前に顔は出せない。託生が責任を感じるならば、と尚人の助言でそれまで静岡で暮らしていた壱佳を両親に代わり託生が育てることになった。
「ぼくの所為だよ」
託生がゆかりと付き合わなければ両親と対面する予定も立てなかった。壱佳も今まで通り、両親と静岡で暮らせていた。託生が家族をバラバラにしてしまった。
琴子はフウっ、と大きく息を吐くと、もういいわ、と諦めたように言う。
「尚人でも説得できなかった程の頑固者にはもう何も言いません。でも、これだけは約束して。決して無理はしない。軽い発作でも甘くみずにお母さんを頼って」
今回の発作は軽いうちだからと薬だけで治そうとしたのが失敗だった。結果として、壱佳に体験させたくない恐怖を味わわせてしまった。琴子に頼ることは、ひいては壱佳の為になる。
「うん、約束する」
琴子が右手の小指を差し出し、託生も小指を絡めてげんまんする。
「今度、大きな発作が起きたら有無を言わさず静岡に連れて帰るわよ。これはお父さん命令」
「はい、わかりました」
琴子は洗面所で漸くグショグショの顔を洗い、お化粧を直した後、託生のベッドの足元に置かれた洗濯物を洗ったり、洗面用具を片したりしていたが、やがて託生の昼食が配膳される昼時になるとお昼食べて来るわ、と言って病室を出て行った。
すっかり小さくなってしまった託生の胃袋には多過ぎる昼食をなんとか納め、少し膨らんだような腹を撫で擦っていると託生のスマホが電話を受信して震えた。個室では通話しても構わないと担当看護師に言われていたが、着信音を鳴らすのは控え、マナーモードに設定してあった。
スマホの画面を見るとパパと表示されている。壱佳と暮らす前は尚人だったが、スマホの画面だけでも壱佳が託生のスマホを見るようになり、表示を変えた。
ベッド脇の小さなテーブルの上のスマホを取り、通話ボタンを押す。
『具合どうだ?』
「かなりいい。最近はベッドの上では酸素マスクなしでいられるようになった。心配掛けてごめんね」
電話の向こうの尚人がホッと息を吐いたのがわかる。
退職まで考えさせてしまった今回の件は託生が悪い。いつも尚人に頼ってばかりで申し訳ないが、託生の病気が治らないのはわかっているので、できる限り尚人に心配を掛けないようにしようといつも思っている。
『僕は壱佳を丸投げしてるんだ。おあいこだろう』
尚人はいつも託生の重荷を軽くしてくれる。託生より6年先に生まれただけで、人に頼ってばかりの託生と大違いだ。
『なあ、なんで動物園なんかに行ったんだ?壱佳の為か?』
保護者であれば子供が楽しむ姿を見たいと思う。勿論、託生もそうだが、託生自身の願望も含まれていた。
「壱佳が家を出て行った後の思い出にしたかったんだ。それにそんなに軟じゃないと思ってた」
『反省してる?』
「海よりも深く」
『ならいい。この話はおしまい』
明るい声で尚人が場を仕切り直す。託生のことは雅美の介護の為、早々に静岡に帰った琴子からあらかた聞いていたからかもしれない。
『御曹司に求婚されたんだって?』
御曹司とは義一のことだ。何故、アメリカにいる尚人が日本でのことを知っているのか。
「求婚はされてないけど、もしかしてクビになった?」
託生の都合だけで義一を振ったけれど、裕明の会社で働く尚人には重大なことだったのかもしれない。
『優秀な尚人様がクビ?なんでそんな発想になる』
「義一くんに告白されたけど断ったから」
『いつの時代だよ。大体、6歳児に告白されてOKする方が危険だろ』
尚人が言うことは尤もだ。6歳児に告白されて、相手が佐智のような幼馴染なら友達として付き合い、大人になって恋人同士になって結ばれる、という図式が成り立つが、託生は二十歳で義一と同じ時間は過ごせない。
「求婚なんてデマ情報はどこから?」
『壱佳。託生が結婚するなら一緒に住む〜って。社長も御曹司が託生を好きなこと、知ってたぞ。託生のことを聞いてくるから、長所をいっぱい言っといた』
「どこかで行き違いになっちゃったみたいだけど、義一くんとも誰とも結婚しないって壱佳に言った」
『なんだ、託生にも漸く春がきたと思ったのに。けど、社長は振られたことはまだ知らないみたいだな。託生がゆかりと別れた訳を話したら、今時の若者にしてはしっかりしてるって僕のプレゼンを高評価してたんだけど』
6歳児の義一を誑かした悪い大人の託生の長所を裕明に言うなんて、尚人は何を考えているのか。抑も、裕明は尚人のプレゼンを気に入ったのであって、人間不信の託生を気に入った訳ではない。
「そういう時は短所を言うんだよ」
『お兄ちゃん、託生が大好きだから良いとこいっぱい知ってて言えるけど、悪いところは知らないなぁ〜』
頑固だとか、人間不信だとか……、乗り物酔いがあるとか。
「礼儀を欠いた」
電話の向こうの尚人が深刻そうな声で、
「何があった?」と聞く。
『託生が礼儀を欠いたことなんて一度もないだろう。信じられん』
尚人なら章三と違った見方をするのだろうか。母の琴子には言えなかったことでも尚人になら打ち明けられる。
「実は、義一くんから薔薇の花束を貰ったんだ。……赤いのを3本、義一くんの誕生日に」
『愛してます、ってやつか』
「兄さん、花言葉知ってるんだ」
『かなえにプロポーズする時に調べた』
「プロポーズの時は何本?」
『108。結構痛い出費だった』
「3本で良かった。108本なんて世話が大変だよ」
『ハハっ、かなえと同じこと言ってる。それで?』
「3本の赤い薔薇って愛してます、って意味なんだろう?お礼状を書こうと思ってたんだけど、章三に止められたんだ。OKを意味するからって」
『そこまではいかないけど、期待はするな。御曹司は自分の誕生日に贈ったんだろ?来年も来るな』
章三と同じことを言っている。これから託生がどうすればいいのか、助言がほしい。
『託生は御曹司が6歳だから振ったのか?』
「違う。義一くんが何歳だろうと振った。興味がないんだ」
『御曹司が諦めず、毎年薔薇の花束を贈っても?』
託生が義一に興味がないのは義一を信じられないからだ。出会って3ヶ月で告白されても託生のことを知らない義一を信じられる訳がない。
「義一くんには交換条件を出しておいたからぼくのことなんか忘れるよ」
『どんな?』
「義一くんに告白してきた人と最低1ヶ月は付き合うこと。フィーリングがあえばそのまま結婚しても構わない」
『勇気を振り絞って告白した6歳児に酷いことをするねぇ〜』
託生の策が気に入ったのか、電話の向こうで尚人がクックックッ、と嗤う。
「期待させる方がかわいそうだろ」
『でも、めげずに花束を贈ったのか』
「お礼状、今からでも出した方がいいかな?」
『多分なんだけど、御曹司はお礼状が来ないことは想定内だったと思う』
「どうして……」
『御曹司の自己満に付き合う必要なし』
それはお礼状を出さないということだろうか。
『御曹司は今は、まだ諦めていないアピールをしている状態だ。後1年半でこっちに帰って来るだろ?』
「うん」
『御曹司がアメリカだけで勉強するのか、どこか留学するかは知らないけど、日本に来る予定が立てば託生の前に現れる』
「ぼくの苦肉の策は?」
『未来のFグループ社長には屁でもないだろうな』
「お礼状は?」
『今はいらない』
「今は?」
『託生の前に現れた時、改めて告白するんじゃないかな』
つまり、その時に義一は改めて告白し、託生は返事をする。何年経っても託生の人間不信は変わらないだろうから義一に金を無駄にする必要はないと伝える機会はないだろうか、と考える。
「何か諦めさせる方法はないかな?」
尚人から裕明に説得を頼めないだろうか、と考える。
尚人は1つ溜息をつくと、ないよ、と言う。尚人が無理だと判断したのなら託生では太刀打ちできないだろう。
『人を好きになるのは自由だ。法に触れるような事態にならないうちは花束を贈ることも規制出来ない』
やはり、義一が諦めるか、義一に彼女でも出来ない限り、義一は7月29日の自分の誕生日に薔薇の花を3本贈ってくる。
「ぼくなんかが側にいていい訳ないんだ」
託生は疫病神だ。身体も健康ではないし、過去に大切な人に裏切られた。
「ぼくなんか好きになっても良いことなんかない」
『今直ぐ託生のところに行って抱き締めたい。託生は何も悪いことしてないって託生が信じられるまで言いたい』
両親でさえ知らない事実を知っている尚人に甘えてしまいたい。けれど、そんな尚人にも託生は隠し事をしているが、恐らく託生の言うことを尚人は疑っているだろう。その上で託生に非はなかったと言ってくれる尚人は託生の唯一の理解者だった。
「つまんない」
島岡に手を引かれながら義一が呟く。
託生が保育園を辞めてから全く面白味のなくなった場所だが、今と比べれば楽しい場所だったとわかる。佐智とは相変わらず連んでいるし、声を掛ければ壱佳とも一緒に遊ぶ。カテゴリー最下層の壱佳と遊ぶことに裕明や島岡が口出しするかと最初は思ったが杞憂で、それは尚人がFグループの社員だったからだと思う。
託生に振られた後、壱佳を遊びに誘うと、遊んでくれるの?と不安げに聞かれたが、恐らく託生から義一や佐智と遊べなくなるかもしれない、と言われたからだろう。けれど、義一はそんな愚かな真似はしない。振られたからといって友達を解消するのは壱佳には申し訳なく思うが、壱佳を利用することもできる。だが、託生のことを抜きにしても壱佳は1人の人間として義一が付き合いたい人間であり、佐智と同等に位置する人間だと評価している。
「義一さん、口癖になっていますよ。それに人混みで呟くには声が大きいです」
もしかしたら義一がつまんない、と呟く度にすれ違う買い物客が振り返り、義一に注目していたのかもしれない。
「こんなことなら佐智と家に残ってれば良かった」
託生に会えるかも、と期待したお遊戯会も運動会も託生の入院が延長された為会えず仕舞いだった。
「佐智さんはバイオリンのレッスンです。暇人の義一さんの相手はできません」
「課題は早く片付けた方が良いって言うからだろ」
早く課題を片付けた結果、こんな役割が回ってくるなんて知らなかった。
クリスマスパーティーを終えた翌日から崎家の使用人は揃って年末年始の休みに入ってしまった。これは例年通りの休みだが、今年に限って義一の父親の崎裕明が来日することが急遽決まり、マリコは大掃除に。島岡は注文していたお節料理をデパートに取りに行くことになった。マリコの大掃除より島岡の任務の方が楽そう、という理由で義一は島岡に着いて来たのだが、佐智は休みの間こそバイオリンのレッスンに集中できるので今日の暇人は義一1人だ。
「大体どこも似たようなお節作ってるのに、2個も3個も買う意味あんの?」
「だからでしょう。味が違うから他所のお節も味わう。去年までの義一さんは美味しいと言ってパクパク食べていたのに、お節料理を取りに行くことになった途端つまんない、じゃバチが当たりますよ」
「じゃあ、ジュース買って。デパ地下って熱気が凄くて喉乾いた」
「ここが最後ですから良いでしょう」
義一はしっかりしているので見知らぬ人の後を着いて行くことはないが、広いデパートの食品売り場で迷う可能性もある。その為、島岡は注文のお重を手に義一の後を着いて行く。
「涼し〜」
地階の清涼飲料水の売り場。なかでも冷蔵設備の整った売り場で義一は声を上げる。大型冷蔵庫に頭を突っ込むようにして涼む義一の数歩前には義一と同じ歳くらいの男の子が1.5lサイズのコーラのペットボトルを抱え、義一を見て固まっていた。義一も冷蔵庫から頭を引き、男の子を凝視する。
「義一、くん」
義一は壱佳を呼び捨てで呼んでいるのに、壱佳はそうしない。佐智と同じように呼ばれることに虫唾が走るが、尚人がFグループの社員なので壱佳に呼び捨てを強要することもできない。
「託生先生と一緒なのか?」
託生は12月の始めに漸く市立病院を退院した。退院後暫くは章三が引き続き託生のマンションで寝泊まりして様子を見ていたらしいが、今は壱佳と2人で暮らしている。けれど、体力の落ちている託生に買い物は負担が掛かるので、章三が受け持っている、と聞いている。
「うん。パパのケーキ、選んでる」
裕明が来日できるくらい暇なら、尚人も帰国できたのだろう。離れて暮らしている壱佳が嬉しそうな顔をしていた。
「お正月にケーキ?」
「クリスマスに食べられなかったんだって」
「コーラ、好きなのか?」
ケーキと違い、義一の問いに暫し考えていた壱佳だったが、首を横に振り、
「普通。いっぱい飲むと骨が脆くなるってたぁくんがいつも言うけど、今日はパパが帰って来るから特別」
壱佳の身体を心配してコーラを飲ませたがらない託生は素晴らしいと思う。義一も家では基本オレンジジュースだが、託生に倣ってコーラは控えようと心に誓う。
「壱佳ん家はお節料理は買うのか?」
「たぁくんが作ってる。伊達巻とか、佃煮は買ったのだけど」
良いなぁ〜、と思った。口に出してしまったら壱佳は義一を招待しなければならず、それは義一の本意ではない。お節料理を家で作ってくれる人は大体は母親で、マリコは佐智の母親だけれど料理は一切しない。見たことがないので案外できないのかもしれない。
「壱佳〜、どこ〜?」
託生の声がして壱佳が声を上げ掛ける。素早く壱佳の口を掌で塞ぎ、
「オレと会ったことは託生先生には内緒。いい?」
壱佳がコクコク、と頷いたのを確認して掌を離す。
「でもなんで?話せるのに」
「オレの中で次に先生と話すのは告白する時なんだ」
「あれ?もう……」
「ああ、振られた。今は6歳児だから振られても仕方ないかなって思ってる。だから、次は歳の差なんて感じられないくらい大人になって先生に告白する」
「頑張って」
壱佳が小さく手を振り、託生の方に走って行く。
「飲み物決まった?」
「コーラにした」
「偶になら良いよ」
「ケーキは?」
「やっぱり壱佳に選んでもらおうと思って。その方がパパも喜ぶ」
託生と壱佳の幸せな会話が聞こえてくる。壱佳を義一から遠ざけたのは成功と言っていい。あの場に託生がいたら義一は勿論嬉しいが、義一を振った託生はいたたまれなくなる。
お節料理を作ることも聞かなければよかった。義一はかわいそうな子供と判断されたら厄介だ。
いつか大人になって、託生と恋人同士になれたらお節料理を家で手作りして2人で食べるのもいい。バスハイクの時は託生の手作り弁当を食べられなかったが、託生が料理をするとわかった以上、義一ものんびりしてはいられない。
「来年のお節は手作りがいい」
「マリコさんには高度過ぎます」
「みんなで手分けして作るんだよ」
託生のお節料理に敵う訳がないが、これから腕を磨き、義一くん、料理上手だねぇ〜、と褒められたい。その為にも今から腕を磨く。磨くのは料理の腕前だけでなく、男としても再会した託生に惚れ直されるような男になりたい。
「片瀬さん、専務がお呼びです」
「真帆ちゃん、ありがとう」
片瀬健吾は叔父が専務を勤めるヤマハで働いている。スポーツ馬鹿の健吾が楽器メーカーに入社したのは償いの為であり、勿論コネ入社だ。
健吾は小学6年生の時、取り返しのつかない過ちを犯し、幼馴染に大怪我を負わせてしまった。しかも、自分の仕出かしたことを恐ろしく感じ、階段の踊り場で意識もなく倒れている幼馴染をその場に放置して家に逃げ帰った。背後からは現場を見ていたらしい女子の悲鳴が上がっていたから、幼馴染は先生に助け起こされ病院に運ばれるだろう。いや、もし打ちどころが悪く、死んでいるかもしれない。その時は兎に角自分が仕出かしたことが恐ろしく、自分を守ってくれる家に逃げ帰ることしか頭になかった。
専務室とプレートのかかった扉を3回ノックした後、応えも待たずに扉を開け入室する。
叔父は独身で、昔から健吾を我が子のように可愛がってくれ、また、この事件の時も厳しく健吾を叱ってくれた。目撃者の女子がいたので健吾が幼馴染を突き落とした犯人だと噂は上がったが、抑も幼馴染は1人で階段から転げ落ちたと主張した為、学校側からも、幼馴染の家族からも健吾は何も言われなかった。
「用事って?」
専務室のコーヒーメーカーを経由してソファに座る。プラスチックカップがテーブルに軽い音を立てて置かれた。
「託生くんから履歴書が届いたぞ」
叔父はテーブルの上に写真付きの履歴書を置いて見せた。履歴書を手に取ってまじまじと見た健吾は間違いない、と確信する。
あの事件以来会っていないが、風の噂で健吾が人殺しになることは避けられたことは知っていた。託生は健吾が通う予定だった公立の中学に。健吾は叔父に頼んで私立の中学の試験を受け、無事合格した。両親には静岡を離れたいと無茶を言ったので、家の引っ越しと受験が重なって慌ただしかったのを覚えている。
高校に入学し、バイトが可能な年齢になると、コツコツと金を貯め、調査会社に依頼して託生に関する情報を買っていた。ところが託生が静岡の高校を卒業した後、東京の短大を受験したところまでは調べられたが、その後、調査会社に依頼する金が尽きてしまい、託生についてわからなくなってしまった。
「託生〜、会いたかったよぉ〜」
思わず履歴書の託生に頬擦りする。
「そんなに好きなら会って、まず謝ることだ」
「無理〜っ、きっと俺の悪行を知ったら軽蔑される」
「それがわかっていながら何故託生くんの彼女を寝取った」
叔父には詳しく話していないが、託生の彼女・橘ゆかりを寝取ったのは健吾の大学の先輩で、知り合い程度の友達でもない人だ。調査会社の報告書を見て、託生に肉食系の彼女がいたことを知って驚いた。ゆかりについても調べるうちに清純な託生に金遣いの荒いゆかりは似合わないと思い、大学の先輩をゆかりに紹介した。その結果、ゆかりは先輩の子を妊娠の末結婚、出産と階段を駆け上がるように幸せを掴んだ。しかし、子供が生まれて生活費が足りなくなり、先輩が会社に内緒で副業の土方のバイトを始めたが、作業中足に怪我をし、満足に歩けなくなった。副業も会社にバレてクビになり、その上若いが身軽に動けない先輩に就職先は殆どなく、離婚して子供は先輩の両親が育ている。子供が生まれたことで満足したのか、ゆかりは夜の世界に足を踏み入れ、男を作って家を出て行ったからだ。
「けど、託生は幸せになれた」
甥の壱佳を育ているが、調査会社の報告書に添付されている写真を見ても幸せなのがわかる。雅美が倒れて介護が必要な身体になったと報告書にあったが、何故託生が静岡に帰らなかったのか不思議だった。
託生に転機が訪れたのは昨年の6月。
元々持病の喘息で入院しがちだった託生は大きな発作を起こして入院した。報告書によると勤めていた保育園も辞めた。託生の家は現在、収入源が兄の尚人しかいないことになり、健吾は直ぐ様何でも屋に依頼して託生の住むマンションにヤマハの求人広告を入れた。勿論、叔父の協力あってのことだが、小さい頃からバイオリンやピアノを習っていた託生は求人広告に飛びついた。だから、叔父の元に履歴書が届いたのだ。
「だが、左手に麻痺がある。そんなんで講師が勤まるか」
それはもしかしなくても健吾が負わせた怪我が原因ではないだろうか。そうでなくても健吾は託生を陰ながらサポートする所存だ。
「叔父さん、お願いっ!託生を雇ってっ!託生は頑張り屋だし、頑固者だけど優しい。小さい子の指導は打ってつけだよっ」
叔父の顔の前で両手をパンっと叩き合わせ、拝み込む。叔父が雇うと言うまで頭は上げないつもりだ。
「子供の指導なら怪我をした左手でも可能ではあるが」
「そうそうっ!報告書にも園児から好かれていたってあったでしょ?」
「しかし、ピアノか……。ピアノ講師は腐る程いるんだが……」
健吾は耳を疑った。バイオリンではなく、ピアノ。麻痺した左手ではバイオリンは弾けないのだろうか、音楽は門外漢の健吾は知らない。
「バイオリンじゃないの?」
「ピアノ講師希望だ。左手が駄目じゃ、バイオリンは絶望的だ」
「叔父さん、お願い。俺の所為で怪我したんだ。なんでもするから託生を採用してっ」
座っていたソファから降りて、絨毯に膝をつき土下座する。
健吾は託生の身体に一生残る傷を残し去った。託生のサポートをするのは償いの為だが、それだけではない。愛しているからだ。
「条件がある」
叔父の言葉を聞いて、健吾は頭だけを上げ、ソファに座る叔父を見上げる。
「託生くんに会って罵倒されてこい」
「今っ?!俺が言ったこと忘れた?」
つい今しがた、悪行を仕出かして会えないと言ったばかりだ。
「そうだったな。では、期限は区切らないでおこう。だが、時間が経てば経つだけ会いにくくなるぞ」
今でも十分に遅い。けれど、託生に会える。
「叔父さん、ありがとうっ!」
健吾は再び頭を下げた。それは深く深く、絨毯に頭を擦りつけるような深さだった。
日本にいる託生から尚人に久しぶりに電話が掛かってきた。
思いやりのある託生はどんなに重要で緊急性のある相談でも忙しい尚人の休日を選んで掛けてくる。電話があるまで託生1人で対応していると思うと申し訳なくもあり、ありがたいと思うのも事実だ。
「折角の休みにごめんね。今大丈夫?」
いつから悩んでいるのかアメリカにいる尚人にはわからないが、尚人に相談する時は大概手も足も出ない時だ。託生には章三という友人がいて、日本にいるので日頃から悩みを打ち明けている。つまり、章三でも解決しなかった。或いは相談できない内容の事案が勃発して、託生が尚人に助けを求めている。
『大丈夫。壱佳のこと?』
託生の悩みは殆どが壱佳に関することだ。尚人がアメリカに転勤になって、壱佳は妻のかなえと一緒に東京で暮らしていたが、その妻も事故で他界した。その後は壱佳を静岡の両親に預けていたが、託生の彼女の橘ゆかりが引き起こした事件が災して父親の雅美が要介護の身体になってしまった。母の琴子は雅美の介護をしなければならないが、幼い壱佳がいては何事も中途半端になる。そこで、壱佳の養育を雅美の病気を自分の責任と感じる託生にも協力してもらうことにした。
壱佳と託生が長期間触れ合ったことは今までになく、壱佳が託生に懐かなかったらどうしようかと考えていたが、対面初日で壱佳は託生に懐き心配は杞憂に終わった。偶に日本に帰った時に普段傍にいない尚人より託生にベッタリなのは妬け、グサリ、と胸に突き刺さるものがあった。
「この間、壱佳が泣いてたんだ」
壱佳とは電話で話すこともあるが、活動的で明るい子に育った。託生が大好きで、病気を抱えている託生の為ならばどんなことでもチャレンジする意欲をもっている。活発な壱佳が成長して、尚人や託生が父から受け継いだ教えを守れるか心配だが、託生を困らせることはしないと思う。
「性のことだから章三にも聞き難くて……」
所謂、肉食系男子というのに壱佳は育ったのだと思う。反して、託生は草食系だ。
『託生は淡白だからね』
託生に恋情を抱いていたゆかりに言わせれば薄情と言われるかもしれない。
「兄さんに似て我慢強い壱佳が泣くんだよ?ねぇ、夢精って恥ずかしいこと?」
尚人も夢精したことがある。夢に出てきたのは幼い託生で、目が覚めて火照った身体とは裏腹に、背筋を冷たい汗が流れ、頭の中が真っ白になった。このまま託生と静岡の家で暮らしていては夢と現実の区別がつかなくなり、託生を襲ってしまうと危機感を覚えた尚人は家を出て一人暮らしを始めた。高校時代のことだ。
大学ではサークルにも入り、新歓コンパでかなえと知り合い、付き合い始めた。かなえは託生と雰囲気の似た女性で尚人は直ぐに彼女を好きになった。雅美の教えをかなえに話し、二十歳になるまではキスもセックスもできないと打ち明けた尚人に、かなえは笑っていいよ、と答えてくれた。同じ状況下で託生が二股を掛けられたのは、ゆかりが肉食系女子だったからだ。
『そんなことないよ』
「だよね?ぼくはそっち方面で苦労したことがないから壱佳の気持ちがわからなくて」
『そうだね。僕の方が壱佳の気持ちがわかるから後で掛けてみるよ』
「ありがとう。壱佳、今家にいるから早速電話してあげて。ぼくは外に出て来る」
託生との通話はそこで途切れ、尚人はキッチンに立ちヤカンに火をかける。責任感の強い託生に、お前では役立たずだ、と取られたらマズイと考えながらコーヒーを淹れる。託生の電話から30分後に、今度は尚人から壱佳のスマホに掛ける。
「たぁくんから聞いたの?」
壱佳から電話を掛けることはあっても、尚人から掛けることは殆どない。尚人からの電話で察した壱佳が聞く。
電話口の壱佳はいつもの溌剌さがない。夢精のことで悩んでいると思うと、尚人の実体験を話して聞かせようと思った。
『託生の夢をみたんだろう?』
壱佳が息を呑む気配が伝わる。やはりビンゴだったらしい。
「なんで……」
『そりゃ、親子だからな』
小さい頃から壱佳は託生にベッタリだった。託生が壱佳を育てることになり、責任感の強い託生は壱佳が東京に住んでいた頃使っていた洗濯洗剤や、好きな食べ物、かなえが読み聞かせに使っていた絵本などのリサーチを始めた。食べ物や絵本のリサーチはわかるが、洗濯洗剤の種類を聞く託生の意図がわからなくて聞くと、子供は母親の匂いに敏感らしい。静岡で両親に育てられた期間は短かったが、特にリサーチはなかった。託生は保育士になる為に東京の短大に通っていたが、細かなことにも気配りができたので、壱佳はかなえの匂いを辿って託生を好きなのだと思っていた。それが中学生になっても託生をたぁくんと呼んでいるあたり、壱佳は大人の男として託生を好きになったのだと思う。
「父さんもたぁくんで抜いた?」
『託生の洗濯物を失敬してね』
自室に篭り、息をできるだけ潜めて猿のようにやった。
「母さんは?愛してなかった?」
かなえは託生と笑い方が似ていた。馬鹿笑いは2人ともしないが、笑った時に口角がほんの少し上がるところが好きだった。
『今でも愛してるよ。可愛い壱佳を残してくれたんだからね』
勿論、今でも託生は好きだが、もう託生で抜いたりしない。
「僕、どうすればいい?たぁくんを襲わずに済む方法」
壱佳には倫理観が備わっている。好きだけれど叔父の託生とセックスをしたいとまでは考えていないと思う。
『父さんが取った方法を聞いて、どうするかは自分で決めなさい』
託生ならば突き放したりしないで一緒に解決方法を模索するだろうが、我が子といえ尚人は壱佳に甘くない。獅子が谷底に我が子を突き落とすような気持ちだ。
『壱佳と同じように父さんも託生が好きだった』
「同じって愛してるって意味?」
『そう。でも、父さんは近親相姦には抵抗があった』
託生を襲えば小学校の階段から託生を突き落としたあの男と一緒になる。託生が自分と同じように好きでいてくれたなら話は変わってくるが、託生に兄以上のものはないとわかっていた。
「どうやって我慢したの?」
『当時高校生だったんだが、一人暮らしを始めた。大学ではサークルに入って合コンや新歓コンパなど、人の集まる場に身を置いた』
「そこで母さんと出会ったんだ」
『母さんはうちの性に対する教えを肯定的に捉えてくれ、父さんたちは二十歳になるまでキスもセックスもしなかった。……壱佳は託生から左手の怪我のことを聞いた?』
「階段を踏み外したんでしょ?入院してる時にサポーターが必要になって教えてくれた。ドジっ子なたぁくんも可愛いよね」
託生は壱佳が相手でも真相を語らなかったようだ。
『託生は認めないけど、幼馴染が託生を階段から突き落としたんだ』
「っ」
託生が大好きな壱佳から見れば託生を……
しかも、幼馴染が託生を階段から突き落とすなんて、殺意が湧いても不思議ではない。少なくとも尚人は殺意を抱いた。相手の顔を知っているから、尚更そう感じたのかもしれない。
『その時の怪我で託生はバイオリンを諦めた。壱佳、僕はね、壱佳に託生を裏切ってほしくないんだ』
「裏切る?僕が?ありえない」
『でも、見ず知らずの相手に殺意を抱いたんじゃない?』
「わかんない。でも、なんで、とは思う」
確かに、相手を知らなければ何故?と思うのは当然だ。相手が幼馴染なら尚更だ。
「でも、たぁくんは自分で落ちたって言ってるのに……」
『目撃者がいたんだ。彼が託生を突き落とすところをしっかり見ていた』
「なんで庇ったの?」
『幼馴染だから。それと、彼がそんな暴挙に出た原因が託生にあったから』
彼は一方的に中学に進学しても託生といられると思っていた。けれど、中学から音校に進む為、受験勉強をしていた託生は、事件当日まで彼に話さなかった。意図的に話さなかった訳ではなく、
話す機会は山程あったが、話題に上らなかった。
「僕がそうだからって訳じゃないけど、その人もたぁくんが好きだったのかなぁ」
『わからんな。事件の後、彼は不登校になり、中学は私立に行ったから。元カノの話は知ってるか?』
「アイツ、ムカつく。でも、アイツのお陰でたぁくんは未だに童貞なんだから、憎しみはないな」
『懐に入れた2人に裏切られて、託生は人間不信になったんだ。壱佳には3人目になってほしくない』
我が子の恋を応援したいが、弟も大切だ。もし、託生が壱佳に恋情を抱いているのなら話は別だが、託生の話を聞く限り、託生は壱佳を甥としかみていない。そんな託生を壱佳が襲えば2人の関係は壊れる。
「やっぱり、そうなるよね」
やっぱり、ということは、尚人の答えは壱佳の想定内だったのだろうか。息子の恋を応援できないことを歯噛みしているうちに、いつの間にか電話は切られていた。
ゴミを出す曜日は日本全国一律で決まっている。託生と壱佳が暮らすマンション一帯の地域で月曜日はプラスチックなどの燃えないゴミの日。火曜日と金曜日は燃えるゴミの日。普通に考えれば燃えないゴミの日に出すビニール袋でも汚れていたり、濡れていたりしても高温の炎で焼却出来る技術があるので燃えるゴミというより燃やせるゴミと言った方が正しいかもしれない。
第1と第3の水曜日は乾電池や割れ物の硝子や瀬戸物の日。割れた食器を新聞紙に包んで割れ物と書いて出すと清掃局の人が破片で怪我することなく回収してくれる。
土曜日はペットボトルや食材が入っていたトレイ、瓶類や空き缶を出す日だ。
前のマンションは東京都内ではなかった所為か、ゴミの分別にこれ程五月蝿くいわなかった。昔は東京都内でも燃えるゴミと燃えないゴミくらいの分別だったらしいが、今は高温で何でも溶かしてしまう技術と、燃えないゴミを焼却しても有毒ガスを発生させないように製品が作られているから殆どのゴミを燃えるゴミの日に出せる。寧ろ、エコの為にもなるべく燃えないゴミでも燃えるゴミで出した方がいいという風潮が完成しつつある。今のマンションに引っ越した当初はカレンダーの曜日を何度も見返して、
「今日は火曜日だから燃えるゴミで良いんだよね?」と2人でよく確認し合ったものだ。
今日は2月28日だから、カレンダーを破かなければ。
トイレの個室に籠っていた壱佳はトイレの壁に掛けられた2ヶ月綴りのカレンダーの役目を終えた1月と2月のカレンダーを破く。すると3月と4月のカレンダーの4月20日に赤丸印が付けられているのに気付く。壱佳に印を付けた心当たりがないから付けたのは託生だ。トイレという臭い場所ではあるが、託生に気に留めてもらって嬉しいと素直に思い、頬が自然と緩んでしまう。
破いたカレンダーを床に落とし、何気なくカレンダーを捲る。5月と6月のカレンダーに印はない。託生の部屋の卓上カレンダーやシステム手帳、スマホのカレンダーアプリには予定がびっちり書き込まれているだろうが、壱佳と共有の場所ではそんな素振りはみせない。
続けて5月と6月のカレンダーを捲る。見なければよかった、と思った。7月29日の数字の上に赤いペンで丸印が書かれていた。これも壱佳ではない。章三の誕生日も、壱佳と同窓の佐智も4月生まれだが、カレンダーに印が付けられていたのは壱佳と義一の分だけだった。
7月29日。
託生に赤い薔薇の花束が3本届く日。壱佳が6歳の時から行われている儀式は10年経った今でも続いている。
10年前は託生の身体が漸く回復し始めた頃だったから入院中の病室に花束は持ち込まず、マンションのリビングに飾った。結局、託生が市立病院を退院したのは12月の頭で、花は枯れ、とっくに燃えるゴミに出していた。
翌年以降託生は大きな発作は起こさなかったが、小さな喘息の発作はあり、今までと違い、油断せず病院に通ったり、入院して治療した。病気さえなければ花が好きで、自ら購入すると思われる託生は花が届くとリビングに飾って楽しんでいる。壱佳と違うのは、託生は萎れ始めた花で栞を作ったり、紅茶を淹れたりしているところだ。以前と違う託生の想いを勘繰ってしまいそうになる。
床に落としたカレンダーを拾い、トイレの水洗を流して出る。
リビングのカレンダーはデジタルなので書き込みはできない。託生の部屋に勝手に入っても託生は怒らないが、入る理由が情けない。
「カレンダー破いて来てくれたんだ。ありがとう」
壱佳の手にあるトイレのカレンダーに気付いた託生が礼を言う。託生は些細なことにも礼を欠かさない人で、託生と暮らす壱佳にも受け継がれている。
「ついでだから」
「ついで?」
「海の日って何日だったっけ、って」
「そのカレンダーは役立たずだっただろう」
トイレのカレンダーは携帯ショップで配っていたディズニーカレンダーで、暦も何も印刷されていない、所謂子供向けのものでカレンダーよりイラストの方に重点を置いている。
「うん。たぁくんの手帳、見ていい?」
黙ってコソコソ見ることも可能だけれど、託生の許可を得ずに見ることは壱佳のなかにない。託生の前ではいつだって堂々としていたい。
「ゴチャゴチャ書いてあるからぼくの字で消えちゃってるかもだけどどうぞ。ピアノの上だよ」
「ありがとう」
動揺していることは悟られていないと思う。海の日なんか気にしたこともないけれど、託生の手帳を見る理由としては最適だ。
託生は私室を2つ持っている。グランドピアノが置かれた部屋と、本棚やダブルベッド、ローテーブルが置かれた生活臭のある部屋だ。壱佳が小さい頃は一緒に寝ても窮屈に感じずシングルベッドを使用していたが、壱佳が大きくなり家を引っ越したと同時にダブルベッドに買い替えた。中学生になっても壱佳と一緒に寝ることに躊躇いを覚えない託生は、壱佳をただの甥っ子としかみていない。壱佳は今でも託生のベッドで寝ているので託生の部屋にはよく入るが、今必要なのは託生のシステム手帳だ。
ピアノが置かれた部屋に入る。
譜面台の上には壱佳には難解なピアノ曲の楽譜が何冊も置かれ、ダーマトの赤で書き込みが凄い。元の音符がわからないくらいだ。
託生のシステム手帳は譜面台の脇にあり、手に取ってペラペラ捲る。
託生のシステム手帳はマンスリーとデイに分けて書き込まれている。マンスリーのページにはその日の生徒の名前と時間。デイのページには生徒の名前とその日やった曲、宿題に出した曲の題名が書かれている。
4月のマンスリーのページを見ると、4月20日に壱佳B.D.と書いてある。4月から7月のページに飛び、マンスリーの7月29日を見ると、義一くんB.D.と青のボールペンで記入されていた。その文字を見た瞬間、壱佳の胸がギュ〜っと苦しくなる。
「何これ」
痛みの発信源である胸を押さえてもちっとも治らない。何故、胸が痛むのかわかっているが認めたくはない。
託生の部屋を出て自分の部屋に入ると素早く扉に鍵を掛けた。胸の苦しさは一向によくならない。殆ど使わないシングルベッドに転がると、スマホで尚人を呼び出して掛ける。仕事中だろうが何だろうが、託生の一大事だ。
『はいはい、本日のご用件はなんでしょう』
託生にスマホを買ってもらってからというもの、今まで尚人と気軽に話せなかった反動のように壱佳は直ぐアメリカにいる尚人に電話を掛けるようになった。託生はあまり電話を掛けないので、託生の分も日本でのことを話して聞かせる。
「パパ……、壱佳どうしよ」
尚人の声を聞いて安心したのか、壱佳の涙腺が弛む。涙が出てくると洟まで垂れてくるのが厄介だ。
『中学生になってパパと壱佳は止めたんじゃなかったのか』
中学に進学する時、大きくなったのだからパパと壱佳は卒業しよう、と託生に言われ、壱佳は直した。
小学校の高学年になっても父親のことをパパと呼んだり、一人称で話せない壱佳は軽いいじめに遭い、中学進学を機に直すと託生と約束した。いじめと言っても壱佳が自分のことを壱佳と言う時と、尚人をパパと呼ぶ時。それに託生をたぁくんと呼ぶ時だけ笑われる程度なので深く考えてこなかった。いじめに遭っていても友達は一定数いるし、それに中学は東京の学校に行くことが決まっていたので最悪、友達がいなくてもいいと思っていたくらいだ。
「そうなんだけど、今、自我が崩壊中で……」
『一大事ってことか』
「うん。たぁくんの手帳に義一くんの誕生日が書かれてた。それ見たら胸が痛くなっちゃって……」
海の向こうの尚人が黙り込む。
「胸が痛くなった訳はなんとなくわかるんだ。でも、手帳の文字がショックで……」
『どうしてショックなんだ?あれから何年経った』
壱佳は頭の中で計算する。義一が託生に花束を贈り出してから今年で11年目になる。
「11年」
『そうだ。頑固者の託生も御曹司の気持ちは本物と捉えるだろう。最初の花束の時、僕は託生の気持ちは次第に傾くと思っていた。託生は優しいからお礼状を出せなくても贈ってきた相手を慮る』
そういえば、最初の花束の時から、託生は義一にお礼状を出していなかった。バイオリンのCDをくれた佐智には手紙を書いていたのに、託生らしくないと思っていた。手紙出さないの?と聞いた壱佳に、託生は申し訳なさそうな顔で、直接言おうと思って、と言っていた。当時は断りの返事だとわかったが、カレンダーの印を見付けた今は幸せな返事だとわかる。
壱佳も保育園に通っていた頃は義一の恋を応援していた。けれど、大きくなるに従い、託生への気持ちは恋心に成長した。それを自覚したのは託生の夢をみて夢精した時だ。託生のことは変わらず好きだったけれど、託生に肉欲を覚えて託生を愛していると自覚した。それと同時に相変わらず壱佳を甥っ子としかみない託生に失恋してもいた。願わくは託生が義一に恋心を抱かないように。託生が義一を愛していなければ壱佳はまだ大丈夫だった。
「今年も花束、来るかなぁ?」
『さあ、僕にはなんとも』
義一のことは尚人に聞くのが1番だけれど、尚人が板挟みになることはわかる。Fグループで働く尚人は義一の恋を応援しなければならない立場だし、弟の託生の幸せを願うのもわかる。そして、壱佳の幸せも……
『壱佳。託生に恋焦がれているのは御曹司だけじゃないんだよ』
尚人の意味深な言葉に、
「どういうこと?」と聞き返したが、尚人が答えることはなく、通話は終わっていた。
託生は優しく、誰からも好かれる。壱佳が託生を好きなことは尚人も知っている。すると、壱佳と義一以外に託生を好きな人がいるということだ。
「章三先生?」
小さい頃から託生の側にいたのは章三だ。章三は身体の弱い託生をフォローして、壱佳の面倒までみてくれた。もし、章三が託生を愛していたとしたら、義一でも敵わないかもしれないくらい託生は章三を信頼している。託生と壱佳が東京に引っ越して物理的な距離は開いたが、今でもLINEでやり取りしているのは知っている。
章三と義一、託生のパートナーになるのに壱佳が納得できるのはどちらだろうか、と壱佳は部屋の扉がノックされるまで考え続けた。
「ギイ、お待たせ」
アメリカに帰った義一のニックネームはギイだ。友人たちは皆ギイと呼ぶし、義一自身不満はない。寧ろ、裕明は別格として島岡や佐智が義一さんと呼んだり、義一君呼びする方が気味が悪い。まるで、お前のことはなんでも知っている、と暗に仄めかされているような気がするからだ。
約束の時間より30分オーバーで彼女がカフェにやって来て義一の正面の椅子に座る。今の彼女は約束の時間に来た試しはなく、いつも義一が待たされていた。遅刻について義一が彼女に文句を言ったことはなく、彼女も当然のように思っているのか、今まで謝られたことはない。
彼女は同じ大学の学生で、義一より4歳歳上だ。大学の構内を歩いているところを逆ナンされた。当時付き合っていた彼女がいたので今のと別れたら、と一旦は断ったが、1週間も経たないうちに期日がきたので前の彼女と別れ、今の彼女と付き合った。
義一の前にはオーダーしたコーヒーが届いていたが、今来たばかりの彼女の前には何もない。彼女の前に水のグラスを運んだウェイターを自ら引き留め、アイスコーヒーをオーダーする。
「ねぇ」
「なんだ」
読んでいた文庫本をテーブルの上に伏せ、コーヒーを一口飲んでから聞き返す。
「そろそろいいんじゃない?」
彼女が何を求めているかは前々から気付いていた。それに対してあることないこと理由を作り、ホテルには近付かないようにしていた。下手を打つとドラッグを盛られる可能性もあったからだ。
義一も健康な青年男子、身体は正直で性欲もある。今まで付き合いのあった男女共に最終的にはホテルに行きセックスをしたがる。だが、なんとも思っていない相手と交際を楽しめないのと同じように、なんとも思っていない相手は抱けない。交際については託生との交換条件だから守るが、セックスに関してはなにも言われていない。今の彼女はかつての託生と同じ20歳だが、勝る点は頭脳しかない。大学では研究に勤しんでいる反動か、構内を出れば男漁りとセックスしか頭にない。託生とは偉い違いだ。
「そうだな」
やったっ、と彼女が小さな喜びの声を上げる。それには構わず義一の用件を、まるでシステム手帳に書かれたスケジュールを読み上げるように平坦に告げる。
「今日でちょうど1ヶ月経った。別れてくれ」
そのタイミングでウェイターが彼女のアイスコーヒーを運んできたが、いきなりの修羅場にギョッとしたような顔をする。義一がウェイターに視線だけを向け、暗に早々に立ち去れ、と目配せすると、アイスコーヒーをテーブルに置き慌てたようにカウンターの奥に引っ込んだ。
「なんで?私といてギイも楽しそうだったじゃない」
「オレは退屈だった。楽しそうに見えたのは交換条件があったから、そう見えるように振る舞った」
「交換条件?」
「声を掛けてきた相手とは最低1ヶ月付き合う。気に入れば延長するが、そうでなければ……。付き合う時にも話した。覚えてるだろう?」
「そんなこと言って、他に好きな女でも出来たんでしょうっ?!」
彼女のブルーの瞳を見て、どうしてここに託生がいないのかいつも考えてしまう。託生が相手なら、義一はこんな冷たい言葉を発しない。
「好きな人なら12年前からいるよ。勿論、継続中だ」
ガタッ、と椅子を引き倒し彼女が立ち上がる。手探りでアイスコーヒーのグラスを掴むと、義一目掛けて中の液体を浴びせ掛け店を早足で出て行く。氷の欠片がテーブルの上を滑る。周りの客が興味津々の眼差しで義一を見ていたが、気にも止めずジャケットのポケットからハンカチを取り出し、コーヒーの香りのする顔を拭き氷を指先で摘んでグラスに戻す。文庫本もコーヒーの染みが付き、読み掛けの本だったが彼女の思い出が残る文庫本の処分を決める。
「どうぞ」
見れば先程のウェイターがタオルを義一に差し出す。こういう修羅場は少なからずあるので親切な店は用意しているのかもしれない。或いは義一に対して下心があったか。ありがたく受け取り、既に染みになっているジャケットの肩口を拭う。
女は身勝手だと思う。付き合う前に理由も期限も告げているのにいざ1ヶ月目になると、自分以外に女ができたのではないか、まだ1ヶ月経っていない、と逆上する。構内で会っても口を利かないのは構わないが、公私混同して講義に支障が出る場合もある。
大学では義一と付き合うときっかり1ヶ月後には別れ話を切り出されると話題にもなっている。それでもいいという女や、延長をもぎ取ってやる、と血気盛んな女もいて接触してくるが、男女問わず1ヶ月以上続いた相手はいない。
反対に男の方はドライで、その後友人になった者もいる。勿論、十人十色それぞれ違うが、義一の周りではそういう人間が多い。
コーヒーを拭ったタオルをテーブルの上に置き、デニムの後ろポケットから折り畳み式の携帯電話を取り出し、フリップを開いてメール作成画面を呼び出す。
『約束通り、1ヶ月前に付き合い始めた彼女と別れた。アイスコーヒーぶっ掛けられたんだけど、風邪ひいたら先生看病してくれる?』
日本にいる託生に時差も考えずに送信する。託生の携番とアドレスは御曹司特約で尚人に教えてもらった。最初のメールは時差を考えて送信したが、託生からレスポンスはなかった。
『勝手に情報漏洩されて怒ってる?』とも送ってみたが、やはり返信はなかった。
義一は自分の誕生日に毎年、託生に赤い薔薇の花束を3本贈っている。
壱佳が東京の中学に進学することになり、託生も東京に引っ越した年。通学時間は掛かるが、託生の体調を考慮し郊外に引っ越した時は、託生から義一に住所が記されたメールが届いた。件名:引っ越しました。本文は住所だけの簡素なメールだったが、今まで義一が送ったメールを読んでくれていたのだ、と嬉しくなった。そして、やはり優しい託生らしいな、と思った。付き合い始めました、や、別れました、といちいちメールするのは、義一が託生との約束を守っていることを主張する為でもあり、託生と内容はなんでもいいから繋がっていたい、というのもある。
壱佳から聞いた、託生が愛情を拒絶する意味について考えてみたけれど、過去に酷い相手と付き合っていたのではないか、と憶測を立て尚人に聞いてみたが、本人に聞いてください、と突っぱねられた。
コーヒーをぶっ掛けられた17歳の誕生日。そういえば別れた彼女とはパーソナルデータの交換もしていなかった、と今になって気付く。けれど、彼女は自分の誕生日プレゼントは強請るが、義一のプレゼントには見向きもしないような気がした。
散々な目に遭ったが託生に会えるまで後1年。運よく次の相手もいない。
コーヒーと、ぶっ掛けられたアイスコーヒーの伝票を持ってレジに向かうと、義一のコーヒーの代金しか請求されなかった。レジに立ったのは先程のウェイターで、やれやれと思いながらもありがとう、と言ってマネークリップから紙幣を外して支払う。ウェイターが差し出したレシートには見知らぬ番号が書かれている。
後1年。長いようで短かったと感じるようになるのかわからなかったが、託生との約束を守る為レシートを受け取る。
「釣りはいらない」
彼に連絡は取るが、せめて誕生日くらい1人で託生を思い浮かべさせてほしい。
義一は初めてアプローチを先延ばしにした。
「先生〜、こんにちは〜」
バイオリンの師匠の1人の須田の家に、ロンドンで買った紅茶の土産を持って佐智は訪れた。
幼い頃からバイオリンを習っていた佐智は、天賦の才能を発揮し、今では知らない人がいないくらいの有名人になった。1年を通して全世界でコンサートを開く佐智のスケジュールは超過密で、恩師の須田の家に来るのも数年振りだ。
レッスン室にはバイオリン曲の序奏とロンド・カプリチオーソが流れていて、音質を聴いて過去に録音したものとわかる。エキセントリックな演奏で人それぞれ好みは分かれるが、これからどのように手を加えるかによって間違いなく最高のものになる序奏とロンド・カプリチオーソに佐智は惹かれた。
「久しぶり。ロンドンはどうだった?」
須田の案内もなしに玄関からレッスン室に入った佐智は、ローテーブルの傍で持って来た紙袋の中から土産を出す。
「お土産です」と佐智はローテーブルの上に紅茶の箱を置く。
「ロンドンも良かったですけど、このバイオリニストに会いたいです」
今回のツアーも大成功で、須田には報告も兼ねて訪れたのだが、ツアーより序奏とロンド・カプリチオーソに夢中になり、身を乗り出して須田に訴える。
「やっぱり。佐智くんのストライクゾーンだろ」
佐智の好みを熟知している須田は、佐智が来るこの時間に、敢えてこのバイオリニストの演奏を流していたのかもしれない。
「はい。いつ録音されたんですか?」
「彼が小五の時だから……、20年くらい前かな」
今は32歳の彼がどんな音色を奏でているのか、スケジュールを踏み倒してでも聴きたい衝動に駆られる。
「先生、どこに行ったらこのバイオリニストに会えますか?」
「今は東京の郊外にいるけど、残念ながら彼はバイオリンを弾けなくなったんだ」
須田は座っていたソファから立ち上がり、楽譜が収められている本棚からアルバムを抜いて戻って来る。須田の正面に佐智も座り、一緒になってアルバムの写真を見る。
「この子が序奏とロンド・カプリチオーソを弾いてたんだよ」
アルバムから1枚の写真を須田が抜き取る。男の子は白い半袖のシャツに紺色の半ズボン、白のハイソックス、黒の革靴といった小学生が人前で演奏する際によく身につける格好をしていた。須田のバイオリンの発表会の時に撮影したものだろう。
「なんで辞めたんですか?」
佐智は彼の演奏を生で聴くことはできない。もっと早くに生まれていたら叶ったかもしれない望みだ。
「小学校の階段から突き落とされたんだ」
須田は佐智を可愛がってくれるが、当時は彼も須田のお気に入りだったに違いない。須田の表情は当時のことを思い出してか、苦渋に歪んでいる。
「彼は普段からいじめに遭っていたんですか?」
須田は緩く首を振る。
いじめに遭っていないのに何故、階段から突き落とされたのか、理不尽な暴力の前に何もできないことに怒りが湧いたのは、佐智もバイオリニストだからだ。
男の子をよく見ようとして、須田から写真を受け取り、目の前でじっくり見る。彼がもうバイオリンを弾いていないとわかっても、一目会いたい気持ちはある。マネージャーの大田は大変だろうが、1日でいいからスケジュールが空かないか、聞いてみようと思う。
古い写真だが、顔全体のパーツの印象が懐かしい人に似ているような気がするから不思議だ。託生は保育園の先生で、ピアノは弾けるがバイオリンは弾けない。託生には兄弟がいると聞いたことがあるから、佐智と同窓の壱佳の父親の尚人かもしれない。
「彼は……、託生くんというんだけどね。人が困っているのを見過ごせない、心の優しい子でクラス1番の人気者ではないけれど、託生くんを慕う友達の輪にいつも囲まれてた」
「先生。今、託生……とおっしゃいましたよね?もしかして、葉山託生ですか?」
「佐智くんの知り合いだったのか」
世界は広いようで狭い。けれど、佐智も大好きな託生が小学校の階段から突き落とされた事実は知りたくなかった。
溜息混じりに須田が息を吐く。
「保育園の先生です。喘息が酷くなって保育園を辞められたので、僕は2ヶ月しかお世話になっていません」
「やっぱり託生くんだ。今はヤマハのピアノ講師をしていて、うちの発表会にはスタッフとして毎回欠かさず来てくれているよ」
バイオリンを弾いていなくても、音楽に携わっていることに佐智も嬉しくなる。
「それで、いじめに遭った訳でもない、友達にいつも囲まれているような託生先生がどうして?」
「託生くんは中学から音校に通おうと、受験勉強をしてたんだけどね」
この序奏とロンド・カプリチオーソならば問題なく受かるだろう。勿論、筆記試験もあるから確実ではないが、託生の性格を考えると成績も悪くないと思う。
「公立の中学に進学する託生くんの友達が……。寂しかったんだろうね。一緒の中学に通う為に態と階段から突き落としたんだ」
なんて自分勝手な人だろう。それでも友達なんて、佐智には信じられない。分野が違うからこそ、遠く離れた場所から応援するのではないか。少なくとも佐智と義一はそういう関係だ。
「階段から落ちる時に激しく左手を打ちつけて橈骨を骨折してしまってね。受験は当然無理だし、託生くんももう以前のようにバイオリンを弾けなくなって辞めた」
「加害者の子は?」
「現場を見ていた児童がいてその話は本当なんだろうけど、肝心の託生くんが足を踏み外したの一点張りで」
須田が困ったような、優しい笑い方をして目尻に皺が寄る。20年近く前のことでも当時を思い出すと悔しい思いがあるのか、目尻にはキラリと光るものがあった。
託生らしいと思った。
「中学はその子の希望通り託生くんは公立に行ったんだけど、加害者の子は事故以降学校に来なくなって、中学は私立に進学したらしいよ」
託生に怪我を負わせて自分は私立の中学に逃げるなんて、身勝手で卑怯な人だ。今まで友達だったというのだから、佐智の怒りも一入だった。
この怪我がなければ託生がバイオリンを続けていた可能性もあり、佐智とバイオリン談義もできた。佐智にとっても託生の怪我は悔しかった。それと同時に冷水を浴びせ掛けられたように昔の記憶が脳裏に還る。もし、佐智が託生の立場なら、バイオリンのCDなんて聴きたくない。知らなかったとはいえ、佐智からバイオリンのCDを受け取った託生はどんな気持ちだっただろう。
「託生くんはリハビリを頑張ったんだけど、麻痺が残ってバイオリンは思うように弾けなくなったんだ。その代わりにピアノに力を入れ始めてね。それなりに弾けるからうちの発表会で伴奏を何度か打診しているんだけど、怪我を理由に惨敗中なんだ」
託生が怪我をしたのは左手で、麻痺の程度にもよるがバイオリンは弾けない。この序奏とロンド・カプリチオーソを聴くとわかるが、ある程度弾けるバイオリニストには些細な不調もストレスになり、こんな簡単な技巧も満足に弾けないなんて、と自分が情けなく感じるものだ。ピアノも難しいが、バイオリンより左手を酷使しない分辞める必要はない。
須田は年に1回、バイオリンの発表会を開いている。佐智はスケジュールを見なければわからないが、来年大学を卒業予定の義一には時間がある。
「次の発表会っていつですか?」
「佐智くん、出てくれるかい?」
佐智が発表会に出たことは1回だけあるが、託生の姿は見ていない。裏方をしていたという話だから偶々会えなかっただけだろう。それ以降はスケジュールが調整できなくて参加していない。世界的に有名なバイオリニストの佐智が発表会に出演すればマスコミ発表もされ、観客が増える。観客が増えることは他の演奏者もワクワクと気持ちが昂り、よい演奏ができることが多い。
「僕はスケジュールが空けば、ですけど、託生先生に恋する幼馴染はきっと会いたいだろうと思いまして」
「同い年?歳の差カップルだねぇ〜」
義一は託生に手酷く振られている。幼馴染だから義一を庇う気持ちはあるが、託生にはなんらかの理由があり人を信じることができないらしい。
保育園での託生と義一の関係は良好だと思った。
義一が自分の誕生日に託生に薔薇の花束を贈り続けているのを佐智も知っている。花束と一緒に義一はメッセージも送っているが、託生からは一度も返信がないと嘆いていた。けれど、託生が引っ越す時、義一に転居先の住所をメッセージで送られてきたことがあった。その知らせを義一から聞いた佐智は嬉しく思った。花束は店に注文するのだから、届けに来た配達員に迷惑が掛からないように託生はしたのかもしれない。少なくとも、義一を振った時の託生ならば考えそうだ。
あれから10年以上経った今、託生は1mmも義一に靡いていないのだろうか?義一の細い糸を託生が手繰り寄せているように感じられて、佐智は嬉しくなった。
今日は7月29日で、義一から薔薇の花束が届く日だった。けれど、託生のバイオリンの師匠の須田のバイオリン教室で年に1度の発表会が開かれ、託生は裏方作業に駆り出されていた。託生がバイオリンから離れたのは小学6年の時だが、師弟関係がなくなっても須田は託生に声を掛けてくれる。託生がヤマハに勤めるようになり、以前より連絡は多くなったが、それまでは年に1度の発表会で顔を合わせるだけだった。それでも須田は託生を発表会に招き、裏方の作業をさせてくれた。バイオリンを弾けなくなっても音楽に携わるだけで託生は満足だった。
発表会が無事終わり、須田に誘われて打ち上げに参加した。花束は気になったが年に1度しか会えないメンバーと話すのは楽しみで一次会だけ参加した。
新宿から乗る帰りの列車もいつもなら時間は掛かるが各駅停車を選んでゆっくり帰るのだが、今日は特急に乗って急いで帰って来た。各停に乗れば酔っても直ぐに次の停車駅で降りられるが、特急はなかなか停まらない。その分、早く目的地に着けるので特急狙いの乗客は多い。懸念した通り乗り物酔いはあり、打ち上げで食べた物が逆流して気持ち悪いし頭もクラクラするが、1分でも早く帰りたいと思い列車を降りた後も休憩を取らなかった。
最寄り駅からスーツケースをゴロゴロ転がし自宅マンションまで歩く。
託生が住むマンションは小高い丘の上に建っているので、今日のように大荷物の時はいつも以上に息が切れる。いつも活躍している電動アシスト自転車は今日ばかりはスーツケースと、毎年会場で参加者全員に配られる花束があるので使わなかった。花束はステージに飾られたものを解体して参加者に配るので当たり外れはあるが、花が好きな託生は毎年楽しみにしていた。喘息の影響を考えて花好きでも自分からは購入しないので、人から貰えるのは嬉しい。
義一から薔薇の花束が届くようになったのは、託生が保育園の仕事を辞めた年からだ。義一が直接届けに来るのではなく、花屋の店員が届けに来る。初めて薔薇の花束が届けられた時託生は入院中だったが、壱佳から聞いて流石に驚いた。託生の病室に薔薇の花が飾られることはなかったが、義一からメッセージカードもあり近況が書かれていた。その時は保育園を辞めたばかりだから託生に対する恋心が消えていなくて当然。保育園を卒園し、アメリカの小学校に通うようになれば友達も増え、託生のことは忘れると思っていた。
義一がアメリカに帰った年から薔薇の花束のメッセージカードはなくなり、代わりにメールで近況が報告された。義一は託生の兄の尚人から携帯番号とメールアドレスを聞き出したことを詫びていたが、託生はなんとも思わなかった。保育園に勤めていた当時から憎からず思っていた相手に、仕事上関わりがある尚人に賄賂のように個人情報を流されてもなんとも思わない。ただ、託生は人を信じることができず、園児が先生を好きになるのはよく聞く話で、他の園児と同じで義一の気持ちも次第に冷めると思っていた。
義一からメッセージが届いても、メールアドレスを知っているにも拘らず託生が返信することはない。花束の礼も言ったことはない。お遊戯会にも、義一と同い年の壱佳の卒園式にも保育園に行ったけれど、託生は意識的に義一と距離を置いた。義一も敢えて託生に近付くことはなかった。卒園式には尚人も来ていたお陰で久しぶりに会う壱佳と尚人の橋渡し役で忙しく、島岡と話す時間もなく帰国後の義一のことはわからない。
メッセージの返信も返せないような人として最低限のマナーも知らない託生は速やかに記憶から削除すべきだと思った。
壱佳が中学に上がる年、受験を考えていたのもあり祠堂保育園に再就職することもないのだから、と尚人の勧めで東京の郊外に引っ越した。壱佳の通学を考えれば23区内が好しかったが、託生の喘息を考慮して敢えて市内に越して来た。昨年は薔薇の花束が届いたが、今年はないかもしれない。毎年、同じようなことを考えているうちに義一も中学生になり、相変わらず贈られてくる薔薇の花束を受け取るうちに漸く義一の本気度が伝わってくるようになった。
託生が引っ越したことを義一に伝えなければ来年以降薔薇の花束は届かない。放っておいたら自然消滅する。迷った挙句、花屋の店員が気の毒だから、と自分に言い訳しつつ義一に引っ越し先の住所を教えた。
このメッセージで義一は託生が薔薇の花束が届くのを心待ちにしていると気付いたかもしれない。実際、無理難題を押し付けて振った義一のメッセージを読むのは楽しかった。相手の名前までは書いていなかったが、義一はアメリカでモテて、彼女や彼氏が途切れたことはない。メッセージには、約束通り女と付き合い始めました、とあったり、1ヶ月経ったので別れました、と書かれ、モテモテだね、勿体ないなぁ〜と思った。彼女や彼氏が出来たにも拘らず、女や男と表記されていたのも義一の気持ちの表れだったのかもしれない。最低1ヶ月は告白してきた人と付き合うよう言ったのは託生だが、こんな報告をしろとは言っていない。
託生に嫉妬させたいのか、モテるイケメンに育ったことを自慢したいのか義一の思惑はわからなかったが、託生はスルーを続けた。
託生が住む部屋はマンションの7階にある。
7階でエレベーターを降りた託生は、覚束ない足取りで外廊下を歩く。列車に揺られて酔ったのに休憩もしないでマンションまで歩き、気分が悪いまま続けてエレベーターに乗ったのがマズかった。列車に酔った時は休憩を取るのが常だが、少しでも早く荷物を受け取りたかった。
実家は一戸建てだったけれど、高層階でマンション暮らしするうちにエレベーターに慣れたのか、体調の良い日は具合が悪くなる頻度は少なくなったが、体調の悪い時はてきめんだ。託生の足取りが重いのは乗り物酔いの所為もあるが、それ以上にショックなことがあったからだ。尤も、彼を思えば良いことなのだが。
宅配ボックスに薔薇の花束が入っていなかった。留守でも通常は宅配ボックスに入れられるが、品物がナマモノなどの場合は郵便ポストに不在連絡票が入れられる。配達員によりけりで留守にしていてもナマモノが宅配ボックスに入れられる時もあるが、今回は両方共になく、遂に義一に好きな人が出来たと知った。義一に好きな人が出来るのは託生の望みだった筈だ。しかし、いつの頃からか託生は薔薇の花束が来るのを心待ちにするようになった。
毎年、義一が彼の誕生日に薔薇の花束を贈ってくる理由について、託生は彼の誕生日を覚えておいてほしいのだろうと思ったが、尚人に相談したところ、いつの日か義一が直接託生に交際を申し込みに来るだろうと推測した。けれど、12年間1度も欠かさず贈られてきた花束が、13年目で途絶えてしまった。以前の託生ならば、おめでとうと義一にメッセージを言えたが、今は義一と何の繋がりもないし、正直そんな気分ではない。今まで1度もメッセージの返信をしなかったのは託生で、自業自得だ。
7階の外廊下を真っ直ぐ歩いて突き当たりの角部屋。日当たりも良いこの部屋で託生は一人暮らしをしている。壱佳とも暮らしていたが彼の高校入学を機に、彼は都心のマンションで中学から続く友達とルームシェアを始めた。週末には託生の生存確認をしにはるばる23区内から列車で。高校生になって車の免許を取ってからはドライブがてら車で様子を見に来る。週末にはマンションに泊まっていくので、週末の為だけに駐車場も契約した。
託生の部屋ーーーーー7階の角部屋の玄関扉に寄り掛かって立っている男性がいるのに気付く。男の背は高く、玄関扉と男の頭との差から遠目でも壱佳と同じくらい。体の厚みは男の方が勝っているとわかる。薔薇の花束がなかったことが思いの他ショックで早く1人になりたかったが、男が退かなければ託生は家に入れない。
「何か」
ご用でしょうか?と続けようとした託生の目が男が持つものに引き付けられる。男は薔薇の花束を持っていた。しかも、3本。
「あ」
男が託生の方に目を向ける。染めているのかわからないが、琥珀色の髪の毛は綺麗に整髪剤で整えられている。13年前に別れたきりの彼も琥珀色の髪だったが、そもそも彼の髪は癖っ毛だ。祠堂保育園の先生方の間では、ひよこ頭の義一くん、と良い意味合いで呼ばれていた。
「託生先生」
バサっ、と男が持っていた花束とクラッチバックが落ちる音が外廊下に響き渡る。男は身一つで託生に駆け寄り、抱き締める。突然のことに頭の中がグルグル回るが、男が纏う香りは良い匂いだった。この匂いは毎年1度だけ嗅ぐことのできる薔薇の匂いだ。持っていた薔薇の匂いが男に移ったのだろう。
託生は駅前のヤマハ教室でピアノを教えている。まだピアノを始めたばかりという生徒から、音楽大学を目指して頑張る生徒まで幅広く指導しているが、希望があれば託生のバイオリンの師匠の須田のツテを頼ったり、とそれなりに忙しくしている。
祠堂保育園を辞めて暫くは養生していたが、体調も良くなり春を待って次の職探しに動き出した。壱佳に2度と怖い思いをさせたくないので喘息の発作の兆候が現れた時は無理して出勤しないで休ませてほしい、と要望を伝えると、ご縁がなかった旨の不採用通知が送られてきたところも複数ある。保育園の関係でヤマハの免許は持っていたので駅前の音楽教室の扉を駄目元で押してみた。左手の古傷の話をした時は難しい顔をされたが、1週間後に採用通知が来た。
始めは初心者しか教えていなかったが、次第にレベルの高い生徒も任せてもらえるようになった。ヤマハ音楽教室に葉山姓の講師は託生を含めて2人いて、区別を付ける為に託生ともう1人の葉山先生だけ下の名前で呼ばれている。だから、託生先生、と呼ぶ人間は大勢いるが、目の前の男は音楽教室の誰とも合致しない。生徒の父兄でもなかった。
「失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」
男は一瞬悲しそうな顔をしたが、何かに気付いたようで、あっ、と叫ぶと整えられた髪の毛に指先を差し込み、グシャグシャに掻き回した。男の突然の暴挙に唖然としたが、現れた昔懐かしいひよこ頭を見た途端、驚きのあまり託生の膝から力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまう。ついさっきまで乗り物酔いで気分が悪かった上に花束が届いていなくて最悪な気分だったのだが、義一の登場で体調不良もどこかへいってしまった。
「うわっ、先生大丈夫?気持ち悪い?」
咄嗟に義一が腕を伸ばし、託生の身体を抱き止める。託生と一緒に外廊下に膝を着き、託生の背中を撫で摩る。
「もしかして整髪料?無香料の選んだんだけど違う会社のにするよ」
「ちっ、違う、整髪料じゃなくて、びっくりして。乗り物酔いはあったんだけどびっくりし過ぎて気持ち悪いの、どっかいっちゃった」
「そっか、良かった」
目尻に滲んだ涙を指先で拭うと、サッとスマートにハンカチを差し出し、
「突然来て迷惑だった?」と殊勝な台詞を吐く。
違う。そうじゃない。
義一からハンカチを受け取って涙を拭いながら首を左右に振る。
「今年は薔薇が届いてなかったから、ついに義一くんにも彼女が出来たんだって思った。喜んであげなきゃいけないのに、そうできない自分が嫌だった」
まるで義一に恋をしているようだった。
義一とは2ヶ月しか一緒に過ごしていない。義一に告白された時も相手が5歳児だと配慮もせず、酷い言葉で振った。薔薇の花束の礼も言えない託生に、懲りもせずに毎年薔薇の花束が贈られるうちに、初めて義一の本気度を知ったがそれでも託生は義一を信じられない。義一だけでなく、託生が信用できる人間は片手で数えられる数しかいない。
「オレのこと、好き?」
先程の悲しげな顔とは違う、余裕たっぷりの顔で義一が聞く。
義一が好きだ。けれど、託生は素直に自分の気持ちを伝えられない。健吾やゆかりのように託生を裏切る可能性がないという保証はない。義一ならば裏切られても良いと思える程、彼は託生に愛の言葉を囁いてくれた。義一とは13年振りに会うが、その間薔薇の花束が託生に義一の気持ちを伝えてくれた。
「好きじゃなくても先生の気持ちが変わるまで、毎日だってここに来て先生を口説くだけだけど」
真剣な顔で義一が言う。慌てて首を横に振り、
「そんなことない」
「じゃあ好き?」
義一に裏切られてもいいとは思うが、裏切られた時の胸の痛みを思い出すとやはり素直に言えない。好きな相手に好きと言えないもどかしい思いを抱えていると、
「いいよ。薔薇の花ひとつで先生の人間不信が治る訳でもないし。それでもオレは先生が好き。その気持ちだけは信じて」
「う、うん」
13年経っても好きと言ってもらえて嬉しかった。
「花束のお礼も言えなくてごめんね。自分じゃ買えないから凄く嬉しかった」
託生は喘息の影響で自ら花を買ったことはない。花が好きだから、自分で抑止していないと際限なく花を買い、花粉で喘息の発作を誘発させてしまうからだ。その分、今日の発表会など、花を他人から貰える場では遠慮なく貰って帰るのが常だ。
「わかってる。佐智に出した手紙がオレになかった理由も。でも、花束を喜んでもらえてオレも嬉しい。ね、先生。オレ、誕生日プレゼントが欲しい」
義一の誕生日は把握していたが、託生が誕生日プレゼントを用意したことはなく、義一が目の前にいる今年もそうだった。
「ごめんね、用意してないんだ」
「オレが欲しいものは昔から1つしかない」
義一は託生の両肩を掌で掴むと、顔を傾け託生の唇にキスをした。キスはまるで託生の反応を確かめるように軽く触れただけで離れていく。託生より長身になった義一を見上げて、
「えっ?」と驚きの声が出た。
今、何をされたのか?結婚を前提にお付き合いをする相手とは、相手のご両親に挨拶した後に身も心も1つに繋がるのが託生の考えだ。その前に義一とは13年も物理的に離れていたのに、久しぶりに会った当日に、しかも外廊下の人目も気にしなければならないところでキスしてしまった。抑も、離れていた期間の義一は託生を知らないし、それは義一も同じ状況だ。一足跳びに事が運ばれていく現状を怖く思った託生は、先ずは義一の手から逃れることで距離を取る。
「プレゼントって何が欲しいの?」
「もう貰った」
「何?」
託生は義一に何も渡していない。
「先生の唇。オレのファーストキスを託生先生にあげたかった」
「と、取り敢えず中、入る?」
義一は本当に託生と交際するつもりでファーストキスを大事に取っておいたらしい。託生もファーストキスだったが、こんなおじさんのファーストキスなんて何の価値もないし、言えば気持ち悪がられる。ファーストキスは価値のあるものだが、33歳の託生の唇に価値はない。それに、厳密にいえば託生のファーストキスは13年前に壱佳がSOSを出した三洲としたキスが相当する。三洲がしたのは医療行為だとわかっているから託生もカウントしていない。
鞄からカードキーを取り出し、玄関脇のセンサーに翳して扉を開ける。先に託生が室内に入り、自分の分と客用の義一の分のスリッパを並べて置く。スーツケースを室内に運び入れ、須田のところで貰った花束と薔薇の花束を花瓶に生ける。今日着たスーツをスーツケースから出し、皺を取るためにハンガーに掛け、ウォークインクローゼットに吊るす。
ふと、義一が玄関に突っ立ったままだったのに気付いてリビングに案内する。
「ちょっと座って待ってて。演奏会だったから片付け物が多くって」
「知ってます」
「へ?」
義一は何を知っているのか?託生がバイオリンを弾いていたことも、13年振りに会ったので今は音楽教室に勤めていることも話していない。更に、今日の演奏会は毎年あるといっても7月29日限定ではない。
「佐智から聞いた。先生がバイオリンを弾いていたことも、音中の受験前に階段から突き落とされて左手に酷い骨折を負ってバイオリンを諦めたことも」
確かに佐智は祠堂保育園に登園しながらバイオリンの練習をしていた。保育園を卒園するとバイオリン専門の先生について本格的に取り組んでいたようだ。それが功を奏したのか、佐智はメキメキと才能を伸ばし、今では知らない人はいないくらいの有名人だ。
「もしかして、須田先生に師事されてるのかな?」
佐智くらいのレベルになれば師事する先生は大勢いるだろうが、託生の怪我の話を知っているのは須田だけだ。
「今日の演奏会もフライングで会えないかな、って会場まで行ったんだ」
「ぼくは裏方だから」
「でも、ステージ上の託生先生は綺麗だった」
裏方といっても託生は譜面をよめるから、伴奏譜の譜めくりとして殆どステージに出ずっぱりだった。託生には当たらないスポットライトが逆光になり、ステージから客席は殆ど見えない。
「じゃあ、終わってからずっと待ってたんだ。ごめんね」
義一が来ていると知らずに打ち上げに参加してしまった。壱佳のようにいつでも会える人物なら合鍵を持っているので部屋に入って待たせておけるが、義一は13年振りに会う。須田に事情を説明すれば彼は笑顔で背中を押してくれていただろう。
「けど、オートロックなのによくエントランスを突破できたね」
託生はキッチンに立ち、熱帯夜に外廊下で待ちぼうけを食っていた義一のために飲み物を用意してくれている。
冷凍庫の扉を開け、氷を取り出すと硝子製のグラスに入れる。冷蔵庫の扉を開けて麦茶のボトルを取り出し、トレイに載せたグラスと一緒に運んで来る。
「クーラー暑くない?下げようか?」
「大丈夫」
答えたものの、託生の言う通り冷房が弱かったので、着ていたジャケットを脱ぎ、隣の椅子の背もたれに掛ける。
「よくある手だよ。他の住民に混じって突破した。先生のメールで住まいはわかってたから、エレベーターで7階まで」
託生が打ち上げに参加することは他のスタッフの会話を盗み聞いて知っていたので、2時間くらい待つのは苦痛じゃなかった。
託生が義一の前に氷の入ったグラスを置き、麦茶のボトルを傾けて注ぐ。リビングを不躾に見ていると襖で仕切られた部屋があるのに気付く。恐らく仏壇もあるだろう。壱佳の母親・かなえに掌を合わせるのは壱佳の友人として当然だが、託生に偉いな、と思われたい気持ちも少しはある。
「託生先生。お線香をあげていいですか?」
襖を指差して義一が聞くと、ありがとう、と言ってくれた。
「お線香はないんだけどね」
苦笑を浮かべながら託生が言う。託生の喘息の為とわかる。
「拝むだけでも」
託生に案内されて和室に入ると、黒檀の立派な仏具が置かれていた。仏壇の前の座布団に座し、飾られた写真を見る。1番古い写真は若い女性のもので、葉山かなえだろう。比較的新しいものは壮年の男性と、白髪混じりの女性の写真。
「もしかして、先生のご両親ですか?」
託生の両親が他界していたことを知らなかった。尚人も葬儀の為の帰国はしていない。
「父は昔から介護が必要な身体で、母が介護してたんだけど、壱佳の面倒とか、ぼくの身体の不調で静岡から呼び寄せてばかりだったから弱ってたんだろうね。風邪をひいただけだから大丈夫って言ってたのに」
「親の死に目にもあわせられないなんて、ブラック企業ですよね」
「兄さんの会社、知ってたんだ」
「島岡から聞きました」
「でも、兄さんが帰国しなかったのには理由があるんだ」
鈴はあったので1度だけ鳴らし、掌を合わせる。仏壇から退いて託生の顔を見て一礼し、託生の話を聞く姿勢をとる。
いつも笑っている尚人は人情味のある人で、仕事のフォローも率先してやる誰からも愛される人だ。
「ぼくが原因なんだけど、兄さんは人と別れるのが極端に苦手なんだ」
「たとえば?」
「友達と外で遊んだ後、暗くなったから帰ろう、ってなるだろ?デートの帰りとか。兄さんは人目を憚らず大泣きするんだ」
「いつも?」
「毎日、っていうか毎回。突然ぼくが入院するなんてザラだったんだけど、外にいた兄さんは当然知らないだろ?」
「はい」
「自分が家を空けている時、ぼくの呼吸が止まったら……。そんな心配性が高じてさよならが苦手なんだ。父さんはずっと寝たきりで前々から呼ぶなって言ってたし、母さんは本当に突然でぼくと壱佳もあえなかったんだ。だから、連絡だけして、兄さんの帰国に合わせて和尚さんを呼ぶことで話は付いてたから気にしないで」
託生と付き合うには両親との対面を考えていたが、兄の尚人と挨拶することになる。尚人は再婚していなかった。
「ねぇ、義一くん」
託生が義一の傍に正座する。
「なんで敬語なの?」
「やっぱ緊張するし」
託生のマンションまで押し掛けたものの、実は託生に彼女がいて、インターフォンは鳴らしていないが、ひょんなことから室内にいた彼女が出て来るとか、1人で打ち上げに参加していると思っていたらパートナーがいて、一緒にマンションに帰って来るとか、兎に角色々想像していたらあっという間に時間が過ぎていた。
「緊張する人なんてもういないよ」
「それでも緊張します」
託生と久しぶりに会って反応を見て少しは脈アリと思ったが、はっきり好きと言葉にして言われた訳ではない。義一の本気度はもうわかってもらえたと思うが、安心はできない。
「オレと付き合ってください」
託生の両親の前で義一は頭を下げる。
「お願いします。先生が好きなんです」
託生は何も答えず、立ち上がって和室を出て行こうとする。その手首を掴み、託生を止める。
「約束通り、最低1ヶ月複数の人間と付き合いましたが、託生先生以上に好きになれた人は現れなかった。13年間、託生先生のことを忘れた日はなかった。お願いします」
「長い話になるから向こうに。足が痺れちゃうだろうから」
章三が言っていた、託生が人間不信になった訳を聞ける。けれど、託生の両親の前で話を聞きたかった。
「それならここで聞きます」
「ごめん。両親が知らない話もあるから、できればリビングが良いんだけど」
そういう訳なら義一は構わない。託生の手首を離し、立ち上がってリビングに行く。託生は義一の正面の席に座り、冷たい麦茶を飲む。
「高校を卒業した日にクラスメイトの女の子に告白された」
託生くらい優しければ学校でも頼りにされただろう。実際、義一は責任感の強い託生が好きだった。
「名前を聞いても?」
「橘ゆかり。ゆかりのことは密かにいいなって思ってたから、それから付き合い始めたんだ。デートしたり、イベントの度にプレゼントもした。けれど、ゆかりが求めるものは違ってた」
託生に愛されているのに、それ以上を強請るなんて強欲な女だと思った。
「義一くんにこういう話を聞かせるのは抵抗があるんだけど……」
「大丈夫です。オレは先生の全てを知りたいんです」
うん、と頷き、麦茶で喉を潤した託生を見て、義一もネクタイを緩め、ワイシャツの上から2番目までボタンを外す。
「ゆかりはキスとか、せ……」
託生の顔が赤く染まる。セックスと言いたいのだろう、と予測をつけ、
「身体を求められたんですか?」
付き合っていれば必ず通過する儀式だ。実際、義一が付き合ってきた期間限定の恋人にもそういう人間はいた。
「うん、そう」
託生はセックスという単語を口にせずに済んだことに安堵の溜息をついていた。
「でも、ぼくはキスも、その……、かっ、身体の関係も、未成年のうちはしちゃいけないと思ってる。お互い未成年だったから、責任の取れる歳になったらってゆかりに話して、彼女も納得してくれた。だから、ぼくは二十歳になったら結婚しようと決めて彼女と婚約した」
託生に結婚願望があった。かつては壱佳に、結婚はしない、と断言していたのだから、彼女が託生のキーマンになったのだろう。
「短大を卒業する前にゆかりを連れて実家に行こうとした。静岡なんだけど、ぼくは乗り物に必ずといっていいほど酔うから、前以て彼女には伝えた。新幹線に乗ってそんなに経ってなかったと思う。やっぱりぼくは酔って……、でも、ゆかりに後始末をさせる訳にいかなくて、その……」
「わかります。続けてください」
「ゆかりは窓際の席に座ってたんだけど、途中駅が間近になって新幹線が徐行を始めると席を立ってデッキの方に歩いて行った。まだ、静岡までには遠いというのに……」
「先生を置いて降りたんですか?」
カップルで彼氏・彼女を置き去りにして帰るシチュエーションはよく聞く話だが、託生は具合が悪い状態だ。そんな人を、仮にも彼女が取る行動とは思えない。
「実家には兄さんにも来てもらっていたんだけど、兎に角ゆかりが来れなくなったことを伝えなければならないのにぼくはそれどころじゃなくて……。静岡に着いてゆかりに電話したんだけど着拒されてた。仕方なく1人で家に帰って事情を話した。父さんも兄さんも凄い剣幕で怒ってた」
尚人が激怒していた、という話は壱佳から聞いたことがあるが、この時のようだ。託生が人間不信になるのも頷ける。
この話を糧にして、義一は託生の吐瀉物の処理をしたり、託生を助手席に乗せてドライブに行くことも考える。幸い、アメリカで車の免許は取っていたし、ドライビングテクニックは教官のお墨付きだ。
「ゆかりがドタキャンした日、怒りのあまり頭の血管が切れた父が倒れて介護が必要な身体になった。この日の出来事がきっかけで家族に後ろめたくなって静岡に帰れなくなった」
橘ゆかりは託生だけでなく、家族も壊したことになる。
「4月になって、まだ壱佳が祠堂保育園に入園する前だけど、章三と壱佳と3人でデパートに食事に行ったんだ。就職が決まったお祝いで。食事の後、壱佳の服を買おうとして子供服売り場に行ったら、直ぐ近くのマタニティー服売り場にゆかりがいた。隣に男の人がいて、ゆかりの左手にはダイヤの指輪が嵌まってるし、お腹も膨らんでいるし、何もかもが滅茶苦茶になった」
なんて波乱万丈な人生を託生は送ったのだろう。もし、託生が女性の身体に手を出すのは二十歳を過ぎてから、と自分を戒めていなかったらゆかりの腹の子の父親が誰なのか問題になっていただろう。
「そんな訳で、ぼくは好きだという相手を信用できない」
「でも、オレの好きはわかってもらえましたよね?」
13年間、1度も欠かさず託生に薔薇の花束を贈り続けた。
義一は席を立って、家に入るなり託生が生けた薔薇の花瓶から1本だけ抜き取り、託生の傍で膝立ちになる。薔薇を託生の方に捧げ持ち、告白する。
「オレと付き合ってください」
「さっきみたいなキスも、身体の関係も、義一くんが二十歳になるまではしないよ?それでもいい?」
「おはようとおやすみと行ってらっしゃいとただいまのキスは?全部、挨拶のキスで誰でもしてます」
クスっ、と笑った託生が可愛いくてドキリとする。30を過ぎた男性に可愛いと言ったら怒られそうだ。
「同棲するんじゃないんだから、する暇ないよ。そ・れ・にっ」
語気を強めた託生に嫌な予感がする。
「ここは日本だよ」
「壱佳には頬にキスとかしなかったんですか?」
「壱佳にはハグだったし、子供だった。けど、義一くんは大人だ」
「成人してませんけど」
身体の欲望は必ず封じ込めるが、キスくらいは許してほしい。託生は暫く考え込んでいたが、首を横に振って無理、と示す。
「壱佳にも示しがつかないから駄目。それでもいいならお付き合いさせてください」
セックスだけでなく、キスまで拒む託生の話を佐智にしたら驚くに違いない。佐智は聖矢ととっくの昔に大人の関係になって、義一を耳年増にしていた。
漸く託生が義一の手から薔薇を受け取る。
「わかりました。大人の関係まで2年待ちます」
「義一くんの執念深さはこの13年で身に染みてわかったから。ところで、義一くんはこの家に居候する気なのかな?」
咄嗟に腕時計の時刻を確認すると0時5分前。
「終電ってまだありますか?」
「電車はあるけど……。どこに住んでるの?場所によっては途中でなくなるかも」
一見がっかりしているようでも、義一は内心ほくそ笑んでいた。電車がなくなった義一を、真夜中に託生が追い出す訳がないとわかっていたからだった。
託生に沸かしてもらった湯船に浸かりながら義一は思考を巡らせた。
託生のマンションは小高い丘の上に建つ分譲マンションだ。築年数もあまり経っていない高級の部類に位置する。初めて訪れた義一の足でも30分近く掛かったので、ここでも電動アシスト自転車が役立っていると思われる。
託生が打ち上げ会場から帰宅するまで、マンションの外廊下に立って待っていたが、その間、託生の部屋に近付く人間はいなかった。実は13年の間に結婚していたり。過去に壱佳に結婚しない、と言っていたが、その言葉を覆すような出会いがあったとも考えられる。或いは、結婚していなくても同棲中の彼女や彼氏がいる場合もある。
遠距離になるとわかっていたのに義一は託生の動向を探ろうとしなかった。遠距離恋愛中の佐智からは、探った方がいい場合もある。聖矢は仕事柄迷惑になるからしないが、託生の場合はその人柄ゆえ人に簡単に好意を持たれる。会いに行った時、1人でなかった場合、傷付くのは義一だ、と。
佐智の言うこともわかるがその通りにしなかったのは、それでもいいと思ったからだ。両親のような熱烈な恋愛に夢みていたが世の中、自分の思い通りにならないのはわかっている。もし、託生に彼女や彼氏がいたら陰からそっと幸せを祈るだけだ。アメリカにいる尚人に何度も託生の話を聞きに行き、彼女や彼氏の影を感じ取れなかったから余裕を保っていられたのかもしれない。
託生が帰って来て家に通されて、義一は慢心していた自分を詰りたくなった。玄関に女物の履き物や、託生の足に合わない革靴やスニーカーはなかったが、託生が出した棚の脇に使用感のあるスリッパが置かれていた。託生が義一に出したのは完全に来客用とわかるスリッパだった。使用感のあるスリッパが女物か男物かは棚に入っていたのでわからない。ただ、この家に頻繁に出入りしている人物がいることは確かだ。
託生の両親の話を聞いたり、ゆかりの話を聞いたが、その間、託生の交際相手は帰って来なかった。交際相手はいないのか、それとも同棲するまでの仲ではないのか。
ゆかりの話から、託生が交際までに時間を掛けるのはわかった。だから、同棲はしていないが、交際中の相手がいることは覚悟しておかなければ。
義一の花束を託生が喜んでいたと知って浮かれたが、元々託生は花好きで、祠堂保育園でも裏庭の花壇の手入れをしていた。花束を喜んだのは言葉の通りに受け取るべきだったのか。
脱衣所に案内され、ワイシャツを脱ぎ落とす際に目の端の映った歯ブラシにも衝撃を受けた。1つのプラスチック製のカップに色違いの歯ブラシが2本。色合いから託生の交際相手(仮)は同性と判明する。加えてドレッサーに並べられた整髪剤やシェービングクリーム、化粧水、乳液、保湿液、パックから、男はよほど美容に気を使っているのがわかる。
託生が使用しているとも一瞬考えたが直ぐに否定した。ドレッサーに並べられた品が全て高級品だったからだ。
義一が祠堂保育園で出会った託生は、車に乗れないのもあるが、電動アシスト自転車を愛用するような質素な生活をする人だ。託生の変化を受け入れない訳ではないが、想像が付かない。しかし、浴室に入った義一は更なるダメージを受けた。
浴室の棚に置かれたシャンプーやコンディショナーは美容室で売買される品で、ボディソープはデパートに置かれる高額なものだ。シャンプー液を手に出して匂いを嗅いだが、先程嗅いだ託生の髪の匂いと同じだった。
カラッ、と脱衣所の扉を開けて人が入ってくる。義一は身1つで脱衣所に送り込まれたのだから、託生が着替えやバスタオルを持って来たのだろう。
「下着とパジャマ、置いとくね」
下着は無理をすれば託生のサイズでも入るが、パジャマは無理だ。湯船から出て、浴室の扉を開け、そのパジャマは誰のだ、と口汚く罵りそうになる。その瞬間、ある男を思い出し、口にする。
「先生。壱佳は?久しぶりに会いたいんだけど」
別に壱佳に会いに来た訳ではない。けれど、玄関のスリッパも、脱衣所の棚の歯ブラシも、整髪剤やシェービングクリーム、化粧水、乳液、保湿液、パックも壱佳のものであってほしい、という願望が口に出る。
壱佳が義一並みに成長した姿は想像が付かないが、アメリカにいる尚人の体格は託生に似ずがっしりとしている。親子なのだから、壱佳が立派な体躯になる可能性はあった。
「今日は無理かなぁ。週末に来るんだけど」
「壱佳と暮らしてないのかっ?!」
びっくりして思わず声が大きくなる。浴室に義一の声が反響した。
壱佳は託生が大好きな子供だった。託生を困らせないように気を使っているのがありありとみて取れて、正直、壱佳が反抗期になったら託生は今までと態度の違う壱佳に戸惑うだろうと思ったこともあった。かく言う義一も反抗期はあり、主に母親を困らせたが、将来、託生に相応しい人間になる、と呪文のように自身に唱え続けた結果、然程道を踏み外さずに済んだ。近くに尚人がいたお陰だ。
義一はムシャクシャした気分になると、Fグループ本社ビルに行き、秘書室の尚人の元を訪れた。尚人に託生の話を聞き、今の自分では純粋な託生に相応しくない。生活を改めようと思い、反抗期を乗り切った。前後する時もあるが、対面で話を聞いていると電話が掛かってきて、その電話が終わると尚人にも仕事が待っていて話を最後まで聞けず終いの時もあるが。
対面の時は途中に割り込む電話や仕事に敵わないのはわかっている。けれど、その人柄から義一が尚人に会いに行かないという選択肢はなかった。
壱佳が託生と一緒に暮らしていないと聞けば、スリッパも、歯ブラシや整髪剤やシェービングクリーム、化粧水、乳液、保湿液、パックも託生の交際相手(仮)の可能性が高くなる。義一が好きと言っても、ぼくも好きだよ、と返してくれないのがその証拠のように思えてしまう。
「壱佳は中学からの友達とルームシェアしてる」
壱佳から言い出したのだろうか?何故、壱佳が託生の元を離れたのか。反抗期が高じて託生の側にいたくなくなったのか、義一にはわからない。けれど、週末には来るというのだから託生が嫌いになった訳ではなさそうだ。
「週末に来たら壱佳に会える?」
往生際悪く、玄関のスリッパも、歯ブラシも、整髪剤やシェービングクリーム、化粧水、乳液、保湿液、パックも週末に来る壱佳のものだと思いたくなる。先生、付き合ってる人いるの?と、どうしても聞けない。もし、YESと言われたら義一は身を引くしかなくなる。やはりあの時、無理矢理にでも託生の気持ちを聞いておくべきだった、と後悔しても遅い。
「先生」
「ん?」
「好きだよ」
義一の告白に答えはなかった。お付き合いさせてください、と言ったのは託生だったけれど、偶にしか来ない義一と交際相手(仮)が鉢合わせする可能性を考えていないのだろうか。
カラッ、と浴室の扉が開いて、ズボンの裾を捲った託生が入って来る。
「先生?」
「あれ、不安にさせちゃってるよね」
あれ、と託生が脱衣所のドレッサーを指差す。鈍い鈍いと思っていたけれど、託生を好きな義一を不安にさせない託生に惚れ直す。
「壱佳は週末にぼくの生存確認に来るんだけど」
生存って、と不謹慎だと思いつつも笑ってしまう。
「本当に。あの時は呼吸が止まっちゃったから壱佳も怖いんだ」
あの時、というのは、託生が祠堂保育園を辞めることになった原因の喘息の発作を意味する。入院中の託生に義一も見舞いに行き、面会は叶い告白もしたが、その後、バスハイクに参加した託生の容体は悪化した。
島岡も面会に行ったが、集中治療室の託生には会えず、その後、佐智が見舞いのCDを持って行った時も会えなかった。
「ルームシェアするって決めてもやっぱり心配掛けちゃって。学校がない週末に泊まりに来るんだ。ドレッサーに並んでるのは全部壱佳の。シャンプーとコンディショナー、後ボディソープはぼくも使わせてもらってる」
「じゃあ、玄関のスリッパと歯ブラシも?」
「壱佳のだよ」
なんだ。やっぱり託生の周りには壱佳がいた。
「でも、壱佳って朝弱かったっけ?」
壱佳が通っている学校がどこにあるか知らないが、このマンションの付近に学校はない。通常なら来年大学入学の筈だが進む進路も関係してくるから、都心部の方が便利だ。
託生が辞めた祠堂保育園のお泊まり保育で、壱佳は先生方の手を煩わせることなく朝起きて、自分で身支度を整えていた。壱佳と一緒に義一は他の園児の起床を手助けして先生方に褒められた。
「朝の心配はないんだけど、欲しいものがあるって出てった」
「欲しいもの?」
「車。ぼくに何かあった時の為に」
バイトを始めるつもりだったのだろう。バイト先の都合で都心に程近い場所でルームシェアしているのかもしれない。
やっぱり壱佳は託生が大好きだ。この分だと託生の前では反抗期すらなかったのだろう。まだ会っていないが、変わっていないとわかって安心した。
「背中、流そうか?」
やった、と思った。二十歳になるまで託生とスキンシップは計れないが、セックスだけがスキンシップではない。
「お願していいですか?」
「また敬語になった」
ウフフ、と託生が口角を上げて控えめに笑う。
湯船を出て託生が手の届く距離にいても自制心を総動員させてジュニアを目覚めさせない。ジュニアに修行僧のような苦悶を強いることになっても、2年後のセックスまで何があっても耐えなければならない。
この13年を思えば短い苦行のスタートが切って落とされた。
4月からつくばの研究所で働いているという義一に先に風呂を使わせ、その後で託生が入る。義一の住まいは研究所の近くだった。
久しぶりに会った義一は身長も身幅も託生より立派に成長していたが、義一の着替えはなく、週末に来る壱佳のパジャマを用意しておいた。見上げる角度で、義一と壱佳はほぼ同じ身長だとわかるが、身幅は義一の方が立派だった。
汗を流して浴室を出て自分のパジャマを着る。脱衣所の扉を開けた瞬間、目の前に携帯を構えた義一がいたことに驚く。
「寝てなかったの?」
義一は明日の朝、つくばに戻る。途中で列車がなくなる義一を託生のマンションに泊め、明日の始発に押し込む予定だ。
「先生、こっち向いて」
風呂に入ってリラックスしたのか、義一からは敬語が消えていた。義一はパジャマ姿の託生の写真を何枚も撮っている。
「とりあえずこんなもんか」
ひとりごちた義一に託生が聞く。
「パジャマ、壱佳のだけどキツくない?」
「ちょっと。でも大丈夫。こっそりボタン外すから」
壱佳は託生と違い、自分のサイズより大きめのパジャマを着る癖がある。普段着はジャストフィットの服を着るが、パジャマだけはゆったりした品を買う。壱佳がジャストフィットサイズでパジャマを買っていたら、今日義一が着るパジャマはなかった。
義一だけが託生の写真を持っているのは不公平だ。託生だって義一の写真が欲しい。けれど、託生にはそれを口に出せない。義一と付き合って時間が経てば言い出せるようになるのかもしれないが、今は無理だ。
写真を撮り終えた義一はローテーブルに着き、缶ビールを美味しそうに呑む。その光景を見た託生が義一に駆け寄り、義一の手から缶ビールを奪う。
「未成年者がお酒なんて駄目だろっ!」
未成年者の飲酒・喫煙は法律で禁止されていることは義一でも知っている筈だ。しかし、義一は託生が風呂に入っている隙に冷蔵庫を開け、ストックしていた缶ビールを失敬して呑んでいた。
「けど、誰も何にも言わない。っていうか、未来の社長候補だから今から仕事入れられて、接待とかで勧められるし」
義一はFグループの社長令息だ。裕明も仕事と割り切って飲酒を咎めないのかもしれない。
「仕事じゃ仕方ないのかもしれないけど、この家にいる間は未成年者。飲酒禁止」
「え〜。先生と呑みたかったのに〜」
「ぼくはお酒は弱い方だから、義一くんと一緒に呑んで何かあったら責任を取れません。お酒は二十歳になってから」
義一から奪った缶ビールに口をつけて呑む。未成年者の癖に半分以上呑んだ後で、託生には2口程度しか残っていなかった。
「煙草は吸ってないよね」
もう保育園の先生ではなく、ピアノの先生をしている託生だ。けれど、未成年者の飲酒・喫煙を目にすれば必ず止めに入る。最近の未成年者は大人顔負けの体格で年齢不詳な時もあるので、実際に託生が止めに入るのは明らかに未成年者とわかる者に対してだ。
「託生先生と一緒に暮らすのに煙草はマズいだろ。喘息起こしちゃう」
託生の持病を覚えてくれていたことに嬉しくなる。
キッチンで缶ビールの缶を水で濯いでゴミ箱に入れた後、寝室に行き布団に潜り込む。突然義一が来たし、今日は外出していたので布団を干していなかったが、フカフカに膨らんでいて寝心地はいい。義一もリビングの電気を消して寝室に入って来る。
「えっ?何これ?」
ベッドの下の布団に託生が寝ていることに戸惑いを覚えているらしい。
「先生、寝相悪いの?」
「普通だよ」
「なんでダブルベッド?なんで先生と別々?訳わからん」
「壱佳が中学生の頃まで一緒に寝てたんだ。その名残。電気は消した方がいい?」
「どっちでも。先生と寝たいよぉ〜」
「寝てもいいけど約束は守れる?」
義一には二十歳になるまで身体の関係を持たないことを約束させた。決して義一を信じていない訳ではないが、男が欲望を抑えることが辛いのは壱佳を見ていればわかる。性欲が強い方ではなかった託生でさえ溜まってくると辛かったのだから、一般人は尚更だろう。
「エッチなことはしない」
13年振りに会った義一をどこまで信用していいのか。だが、一途な義一に少しでも近付きたいのは託生も同じだ。
タオルケットを剥ぎ、ベッドの上に乗り上がる。義一もベッドに潜り込み、早速託生を抱き締める。
「エッチなこと、しないんじゃなかった?」
「これはスキンシップ」
ベッドに入ってから枕を忘れたことに気付いた託生が義一の腕を剥がし、床に足を着く。
「スキンシップも駄目〜?」
「枕を忘れたんだよ」
枕を定位置に置いてベッドに転がる。
「質問していい?」
「答えられる範囲内でなら」
再び義一が託生に抱き付いて首筋の匂いを嗅ぐ。風呂に入った後だからといって安心できない年齢だ。
「加齢臭、気になる?」
「臭い訳ないじゃん。託生先生って昔から良い匂いしてたし」
「朝早いんだし、質問があるんだろ?」
自慢にもならないが、託生は朝が弱い。今の仕事は比較的遅い出社だから問題はないが、明日は義一を駅まで送って行かなければならない。
「うん、じゃあ。ゆかりさんが二股してるって知った時、どう思った?」
「特にないなぁ〜。強いて言えば両親の前でなくて良かった、かな」
ゆかりが二股をしたのは、託生にも問題があったからだ。託生に意思を変えるつもりはなかったから結局は破局なのだけれど、二十歳になるまでキスもセックスもしないなんてありえない、と周りの人間に言われた。
「ゆかりさんに振られて悲しかった?」
「それはないね。短大卒業を控えてたし、その頃には壱佳を育てなきゃいけないって言われてたし、就職も決まってたし。やらなきゃいけないことが山積みで、正直なところ思い出しもしなかった」
「先生って酷い人だったんだ」
「そうだよ。付き合うの止めるなら今のうちだよ」
「止めない」
義一がギュウギュウ託生を抱き締める。
「だって、時代錯誤な先生の思想があるから先生はゆかりさんと別れたし、オレは先生のファーストキスをもらえた。実際、ファーストキスは諦めてたんだ。先生と15も違うし。しかも、童貞で処女だし。ゆかりさん、ありがとうって感じ」
何か不穏な言葉が耳を掠めた。何故、義一が託生のファーストキスを知っているのか。童貞はわかるが、女性でもないのに処女とは何を意味するのか。
クルリ、と身体を反転させて義一の目を見て、
「ファーストキス?」
「先生、ファーストキスだって言ったじゃん」
「言ってない」
「だって、エッチなことは二十歳になってからってゆかりさんに言ったんだろ?だったらファーストキスじゃん」
少し考えればわかることだ。二十歳になるまでキスもセックスもしない。二十歳になってからは壱佳と一緒に暮らしていたから、彼女がいたとしても家ではコトに至れない。
「そっか。気付かなかった。でも、保育園を辞めてから付き合いがあったとは考えないの?」
「章三先生と島田先生の話盗み聞きして、先生が人間不信って聞いてたからそれはないかな、と」
「盗み聞き、ってバレなかった?」
「元々島田先生に協力は頼んでたからセーフ。但し、先生が章三先生にバラさなければ」
「もう時効だと思うし、章三も覚えてないかも」
三洲の話をしたら義一はどんな反応をするだろう。聞いてみたい気持ちも少しはあるが、壱佳ならまだしも、義一はそんな些末なことには気を取られない気がした。
「先生」
壁側を向いて寝る体制に入っていた託生はそのままの姿勢でん?と聞く。そんな託生の態度に腹が立ったのか、義一は託生の腕を引いて彼と正面から向き合う形にしてしまう。
「階段から突き落とした犯人を好きだったんですか?」
佐智から聞いたという、託生がバイオリンを辞めた理由をまだ義一に話していなかった。
託生は須田に階段から足を踏み外したと伝えたが、バイオリン教室を辞めることになり、須田の家に挨拶に同行していた雅美から事実も明かされてしまった。託生は訂正したが、健吾が不登校になり、学校側に何の説明もないまま年月だけが過ぎてしまった。
「突き落とされたんじゃない。足を踏み外したんだ」
頑固な託生は何十年経ったとしてもあの事故を事件にしない。実際、事故が起きてしまったことで託生の将来も、健吾の将来も変わってしまった。
「突き落としたと疑われた子を好きだったんですか?」
義一は言い方を変えたが、内容はそのままだ。
「なんでそっち方面に持っていこうとするかなぁ〜。彼は幼馴染。学校でも喋ったりするけど、お互いの家を行き来しての方が多かったね。大体、小学6年生で恋なんて早過ぎる」
目の前の義一は小学6年生より遥かに若い5歳で託生に恋したのだから、今は年齢は問題にならない。
「幼馴染?」
「佐智くんからは友達だって聞いたんだろ?」
雅美は健吾を友達と須田に話していた。雅美も健吾が託生の家に出入りし、一緒に遊んでいたのを知って人に紹介する時は幼馴染として接していたが、あの事故をきっかけに健吾の格が下がってしまった。
「託生先生は鈍くてど真面目だからそうだったかもしれないけど、幼馴染は違っていたかもしれない。そのあたりは聞いた?」
「聞いてない。彼は中学に進学してからもずっと一緒にいることを望んでた」
それは事実だけれど、事故とは関係ない。
「やっぱり幼馴染が犯人なんですね」
「違う。あれは事故だ」
義一が託生の身体を抱き締める。耳元に唇を寄せ、悪魔のような言葉を囁く。
「オレは過去の事件を捜査しに来た刑事じゃない。先生が何故バイオリンを弾けなくなったのか知りたいだけだ」
「だから、ぼくのうっかりミスだってば」
「なら何故、疑われた幼馴染は先生と同じ中学に通わなかった?後ろめたいことがあるから私立に進学したんじゃないのか?」
そんなことまで託生は知らない。事故の後、リハビリを終えて久しぶりに行った学校に健吾は来ていなかった。前に公立の中学に通うと聞いていたから会う時間がなくなったことに対する恐れも何も抱かず、公立の中学に進学したら同級生の話で私立に進学したと聞かされた。
「なんで今更昔のことを掘り起こすんだ。そんなことをしたってぼくの手は動かない」
「それでも先生の理解者になれます」
信じて、また裏切られるのだろうか?1度目は幼馴染、2度目は元カノに。
「先生が黙っていればいる程オレの疑惑は深まります。幼馴染は先生に恋をしていた。中学に進学しても先生と一緒にいられると思っていた幼馴染は事実を知った。そこで、先生の受験前に階段から突き落として怪我をさせることにした」
なんで義一は現場を見ていたように言えるのか。
「バイオリンを辞めさせたい訳ではなく、受験さえ間に合わなくなるくらいの怪我でよかった。けれど実際、先生の左手は使い物にならなくなった」
もう、時効だろうか?託生は健吾に会うことはないし、それは彼も同じだ。託生が必死に隠している傍らで健吾は他に言って回っているかもしれない。或いは事故のことなど忘れているかもしれない。
義一なら言い振らしたりしないような気がする。祠堂保育園でも壱佳が託生の甥だと。尚人が義一の会社の社員だと、誰にも言わなかった。
託生は1つ溜息をついた後、重々しい口調で話し出す。
「彼は……、片瀬健吾というんだけど。健吾とは一緒に登下校するのは勿論。教室でも休み時間の度に集まって馬鹿な話をするくらいには仲が良かった。健吾はサッカー部で部活もあったんだけど、ぼくは放課後、健吾の練習風景を教室で見ながら時間を潰してた」
「先生は何部?」
「帰宅部。小学校にはブラスバンドがあったんだけど、バイオリンは役立たずだからね」
「ますます怪しい」
「何が?」
「だって話聞いてるだけで青春って感じじゃん」
「そうかな?普通だと思うよ」
健吾が託生に恋をしていたなんて信じられない。けれど、健吾と託生が交じり合う人生なんて、もう来ない。
「健吾を探し出したりしない?」
Fグループの力をもってすれば健吾は義一に探し出される。託生が健吾に突き落とされた理由を知りたいと言ったなら本気で探し出し、刑事のような取り調べをするのだろう。
「託生先生がそう望むなら」
「受験することを隠してた訳じゃないんだ。ぼくがバイオリンを習ってることは健吾も知ってた。でも、まさか受験するとは思ってなかった」
東京では中学を受験する子供は珍しくないが、静岡は違う。子供たちは日が沈むまでヘトヘトになるまで外で遊び、家に帰ると真っ先に食卓に着く。けれど、託生は病気の所為もありインドア派で、健吾が外で他の友達と遊んでいても一緒に行動しなかった。
「同級生と教室で将来の話をしていたんだけどね。ひょんなことから話題が中学受験になって、その時初めて健吾に話した。真っ青な顔してたよ」
他の同級生から貰った、頑張れよ、の言葉も健吾からはなく、気まずい1日を過ごした。放課後、サッカー部の練習風景も見ず下校しようとした託生を健吾は呼び止めた。
「部活行かないの?」
「今日はいいや。一緒に帰ろ」
健吾がまだ鞄を持って来ていなかったので託生は廊下で立ち止まり健吾を待った。やがて教室から健吾がやって来て足並みを揃えて1階の下駄箱に向かう。
「部活休むなんて珍しいね。体調悪い?」
「頭ハンマーで殴られた後みたい」
瞬時に託生の中学受験のことだとわかった。
「俺はこれからもずーっと託生と一緒だと思ってた。大学は違うかもしれないけど、幼馴染だし、ルームシェアしたり。本当に受験するのか?」
「うん。ぼくは勿論なんだけど、家族も望んでる」
「そっか」
丁度階段に差し掛かった時だった。風に乗って、残念だよ、と健吾の声が聞こえ、振り返ろうとした託生の背中を彼が押した。こんなところで何の冗談だ、と怒ることもできず、託生は踊り場まで転がり落ちた。
「目撃者もいたのに、なんで片瀬さんを庇ったの?」
「信じられない気持ちが強かった。残念って将来に向けて進路を決めることの何が健吾をあんな暴挙に走らせてしまったのか。リハビリがひと段落して学校に戻ったら、健吾は不登校になってて話もできず仕舞いで……」
「片瀬さんに会いたい?」
「会って手が動くようになる?バイオリンが弾けるようになる?中学は音楽学校に通える?無意味だよ」
「うちの系列の病院は?22年前より医学は進歩してる」
22年前も手術を受ければ今より手は動いたかもしれない。けれど、託生は手術を受けられなかった。
「兄さんや壱佳に心配掛けたくない」
「リハビリは大変かもしれないけど……」
「身体がもたないかもしれないって言われたんだ」
手術は全身麻酔になる。託生の脆弱な呼吸器系統が耐えられない可能性が高い、と医者に言われた。
「意気地なしなぼくとは付き合えない?」
嫌味な言い方をした託生を義一は抱き寄せる。
「そんなことない」
「エッチは二十歳までお預けだし、33歳のおじさんだし、良い物件じゃないよ」
「待ては得意だ。何年待ったと思ってる。……先生」
「ん?」
「佐智が真っ青な顔でアメリカまで飛んで来た。傷口に塩を塗るようなことしたって謝ってた」
「もしかしてCD?」
音楽やバイオリンを嫌いになって辞めたのと今回のは事情が違う。託生はバイオリンを弾きたくて堪らない思いをしているのに、将来有望な保育園児が軽々とバイオリンを弾いてみせたら嫌味になる。
「佐智くんは知らなかった。それに今でも音楽が好きなんだ。佐智くんのバイオリンには本当に元気をもらった」
義一の琥珀色の髪に指を差し入れ、犬みたいだ、と思った。託生が生まれるまで葉山家では大型犬を飼っていたそうだ。けれど、生まれた託生が喘息持ちで、譲った。託生は動物が好きだったが、直ぐ喘息の発作を起こす動物の毛は天敵で、小学校の遠足も児童が仔兎に触っているのを羨ましく思いながら、遠く建物の中から見ていた。託生は兎小屋に近付くことさえできなかった。
「先生?」
「明日は早いんだ。早く寝よう」
その日の夜、託生はゴールデン・レトリバーの腹に顔を埋めている夢をみた。もしかしたら、その犬は託生が生まれるまで葉山家にいた犬だったのかもしれない。
これは何の拷問だろうか。
託生は義一の胸元に顔を寄せ、スウスウと健やかな寝息を立ている。託生の寝顔を見ようと顔を下に向ければ、黒髪から昨夜使ったシャンプーの匂いがする。
1番問題なのはシャンプーの匂いに誘発されて目覚めた義一のジュニアの存在だ。義一に縋り付くように寝ている託生を引き剥がして、トイレか浴室でジュニアを宥めてくる方法はある。けれど、年齢的な問題で義一に甘えてこない託生の滅多に見られない光景を手放すのは勿体ない。そんなこんなで義一の目はギンギンに冴えていた。
義一の予定では仕事が休みの度に託生の家まで来て、離れていた時間を取り戻すように共に過ごしたいと思っているが、聞かん坊なジュニアが託生を襲う可能性は高い。いくら義一が言い訳を並べ立てたところで託生は警戒する。
キュルルルル……と義一の腹が鳴る。
昨夜、バイオリンの発表会に行った後、夕食も摂らずに託生の家に来た。託生と話すことがたくさんあったのと、食事を食べていないと言い出せる雰囲気ではなく、空腹も感じなかった。それが今になって……
「ん」
義一の腹の音で託生の目が覚めてしまったらしい。ゴシゴシと猫のように手の甲で目を擦ると義一の方に身体を預け、ベッドヘッドの目覚まし時計の方に腕を伸ばしている。どうやら時間を確認したいらしい。
代わりに義一が目覚まし時計の針を見て、3時半です、と教える。
「ご飯食べるよね」
義一の腹の音が聞こえていたのかわからないが、朝食は食べて行きたい。このままでは列車の中で恥ずかしい思いをする。
託生が獣のような四つん這いでベッドの上を移動する。まだ完全に目が覚めていないのか、膝がカクンと折れ、ベシャ、と義一の身体の上に倒れ込む。
「あ」
託生が何に驚いているかはわかる。義一のジュニアが託生の膝頭に接触したのだ。
今ので託生の目は完全に覚めたらしく、手と膝を使って、今度は義一の身体に触れないように身体を起こし、目覚まし時計のアラームをOFFにしてベッドからも降りる。
「若いなぁ〜」
ベッドの上の義一を見下ろし、クスクス笑いながら言われる。同じ男でも、見た目性欲の感じられない託生に言われると恥ずかしい。朝だから、という言い訳もあったが、託生を前にした今、時間は関係なかった。
「すみません」
思わず出る謝罪の言葉は敬語になってしまった。
託生とエッチできるのは2年後だ。
「謝ることないのに。壱佳なんて猿みたいで凄いよ」
「壱佳にも受け継がれてるのか?」
「葉山家の教えだから」
葉山家の教えだろうが何だろうが、保育園にいた頃の真面目な壱佳ならば忠実に守るだろう。
聞かん坊なジュニアが痛みを訴えていた。これ以上託生の側にいるのが苦痛になって、恥ずかしながらも現状を訴える。
「シャワー借りていい?」
「どうぞ。朝ご飯用意するけど、食べられないものとかある?」
「ない」
「昔から義一くんは好き嫌いがなかったね」
義一がシャワーを浴びて浴室から出て来るとほぼ時を同じくして、バターンっ、と凄い音がして義一の緊張が高まる。玄関の扉が閉まる音だったと思うが、近所迷惑にならないか心配だ。次いでバタバタと駆けて来る足音。子供がよくやる、甘ったれた声で泣き喚く声。脱衣所にいても泣き声は本気のものではなく、託生に甘えたいだけとわかり緊張の糸を解いた。
バスタオルで身体の水気を拭い、腰に巻いて脱衣所を出る。託生の胸にしがみついて泣いているのは、こういうシュチュエーションでなければ義一でさえ見惚れてしまうほどのイケメンだった。背は義一と同じくらいで、託生より高い。ウエイトは義一の方があるようで、体付きはほっそりしている。骨格もしっかりしていて、だがスポーツマンのような筋肉はあまり付いていない。義一はあまり接しない職業のモデルかもしれない。
「誰?」
考えたくないが、託生の彼氏かもしれない。昨夜はバッティングしなかったが、朝になってご対面とか。けれど、昨夜義一と久しぶりに会った時の託生の反応と、義一と付き合うと言った託生の言葉。そして、浴室で明かしてくれた壱佳の存在。だが、壱佳は週末にしか来ないと聞いた。
「壱佳も久しぶりだろ?」
託生から離れて義一を見る壱佳の目は真ん丸に見開かれて義一の全身を舐めるように見る。
「もしかして、義一くん?」
「久しぶり」
「……ってか、義一くん18歳だよ。エッチはまだ早いって、父さんが怒るよっ」
どうやら義一の格好を見て誤解したらしい。
「誤解だよ。壱佳と同じ」
壱佳も毎朝ジュニアの扱いに困っているらしい。
「僕と同じ……?っ!余計なこと言わないっ!」
「ハハっ、ごめんごめん。来て一番に義一くんがかなえさんに掌を合わせてくれたよ」
壱佳の母親はかなえという名前らしい。壱佳は義一の顔をジッと見てニヤニヤといやらしく笑った後、ありがとうと言った。どうやら義一の下心に気付かれたようだ。
「バイトは何時から?」
「今日は終わった。昨夜引っ張り出されたから」
「徹夜?じゃあ、なんで泣いてたの?合コンはなかったんだよね?」
「あったんだ。声掛けて来た子にエッチまで2年待ってって言ったら振られた」
「毎度のことだからもう心配しないよ」
週末でもないのに壱佳が託生の家に来たのは、女に振られた悲しみを託生に慰めてもらう為だったらしい。いつものことと託生が言う通り、予定外の日に壱佳が来ても、壱佳が振られたと知っても託生に心配した素振りはない。
壱佳が何のバイトをしているのか、疑問に思う。18は一般的には高校生だから、早朝や深夜のバイトを想像する。けれど、早朝の新聞配達等のバイトは、久しぶりに会って感じた壱佳の印象にはない。
「ホスト?」
壱佳くらい見た目が良かったらホストと紹介されても疑問に思わない。それに、保育園の頃と比べて軽くチャラい感じがする。
「お酒を呑めないんだから」
「そうだった」
未成年の分際で飲酒をしても託生以外誰にも咎められない義一と違って、若者の目から見たら口煩い大人がいるのにホストなど夜のバイトはする筈がない。
「なんとかっていう雑誌のモデルをやってるんだよ。日本にいたなら義一くんも見たことがあるかも」
「なんとかじゃ義一くんわかんないだろ」
「ごめん。何度聞いても覚えられない。おじさんに横文字は理解不能だよ」
「何冊かあったよね」
壱佳が新聞紙のラックを漁り始めるが、
「この間の資源ゴミで捨てたよ」と託生が答える。
甥が載っている雑誌を捨てるなんて、託生は結構残酷なことをする。
「電子で買ってるから後で見せるよ。それより早く着替えないと。風邪ひいちゃうよ」
紙媒体は場所を取るので電子書籍は便利だ。半永久的に見られるので義一も重宝している。時間は無限ではないので、後で壱佳に雑誌名を教えてもらうことにする。
義一は脱衣所に戻って着て来た服に着替え、託生が朝食を並べる間に壱佳から雑誌名を聞き、連絡先の交換もした。
「お……赤飯?」
食卓のテーブルに並べられた料理を見て、義一が軽く固まる。
託生と壱佳のご飯茶碗が色違いのお揃いだったのは気になったが、叔父と甥だし見なかった振りをする。赤飯がテーブルに並ぶのが初体験ではないので赤飯が出される意味もわかる。赤飯は祝い飯だ。それとワカメの味噌汁。ワカメの味噌汁は子供の頃、家政婦がテーブルに並べてくれたので馴染みがあり、好き嫌いはない義一だが大好きな味噌汁の具だ。ワカメの味噌汁は手早く作れて今朝託生が作ったものだと思うが、どう考えても赤飯は朝から並べられる飯ではない。昨日はバイオリンの発表会で家を空けていた託生がいつ下拵えしたのか不思議な程だ。
「たぁくん、義一くんに食べてもらえる日が来て良かったね」
モデルのバイトをしている壱佳も今日の献立はヘルシーなこともあり、モリモリ食べている。
リビングには椅子が4脚あり、義一と壱佳は並んで座り、壱佳の正面の席に託生が座る。その託生は黙々と箸を進めている。
「なんか特別な日に来てマズかったよな」
「そんなことないよ。7月29日はいつもこんなもん。今年は29日がバイオリンの発表会で翌日になっただけ」
7月29日は義一の誕生日だ。家でも勿論祝ってもらえたが、今まで託生はこの家で義一の誕生日を祝っていたのだ。手酷く振られた思い出も今朝の朝食で軽くチャラにできる。
「初めて義一くんから薔薇の花束が届いたと知った時のたぁくんの慌てようは今思い出しても笑える」
壱佳が当時のことを思い出して笑い出す。
6歳児が二十歳の男性に薔薇の花束を贈った。初めての花束は、義一と佐智の他に島岡とマリコも店に来ていて、店員が作る花束に細かなケチをつけて最高の花束を作ってもらった。メッセージカードを用意していなかった義一に店員からカードを渡された時は振られたのに付き合ってください、と書くのもおかしく、託生が去った後の保育園での出来事を書いた。壱佳と遊んでいても託生の話題を持ち出すこともなかったので、託生が花束を受け取ってどう思っているのかわからなかった。
ふと、ご機嫌で朝食を食べていた壱佳が茶碗をテーブルに置き、姿勢を正す。壱佳にも託生と付き合い始めたことは報告しなければならない。義一もご飯茶碗をテーブルに置き、茶を1口飲んで背筋を伸ばす。
「託生先生と付き合うことになった」
「そう、良かったね」
壱佳の返答は素っ気ないものだった。けれど、壱佳には言い分があり、義一は気持ちを引き締めて拝聴する。
「たぁくんが義一くんと付き合うのは反対しない。けど、たぁくんが義一くんと結婚するのは許せない」
「結婚じゃなくてお付き合い」
冷静に託生が訂正する。
「だって、結婚願望はあったじゃん」
壱佳もゆかりの話を聞いたらしい。
「今はない」
「出来れば結婚したい」
託生に結婚願望があったと知って義一にも欲が出る。
「ほらぁっ!」
「ぼくは結婚しません」
「なら、同棲は?昨夜も言ったけど、オレは先生と一緒に暮らしたい」
「それも駄目っ!たぁくんが義一くんと同棲するなら、僕もその家に住む」
壱佳が何を求めているのかわからない。お付き合いはOKで、同棲はNG。もしかして、壱佳は託生と暮らしたいだけなのだろうか。しかし、それなら何故家を出てルームシェアを始めた?
壱佳は喧々囂々喚き立て、義一は冷静に自分の意見を言う。託生は朝食を食べながらそれらに答える。
「壱佳はなんで家を出たんだ。車が欲しい話は聞いたけど、先生と暮らす以上に重要か?」
確かに託生の身体を考えれば何は置いても車は必要だ。けれど、託生と暮らしたい望みを投げ打ってまで家を出る必要はあったのか。
「事務所の社長さんに、ここから青山の事務所じゃ遠過ぎるって言われたんだよ」
託生のマンションから青山まで特急に乗っても軽く1時間は掛かる。仕事の関係で早朝の撮影もあるだろうから、その場合、電車を選んでいる余裕はない。
「シェア止める。最近はマンションにも帰ってないし」
「それ、本当なの?」
箸を動かす手を止め、託生が壱佳を見て聞く。託生自身、壱佳が都心のマンションに帰っていないことは初耳だったらしい。
「隆徳さん家から高校には通ってる」
「隆徳さんって?」
13年振りに託生に会った義一は、託生と壱佳の話題についていけない。
当然のことだ。義一の疑問に面倒がらずに託生が答えてくれる。
「佐智くんと病院に来た時に会わなかった?CD届けに来た時。集中治療室の看護師さんなんだけど」
「あー。佐智はオレに内緒で病院に行ったから」
「瀬尾さんっていうんだけど、双子のお兄さんが隆徳さんっていってスタイリストさん。ぼくよ3つ上なんだけど壱佳に良くしてくれるんだ。弟さんが泰徳さんで向こうにいた頃、凄くお世話になった看護師さん」
世界は広いようで狭いと実感する。佐智のバイオリンの師匠は託生の先生だし、裕明の会社に託生の兄の尚人が勤めている。
「茂森くんとシェアしてる今の家はどうするの?壱佳が出て行ったら茂森くんの支払いが増えるんだよ」
茂森というのは昨夜、託生から聞いた壱佳とルームシェアしている友達だろう。
「約束を破ったのは茂森だ」
壱佳が人を呼び捨てにするのを初めて聞いた。友達だから当然だろうが、壱佳は義一や佐智を呼び捨てにしなかった。親しい人というより、今は憎らしいとか、悪感情が表に出ている。
「約束って?」
「家に女を連れ込まない。酒を呑まない。煙草を吸わない。当時、茂森も1人だったから気楽に考えてたんだと思う。今じゃ未成年の癖にお酒呑んだり、煙草吸ったり。女にもだらしなかったりして最近居心地が悪くて」
約束していたなら一方的に壱佳がシェアを止めると言い出しても茂森は強く反対できない。
「バイトはどうするの?」
ここから青山は遠い。いくら車があっても事務所の社長はOKしないだろう。
「辞めようかなって思ってる。元々車の購入の為のバイトだったし、そろそろ大学受験だし」
それで壱佳は託生の家でまた暮らすことになるのだろうか。二十歳まで身体の関係はもたないつもりだが、この分では二十歳以降も機会はないかもしれない。
「やりたいことが見付かったんだ」
「やりたいことは昔から変わってない。ただ、その職業に就く前も後も忙し過ぎてたぁくんの側にいられないのがネックだったんだ。けど、義一くんと付き合うならたぁくんを任せられる」
「同棲は駄目なのに?」
「同棲したら、僕もたぁくんと一緒に義一くんの家に行く」
託生は身体に爆弾を抱えている。壱佳が託生の側から離れたがらないのは、託生の身体の具合をみる人がいなくなるのを不安に思ってのことだろう。
「医者になるのか?」
他の大学より医大はカリキュラムが多く、勉強が大変だと聞く。壱佳の話では就職した後も忙しいのであれば、壱佳が病院で他の患者を診ている最中、託生に不調があったら義一が託生を病院まで連れて行く。病院に到着したら壱佳が託生を診るのだろう。
「何になりたいの?」
「救急救命士。そしたら赤の他人にmouth to mouthなんてさせなかった。何も出来なかった自分が悔しい。けど、やっとたぁくんを助ける仕事に就ける」
昨夜した託生とのキスがファーストキスじゃなかったと知って流石に落胆はしたが、mouth to mouthなら仕方がない。ほんの少し義一の独占欲を制御すれば託生を助けた医療行為を感謝こそするが、壱佳のように根に持ったりしない。
壱佳は託生が好きだと確信する。きっと託生は壱佳を甥としかみていないが、壱佳は男として託生をみている。
アラームの音が鳴り響き、慌てたように託生がテーブルの上のスマホを操作しアラームを止める。
「壱佳。話の途中で悪いんだけど、義一くんを駅まで送って来る」
スマホと財布をバッグの中に入れて託生が玄関に向かう。その後を壱佳がついて行き、託生の肩に両手を付き家に押し留める。義一の方に顔だけ向け、
「車出すよ」
「でも……」
壱佳と話をするチャンスは今しかないような気がした。
「車の方が早いし、涼しいよ」
「それもそうだね。ぼくも行った方が良いんだろうけど……」
「何言ってんの。車酔いなんかで貴重な1日を潰すの?」
「でも……」
「先生。壱佳に送ってもらう。急に押し掛けて悪かった。これからはメッセージを送ったら返信してくれるよな」
「迷惑でなければ」
そんなことはない。返信が来ないとわかっていても義一は13年間、託生からのメッセージを待ち続けていた。
「義一くん。何時の列車?」
時間は無限ではない。託生と暮らすまでに乗り越えなければならないハードルはいくつもある。今年は日本に就職が決まったが、来年早々異動になるかもしれない。
壱佳と急ぎ足で外廊下を抜け、エレベーターに乗る。都合の良いことにエレベーターは7階にいた。早朝だから、もしかしたら壱佳が帰って来てから誰も使わなかったからかもしれない。
1階でエレベーターを降りて駐車場に向かう。壱佳の後をついて行くと白の車に向けて鍵のロックを外した。3列シートの車で、家族旅行に適した車体の為、彼女を乗せるにはムードがないとか、ロマンチックじゃないとか、色々言われそうな車だった。
助手席に乗り込むと足元に空のゴミ箱があるのに気付く。ごめん、と一言謝り、壱佳がゴミ箱を後ろのシートの隙間に移動させる。
「もしかして先生の為に?」
「たぁくんは乗ってもくれないけど」
エンジンを掛けて車が駐車場を出て行く。託生のマンションは小高い丘の上にあり、最寄り駅は特急も停まる大きな駅だったが、徒歩で30分以上掛かった。車に乗せてもらえたのだから、列車に乗り遅れることはない。
「壱佳が免許取るとは思わなかった」
かなえが交通事故死した原因は赤信号を突進して来た車に轢かれたからだ。幼い頃は乗らされていたかもしれないが、大人になって壱佳も選べるようになった。
「たぁくんに聞いたの?」
「いや。島岡から」
「守りたい人がいるからね。車は母さんの命を奪ったけど、たぁくんを助ける為に活躍もする。牛乳だってもう飲めるんだよ」
「オレが現れたのは面白く思ってないだろ」
「そうでもないよ。義一くんから花束が届く度に困った表情を見せていたたぁくんが、いつの頃からか待ち侘びるようになった。29日のお赤飯だってその頃から」
「壱佳は先生が好きなんだろ?」
壱佳がブレーキを踏んで車を止める。歩行者もいなければ走っている車も少ない時間帯だが、壱佳は交通ルールを守る。
「好きだよ」
信号が青になり、アクセルを踏む。
「けど、僕はどう足掻いたって甥から恋人にはなれない。たぁくんの気持ちが義一くんにある以上、応援するしかない」
「カップルのいる新居に居候して虚しくならないか?」
「幸せそうなたぁくんを見られるんだから本望だよ」
保育園に通っていた頃から、壱佳は託生が愛を受け止めようとしないことに気付いていた。たとえ壱佳が託生に告白したところで、倫理観の塊のような託生が受け入れるとは思えない。きっと壱佳はそういうこともわかっているのだろう。
駅のターミナルで降ろしてもらい、足早で改札へと急ぐ。改札を抜けたところで腕時計と時刻表を確認すると、列車が来るまで10分近くあり、改札脇の自販機で缶のアイスコーヒーを買い、ホームに降りてのんびりコーヒータイムを取った。
壱佳が思春期の時期を過ぎてから、極端に日本からアメリカへのコールの回数が増えた。託生は余程のことでもない限り電話してこないが、壱佳は頻繁に掛けてくる。託生と違いこちらの状況も考えないで掛けてくる電話は殆困る。しかも、自分の相談ではなく、今日のたぁくんとサブタイトルを付けられそうな託生の話題ばかりだ。託生は自分のことは殆ど話さないので、壱佳が情報源になっている。
「はいはい。今日はどうした?」
託生が大好きな壱佳だが、託生の望まないことはしない。男として目覚めた壱佳がいつか託生を襲うかもしれない予感を抱きつつ、壱佳の愚痴を聞いているが、託生の教育が良かったのか壱佳は倫理的な青年になった。前回会ったのがいつだったかも忘れたが、壱佳は尚人に似て体格が良く、壱佳に襲われたら華奢な託生などひとたまりもない。
『父さん、義一くんってアメリカでどんな暮らししてた?』
壱佳の口から御曹司の名前が出て、ついに彼が託生に会いに行ったことを知る。
彼は4月から日本にいたが、今壱佳が電話を掛けてきたことから察すると、7月29日の彼の誕生日を過ぎたから、告白をして返事をもらったと思われる。
「暮らし?優雅だけど」
『そっちじゃなくて、女関係』
尚人が壱佳と一緒にいた期間はトータルで計算しても1ヶ月に満たない。その場合、言いたいことも言えないよそよそしい関係になりがちだが、尚人と壱佳の間には兄弟のような慕わしさがある。一緒に住んでいる託生から壱佳が反抗期に入った報告もないので、今のところ尚人と託生と壱佳の3兄弟のような関係だ。
「託生に聞けば」
『たぁくんが知ってるのは交際開始と終了日。僕は全員を把握しとかなきゃなのっ!』
全員は尚人も知らない。
「壱佳には何もできないよ」
『なんでっ!』
国際電話で鼓膜の皮を破りそうだ。仕事中なら労災が認定されるが、壱佳の話は世間話にしかならない。
「音量絞ろうよぉ〜。電話、切っちゃうぞ」
『ごめん、落ち着くから教えて』
す〜、は〜、す〜、は〜、と電話の向こうで深呼吸をしている呼気が伝わってくる。壱佳は言いたいことははっきり言うが、駄目な時は引く。人の言うことを素直に受け取ることのできる男だ。
「前以って言っとくけど、誰それとかはわかんないぞ」
『それでいい』
尚人は頭の中でアメリカに帰国して初めて義一が交際した相手を思い出す。記憶力のいい尚人でも月替わりで交際相手を変えられると覚える気力もなくしてしまう。
「御曹司の初めての交際相手は小学校入学と同時だったな。壱佳みたいに物怖じしない子だった」
『いつ別れたの?』
「なあ、こんなこと聞いてなんになる?」
『義一くんがタラシだってわかるだろ?たぁくんが毒牙に掛かる前に別れさせなきゃ』
いくら託生が壱佳を恋愛対象と見ないからといって、託生と御曹司の邪魔をするのはいただけない。
「交換条件なんだよ」
『なんの?』
「託生が御曹司と付き合う。託生から聞いてない?」
『うん』
マズイことを教えてしまったかもしれない。この条件は託生の評価を下げる。託生が大好きな壱佳が信じるかどうかはわからないが、託生の印象が悪くなる。
『父さん、教えて』
「託生が二十歳の時、御曹司に告白された」
『それは知ってる。たぁくんは義一くんを振ったんだよね?』
「ああ。彼は2年後にはアメリカに帰国することが決まっていたし、今なら壱佳もわかると思うけど、小学校・中学校・高校と進んで交友関係が広がっただろ?その中で人生のパートナーになる人が現れるかもしれない」
『わかる』
「そこで、託生は御曹司に告白してきた人と付き合ってみなさい、って言ったんだ。1ヶ月お付き合いして駄目だったらしょうがないけど、託生は人と付き合うことを教えた」
『もしかして、義一くんの交際相手って月替わり?』
「ビンゴ」
13年間、託生を想い続けている義一に壱佳が負けたとは思っていない。壱佳が託生の甥だったことが一番の敗因だろう。
「壱佳もわかってて電話してきたんだろう?」
託生が御曹司から届く薔薇の花束を心待ちにするようになった、と壱佳が泣きながら電話してきた時はやっぱりな、と思った。Fグループ次期社長たる者が1度振られた程度で諦めるようでは仕事についてからやっていけると尚人も思わない。相手が受ける心情を別にして、義一はそれくらいやって当然でなければならない。
薔薇の花束を貰ううち、託生も義一ならば信じられると思い始めたのだろう。託生が受けた心の傷はそれ程までに深いものだった。
12年間、家族同然に過ごした幼馴染の彼のことは尚人も覚えている。学校では他のクラスメイトに混じって話をする以外あまり接点のない2人は登下校を共にし、下校後は互いの家を行き来し勉強し共に遊ぶ程の仲だった。
壱佳の言う通り、彼は託生が好きだったのかもしれない。中学受験すると聞いた彼の気持ちも、行った行為は許し難いものだが理解はできる。
元カノの行動は尚人には理解できないものだった。家族だから思うのかもしれないが、男が未成年の女性に性的に触れることは恐ろしい。たとえ避妊をしていても出来る時は出来てしまう。女性が妊娠したと言えば、託生は責任を取らなければならない弱い立場になる。肉食系の彼女をもった託生の不運としか言いようがないが、どんなに迫られても屈しなかった託生は自慢の弟だ。
仲の良かった幼馴染と、好きだと言われて付き合った元カノ。懐の深い託生は深く彼らを受け入れた。そして、双方から痛いしっぺ返しを食らった。託生もそんな彼らと義一は違うと感じ始めている。
「御曹司は求婚しなかったか?」
『義一くんは。でも、たぁくんは違った』
「結婚願望はあったのにな」
元カノに手酷く振られた託生は結婚にも、人と交際することにも臆病になってしまった。
『義一くんは僕が返り討ちにしてやった』
元カノと付き合っていた頃の託生には結婚願望があった。今はその気はないらしいが、第三者の壱佳が返り討ちというのは聞き捨てならない。
「何……した?」
壱佳も尚人が働いている会社がFグループだと知っている。尚人の昇進も脅かされるようなことをされると困る。
『たぁくんが義一くんと同棲するなら、僕も一緒に住むって言ってやった』
「お前なぁ〜」
壱佳が結婚する託生について行くと言い出すのは初めてじゃない。僅か6歳の時に、託生にラブレターを送ってきた女と託生が結婚するものと思い、電話相手の尚人に言ったのだ。結局、託生は女と付き合うこともなく、壱佳の叫びは尚人だけが知るものとなったが、本当に進歩していない。
『結婚でもついて行くよ』
「あの託生が結婚とか、ないだろ」
あの2人に託生は心身共に傷付けられた。いくら義一がしつこく迫っても、頑固な託生が折れるとは思えない。
『やっぱり?父さんもそう思う?』
喜色に富んだ声を壱佳が出すが、兄として祈るのは託生の幸せだ。
「本気か?」
『まさか。ただ、たぁくんが一人暮らししてると心配で』
結局、壱佳は託生の大事の時に側にいたいだけなのだ。そのあたりは聞き分けの良すぎる息子が不憫でならない。
「それで?結局、壱佳は無駄話をしたいだけか?」
『待って、切らないで』
「手短に頼む。仕事中なんだ」
あまり壱佳に仕事を理由に電話を断ることはない尚人だが、そろそろ秘書室の同僚の目が痛くなってきた。
『ごめんっ。ルームシェア止めたから』
壱佳が住む23区内にあるマンションの支払いは尚人だ。託生に壱佳の面倒を見てもらう代わりに、金銭面は全て尚人が請け負っている。
「茂森くんの支払いが倍になるんだぞ。彼は納得してくれたのか?」
『だって約束破ったんだもん。文句言われる筋合いないし、それに話持ち出したら、じゃあ、彼女と同棲するわ、バイバイ、だって。ムカつくっ』
「じゃあ、来月分からはいらないんだな」
『うん。もうたぁくんちに住む。それと、バイトも辞める方向で調整中』
壱佳はモデル事務所でアルバイトをしている。中学生の時に友達と街を歩いていた時にモデル事務所の社長自ら壱佳を見初め、勧誘してきた。モデルという職種に無知な託生は渋っていたが、車を購入したいと考えていた壱佳に高収入のバイトは願ってもないものだった。
「そっちは難しいだろ」
尚人もアメリカにいながらにして壱佳が載る雑誌は電子書籍で購読しているが、壱佳の仕事振りはバイトと思えないほど大きく紙面を飾っている。事務所の社長が簡単に手放すとは思えない。
『今年は無理そう。でも、大学受験だし、救急救命士になりたいから、社長を説得する』
6歳の壱佳の前で託生の呼吸が止まってしまったことがあった。小さい頃から機転の利いた壱佳は直ぐに託生の掛かり付け病院の担当医師にSOS信号を出し、駆け付けた彼らと、彼らが呼んだ救急救命士によって託生は一命を取り留めた。彼らが蘇生を試みている間、見ていることしかできなかった壱佳は、将来救急救命士になる、と幼いながらも将来を見据えて勉強に、スポーツに取り組んできた。学校では常に学年でトップ3に入る成績を残している。壱佳の志望動機はあくまでも託生を助けたいの一言に尽き、他のよく聞く志望動機とは異なるが、尚人はそういうところも壱佳らしいと認めている。尤も、壱佳は託生に育てられた甲斐あって誰にでも優しく接することができる優秀な息子、という前提があるが。
「壱佳」
『ん?』
「託生の鈍さにイラッとくることないか?」
この問いは過去に託生に恋心を抱いていた時期に実際に尚人が感じた思いだ。初恋を拗らせた尚人はよくよく考えて託生に想いを打ち明ける決心をして、久しぶりに実家に帰った。
夜の8時になるというのに家の中には誰もいなかった。居間の座卓の上には母・琴子の乱れた筆跡で託生が階段から落ちて病院に運ばれた、と走り書きがあった。慌てて尚人が病院に駆け付けると託生の病室の前の廊下には小学校の校長や教頭・担任・養護教諭が立ち話をしていて、尚人は彼らから事件の概要を聞いた。幼馴染に傷付けられた託生の心を思うと、尚人の邪な想いを言葉にできなくなった。
尚人が病室に入ると、か弱い声で兄ちゃん、と託生が呼ぶ。託生は左腕にギプスを巻かれ、頭部にも包帯が巻かれた状態でベッドに横たわっていた。全身に大きな湿布や絆創膏も貼られている。痛々しい弟の姿を見て、自分の邪な想いは封印しなければならないと改めて思った。
「今、先生から話を聞いてきた。父さんと母さんは?」
「母さんは先生……、病院の、とお話してる。父さんはまだ」
座卓の上にあった置き手紙は仕事に出ている父・雅美に宛てた琴子の手紙だ。元々、高校で一人暮らしをしている尚人は今日、実家に帰ることを両親に話していなかった。今と違って携帯もなかった時代だ。
「ん?」
「ぼく、ドジだから自分で階段から足を踏み外したんだ。ズリって」
目撃者の女子が見たという幼馴染の片瀬健吾の話は託生からは出てこなかった。託生の話を信じたい気持ちは勿論あったが、教職員の話には信憑性があって表向き、尚人は託生の話を信じた振りをした。託生が幼馴染の彼を庇っているのは明らかだった。
『ん〜?ない……かな。歳上なのに庇護欲が湧くって言ったら絶対機嫌損ねるだろうけど、鈍いたぁくんって可愛いし、守ってあげたい』
「絶対言うなよ」
壱佳の気持ちを知っている尚人は、全面的に託生の恋を応援することはできない。義一を好きになり掛けている託生に、壱佳の気持ちも教えられない。同じ託生を好きな尚人になら壱佳が本音を吐けることもわかっている。
兄として……
父として……
僕はどちらの側につくべきなんだろう。
やって来た始発列車に乗り、ドアの脇に凭れて立つ。この列車は各駅停車なので時間短縮の為に途中で特急に乗り換える予定だ。最寄り駅から乗れたのは各駅だったが、かなり早い時間にマンションを辞したのでつくばのマンションに1度帰ってスーツに着替える余裕はある。急げば弁当を作る時間もあるが、朝から弁当だけを作るのは面倒だ。朝食と一緒に作れるから毎日弁当を持って行くのだ。
列車の中はガランとしていて、乗客は義一の他は5人しか乗っていない。皆サラリーマンでスマホを簡単に弄った後は腕組みをして眠りの態勢に入る。
発車ベルの音楽がホームに鳴り響く。すると改札口から走って来たらしい大学生と思われるカジュアルな服装の青年が息を切らしながら列車に駆け込んで来る。青年が列車に飛び乗ったタイミングでホームドアが閉まる。青年は義一の正面のドア脇の優先席に脚を大きく開きドカッと座ってスマホを弄りだす。これだけ空いていれば優先席に座っても白い眼で見る者はいないが、混んできたら立つのだろうか、と疑問に思う。
座り続けるなら優先席じゃないシートは空いているので席移動を勧めようとした時。ジャケットのポケットに入れていた携帯が震える。携帯を取り出して確認すると、小さな液晶画面には託生先生の文字が浮かび上がっていた。青年のことは後回しにして2つ折りの携帯を開き、メール画面を開く。
『列車、間に合った?』
昨夜、託生のマンションに行って、半ば強引に付き合う約束をさせてしまった。義一は満足したが、果たして託生はどうだっただろうと思うと気持ちが悄気てくる。壱佳の話を鵜呑みにすれば託生も義一を好きだとは思うが、きっと託生は怯えている。小学生だった託生を階段から突き落とした幼馴染と、託生と付き合っていながら他の男性とも付き合い、あまつさえ子供まで妊娠した元カノ。託生は言葉にしなかったが、今まで育ての親として一緒に暮らした壱佳が家を出たことも多少に拘らずショックを受けたと思われる。ただの育ての親ならば家を出て当然だと思うが、壱佳は託生が好きなのだ。
『車だったから余裕。朝早かったから先生はもう寝て』
送信ボタンを押して携帯を畳む。携帯をジャケットのポケットに収め、正面を見ると青年はまだスマホを弄っている。マナーモードにしていないらしく、スマホからポコ、ポコ、とLINEを受信した時の特徴的な音が鳴る。
託生もLINEをしているのだろうか。職場の同僚が彼女から送られてきたスタンプに一喜一憂しているのを微笑ましく見ていたが、託生と付き合えるようになって。しかも、これからは託生もメッセージを送ってくれる約束までして、文字では表現できない義一の心情を伝えたくなった。
今まで携帯に不満はなかったが今は違う。勿論、託生がLINEをやっていることが大前提だが、スマホに乗り換えたいと初めて思った。
義一が乗り替えるターミナル駅が近付くと、優先席に座っていた青年が立ち上がり、座席の目の前の吊り革に捕まる。ターミナル駅まで優先席に座る乗客は青年以外にいなかった。
ターミナル駅で特急に乗り替えた義一は再び携帯をポケットから取り出し、折り畳みを開く。メール画面を開き、裕明の秘書の島岡にメールする。内容は託生と会えたことと、交際を始めること。正式に託生と付き合う為には裕明と対面する必要があることは、昔島岡から言われた。それから、Fグループ内で開発されたスマホの購入だ。時差も考えず送信したにも拘らず島岡の返信は早く、
『良かったですね』と、『承知いたしました』という簡潔に纏められたものだった。
ターミナル駅でかなりの数の乗客が乗って来たのを境に、義一は携帯をポケットに仕舞い、腕を組んで立ったまま眠りに就く。
新宿駅で再び乗り替えるが、途中ホームの掲示板に貼られた花火大会のポスターに目が止まった。日付は来週の土曜日。早速託生とデートする機会がやってきた。
東京で花火大会と言うと隅田川が有名だが、託生の住む街からだと列車で2時間は掛かる。乗り物に弱い託生には辛い条件だと思った義一は、車で迎えに行こうと決める。最初だから託生が車に乗ってくれない可能性はあるが、義一のドライビングテクニックを経験すれば安心する。その時に託生の吐瀉物の掃除も熟せば印象は格段に良くなる。
早速託生にメールしようと三度携帯をポケットから出した義一だが、折り畳みを開きメール画面を表示させたところで指が止まってしまう。デートしませんか?と打ちたいのに打てない。デートと打って餓鬼だなぁ、と笑われるかと不安になる。
珍しく義一が考え込む度に携帯の液晶画面がブラックアウトする。幾度か明るくして文字を打ち込んだが、送信ボタンを押す段階になると付き合い始めた翌日にデートの誘いは図々しくないか?土曜日で義一は仕事がないが、ピアノ教室の講師をしている託生には仕事があるかもしれない。断られたらたとえ仕事が理由でも落ち込んでしまいそうだ。
結局、車内で託生をデートに誘うことができなかった義一は、携帯を折り畳みジャケットのポケットに仕舞って車窓から見える都会の景色を眺めながらつくばに向かった。
研究所での義一のユニフォームは白衣だ。スーツ姿で出勤した義一は、いつものようにロッカールームでスーツの上着をハンガーに掛け、ワイシャツの上から白衣を着る。同僚も義一と同じ格好だが唯一、ネクタイを締めたまま白衣を着る者と、ロッカールームで着替える時にネクタイも抜き取ってしまう者に分かれる。特に夏場はネクタイを締めていると暑苦しく感じるので、義一のような者は少数派だ。
午前中の仕事を終え、昼の休憩時間に義一が食堂でカレーうどんを啜っていると、同僚の坂本が目敏く義一を見付け、足早にやって来る。坂本のトレイの上には冷やし中華の皿が載っていた。
「この暑いのにカレーうどん?っていうか、今日は弁当は?」
「今日はコンビニです」
坂本は義一のプロジェクトチームのリーダーで、義一より2つ歳上だ。有能な者がトップに就くのはどの企業でも当たり前だが、今年度が始まってまだ4ヶ月しか経っていないので義一にはまだ実績がなく、歳も1番下なので時々パシリに使われる。下っ端の義一より坂本の休憩が遅いのは、プロジェクトチームリーダーの坂本には研究の他に雑用があるからだ。
「新しい恋人んとこ?」
託生との交換条件で色々な人と交際した義一だが、相手は女性に限らず男性の時もある。義一が月替わりで恋人を作るのは有名な話で、訳も皆知っている。受け取り方は三者三様だが、偽りの関係でも義一はパートナーに優しいので背後から刺される心配はない。
「新しい恋人ですが、遂に本命をゲットしました」
1ヶ月に満たなかったが託生の家に行く前にそれまで交際していた男性とも別れた。彼は本命にアタックするから期間満了ではないけれど別れてほしい、と言った義一に頑張れ、と葉っぱを掛けてくれた優しい人だった。
「おーっ!やったな。それでコンビニか」
「良かったらどうぞ」
カレーうどんのトレイの脇に置いてあるビニール袋を坂本に差し出す。
普段の義一の昼食は食堂のランチと、家で作って来る小さな弁当だ。大食漢なのは幼い頃から変わらず、出される食事だけで満足することはない。勤め始めたばかりの頃は所内のコンビニで買い足していたが、一人暮らしをして家事を始めていたので、弁当作りにチャレンジしてみたら思いの他上手くいった。食堂のランチがボリュームがある時は弁当を家に持ち帰り、夕食に加えられるので食費の節約にもなる。
ビニール袋からおにぎりを1つ取り出した坂本が自分のトレイの上に置く。
「本命は男?女?いくつ?」
「プライバシーに抵触するのでこれ以上は話せません」
「こんくらいで相手がわかる訳ないだろう?」
「万が一に備えて」
ふ〜ん、と了承した坂本はプラスチック製の箸で冷やし中華の麺をズルズル音を立てて食べ始める。昼休憩は1時間と短く無限ではないので義一もカレーうどんを啜る。
食事を黙々と進めていると義一の携帯がメールの着信を告げる。研究所ではマナーモードにしている携帯が義一のスラックスのポケットで震えている。ポケットから携帯を取り出し、小さな液晶画面で相手を確認する。
「イヤだイヤだ。ヤニ下がった顔まで男前なんて、輪を掛けてムカつくね」
メールの相手は託生で、液晶画面を見ただけで頬が緩んでいたのか、と坂本に言われて気が付く。
折り畳み式の携帯を開いてメール画面を開く。
『仕事間に合った?』
9時の出勤時間に送られてくるメールならわかるが、今は12時過ぎの昼の休憩時間だ。けれど、そんなちぐはぐなメールを送ってくる託生も可愛い。義一の仕事の心配をしてくれるところは大人だなぁ、と思う。けれど、メールの文面を見ても絵文字を使う要素はないが、折角両思いになれたのだから好きだよ、でも、愛してる、でも義一が飛び上がって喜びそうな台詞を言ってほしい。
「返信しないのか?」
素っ気ないメールの画面だけでフリーズしていた義一を訝しんだ坂本が聞く。
託生の仕事の空き時間を義一は把握していない。ピアノ教室の講師をしていると佐智に聞いたけれど、託生が受け持っている生徒のレベルはわからない。
坂本に言われて返信ボタンを押す。
『余裕。今、カレーうどん食ってる。先生は?』
『シャツに汁、飛んでない?』
カレーうどんを食べる時の心配は汁をワイシャツに飛ばすことだ。どんなに気を付けて食べていてもふと気付くと黄色いシミが点々とシャツに散っている。義一は食べ方が綺麗で滅多に服を汚したりしないが、思わずワイシャツを引っ張って汚れていないか確認してしまう。
「本命は歳上の女だったか」
ワイシャツの汚れの有無を確認している義一を見てあたりをつけた坂本が呟く。歳上なのは合っているものの、託生は男性で見当違いだけれど、万が一の為に誤解させておく。
「カレーのシミつけた旦那が帰って来て、奥さんがシミ見付けてガミガミ言うの。あれ、憧れるなぁ〜」
「どうしてですか?怒られているんですよね?」
「まだまだ愛される余地があるってことじゃん。そのうちシミつけて帰って来てもシミ抜きしてくれなくなって、自分でやる羽目になるんだぜ」
あ〜、納得。けれど、託生が見て見ぬ振りをするとか、想像もつかない。
『大丈夫だった』
『お腹減った』
減った、の後に初めて絵文字が現れる。この様子だとLINEでスタンプも使っているかもしれない。
『まだ食べてないのか?もう1時だぞ』
ビックリの絵文字を打った後で託生に注意した義一だが、自分ものんびりしていられない。
『ミーティングが押しちゃって。もう直ぐ生徒が来る時間だから今日は無理そう』
どこでもドアがあれば義一のおにぎりを託生に届けることができたのに……
『弁当って便利。食堂のランチの他に小さい弁当作って持ってってる。食堂で満足したら夕食代わりになるぞ』
託生に義一の生活をみせられるのは嬉しい。託生も今まで一切メッセージを送ってこなかったのに、今朝の義一の約束を守ってくれた。
『その手、いいね』
託生も手の絵文字を使ってメールを送ってくれたことに義一の気分が高揚する。その勢いのままに花火デートに誘う。
『来週の土曜日、花火大会があるんだけど、行かない?』
決して良い雰囲気を壊すつもりじゃなかった。けれど、うまくキャッチボールできていた託生のメッセージはそこで途絶えた。
「どうした?」
「早まったかもしれません」
「ん?」
「交際2日目でデートに誘ったんですけど、引かれました」
ぶふっ、と坂本が冷やし中華に噎せる。テーブルに細切れになった麺の切れ端が飛ぶ。
「大丈夫ですか?」
席から立ち上がってテーブルの隅に置いてある布巾を持って来て、汚れたテーブルを拭く。
「おまっ、流石にっ、ゲホっ」
トレイの上の水のコップを呷って、ゴホゴホと軽く咳払いをした坂本が真面目な顔で告げる。
「交際2日目でセックスは流石に急ぎ過ぎだろう。ギイが彼女さんだけを想い続けてきたのは知ってるけど、性急だ。引かれて当然」
色々誤解はあったが、坂本の誤解を解く時間はない。もう1時で午後の仕事が始まる。
「坂本先輩、絶対に口外しないと約束してくれますか?」
託生の個人情報は伏せた上で託生とうまくやっていくコツを伝授してもらおう、と決めた。
仕事から帰って来た託生はスマホばかり見ていて夕食を食べない。壱佳が小学校高学年になり、学校で調理実習の授業を受けるようになってからは交代で食事を作っている。どうせ義一からのメールを見ていると見当を付けた壱佳は黙って夕食を食べていた。
スマホのメールを見ていた託生が、
「ねえねえ」と壱佳を呼ぶ。
この呼び方が可愛くて堪らない。
食事はまだ残っていたが、託生の話を聞く為に食事を中断させてソファに座る託生の隣に行く。
「何?」
「花火見に行こうって。来週の土曜日、空いてる?」
急遽、ルームシェアを解消し、現在バイトを辞める方向で社長と交渉中の壱佳が行くところと言えば高校とスタジオしかない。その高校も今は夏休みだし、今朝託生に言った通り今日の仕事は終わった。
壱佳に言い寄ってくる女性は皆下心ありまくりだが、壱佳には託生の教えが染み付いているので、少なくとも未成年のうちはふしだらなことはしないと決めている。託生の教えは壱佳の父の尚人から引き継ぎ、尚人は壱佳の祖父母から引き継いだ葉山家の教えだ。大好きな託生が守った約束は壱佳も守りたい。
「スケジュール見なきゃわからないけど……、義一くんじゃないの?」
「義一くんだよ」
それってデートのお誘いじゃん。僕は完全にお邪魔虫だろっ!
「デートに僕がついて行ったら、流石に義一くんも気を悪くするよ」
たとえば、壱佳が託生を誘ってスーパーに買い物に行ったとしても、出先で義一や章三に会えばたちどころに気分を悪くして買い物そっちのけで1人で帰ってしまうかもしれない。
「デートじゃないよ。ほら」
託生がスマホの画面を壱佳に見せる。確かにデートの文字は入っていなかったが、義一と託生が付き合うことになったのだからデートだ。
「デートじゃん」
「だって、どこにもデートって書いてないよ」
もしかして、託生はデートと注釈を入れないとデートとカウントしないのだろうか。
「例の最悪な彼女とデートしたんだろ?デートじゃない時との違いってあった?」
託生がゆかりに振られた話は、壱佳が葉山家の教えを聞いた時に、こういうこともある、と託生の体験談として聞いた。ゆかりを悪く言いたくないが、託生から話を聞いた時は殺意が芽生えた。自分は託生と親族関係にあるので結婚は出来ない。託生が倫理観のない駄目な男だったら壱佳と恋人同士になれたかもしれないが、そもそも駄目な男に託生がなるはずがない。
「うーん。たとえば〜、ゆかりのものを買いに行く時はデートだったね」
この分だと最悪を超えるゆかりの一面が見られるかもしれない。
「支払いは?」
「デートだもん。ぼくがもつよ」
「たぁくんの買い物の時は?」
「買い物に行こうって文面で支払いもぼく。その代わりゆかりが見繕ってくれた」
「橘さんは一銭も出さないの?」
「たまーに高いお店とか入ったら、今日は割り勘にしようとかあったよ」
「たぁくんの誕生日プレゼントは?」
「ぼくのものだから、支払いもぼく」
「橘さんの誕生日は?」
「ぼくが払ったよ」
ゆかりも信じられないけれど、完全に財布扱いされている託生もおかしい。
「そんなの彼女じゃないよ。ただの財布だ」
「だよね。兄さんにゆかりとのこと、洗いざらい打ち明けた時は苦笑してた。何しろ最初で最後の彼女だったから、わからないことだらけで」
「よくお金が足りたね」
葉山家は普通の家庭だ。壱佳の祖父はサラリーマンだったのでそれなりに収入はあった。祖母は専業主婦で、祖父の収入を頼りに生活を支えていた。尚人が祖父以上に出世したので壱佳は贅沢な暮らしをさせてもらっているが、お小遣いは同級生と比べると少額だった。久しぶりに日本に帰って来た尚人に文句を言ったこともあるが、家とか欲しくなった時に買ってやるから、今は我慢しろ、と言われた。実際、尚人は託生が住むマンションを2回も購入しているし、壱佳が都心でルームシェアを始めると聞いて壱佳の支払い分を払ってくれた。
「足りる訳ないだろ?」
「あの女に歌舞伎町で働け、とか言われた?」
もし、託生が歌舞伎町でホストのバイトをしていたら、もし、託生と年齢が近かったら壱佳は毎晩のように通って散財していたかもしれない。抑も、ホストの託生が想像つかないが、きっと下っ端でNO.1のホストに目を掛けられる程可愛くて人気者だったかもしれない。
「違いはよくわからないけど、2丁目は言われた」
最低なゲス女だ。確かに2丁目でも壱佳は通う気満々だが、ホストということは託生が壱佳以外の相手をすることもあるということだ。
「やってないよね?」
「当たり前だろ?蓄えはあったから貯金崩しながら。短大では必死にノート取って売ったり、コンビニのバイトもした。それでも足りない時は兄さんに泣きついた」
「章三先生は何も言わなかったんだ。っていうか、父さんが出してくれたの?」
意外だ。生活に必要なものはポンポン買ってくれる尚人だが、デート資金が足りなくなったという理由では絶対にお金を出さない。
「章三は薄々気付いてたと思うよ。何しろノート売ってたからね。でも、何も言わなかった」
章三も最低じゃん。今まで章三に懐いてきた自分が恥ずかしい。
「お金はゆかりと別れるのが条件だった。でも、ぼくは納得できなくてバイトを増やした」
章三は頑固な託生を知っていたから敢えて何も言わなかったのかもしれない。ゆかりの件があって託生は金にシビアになったようなので、結果オーライかもしれない。
「じゃあ、父さんは出してないんだ」
「そういうこともあって、静岡に帰省した時、ゆかりがドタキャンして怒り心頭だったんだ」
「たぁくん、馬鹿だよ」
確かに男はデート資金のためにバイトをするのが普通だけれど、託生には見返りが何もない。よくそんな彼女と2年ももったものだと、そちらの方を感心する。
「たぁくん。義一くんとのデートではフィフティフィフティ。歳上だから奢らなきゃいけないとか思わないでね」
「壱佳は行かないの?」
ここまで話をして内容が元に戻ってしまった。
「義一くんはデートって書こうか迷ったと思うよ。最悪、僕がいてもいいと思ったかもしれない」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「だから、っ」
ここまで話をして、漸く託生が抱く不安に気付いた壱佳は間抜けだ。花火大会の会場はここから電車で2時間は掛かる隅田川の河川敷。義一が車で迎えに来ても、途中で乗り捨てなければならない。
「壱佳と義一くんなら同い年だし会話が弾むと思う。でも、ぼくは義一くんより15も歳上のおじさんだ」
膝の上に置いた託生の手が震えている。ここで壱佳が一緒に行くと言えば託生は安心するだろうが、もしかしたら託生は壱佳とばかり話をするかもしれない。ここは心を鬼にして決然としなければ。
「僕は行かない。土産話、楽しみにしてる」
ソファから立ち上がり、リビングに戻って食べ掛けの夕食を食べ始める。
「悪いけど食器、お願いできる?」
食器だけシンクに下げて車の鍵とスマホと財布をズボンに突っ込んで出掛ける支度をする。
「いいけど、瀬尾さんのところ?」
「そろそろ仕事終わる頃だし、今までお世話になったお礼をしないと。向こうに教科書も置いてるから取りに行って来る」
「わかった」
託生も立ち上がり、財布から1万円札を数枚抜き取り、壱佳に手渡す。
「今までお世話になったお礼。お金だと引かれるかもしれないから、何か瀬尾さんが好きなもの買って行きな」
確かに歳下の壱佳が託生より3つ歳上の隆徳に現金を渡そうとしても受け取ってもらえない可能性の方が高い。こういう時の託生の気配りは見習いたい。
「ありがとう。今日中に帰れないかもしれないから戸締りよろしく。たぁくんもそろそろごはん食べて。昼抜きなんだろ?」
「なんで知ってるの?」
「さあ、なんででしょう?」
今朝、義一と連絡先の交換をした。5時過ぎに託生がLINEをやっているか、メールで聞かれたが、まだ託生は仕事から帰って来ていなかった。ついでだから義一と友達になっておこうと、壱佳のLINE IDをメールで教えたところ、義一はまだガラケーで今日のところはまだスマホは手元にないとのことだった。そのメールで託生が昼抜きなことを教えてもらい、今日の夕食はカロリー多め。それでいて胃に優しいものを作っていた。
デートの返事は夕方過ぎにきた。あまりにも間があったのでてっきり断られるかと思ったが、託生は楽しみにしてる、と書いてきた。即答できなかったのは仕事の都合と、遠出すると必ず託生について回る乗り物酔いの所為もあると思う。けれど、早いうちに義一が託生の全てを愛していると託生にわからせる為にもいずれは通る道だ。今回はたまたま交際2日目の誘いだっただけだ。強気になれっ!
物怖じしない青年に育った義一だが、託生にだけは裏の感情を読もうとしてしまう。15も歳上の恋人をゲットした義一だが、どこかに大人に甘える気持ちがあるのかもしれない。両親に甘える時期は早々に卒業した義一だが、託生には甘えたい。
託生から了承の返事をもらい、その勢いのまま駐車場まで行く、と送った。この返事には12時間以上返信に時間が掛かり義一が確認したのは朝だったが、壱佳に説得されたのか義一にはわからないが、なんとかOKの返事をもらった。
そして土曜日。待ち合わせ時間の15分前に託生のマンションの駐車場に着いた義一は運転席を降りて動きが止まった。目の前には浴衣姿の託生が立っている。左手の手首には浴衣と共布の巾着の紐が掛かっている。
「可愛い」
敢えて足元に置いてある物を無視して託生を見た感想を呟く。
「先生、可愛いよ」
今度は託生にも聞こえるように少し声量を出すと、託生は恥ずかしそうに俯き、託生の隣に立っていた壱佳が、
「ほら、言った通りじゃん」
モデルの壱佳の目から見ても託生は可愛らしく映るらしい。託生を好きなのだから当然の結果だが。
「ゴミ箱?」
託生の足元にあるのはどう見てもゴミ箱にしか映らない。道路に出されている大型の青いポリバケツのようなゴミ箱ではないが、壱佳の車にも乗っていた部屋で使用する小振りなものだ。義一が託生の方に近寄ると、ゴミ箱の中に新聞紙とゴミスプレー缶が3本入っていた。その他は手製のエチケット袋。ゴミ箱とエチケット袋の用途はわかるが、スプレー缶は謎だ。
「これ何?」
ゴミ箱の中のスプレー缶を手に取って見ると、消臭スプレーと書いてあった。乗り物酔いで余程のことがあったからわかる配慮だ。
義一は託生の肩を掴み、胸元にグッと引き寄せる。
「ア〜〜〜っ!」
壱佳の叫びにも負けない。
「たぁくんっ!」
壱佳が託生を抱き締め、義一の腕から隔離させようとする。
「どうしたの?」
託生が首だけ振り返り壱佳に聞く。託生と義一は付き合っているのだからこのくらいはして当然だ。キスも、セックスもしていないのだから、文句を言われることはない。
「な、なんでもない」
どうやら壱佳も義一と同じで託生に弱いらしい。
「じゃあ、行って来るね」
託生が手を振って壱佳と義一から離れる。
「義一くん」
託生と距離を置いた感じから壱佳の言いたいことはわかる。壱佳を無視すると託生の印象が悪くなるので壱佳に歩み寄ると、ガッと乱暴に肩を掴まれ、気安い相手にするように肩をバシバシ叩かれる。
「たぁくんの嫌がることすんなよ」
初めて聞く壱佳の低音ヴォイス。鼓膜に触れると壱佳の本気度が伝わってきて、背筋の産毛がブワッ、と逆立ち怖気が走った。
「当然だ」
ゴミ箱を持った義一は託生と連れ立って車の方に歩いて行く。助手席に託生をエスコートして、足元にゴミ箱を置き、義一は運転席に回り込む。
ゴミ箱は必要ないと言えればいいが、いくらドライビングテクニックには自信があると言っても託生が義一の車に乗るのは初めてだし、ゴミ箱があるだけで落ち着くこともある。また、義一のドライビングテクニックをもってしても託生が車に酔う可能性もあり、義一は何も言わなかった。
「これってポルシェ?」
義一の車はシルバーメタリックの2人乗り仕様だ。4月に来日した際に購入した車で、出勤時に使用している。他に同僚が使ったり、交際相手を助手席に乗せたこともある。
「フェラーリ」
義一が答えると、また託生は恥ずかしそうに俯く。
「ごめん。殆ど車に乗らないからどれも同じように見えるみたい」
「でも、ポルシェは知ってた」
「昭和の歌謡曲で歌詞の中にポルシェってあって。義一くんは平成生まれだから知らないかも」
今度ネットで調べておこうと思う。
義一がエンジンをかけ、車体に軽い衝撃があると慌てたように託生がゴミ箱からエチケット袋とスプレー缶を取り出し、膝の上に置く。
「消臭スプレーはまだ要らないだろ」
「うん。でも……」
託生の視線が左右に行き来し、置き場所を探しているのがわかる。義一がスプレー缶を片手で掴み、ダッシュボードを開けて中に入れ、複数あるエチケット袋はダッシュボードの上に置く。
「ありがとう」
殆ど車に乗らない託生がパワーウィンドウを下げるのは難しいと思い、気分悪くなったら言って、と伝える。それに託生は緊張した面持ちで軽く頷き、義一はアクセルを踏み込み駐車場を後にした。サイドミラーには大事な我が子を旅に出す時のような心配そうな顔をした壱佳が映っていた。
「大丈夫か?」
エンジンを止めた義一がハンカチをジーパンの後ろポケットから取り出して託生の顳顬を流れる汗を拭う。身も凍るような思いをしたというのに汗が出る人間の身体は不思議だ。汗を拭った義一はいつ買って来たのか、託生に冷たいポカリスウェットのペットボトルのキャップを外して渡す。震える手でペットボトルを受け取り、少量を口に含んだ後飲み込む。僅かな量だったが、ようやっと人心地ついた託生は大きく息を吐き出す。
「なんか、色々言いたいことはあるんだけど」
「何?なんでも聞く」
「やっぱり、1番大きいのは、生まれて初めて酔わなかったってことかな。凄く嬉しい」
「本当に?でも先生、汗が凄い」
「そりゃ」
僅かでも喋ると喉の渇きを感じ、ペットボトルに口をつけ、今度はゴクゴクと半分くらい飲む。
「今まで高速に乗ったことがない訳じゃなかったんだけど、車に乗ってる時って生きるか死ぬかって状態だから。ジェットコースターに乗ってれば速度とか慣れたかもだけど」
「ジェットコースターも駄目?」
「多分。もう、乗り物に乗ったら必ず酔ってたから」
両親も0歳児が乗り物に酔うと思っていなかった。家の車に始まり、隣町に行く列車にも酔うし、幼稚園児が公園で遊ぶブランコでも酔う託生を前にして、この子は乗り物全般に酔うのだろうと両親も兄の尚人も思い、託生がジェットコースターに乗ることを禁じた。遊園地で他の客が叫び声を上げているのを見て、怖いなら列に並ばなければいいのに、と思ったが、ジェットコースターの出口から出て来る客は皆楽しそうで自分も乗ってみたいと思ったのも確かだ。けれど、吐く辛さを思い出すと両親や尚人に反発してまで乗りたいと言えなかった。
そう考えると今日、一歩を踏み出して良かった。義一から花火大会には車で行く旨のメールが来て、やっぱ無理と返信を打ちそうになった託生を止めたのは壱佳だ。壱佳の車に乗らない託生を、敢えて義一の車に乗せようと思った訳はわからないが、義一が託生を好きなように、託生も義一を好きだと感じ取っていたからだと思う。
「高速ではある程度スピード出さないと後続車に追突されることもあるから」
昔、保育園の先生方が柔らかそうな淡い琥珀色の髪の毛をひよこ頭と名打って撫でたがっていたのを思い出し、今日は整髪剤で整えられていない義一の髪の毛に手を伸ばし、動物の毛を撫でるように優しく梳く。
「うん。壱佳が免許取る時に少し教えてもらったから知ってる。高速が速いのは当たり前。だったらぼくが慣れるしかないだろ?」
「またオレの車に乗ってくれる?」
「今のところ、兄さんと義一くんの車以外に乗れません」
章三の車は完全にアウトだった。誰かの話で酔いやすい車とそうでない車の総評を聞いたことがある。総じて高級車の方が酔い難いと聞いたが、今日、義一の車に酔わなかったのはフェラーリだから、という理由もあると思う。他には運転手の技術次第で、今まで車酔いのなかった人でも車酔いを経験する羽目に陥る。壱佳の車は国産車だけれど、価格は並だと思う。尚人が買った車なら高額だが、壱佳はバイトをして給料を車に注ぎ込んだ。これでは高額な車は買えない。壱佳の車に乗って託生が酔ったら、壱佳の車も腕も未熟だと言っているようで、託生はどんなに乗車を勧められても断固拒否していた。
「良かった」
義一と話をしている間に冷や汗も引き、改めて周囲を見渡す。隅田川の河川敷で花火大会が催されるが、交通規制が布かれているので車で河川敷まで行けない。車が停車していたのはどこかの駐車場だった。
「ここ、どこ?」
「うちの傘下の企業の地下駐車場」
「ここから河川敷まで歩くんだ」
「ブッブー」
てっきり会場周辺の駐車場がいっぱいだから仕方なく裕明の会社の関連会社の駐車場に停めたと思ったが違うようだ。
「会場はこの天辺」
「会社の屋上?」
「ピンポーン」
研究所の所員の義一が裕明の会社に入れるのは息子だからだ。
「取り敢えず行こ」
義一が車を降りたのに続き、託生も助手席から降りる。キーレスキーで車に施錠した義一がタタタッ、と託生に駆け寄り手を繋いでくる。
「甘ったれだね」
「そのために島岡に頼んだんだ。河川敷に行っちゃうと恥ずかしがりやな先生はオレとイチャイチャしてくれないだろ」
「男同士だからね」
「ここなら周りがカップルだらけだから、先生に色目を使う人もいないと思う」
「だからってイチャイチャしないぞ。こういう感覚、久しぶり過ぎて緊張する」
義一が前を進み、手を繋がれた託生が後に続く。
「エレベーターは大丈夫?」
「体調が良い時は。慣れたんだと思う」
「じゃあ、直通で」
「えっ?いいよ、普通ので」
……と言っても目の前で吐かれるのは義一も嫌だと思う。
「やっぱり直通でいい?」
託生が義一に聞くと、何故か義一は空いている方の手で顔を隠す。義一は壱佳とほぼ同じ身長だが、掌は義一の方が大きい。
「どうしたの?」
「今、最高にふにゃけた顔してる自信がある」
「ぼくもだよ。車に酔わなくて、少なくとも今日は義一くんに振られることはない」
地下駐車場のエレベーター前で▲のボタンを押して待つ。
「こんな言い方するのは嫌だけど、先生の乗り物酔いを逆手に取られたんじゃないかな」
「ゆかりのこと?他に気に入らなかったことといえばキスとエッチかな」
肉体的な繋がりを拒んだ託生に内緒で他の男性と関係をもって、妊娠までした。もしかして、ゆかりは愛の結晶がほしかったのかもしれない。
「ゆかりさんは二十歳まで待てなかった。高齢の女性だとそういう話はよく聞くけど、19歳のゆかりさんに何があったんだろうな」
「でも、ゆかりとうまくいかないと思う」
「なんで?」
「ぼくは彼女の財布だったから」
義一はエレベーターの上方にあるランプの行方を見ている。金の話が出ると憂鬱になる。
「兄さんはゆかりのそういうとこも知ってたから、たとえゆかりが二十歳まで待てたとしても結婚には反対されたと思う」
漸く降りて来たエレベーターに乗り込み、義一が屋上のボタンを押す。
「壱佳に何か言われた?」
「お金のこと。歳上だからってデート代全部持とうなんて思わないで。フィフティフィフティだっ、へクションっ、って」
冷や汗をかいて身体が冷えたのかくしゃみが出た。すると義一はエレベーターのパネルを操作し、屋上行きをキャンセルして途中階のボタンを押す。
「やっぱりシャワー浴びてからにしよう。直通エレベーターでも途中階で停まるんだ。偉い人がジムで汗を流して眠気を覚ます、みたいな」
「ジム?」
「シャワールームが併設されてる。浴衣は洗えないけど、身体を温めるだけで風邪はひかないと思う」
「ありがとう」
社員でもない義一がこの会社のことを熟知しているのは、将来義一もこの会社で働くかもしれないから予備知識として知っているからだと思う。後は、傲慢だと思われるかもしれないが、義一が託生とのデートを楽しみにして下調べをしていたのか。
「デートだけど、誘ったのはオレだから、オレが全額もつよ」
ここにゆかりがいたら託生なんか目もくれずに義一に乗り換えると思う。託生は義一より歳上で、収入は義一の方があるかもしれないが、託生も男で義一に甘えられない。
「この関係を続けるためにもフィフティフィフティが良いと思う」
「けど、ここの会費、めっちゃ高いぜ」
隅田川の桟敷席の値段をネットで調べて持って来たが、桟敷席より高いと託生に払える金はない。
「い、いくら?」
恐る恐る託生が聞くと、義一は託生の耳元に唇を寄せ、コソコソっと花火大会の代金を告げる。あまりの衝撃的金額を聞いて左手の手首からスルリ、と巾着の紐が抜け落ちる。咄嗟に義一が受け止めてくれたから中身をぶちまけずに済んだが、この金額は良心的ではない。
「じゃあ、こうしないか?新しく口座を作って、毎月同じ額だけデート資金を貯金する。オレも毎回こんな額払えないから今回は特別。次からはデート資金で遣り繰りする」
確かにそれだと壱佳の言うフィフティフィフティになる。
「じゃあ、今回のお金は?」
「先生はどうしてもフィフティフィフティにしたいんだ」
「気になる」
「じゃあ、先生の体で払ってもらおうかなぁ〜」
その時、ポーンと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。目の前に広がったのはマシンやヨガスタジオが見渡せる広いフロアだった。
シャワーを浴び、再びエレベーターで屋上を目指す。何を話していいのか、お互い黙ったままエレベーターに乗っていると、ドン、と地響きが鳴りエレベーターがカタカタ揺れる。
「今の何?」
義一は落ち着いたもので左腕の腕時計を覗き込み、
「始まったみたい」
「これ、花火?」
託生も壱佳と地元の花火大会に行くが、規模は小さい。手持ちの花火が出来ない託生に合わさせてしまっているが、壱佳はいつも楽しそうにしていた。
「ごめん。シャワーなんか借りちゃったから」
「いいんだ。先生に風邪ひかせたら、オレが壱佳に殺される」
「壱佳はそんな恐ろしいこと、しないよ」
誇張にしても義一は壱佳をどう評価しているのか、謎だ。
屋上でエレベーターの扉が開き、義一について歩き出す。エレベーターホールの前はカップルの列が出来ていて、どうやら遅刻は義一と託生だけではないようだ。
列に並んで辺りを見回してわかったことがある。この会場にいるカップルは皆同性とカップルになっていて、男女のカップルは1組もない。
「これが会費が馬鹿高い訳。皆役職のある人たちばっかで、パートナーとイチャつけないから自分でパーティーを開いたんだ」
「へえ」
義一と託生が受付のテーブルで氏名と住所をノートに記載する。芳名帳がノートってところが今時の若者らしく感じる。
受付を通過すると一面、出店が並んでいて、綿飴の甘い匂いや烏賊焼きの醤油の匂いが混ざってお祭りに来たことを実感させる。
「取り敢えず席を見付けよう」
義一は再び託生の手を握り、受付で受け取ったチケットと照らし合わせながらパラソルの元にあるテーブルの上のメモを見て回る。
「端っこだな」
漸く見付けた義一と託生のパラソルは屋上の隅に位置していた。河川敷で見る花火もオツだが、客同士の頭が邪魔に思ったりイライラすることもあるけれど、ここは遮る物が何もない。
「ここの方が良い」
真ん中の方のパラソルだと両サイドのカップルのイチャイチャが気になって花火どころの話ではなくなる。義一は端の席で残念そうだったが、託生は端で良かったと思った。
「確かに。周りから見られまくりだな」
「義一くんはあっちが良かった?」
「い〜や、多分島岡は調べてたな。オレ、飯貰って来るけど、先生はどうする?」
パラソルの下のリクライニングチェアに座って待とうか、義一と一緒に屋台を冷やかしに行くか考えて義一と一緒に行くことにした。いくら相手は自分のパートナーしか見えていないと言っても初めて同性のイチャイチャを目にするので、できることなら義一に側を離れてほしくなかった。
「行く。けど、貴重品は?」
「それなら大丈夫。ガードがいて、他所の席でウロチョロしてる奴を取り締まってる」
やはり義一は今日のデートを楽しみにして、色々下調べしていたらしい。
義一は肩に掛けていたジャケットをリクライニングチェアに引っ掛け、託生の手を取って歩き出す。
「先生、今でも甘いもん駄目なのか?」
「壱佳で耐性はできたんだけど、自分からは」
大きな林檎飴の屋台を見付けて帰りに壱佳に買って帰ろう、と決める。
「林檎飴、好き?」
「壱佳にお土産買おうと思って」
託生の視線に目敏く気付いた義一が聞く。
「リザーブしといた方がいいかも」
確かに客は大勢いるので売り切れる可能性もある。それならば先に買っておこう、と屋台の前に行く。林檎飴は3種類のサイズがあり、託生は1番大きい林檎飴を選んだ。巾着から財布を出し、代金を支払おうとするが義一に止められる。
「会費に含まれてるから」
「じゃあ、義一くん持ち?悪いよ」
「さっきは冗談で体で〜なんて言ったけど、ゆくゆくは先生とスるんだし、安いもんじゃない?」
セックスをしたことのない託生には初めての重みが今一実感できないが、人それぞれ考え方は違うが今まで大切にしてきたものを差し出す時は勇気を必要とする。セックスに慣れている人なら感じることの少ない感覚だ。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
店主から林檎飴を受け取り、空いた方の手を再び義一が繋ぐ。一時も離れたくない心情が現れる義一を見て託生はクスクス笑う。
「何?」
「保育園でもよく手を握ってたなぁ、って思って」
義一の本気度は今は託生にも届いている。届いてはいるが、乗り物酔いの現場で嫌な思いをするとか、キスやセックスに対する考え方を歳下の義一が理解することが難しいこともわかっている。
「だって先生が大好きだから。焼きそば食べる?」
焼きそばは好きだが、今日は控えた方がいい。行きは運良く車に酔わなかったが、帰りもそうとは限らない。
「車だから止めとく。カキ氷だったら大丈夫かも」
元は水なので胃袋で消化されなくても吐いた時の残骸は酷いものではない筈だ。
「何にする?」
「ん〜、レモン。義一くんは焼きそば食べていいからね」
2人で屋台を冷やかし、テーブルの上に戦利品を並べる。義一は焼きそばのパックを開けると、腹が空いていたのか凄い勢いで食べ始める。託生はカキ氷を食べながら夜空に打ち上がった花火を見ていた。
焼きそばを平らげた義一が託生の方に身体を向けて聞く。その顔は花火大会に来ているというのに深刻そうだ。
「なんで壱佳の車に乗らないんだ?」
「やっぱり気にしてるよね」
壱佳には買い物の時に車を出してもらっているが、託生が車に乗ることはない。あくまでも荷物持ちだ。
「章三だったら……、あっ、章三先生って覚えてる?」
「オレの記憶量、半端ないんだぞ」
「その歳で仕事してるもんね」
18歳で社会人の義一は恐らく既に大学を卒業している。昔から時間さえあれば勉強していたのは、将来Fグループのトップに立つ為だ。
「失礼な話、章三だったら酔ってもごめんで済む間柄だし、章三の車には酔うって向こうも知ってるから気楽なんだけど……」
「壱佳だってごめんで済むだろ?」
確かに、託生と壱佳は叔父と甥という関係以上に仲が良い。壱佳の車に酔っても壱佳は嫌な顔をしないで介抱してくれると思う。
「壱佳の車に乗って酔ったら……。車って運転のスキルによっても、車の性能によってもそういうの左右されるって聞いたんだけど」
「後、路面の具合にもよるな」
カキ氷を人匙掬って口の中に入れる。真夏に外で食べるカキ氷は美味しい。
「壱佳の車は国産だけど、瀬尾さん。お兄さんの方だけど、買う時一緒に見てくれてるんだ。瀬尾さんも車には詳しい方で、きっとちゃんとしたのを選んでくれたと思う。それなのに酔ったら壱佳の腕が悪いって証明することになっちゃうだろ?」
「でも、1度も乗ってないんだろ。運転の良し悪しはわからないじゃん。壱佳は先生の為に免許を取って車まで買ったんだ。先生が不安なのはわかるけど、壱佳運転上手かったよ」
託生が生まれて初めて車に酔わなかった運転をしていた義一が言うのだから託生が恐れることはないのかもしれない。
「もし酔ったらオレが壱佳を特訓する。だから、1度も乗らずに壱佳の車を忌避しないでほしい」
義一の言うことは尤もだ。
「そうだね。壱佳に謝って、これからは乗せてもらう」
抑も、ポジティブな壱佳が、託生が車に酔ったくらいで傷付くと考えるのは壱佳が子供だと証明することになる。昔から壱佳は託生の側にいたがったが、大きくなりモデルのバイトの影響で歳上の人たちともうまくやっている。寧ろ、託生の方が壱佳に助けられてばかりで面目ない。
デートには不似合いな内容の話だけれど、壱佳の車の話が出たのでもう少し真面目な話を続ける。手にしていたカキ氷のカップをテーブルの上に置いて、巾着からハンカチを取り出して水滴で濡れた掌を拭く。
「交際の話なんだけど……」
「別れるなんてなしだぞ」
「違っ、そうじゃなくて……」
交際してまだ1週間も経っていない。託生は義一に甘えられないが、義一に好きと言えない託生は確かに義一を好きだ。
「今日は大丈夫だったけど、ぼくは必ずと言っていい程乗り物に酔う」
「らしいな」
「その上、結構重い喘息もある」
「それは知ってる」
「義一くんのご両親に挨拶しにアメリカに行かなきゃいけないのに、この身体では行けない」
確かに義一が好きで、義一のご両親に挨拶に行くことはやぶさかでない。義一が好きなら自分の身体より、義一を優先させるのが必要だとも思う。けれど、託生には義一と同じくらい大切な尚人と壱佳がいる。無理を押してアメリカに行った託生が病院に運ばれる、なんて事態は避けたい。
「なんだ。安心した」
「なんで?ご両親と挨拶するまでは付き合ってるって言えない。それって永久に義一くんと付き合えないって言ってるようなものだよ」
託生の考え方が古いのだろうか。けれど、尚人もかなえと付き合っていても、両家の両親と対面するまでは対外的には親しい友人だった。
「先生好きって言ってくれないから、ちょっと不安だった。でも、先生も親父のことを考えてくれて嬉しい」
義一の本気度は痛感した託生だが、今でも好きの言葉は言えない。15も歳の離れた託生と義一では考え方が違う。今のところは義一が折れる形を取ってくれているが、こんな関係が続くと思えない。
「ずっと前。まだ先生に告白する前。島岡から先生と付き合うには親父と対面してからじゃなきゃならないって聞かされてたから、この間島岡に頼んどいた」
「この間って、うちに来た時?お父さん、日本に来てくれるの?」
託生がアメリカに行けないのなら、裕明が来日するしか義一との交際を認めてもらう方法はない。
「仕事の合間になるだろうけど、尚人さんも一緒だ」
「頼りっぱなしでごめん。でも、良かった」
もう、尚人も知っているかもしれないが、家に帰ったら託生もアメリカの尚人に電話を入れようと思う。
焼きそばのパックをビニール袋に片付けた義一は続けて蛸焼きのパックを開ける。大振りの蛸焼きを口に入れた義一がニコニコ笑顔で聞く。
「先生、LINEしてるよね?」
「本当によく知ってるなぁ。壱佳から?」
突拍子もない義一の問いに託生は苦笑しながらスマホを巾着から取り出す。
「バレたか」
「LINEやってる人って多いし、お得だから」
メールでメッセージの遣り取りをすると僅かだが料金が掛かる。アメリカの尚人に国際電話を掛けることもあるので出来ることから節約している託生だ。
「オレもスマホにした」
「今まで携帯だったんだ。仕事で持たされたとか?」
携帯やスマホが市場に出回り始め、今では会社用の携帯やスマホを持たせる会社が増えている。義一が今までどちらを使っていたか託生は知らなかったが今日明らかになった。
「研究所は関係ない。っていっても動機にはなるか。同僚が彼女とのメッセージとか、スタンプ?あれを自慢してくるんだ。可愛いだろ〜って。下らないメッセージでも恋人と遣り取りしてるのが羨ましくなっちゃって」
「いいよ、友達になろ?」
義一がLINEをしているのならメッセージの遣り取りをメールからLINEにすれば、僅かだが託生のスマホ使用料が安くなる。
互いにスマホを振り合っていると、ポコ、ポコ、とLINE特有の着信音が鳴る。液晶画面で義一が友達になったのを確認しようと画面を見ると、壱佳から凄い数のメッセージが送られて来ているのに気付く。内容は大丈夫?とか託生を心配している動物のスタンプだったりしたが、壱佳には本当に迷惑を掛けている。それに返信していると、新しくメッセージが届くポコ、という音が鳴る。
「珍しい」
「何?」
「さっきも出た章三先生。すっかり会わなくなったんだけど、話がある、だって」
直ぐに、
『ぼくも話がある』と返信して夜空の花火を見上げる。
義一と再会したことは伝えるが、恋人同士になったことまで伝えていいものか悩む。章三とは短大で知り合ってから色々世話になって話もしてきたが、不思議と恋バナはなかった。ゆかりを知っている章三が遠慮していたとも考えられるが、もう10年以上昔の話だ。だから、託生と義一が付き合ったと知った章三がどんな反応をするのか、知るのが怖かった。
胸のドキドキが止まらない。ちょっと種類は違うけれど、毎年7月29日に届く薔薇の花束を待つ時に似ている。薔薇の花束は彼が持って来る訳ではないことはわかっているのに、何故かいつも緊張していた。
「いっ、壱佳っ」
義一とデートした帰り。壱佳は託生が帰って来たことに気付いてキッチンに立つ。着ていった浴衣姿のまま、託生は壱佳に声を掛けた。
「デート楽しかった?」
「あっ、うん」
託生は壱佳に酷いことを続けていて、壱佳に嫌われてもおかしくないのに、壱佳はいつも笑顔で託生に接してくれる。あまりにも壱佳が通常運転なのに託生ばかり勢い込んでいるのが変で、軽く深呼吸する。
楽しかったというより、嬉しい1日だった。
「お土産」
左手に提げていた巾着を探って林檎飴の袋を取り出す。
「懐かしい。暫く食べてなかったなぁ〜、ありがと」
キッチンからソファに移動し座った壱佳が林檎飴の袋を開け、自分のスマホを託生に持たせる。写真撮って、の合図だ。
壱佳はモデルのバイトをしているので、TwitterやInstagramなどのSNSに写真を多く投稿している。フォロワーも託生と違い桁が凄い。
林檎飴を齧る壱佳を数枚写真に収めてスマホを壱佳に返す。林檎飴を食べながら写真を確認して、
「ありがと。たぁくんも上達したね」と笑いながら言う。
託生も壱佳の隣に座り、
「被写体が良いからだよ」と答える。
「食べたい?」
「ううん、違くて」
「顔色良いね。もしかして酔わなかった?」
「うん。行きも帰りも。生まれて初めてだから凄く嬉しい」
林檎飴を袋の上に置き、壱佳が託生の首筋に鼻先を付け、犬のようにクンクン臭いを嗅ぐ。隣に座ったので託生の体臭が気になったのかもしれない。
「臭い?」
まだ夏真っ盛りで、夜になっても熱帯夜の日が続いている。往復車で車内は冷房が効いていたが、花火大会の最中は屋外に出ていてそれなりに汗をかいた。加えて託生はおじさんと呼ばれる年齢で、加齢臭は気になる。
「義一くんとエッチした?」
何を根拠に壱佳がそんなことを聞くのかわからない。
「義一くんは壱佳と同じ18だよ?する訳ない。……でもなんで?」
「他所のボディソープの匂いがした」
「凄い嗅覚だね」
何事にも託生より優秀なことは知っているが、嗅覚まで優れている壱佳は特別なのかもしれない。
「高速に乗って、あまりのスピードに冷や汗が出ちゃって」
「それでシャワー浴びてきたのか」
「帰りは一般道?信号ばっかの。そっち通ったから遅くなった。ごめんね」
「なんで謝るの?」
色々壱佳には謝らなければならないことがある。
「遅くなったこととか」
「僕なんか午前様だ。気にしてない」
「壱佳に気持ちを伝えられないこととか」
ヨシヨシ、と壱佳が託生の頭を撫でる。完全に上下関係が逆転している。
「たぁくんは怖いんだよね」
壱佳に気持ちを伝えることは簡単だが、壱佳が出て行くと言い出した時には冷や汗が出た。託生の側にいたいけれど青山にあるモデル事務所との行き来が問題になっている、と言われれば託生は自分の気持ちを押し殺して気持ち良く送り出す他なかった。
コクン、と託生が頷くと、頭を撫でていた手が下がって託生をギュッ、と抱き締める。壱佳が小さい頃からしてもらっていた託生の壱佳が大好き、という気持ちだ。
「たぁくんの気持ちはわかるけど、いつか言葉にしてくれたら嬉しい」
またコクン、と頷き、本題に入る為、壱佳から身体を離す。
「車のことなんだけど」
壱佳も託生が義一から聞いたとわかり、お喋りめ、と呟いた。
壱佳は義一をお喋りと言うが、壱佳も相当なお喋りだ。アメリカにいる尚人に壱佳の相談をする託生だが、尚人は託生の近況を全て把握している。
「壱佳の車に乗って酔ったら、腕前が未熟だって証明するみたいで、壱佳を傷付けるみたいで嫌だったんだ」
「僕ってそんな子供?」
「今の壱佳はぼくより頼りになる。わかってるんだけど、ぼくは壱佳を傷付けたくない」
「たぁくんなりの愛情だった訳か」
コクン、とまた頷く。
どんなに壱佳が成長しても託生の目に映る壱佳は幼い子供だ。1度壱佳に怖い思いをさせている託生が2度と繰り返したくないと思うのは当然だ。
「でも、義一くんに1度も乗らずに忌避するのは駄目だ。もし酔ったらオレが特訓するって言われて……」
「僕の運転って乱暴だったんだ」
「ううん。上手いって言ってた」
章三の運転も上手い部類に入るらしいが、託生と相性は悪く、無事に車を降りられたためしがない。章三も最初の頃は託生を乗せる時には人一倍気を使ってくれたが、結果が伴わなかった。
「たぁくんがこの話をするってことは……」
「壱佳さえ嫌じゃなかったら、ぼくを車に乗せてほしい」
いくら叔父と甥の関係でも車の中で吐かれたら誰だって嫌な思いをする。壱佳もわかっていると思うが、熱心に託生を誘ってくれていた。
「う〜〜〜っ!嬉しくて言葉が出てこないっ!」
ガバッ、と託生を抱き寄せ頬擦りする。
「たぁくん、ありがとうっ!」
「酔ったらごめんね」
実際、車に酔った場合言葉も出ない状態だから今のうちに謝っておく。
「それと」
「まだあるの?」
「ごめんじゃない話」
壱佳の腕を身体から引き剥がし、叔父として大切な話をする。
「壱佳が瀬尾さんのお宅でお世話になってたこと、兄さんは知ってる?」
サーッ、と壱佳の顔色が変わったのを見て、話していなかったとわかる。託生より国際電話を頻繁に掛けているのに何を話しているのか、ちょっと呆れる。
「今まで気付けなかったぼくにも問題あるんだけど」
「たぁくんは悪くないっ!」
壱佳は託生に甘い。託生も壱佳に甘いと思うが、託生以上に甘い。
「瀬尾さんがどんなお宅に住んでいるか知らないけれど」
「一軒家。ローンなし」
スタイリストを職業にしている隆徳の手取りはわからないが、良い家に住んでいると思われる。車も複数台所有しているという話だから、借金はないだろう。
「ローンがなくても、壱佳がお世話になった間、水道光熱費は倍になったし、食費も掛かった。そういうのはどうしてたの?」
「全部隆徳さんもち」
隆徳が託生より3つ歳上の男性だからといって甘え過ぎだ。先日、壱佳にいくらか金を渡したが、到底足りない。
託生がソファから立ち上がると、たぁくん?と不安そうな声で壱佳が呼ぶ。
「兄さんに伝えるからね」
「そんなっ!」
「兄さんは壱佳が茂森くんとルームシェアしてると思ってる。マンションの家賃だって払ってる。知る権利がある。わかるよね?」
「……はい。でも……、僕から電話します」
自分の部屋に行き、早速尚人に電話したらしい壱佳の声がリビングにいても聞こえる。袋の上に置きっぱなしになっていた林檎飴を皿の上に移動させ、ラップで包んでいると、
「ごめんなさ〜〜〜いっ!」と切羽詰まった壱佳の泣き喚く声が聞こえた。
託生も尚人に挨拶の件で話があったが、怒り心頭の尚人には少しアドバンテージが必要だと判断し、悄気ている壱佳に食欲があるかわからないが夕食を作りにキッチンに向かった。
駅前で義一が人待ち顔で立っていると、老若男女問わず振り返ってジロジロ見られる。託生が住むこの郊外では外国人が珍しいらしい。なかにはまだ夕方前だというのに一晩のアバンチュールを楽しむ若い女性にも声を掛けられ、義一は、連れと待ち合わせなので、とやんわり断り続けた。
腕時計で時間を確認して、そろそろだな、と1人呟く。
「お待たせ」
駅の改札口を抜けて来た女性が義一の前で止まる。一瞬誰だかわからなかったが、女性の声に聞き覚えがあった。
「時間通りだ」
義一は女性の頭の天辺……といっても身長の関係でつむじは見えなかったが、爪先まで舐めるように見た後、化けたもんだな、と呟いた。
女性は白のツーピースに8㎝のヒールを履いていて、義一とほぼ同じ身長の女性に見下ろされる。今まで義一と付き合いのあった男も女も義一より身長が低かったので、見下ろされるのは初めての経験だ。女性は義一の腕に腕を絡め、早速歩き出す。
「色々聞きたいことがあるんだけど」
「何でも答えるよ」
女性の声のトーンは低く、擦れ違った女性がびっくりして振り返る。見た目は完璧な美男美女のカップルだが、女性の性別は女ではない。メスを入れていないれっきとした男だ。
「シリコンも入れたのか?」
義一の腕に男の胸が当たる。本来の性別を知っている彼は細身だが華奢ではない。先日まで働いていたバイトの影響もあり、全体的に豹のようなしなやかな体躯の持ち主だ。
「社長に押し付けられた」
社長というのは男が働いていたモデル事務所の人間だ。
「まだ切れてなかったのか?」
「やっぱいきなりはね。来年の春夏までは無理だって」
先日、壱佳と会った時はモデルのバイトを辞めると言っていたが、やはり簡単にはいかなかったようだ。
「じゃあ、ルームシェアは?託生先生は引き続き一人暮らしか?」
ルームシェアを止めたとしても、壱佳は瀬尾隆徳という男性の家に託生に何も言わずに転がり込んでいた。バイトを辞められなかったということは、引き続き隆徳の家で暮らすのかもしれない。
「今は車があるから、こっちでもいいって」
ちょっと期待外れだったが、壱佳を敵に回すのは危険だ。義一と託生は交際を始めたが、今のところ結婚は絶望的だ。もし、仮に託生と結婚出来たとしても義一と託生の新婚生活には壱佳が漏れなく付いてくる。誰と一緒かは義一には関係ない話だが、壱佳が都心で引き続き暮らすことにすれば、仕事帰りに義一が託生のマンションに行く、なんてことは壱佳の頭にも当然ある。
「お前、脚綺麗だな。脱毛とかしてんの?」
「エステとか全部事務所が出してくれるから」
膝上10㎝のタイトスカートで隠されているパンツは男物を着用しているのか、下世話とわかっているが気になる。
「パンツって男物?」
「まさか〜。白のレース。興味あるんだ」
「男なら当然だろ」
その例外の最たる人物が義一の恋人の託生だ。託生は義一の朝勃ちを目にしても笑って大変だね、と言っていた。
「このスカート丈だと事故るから」
事故というのは、スカートの裾から男性物の下着が見えることを指す。壱佳は何でもないことのように言うが、シリコンカップといい、女性物の下着といい、余程の覚悟がなければできないと思う。
「でも、義一くんから連絡があったのには驚いた。なんで?」
託生のLINEに章三からメッセージが入ったのは先週の土曜日だ。託生は義一に章三と会うことは伝えたが、一緒に行く?と聞かれなかった。
「託生先生を好きな壱佳も章三先生の存在は邪魔だろ?ライバルは壱佳だけでいっぱいいっぱいだ」
壱佳ならば勝てるとも思う。けれど、章三には逆立ちしたって勝てそうにない。そう思うほど託生との年齢差は義一に重くのし掛かっていた。
託生と章三が待ち合わせに使うカフェに義一と壱佳も先回りして向かう。カフェは2人が待ち合わせにいつも使う店で、壱佳が場所を知っていた。
義一が壱佳をエスコートしてカフェに入ると、至るところから黄色い悲鳴が飛び交う。女装している壱佳も一緒なので若い男の視線もある。
「お前、目立ち過ぎ」
「人の所為にすんなよ」
入店して早々にレジの前で諍いを始めた2人に恐る恐るウェイトレスが声を掛ける。
「すみません、2名で」
「お煙草は吸われますか?」
「いいえ」と先に答えて壱佳の嗜好を聞いていなかったことに気付く。
「禁煙席でよかったか?」
「当然。たぁくんが駄目なものは僕も駄目」
章三は喘息の持病がある託生を喫煙席に座らせたりはしない、と踏んで禁煙席に案内してもらう。
「甘いものは?先生、駄目だったよな?」
「甘いものは別腹って言うじゃん」
いい加減だなぁ、と思う。
おしぼりの袋を破って先に手を拭いた壱佳はタオルを一旦広げてから4つ折りにして、巻き毛の下の首筋を拭く。外気温が高いので長髪の人間は首筋に汗をかく。そういう仕草は男らしく見える。
「ウィッグまでする必要あったか?」
「章三先生には顔バレしてるからね。それと、これは地毛です〜。スタイリストさんから服借りる時についでにやってもらった」
「居候してた瀬尾さん?」
「ん〜ん。隆徳さんは女装反対派」
「じゃあ、メイクも瀬尾さんじゃないスタイリスト?」
「口回りとか髭痕隠せなくて、メイクさんにやってもらった」
そんなに事務所の人間に世話になって、果たして来年の春夏で縁が切れるのか、甚だ疑問だ。
「ご注文はお決まりでしょうか」
さっきから壱佳と話し込んでいてメニューさえ見ていなかったが、たまり兼ねたウェイトレスがやって来た。
「オレはホット。壱佳は?」
義一と違いメニューを見ていた壱佳は、
「アイスココアと……、あ、ない。チョコバナナパフェ」
食べたいものがあったらしいが、メニューに載っていなかったようだ。
これだけ糖分を摂ってそのプロポーションを維持するのは相当普段から節制しなければならない筈だが、託生のマンションに行った時、ローカロリーな朝食だったが壱佳は残さず食べていた。
「食っても太らないDNAは尚人さん譲りか?」
「そっか。同じ会社だから父さんにも会うんだ」
「去年までは頻繁に会ってた。お前、尚人さんの仕事の邪魔するなよ」
「父さんが邪魔だって言ったの?」
「違うけど。オレも色々聞きたいんだ。わかれよ」
壱佳が頻繁に尚人に電話を掛けるから、尚人に託生の話を聞きたくて秘書室に行っても義一は待て、を言い渡される。壱佳の電話が終わると今度は尚人がタイムアップで、また今度、と言い残して尚人は仕事に行く。また今度の機会を義一が虎視眈々と狙っていると、秘書室のトップの島岡が出て来て義一を秘書室から摘み出す。そんなこんなで託生に関する情報は、佐智から提供されたもの、1つだけだ。
「僕は可愛い息子だからね〜」
運ばれてきたコーヒーを1口啜り壱佳の方を見る。
「写真いい?」
「どうぞ」
アイスココアとチョコバナナパフェが運ばれてくると、スマホで写真を撮ってからアイスココアそっち退けでパフェを食べ出す。本当に甘いものが好きなんだ、と思った。
「インスタやってるのか?」
「殆ど食べ物だけど。家とかファンに特定されるとたぁくんに迷惑掛けるし、顔はなんか怖いから滅多にアップしない」
「先生は?」
「たぁくんは見る専門。いいねはするけど、滅多に投稿しないよ」
折角スマホを入手したのだから、壱佳のInstagramをフォローしておこうと思った。
スマホをジャケットから取り出した義一を見て、
「壱名義のはモデル辞めたらアカウント削除するよ。葉山壱佳を探してフォローしてね。壱佳には結構たぁくんもいるから」
帰りの列車内ですることが見付かってホッとする。託生に会える行きはそれ程苦痛に思わないが、つくばまで約2時間の帰りの列車は義一にはしんどく感じ、車内でひっそりできることを探していた。
「自分の性癖について考えたことあるか?」
「一時は。たぁくんが好きだからゲイじゃないかって」
「オレも。声掛けてきた女と付き合いはしたけど、男の時もあった。そっち方面に受ける顔かと思ったこともあったけど、単にイケメンと付き合いたいだけとわかった」
「自分でイケメンとか言うんだ」
「イケメンだろ?っていうか、男とも女とも付き合ったけど、託生先生以外誰もオレの心に棲み付かなかった」
「義一くんがブレなかったからだよ」
声を掛けてきた人間と付き合ったが、義一が好きなのは託生ただ1人だけだった。これでは義一がノーマルなのか、ゲイなのかわからない。
「運命の人って言うの?たぁくんは義一くんにとっても、僕にとっても特別な人だからそういう括りがないんだよ」
カランカラン、と軽やかなドアベルが鳴り、男性が1人入店する。ウェイトレスがいらっしゃいませ、と応対し、男性は、
「2人。待ち合わせですが……まだ来てないようです。禁煙席で」と店内を見回して簡潔に言う。
男性は観葉植物のプランターを挟んで義一たちの隣の席に案内され、義一は観葉植物の葉の隙間から男性の顔を見る。2名・待ち合わせ・禁煙席とキーワードが義一を動かした。
男性の歳の頃は30代後半。託生より歳上と思われた。
壱佳がスマホを操作すると、義一のLINEが着信音を鳴らす。慌てて壱佳が人差し指を唇の前に立てるので、黙ってスマホをマナーモードにする。
スマホを入手して直ぐにLINEをインストールすると、メールで教えられていたLINE IDで壱佳と友達になった。花火大会の日に託生と友達になった義一だが、壱佳の方が友達になったのは先だった。
『今のが章三先生』
壱佳は葉陰から顔を見ていなかったが、声でわかったのかもしれない。30代後半だと思った男性が章三で、託生と同じ33歳と知って更に驚く。中年太りしていないし、禿げ上がってもいなかったが面立ちはすっかりおっさんだ。
『今まで気にしてなかったけど、託生先生って童顔?』
義一の周りには大人が大勢いるが、歳上の男性をおっさんだと思ったことはない。義一の知っている章三は若々しい青年で、託生と同い年と言われれば納得した。
『それ、たぁくん地味に気にしてるから言っちゃ駄目だよ』
可愛いのに。
そういえば花火大会の日も義一が可愛い、と言うと俯いてしまった。浴衣を着ていたし、てっきり恥ずかしいのかと思ったが違ったようだ。
章三が歳相応なのか。
そう考えると尚人も実年齢より若く見えるし、壱佳も何も言わなければ義一と同い年には見えない。これは葉山家の血筋なんだ、と納得した。
約束の時間に駅前のカフェに行くと、章三はもう来ていた。託生が来たことに気付いた章三が軽く手を上げ、託生はカウンターにいたウェイトレスに待ち合わせです、と伝え、テーブルの方に歩いて行く。席に着いたタイミングでカウンターにいたウェイトレスがお冷を持って来る。
「頼んだ?」
「ビール」
「あったっけ?」
「同じのでいいか?」
義一のことはまだ話す決心がつかないが、久しぶりの章三の話も気になる。コーヒーではなく、酒の力を借りなければ話し出せない内容かもしれない。
「うん、1杯だけ」
「じゃ、ビールもう1つ」
ウェイトレスが頭を下げカウンターの向こうに去って行くのを見送ってからそれで?と舵取りをする。
「まあそう焦んな。ビールが来てからでいいだろう」
確かに話の途中で腰を折られる可能性もある。わかった、と返事をしてビールが来るのを待つ。
「まだ祠堂の保育士やってるの?」
「ああ、けど今年度いっぱいで辞める」
ウェイトレスが来てビールのグラスを2つ置いて行く。
真夏のビールは美味しいが、未成年の壱佳が再びマンションで一緒に暮らすようになって、託生のアルコール摂取量は極端に減った。
「何かあった?」
「平たく言えば寿退社」
彼女の影も形もなかった章三に彼女がいたなんて初耳だ。
「託生は彼女はいらないって一方的に拒んでたから敢えて誘わなかったんだけど、僕は結構合コンとか参加してたんだ」
未成年の壱佳がいては家を空けられない。壱佳がバイトを始め、マンションを出た後は流石に人恋しく感じた時もあったが、週末には壱佳が帰って来ていたし、交際相手を作るのは怖かった。
それに義一のこともある。託生が保育園を辞め義一と話は1度もしていないが、壱佳が祠堂保育園の園児である以上顔を合わせることはある。託生は花束の礼も言わなかったから、義一が花束を贈って来るのは今年限りだと思っていた。けれど、予想に反して義一は翌年以降も花束を贈り続けた。毎年、これが最後だと思い続けていた託生が希望を持ち始めたのは義一が中学生になってからだ。保育園を卒園してアメリカに帰った義一だが、会うことはなくても託生に深紅の薔薇の花束を贈り続け、託生の心には義一なら大丈夫かもしれない、と期待する思いが生まれ始めた。
「で、彼女が出来たんだ」
託生の面倒ばかりみて色気のある話とは無縁だった章三に彼女が出来て託生も嬉しい。寿退社まで考えているのなら結婚どころか、父親になる日も近いかもしれない。
「彼女は……奈美子っていうんだけど」
「もう呼び捨てで呼んでるんだ」
「っていうか、奈美は東京の商社で働いてて、合コンで知り合ったんだけど」
「できる人なんだ」
「何度か会って話してるうちに実家のことが話題に上がって、親父の話とかしてたら実家の隣に住んでた女の子の名前が奈美だったな、って昔を思い出したんだ」
「同一人物?」
世の中広いようで狭く感じる時もある。託生も義一がマンションの廊下で待つあの日までアメリカは遠いと感じていた。
「奈美と付き合って1年経ってプロポーズした」
「凄いっ、OKもらったんだ」
寿退社が決定しているのであればプロポーズはうまくいったということだ。でも、結婚が決まっただけで寿退社というだろうか?女性ならわかるが、章三は男性で祠堂を辞める必要はない。
「もしかして奈美子さん、妊娠した?」
もし、妊娠したのであればできる彼女は外で働き、元々子供好きな章三が家事・育児を担当する、という構図が出来上がる。
「心当たりある?」
託生に前科があるので嫌な聞き方になるが、こういう時、男の立場は弱い。彼女とセックスした事実があればこの腹の子はあなたの子供だと言い張られてしまう。
「バッチリある」
「避妊は?」
「しなかった。奈美は危ないからって乗り気じゃなかったんだけど、僕が子供が欲しかった」
壱佳の面倒もみた章三なら良いパパになれると思う。
「おめでとう。奈美子さんにも元気な赤ちゃんを生んでって伝えて」
今日はお祝いだ。運ばれたままになっていたビールのグラスを持ち上げて、章三のグラスにカチン、と合わせる。
「ありがとう。取り敢えず、東京の奈美のマンションで同棲しながら産休の奈美の様子次第で家を買って引っ越すつもり。奈美のマンションが高層階だから不安で」
「奈美子さんも章三がいると安心だと思う。けど、仕事は?」
「保育園に入れようと思ってるけど、しばらくは専業主夫だな。託生は?話があるって言ってただろ?」
彼女とうまくいっている章三に義一の話をしたらどう思われるだろうか?章三はノーマルで彼女と恋をした。けれど、託生は同性の。しかも15も歳下の男の子と付き合い始めた。ノーマルな章三は嫌悪感を抱くかもしれない。壱佳があまりにも自然に義一を受け入れたから深く考えなかったが、同性と恋愛なんて間違っているのかもしれない。
「義一くんと付き合い始めた」
託生の告白を聞いた章三が呑んでいたビールに咽せてゲホッ、ゴホッ、と激しく咳き込む。テーブルのおしぼりを章三に渡すと、軽く手を上げて礼を伝え、口元に当てて咳を何度かした後、お冷を飲んでようやく落ち着いた。
「大丈夫?」
託生の問いに軽く頷いた後、おしぼりで掌を拭く。唾が掌に掛かったのかもしれない。
「義一くん……って、崎義一?」
昔の習慣で名前呼びしているが、久しぶりの章三にはフルネームで伝えた方がよかった。
「毎年、花束が贈られてくる話はしただろ?」
「まだ続いてたのか」
章三に会えば最近の近況は話していた。東京に出てきた託生とは滅多に会えないので、その殆どは事後報告だが、章三に話していないことはない。
「演奏会から帰ったらドアの前に義一くんがいて、話聞いたら演奏会にも顔出してた」
「ストーカーじゃん」
空になったビールのグラスをテーブルの端に寄せ、ウェイトレスを呼んで新しくビールをオーダーする。
13年間、1度も欠かさずに花束を贈り続けた義一にはストーカーの気質があるかもしれない。けれど、託生はストーカー気質のある義一だから付き合おうと思えた節がある。
「でも、10……何年?」
「13年」
託生の答えを聞いた章三ははぁ〜、と重い溜息をついた。
「13年間、お互いに会ったことはないよな」
「うん」
「義一くんが好きな訳じゃないんだろ?」
「章三みたいな恋愛とは違うと思う。最初の数年はぼくも本気にしてなかった。それがだんだん花束を待ち侘びるようになって……。義一くんなら捨てないかもって思うようになって、一緒にいたくなった」
「好きとは違うだろ」
章三の言う通りだと思う。
この13年間で義一が諦めの悪い人だと知った。たった一言の花束の礼も返さない託生に、それでも毎年、1回も欠かすことなく花束を贈ってくれた。しかも、深紅の薔薇の花束だ。会えなくても託生は毎年告白されていた。
「好きって伝えてるのか?」
力なく首を横に振る。
好きと伝えることは義一だけでなく壱佳への問題でもある。今まで壱佳への返事をスルーしてきた託生だが、いつかは、と思う。壱佳も託生の気持ちはわかっているが、言葉にされることを望んでいる。
「ゆかりには言えてたのに、やっぱり怖い。時々、捨てられてもいいから伝えたい衝動に駆られるんだけど、言った後が怖くてやっぱり言えない」
ゆかりに会うことがあったら言いたいことは山程ある筈なのに、不思議と心は凪いでいる。人にゆかりのことを聞かれても普通に話せるほど過去の人になってしまった。ゆかりが原因で不自由な身体になってしまった雅美も、もういない。
「金集めに必死だったな」
「やっぱり知ってたんだ」
「僕は後にも先にも奈美だけだから当時、託生が金策に走るのを見て、それが普通だと思ってた。でも、違った。学生と社会人の違いはあるかもしれないけど、奈美は僕へのプレゼントは自分で払ってた。義一くんとはそうならないか?」
「壱佳も心配してくれて、義一くんとも話し合ったんだけど、お互いに貯金して、そのお金でデートすることにした」
「じゃあ、金銭面はクリア出来てるんだな。壱佳はなんて言ってる」
壱佳に関する問題は山積みだ。
「義一くんと同棲するなら同居するって。付き合うことには反対してないんだけど」
章三がグラスのビールを一気に煽る。
「立派に反対してるじゃないか」
「でも、デートの時、見送りに出てくれた」
「待てっ、壱佳は都心でルームシェアしてただろ?なんで託生のマンションにいる」
7月29日も30日も週末ではなかった。壱佳が週末以外に託生のマンションに来るのはもう慣れたが、後から話を聞くだけの章三は違うらしい。
「義一くんが来た日、偶然壱佳もマンションに来て。付き合うって報告したらバイトもルームシェアも止めるって言い出して」
結局、バイトは直ぐに辞められるものではなく、暫く続くことになったが、車の免許を取って自由に行き来出来るようになった壱佳はルームシェアだけ止めた。
「託生が好きなんだろ」
小さい頃は託生に好きをアピールしていた壱佳だが、思春期には鳴りを潜めていた。代わりのように託生の側にいる。
「でも、出て行った。親離れしたんだよ」
「戻って来ただろ。親離れ出来てないじゃないか」
小さい頃は壱佳のことが鈍い託生なりにわかったつもりでいたが、思春期を迎えて壱佳のことがわからなくなった。生活に変わりはないが、託生を避けようとすることが時々ある。
「壱佳と義一くんって仲が良いんだ。もし、恋のライバルだったら近寄らないよね?」
観葉植物のプランターを挟んで2人の隣のテーブルに着いて会話に聞き耳を立てていた義一はスマホで壱佳にLINEを送る。
『壱佳の気持ち、全然伝わってないじゃん』
ライバルのことなど放っておけばいいと思う気持ちもあるが、壱佳は託生の甥だ。壱佳と連んでいながら壱佳の気持ちを知らなかったという言い訳は成り立たない。
『相手は鈍いたぁくんだよ?当たり前じゃん』
『告白しないままでいいのかよ』
『何れは、って思ってる。でも、僕の希望はたぁくんと一緒にいることなんだ』
義一はわかっていなかった。
壱佳がどんなに託生が好きだ、恋人同士になりたい、と喚いても、付き合う義一が未成年のうちは飲酒も、セックスはおろか、キスも許可してくれない真面目な託生が、甥の壱佳とどうこうなる筈がない。勿論、例外があるのは知っている。それに、壱佳と託生では結婚したくても法的に認められていない。託生が壱佳のことを考える前に排除している可能性もあった。
「まあ、最初にけしかけたのは僕だしな。義一くんは1本真っ直ぐ芯が通ってる子供だったからブレなかったのかもな」
「それは言えてる。当時はそんなことも信じられなかったけど、義一くんと会って己の世界の狭さを実感した」
「じゃあ、アメリカ行くのか?」
義一の本拠地はアメリカだ。13年前は自分の病気を理由にして考えもしなかった。義一ならば託生を見捨てないと言い切れるほどの執着を見せた彼だが、託生には一歩を踏み出す勇気がない。Fグループ御曹司の義一がいつまでも日本にいる訳はなく、アメリカでなくても何れどこかの国に行くのだろう。託生はやはり見送るだけだ。
「ぼくに早死してほしいんだ」
「そういう訳じゃないけどさ。そういえば最近、体の調子どう?」
「取って付けたような聞き方するなよな」
章三はもう1杯ビールをオーダーしたが、そろそろ壱佳が帰って来る時間なので託生はコーヒーをオーダーした。壱佳が帰って来た時にアルコールの臭いをさせていたくないからだ。
「そういう何気ない気遣いが出来るところに惚れたんかねぇ」
「何?」
「いいや」
章三はニヤニヤ笑いながらビールのグラスを傾けた。
頭痛ぇ〜
頭がガンガン痛むあまり、託生の前では絶対に使わない乱暴な言葉を脳内で喚く声にも力はない。しかも、周囲に喚き散らしたい程痛むのに、痛みの所為で叫ぶこともできない、今の壱佳は完全に弱っていた。
熱もあり、額に冷えピタを貼った壱佳は布団の中で身悶える。
初めは壱佳のちょっと喉がイガラっぽいなぁ〜、風邪たぁくんに移したらマズイな、という程度の症状だった。それからあれよあれよという間に症状は悪化した。
引っ越しもあったし、高校も勿論ある。モデルのバイトもあったし、受験勉強もしていたから免疫力が落ちていたのかもしれない。
風邪が悪化した後は勿論、高校とモデルのバイトは体調不良を理由に休んだ。風邪薬を飲んで寝ている壱佳の看病を心優しい託生は当然する。託生も普段から風邪には気を付けているので、壱佳が風邪をひいた後は室内でもマスクを着用していた。
それが3日前の話。
元々基礎疾患のある託生は不運なことに壱佳からウイルスを分けてもらってしまい、風邪をひいた上に喘息の発作まで起こしてしまった。
風邪っぴきが車の運転をするのは意識が朦朧としている上に風邪薬も服用して危険なのでタクシーを呼んで掛かり付けの内科医院に行った。往復のタクシー運転手は2人揃って額に冷えピタを貼って乗り込んだ壱佳と託生に同情するように運転は丁寧だったが、車内で託生がもどす兆候をみせると汚さないでくださいねぇ〜、と嫌味を言われ態度が変わった。それでも壱佳が携帯していたエチケット袋があるので車内を汚すことはなく、その所為かタクシーを降りる際には帰りの運転手にはお大事に、と声を掛けてもらった。
内科医院では壱佳も診察してもらい、風邪よりタチの悪いインフルエンザだと2人仲良く診断を受けた。そして、2人仲良く点滴を受け、託生は酸素吸入して行きと同じくタクシーで帰宅したのが午前中のこと。しかし、薬は一向に効かず頭痛は酷くなるばかりだし、託生の咳も壱佳の部屋にいても絶え間なく聞こえてくる。
吸入した方が良さそうだな。
託生の様子をみるために壱佳が布団から抜け出し、託生の部屋に向かおうとした時、インターフォンが鳴った。
普段はなんとも思わない音量だが、体調を崩している今は頭に響く。顳顬を手で押さえ、ふらつく足取りでリビングに行く。インターフォンの液晶ディスプレイを操作して訪問者を確認すると、義一が映っている。内科医院で点滴を終え会計を待っている間、ぐったりしている託生の隣で壱佳は義一にLINEを送っていた。
『ごめん。たぁくんにインフル移した』と。
まさか義一が来てくれると思わず、また来るとしても彼には仕事があり、夕方から夜に掛けてだと勝手に思い込んでいたので、早い時間の義一の訪問は有り難かった。
喉も痛く喋るのも億劫だった壱佳は黙ってマンションのオートロックを解除し、義一を招き入れる。玄関のインターフォンが鳴るまで然程長い時間ではないので移動時間を考慮し、マスクを付けて玄関で待つ。今はリビングから玄関までの道程が遠い。そして、インターフォンが鳴るなり鍵を開け、義一を中に通した。
「辛そうだな」
「熱はあんまないんだけど、喉と頭が……。僕はいいからたぁくんを頼める?吸入しようと思ってたんだ」
「了解。飯は食えるか?」
空腹は感じなかったが、腹に何か入れた方がいいことはわかる。薬は食後30分だし、空腹で薬を飲むのは怖い。
「食べる。でも、たぁくんは無理そう」
「ゼリーを買って来た」
見れば義一はコンビニのビニール袋を提げている。抜け目ないなぁ、と思う。
リビングに移動し、テーブルの上のマスクの箱を義一に差し出す。黙ってマスクを付けた義一に後のことは頼んで壱佳は自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込む。真っ先に義一が託生に吸入させたのか、次第に咳き込む回数が少なくなり、壱佳の瞼も重たくなってくる。やがて米の炊ける良い匂いがし始めたところで再びインターフォンが鳴った。
ある意味、義一が来たことは想定内だが、今度のはわからない。
ガバッ、と布団を剥ぎ、足音も荒く部屋を出てリビングに行く。頭痛になんか構っていられない。
義一はインターフォンのディスプレイで相手を確認し、用件を聞いていた。
『壱の具合は?』
壱というのはモデル事務所で使っている壱佳の芸名だ。壱佳にはマネージャーが付いていない。当然、このマンションの住所は知らせているが、訪問は初めてだ。
壱佳が義一の傍からディスプレイを覗くと隆徳が映っていた。
「モデル事務所の人だっていうんだけど、通していいか?」
「ああ」
返事と一緒にこの世の終わりのような溜息で返す。
ヤバいことになった。実を言うと、隆徳からは猛烈なアプローチを受けている。けれど、壱佳は託生が好きで、甘えられる相手としては100点満点だが、恋愛感情はない。隆徳もそれは知っているが、アプローチは一向になくならない。あまりに好き好き言う隆徳のアプローチを壱佳は本気にしていなかったし、壱佳より体格の良い隆徳に突っ込むなんて地球が逆回転しても無理な話だった。
玄関のインターフォンが鳴り、玄関に向かう。義一も行こうとしたが、隆徳に言っておきたいことがある壱佳はここにいてくれ、と断った。
「壱、起きてて大丈夫なのか?」
「隆徳さん、あのこと、内緒にして」
玄関の鍵を開け、隆徳が家に入る前に言うべきことは言う。但し、義一に聞こえないようひっそりと。
「わかってる。壱は叔父さんが好きなんだろう?」
「たぁくんが好きなのも内緒」
隆徳の目が驚きに見開かれる。
「いつか告白するけど、今は」
「わかった」
「それと、中にいる人がたぁくんの恋人。崎義一くん」
「壱と同い歳だったな」
義一の話は涙ながらに隆徳に話した。13年も託生を想い続けてきた義一の手を託生が取った、と告げた時、隆徳は俺がいるだろ?と甘い言葉で悪魔のように壱佳に囁いた。
話し終えた壱佳は隆徳を伴ってリビングに行く。義一は託生の看病をしに来たとわかるから気を使わないが、隆徳は不気味だ。
「ところで誰から聞いたの?」
聞きながらリビングテーブルのマスクを箱から1枚出し、隆徳に手渡す。
壱佳がバイトを休んだのは撮影の日でも、フィッティングの日でもないので、隆徳は壱佳の不調を知らない筈だ。
「社長。壱が体調不良なんて珍しいって話になって」
マスクを装着しながら隆徳が答える。
「来てくれたのは嬉しいけど、仕事は?」
隆徳は壱佳のバイト先以外にも複数のモデル事務所と契約している。モデル事務所以外にも個人で隆徳を指名する人もいて、いつも忙しそうにしている。
「壱の風邪が移ったって休みを取った」
「誤解されるようなこと言わないで」
「壱佳。お粥出来たぞ」
義一がテーブルに粥の鍋を置く。食器棚から壱佳のご飯茶碗を出し、蓮華でよそってくれる。1度家に来ただけなのに、壱佳のご飯茶碗を覚えられている。
壱佳が自分の席に座ると、当然のように隆徳も隣に座る。
「そうだ。彼は瀬尾隆徳さん」
義一に隆徳を紹介していなかったことに気付き、慌てて紹介する。隆徳が椅子から軽く腰を上げ、義一に握手を求める。義一が託生の恋人だと知って、好意的になったのだろう。隆徳はスタジオでは常に壱佳に纏わり付き、壱佳に近寄る者を威嚇するのだ。
「崎義一です。よろしく」
「瀬尾です」
「義一くん。たぁくん、何か食べれた?」
茶碗の粥にフウフウ息を吹き掛けて冷ましながら1番気になっていたことを聞く。壱佳は食べられるが、臥せったままの託生が心配だ。
「何も。吸入はしてもらえたんだけどな」
「泰徳を呼ぼうか。プロがいれば壱も安心できるだろう」
隆徳も泰徳も名前だけなら託生が義一に紹介しているから嫉妬することはない。だが、泰徳は山間の市立病院に勤めていて、東京まで来るのは大変だ。
「無茶言っちゃ駄目だよ。僕は大丈夫」
壱佳は粥を食べれば薬が飲める。薬を飲めれば回復に繋がる。
「午前中に病院に行ったんだろうことはわかるけど、先生入院出来なかったのか?」
このマンションで暮らす託生の心配の種は病院だ。託生は空気が綺麗だという理由でこの街を選んだ。前のマンションと理由は同じだ。だが、この街には近くに大きな病院がなく、託生の掛かり付けの病院は入院設備のない内科医院だった。
「1番近い内科なんだけど入院設備がないんだ。だから、午前中も点滴と酸素だけで帰って来た」
「なら、尚更プロにみてもらった方がいい」
隆徳は宣言すると、壱佳が止めたにも拘らず泰徳に連絡を入れる。泰徳も仕事中だろう、どうせ留守電だと思っていた壱佳の予想は外れ、直ぐに会話が成立する。しかし、泰徳はこれから勤務だったらしく、隆徳は声も荒く泰徳を罵倒していたが、ややして三洲?と声に出して呟いた。
三洲は託生の唇を奪った医者で、正直なところ手を借りたくない。けれど、このままでは託生の病状は悪化するばかりだと思い直す。
「はあ?さちゅ……、何?こっちは素人なんだ。ゆっくり喋ってくれ」
「壱佳。先生はサチュレーションモニターを付けてなかったが、あるのか?」
義一の言葉は壱佳には意外なもので、託生にサチュレーションモニターを付け忘れる筈がない。けれど、今まで託生の側にいた義一の言葉は真実で、体調を崩し朦朧としていた壱佳が付け忘れたのかもしれない。
まさか、そんな……
サチュレーションモニターを付けた記憶を呼び覚まそうとするが、映像が出てこない。
サァ〜っ、と血の気が引いていく。
サチュレーションモニターは託生にとって大切な機械だ。
「忘れ……た……かも?枕元に……えっと……」
慌てて壱佳が立ち上がろうとすると、
「壱佳も本調子じゃなかったんだ。気にするな」と言ってその場に留める。
早速、託生の部屋に戻り、目当てのものを見付け託生の指先に装着したらしい義一がリビングに戻って来て、失礼、代わります、と言って隆徳からスマホを奪うように取る。
少しの間、託生の部屋に戻った義一の声が聞こえていたが、直ぐに部屋の扉が開き義一が出て来る。
「救急車を呼んだ方がいいらしい」
そんな。悪夢が現実になるような気がして、壱佳の身体から全ての力が抜け落ちた。
海の底から浮上する感覚で壱佳はスッ、と目を覚ました。見上げた天井は一面真っ白で、一瞬、ここがどこかわからなかったが、少し前の義一の言葉を思い出した。
託生は救急車で運ばれ、一緒に気を失った壱佳も次いでに運ばれたのだろう。
頭を少し動かして足元を見れば左腕に点滴のチューブがある。
「気が付いたか」
壱佳が目覚めたことに気付いた隆徳が声を掛ける。壱佳のベッドの脇にいた隆徳は、病院によく置いてある丸椅子に座っているのだろうが、がっしりとした体格なので椅子に座っている印象がない。隆徳はベッド脇の小さなテーブルの上から体温計を取ると、壱佳の額に翳す。
「まだ下がんねえな」
家の体温計は脇に挟むタイプのものだが、医療現場で計る時は額に翳すタイプが今は主流だ。
隆徳は壱佳の熱が高いようなことを言うがそんな筈ない。確かに壱佳も発熱していたが、そんなに高くならなかった。
「倒れたのは覚えてるか?」
「うん」
「抱き上げた時、スゲエ熱くて熱を計ったんだ」
「何度だった?」
壱佳が知っても無意味だとわかっている。隆徳に言われて興味が湧いただけだ。
「義一くんに言わない方がいいって言われてんだ。また卒倒するって」
39℃くらいだろうか?39℃で卒倒はしないが、倒れる前はそのくらいには上がっていたかもしれない。
義一の訪問は壱佳が望んだものだったが、隆徳は違う。隆徳には絶対に言えないが返って気を遣ってしまった。
「今、38.6℃あった」
証明のように体温計を隆徳が壱佳に見せる。隆徳の口振りから察すると、倒れた時はもっとあったようだ。
「これから壱に3択クイズを出す。俺は看護婦に38℃以上あったら、この座薬を壱の尻の穴に挿れるよう依頼された」
体温計と一緒に置かれていたと思われる銀色の小さなアルミシートに包まれた座薬を人差し指と中指で摘み、壱佳の目の前に差し出す。身体の大きな隆徳に摘まれると胡麻粒くらいの大きさ、といった印象だ。
ゲッ、と思わず身体をベッドの端の方に引く。医療行為とわかっているが、尻を見られるのは恥ずかしい。
「3択って?」
「1つ、隣のベッドで叔父さんの看病をしている義一くんに、態々、こっちのベッドに来てもらって挿れてもらう。1つ、忙しく動き回っている看護婦を、隆徳さんにお願して捕まえて来てもらって、挿れてもらう。1つ、隆徳さんに、壱が、お願して、小さくて、可愛い、壱の、丸い尻に、挿れてもらう」
態とらしくいちいち強調して言う隆徳はこの状況を楽しんでいるに違いない。
なんだ、この3択。
託生のことで手一杯の義一に頼むことは当然出来ない。看護婦を捕まえるのも少し前に忙しい泰徳に態々来てもらうのは申し訳ないと断ったし、何より託生以外の人に尻を見られるのは恥ずかしい。それは隆徳でも同じだ。
「自分で挿れる」
「んなの3択にねえ。何恥ずかしがってる。これは医療行為だ」
エロい言い方をした隆徳に言われても信憑性に欠ける。けれど、筆頭に隆徳が思い浮かんだ時点でヤバい。隆徳に甘えたい気持ちはあるが、隆徳は壱佳にアプローチしている。けれど、壱佳は二十歳まではエッチなことは出来ないし、それは尻を見せることに繋がる。
ハア、と大きく溜息をついた隆徳が言う。
「俺にしとけ」
何度も言われた言葉だ。決して報われることのない恋心を抱えた壱佳の側で、甘く、悪魔のように囁いてきた。
壱佳は熟考に熟考を重ねて漸く決意を固めた。
「隆徳さんにお願いする」
「ヨシっ」
早速、布団を剥ごうとする隆徳を待って、と押し止め、
「布団は捲らないで、手だけ入れて」
隣のベッドからクスクス、と密やかな笑い声がする。壱佳と隆徳の遣り取りを聞いて笑っているのだ。
「お前、男のロマンを奪うようなこと言うなよ」
「じゃあ、自分でする」
隆徳は壱佳の顔をジーッと見詰めて壱佳の本気度が伝わったのか、整えられた髪をグシャグシャに掻き乱すと、わぁったよ、と吠えた。
「ったく、痛くても文句言うなよ」
隆徳の了承を得て、モゾモゾと布団の中に点滴に繋がれていない右手を入れ、ズルズルと下着を下ろす。優しい隆徳は布団の中に右手だけを入れ、四苦八苦しながら壱佳の尻に座薬を挿れた。文句なんて出せない程隆徳の手付きは丁寧で、ちっとも痛くなかった。
その後、看護婦がやって来て壱佳の体温計を確認し、新しい点滴に替えた後、隣のベッドに行った。
隆徳の話から隣にいるのは託生だと思われるが、軽症の壱佳はそろそろ帰らなければならない。
「たぁくん、入院?」
隆徳に額の髪の毛を鋤かれていると気持ちが落ち着く。
「ほんっと、仲が良いよなぁ〜」
「良いでしょ」
「馬鹿。嫌味だ」
託生と仲が良いに越したことはない。託生が壱佳を好きになってくれることはないとわかっているが、それでも壱佳は託生が好きだ。嫌味を言われる訳がわからない。
疑問顔の壱佳に隆徳は事細かに説明してくれる。
「きっかけは壱の風邪だったらしいが、2人仲良くインフルに罹って、2人仲良く救急車に乗って」
でも、救急車の定員は1人だ。壱佳は追加で呼んだ救急車で同じ病院に運ばれた。
「2人仲良く入院が決まって……」
「僕も入院っ?!」
「気付かなかったのか?しかも、義一くんの計らいで個室。けど、隣同士」
「個室でそんなことできるの?!」
シーっ、と隆徳が壱佳の唇に人差し指を立てる。隆徳は壱佳の耳元に唇を寄せ、
「笑ってたけど義一くん、静かに怒ってんだ」
壱佳は託生の指先にサチュレーションモニターを付け忘れたまま放置してしまった。義一が気付いてくれなかったら、と考えると、義一が壱佳に怒っていても当然だ。
「叔父さんが心配だったんだろ。加えて壱の熱が異常に高くて、義一くんは電話1本でこの病院に入院する手続きを取った。あっ、壱は後で入院書類とか2人分サインさせられるからな」
それはわかる。
13年前の入院の時は静岡から琴子が来て、遅れに遅れていた書類関係の手続きをしていた。いくら章三が託生の友達でも書類にサインは出来ない。その後の入院も壱佳が入院書類にサインをし、今ではどんな内容が書かれているかわかる程エキスパートになってしまった。それは今、ここにいる隆徳と義一も託生と壱佳の入院書類にサイン出来ない、ということだ。
「さっき、入院が決まったことを泰徳に伝えて病院名を言ったら驚かれた。どんなコネがあるんだって」
「コネ?」
「なんかこの病院、VIPの溜まり場らしい。治療は勿論だけど、療養とか。んで、叔父さんには打って付けの呼吸器専門。前から調べてたのかなぁ。しかも、紹介状がないと治療も療養も受けらんないんだって」
義一なら有り得る。この病院は今後、託生が世話になるのに打って付けだ。
「壱は熱だけだったから点滴の設備だけあればよかった。熱が引いたら退院だから」
「それで2人入れてくれたんだ」
ん、と頷いた隆徳は声を顰め、
「もう、掛かり付け医はここだからな」
託生の掛かり付けはマンションに1番近い内科医院だ。今までも喘息発作を起こした託生を連れて行き、対処してくれた人のいい老夫婦が経営している医院だ。
「壱もだけど、叔父さんを病院に連れて行った時、レントゲン撮ったか?」
「ううん。初診の時は撮ったけど、いつも喘息で行くから。でも、聴診器は当ててたよ」
もしかして、と思った。内科医院で点滴も酸素も投与された託生の咳が止まらなかった原因が他にあったら……
今まで喘息で通う方が多く、レントゲンは撮っていない。滅多に掛からない壱佳もレントゲンを撮らなかったのは今思うと疑問が残るが、素人は言われたことだけ理解していればいいというスタンスだった。
「勿論、喘息発作もあったんだけど、ここでレントゲン撮ったら肺炎とわかった。聴診器当てたならわかると素人は思うんだが、医者が言うには音だけじゃ微妙らしい」
肺炎を見落とした病院に託生を通わせ続けるのは義一は不安なんだろう。それは壱佳も同じだ。
「ここ、東京都?」
漂う空気に海の匂いが混じっているような気がする。千葉か、神奈川か。茨城だったら、流石に遠過ぎて託生を通わせられない。
「でも、掛かり付けには……、遠い……かな」
いくら呼吸器に強い病院でも喘息発作の時は近くの病院がいい。それくらいは義一もわかると思うのだが。
「壱の車に乗ってくれるようになったんだろ?」
隆徳には車を購入する時に話を色々聞いた。運転のし易さは勿論だけれど、揺れの少ない、車体が安定した車を2人で探した。
「うん」
もし、壱佳の車に乗って酔ったら義一が特訓してくれる。敵の手を借りるのは悔しいが、託生の為を思えばなんとでもなる。
「壱佳、瀬尾さん」
義一が2人に呼び掛けてからカーテンを開け、姿を見せる。義一はワイシャツにスーツ姿で壱佳の家を訪れたが、今は上半身裸にサイズの合わない黒の革ジャケットを着ている。隆徳のものだ。
「もしかして、たぁくん?」
「ん。ワイシャツも上着もグシャグシャで臭ったから、瀬尾さんに借りた」
「ごめん。その格好じゃ電車にも乗れないよね」
壱佳ならば託生の吐瀉物はいつものことと判断して直ぐに処理出来るが、義一は初めてだ。救急車に乗った時にエチケット袋まで手が回らなかったのだろう。
「瀬尾さんもオレもそれぞれ救急車に同乗したからな。入院の準備とかあるし、サイズ的にも壱佳のシャツを借りたいんだけど、構わないか?」
「うん、ありがとう」
壱佳はパジャマの上下を着ていたはずだが、気付けば壱佳は病院のガウンを着ている。処置する時に看護婦が脱がせたのだろう。
「でも、着られる?よくたぁくんは鋏で切られちゃうんだけど」
パジャマでもシンプルなタイプなので、シャツくらいならばパジャマとバレることはない。後は義一の注目度合いにもよる。
「壱のは無事だ。ちゃんとボタンを外してくれてた。叔父さんのは着られないけどな」
大怪我ではないので普通は衣類を原型を留めて脱がすが、託生の場合は吐瀉物で汚れている場合が殆どなので、看護婦は躊躇いなく服を切断する。
「家の中、色々家探しするけど」
「たぁくんの入院道具一式はクローゼットの中のボストンバッグに纏めてある。僕のは適当にお願していい?」
託生が入院するのはしょっちゅうなので最低限必要なものはボストンバッグに常に入っている。他に午前中に使った保険証や財布、スマホを義一に持って来てもらうことにした。
託生と壱佳が運ばれた私立病院は千葉県にあり、掛かり付け医といっても基本的に救急は受け付けていないので喘息発作や風邪をひいた時は今まで通り入院設備のない内科医院に行く。毎月1回受診して受け取る薬や吸入器は千葉の病院で処方してもらう。紹介状がないと治療や療養を受けられない病院で、全て予約制だ。その為、全国の病院や医院、クリニックと診療内容を共有している、と千葉の病院に通うことを渋っていた託生に担当医の和田が詳しく説明してくれた。その場に壱佳も義一もいて、和田の説明を聞いて漸く託生も安心して千葉の病院に通うことを決めた。
壱佳には面倒を掛けるが、車を出してもらうことは早々に頼んで了承済みだ。
入院中とはいえ、病院の朝は慌ただしい。看護師が起床の挨拶にやって来てバイタルチェック、簡単な問診、入浴日の患者は風呂の予約をするが、託生も壱佳もまだ医者の許可が下りていない。少し時間をおいて嵐のように来て去って行った看護師が朝食の配膳をする。この間に患者は洗面や歯磨き、オシャレに気を使う患者は着替え等身支度を整える。
壱佳に話があった託生は看護師に朝食を個室に設えられたソファで摂りたい、と伝え、壱佳にも一緒に食べよう、と誘った。
ベッドの上では酸素マスクがまだ手放せない託生だが、短時間であればマスクなしでも苦しくない。看護師も朝のサチュレーションモニターの数値から大丈夫と判断して了承してもらった。
けれど、壱佳からは否の返事をもらってしまった託生は1人でモソモソと美味しく感じない朝食を食べた。
食後、ベッドに戻って酸素マスクを着けてスマホの画面を見ていた託生は、看護師が食器を下げに来た時、会話の端々から壱佳が食事を残していることを知った。
「壱佳の熱、まだ高いんですか?」
託生の問いに、看護師はだいぶ下がりましたよぉ~、と笑顔で答えた。
託生と違い、肺炎を起こしていなかった壱佳の熱は、本人が卒倒するといけないので内緒にしていたが、和田から聞いたところ40℃を超えていたらしい。解熱剤の点滴を受けてある程度熱は下がり、点滴が外されて介助なしでトイレに行けるようになったことは託生も知っている。
すると、壱佳の食欲不振の原因は託生だ。昨日、意識の戻った託生に義一が教えてくれたことが気掛かりなんだろう。
通常運転の壱佳ならばたとえ体調を崩していても託生と一緒に摂る食事を不意にするはずがない。決して自意識過剰という訳ではないが、託生と壱佳は滅多に喧嘩をしない、仲の良い関係を築けていた。
病院の1日は朝の慌ただしさを除けば後は暇だ。話し相手の壱佳もカーテンの向こうなのでスマホでSNSを見る。
託生のSNSアカウントは専ら見る専門で滅多にメッセージを送らない。壱佳のアカウントを見たが、目新しいメッセージはなく、次いで保護犬・猫のInstagramを見る。動物の写真を見ていると心が洗われるようでいつもなら時間の許す限り見てしまうが、今日は気掛かりな壱佳のことがあり、早々にスマホの電源を落とす。
早いうちに壱佳に話をしようと決め、だが、話があるんだけど、と言うと朝食の時のように逃げられると思った託生は、直にアタックすることを決めた。
酸素マスクを外した後、身体を起こしてリノリウムの床に足を着け、立ち上がってカーテンを開ける。
「あっ」
目の前にいたのは壱佳で、慌てたように、
「とっ、トイレ?」と聞く。
「壱佳に話があって」と言いながらスリッパに足を通す。
「僕も」
壱佳の話は想像がつく。
「ソファでいい?熱が上がるといけないから上に何か羽織っておいで」
壱佳はパジャマの上下しか着ていない。まだ熱があるというから身体が火照って寒さを感じ難くなっているのかもしれない。その上、スリッパは履いているが裸足だ。
「うん。たぁくんも」
言われてみれば壱佳のベッドに行こうと思っていたのに託生もパジャマの上下しか着ていない。壱佳のことは常に気にしているが、託生も自分のことは後回しにしがちだ。
壱佳が自分のベッドに戻るのを見送ってカーディガンを羽織り、病室に備え付けの冷蔵庫の扉を開ける。中にはお見舞いに来る義一や隆徳が持って来るペットボトルの飲み物が入っている。
紅茶派の壱佳に1本選び、だが、まだ熱が完全に下がっていないのでもう1本は経口補水液を選ぶ。冷蔵庫の上に置いてある食事の時に使うプラスチックのコップを2つ、ソファテーブルに持って行って壱佳を待つ。
「ごめん、お待たせ」
壱佳はパジャマの上にジップアップパーカーを着ていた。託生と違い、壱佳はオシャレにも気を使うが、院内でもパジャマで1日を過ごすのは、まだ本調子ではないからだろう。
壱佳を先にソファに座らせ、次いで託生が正面に座る。
「どっち飲む?」
「ん~、どっちもいいけどポカリにしとく」
経口補水液を好んで飲まない壱佳が選んだということは、やはりまだ本調子でない証拠だ。託生は壱佳のコップにキャップを開けた経口補水液を注ぎ、自分のコップにも同じものを注ぎ入れる。
「いただきます」
経口補水液を1口飲んだ壱佳はコップをテーブルに戻し、
「ごめんなさい」と託生に頭を下げて謝った。
壱佳に謝られることは想定内だった託生は先ずは壱佳の話を聞こう、と決める。
「僕がサチュレーションモニターを付け忘れなかったら、たぁくんをもっと早くに救急病院に運ぶことができた。本当にごめんなさい」
もう1度、壱佳が頭を下げる。
「でも、壱佳も体調が悪かったんだし、壱佳が義一くんを呼んでくれたお陰で気付くことができて、ぼくも壱佳も適切な治療を受けることができた。義一くんを家に招き入れたのは壱佳だ。気に病むことはないよ」
壱佳が保育園児の頃、家で呼吸が止まった託生を発見した時も託生は壱佳に助けてもらった。誰もが壱佳の手柄を認めていたのに、当の壱佳は自分が託生を助けられなかったことを深く悔やんでいた。市立病院の担当医だった三洲が人工呼吸で託生を蘇生させたが、6歳の壱佳にmouth to mouthは知識もないのでできなかった。
でも……、とまだ壱佳は浮かない顔をしている。
「たとえ僕が義一くんを呼んでいたとしても、たぁくんを苦しませることはなかった」
たらればの話を繰り返しても解決しないし、壱佳も納得しない。これは、壱佳が自分の気持ちに折り合いをつけるしかないと思う。その上で託生は自分の考えを壱佳にぶつけた。
「壱佳は責任感が強いから自分のミスでぼくの搬送が遅れたことを気に病んでるのはわかる。壱佳も体調が悪かったし、ミスは誰にでもあることだ。だけどね」
厳しいかもしれないが、壱佳が目指す道はミスが許されない。壱佳が侮っているとは思えないが、託生から壱佳に伝えることで意識がはっきりする筈だ。
「壱佳が就きたい救急救命士という職業は失敗が許されない厳しい職場だ。ぼくの為に将来を決めてくれた壱佳には正直、申し訳ないとも思う。けど、壱佳が選んだ道ならぼくは全力で応援する」
「うん、ありがとう」
壱佳がはにかんだ笑みを見せたのを見て、壱佳はもう大丈夫だと思った。
「壱佳も人間だから体調不良とか、今回のようにミスがあるかもしれない。でも、壱佳にはどんな状況でも要救護者を助けられる優れた救急救命士に、ぼくはなってほしい」
壱佳は真顔になり、託生の言葉を真摯に受け止める。姿勢を正し、
「はい、わかりました」と応える姿はすっかり大人の顔をしている。
託生はコップに注いだままの経口補水液を飲むと、壱佳の隣の席に移動し、壱佳を抱き締める。どこに手を回していいか、彷徨っていた壱佳の手を握り、託生の身体に回させる。
「義一くん、嫉妬しちゃうよ?」
「まさか。こんなおじさんなのに?」
壱佳の背中をポンポン、と叩いて身体を離す。一瞬、壱佳が寂しそうな顔をしたが話はまだ終わっていない。
「今まで壱佳を塾に通わせてなかったけど、大学受験だし予備校には行った方が良いと思うんだけど、壱佳はどうしたい?」
今まで託生は何をするにも壱佳と話し合って物事を決めてきた。勿論、意見が対立する時もあったが、互いの意見を言い合い、時には尚人に相談してベストな道を歩んできた。
今回も壱佳の希望を先ず聞く。
「今のままでいい」
「でも、T大だよ。厳しいんじゃないかな?」
「なんか予備校に行ったら自分の勉強ペース、乱されそうで。結構上手くいってるから学年トップなんじゃん」
「本当に?お金なら……」
葉山家の生活費は全て尚人が工面していて、託生の収入は専ら貯蓄に充てられ、今回の入院のような臨時支出にも充てられる。尚人のお陰で今まで金に苦労したことはないが、壱佳は気にしているかもしれない。
「模試は受けてるし、予備校に通う必要があると思ったらちゃんと言う。小さい頃からの夢だもん。浪人なんかしない」
それなら尚更予備校に通った方がいいと思うが、壱佳は託生に似て頑固だ。柔軟な考えを持ちつつ、自分の意思は貫き通す。そんな壱佳は小学生の頃から常に学年トップの成績を維持していた。
「身体だけは壊さないでね」
託生と一緒に暮らす壱佳は健康面にも気を使っていて、滅多に体調を崩さない。今回のインフルエンザは壱佳にとっても、託生にとっても予想外の出来事だった。
「厳しいですね」
廊下で義一の隣に立ち、扉1枚隔てた病室内の会話を盗み聞きしていた主治医の和田という男性にそっと話し掛ける。託生の言うことは至極もっともだが、それは赤の他人の救急救命士と要救護者で、壱佳と叔父甥の関係にある託生には肉親の情がある。
義一の身近にいる人間ーーーーー崎裕明も含めーーーーーは総じて身内に甘い印象があった。
「叔父さんとはいえ、託生さんと壱佳くんは親子も同然。もっと甘いかと思った?」
「父はなんだかんだ言いながら家族には甘いですから」
獅子の子落としは有名な話だが、実際に落とす訳ではなく見守るという表現で使われることが多い。どんなにいがみ合っていても、自分の腹を痛めて生んだ子供は総じて可愛いからだ。限界ギリギリまで我が子の頑張りを見守り、こっそりと手助けをしたり、この子には無理だと判断して心を鬼にしてチャレンジを止める優しさもある。
託生自身救急要請することが多いから、壱佳にはどんな時でもミスなくこなすよう発破をかけているのだろうか。
「コンディションが悪い時に、それを周りに気取られず、いつもと同じ働きをして帰って来たら、待っている家族としては勿論心配だけれども嬉しくならない?」
それは、義一の掲げる希望的観測だ。義一は体調には十分気をつけて生活しているが、万全ではない。寝不足1つ取っても注意力が散漫になる。
「そうですけど、なかなかできるものでは……」
「託生さんは壱佳くんの親代わりですから、頑張る壱佳くんを応援したいんです。家に帰って来て、手放しで褒めたいんですよ」
「すごく喜ぶと思います」
壱佳は託生が好きだから。あれほどあからさまなのに何故、託生に伝わらないのか疑問に思う。
「義一さんは壱佳くんの友人ですから託生さんの言葉が今は理解できないと思いますが、義一さんも家庭を持てば託生さんの気持ちがわかるようになりますよ」
「まだ18ですよ?」
「そんなに格好いいんですから、彼女くらいいるでしょう」
藪蛇をつついてしまったらしい。和田と話をする為に早く来たのだが、今すぐ病室に駆け込みたい気持ちになる。
「ところで、和田先生は何か用があったんじゃ……」
咄嗟に話題を方向転換させる。
「壱佳くんが食事を残したと連絡を受けて、話を聞きに……。でも、託生さんが解決してしまって」
「じゃあ、暇ですよね。託生先生のことでご相談があるんですが」
「なら、一緒にランチでもどうですか?」
和田は30代後半の男性だが言葉だけでなく、短髪を明るく染めた髪型から受ける印象もカジュアルで話し易い。和田に話す話は託生にはしていないが、何れは、と思っている。
「是非とも」
和田が義一の肩に手を当て、ナースステーションの方へと歩いて行く。
「た~あ~くんっ、お~はよ~っ!」
個室の扉を勢いよく開け、幼い子供が友達の家に遊びに行った時のように元気な声で壱佳が朝の挨拶をする。朝の挨拶をするには少し遅い時間帯だが、今日初めて会うのだから構わない。託生と壱佳が仲良く入院して10日後のことだ。
入院して3日目には壱佳は平熱に戻り、インフルエンザも陰性になったので先に退院した。その頃には託生のインフルエンザも陰性になっていたが、肺炎が治っていなかったから託生の退院は見送られた。入院して呼吸器系統の詳しい検査をしたところ、全体的にかなり弱っていたらしい。マンションで寂しくも束の間の一人暮らしを楽しみつつ高校に通い、偶にモデルのバイトに行き、帰りに託生の見舞いに行く。
託生の退院はまだ先だが、見舞いに来ていた義一と壱佳の前で和田から外出を勧められた。早々に外出を勧められたということは、過去の経験から退院日が近いことを指す。
壱佳が入院中はしょっちゅう託生のベッドに邪魔したり、売店に行ったりして身体を動かしていたが、託生はまだ長距離歩ける状態ではなかったこともあり、ほぼベッドの上にいた。壱佳が退院して喘息が起きていない状態でも託生は自主的に病院内を見て回らなかったので、退院後の生活を考えた和田から話が出た。
託生、壱佳、義一、そして退院した壱佳の様子を見に来た隆徳の4人で相談して病院に近い水族館に行くことを決めた。動物好きな託生の希望は勿論動物園だろうが、託生には危険だし本人もわかっているので希望は出なかった。問題は当日、和田の診察を受けて無事に外出の許可が下りるかだ。
「朝ご飯、残さず食べた?」
「うん。診察も大丈夫そうな気がする」
そう言う託生も今日の外出を楽しみにしているようで、壱佳が買って来たパールグリーンのパーカーにジーパンというスタイルだ。勿論、壱佳も今日の外出を楽しみにしていて、隆徳に贈られた白のシャツに、オフホワイトのジャケット、同系統の色合いのチノパンを履いている。白系統の服で全身をコーディネイトしても格好よく見えるのはスタイルも一理あるが、スタイリストの隆徳が選んだ服だから、というのが大きい。
「佐智くんも来るし、楽しみだね」
義一が来日してから佐智とはこまめに連絡を取っているらしく、義一と託生が付き合い始め、壱佳とも会っていると聞いた佐智が会いたがって今回の計画が持ち上がった。
義一を託生の恋人と認識している隆徳は始めは快く話を聞いていたが、もう1人佐智も一緒と聞いて嫉妬心がムクムクと膨れ上がり、俺も行く、と言い出した。この間はうまく誤魔化せたが、いつまで託生に内緒にできるかわからない。壱佳の気持ちを悟ったように、佐智にも年上の男の恋人がいるし、恋人は仕事が忙しいので今回は祠堂保育園組で、と義一が隆徳を納得した。保育園組程度では仕事そっちのけで隆徳はついて行くと言っただろうが、佐智に男の恋人がいる、という証言は義一以外の3人に衝撃を与えた。
託生先生も会ったことありますよ、と言われても不思議顔をしていた託生とは違い、壱佳はなんとなく佐智の恋人が頭に浮かんだ。義一や佐智のSPをしていた山田聖矢だ。託生が倒れたバスハイク以降顔は見ていないが、なんとなく2人の間にはただならぬものがあると感じていた。
今日の託生の顔色はよく、酸素マスクをしないでも息切れしていない。
「託生さん、朝の回診です」
託生が今まで入院していた病院は総じて苗字呼びだが、託生と壱佳が入院し、しかも義一の計らいで同室になった為、託生は託生さん、壱佳は壱佳くんと分けて呼ばれ、それは壱佳が退院した今も定着している。
壱佳が託生と診察の話をしていると、和田が看護師を連れてやって来た。いくら家族でも診察には立ち会えない。診察時間は長いが、壱佳は廊下に出て待つ。ありがとうございます、と早々に託生の声が廊下にいても聞こえ、どうやら無事に外出できそうな気配がする。
大病院でよく耳にする3分診療はこの病院では軽症で入院した壱佳でも経験しなかった。特に託生の担当医の和田という医者は雑談も交えつつ抜かりない診察をするので、かなり診察時間は長くなる。インフルエンザで軽症の壱佳でも診察時間は変わらず、それは完全予約制のこの病院だからできることだと和田が話してくれた。
託生が和田と話をしている途中で看護師が出て来て、ちょっと来て下さい、と壱佳をナースステーションに連れて行く。ナースステーションの楕円形のテーブルには酸素ボンベや、壱佳の見舞いに来た隆徳に壱佳が教えても結局最後まで言えなかったサチュレーションモニター、この病院に入院して託生が使用するようになった強力な喘息吸入薬が置かれていた。
「和田先生から託生さんに説明されてますが、壱佳くんにも。出先で発作を起こした時の為ですので、荷物になりますけど必ず持って行って下さい」
これらは託生の命を繋ぐ大切なものだ。確かに荷物にはなるが、苦痛にはならない。
吸入薬とサチュレーションモニターは家でも使用しているので使い慣れているが、酸素ボンベは託生は今まで携帯していなかった。初めて使うかもしれないので看護師から使い方を教わる。教え終えた看護師はそれらを病院のリュックサックに入れてくれた。
「それから、託生さんは乗り物酔いが酷いので、今は体力も落ちていますし、できるだけ乗り物は避けて下さい」
マンションで暮らし始めてエレベーターにもあまり酔わなくなった、と託生が言っていたが、全くない訳ではなく看護師の話に素直に頷く。
「喘息発作が酷くなくても発作が起きたら先ず連絡。こちらで応対しますので救急車よりこの番号に掛けて下さい」
看護師が病院名と住所・電話番号が書かれたゴム印をメモ用紙にスタンプし、切り離して壱佳に手渡す。
「無闇に動かさない方がいいんですね」
それと、と前置きした看護師は念の為、と言って大量のビニール袋を壱佳に持たせてくれた。外出を計画して、3人でエチケット袋を作っていたが、看護師の心遣いが嬉しい。叶うなら医療器具もエチケット袋も荷物になっちゃったね、と笑いながら帰って来たい。
「ありがとうございます」
看護師に礼を言って、リュックサックを提げた壱佳が託生の病室に足を向ける。すると、個室の前の廊下に性別は髪が長くおかっぱでわからなかったが、壱佳より背の低い人が立っていた。もしかして、と思ったが、10年以上髪型が変わらない人を壱佳は知らない。オシャレに気を使わない託生でも髪型は僅かな変化だが、ある。
壱佳の靴音がおかっぱにも聞こえたらしく、振り返って、
「「あ〜〜〜〜〜っ!」」と二人同時に叫んだ。
信じられない。昔、世話になった託生のお見舞い兼外出に誘われて病院に来たら、モデルの壱がいた。
壱は音楽かぶれで、ファッションに興味のない佐智に、仕事で組んだ女性ピアニストに勧められて見た雑誌に載っていたモデルだ。着ている服もロックやパンク系でなかったのもあり、佐智でも似合いそうだったので彼が着ていた服は殆ど購入した。彼は王子様のように格好よく、一目で彼に惹かれたが、佐智には歳上の恋人がいる。もし、聖矢と知り合う前に彼と出会っていたら恋人に立候補したり、恋人になれなくてもストーカーにはなっていたかもしれない。聖矢と恋人関係にあるので壱に恋愛感情はないが、珍しくファッション雑誌を定期購読してしまうくらいには佐智は彼が好きだった。
その壱が佐智を見て叫んだ。佐智も驚きのあまり声を上げてしまったが、彼程ではない……と思う。
「もしかして、佐智くん?」
答える間もなく壱が佐智に抱き付き、真っ先におかっぱの髪を撫でる。
佐智の髪は小さい頃は母親のマリコが切ってくれた。バイオリンを弾くのが楽しく、ファッションに興味のなかった佐智は長年おかっぱを維持してきた。そんな佐智が壱を見て服装だけでなく、髪型も真似てみたが恋人だけでなく幼馴染にも不評で、諦めて元のおかっぱに戻した。彼ら曰く、佐智じゃないみたい、だった。
しかし、一購読者の佐智を壱が何故知っているのか?答えはただ1つ。壱が佐智の知り合いだった、というパターンだ。そして、託生が入院している病院にいること。この病院は著名人御用達らしいから、もしかして壱も病気で入院療養中?しかし、目の前の壱は至って健康そうだ。
「わかんない?壱佳だよ」
よくよく考えれば壱佳と壱が同一人物である可能性は高かった。壱佳の名前から壱だけを取って付けた芸名。託生の入院先の病院にいたことも。託生と恋人同士になった義一は勿論知っていたということだ。佐智のヘンテコ頭を見て笑った時も傍には壱の雑誌があった。
「わかんないよ。すっごく格好よくなっちゃって」
「佐智くんは全然変わってないね」
「佐智、声デカ過ぎ」
エレベーターホールの方から悠然とした足取りで義一が歩いて来る。そろそろ集合時間のようだ。
義一は声が大きいと言うが、ファッションに興味のない佐智が定期的に雑誌を購読する程好きな人なのだ。その人物が昔、祠堂保育園で一緒に遊んだ壱佳だとは到底思わない。
託生の病室から男性の声が聞こえ、漏れ聞こえてくる話の内容から担当医の診察中だと思ったのでノックもできなかった。佐智と壱佳の叫び声は当然室内にいる託生にも聞こえた筈だ。
和田が扉を開けて廊下の様子を窺う。
「壱佳くん、病院では静かに」
和田が唇の前に人差し指を立て、シーっ、のジェスチャーをする。
「これ以上お楽しみの時間を奪ってもいけませんし、次の患者さんも待っているのでそろそろ失礼しますね」
和田は再び室内に入り、二言三言室内の託生と話をした後、今度こそ病室を出て行った。
「感動の再会はわかるけど、先生待ってるぞ」
義一に背中を押され、壱佳は抱擁を解き、リュックサックを提げた壱佳が先に病室に入る。
「壱佳、声大きい」
「ごめん。あまりにも佐智くんが変わってなくて」
一歩中に入れば託生がいる。あの時は会うこともできなかった託生は元気になって、13年という月日を生きてきた。
涙腺がジワっ、と緩んで目頭が熱くなる。
「会う前から泣いてどうする」
うんうん、と義一の言うことは尤もで、洟を啜りながら指先で溢れてきた涙を拭う。
「でも、今は無理かも」
園児の頃は知らなかった託生の凄絶な経験を知ってしまった。佐智のバイオリンの師匠の須田が託生のバイオリンの先生だと知ったのは偶然だった。託生も佐智の好きなバイオリンを弾いていたと知って喜んだのも束の間、託生は階段から足を踏み外して骨折し、左手には麻痺が残った。その怪我の影響でバイオリンを辞めたとも聞いた。確かなことは言えないが、その事故は故意に突き落とされたらしいことも聞いた。
長年託生を想ってきた義一にその話を全てした。義一は冷静に話を聞き、託生に会って真実を突き止めた。託生らしい、けれど辛い事件だった。
「悟られるなよ」
「わかってる」
託生は義一だけに真相を語って聞かせた。それを佐智に教えてくれたのは情報源が佐智だったことと、佐智もバイオリニストだったからで、事件の疑惑があった以上事実を詳らかにする、と言って教えてくれた。
「先生、佐智も着いた」
先に義一が病室に入って行き、もう一度ズズッ、と洟を啜って佐智も義一に続いた。
「佐智くん、久しぶり……って鼻真っ赤。どうしたの?」
洟はなんとか引っ込んだが、皮膚の色まで対処できない。託生の身に起こった悲しい事件を思い出していたと言えない佐智は口籠る。すると、義一が気を効かせて佐智を援護してくれる。
「コイツ、壱佳のファンだから、実物が一緒に遊んだ壱佳だと知って嬉し泣きしてんの」
「ファンだったんだ」
何故か、壱佳はしんみりとした口調だ。託生からも笑顔が消える。
「ファッション誌なんか見ない奴なのに、ある日遊びに行ったら雑誌があって。次に会ったらおかっぱじゃねえの。どういう心境の変化だって聞いたら、壱佳の雑誌を出して、壱とお揃いって。服も壱佳の真似して着てみるし」
「良かったね、壱佳。身近にファンがいて」
「うん。でもごめんね。僕、来年にはモデル辞めるんだ」
託生と壱佳の顔色の変化は壱佳がモデルを辞めるかららしい。長年見続けていたモデルが雑誌から消えるのはファンとして悲しい。どんなに佐智が壱佳のファンでも、壱佳がモデルを辞める理由はあるはずだ。
「佐智くんも義一くんももう社会に出て働いてるけど、僕は高3だから受験で」
壱佳は高校生になって雑誌に載り始めた。それから毎月落ちることなく載り続けていたので佐智の周りにも壱佳のファンはいる。壱のインタビュー記事を見て、壱佳と知らずに好感を持った。
「もしかして、医者になりたいの?」
壱のインタビュー記事には必ずと言っていい程、持病持ちの叔父の話が載っていた。将来、叔父に何かあった時の為に助けられる仕事に就きたい、と。
「ううん。救急救命士。ドクターは1番に駆け付けられないから」
壱佳がモデルを辞めるのは残念だが、託生のことを気遣ってなら佐智は応援する。しんみりとした空気を笑って吹き飛ばした壱佳が反対に聞く。
「でも、佐智くんがファンだなんて初耳。義一くん、何も言ってくれなかったし」
「そりゃ、オレは先生に会いに行ったんであって、正直佐智が壱佳のファンだったことは忘れてた」
義一の優秀な脳細胞は彼にとって必要とみなされる事象だけがインプットされる。不必要・興味がないと判断されれば、たとえ幼馴染の佐智に関することでも削除される。
「ヒド〜い」
壱佳が手で頬を覆って泣き真似をする。
「だってそうだろ?1ページ毎に壱佳の髪型も服装も変わってて、翌月にはシーズンも変わる。オレの頭は託生先生で満タンなんだ」
言われてみれば義一の言うことは尤もだ。ページごとに違う壱佳が現れていれば、壱佳と壱が同一人物とは思わない。それに、11年も会っていなかったのだ。
「でも、先生に会った後も内緒にしてたのは?」
義一の頭脳は大変優秀で、一旦削除した記憶でも簡単に復元させることができる。確かに壱佳と会うまで佐智の好きな壱の記憶はなかっただろうが、再会したことにより絶対に思い出していた筈だ。
「どんな反応するか楽しみだったからに決まってんだろ」
「佐智くんが壱佳に驚いたのはわかったけど、壱佳はなんで?」
それまで聞き役に徹していた託生が壱佳に聞く。
佐智も音楽雑誌に載ることはあるが、音楽が好きな人が購入するので壱佳は佐智を見なかったのかもしれない。
「保育園の頃と一緒。耳の下で切り揃えられたおかっぱがあまりにもまんまで」
3人の視線が佐智の髪に集中する。
「そういやそうだ。今まであまりにも普通に見てて気付かなかったけど、餓鬼ん頃と全く同じだな」
「美容院は同じとこ?」
佐智は世界中を駆け回って演奏活動をしているので髪が伸びたら切る程度で特に統一していない。日本にいれば同じ美容院で髪を切るくらいは統一しているが、抑も髪を切るのもスケジューリングされている。
「たぁくん。佐智くんにもスタイリストが付いてて、定期的に髪を切ってるんだよ」
壱佳の言う通り、佐智にはスタイリストが付いている。演奏活動に関係ないと佐智は思うが、佐智が壱佳の髪型を無断で真似た時はこっぴどく叱られた。幸か不幸か、早々に恋人と幼馴染に駄目出しを食らったので佐智の冒険を知る人間は少なかった。
水族館までは本来なら電車に乗るのがベストだったが、和田からできるだけ乗り物を避けるよう言われていたので、のんびり徒歩で移動する。託生の身体を気遣って振り返りながら歩くので、申し訳なくも彼らの表情を見る限り嫌がられていないことがわかり嬉しかった。
「なんか……」
託生が言葉を発しようとすると一斉に注目される。
「たぁくん、苦しい?」
託生の隣を陣取って歩く壱佳が足を止め、背負っていたリュックサックを下ろし中を漁る。病院で借りてきたサチュレーションモニターを探っているのだろう。
慌てて違う違う、と身体に異変がないことを伝える。
「13年前みたいだなぁって」
13年前、入院中の託生は担当医の三洲と一緒に祠堂保育園のバスハイクに参加した。託生は早々にリタイアしてしまったが、あの時もこのメンバーだった。
「オレも似たようなものだけど、佐智は遠距離が始まったちょっぴり悲しいバスハイクだったな」
「えっ?!そうなの?」
壱佳が驚きの声を上げる。
「佐智くんの恋人ってあの人でしょ?」
コショコショと佐智のところまで行って耳打ちする。佐智は義一の後ろを歩いていたので、走って託生の前に出た形だ。
「壱佳くんにはバレてたか。うん、そうだよ」
「遠恋って仕事で?」
「SP辞めてマトリになったんだ」
壱佳は佐智の恋人が誰か、わかっているようだが託生にはさっぱりだ。義一は託生も会ったことのある人物だと言っていた。
「まだわかんない?」
元SPで13年前佐智の傍にいた人物といえば山田聖矢しか思い付かない。けれど、聖矢は託生と同い年で佐智とは15も歳が離れている。
「でも、15も離れてる」
「たぁくんと義一くんも歳の差15だろ?」
再び託生の隣に戻って来た壱佳に冷静に指摘される。
13年前は犯罪だとぼやいていたが、今ではあまり感じない。託生が麻痺したのか、歳の差を感じさせないくらい義一が立派になったのか。
先頭を歩く義一の傍らに佐智が並び、コソコソと耳打ちする。後方を歩いている託生にその声は聞こえなかったが、佐智は驚いているようだった。
「二十歳までお預け。その点、佐智はラッキーだったな」
どうやらキスやその後の身体の関係があったか聞かれたらしい。時代錯誤な託生の考えを尊重してくれる義一はなかなかに良い彼氏だ。
「お前はオマセだったんだよ。6歳で経験済みなんて、犯罪だろ」
驚きのあまり託生の足が止まる。
聖矢は6歳の佐智にキスしたのだろうか。考えたくはないが、幼児趣味の人間は相手の年齢に拘らず身体を弄ることもある。
「ちょっと義一くんっ、たぁくんを誤解させないでっ!」
今の話のどこが誤解なのか。オマセというのはそういうことを指していると思うのだが。
義一が託生のところにやってきて、事細かに佐智と聖矢の関係を教えてくれる。どうやらオマセと言ったのはほっぺにチュウの範囲で、それ以降は暫く会っていなかったという話だが、それでも6歳児にキスは犯罪だ。しかも、今は現役のマトリ。厚生労働省の職員で国家公務員だ。
「先生。オレたちのあれも今時珍しいけど、佐智のはほんっと極僅かな症例っていうか。チュウしたのは最後のSPの仕事の時。今度会える時まで元気で、って別れの挨拶みたいなもんだから」
それでも6歳児のふくよかな頬にキスするなんて、意外と聖矢は手が早いのかもしれない。
「佐智くん」
早足で佐智の隣に並び話をする。とっくに保育園の保育士は辞めている託生だが、子供が心配なのは変わらない。
「今、幸せ?」
どんなに託生が心配したところで結局のところは双方の想いの方を優先する。遠距離恋愛で辛いなら楽な方を選ぶ逃げ道もある。佐智にはバイオリンがある。
「はい。寂しい時もありますけど、聖矢さんは毎日欠かさず電話をくれます。聖矢さんの声を聞くと寂しさが吹き飛んで会った時にしたいこととか、そういう幸せな願望で満たされるんです」
「ぼくは詳しくないんだけど、怪我の心配とかは?」
「義一くんと聖矢さんの上司の方が懇意で、今までラッキーにもそういう心配はなかったんですけど、連絡が入るようになってます」
ご両親は知ってるの?と聞きたい気持ちはあったが、二十歳までキスや身体の関係を持たないのは葉山家の教えで、他の家には関係ない。注意したい気持ちは抑えることにする。それに佐智には義一がいる。義一の性格ならば託生に手を差し伸べてくれたように、困っている人を助けるだろう。
「壱佳くんの恋人は?」
振り返って佐智が聞く。
モデルをやっているだけあって壱佳は女の子にモテる。義一も相当モテたみたいだが、壱佳もなかなかだ。
「告白されて付き合うんだけどいつも振られちゃうんだ。帰るコールって当たり前だと思うんだけど」
デートに出掛けても壱佳は夜の9時になると帰るコールをしてきた。高校生になって、中学時代の友達とルームシェアしている時も、託生が知らないうちに隆徳の家で居候している時も。だからという訳ではないが、託生はいつの間にか家に帰っていなかったことにも気付けなかった。その間、壱佳が高校に遅刻した話や、無断欠席といった連絡も一切入っていなかったからだ。
託生は壱佳が交際してきた相手に会ったことはない。葉山家の教えがあっても顔合わせ前にデートするのは自由だ。デートしてその人の人となりを知っておく必要があるからだ。
「意外。聖矢さんがいなければ立候補したいのに」
本気ではなく、話の流れで佐智が言う。
「アハハ。ごめんね、好きな人はいるんだ」
頭を掻きながら壱佳が謝る。
壱佳の好きな人を託生は知らない。ちょくちょくアメリカの尚人に電話しているので尚人は知っていると思うが、やはり叔父の託生には言いたくないのかと思うと少し寂しい。
「告白した?」
「ううん。何れはって思ってるけど今はいいやって」
「なんで?壱佳くんなら大丈夫だよ」
「だって彼氏もちだし」
託生の脳裏にゆかりの姿が浮かび上がる。ゆかりは託生と付き合っているにもかかわらず、他の男とも交際し、妊娠までした。託生とは静岡に向かう新幹線で別れた切り連絡もなかった。託生はゆかりに着信拒否されてしまったので、こちらからは連絡の取りようがない。
「彼氏と一緒にいて幸せそうだから」
託生が二股をかけられて失恋したことを知っている壱佳ならば2人の関係を引き裂こうとしない。自分の恋が実らないとわかっていても壊そうとしないのは、壱佳が心優しい人間に育ったからだ。
「じゃあ、2人が分かれたら?」
「着いたぞ」
いつの間にか壱佳と佐智の会話に気を取られて水族館の建物が見えていたことにも気が付かなかった。病院から水族館までちょっと距離があったが、みんなとの会話が楽しくて全然苦しくなかった。
「たぁくん、歩けたね」
抑も、今回の外出は一向にベッドから離れない託生の退院後の生活を心配した和田の勧めだ。発作が落ち着き息苦しくないのにベッドから離れないのは病院内に託生の気を引くものが少ないからだ。託生の希望は動物園だったが、決して叶わない夢なのはわかっていた。
「苦しくない?」
「ちっとも。ぼくに合わせて歩いてくれてありがとう」
壱佳、義一、佐智を順に見て、自然と笑みが零れる。
「お安い御用だ」
前方から義一が走って来て託生の手を握る。そのまま託生に合わせてゆっくりゲートへと歩いて行く。
「義一くん、待って~」
吸入器やサチュレーションモニター、酸素ボンベを持っている壱佳が託生から離れることはあまり望ましくない。叫んだ壱佳は義一と反対側に回って託生の手を握る。壱佳の様子を後ろから見ていた佐智は、あれ?と思うのだった。
水族館の計画が持ち上がった時に、入場券の入手方法や昼食の話も話題に上り、バラバラに買うと混み具合によって時間が掛かるだろう、と推測を立て、義一が纏めて買いに行くことになった。託生に余計な運動をさせるつもりは毛頭なく、託生が好きな壱佳は一時も託生から離れたくないと思ったからだ。
義一4人分の入場券を買い、それぞれに配ってメインゲートを潜る。壱佳は当然、託生の隣をキープして歩くと思っていたのだが、メインゲートを潜って直ぐ、先に見て回る、と言い出した。
週休2日の義一と、日曜日と平日が休みの託生のデートは日曜日しか時間が合わない。花火大会の日は補講日を作ってデート出来たが、今回は1週間以上入院し、入院中も生徒に補講日の連絡をしていた。
勿論、壱佳が看護師から預かったリュックサックは義一がクラッチバッグと一緒に持っている。
メインゲートを潜って直ぐ、川の源流から海へと続く水の流れや波の動きを再現し、それぞれの場所に生活する生きものたちを自然な姿で展示したエコアクアロームがあり、同じ建物内に約10種類のクラゲを展示したクラゲライフがある。同じ建物の奥にまっ白い体のベルーガの知能や特有の能力を生かしたパフォーマンスが見られるマリンシアターと見どころは満載だ。ただ、時間的な問題でベルーガのパフォーマンスには間に合わなかったのでスルーした。
エコアクアロームとクラゲライフを見て回った2人は、南の海の水中散歩をテーマとして、黒潮の源流に位置するサンゴ環礁の特徴的な部分を切り取り、自然環境を再現したトロピカルアイランドを見る。トロピカルアイランドの水槽の水深は7.5mと、この水族館では最も深く、パノラマ世界のような景色が広がっていた。
「凄い」
義一が巨大水槽に向かって託生の手を引いて歩いて行く。託生の地元ではないからか、託生から苦情は出ない。
巨大水槽には大型の魚から小さいものまで元気よく泳ぎ回り、見る者を楽しませてくれる。
義一が巨大水槽を見上げていると、キャアキャアと騒ぐ賑やかな一行がやって来る。それまで静かだった館内が一気に騒がしくなる。
託生と義一が揃って賑やかな一行に目を向け、
「懐かしいね」
賑やかな一行は幼稚園児だか保育園児だかわからない幼い子供を連れた集団だった。
「義一くんたちもあんな感じだった」
2列に並んで館内にやって来た園児のうち、2、3人が列から離れて水槽の方に走って行く。生きた魚が珍しいのか、水槽に触れ、時々硝子を叩いて魚たちを驚かせる。引率の先生が慌てた様子で園児を捕獲しに行き、元の列に並ばせていた。
「オレ、あんな悪餓鬼じゃなかった」
「確かに。祠堂の子供たちはみんな聞き分けが良くて手の掛からない子ばかりだった。本心がわからない子もいたけど……」
義一を見上げながら託生が言う。その表情は昔を懐かしむようで思い出し笑いをしている。託生に告白した義一のことを言っているのだと直ぐにわかる。
「ブレなかっただろ?」
自信満々に言う義一にクスッ、と音にして笑い、本当、と返す。
「義一くんに気に入られたのはわかってたけどまだ5歳だし……。それ以上に健吾とゆかりのことがあったから本気にしてなかった」
2人に裏切られたことは心の優しい託生のトラウマになっている。気軽に好きだとか、愛してると言う者が増える現代ではちょっと珍しいくらい自分の言葉に重みがあることを知っている。だから、託生は嘘を吐かない。
「花火大会の時、話題になった章三に会って来たんだけど……」
託生が章三と会った時、義一も壱佳と同じ喫茶店にいたので内容は知っている。託生は章三に、義一くんと付き合い始めた、と告白していた。
「ぼくは、13年も毎年、欠かさずに、花束を贈ってくれた、義一くんの気持ちに、応えたい」
託生は自分の気持ちを間違えないよう、噛み締めるように、義一の目を真っ直ぐに見て言った。
「章三は、好きとは違うって言ったんだけど、13年も毎年、愛してるって伝えてくれた義一くんだから、たとえ好きとは違うとしても義一くんと付き合いたい。それに、ずっと人の好意を信じられなかったからかわからないんだけど、好きって気持ちがわからなくて……。ゆかりには言えてた言葉なんだけど……、今は言うのが、怖い」
義一が花束に込めた想いを託生は正確に受け取っていてくれた。その上で毎年花束を拒否されることなく受け取ってもらえたのだから、託生の気持ちは好きと同等だ。
「好きと伝えられないぼくに嫌気が差したなら遠慮なく振ってほしい」
ゆかりは託生から人を信じる気持ちを奪っていった。だが、信じたいという気持ちはある。だから、託生から振ることはしないで、義一に振ってくれ、と告げる。そんないじらしい託生を抱き締めたくなる。
「先生、ここで抱き締めたら怒る?」
「当然。数m先にはこれからの未来を背負って立つ可愛らしい園児がいるんだよ?」
託生の視線が義一から賑やかな園児に移る。その眼差しは慈愛に満ちたマリア像のように優しげで、知識とか教養とは違ってこの人には一生敵わないと思う。
「公共の場ではふしだらなことをしてはいけません。習わなかった?」
一般常識だ。けれど、最近の若者は衆人環視の目の前で堂々とラブシーンを繰り広げる。
「知ってるけど……、ふしだらかぁ?」
「園児が真似するとマズいだろ?」
それは納得する答えだ。だが、それで納得していてはいつまでも託生とイチャイチャできない。……と思い至った義一は相当現代の若者寄りの考え方の持ち主なのかもしれない。
「たぁくんっ!」
手を振りながら壱佳が走って来る。壱佳も館内で走ったことを注意されるな、と予想をつけつつ、託生の手を離し一歩離れる。
「壱佳、声大きい。後、走っちゃダメだよ。小さい子もいるんだ。ぶつかったら怪我させちゃう」
託生が視線を園児の方に向けると壱佳は始めから園児たちがいることは知っていたようで、
「幼稚園バス、停まってたもんね。かわいいなぁ~。僕たちにもあんな頃があったなんて信じられない」
「佐智は?」
広い館内を見渡すが佐智の姿が見当たらない。
「キーホルダー選んでる」
ギフトショップはメインゲート脇の建物だ。もしかしなくても壱佳は先に館内を見て回り、佐智は聖矢への土産物、といったように別行動だったのかもしれない。
「もう全部回ったのか?」
入院中の託生の体力では頻繁にガス欠もあるだろう、と思い、敢えてゆっくりと展示施設を見て回っていたが、健康に問題のない壱佳が走って展示品を見て回るとは思えない。走り回る程子供ではないと思いたかった。
「僕はここ、初めてだからどのくらい広いのかと思ってザっと見たかったからさ」
確かに、託生に合わせて見て回るのは勿論だが、建物と建物の間がどの程度の距離離れているか知ることは大切だ。壱佳は義一に託生とのデートを堪能させてくれたのかと都合よく考えてしまったが、世の中そんなに甘くない。
「マリンシアターのベルーガは14時、サーフスタジアムのイルカ、オーシャンスタジアムのシャチ、ロッキースタジアムのアシカが30分ずつ繰り下がる感じでショーやってる。ご飯前だとベルーガとイルカなら見られるかな?」
「何時だ?」
「12時と12時30分」
全て30分ずつか、と呟いた義一は腕時計で時刻を確認し、
「先生、腹減った?」と聞く。
「大丈夫。でもそのタイムスケジュールなら先にベルーガとイルカ見ればええっと、何時間だ?」
託生も慌てて腕時計で時間を確認するが直ぐに答えが出て来ない。
「2時間ありゃ飯も食えるし、お土産も見られるな」
「うん」
……となると後は佐智待ちだ。時間に余裕はあるが、早く歩けない託生がいるので早々に探しに行った方がいいかもしれない。
「しかし、家の鍵なんかどうすんだ?」
佐智が選んでいるというキーホルダーのことだ。佐智は家の鍵を持ち歩かない。フランスのアパートの鍵は大家に預けているし、日本では家には常にマリコがいる。家のインターフォンを鳴らしても家政婦が出てくれる。
「聖矢さん家のだって。お揃いにするみたい」
「合鍵か」
ちょっと羨ましい。チラっと託生を見るが、義一の視線に気付いたのは壱佳で、
「僕たちもお揃いにする?」
「家は電子錠だからキーホルダー付けらんないよ」
最近の賃貸物件は防犯上、規定数以上の鍵を家主に預けない。けれど、託生のマンションは持ち家だし、余っている鍵があるかもしれない。
「壱佳は瀬尾さんにお土産買わなきゃだよ」
隆徳は壱佳と行く水族館を楽しみにしていた。今回は祠堂組の同窓会、という理由もあるが、1番は壱佳の入院中、1日も欠かさず見舞いに来ていた仕事のツケが溜まり、遊んでいられなくなった方が大きい。
「お菓子とか食べないし、佐智くんの真似しようかな?」
「壱佳とお揃いにすれば?車に付けるよね?」
「そうだね。後でじっくり見てみる」
壱佳は必死で隠しているが、隆徳は壱佳を恋愛対象として見ているらしい。壱佳が隠そうとしているので義一の胸に留めておくが、隆徳もいつまでも待ってくれないだろう。
「義一くん、お待たせ」
会計を済ませた佐智が小走りでトロピカルアイランドにやって来る。途中、園児たちの通行止めに遭ったが、慌てることなく一行が通り過ぎるのを待ってゆっくり歩いて来る。
「いいのあったか?」
高価な品物ばかりがいい訳ではないと義一も佐智もわかっている。
「イルカのキーホルダーにした」
可愛い系?と聞く壱佳に自分の分のイルカのキーホルダーを袋から出して見せる佐智を連れてベルーガのショーをやっているマリンシアターに行く。マリンシアターは昼時ということもあり然程混んでおらず、ショーの後の移動もサーフスタジアムのイルカまで殆ど距離がなかったので走ることもなかった。
ベルーガとイルカのショーを見終わった一行はマウリというフードコートで昼食を摂ることになった。他にもレストランはあるのだが、シャチとアシカのショーを見る予定があるので時間に余裕がない。その為、自分で食器を配膳して時間のロスを防ぐフードコートに決まったのだ。
「たぁくん、何食べる?」
レジの前に立って、上の壁に掲げられたメニューを見上げる。店はカレーとパスタが主流で、アレンジが加えられている。
「ミネストローネかな?」
託生の隣に立ってメニューを見上げていた壱佳に答える。託生が選んだのはミネストローネスープパスタで、体調が芳しくない託生にカレーのような刺激の強いものは却下される。
「壱佳は?」
「ベジタブルカレー」
モデルのバイトをしている壱佳はスリム体型だが、悩み等ストレスが掛かると直ぐに痩せる。肉が付きやすい人もいるが壱佳は反対で、痩せやすいが肉も付き難い、典型的なモデル体型だ。
「オレはあさりと茸のクリームパスタと牛スジブラックカレー」
「僕はキーマカレー」
みんな、てんでバラバラだ。それならば、と義一が提案を持ち掛ける。
「ならシェアしないか?割り勘にし易いし」
それいい、と全員の賛同を得て次にドリンクメニューを決める。壁上のメニューを見ていた壱佳が、店員に、
「ウーロン茶ないんですか?」と聞く。
紅茶派の壱佳が紅茶を求めるならばわかるが、ウーロン茶は明らかに託生のオーダーだ。店員から申し訳ございません、と伝えられ、託生は第2の希望を伝える。
「コーヒーがあるからそれにする。アイスで」と、店員に伝え、
「壱佳こそ紅茶がないよ」
「僕はコーラ。結構外暑いからね」
季節は秋に入り、煩かった蝉も姿を消した。しかし、今日は外出日和とでもいうのか、外気温は26°近くあると思う。パープルグリーンのパーカーの下はアンダーシャツを着ているが、汗で少し湿っていた。
フードコートのレジの後ろには客が並び盛況で、義一は託生と壱佳に先に席を探して待っているように伝える。
客席は殆どが4人掛けの席だが、1人や2人でも4人掛けに座るので残っている座席数はあまりない。託生が首を巡らせて店内を見ていると、傍らの壱佳がタッと走り出し、あれよあれよという間に4人掛けの席をキープした。託生はゆっくりと歩いて行き、先に席に座った壱佳の隣に座る。
一方、全員の料理を受け取るため、18という番号札を持ってレジの脇で待っていた義一に佐智が近付き話し掛ける。
「ねえ」
佐智はどうしても義一に確認を取っておきたいことがあり、2人になれるチャンスを窺っていた。
「気付いたか」
「壱佳くんの想い人のこと?」
義一程ではないが、佐智も案外鋭い。壱佳の気持ちには直ぐに気付くだろうと思っていた。
「壱佳くんって先生が好きなの?」
「そうだよ」
「ライバルじゃん」
託生の心が義一にないならばライバルになっていただろう。しかし、託生は好きと伝えられないけれど、義一と付き合いたい、とはっきり伝えてくれた。その上で、好きと伝えられない託生に嫌気がさしたら遠慮なく振ってくれ、と未来のことを予め言ってきた。
「先生は気付いてるの?」
「壱佳は小さい頃から先生大好きアピールしてたから知ってるな。けど、肉親の情だと思っている可能性が高い」
身内に好きになられることが多いのは知っているが、成長するにつれ外の人間と触れ合い、或いは興味を持ち恋愛関係に発展する。その頃には昔は好きだったなぁ、と思い返すことがあればいいくらい昔話になっている場合が多い。
「恋じゃないんだ」
「壱佳はオレと同じだよ。ただ、違うのは先生の幸せを願ってる」
「義一くんは願ってないの?」
「勿論願ってるさ。でも、相手はオレ限定だ。たとえ壱佳だろうと、ライバルは蹴散らす」
義一の望みは、託生と幸せになること。そのなかに壱佳は入っていない。
「だよね。壱佳くんは義一くんをどう思ってるの?」
「面白くはないだろうな。でも、先生がオレを好きだから黙認してる」
今のところ、そんな状態だ。だから、章三と託生が会うと聞いて、壱佳だから託生に内緒で偵察に出ることに付き合ってくれる。
「諦めさせるの?」
人の心は簡単には動かせない。祠堂保育園で義一と共に過ごした2年間の託生への想いは家族の情だと推測できるが、いつから恋愛感情を持ち始めたのか義一にはわからない。ただ、託生の身内である壱佳は相当強敵だ。義一としては隆徳に早く動いてもらいたいと思う。
やがて、料理が出来たのか、18番の番号札をお持ちの方~、と間延びした声で呼ばれ、番号札をレジカウンターに置きトレイに載った料理を受け取る。数が多いので2枚のトレイに分けて置かれ、1つは佐智に持ってもらう。
「義一くん、こっちっ!」
壱佳が歩いて来る義一に気付き、立ち上がって手を振る。壱佳の方に歩いて行くと、壱佳の隣に託生が座っているのがわかる。こういう時、託生は恋人より肉親を優先させる。それが鈍い託生だとわかってはいるが、少しジェラシーを感じる。
料理をシェアして食べた後は、後回しになっていた料金の精算を行う。個々が注文した料理の代金はそれぞれだが、シェアしたので4等分にする。
「ねえ、たぁくん」
食後のコーラを飲んでいた壱佳が、紙コップに入れられたコーラをテーブルに置き、託生の方に向き直る。
「いいよ」
壱佳が何を強請るのかわかっている託生は切り出される前に諾の返事をする。
「本当?」
「但し、使う前に陽によく当てて臭いを取ってね」
「やったー」
何の話かわからない義一と佐智は不思議顔をする。2人の表情に気付いた託生が、
「ぬいぐるみ」と答える。
「ぬいぐるみマニアなんだ」
「マニアって程じゃないよ」
託生と壱佳が揃って入院することになり、義一が託生と壱佳の入院セットを作って持って行った。託生の荷物はクローゼットの中に既に揃えられていたが、普段から健康体の壱佳の分はなく、義一が壱佳の部屋に入って色々と漁った。壱佳の部屋に入って驚いたのはぬいぐるみの数の多さだ。サイズも大小様々で、本棚の上には小さいぬいぐるみが。ベッドの中では大きなぬいぐるみが眠っていた。
「先生は大丈夫なのか?」
布製のぬいぐるみは喘息の託生に悪いような気がして聞く。
「臭いとかは駄目で、直射日光に何日か干してから使うし、それでも駄目なら隆徳さんにあげる」
「押し付ける、だろ」
冷静な託生の指摘にエヘヘ、と笑った壱佳に佐智が聞く。
「隆徳さんって?」
「瀬尾隆徳さん。ぼくのバイト先でスタイリストしてる、たぁくんよりちょっと歳上のおじさん。佐智くんがたぁくんにCD渡しに病院来たことあったでしょ。その看護師さんのお兄さん」
「CDって13年前の?」
CDを渡した看護師なら佐智も覚えている。体格の良い聖矢を見慣れている佐智でも萎縮するほど大柄な男性だった。ただ、体格の大きさと反比例するように声色はとても優しい青年だった。
「偶然なんだけど、集中治療室に入ってたたぁくんの担当看護師が隆徳さんの弟さんの泰徳さんで、そうとは知らずにモデルのバイトを引き受けたんだ。その後、隆徳さんに泰徳さんの結婚式に2人してお呼ばれして、なんでって話を聞いたら泰徳さんはたぁくんの担当看護師さんだったっていう」
「すっごい偶然だね」
その上、今では友人のような関係を築けているバイオリンの恩師の須田は託生のバイオリンの先生で、尚人はFグループアメリカ本社で秘書室に勤務している。
「そういえばモデルってどっかでスカウトされたのか?」
もしかして、隆徳に、と思えばここまで偶然が重なっても不思議ではない。
「中学の時に街を友達と歩いてたら」
「隆徳さんに?」
「ううん。事務所の社長。名刺貰ってそのままにしてたんだけど、車買うのにお金が必要になって。時間が経ってたけど、名刺持って事務所を訪ねたんだ」
事務所の社長にスカウトされたならばこの関係は完全に偶然だ。須田との関係はバイオリン絡みであり、須田はその世界では有名な人物と佐智から以前聞いていたから可能性はあるが、隆徳はまさに運命としか言いようがない。
腕時計で時刻を確認した義一は、
「先生、お昼の薬は?」と聞く。
「お昼はないんだ。朝と夕方だけ」
「じゃあ、そろそろ出るか」
料理やドリンクの容器をゴミ箱に捨て、店を出る。オーシャンスタジアムで行われるシャチのショーに合わせて店を出た一行は話をしながら歩く。
「先生の今日のパーカー、良い色だな」
病室で初めて見た時に目を引いた色だったので、是非褒めたいと思っていた。
「壱佳くんもオシャレに決めてて、先生が選んだんですか?」
「まさか、壱佳だよ」
「壱佳くん、保育園にいる時からスモッグの下にくまさんのTシャツとか着てて、かわいいなぁって思ってました」
着る服に関してはオシャレのセンスのない託生には何も言えない。
「章三先生が選んでくれたんだよね」
「先生じゃないんだ」
「たぁくんに選ばせると安売りのTシャツで、無地を選んでくるから章三先生が禁止したんだ。可愛い服を着られるのは子供のうちだから、って。僕のコレは隆徳さんが選んでくれたんだよ」
どういうこと?と言いたいのが丸わかりな顔で佐智が義一を見る。男が女に服をプレゼントするのは、脱がせるという下心があるからだ、と言われている。実際、壱佳が託生に服をプレゼントしたのはそういった下心が含まれているからなのだろうが、隆徳は壱佳が託生に服をプレゼントしたことを知っているのだろうか。
「ねえ、写真撮らない?」
言い出したのは壱佳だったが、義一は難しい顔をする。
義一は写真を撮られるのが苦手だ。正直、プライベートな写真は避けて通りたい。けれど、折角託生と(邪魔者はいるが)デートに来ているのだから、記念に写真を撮りたいとも思う。
「SNSにアップするのか?」
「嫌だったら個人名のアカウントの方にするし、写真も加工するけど」
「壱佳くん個人のアカウント持ってるんだ」
「壱名義のと別にね」
早速、スマホを取り出してInstagramのアプリを起動させ、佐智に見せる。壱佳に言われて義一も壱と壱佳のInstagramをフォローしているが、壱佳の生活を垣間見えるのは壱佳の方だ。しかも、壱佳の方には度々託生が登場する。
「出来ればオレが映ってる写真はアップしないでほしい。それでもいいなら写真は撮る」
SNSにアップしなければ不特定多数に見られる心配はない。付き合って数ヶ月だが、壱佳なら大丈夫だと言い切れる。
「アップはしない。たぁくんと一緒のも撮りたいでしょう?」
流石、壱佳はわかっている。オーシャンスタジアムの前の芝生の上で4人の集合写真を撮り、義一と託生、壱佳と託生、壱佳と佐智のペアで写真を撮る。壱佳が義一と佐智の写真を撮ろうと躍起になっていたが、顔の前に手を翳したりして徹底的に交戦した。
シャチのスーパーアトラクションが見られるのはサーフスタジアムの奥にあるオーシャンスタジアムだ。食事に時間を多く取ってしまった一行は土産は最後にして、オーシャンスタジアムでシャチのショーを見る。
前席の水被り席はトロピカルアイランドで見掛けた園児が合羽を着て陣取っていて、キャアキャア歓声を上げていた。託生の体調もあり、円錐状の客席の3階に相当する席に座ってショーを楽しむ。客は皆昼食を終えた時間だったのもあり、午前中に見たショー以上に客が入っていた。
ショーが終わり、席を立つが客が多過ぎて先に進めない。腕時計を見ると、ロッキースタジアムのアシカのショーまで5分を切っている。ガイドマップで見ればオーシャンスタジアムとロッキースタジアムは隣り合っているように見えるが、実際は出口を出てオーシャンスタジアムを大回りしなければならない。
「先生、行こう」
客の列が進み始めたのを見て、託生の手を握り離れないようにする。客と客の間に隙間ができているところを見付け、早足で通り抜ける。
「待って、義一くんっ!」
壱佳の声が聞こえたが、壱佳と佐智ならば迷わずにロッキースタジアムに来れると思ったので聞こえなかった振りをする。
義一の感覚では早歩きだった。実際には小走りになってしまったのかもしれないがその途端、グン、と握った託生の手首に負荷が感じられ振り返ろうとした時、
「止まってっ!たぁくんが死んじゃうっ!」
先程とは違う壱佳の切羽詰まった声に義一の足がピタリ、と止まる。油切れのロボットのように恐る恐る後ろを振り返ると、託生は喉元を押さえ蹲っていた。
「どいてっ!」
既に見物人ができていた義一と託生の周りの野次馬を掻き分け壱佳が走って来る。次いで佐智も走ってきて、先生っ、と叫ぶ。
「義一くん、リュックっ!」
壱佳の言葉で止まっていた時間が再生されたように義一の身体が動き出し、リュックサックを下ろし壱佳の脇に膝を着く。リュックサックからサチュレーションモニターと酸素ボンベを取り出し、託生のパーカーの首元がゆったりしているか確認し、ジーパンのボタンを外し楽な姿勢を取らせる。壱佳が託生の指先にサチュレーションモニターを付け、酸素ボンベを口元に充てる。義一は託生の頭の方に移動し、上半身を起こして義一に寄り掛かる体勢を取らせる。すると、急病人ですか?とウェットスーツを着た男が観客を掻き分けて走って来る。
喘息です、と義一が答える前に、壱佳が、
「呼吸困難です。楽しくて気分が高潮してたのか走っちゃって。すみません」
「いえいえ。楽しんで頂けて嬉しいです。今、担架を持って来ます。ここじゃ寒いですし、救護室に運びましょう。直ぐそこです」
男は立ち上がると走って行き、3分も経たないうちに白衣を着た男と屈強な男1名と一緒に担架を持って走って来る。屈強な男は最初の男と同じウェットスーツを着ていた。
担架を託生の横に置き、肩と足を持って託生を担架に寝かせ、直ぐ様立ち上がる。ウェットスーツの男が担架の前と後ろに回って託生を搬送する際、壱佳は託生の上半身を支え、反対側から白衣の男が酸素ボンベを託生の口元に充ていた。
「僕たちも行こう」
救護室に着き、壱佳が白衣の男に託生の持病を話している間に義一は病院に連絡を入れる。義一が思った喘息ではなく、壱佳が発した呼吸困難で、と伝えると少し休憩して30分経ってもサチュレーションモニターの数値が上がらなければ再度連絡を下さい、と言われた。通話を終えた義一がベッドに横たわる託生の脇に立ち、壱佳を見る。救護室に運ばれ、託生は救護室に設えられた酸素マスクを充てられている。
壱佳には聞きたいことがある。先日、託生について知りたいことは色々あり和田とランチを一緒に摂ったが、託生の病気について聞いても家族でない義一には話せない、と言われた。託生も何故話してくれなかったのか、と詰りたい思いもある。
「ごめんね」
眼を閉じていた託生の意識が戻ったのか、酸素マスクの下から声を出した後、目を開けて義一を探す素振りをする。義一に謝っているのだ、とわかり、今なら託生は話してくれると思った。
「ここにいる」
壱佳の反対側に回り、託生の手を握って託生の意識を義一に引き戻す。
「オレたちは喘息と車酔いのことしか知らない。他にも病気があるなら、話してくれるか?」
うん、と答えたが託生はまだサチュレーションモニターの数値が悪く、
「僕から話すから補足事項があったらたぁくんが話して」と壱佳に奪われる。
ごめんね、ともう一度謝った託生の傍らに佐智も集まり、話を聞く体勢を取る。
救護室のスタッフからパイプ椅子を借りて3人が託生が横になるベッドの脇に座る。気を利かせたスタッフが紙コップに入ったミネラルウォーターを出してくれ、壱佳が託生に勧める。酸素マスクをずらして1口飲んだ託生がフゥ、と大きく息を吐いたのを見た壱佳の表情を見てもう安心だ、とわかる。
「たぁくんは生まれた時から呼吸器が弱かったんだ。病気じゃないけど、すごく弱い」
検査をしても病気の数値にはならないくらい悪い数値。病気ではないから治すこともない状態だ。
「両親に抱かれる前。生まれて直ぐNICUに入れられて、詳しい検査をして重い喘息があることがわかった」
「病院の先生はおじいちゃんおばあちゃんに、たぁくんに運動させない生活を心掛けるように言ったみたい」
生まれたばかりの頃はベッドで寝ているだけの生活だから託生は不満に思わないだろうが、歳を重ねる毎に少しずつ身体を動かす欲求が見栄えてくる。保育園や幼稚園に通うようになると、走っている友達がいれば自分も走りたいと思うのは当然だ。
「兄さんは健康体なのにどうしてぼくが?って何度も思ったよ。でも、兄さんも同じように苦しんでた。同じ両親から生まれたぼくが虚弱体質なんだから」
「それで尚人さんが一家の大黒柱的な存在に?」
「尚人さん?」
佐智の問いに軽く、壱佳の親父さん、と返す。
祠堂保育園にはヒエラルキーがあり、皆有名企業の社長令息・令嬢ばかりの集まりだった。そのなかでただ葉山家だけ、壱佳だけがサラリーマン家庭で、そのことを他の園児に知られると壱佳がいじめに遭うと考えた託生は壱佳にも内密にするよう教えていた、と秘書室に行った時に尚人から聞いていた。壱佳は保育園では常に1人でいて、常に声を掛けるのは託生か章三だったので友達はいなかった。そこへ、義一と佐智が声を掛け、友達になった。
「父さんから聞いたんだけど、運動ができなくてもたぁくんはクラスメイトからの人望が篤くて人気者だったんだ」
「そんなことないよ」
謙遜した託生が否定するが、ここにいる3人は尚人の言葉が真実だと知っている。
「それなのに……」
膝の上の拳をギュッと握った壱佳が悔しそうな顔をする。
「幼馴染と二股女がっ……」
「壱佳っ!」
慌てたように託生が上半身を起こして壱佳を慌てて制すが、壱佳は何言ってんの、といった顔で、
「佐智くんも知ってるんだよ」
えっ?と託生が佐智を見る。厄介なことになったと思った義一は掌を額に充て、まいった、と呟いた。まさか、佐智の涙を見て義一が佐智に託生の過去を話していると想像するとは思わなかった。確かに話はしたが、それは健吾の話でゆかりの話はしていない。
「先生みたいな良い人を二股に掛けるなんて信じられないっ!」
義一と抱く想いの種類は違うが、フワフワと包み込むような託生のような人間を佐智は愛している。託生と出会って自分もそうなりたい、と小さい頃から心掛けてきたが、持って生まれた性質からか、佐智は結構厳しい人間に育った。だから、託生が二股を掛けられることは想像もしていなかったに違いない。
「えっ?佐智くん、知らなかったの?」
「僕は、幼馴染の話しか聞いてない」
「嘘っ!ごめん、たぁくん。全部バラしちゃったっ!」
もういいよ、という風に託生が手を上げて壱佳を制す。壱佳は興奮した様子で必死で託生に謝る。
「オレも悪かった。バイオリンの話は佐智から聞いたものだったし、佐智はバイオリニストだから、一応事実を伝えた」
病室での佐智の涙は階段から突き落とされた託生を思ってのことだと、鈍い託生にもわかる。佐智は須田から託生の言い分と、小学校に広まった噂話の両方を知っていたから、義一には真実を伝える義務があると思って伝えた。
「二股の話、興味ある?」
確認の為に託生が佐智に聞く。
「いえ、興味ありません。義一くんも僕がバイオリニストだから、幼馴染の話だけしたんですし」
「そうだね」
少しの間、沈黙が横たわりコホン、と咳払いをして再び壱佳が話し出す。
「片瀬はたぁくんを階段から突き落として、たぁくんは橈骨を骨折して左手には軽い麻痺が残った。手術を受ければ治ったかもしれないけど、病院の先生に目覚める可能性はないって言われて断念したんだ」
また壱佳が人を呼び捨てで呼び、佐智が驚いた顔をする。壱佳は自分の考えが及ばない人物に対して呼び捨てで呼んでいるようだ。
託生は意気地がないと言ったが、人間誰でも身体がもたないと言われれば及び腰になるのは当たり前だ。手術を断念したのは当然の判断で、義一も完全にではないが一応は納得している。義一の希望としては託生に再びバイオリンを弾いてほしいと思うのだが、今の託生の体調を考えると無理そうだ。
「片瀬さんは先生の呼吸器官が普通の人より弱いことを知ってたんですか?」
「うん」
健吾は入退院を度々していた託生が走れないことも知っていた。それなのに何故、と考えるが、思い当たるのは健吾に嫌われていたから、という結論に行き着く。
「義一くんは違うって言うんだけど、嫌われてたとしか思えない」
「話は変わりますけど、運動制限ってたとえば?」
義一に聞かれたことに答えようと口を開いた時、壱佳のスマホが鳴り、ちょっとごめん、と言い置いて救護室を出て通話に出る。
「走ること。水泳が喘息に良いって聞いて少しの間、スイミングスクールに通ったけど苦しいばかりで結果も出なかったし辞めちゃった。後は普通に生活出来る」
壱佳の電話は気になるが、義一の質問に答えていると壱佳が戻って来て、託生のサチュレーションモニターの数値を読み取り電話の相手に伝える。もしかしたら、託生の担当医の和田かもしれない。
「92%です。……はい、今救護室にいます」
壱佳の話の途中だったが、義一がスマホを奪うように取り、通話相手と話しを続ける。壱佳の話を聞いて、病院からスタッフが水族館に来るように感じたからだ。病院スタッフは車でやって来るのだろうが、和田や看護師から注意されていたように今の託生を車に乗せるのは危険だと思った。
「車は避けた方が良いんですよね?なら、オレが背負って行きましょうか?」
託生が驚いたような顔で義一を見る。軽く手を上げて大丈夫だ、と伝え、会話を再開する。壱佳の通話相手はやはり和田で、30分以上経っているのに経過報告の連絡がなかったので掛けたと言っていた。
義一が託生を背負って帰ることで話は着き、通話を切って壱佳に返す。
「そういう訳で、オレは先生を背負う。先生は背中の上で酸素ボンベを口に充てたままにしてください」
和田からの伝言も伝えたが、託生は良い顔をしない。一方の壱佳は早速帰る準備をしている。
「ここにいる3人のうち、一番筋力があるのはオレですし、先生の……です。わかります?言いたいこと」
今、初めてその事実に気付いたような顔をした託生の頬が赤らむ。
「なんか、ごめんね」
託生の恋人になったばかりに重い思いをさせることになって、とそういうことだろう、と見当をつけ、
「壱佳から、謝るのはなしって言われただろ?」
病院で壱佳から看護師に言われた注意事項を聞いた時も託生は皆に謝っていた。唯一、義一の荷物のクラッチバッグをベッドの上に置き、早速ベッドの脇にしゃがみ込んだ義一を見て覚悟を決めたのか、足をベッドから下ろし義一の肩に手を掛ける。託生が義一におぶさり、しゃがんでいた義一がゆっくりと立ち上がる。義一の背中で託生が安定したのを見計らい、傍らから壱佳が酸素ボンベを託生に手渡す。
「ここ、押してね」
自分が使う酸素ボンベだが、託生が使う際は殆どの場合意識がないので、壱佳が使い方を説明する。託生が1回、酸素を吸入してみせると壱佳は軽く頷き、
「苦しくなったら言って」と伝える。
「佐智、バッグ頼んだ」
義一が託生を背負って救護室を出て行き、義一のクラッチバッグを持った佐智が後を追って来る。最後に壱佳が救護室のスタッフに、
「お世話になりました」と頭を下げて出て来た。
「重いよね」
成人男性を背負っているのだから、重くないということはない。
「普通だろ。ってか、軽いと感じる方が怖いだろ」
13年前、長期入院していた託生と壱佳がデパートで買い物をしているところに偶然義一は遭遇した。実際に会ったのは壱佳だけだが、託生の後ろ姿を見て、痩せたなぁ~、と実感していた。あの頃を思えば今の託生の重さは心地よい重さだ。託生も当時を思い出したのか、そうだね、と納得してくれた。
義一の背中で揺れている託生に着かず離れず歩いていた壱佳に託生が話し掛ける。
「アシカのショー、見れなかったね」
和田から提案された外出だったが、思いの他託生が楽しんでいたようで皆安心する。
「外来で来た時、また来たいな。そしたら、壱佳のぬいぐるみも選べるし」
「うん。またいつでも来られるよ。今度来た時は最初にお土産を見て、それからアシカのショーを見よう。エコアクアロームとクラゲライフは僕も佐智くんも見てないし」
「今回はショーを詰めたからな。何回かに分けて見れば制覇できるな」
託生の体調が心配だった義一は早足で病院に向かう。義一の背中の揺れで託生が酔わないか心配だったが、話に夢中になっていたのか、気分が悪いような素振りは見せなかった。病院に着き、正面玄関を潜ると和田と看護師が待ち構えていて、直ぐ様託生がストレッチャーに移され処置室に運ばれる。
「お疲れ様」
佐智からクラッチバッグを受け取り、ああ、と答える。
「義一くん、ありがとう。迷惑掛けてごめんね」
途中の自販機で冷たい茶を3本買ってそれぞれに渡す。40分近く早歩きを続けていたのでそれなりに汗をかいていたし、喉も渇いていた。
託生が運ばれた処置室の廊下に設えられている長椅子に佐智と壱佳が座り、義一はその正面に立ってペットボトルの茶を飲みながら話をする。病院に着くまで託生はずっと喋り続けていて、体調は然程悪くないとわかっているから無駄話もできる。
「迷惑だなんて思ってない。それより壱佳、最初の外来の時はオレも車を出すから、予定が決まったら連絡くれよ」
外来の予定はまだ立っていないが、平日なのは間違いない。壱佳はまだ高校生だが、義一は仕事をしている。
「退院の時は頼もうと思ってたけど、外来?」
「退院の時はオレの車が良いだろ。体力も落ちてるだろうし」
退院時は体力が落ちているので花火大会で酔わなかった義一の車の方が託生も安心して乗れる。体力が戻った頃の外来の時は壱佳の車になる。体調が万全の方が壱佳の車にも託生は酔い難いかもしれない。
「そっか。仕事が忙しいのにごめんね」
義一と壱佳が退院時と外来の話をしていると、佐智から、
「義一くんの車は大丈夫なんだ」と返される。
心なしか、顔がニヤニヤしていて気持ち悪い。
「まあな。もし、壱佳の車に酔ったらオレがレクチャーすることになってる」
「義一くんのドライビングテクニック、凄いもんね。壱佳くん、水族館に行く時、また誘ってくれる?」
「でも佐智くん、殆ど日本にいないんじゃ」
義一は日本で働いているが、佐智は世界を飛び回って演奏活動をしているので常に日本にいる訳ではない。音楽とは無縁の生活をしている壱佳でも託生の影響で少しはコンサートを聴きに行ったりする。
「今年から日本の大学でバイオリン教えてるんだ。頻繁に海外には行くけど、学生のレッスンは受け持ってるし、スケジュールが結構固定されたから聖矢さんとの逢瀬にも支障はない。良い事尽くめだよ」
「バイオリンかぁ。たぁくんは本当に諦めたのかな?」
3人で話をしていると義一のスマホがピコン、と受診の音を立てる。スマホを取り出しメッセージアプリを開き内容を確認しながらも会話を続ける。相手はアメリカにいる島岡からだった。
用件は義一が託生と付き合うことを先ずは崎裕明に認めてもらうことで、そのセッティングを頼んでいた。託生の退院はまだ決まっていないので島岡が提示した日時にもよるが。
「再開を?」
保育園時代も含めて託生からバイオリンの話は出なかった。偶然、託生がバイオリンを弾いていた過去があったと佐智が教えてくれて初めて知ったくらいだ。
「じゃなくて、たぁくんの夢はバイオリニストになることだったから」
今の時点でその夢は叶わないと誰もがわかっている。託生に今でもバイオリンに関する夢が存在するなら、義一の思惑も話せただろうに、と思うのだった。
水族館に行った外出日から1週間後の木曜日に正式に託生の退院が決まった。義一にも仕事があり、時間の許す限り見舞いに来ているが、会うのは4日振りだ。
10時の退院に合わせて病院を訪れた義一は正面玄関を潜り、守衛のところに寄って患者の名前と面会者の名前、病棟と患者の病室番号、最後の欄に現在の時刻をノートに記載する。守衛は退院患者の名前も把握しているのか、
「退院おめでとうございます」と言ってにこやかに笑った後、面会バッチを渡してくれた。
「ありがとうございます」と軽く会釈してエレベーターホールに向かって歩いていると、後ろから義一を呼ぶ声がして振り返る。早足で義一に向かって来たのは青のサングラスとマスクをした壱佳だった。変装をしていたが義一には直ぐにわかる。サングラスとマスク程度では壱佳から滲み出る芸能人のオーラが消せていない。
「会計してたのか?」
「うん。それよりこの間はごめんね」
この間、とは外出日のことだ。他の客にスマホを向けられていると感じてはいたが、実際にSNSにアップされるとは思わなかった。スマホに変えて義一もSNSを始めたが、プロフィール画像は素材集から適当なものを選んだ。まだ研究所の所員という立場なので、壱佳や佐智のように身バレしていない。
「壱佳は約束を守ってくれた。通りすがりの他人のことまで気にするな」
壱佳の頭に手をやり、ポンポンと軽く叩いて壱佳と並んで話をしながらエレベーターホールに向かう。
「モデルやってるうちはサングラスとマスクは必須アイテムだろ、って隆徳さんに叱られちゃった」
それを言うなら佐智も該当するが、敢えて言葉にしなかった。
「苦手なのか?」
義一と喫茶店に入った時も壱佳はそれらのアイテムを身に着けていなかったが、あの時は女装していた。
「苦手ではないんだけど、たぁくんの前では嫌かなぁ。僕は葉山壱佳であって壱じゃないんだから」
「成程、納得だ。それはそうと、どう考えても理解できないことがあるんだが」
「たぁくんに知られたくない系?」
「そんなことはない」
降りてきたエレベーターに乗り、託生が入院している病棟の階のパネルボタンを押し、開くのボタンを長押して後に続く入院患者や面会者、医者や看護師を乗せてエレベーターが動き出す。第三者がいる場で話す内容でもないのでエレベーター内では義一も壱佳も喋らなかった。
エレベーターを降りてナースステーションの前の廊下を託生の病室に向けて歩き出すと直ぐ、ナースステーションの看護師に声を掛けられて足を止める。
「壱佳くん。会計終わった?」
「はい」
「和田先生の診察は終わったんだけど薬剤部から薬がまだ届いてないの。もう少し待っててもらえる?」
「わかりました」
看護師に軽く会釈して再び足を進める。まだ病院を出られないのなら義一の疑問点を聞ける。病室に戻っても薬剤師がこれから来るのならば相手は壱佳でもよかった。
「聞きたいことって?」
「家のことなんだが、先生の乗り物酔いはほぼ全てのものに当て嵌まるんだろ?」
「今のところ義一くんと父さんの車以外ね」
託生はまだ壱佳の車には乗っていない。確実に乗り物酔いするエレベーターに乗らなければならない高層階の部屋に住む理由がわからなかった。それに、今は壱佳に反対されているが、託生との同棲を諦めた訳ではない。いずれ、壱佳の賛同を得て物件探しをする為にも、何故託生が高層階の部屋に住むのか知っておきたかった。
「2階とか3階の部屋を選んでればエレベーターに乗らなくて済んだんじゃないか、と思ったんだ」
「低層階だと喘息があるからね」
託生には重い乗り物酔いの他に重い喘息もある。郊外に住んでいるとはいえ、低層階では車の排気ガスの影響もある。
「成程」
「それに、たぁくんはできるだけ頻繁にマットレスを干す必要があるだろ?その為にはなるべく上の階が良いんだ」
マットレスを干すことによってハウスダストを払う。マメに行っていれば喘息発作はある程度防げる。
「前のマンションもだけど、奇跡的に内覧の時、エレベーターに酔わなかったんだ。勿論、常にじゃないけど。他に内覧したところは滅茶苦茶酔って部屋も見ないで終わったところもあったんだ」
「相性?」
エレベーターを製造している会社と託生の相性も考えられ、以前住んでいたマンションと今のマンションの詳しい情報を調べる必要がある。
「わかんない。後は、義一くんも見たと思うけど、ベランダが広かっただろ?」
他の部屋の間取りは知らないが、確かに託生の部屋のベランダは10畳程の広さがあった。マットレスも余裕で干せる。
「かなり良い物件なんだな」
「問題もあるけどね」
「病院の他に?」
託生が通院していた内科医院には入院設備がなく、その点は問題だ、とこの病院に託生と一緒に壱佳が運ばれた時に聞いた。
託生の病気について義一も考えていたから前以てこの病院のことを調べ、紹介状が必要と知ったから裕明の名前を出して診察してもらった。和田とも話をして、今後託生の通院以外で診察してほしい時があったら義一の名前でも診察してもらえるようになり、そのことは託生と壱佳にも伝えてある。託生は恐縮していたが、壱佳はホッと胸を撫で下ろしていた。
「うちのマンション、ペット可なんだ」
「近所にいるのか?」
うん、と壱佳が頷いて話を進める。
「外廊下は飼い主が抱っこしてなきゃいけないってルールはあるんだけど」
大型犬は飼い主が抱っこするのは重量的に難しい。猫は飼えるが、基本的に散歩は必要ないので壱佳の懸念は小型犬だ。
「飼い主さんと話し合ってベランダには出さないって取り決めはあったんだ。ほら、犬の毛が洗濯物に付くとアレだから」
「破ったのか?」
それならば弁護士を連れて再度話し合いが必要だ。書面にしていないのなら、改めて書面化して罰則を設ければいい。
「ううん。飼い主さんは良い人で、絶対に犬をベランダに出さないんだ」
「だったら何が問題なんだ」
獣臭だろうか。けれど、託生の家には各部屋に空気清浄機が設置されているのは確認済みだ。
「たぁくんが……」
「先生が?」
見たところ、壱佳はかなりこの問題に頭を抱えているようだ。義一も手助けしたいが、重い口の壱佳が何を言い出すのか見当も付かない。
「桃ちゃんっていうんだけど……」
漸く壱佳が話し始めた時、廊下の突き当たりの病室の扉が開いて人が出て来る。託生だ。病室を出た託生は首を右側に曲げ、壱佳と義一を視認すると笑顔で手を振った。遠目でも顔色が良いのがわかる。
早足に託生のところまで行き、
「退院、おめでとう」と声を掛ける。
「ありがとう。写真載っちゃってごめんね。大丈夫だった?」
「問題ない」
義一の写真にはハッシュタグイケメン、ハッシュタグ王子様等で、壱佳や佐智のようにハッシュタグを付けて実名を載せられていなかったので義一の素性は明かされなかった。今回の写真が義一がFグループに入社した時にどう使われるかわからないけれど、所詮は素人だ。ほぼ個人を特定されないだろう。それにもし何かあってもお忍びデートでも、年齢的にあり得ないが不倫といったスキャンダルでもないのだから事実をそのまま公表するだけだ。
「先生は?」
「薬剤師の人が来るって和田先生に聞いてたんだけど、遅いから」
廊下の様子を見る為に出て来たらしい。
「看護師さんからもう少し待ってるようにって。下の外来が結構混んでたからだと思う」
「そっか、ありがとう」
託生がUターンして病室に戻る。荷物は纏まった?と託生の後を追いながら聞く。
「短かったから荷物も少ないよ」
ベッドの上のテーブルにはエチケット袋が数枚、折り畳まれて置いてある。義一も自分の車にゴミ箱と消臭スプレー、新聞紙、ペットボトルのミネラルウォーターを載せてきた。
壱佳が託生に領収書と財布を渡し、それらをショルダーバッグに入れていると、ノックと同時に扉が開き白衣姿の薬剤師がプラスチックの籠を持ってやって来た。
「お待たせしてすみません。お薬の説明をさせて頂きます」
この病院では家族でも診察に立ち会えない決まりがある。壱佳と義一が廊下に出て待っていよう、と外に出て行こうとすると、
「お薬の話はご家族にも知っておいてもらいたいのでそのままで」
「オレは家族じゃないんで」
日本にいる限り、義一は託生と家族になれない。かといって、乗り物酔いの激しい託生を海外に連れて行き、結婚したいと思う程鬼にもなれない。
「葉山さんと行動を共にすることは?」
「あります」
「でしたら是非、知っておいて下さい。何かあった時の為にも」
確かに薬剤師の言う通りだ。診察の結果は家族にも知られたくない内容を話すこともあるが、薬は飲み忘れ防止等、特に託生の場合は多くの人が知っていた方がいい。
ソファテーブルにプラスチックの籠を置いて薬剤師がソファに座り、託生と壱佳をソファに促す。ソファが2人掛けだったこともあり、義一は壱佳の傍に立って覗き込むように説明を聞く。
プラスチックの籠の中から薬袋を取り出し、名前の確認をしてから薬を袋から出して1つ1つ丁寧に説明し、説明を終えた薬を薬袋に戻して託生の前に置く。次いで吸入器、酸素ボンベを同じように籠から出して並べ、テスターを使って使用方法の説明をする。
「大事なことですが、予約日前であっても吸入器や酸素ボンベが空になる前にお電話を下さい。病院からご自宅に処方箋をお送りしますので、最寄りの調剤薬局で受け取って下さい」
「わかりました。壱佳も大丈夫だよね」
吸入器や酸素ボンベは託生より壱佳が使う可能性が高いものだ。託生も壱佳もわかっているから真剣に話を聞いていた。説明を終えた薬剤師に託生がサインをし、吸入器と酸素ボンベのテスターを元のプラスチックの籠に入れて退出する。
「僕たちも行こうか」
ソファテーブルの上の吸入器1個と酸素ボンベ1本を別にして壱佳が託生のボストンバッグに受け取った薬剤を入れ、その間に託生はカーディガンを羽織りショルダーバッグを斜め掛けにする。その中に壱佳が別にした吸入器と酸素ボンベを入れ、エチケット袋は手に持つ。
「壱佳、下通っていいか?」
託生はまだ高速道路の制限速度に慣れていない。いずれは高速に乗って遠出したいと考えているが、今はまだ無理だ。
「うん。仕事は大丈夫?一緒にお昼ご飯食べようよ」
「悪い。フレックスだから時間の制限はないんだけど、結構溜まってて」
「ごめんね。ぼくの為に……」
「気にするな。先生の顔が見られて嬉しいんだから」
義一が託生に微笑み掛けるとボッ、と着火音がしそうな勢いで託生の頬が赤く染まる。
「初だなぁ、たぁくん」
「そっ、そんなことないっ。義一くんが……」
義一がどうしたというのか。託生が好きだから自分の今の気持ちを正直に言っただけなのに。
「誰だってイケメンに言われたら照れるよねぇ〜」
託生が義一の外見に気を取られるなんて考えもしなかった。元より、義一と託生は長年海に隔てられ、お互い顔も見ていなかった。義一は5歳の初対面の時の気持ちのままに託生を好きでい続けたが託生は違う。託生は変わらない義一の想いを薔薇の花束で感じ取るうちに好意を抱いてくれた。お互い容姿は二の次だった。
「オレって格好いい?」
託生の耳元で囁くように言うと、腕をいっぱいに伸ばして拒否られてしまう。そんなシャイな託生が益々好きになった義一だった。
車は鉄の塊だ。一瞬の気の緩みが大事故に発展し、被害者だけでなく加害者も傷を負う可能性もある。金銭で片が付いても双方の心に残る傷は深く、被害者へは償い切れない負債を負う。その為、義一は同乗者がいても会話はせず、ひたすら運転だけに集中する。況してや今は助手席に恋人の託生が乗っている。いつもの数百倍運転に集中していた。
助手席の託生の視線は進行方向の道路に真っ直ぐ向けられ、車窓から見える景色を楽しむどころじゃない。花火デートで義一の車には酔わないとわかっても、それが今回も有効かわからない為不安で緊張しているのだ。
病院を出て30分程車を走らせ、託生の体調に異変がないのを感じ取った義一は、自らの信条を投げ捨て託生に話し掛けることにした。但し、話は聞くが運転に注意を払うことは忘れない。
「気分悪い?」
義一が話し掛けても気付けないくらい託生は緊張していた。
託生を助手席に乗せる為にゴミ箱も新聞紙も消臭スプレーも用意した。義一の車には酔わないとわかってもこれらのアイテムがあるのとないのとでは安心感も桁違いだ。
「先生?」
義一に名前を呼ばれたことに漸く気付いた託生はえっ?何?と初めて視線を前方から逸らした。託生の反応を確認して義一は桃ちゃんって、と壱佳との話で中途半端になっていた話を持ち出す。
「桃ちゃんが何?」
「壱佳が問題があるって言ってたんだけど、時間切れで結局聞いてないんだよ」
問題……、と呟くように繰り返した後、ああ、と納得した声を出した。
「気分転換に桃ちゃんの話、聞きたいな」
「壱佳からはどこまで?」
「桃ちゃんに問題がある、とだけ」
「全然だね」
クスッ、と小さく託生が笑ったのを感じ、壱佳が思い悩むほど深刻な話ではなさそうだと想像する。
「桃ちゃんはヨークシャーテリアの生後半年の男の子なんだ」
「同じ階?」
ヨークシャーテリアならば抜け毛の量は相当だろう。義一自身動物を飼ったことはないが、研究所の所員のスーツに動物の毛がびっしり付いているのは知っている。所員は携帯用のコロコロ(正式名称はわからない。皆、コロコロで何を指しているのか把握している)で時間が出来る度に動物の毛を取っていた。
「お隣さん。でも、マンションのルールは守るし、うちが一方的にお願いした取り決めも1度も破られたことはないんだ」
「それは壱佳も言ってた。じゃあ、問題って?」
託生が考える素振りを見せる。壱佳にとっては大問題だが、託生は全く気にしていないパターンだ。
あれのことかなぁ、と呟いた託生はえっとね、と問題について思い当たることを話し出す。
「桃ちゃんってすっごく人懐こい子なんだ」
「先生が相手でも?」
動物は同じ動物好きの人を察知して甘える、と聞いたことがある。たとえ託生が動物好きだったとしても動物に触れることは出来ないのだから、動物側も託生を動物嫌いと認識している可能性もある。
「お構いなし」
クスッ、と再び笑った託生の声音はなんだか悲しそうだ。
「お隣さんが桃ちゃんを飼い始めて、桃ちゃんを連れてうちに挨拶に来たんだけど、壱佳なんかほっぺをペロペロ舐め回されて」
「先生は?」
壱佳にその対応ならばいくら託生が動物嫌いだったとしても匂いを嗅ぐくらいはしそうだ。若いというのもあるが、犬の桃ちゃんは猪突猛進タイプに受け取れた。
「壱佳に完璧にガードしてもらったから何事もなくお帰りいただいたよ。でも、外廊下で会ってもあまりに壱佳のガードが硬くて、最近じゃ桃ちゃんが壱佳を嫌ってるみたい。問題ってそのことだと思うよ」
あの壱佳が自分のことを問題と言うなんて信じられない気もするが、今の託生の言葉に不自然な点は見当たらない。たとえ託生が動物好きでも、桃ちゃんが無類の人懐こい犬だったとしても、託生に触れることも触れられることも不可能ならば次第に桃ちゃんの興味は託生から遠ざかっていく。
「動物が飼えないぼくと暮らす割に壱佳は動物好きだから」
「先生は?好き?」
「側に寄るだけで発作起こすかもしれないとわかっていても可愛いとは思うよ」
やはり一度壱佳に確認を取った方が良い、と義一が結論付けたのは、託生の悲しそうな声音と、あの壱佳が託生を差し置いて自分の問題を義一にする訳がない。それに、壱佳の片思いと片瀬の想い(仮定)の両方に気付けない程託生は鈍い、と思い至ったからだ。だが、託生の前で壱佳に聞けば託生の話を信用していないことに直結する。
「そういえば、この間兄さんから電話が来て、面談?お父さんとの。日にちが決まったって」
「オレのところにもきた」
アメリカからは崎裕明の他に、言葉は悪いが裕明の犬の島岡と、託生の兄の尚人が同席する、と聞いている。
「顔合わせってことで壱佳も人数に入ってるんだけど、仕事は大丈夫?」
「ああ。9時だから残業はしないけど有給取るまでもないし。先生は?」
「都心だから1日駄目になると思って補講日を作ることで承認されてる」
ならば残業はしない心積もりで一緒にディナーを食べたい。壱佳も一緒だから2人になった隙をみて桃ちゃんの話を聞こうと思う。
「じゃあ、一緒に食事しようぜ。壱佳も一緒に」
「いいね。ホテルでディナーなんて久しぶり」
「じゃあ、夕方の7時に集合ってことでいいか?」
「うん。壱佳にも伝えとく」
車に乗った時の緊張した声ではなく、心底楽しみとわかる声で託生が答える。
乗り物酔いのある託生はスケジュールが決まったからといって車内でスマホの画面を見たりしない。一点に視線を集中するとてきめんに酔うとわかっているからだ。それに今、壱佳は義一の車の後ろを運転していて、壱佳にも運転に集中してほしい。
「お父さんには正直に言うよ」
突然シリアスモードになった託生が呟くように言った。それが片瀬のことなのか、好きと自分の気持ちを伝えられないことなのかはわからないが、裕明のジャッジを待つしかないだろう。
「ん、了解」
義一の気持ちを信用して裕明の前で好きと伝えてほしい気持ちは勿論あるが、たとえ裕明の前でも好きと伝えられない程託生の心の傷が深いのも知っている。側にいる義一が託生の気持ちを感じ取っているのでどんなジャッジを下されても不安に思うことなく、託生と付き合いを続けることは確かだ。人を信じることは容易い託生が義一に気持ちを伝えられないのは、裏切られた時に託生が受ける傷が深いからだ。その為にはトラウマとなった人物と会って話をしなければ解決しないが、託生にそのつもりはない。1日でも早く託生の気持ちを聞く為に義一はどう行動すべきか考えるが、桃ちゃんの話を聞けた今は運転に集中する。
その後、義一も託生も一言も発することなくマンションに帰り着いたのだった。
義一の車の助手席から降りた託生は足元に感じる地面の感覚にホッと息を吐き、次いで背筋を伸ばして肺いっぱいに空気を吸う。今回も義一の車に酔わなかった安心感を胸に抱きつつ、次も大丈夫とは限らない恐怖心を忘れない。運転席から降りてきた義一に、お疲れ様、ありがとう、と声を掛けて遅れて到着する壱佳をマンションの駐車場で待つ。
「車、ここに停めちゃったけど、管理人の許可とか要る?」
義一が車を停めた場所は、駐車場の壁に来客用とプレートの掲げられた場所なので、特に管理人の許可は要らない。来客用の駐車場に何日も停める場合や、定期的に利用する人には月額の使用料を払って正規の駐車場に停めてもらうが、数時間の場合は来客用を無断で使用しても構わない。但し、管理人が定期的に駐車場の見回りをしているが。
「大丈夫。特に来客が多い日でもない限り」
年末年始や、ゴールデンウィーク等で家に来客の多い時期は前もって管理人に申告し、先着順ではあるが来客用の駐車スペースを借りられるが、見たところ他の来客用の駐車スペースも空いている。
「混んでる時はどうするんだ?」
「先着順だけど管理人さんに連絡して、駐車スペースを確保するんだ。その時はあのプレートが外されてる」
託生が来客用と印字されているプレートを指差して義一に教える。
「成程」
「あ、着いた」
義一の車が駐車場に着いてから約5分後、壱佳の車も駐車場に入って来た。壱佳は葉山家の駐車スペースに車を停める。助手席から託生のボストンバッグを持って車を降り、キーレスキーで施錠して託生と義一のところまで走って来る。
「お待たせ」
「道、混んでたっけ?」
義一と多少話はしたが、終始緊張していた託生には壱佳の車をサイドミラーから見る余裕もなかった。義一の車の直ぐ後ろを走っていると思っていた壱佳は託生たちが到着してから5分程経ってから到着した。
「救急車が来たからな」
「そうなの?」
「うん。道、譲ってたら遅れちゃった」
壱佳が持っている託生のボストンバッグを見て、託生は車に荷物を残していたことに気付く。
「ごめん、義一くん。荷物出してなかった」
「鍵は掛かってないぞ」
ほんと、ごめん、と言いながら助手席のドアを開け、吸入器と酸素ボンベ、エチケット袋を車から引き上げる。義一はミネラルウォーターも用意してくれていたが、まだ託生に車の中で飲食する余裕はない。
「義一くんの車はもう確定じゃない?」
「オレもそう思うけど、あった方が安心なら常に用意するぞ」
「何が?」
エチケット袋と吸入器をショルダーバッグに入れ、酸素ボンベを手に持った託生が壱佳の隣に立って2人の会話に交じる。数秒だが2人から離れた託生には会話の流れについていけない。
「ゴミ箱とか、エチケット袋は必要ないんじゃない?って」
「まだわからないよ」
まだ、2回だ。尚人の車にも酔わない託生だが、未だに車にはゴミ箱と消臭スプレー、新聞紙、エチケット袋持参で乗っている。
「兄さんの車でも未だに怖いし……」
「先生の気持ちはわかるから気にするな。オレは先生に安心して乗ってもらいたいんだから」
「うん、ありがとう」
車に酔わない義一が託生の気持ちをわかってくれるのはありがたい。乗り物に恐怖心を覚える託生は生まれつき乗り物に酔い易い体質で長年苦しみ続けてきた。尚人が車の免許を取って運転手が雅美から尚人に変わり、初めて酔わない体験をした託生の世界は広がった。もしかして、酔わない体質になったのか、と淡い期待を抱いたが、無惨にも期待は打ち砕かれ単に尚人の運転だったからだとわかった。
「そろそろ行くか?」
「たぁくん、それ、ボストンバッグに入れるでしょ?」
託生が持っている酸素ボンベを指差して壱佳が聞く。
「うん。義一くん、本当にありがとう」
託生が義一に頭を下げて礼を言うと、壱佳と義一2人揃って何言ってるの(んだ?)、と逆に聞かれてしまう。
「でも、仕事が……」
今日は平日なので義一にも仕事がある。病院にいる時に昼食に誘ったが、フレックスだから時間の制限はないが仕事に戻る、と言っていた。
「先生が家に入るまで見届けないと。エレベーターはよしといた方が良いんだろ?」
長期間入院して体力が落ちた場合はマンションのエレベーターを避けて非常階段で上がるが、今回の入院はそれ程長い療養ではなかったのでそれ程体力は落ちていない……筈だ。
「壱佳、あの時はどうしてたんだ?」
「あの時……って、ああ、章三先生がたぁくんをおぶって9階まで」
祠堂保育園の保育士をしていた頃住んでいたマンションは11階建てで、当時託生と壱佳は9階に住んでいた。あのマンションに住んでいた頃、エレベーターに酔う確率は60%くらいだったが、喘息発作を起こし病院に行った帰りは敢えてエレベーターを避けていた。呼吸が止まった13年前の発作の時は退院時体力がかなり落ちていたので、退院後エレベーターに乗ったのは1年程経ってからだった。
「決まりだな。先生、行こう」
義一が託生の手首を掴み、早速歩き出す。えっ?待って、と慌てる託生の手から素早く壱佳が酸素ボンベを抜き取り、ボストンバッグの持ち手の間に置いて義一と託生を追い抜き、駐車場から1階に上がる階段へと誘導する。
このマンションの駐車場は地下1階にあり、1階から居住スペースに上がる非常階段と駐車場から1階に上がる階段は別にあった。
「義一くん、階段上がれるから」
絶対に、と言い切れないところが不安だが、これ以上義一に迷惑を掛けたくない。水族館でのことがあるからか、義一が歩くペースはゆっくりで、退院後の託生でも楽に感じるので喋れる。
ん〜、と義一は少し考える素振りを見せ、そうだな、と了承してくれた。
「先生の家は7階だから、3階までかな?」
水族館に行った外出日は、和田から乗り物はなるべく避けるように言われたなかにエレベーターも該当していた。実際に見て回ることはできなかったが、館内には屋内展示物もあり、階段では義一が背負う話も出ていた。
けれど、託生はもう退院した。1週間しか経っていないが体力は大分回復している。
「大丈夫だよ」
病院で受け取った酸素ボンベもあるので、呼吸困難になっても対処出来る。
「苦しくなってからじゃ遅いんだよ」
ちょっと不満気に義一が言う。
「そうだよ。酸素ボンベは有限なんだ。たぁくんは苦しくなっても酸素ボンベがあるとか考えてるだろうけど、1ヶ月の間、受け取った酸素ボンベだけしかないんだよ?無駄にしちゃダメだよ」
壱佳が義一を援護射撃する。
義一が託生のマンションに突然現れてから義一と壱佳が顔を合わす機会はあまりなかったが、託生と壱佳の入院をきっかけにして随分仲が良くなった、と感じる。特に託生の体調を慮る面では常に意気投合していた。
確かに義一の言うことも、壱佳の言うことも尤もで、特に酸素ボンベはいざ使う時に託生は使い物にならなくなっている可能性が高く、調剤薬局に受け取りに行くのは壱佳だ。義一に背負われるのは本当に申し訳ないが、2人の言うことをきいた方が良さそうだ。
「わかりました。義一くんには申し訳ないけど、重いけどおんぶされます」
「そうこなくっちゃ」
「じゃあ、僕は先に行って荷物置いてくるね。サポートはあった方がいいでしょ」
「頼む」
壱佳はタッタッタ、と走って1階まで上がり、マンションの正面玄関脇にあるエレベーターホールに向かう。義一は託生の歩幅に合わせてゆっくり1階に上がり、マンションの裏手にあるゴミ集積場脇にある非常階段へと向かう。
「3階までって言ったけど、絶対に無理はするなよ」
「うん、わかってる」
非常階段を更にゆっくりのペースで先ずは3階を目指して上がる。2階までは順調に上がれた託生の足は次第に重くなり、遂には手摺りに捕まりながら3階までなんとか辿り着く。3階では既に壱佳が待機していて、1度は託生から抜き取った酸素ボンベを持って来ていた。非常階段の踊り場で義一がしゃがみ込み、腕を後ろに回す。乗れ、という合図だ。
「たぁくん、酸素ボンベ要る?」
「大、丈夫」
それ程息切れしていない。
「失礼、します」
壱佳から酸素ボンベを受け取り、一声掛けて義一の首に腕を回し、体重を義一に預ける。義一がゆっくりと立ち上がり、託生の臀部を腕で支え、1度身体の位置を整えるように身体を持ち上げる。
「行くぞ」
「うん」
3階の踊り場から7階を目指して義一が歩き出す。義一の歩みはゆっくりで、けれど人1人を背負っているとは思えないほど安定した足取りだった。
「先生」
「疲れた?重いよね。休憩する?」
非常階段には各階の踊り場しかなく、今何階辺りを上がっているのか見当も付かない。
「平気。そうじゃなくて、オレは先生にいつでも頼ってもらえる存在になりたい」
臀部に添えられた腕で下がりつつあった託生の身体を1度持ち上げ、再び階段を上る。
既に託生は義一に頼り切っていると思う。義一だけでなく、壱佳にも……
「頼ってるよ」
現に今、託生は義一に背負われている。義一がいなければきっと託生は自分の足で7階まで上がっていた。きっと呼吸困難になっていただろう。酸素ボンベが必要な状態になっていたかもしれない。
「先生は大人だから人に頼るのが難しいのはわかってる。でも、身体が弱い先生は人を頼らなくちゃいけない」
義一に言われなくてもわかっている。今まで担当になった病院の先生、全てに言われたことだ。けれども、わかっているのと実際頼れるのとは訳が違う。頼れる人に託生が巡り合うか否かの問題にも発展する。残念ながら託生には心から頼れる人は章三の他には尚人しかいない。壱佳も義一も十分に頼れる男に成長したが、過去の託生のトラウマが固く心を縛る。章三を頼れるのは、ゆかりとのことを全て知っている存在だし、尚人は実の兄だからだ。
「……そうだね」
「やっと先生と両思いになれたことだし、今度は頼れる男目指すから」
義一は十分に頼れる男に成長したと思う。義一の言葉がなんだか可笑しくてフフフっ、と託生が笑うと、
「先生。そこで笑われると首がくすぐったい」
どうやら託生の吐息が義一の首筋に掛かったらしい。
「首、弱いの?」
「先生だから」
「ぼく?」
「先生を背負っていると思ったら、いけないところが反応しそうになる」
「ちょっとっ、義一くんっ」
パンっ、と良い音がして義一の身体がビクッ、と小さく揺れる。何があったのかわからなかった託生は背後の壱佳を見て、何したの?と聞く。
「壱佳。今は止めろ。危ないだろ」
「もう下ろしても良いよ。7階に着いてるし」
「やっぱもう駄目?」
7階に着いているのなら、自宅までは平坦な外廊下なので託生の足で歩ける。
「駄目に決まってるだろ。ほら、たぁくんの小さいお尻から手を離す。そんなんだからいけないところが反応するんだろ」
ちぇ〜、と呟いた義一だったが、ちっとも不服そうではないことに気付き、本当に義一と壱佳は仲が良いと思う。
義一が再びしゃがみ込み託生を下す。
「本当にありがとう、重かったよね、ごめんね」
「謝るなよ。したくてしてるんだから」
「うん、ご……、ありがとう」
またごめん、と言いそうになって慌ててありがとう、と返す。
「壱佳もありがとう」
「エヘヘ、どういたしまして」
3人で足並みを揃えて自宅に向かう。ふと、思いだしたように壱佳が、そういえば……、と呟く。
「桃ちゃんの話は聞いた?」
「まあな」
車の中で義一に聞かれた話だ。義一や壱佳とは頭の出来が違う託生には、義一に答えた以上のことはわからないが、内容的には合っていると思う。
ふと、義一が足を止めたのは桃ちゃん宅の青木家の前だ。このマンションは防音完備なので、外廊下からでは室内の物音は聞こえない。たとえ桃ちゃんが高い声で鳴いていても……
「義一くん、お茶飲んでく?」
この街からつくばまでは2時間以上掛かる。車ならそれ以上かもしれないが、高速に乗った場合掛かる時間は託生にはわからない。ん〜、と少し考え込んだ義一は、トイレだけ貸して、と言った。
「道、混むとアレだから」
ショルダーバッグから電子錠を取り出し、解錠する。先に家に上がった壱佳が義一にスリッパを出し、自分もスリッパを履いて家に上がる。
「ただいま〜」
託生も久しぶりの我が家に帰って来て、早速出迎えてくれた玄関の空気清浄機の可動音を懐かしく思う。玄関脇の靴箱の上に電子錠を置いて託生専用のスリッパに履き替えて室内に上がった。
託生は危険と隣り合わせの生活をしている。
草木が芽吹く春は花粉。しとしと雨が降り続く梅雨の時期は低気圧。夏場は比較的喘息の発作は起こらないが、うだるような猛暑が好きという人は少ないだろう。
秋になるとまた違う草木の花粉が舞い、冬になって漸く落ち着く頃には1年が過ぎる。その他にも家にはハウスダストが舞うので毎日の掃除は欠かせない。
「いつもごめんね」
一緒に暮らす壱佳に謝りながら玄関の扉を開ける。
壱佳には週に1度、買い物のまとめ買いをする時に車を出してもらっている。ずっと壱佳の車に乗れずにいた託生も、千葉の病院に通うようになって初めて壱佳の車に乗った。義一の車に乗った時以上に戦々恐々していた託生だったが、章三の車にはどんなに良いコンディションで乗っても酔ってしまっていたのに壱佳の車は楽々クリア出来た。しかも遠出だ。お陰で買い物にも頼みやすくなり、車に乗ってくれないと悄気ていた壱佳も満足している。
電子錠で施錠し、外廊下をエレベーターホールに向かって歩き出す。
「僕も使うものなんだし、謝る必要なし」
身体の弱い託生は身内にも謝り癖がついている。もどかしく思うが、病気を正当化する託生はらしくないと思うし、今の託生が好きだ。
託生が使うものは壱佳も使う。託生1人が謝る必要はないと壱佳は思うが、それが託生なのだから仕方がない。
「うん。そうなんだけど、今までウジウジ考えて拒否ってた分も含めて」
ああ、と壱佳は初めて思い付いたとでもいうように頷く。
託生が壱佳の車に乗るのを固辞していたのはもし、壱佳の車に乗って酔ってしまったら壱佳の運転が未熟だと証明してしまう。壱佳の車は隆徳も一緒に選んだ車で、運転のしやすさは勿論なのだが車体の揺れが少ない、他の車種と比べて酔い難い車らしい。そこまで考えてくれているのに酔ってしまったら、とまだ乗ってもいないのにたらればの考えに惑わされた。千葉の病院に通院することが決まったのは偶然だが、きっかけになったのは確かだ。
腕時計で時間を確認すると3時過ぎ。デパートは隣街にあり、列車に乗る場合は1駅東京に向かって戻る必要がある。壱佳の車を固辞していた頃は駅前のスーパーで間に合わせていたが、今では気軽にデパートまで出掛けられるようになった。
「久しぶりに贅沢しよっか」
託生が聞くと壱佳は満面の笑みを浮かべ、両腕を空高く掲げてやったーっ!と歓声を上げる。
「何食べたい?」
「中華っ!」
即答だった。
来年の夏でモデルのバイトを辞める壱佳に、事務所の社長から写真集を出さないか、と打診があった。やることは同じだからOKを出した壱佳は受験生で、一応託生にも相談があった。
救急救命士になる為の学校は大学の他にも専門学校があるが、より精度の高い技術を身に付ける為に大学に行きたい、というのが壱佳の希望だ。大学にも色々あるが、壱佳の志望大学は医者を志す高校生が受験する難関中の難関で、高校でトップクラスの成績の壱佳でも合格率はB判定で、担任の先生からは予備校に通え、と助言されている。
それでも予備校に通わないと言い張る壱佳は社長に直談判して撮影を来年にしてもらえるよう掛け合った。恐らく隆徳も協力しているだろう。
壱佳は何がなんでも大学に合格しなければならなくなったが、返って集中力が増した、と実感しているらしい。ドライブもいい気分転換になれば、と託生から誘った。
「もう直ぐ春夏物の撮影が始まるから今のうちに脂っこいの食べときたいな、って」
「壱佳は痩せ易いから良いんじゃない?瀬尾さんは知ってるの」
「脂身食って豚になれ、だって」
スタイリストの隆徳が言う台詞とは思えない。けれど壱佳と隆徳は良い関係を築いているらしく、託生のマンションに戻って来てからも隆徳の家にお邪魔しているらしい。
素人の壱佳がスタジオに初めて入った時、山猿だと怒鳴られた、と託生に泣き付いてきたがその後、彼は壱佳に行き付けのサロンや、薦めの化粧品など山のように持って来てくれた。何事にも真面目に取り組む壱佳は隆徳の言い付けに従った結果、掲載されている雑誌のモデルたちの中でも人気上位に入るようになった。
「先に買い物済ませちゃってからでいい?待てないくらいお腹減ってる?」
「全然余裕。寧ろゆっくりお肉を堪能したいからその方がいい」
わかった、と託生が答えようとした時、返事に被せるようにキャンキャン、と甲高く鳴く小型犬の鳴き声がした。直ぐに壱佳の顔色が変わる。足を止め、鳴き声の方に向き直り、託生を腕で庇うように自分の背中の後ろに隠す。
「お出掛けですか?」
声を掛けてきたのは託生の部屋の隣に住む青木だ。青木は動物好きな夫婦で、今のマンションに越してくる2年前まで一軒家で家族3人と2匹の犬と共に暮らしていた。2年前に長男が結婚し家族4人暮らしが始まり暫くした頃、長男夫婦が夜の営みをしていないことに青木が気付いた。偶然かもしれないが、主人の定年退職を機に前の家より郊外に建つ今のマンションを購入して夫婦で引っ越して来た。外廊下で会えば立ち話をするくらいには良い関係を築けていた。
「はい。買い物ついでに中華でも、と」
壱佳の険しい顔は変わらないが、託生は普通に会話する。壱佳も青木夫婦を毛嫌している訳ではなく、青木家にやって来た子犬の桃ちゃんを警戒しているのだ。
両親から引き継ぐ形で長男夫婦が2匹を実家で飼い出して暫くした頃、犬が妊娠して出産。6匹の子犬が生まれた。元から飼っていた2匹に加え、新たに6匹も増えると楽しいだけでは済まなくなる。経済的にもだが、2匹の時には感じなかったトイレの世話や散歩、臭いなど、想像も付かなかった問題が次々と持ち上がり、生後半年を待って6匹のうち5匹を里子に出すことにした。うち1匹を動物好きの両親に、と打診があったのだが、青木夫婦は託生の喘息を知っていてかなり渋っていた。
託生自身触れることはできないが動物好きだ。スマホのSNSには動物の写真をアップするアカウントをフォローしている。触れられなくても外廊下で青木に抱っこされた桃ちゃんを見るだけで幸せな気分になれる。
因みに桃ちゃんというのは呼称で、青木小桃♂。犬種はヨークシャーテリアだ。母犬の名前が桃で、桃の子供だから小桃。命名に問題があると捉える人もいるかもしれないが、桃ちゃんは青木夫婦の元でも幸せに暮らしている。
「桃ちゃんはお散歩ですか?」
「デートとダイエットを兼ねて。退職したら主人が太ってきちゃって」
「だからジムにも通っているじゃないか」
65歳を過ぎても青木夫婦はラブラブだ。息子夫婦はラブラブな両親に当てられて返って夜の営みが出来なくなったのかもしれない。両親が家を出て行った後、妊娠したのが犬の桃ちゃんなのは苦笑が漏れるが、息子夫婦も夫婦仲は良いそうなのでいずれ子宝に恵まれるだろう。
「今日はお天気も良いですし、良いお散歩びよ……あっ、危ないっ!」
託生と青木婦人の話が退屈になったのか、それまで大人しく婦人に抱っこされていた桃ちゃんが腕の中で身を捩り、婦人の腕をジャンプ台の踏み切り板にして空中に踊り上がる。人間の腰の位置からジャンプすると地面までの距離は個人差はあるが大凡60cm。生後半年の桃ちゃんの骨はまだまだ弱く、誰かが受け止めなければ骨折は免れない。人間でも相当痛い骨折は小型犬が受ければ大怪我に相当し、手術が待ち受けている。
咄嗟に託生が一歩を踏み出したが、託生より早く反応したのは壱佳だった。身を乗り出し、空中から落ちてくる桃ちゃんを両腕でキャッチする。
立ち上がった壱佳の周りに青木夫婦も託生も駆け寄り、足を中心に桃ちゃんに怪我がないか確認する。当の桃ちゃんといえば託生のところまでジャンプするつもりが距離が足らず、壱佳の腕にキョトンとした顔で抱かれている。
「桃ちゃんっ!たぁくんが大好きなのはわかるけど、怪我をしたら痛いんだよっ?!」
大人しく壱佳に抱かれていた桃ちゃんだったが突然の壱佳の怒鳴り声でいつも託生と桃ちゃんの間を引き裂く天敵の壱佳だったと気付いたのか、ウゥゥゥっ、と低く唸り出す。
「桃ちゃん。怪我をしたら折角のお散歩、楽しめなくなっちゃうんだよ?桃ちゃんが怪我したらみんな泣くよ?」
託生が桃ちゃんの頭を撫でながら諭すように言うと、キューン、と甘ったれた声を出す。
託生は桃ちゃんの初恋の人で、しかも一目惚れだった。桃ちゃんがこのマンションにやって来て、青木夫婦が桃ちゃんを連れて挨拶に来てくれた時のことだ。
「だから、絶対に危ないことはしないって約束して」
託生の言葉がわかったのかは不明だが、キャン、と高い声で鳴いて返事をした桃ちゃんの頭を賢いねぇ〜、と言いながら再び撫でる。桃ちゃんはつぶらな丸い瞳をウルウル潤ませ、ジッと託生を見詰める。
「あっ!」
突然大きな声を出した壱佳までが潤んだ瞳で託生を見る。
「どうしたの?」
「嬉ションされたぁ〜」
壱佳は半泣きだ。たかが買い物だというのに今日の壱佳の服装は上から下まで卸したての装いだった。
「おしっこだから洗えば大丈夫」
「ウウウっ」
託生と壱佳に時間の余裕はなくなった。買い物の予定ではなく、託生の喘息発作が起きるかもしれなくなったからだ。託生は桃ちゃんの頭を何度も撫でていたのでヨークシャーテリアの桃ちゃんの柔らかい毛は託生には天敵だった。
「青木さん、すみません。たぁくん吸入しないといけないんでお先に失礼します」
桃ちゃんの毛を吸入した託生には時間との勝負になる。いち早く吸入して、念の為にシャワーを浴びて桃ちゃんの毛の付いていない服に着替える必要があった。
壱佳は桃ちゃんを青木婦人の腕に優しく移し、託生の手首を強く握る。
「たぁくん、行くよ」
時間との勝負なのはわかっているが、動物好きの託生は桃ちゃんと別れ難い。普段は動物との接触を避けている託生だが、その柔らかい体に一度触れたら離れ難く何度も何度も触れていたくなる。家に向かって既に歩き始めている壱佳に腕を引かれながらも桃ちゃんの前脚をキュッ、と握り、
「お散歩楽しんで来てね」と声を掛ける。
「たぁくんっ!」
はいはい、と壱佳を軽くあしらいながら青木夫婦に会釈をして我が家へと急ぎ足で戻った。
壱佳の通う高校には制服はあるが、常識的な範囲内でなら基本的に何を着て行っても自由だ。入学式や始業式、文化祭といったイベントがない限り、壱佳はカジュアルな服を着て通っている。指定の通学用の鞄もあるが、どうせ使わないだろうと予想をつけて入学当初からリュックサックを使用している。この高校は父親の尚人も通っていた高校で、幼い頃から進学するならば尚人の通った高校に通いたい、と思っていた。校風も自由で、モデルのバイトをするのにも規制はなかった。
翌日、高校から帰りエレベーターホールでエレベーターを待っていた壱佳は青木婦人とばったり出会した。青木の両手には駅前のスーパーのビニール袋が下がり、両方ともパンパンに膨れている。
「半分持ちます」
「重いわよ?」
「平気です。一応、男なんで」
「一応?」
フフフっ、と笑いながら聞き返す青木は昨日の壱佳の失礼な態度を気にした風はない。
「痩せっぽちでヒョロヒョロしてるってよく言われるんで。それより昨日は失礼な態度を取ってすみません」
降りてきたエレベーターに乗り、7のボタンを押した後、青木が乗るのを待って閉まるのボタンを押す。エレベーターに乗った後、青木はビニール袋を床に下ろして痺れた手を軽く振っていたが、壱佳は下さなかった。自分の荷物なら下ろしただろうが、赤の他人の荷物は何が入っているかわからないし、青木の手前下ろすのは嫌だった。
いくら喘息発作が怖いといっても青木に対して失礼だ、と家に戻ってから託生に注意された。今思えば確かに失礼だったが、それは何事もなく無事に過ごせたから言えることだと壱佳は思う。
「いいのよ。託生くんは大丈夫だった?」
「はい。直ぐ吸入してシャワー浴びて。買い物も中華も予定通りです」
「そう。壱佳くんの服は?おニューだったんでしょ?」
青木の言う通り、昨日着ていた服は卸したてだった。たかが買い物に、と託生には呆れた顔をされたが、託生との買い物デートに新しい服を着て行きたいと思うのは託生に恋する男として当然だ。
「おニューって死語じゃないですか?って、死語も死語か。……直ぐ洗ったんで大丈夫でした」
「桃ちゃんも散歩の前に白井さんのところに寄って診てもらったんだけどなんともなくて。壱佳くんのお陰よ、ありがとう」
白井とは近所にある動物病院の院長の名前だ。まだ30代だが自分で開業して動物病院を運営し尚且つ、犬猫の保護活動にも熱心に取り組んでいる。
「よかった。咄嗟だったんで僕のキャッチで捻挫とか心配でたぁくんとも話してたんで。伝えときます」
エレベーターが7階に着き扉が開く。開くボタンを長押しして先に青木を下ろし、続いて壱佳が降りる。壱佳の部屋の1つ手前が青木の部屋だ。
「桃ちゃんにも彼女がいれば良いんだけど。ドッグランにも行ってるのよ?」
「どうしたって桃ちゃんの恋は叶いませんからねぇ」
人間と犬、というだけではなく、桃ちゃんは♂だ。人間同士ならば今は同性愛という単語ができて久しいが、犬の場合は無理だ。それに、悔しいが託生は義一に恋をしていて2人は両思いだ。託生を好きな壱佳は託生の幸せを願う。
「壱佳くんの恋はどうなのよ」
「えっ?!」
もしかして青木にバレていたのだろうか。
壱佳は常に託生と一緒にいたが、高校入学と同時に中学の時の友達とルームシェアを始めた。ルームシェアした友達と進学先は別れたが、一緒に暮らしてもいいと思えるくらいには仲が良かった。けれど、彼の生活態度は壱佳の目に余るものがあり、2年になって隆徳の家に転がり込んだ。全く帰っていない訳ではないが、再び託生と暮らすまで1年程青木と顔を合わせていなかった。
「彼女と同棲してたんでしょ?」
性別は別にして、壱佳が同棲を始められる年齢になるのは後2年程先になる。
「彼女がいたら真っ先にたぁくんに紹介してます。それに、今は受験生なんで」
「そうだったわね。でも、モデルさんしながらは大変でしょ」
「今は無理ですけどモデルは辞めます。救急救命士になりたいんで」
今日、先日受けた模試の結果通知がきて、T大合格率が大幅にアップしていた。担任からも褒められて、気を抜くなよ、とは言われたが気分がよかった。今まで救急救命士になる夢はあまり大っぴらにしてこなかったが、合格率アップが気分を高揚させていた。だから、己の失言にも気付けなかった。
「あらあら?もしかして?」
青木の頬がほんのり赤く染まる。確実に託生を好きなことがバレた。
一時期家を出ていたが、戻ってきてからは常に託生の側にいる。時々、隆徳の家に行って食事を作ったり、掃除をしたりしているが外泊はしていない。新しい服を着ていたのも、救急救命士になるのも託生が関係している。小さい頃から何かにつけて将来の夢という作文を書かされた。当時は救急救命士という言葉を知らず、まうつーまうができるようになりたいや、たぁくんのお医者さんになる、と書いたりもしたが、いざという時真っ先に駆け付けられるのが救急車に乗っている救急救命士と知ってから夢は一択になった。
「壱佳くんの恋のお相手って託生くん?」
「はい。でも、たぁくんには言わないでください」
「こんなにあからさまなのに壱佳くんの片想い?」
「たぁくん鈍いんで」
「桃ちゃんに好かれてるのはわかってるのよね?」
託生は桃ちゃんに好かれていることには気付いている。桃ちゃんだけでなく、託生が保護した犬猫は、人間に虐待されて人間不信になった子も含めて皆、真っ先に託生に懐き好きになった。
「たぁくんは触れないんですけど、何故かみんなたぁくんに懐くんでわかってます」
「フフフ、わかったわ。内緒にしてればいいのね」
「すみません。……あの……」
「何?」
「隣に同性愛者が住んでで気持ち悪くないですか?」
もし、気分を害するようなら託生にも迷惑を掛ける。いずれは託生に告白するつもりでいるが、今ではない。
「私の身近にもいたから」
「でも、息子さんは結婚したんじゃ……」
「私、精神科医だったの。だから、マイノリティの相談はよくあったのね」
近所に同性愛に理解のある人が住んでいてラッキーとしか言いようがない。青木が精神科医なら守秘義務は守ってくれそうだ。
「いつでも相談にのるわよ。その代わり、私たちが救急要請したら壱佳くんが来てね」
「勿論です。でも、何もない方が嬉しいです」
「それもそうね」
青木の足が止まる。自宅に着いたからだ。
「荷物持ってくれてありがとう、助かったわ。受験頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
青木にビニール袋を手渡し、扉を開け向こう側に消えていく婦人を壱佳は頭を下げて見送った。
このマンションのベランダの柵は石塀で、僅かな隙間があり風通しをよくしている。他の階でもペットが飼われているが、隙間から階下に落ちる心配があるので小型のペットはなるべくベランダに出さないように。ベランダに出す時は飼い主がペットの動きに注意をするように、といった内容の回覧板が時々回ってくる。
青木は引っ越してきた時から託生の身体を気に掛けてくれていたし、桃ちゃんの毛が託生の洗濯物に付くのでベランダに出さないでほしい、とこちら側が一方的に頼んだことにも協力的だった。勿論、桃ちゃんをベランダに出さないのは階下に落ちる心配をしているのもあるだろうが、近所に引っ越してきた人との相性が悪ければお願いする立場の葉山家側が出ていかなければならない事態だったが、青木が医者だったと聞いて全ての謎が解けた気がした。
「たぁくんに教えてあげよ」
昨日、帰ってから託生は本当に桃ちゃんに怪我がなかったか心配していた。青木が精神科医だったことも話したいが、下手をすると壱佳が託生を好きなことがバレてしまうかもしれないので、医者とだけ話すことにして壱佳は止まったままだった足を踏み出した。
東京駅で電車を降りた義一は軽やかなステップと持ち前の運動神経の良さで向かって来る人波を躱しながら階段を駆け下り、コンコースでは全力疾走で走り抜ける。振り返るサラリーマンもいたが、周りに気を配る余裕はない。
自動改札にバンっ、とICカードを叩き付け走り抜けようとしたが、自動改札機の方が義一の速さの前に処理が追い付かず、行手を遮られてしまった。ピンポン、ピンポン、とアラームが鳴り、バーが義一の行手を阻む。数歩下り、今度は落ち着いて改めてICカードをタッチする。急いでいたが為に返って余計に時間が掛かってしまったが、今度はバーが開き義一を通してくれる。
すみません、と義一の後ろで渋滞になってしまった先頭の客に謝るが返事は期待していない。手間取ったが自動改札機を抜けた義一の足はまた走り出す。
崎裕明が宿泊するホテルの前で漸く足を止めた義一は呼吸を落ち着けた後、スーツのポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭う。汗をかいた時はコロンが欲しいと思うが、花の花粉でも喘息の発作を引き起こす託生が心配で使えない。
欲しいものを考える時、まずはじめに託生の身体を考えるが、面倒に思ったことは一度もない。今まで全く苦に思ったことはなく、託生との交際をやめたいと思わないのだから恋は不思議だと思う。
先程までと打って変わった余裕のある表情で正面エントランスを颯爽と歩く。託生もまさか電車を降りてから走り通しだったとは思わないだろう。
待ち合わせのカフェテリアに着くと視線を巡らせて託生を探す。後ろ姿で託生がわかるのだから義一の恋は重症かもしれない。
託生はカフェテリアの4人掛けのテーブルに着き、スマホの画面を見ながら時間を潰していた。壱佳はいなかった。
後ろから近付いて驚かせようとしたが、スマホの画面に映る30代くらいの女性が目に入って足を止める。義一さえ託生にアプローチしなければ託生程の人が女に好かれない訳がない。元々託生はノンケなのだから恋愛対象は女性なのだ。それに、女の傍らには大型犬が鎮座していた。桃ちゃんの問題も壱佳から聞いていない今、託生が女性の写真を見ていたと嫉妬するのは早計だ。
「先生」
義一が託生の後ろから声を掛ける。託生は直ぐに反応して見ていたスマホの画面をテーブルに伏せ、義一を見上げる。
「早くない?約束は7時だよね?」
スマホを隠されたと思うのは義一の穿ち過ぎだろうか。聞き出したい衝動に駆られるが、恋愛に関することは先ず壱佳に聞いてから、と義一のなかで図式が出来上がっている。
今は6時30分。義一が早ければ義一より先に着いていた託生はもっと早い。
裕明と会うのに東京駅付近のホテルをセッティングしたのは島岡だ。元々仕事で来日した裕明の空き時間に義一と託生が割り込んだ。その裕明は今頃料亭で美味い飯を食いながら商談中だ。
裕明との約束は9時だが、託生は東京駅に着くまでに確実に具合が悪くなる。今日の為に仕事を休んだ託生と壱佳と食事を摂る為に7時の待ち合わせにした。
「ちゃんと仕事した?」
空いている席に座り、ボーイが運んできた水を一気飲みする。飲んでからバレたな、と思ったが、託生は笑うだけだ。
「流石に残業はしなかったけど。それより壱佳は?」
高校生の壱佳が託生の側にいれば長時間の待ち時間も時間潰しになると思ったのだが。
「高校休むって言うからお尻引っ叩いて送り出した」
流石、壱佳の叔父さんは手強い。義一が高校生だったなら壱佳と同じように休みたいと言い出していただろう。
「一応確認だけど、今日のは食事がメインじゃないんだよね?」
「親父は食ってるからコーヒー程度だと思うよ」
裕明は義一にいつものようにアルコールを勧めるだろうが毅然と断らなければならない。託生がいるからというのが1番だが、義一と同い年の未成年の壱佳がいるからだ。
「壱佳を待ってなきゃだからここで食事にしていい?」
「オレも腹減り過ぎて動けねぇ」
託生がクスクス笑う。昼に食べたものはすっかり消化済みで嘘ではないが、それ以上に東京駅から全力疾走した名残が両膝にきている。立ち上がったら膝がガクガクと笑ってまともに歩けそうにない。
託生がボーイを呼び2人でメニューを見ていると、たぁくん、と叫びながら走って来る壱佳の足音が聞こえた。
「こっち」
壱佳に手を振って託生が応える。壱佳は義一と反対側の席に座り、着いたばかりでまだ壱佳の水がきていなかったので託生の水を断りもなく飲む。そういうことができるのも家族だからだ。
「走って来たの?」
「だって、たぁくん、を、1人、で、待たせ、られ、ない、から」
壱佳は今日は高校の制服を着ていたが、義一の目にはそれ程着込んでいない印象を与えた。一方、背中に背負っているリュックサックは使い込んでいて、ところどころ糸が出ていた。
水を飲んでも息を切らせている壱佳の背中を、託生が立ち上がり傍に立って撫で摩る。
「ごめん。喋んなくていいよ。ここで食事することになったから壱佳もゆっくりして」
託生の言葉を聞いて壱佳が軽く手を上げる。わかった、というサインだ。それから3人で食事をしながら義一や託生の仕事や、壱佳の学校のことを話す。義一が託生や壱佳と席を一緒にすることはあるが、3人一緒は退院日以来なかったからだ。
話しながらの食事を終えて腕時計を見た壱佳が託生の腕を引き何事か囁く。それに対して託生は少し考える素振りを見せた後、いいよ、と答えた。
「義一くんもケーキ食べない?」
「食う」
チャンス到来だ。今日は大事な話があるから後日でもいいと思ったが、壱佳と2人になれる機会を有効利用する。甘いものが苦手な託生はケーキを食べる確率は低そうだし、食後のデザートは少食な託生にはキツい。先程目にした写真の女を壱佳が知っているかわからないが、聞いてみる価値はあった。
義一は壱佳と連れ立ってケーキバイキングを取りにショーケースの方に向かった。時刻は7時過ぎで、時間的にもショーケースの前には義一と壱佳しかいなかった。
ケーキバイキングの皿に美しくデコレーションされたケーキを載せている壱佳の隣に立ち、義一の疑問を口にする。
「先生に聞いたんだけど、なんか桃ちゃんの問題が腑に落ちないっていうか……。問題って結局何だったんだ?」
家に帰ってから色んなパターンで想像してみたが、託生の言葉を思い出せば出す程疑問が募っていった。託生の言葉も本当なのだろうが、恋愛に疎い託生が気付かないパターンもある。
「桃ちゃん、たぁくんに恋しちゃったんだ。しかも、一目惚れ」
それで壱佳が託生をガードするあまり桃ちゃんに嫌われたのか、と納得する。だが、壱佳が側にいなければ託生は桃ちゃんの影響で身体を壊す。
「♂だったよな」
「まあ、仕方ないっちゃ仕方ないんだけど。たぁくんは色んな犬猫を保護してるんだけど、人間不信にまで陥った子でも1番にたぁくんに懐いて好きになる。どうしてだろう?」
託生が犬猫の保護活動をしていたのは初耳だが、決して託生の身体にいい影響を及ぼすと思えない。託生は何故、危険を冒してまで犬猫の保護活動に力を入れるのか。犬猫が可愛いと言っていた通り託生も動物好きであることは確かだ。
「それとさっき先生が30代くらいの女性の写真見てたんだけど、本命は一緒に写ってた大型犬の方か?」
「30代の女性?……ああ、ご名答。きっと白井先生っていって、動物病院の院長だと思う。嫉妬とか独占欲とか、たぁくんには理解不能な世界だから、きっとこれからも義一くんをモヤっとさせるかもしれないけど、それがたぁくんだと思ってあげて」
それは理解できる。祠堂保育園の頃から託生は他の女の先生方から言い寄られても全然相手にしていなかった。バスハイクでもラブレターを出した先生がいたらしいけど、結局返事をしていなかった。
「まさか、オレに内緒で付き合ったりしてないよな?」
託生には面と向かって聞けないが託生のこととなると義一は狭量になる。義一が狭量になるのは相手が託生の時だけだ。
「たぁくんは大好きなんだけどねぇ〜、障害が大きくて」
託生が義一に隠れて女と交際していたなんて知りたくなかった。真面目な託生は義一としか付き合っていないと思い込んでいた浅はかな己の失態だ。
「……なあんて。びっくりした?」
「先生が浮気なんて信じられないけど、魅力的な人だから見る目があるなって。勿論、女性の方のだぞ」
「はいはい。でも、障害があるのは本当。たぁくん、無類の動物好きなんだけど、喘息があるから飼えないだろ?」
託生の言い方だと壱佳の方が動物好きと受け取ったが、実際は託生の方が動物好きだった。託生の想いびとは30代の女性・白井と一緒に写っていた大型犬で、しかも想いびとは世の中の動物全般で、両思いということだ。
「動物に好かれてることはわかってるのか?」
義一は早々に託生に告白したから義一の想いを託生はわかっているが、ずっと一緒に暮らしている壱佳の想いには気付いていない。義一は疑っているが、託生の幼馴染の片瀬も託生に想いを寄せた1人ではないかと思う。託生から話を聞くぶんには片瀬だけだが、義一の知らない託生の人間関係を想像するともっと託生に想いを寄せる人はいると思う。そのくらい託生は魅力的な人なのだ。
「動物は裏切らないからね。普通に大好きアピールしてるよ」
「動物相手でも好きと言わないのか?」
「飼い主さんがいるだろ?」
託生は過去にトラウマとなる事柄で2人もの信頼する人を失った。義一も含めて未だに託生に好きと言ってもらえていないが、唯一託生が気持ちを伝えられる相手は動物だった。勿論、義一は託生に好きと言ってもらえる初めての男に精進するだけだが。
「僕は話に聞いただけなんだけど、たぁくんが生まれる前まで静岡の家で大型犬を飼ってたらしいよ。けど、たぁくんに喘息が見つかって直ぐに譲ったって」
託生が2ヶ月いた集中治療室に入った原因もバスハイクで動物園に行ったからだ。託生は動物園くらい平気だと思っていたらしいが、身体は正直だった。
「オレが先生に声掛けた途端、スマホを隠したんだ。動物の写真なら隠す必要ないだろ」
「条件反射かなぁ〜」
ケーキを皿の上に載せ、託生が待つテーブルに引き返す。託生に嫉妬深いと思われたくない反面、義一が託生の側にいることを証明もしたい。
「お帰り」
飲んでいたコーヒーカップを皿に戻して託生が微笑む。
「本当に仲が良いね」
「友達だし、僕は義一くんが好きだけど、義一くんには下心があるみたいだよ?」
「もしかして、壱佳を愛しちゃった?」
とんでもない誤解だ。託生のこの発言には壱佳も渋い顔をする。
「僕の好みはたぁくんくらいの年齢の人だもん」
「へぇ、そうなんだ。お相手の方にはいつ頃会えそう?」
酷い。託生を好きな壱佳の気持ちを知っているから、自分のことを顧みずに壱佳の同情をしてしまう。
「まだ告白もしてないからもう少し先になると思う」
「きっとうまくいくよ。告白したら教えてよ」
「うん、楽しみにしてて。それより、義一くんに白井先生の写真隠したって?たぁくんの彼女じゃないかって義一くんに質問攻めに遭ってるんだけど」
攻め、というほど聞いていない。ショーケースの前でもっと聞きたかったが、壱佳が戻って来てしまった。
白井は30代で動物病院を開業する程の財力と知力を持ち合わせている。おまけに話題性では義一より託生に相応しい相手だった。
義一と壱佳がテーブルに着くとボーイがやって来て食後の飲み物のオーダーを取る。義一はホットコーヒー、壱佳はアイスレモンティーをオーダーした。義一と壱佳がケーキを取りに行っている間にオーダーした託生のホットコーヒーは既にテーブルに運ばれていた。
「さっきの続きだけど、たぁくんは捨てられた猫とか犬とか。所謂殺処分待ちの子たちを保護してるんだ。でも、喘息があるからたぁくん自身が動物を飼うことはできない。だから、自分で拾った子たちを白井先生んとこで病気や怪我がないか検査したり、治療を受けさせて元気な状態で里親さんに預ける。白井先生の他にも捨てられた子たちとか、多頭飼育崩壊の憂き目にあった子たちとか保護してる人たちがいて、みんなで協力し合って育ててるんだ。でも、たぁくんの立場だと自分勝手だとか、無責任だとか言う人たちもいる。たぁくんは金銭的な援助しかしてないからね。けど、そういうことを言う人は殆どが見て見ぬ振りをしてる」
陰口を叩く人の影響で託生は咄嗟に犬の写真を隠した。既にそういう行動を取るのが身に付いてるということは、長い間陰口に晒され、また長い間託生が保護活動をしてきた証だ。
犬猫を捨てた人たちも、飼育崩壊で保護先を探す人たちも健康だから動物を飼えるのであって、託生のような動物が好きでも健康上の理由から飼えない人の気持ちに気付かないことが多い。動物病院に近寄るだけで不調を訴える託生は、身を危険に晒していても動物を保護することを止めない。託生が好きだからという理由ではなく、託生のような行動を取れる人が義一の身近にいて良かったと思う。
義一も見て見ぬ振りをしてきた側の人間で、託生を悪く言う人たちの言い分もわかる。中には他の人が拾ってくれるだろう、うちはペット禁止だから、と他力本願な人もいるかもしれない。けれど、捨てられた動物たちは体力を消耗して、1日後というだけで生死が危ぶまれる場合もある。
「今まで先生と付き合うことを念頭に入れてアメリカでもペットを飼ったことはなかったけど、これからもそれは変わらない。けど、先生の活動は凄いと思うし、オレにも何かできたらって思う」
「ありがとう、義一くん」
話に夢中になっていたが、ボーイがホットコーヒーとアイスレモンティーのグラスをトレイに載せたまま棒立ちになっているのに気付き、義一が立ち上がってそれぞれをテーブルの上に置いていると、ポタッ、とトレイの上に雫が落ちる。ボーイの顔を見ると、黒い瞳から涙が溢れ、そばかすが目立つ頬を濡らしていた。
「かっ、感動しましたっ。ペットを飼えない状況でも護ろうとするその姿勢っ」
ボーイは改まって頭を下げ、トレイを小脇に抱えて胸ポケットから名刺を出し、義一、託生、壱佳の順に渡す。先に義一に名刺を渡したのは単に義一がボーイに1番近かったからだ。
「姉が動物保護のNPOやってるんですけど、受け入れ先ならうちで探します」
姉が動物保護のNPOをやっていると言うボーイ自身もかなりの動物好きのようだ。しかし、姉が不在のまま受け入れをOKして構わないのか、不安も残る。
「こっちは拾うだけですけど……」
「でも、動物病院で諸検査を受けさせてくれるんですよね?」
このボーイはかなり前から話を聞いていたらしい。壱佳から話を聞いただけだが嘘ではないのではい、と答える。椅子に座る託生の顔を見下ろすと何か考えているようだ。託生にとっても、動物たちにとっても願ってもない条件には違いない。
「すみません。この場で即決は難しいので後日改めて連絡させて頂いてよろしいでしょうか」
契約を交わすには姉のNPOの状況を調べる必要がある。
急に慌てた表情になったボーイははい、と頷く。
NPO事務所と実際に動物が保護されている現場が離れている場合は託生が直接会って話をするのがベストだが、生憎そういった事務所は少ない。事務所と動物は同じ場所にあることが多く動物を保護しているボーイの姉と会うのは無理だ。
義一はスーツの胸ポケットから名刺を取り出しボーイに手渡す。義一が名刺を渡すのを見て、慌てたように託生も立ち上がって革鞄から名刺ケースを出し、ボーイに名刺を渡す。
「私は葉山さんがされている活動を今知ったばかりですが、葉山さんには持病があり動物全般が駄目なので、お姉様との話し合いの場には私が出席させて頂きます」
「崎義一さん」
ボーイが義一の名刺を見て呟くように確認する。
「私たちは個人で活動していますので、できないことの方が多いと思いますが」
言葉を区切り、受け取った名刺の名前を見て、
「篠崎様とご縁が持てますことを希望しています」
はっ、はい、と元気な返事をして篠崎が頭を下げる。お話の邪魔をして申し訳ありませんでした、と言い置いて篠崎はテーブルを離れていった。
「勝手にすみません」
椅子に座って託生に向かって謝罪すると、助かったよ、と手を体の前で振りながら笑ってくれる。行き過ぎたことをしたのは重々承知しているが、篠崎の話は壱佳から聞いた託生の活動に役に立つと思った。
「でも、義一くんに窓口はさせられない」
厳しい口調で託生が言う。先程は笑ってくれたのに、表情も厳しく強張っている。
義一が篠崎の姉と会い、契約を交わすことは託生の活動のためにも必要だ。他に窓口となれる人物は壱佳しかいないが、壱佳は高校生で受験生だ。
「どうしてですか?」
今まで殺処分待ちの犬猫を放置してきた義一には任せられないということだろうか。もし、その通りならばこの話は流れる。
「義一くんはいつまで日本にいる?いずれアメリカに帰ってFグループの社長になる義一くんがこんなボランティアをしてて良いの?」
確かに義一はいずれアメリカに帰る身だ。今年度は日本の研究所での研究を裕明から言い渡されているが、来年度のことはわからない。ただ、義一には予感のようなものがあった。
「正式に親父に言われた訳じゃないが、多分Fグループの社長にはなれない」
幼い頃は将来はFグループの社長になると思っていたし、周囲の人間も義一を次期社長として扱ってきた。社長になる為のレールに乗ってあらゆる事柄について勉強してきた。そのうち、世間一般でいう親の在り方のようなものを考え、先日は託生と壱佳の話を盗み聞きした。裕明は義一にあまいと思い込んでいたが、実際はそうではなく、獅子の子落とし以上に厳しいのではないか、と感じるようになった。
「なんで?」
テーブルから乗り出す姿勢で壱佳が聞く。義一の想像に過ぎない今の状態だが、確信に近いものはあった。
「悪い。この前の先生と壱佳の話、聞いちゃったんだ」
「この前?」
「先生にサチュレーションモニターを付け忘れて壱佳が落ち込んでた時」
「ああ、盗み聞き、得意だもんね」
義一は以前、託生と章三の話も盗み聞きしている。その場には壱佳もいたが、章三と会う時間と場所を壱佳から聞き出せれば巻き添えにする必要はなかった。
「どういうこと?」
「人の話を盗み聞きするくらい義一くんはたぁくんが好きってこと」
壱佳の言う通りだが、素直にすみません、と謝る。
「たぁくんと話せたし、僕はいいよ。たぁくんもいいよね?」
託生の顔には意味がわからない、とデカデカとかいてあったが、壱佳がそう言うなら、と義一の謝罪を受け入れてくれた。
「それで、なんで社長になれないの?」
「先生たちの話で獅子の子落としを思い出したんだ。今まで親父はオレを含めた家族にあまいって思ってたんだけど、よくよく考えたら違うような気がして」
「社長になれないっていうか、新しく事業を興せ、みたいな?」
壱佳を育ている託生は親の心を知っている。正しく義一が想像していた通りのことを言い当てられて脱帽する。
「今は研究所にいるけど、来年はわからない。でも、何れ、Fグループの支社で働くことになる」
「いきなり本社の社長は無理だもんね」
「だからあまいと思ってきたんだ。支社長になって人脈を作れ、皆親父の手駒だから」
裕明の子飼いのような人物と人脈を作っても結局のところ義一の世界は広がらない。義一がFグループ社長の座に収まってしまえばそれ以上の成長は見込めない。そう思っていた時に託生と壱佳の話を聞いてしまった。義一が気付いていないだけで、裕明はもっと義一の可能性を見出しているのではないか。
「オレの想像通りだとある日、いきなり解雇を言い渡されて世間の荒波に揉まれる」
「そっか。人脈は出来上がってるんだから次は会社を興すのか」
「そんで親父を超える人物になれってこと」
「厳し〜。父さんの子で良かった」
「脱線したし先生には話してなかったけど、何年かオレは海外に行く。だから篠崎さんとの契約は今年中に済ませておく」
「ボランティアすることに反対されない?」
「今までオレのすることは黙認してたし、好きにさせてくれるだろう」
「大丈夫かなぁ〜。やっぱりぼくが会ってきた方が」
「「駄目(だ)っ!」」
偶然にも壱佳と声を揃えて反対する。どんなに託生が異を唱えようと、託生が篠崎の姉と会うことは反対しなければならない。
「NPOがどこにあるのか知らないけど、きっと動物が近くにいる。喘息起こしちゃうよ」
壱佳の意見に義一も賛成だ。篠崎の名刺を見てみたが、当然ながら姉のNPOについて記載はなかった。篠崎の姉と連絡を取ってみないとわからないが、姉も普段から動物と触れ合っているだろう。そんな人物と託生を会わせることはできない。
「日本にいる間に話つけてくれるって言うし、義一くんに任せようよ」
「ああ。あくまでもオレは窓口、営業だ。先生の名前を借りることはあるだろうけど、篠崎さんのお姉さんとはオレが話す」
暫く考え込んでいた託生だったが大きく息を吐くと頭を下げ、よろしくお願いします、と改まって言った。
「契約書を交わすから名前は先生のにしとく。それから」
腕時計で時間の確認をして、まだ時間に余裕があったので活動内容を詳しく聞く。
「先生は具体的にどんなことをしてるんだ?」
「拾って、病気や怪我の治療だけだよ」
簡潔な説明の後、壱佳が補足説明をする。
「病気って結構みんな持ってるんだよ。予防接種もしてるし」
予防接種の額は馬鹿にならない。ノミやフィラリアの代金も払っていると言うから篠崎が食い付くのも理解できる。
「去勢や避妊手術は?」
「それは保護した人がすることだろ?そこまでたぁくんが面倒みるのが普通なの?」
「壱佳。……義一くん、ごめんね」
託生が壱佳を咎める口調で注意する。それにいえ、と断り託生の話を聞く。
「手術するとなると日数が掛かるからね。病気の治療の後、手術することになると保護されるまで好意で入院させてくれる白井先生の負担になるのが1つ。2つ目はぼくの考えなんだけど、保護した子たちは殆どが生まれたばかりの赤ちゃんなんだ。でも、全てじゃない。まだ若い子もいて近い将来親になれる子だっている。そんな子の親になる権利を、たった数日面倒みるだけのぼくが決めていいのか考えたんだ」
「成程」
白井が動物の治療をするのは当然だが、捨てられた犬猫の病気や怪我が治り、里親が見付かるまで入院させるのは相当の覚悟がいる。捨てられた犬猫以外にも飼われている動物が病気や怪我をして入院が必要になった場合、支障が出るからだ。
「今までお世話になった保護主さんたちにはそれで納得してもらえてたんだけど、やっぱりした方がよかった?」
「先生が保護する期間を考えれば手術はしなくていいと思う。ただ、費用の面で篠崎さんと意見の対立があるかも。じゃあ、名前も付けてない?」
「ぼく自身は拾うと同時に手元を離れるから。動物病院までも壱佳とか、白井先生に運んでもらってるんだ」
「じゃあ、これからも白井先生にお世話になるとして。先生の活動に協力的な保護主さんには前もって話をした方がいいな。白井先生の連絡先も知りたい。後は……、悪い。先生の収入。大まかで良いんだけど……」
呆気に取られた顔をした託生だったが良いよ、と快く返事をした後、革鞄からスマホを取り出して先ずは白井のInstagramを表示させた。白井のInstagramは動物病院のもので、義一が見た30代の女性と大型犬が一番に目に入る。
「先生こそ動物好きだったんだな」
「動物好きっていうか……。うん、大好き。動物は裏切らないから」
動物好きと言った明るい表情から一転して、託生の顔が暗くなる。過去に託生を裏切った健吾とゆかりを思い出しているのだろう。
動物に対しては好きと言える託生だが、人を裏切る人間に対しては好きと言えない。託生のトラウマは根深かった。
カフェテリアで食後のコーヒーを飲んでいると、仕事を終えた裕明が島岡と尚人を引き連れてやって来た。
時刻は確認しなかったが約束の9時近いのだろう。素早く託生が立ち上がり、裕明に深くお辞儀をする。続いて義一と壱佳も立ち上がる。
「葉山託生です」
託生が挨拶した後、隣に立つ壱佳の背中に掌を当て、壱佳に自己紹介を促す。
「はじめまして、葉山壱佳です」
「崎裕明です。義一がお宅まで押し掛けたようで。立ち話もなんですし場所を移しましょうか」
義一の父親ーーーーー崎裕明は世界的規模を誇る会社の社長らしく背筋のピンと張った堂々とした体躯の男性だった。滑舌もはっきりしていて、一般人の託生とは纏う空気から違うのがわかる。兄の尚人は小さい頃から優秀だと両親だけでなく、学校の先生からも褒められていたのを見てきたが、裕明の会社に就職出来たのだから尚人も託生と違う何かがあったのは間違いない。
「はい」
裕明と共に革鞄を持って託生が歩き出すと、義一と壱佳も前を行く裕明と託生の後について行く。エレベーターに乗ったが、緊張の所為か、いつもの乗り物酔いはしなかった。
9階でエレベーターを降り、廊下の途中で尚人が託生たちを追い越して部屋に案内し、カードキーで扉を開錠し開けた。裕明の部屋はスイートルームで、同行している島岡と尚人の部屋は他の階にあるのか、室内に出ている荷物は僅かだった。
リビングにある楕円形のテーブルに裕明が座ると、その正面に義一と託生が並んで座る。義一と反対の託生の隣には壱佳が座った。島岡と尚人は4人にコーヒーを出した後、尚人は壱佳の隣に座り、島岡は部屋の隅で待機していた。
「お忙しいところ、私たちのためにお時間を割いて頂きありがとうございます」
託生と義一が揃って頭を下げる。
「本日は義一くんと交際することになりましたので、そのご報告に参りました」
「その前に。託生さんは告白した義一をお振りになった。その上、声を掛けられたら最低1ヶ月はその人と付き合うという条件を出された。私の目にはそんなことをしても義一の気持ちは揺るがないと思っていましたが、何故そのようなことを?」
懐かしい話だ。けれど、託生は義一に告白されたことも、酷い振り方をしてしまったことも昨日のことのように覚えている。託生を振ったゆかりに未練は全くなかったのに、不思議なことだ。
「当時、義一くんは5歳でした。義一くんが私に好意を抱いているのは薄々気付いていましたが、義一くんは卒園したらアメリカに帰ることを私は職員でしたので知っていました。私も義一くんと同じ気持ちであればアメリカについて行こうと考えたかもしれません」
章三に、義一がアメリカに帰っても自分はアメリカの地に生きて立てない。たとえ生きていたとしても、マンハッタンの交通事情と環境で直ぐに喘息の発作を起こすとも言った。しかし、それは託生の心が義一になかったからであって、年齢差をものともせずに義一の告白を受けていたら一緒にアメリカに行っていたかもしれない。
「けれど、当時の私は義一くんを園児としかみられませんでした」
そこまで一息に言ってコーヒーを一口飲み喉を潤す。こういう場は初めてだが想像以上に緊張する。ゆかりと経験する予定だったが、突然振られ両親には紹介できなかった。託生がゆかりの両親と会う予定はなかったので、もしかしたらゆかりは初めから託生を振るつもりで新幹線に乗ったのかもしれない。
「私は甥の壱佳を育てなければなりませんでしたし、卒園後もアメリカに帰った義一くんが私を好いていてくれると信じられませんでした。何より、過去の経験から、私は人を愛すことができません」
それは今も同じだ。
13年経っても義一は託生を好きでいてくれる。義一が贈ってくれる薔薇の花束で託生の気持ちは義一に傾いた。けれど、義一はまだ18歳。付き合い出したら頑固な託生に辟易するかもしれない。
「お聞きしても差し支えないかな?」
元より、過去の話はしなければならないと思っていた。尚人が裕明に託生の話をしたと聞いたが、恐らくゆかりのことだけだろう。
「私は、心から信頼していた人と、交際していた彼女に裏切られました」
「心から?恋人ですか?」
裕明が尚人の方を見る。やはり、尚人は健吾の件を話していなかった。
「相手は幼馴染です。私は幼い頃からバイオリンを習っていました。このことは幼馴染も知っています。幼馴染とは放課後になると互いの家を行き来する程の仲でした。……私は中学は音楽科のある学校を受験するつもりでしたが、幼馴染には話していませんでした」
裕明は黙って聞いている。沈黙が苦痛に感じられた。
「中学受験を控えたある日、級友と進学について教室で話していました。級友を含め、幼馴染に中学受験の話をこの時初めてしました」
「応援してくれなかったのか」
級友は頑張れよ、と応援してくれたが、彼は何も言ってくれなかった。仲が良かったので違う中学に進むかもしれないのだから簡単に割り切れない気持ちがあるのは知っていた。それでも託生は応援してほしかった。
「はい。彼は何も言いませんでした。その日の放課後、部活をサボる幼馴染と一緒に帰ることになりました」
「普段は?」
「私は帰宅部でしたが、いつも教室から幼馴染が部活を終えるのを待って一緒に帰っていました」
学校ではあまり接点がなかったが、それは彼がアウトドア派で、持病のある託生がインドア派だったからだ。体育の授業でもランを主体とするバスケやサッカー、夏の水泳の授業などは医者から止められていた。その代わり、放課後の彼は託生の体調を考えて部屋で出来る宿題や本を読んだり、ゲームをして過ごしてくれた。
「階段に差し掛かった時、残念だよ、という言葉と共に背中を押されました」
尚人が息を呑んだのが離れた位置にいてもわかる。今まで両親や尚人には足を滑らせたと伝えていたからだ。
「やっぱり突き落とされたんだ」
「黙っててごめん」
けれど、自分で落ちても、突き落とされても左手を怪我したのは変わらない。
「何故、葉山くんに言わなかった?」
「人に恨まれるのが初めてのことで……、頭の中がグチャグチャになっていました。幼馴染と話をして、それからでもとも思っていました」
健吾は残念だよ、と言いながら託生の背中を押した。今考えても残念だよの意味するところはわからない。
「葉山くんが知らなかったということは、話し合いはできなかったか」
託生が軽く頷く。
「リハビリを終えて学校に戻ると彼は不登校になっていました。彼が望んだ通り私は公立の中学に進んだのに、彼は私立に進学していました」
続けてゆかりのことも話す。両親には話せなかったゆかりの妊娠も尚人は知っていたのでスムーズだ。
「あまいかもしれませんが、悪意を向けられたことがなかったのと、続け様に起きたことで私は人を信じ愛すことができなくなりました。幼い壱佳が大好きと言ってくれる言葉にも返事をすることができませんでした」
昔のことは全て話した。裕明が何と言うか想像もつかない託生の頭は自然と下がっていった。
カチャン、と食器が立てる微かな音がして託生は顔を上げた。裕明がコーヒーカップをソーサーに戻した音だったと気付く。
「託生さんが人を愛せない理由はわかりました。……ということは、義一を愛さないまま交際を始めるんですか?」
託生の今の状態は宙ぶらりんなことはわかっている。義一は好きだ。けれど、人を信じられない託生が義一を信じて裏切られたくない。もし、そんなことになったら義一に心を開いていた分、かなり深く落ち込むような気がする。
「この13年間、1度も欠かすことなく義一くんから花束を貰って、次第に義一くんなら大丈夫ではないか、と思うようになりました。ですが、確かに好意は抱いているのですが、先程お話した経験から、未だに感情を伝えることに恐怖を覚えます」
きっと、義一を愛せるようになれば託生の恐怖はなくなる。義一は好きだけれど、愛するまでには達していない託生の気持ちをどう伝えるか。
「義一はそれでも託生さんがいいんだな?」
「ああ。寧ろ、薔薇の花束だけで先生の気持ちが傾いたんだ。ラッキーとしか言いようがない」
「私が元カノに振られた原因は、スキンシップがなかったからだと思っています」
義一には、早く自分の子供を抱きたくなった理由があるのではないかと言われたが、理由を解明する為にはゆかりに会わなければならない。しかし、託生にゆかりと会う気は全くない。ゆかりのことを思い出すだけで、介護が必要になった今は亡き雅美も思い出す。ゆかりを連れて実家に行く予定を立てなければ雅美も倒れることはなかった。それに、託生の異常なまでの乗り物酔いもある。
「スキンシップ……。ああ、葉山くんから聞いたご先祖のお教えとか」
「はい。再会したばかりというのもありますが、未成年の義一くんに手を出すことはありません。たとえ、そのことが原因で義一くんに彼女が出来ても私には身を引く覚悟ができています」
こんなふざけた理由で愛せないなんて本当の愛じゃない。本当に愛しているなら相手が未成年だろうとキスやセックスをする。人間は好きな人の身体に欲情するようにできている。
わかってはいるが、託生には尚人やご先祖様の教えを破る気はない。何より、託生と同じ考えの尚人がかなえと出会い、壱佳を授かったのだ。託生は運が悪かっただけだ。
「ですが、義一くんと再会した日、私は過ちを犯しました」
椅子がガタッ、と音を立て、慌てたように義一が立ち上がり、
「そのことはっ!」と叫ぶ。
「黙りなさい。託生さん、続きを……」
ただ1度の過ちは黙っていてもバレない可能性の方が高い。壱佳にも見本となるべき託生自身が教えを破ったことを伝えることになる為、軽蔑されるかもしれない。けれど、これ以上託生には壱佳に黙ったままでいることはできなかった。
「義一くんと再会した日、私はマンションの外廊下で義一くんとキスをしました」
「たぁくん、ホント?」
壱佳も立ち上がり、託生に聞く。その声は微かに震えていた。
「オレが悪い。先生の考えとか詳しい話をまだ聞いてなくて、一方的なものだった」
「喧嘩両成敗だろう。2人共、座りなさい」
ガタガタ、と音を立てて義一と壱佳が椅子に座り直す。
「壱佳、こんな叔父さんでごめんね。でも、誓ってその後はしてないから」
再会時のキスを除けば託生と義一は清い交際を続けている。
「義一くんは本当に知らなかったんだよね?」
「今時聞く話じゃないだろう」
黙って話を聞いていた尚人が助け舟を出す。
「壱佳、託生のキスは事故のようなものだ。これからも託生を嫌ったりせず、一緒に暮らせるかい?」
「勿論っ。たぁくんが話してくれてよかったと思うよ」
壱佳に嫌われなかったのはよかった。壱佳に気持ちを伝えられない託生だが、嫌われたくはない。
「では、義一と交際を重ね、義一が二十歳になったら関係は深まると考えても?」
「義一くんが私に愛想を尽かさなかったら、ですが」
「そこまでにしてくれ」
義一が託生と裕明の会話に割って入る。隣の義一を見ると、膝の上に置かれた手は握り拳を作っていた。
「人を愛すことができない先生を責めないでくれ」
握り拳は怒りを表すシンボルだが、義一の声は細く震えていた。託生のために義一が悲しんでくれているのがわかる。義一の愛を信じていない訳ではないが、未来のことはわからない。義一が二十歳になったら託生ができる精一杯で愛そうと思うが、二十歳まで今の関係が続くかわからない。
「親父も調査済みなのに、なんで先生を傷付ける言い方すんだよ」
託生を調べていたということは、外廊下でのキスも知っていたのだろうか。今思えば隠したままにしなくてよかったと思うが、義一と相談して決めたことではなかったので正直、どちらが正解かわからない。
まだ、託生が市立病院で入院していた時、兄の尚人から社長ーーーーー崎裕明に託生のことを聞かれた、と電話で話していた。幼馴染に突き落とされた話はしなかったらしいが、ゆかりの話は聞いていた。聡明な裕明ならば託生が恋愛に臆病になったと想像が付きそうなものだ。或いは、やはり15も歳上の託生は嫌われていて、交際には反対なのだろうか。
「先生が乗り物に弱いのも知ってるだろ。先生はオレとデートするのに悩んだんだ。行くべきかじゃない。一緒に車に乗って吐かないか?オレに嫌われないか?先生はビクビクしてる」
「それで?」
「少なくともオレの車で先生は酔わなかった。緊張で顔色は悪かったけど、会場に無事に着いて先生は凄く嬉しそうだった」
「……ということは、お前の前でもどした場合の懸念は払拭できていないという訳か」
「残念ながら先生はオレの胸にゲロったよ。けれど、嫌になるどころかますます愛しくなった。この世の全てから先生を守りたいってな」
これ以上この部屋にいたら、義一と裕明の関係が壊れると思った託生は椅子を引いて立ち上がった。義一は好きだが、義一と裕明の親子関係を壊してまで一緒にいようとは思わない。裕明に頭を下げて部屋を出て行こうとする。そんな託生の手首を掴み止めたのは、壱佳の隣に座っていた尚人だ。尚人は託生の肩を抱き、託生を元の席に座らせる。
「社長も人が悪い。昔から託生を気に入り、密かに見守っていたじゃないですか」
尚人が裕明に託生の話をして、尚人のプレゼンを気に入ったと聞いていたが、託生を見守っていたとは尚人からも義一からも聞いていない。隣の義一を見ても初耳といった表情で、驚きを隠し切れないでいた。ということは調査済みというのは過去の話で、今現在も裕明は義一に内緒で託生を見守っていたということになる。
「本当なのか。本当に先生を気に入って」
「お前は私のDNAを継いでいる。それは紛れもない事実だ。言い換えればお前は私と同じ過ちを犯す」
「過ちって」
「妻と出会う前のことだ。私は複数の恋人を持ち、連日ホテルに通い詰めていた。何をしていたかはわかるな」
確かに裕明は壮年の紳士然としているが、若い頃遊んでいたなんて想像がつかない。託生との約束があったとはいえ、義一も男女と交際を絶ったことはない。
「お前も自分の容姿が整っていることは承知しているだろう。それを武器にして遊び呆けることもできた筈だ」
「好きな人にはまっさらな自分を……って普通」
「ああ、普通はそうだ。義一は私と妻だけを見てきたから恋愛や結婚に夢物語を見ている節があるが、私はそんな綺麗な人間じゃない。妻と出会って今までの関係を清算したが、逆に考えれば妻がいなければお前は勿論生まれなかったし、私は今でも遊び歩いていただろう。託生さんがビクついている、とお前は言うが、その気持ちはお前よりわかる。妻は昔の私を知っているからな。100年の恋も冷めて今日にでも離婚を言い渡されるんじゃないかと気が気じゃない。そういう気持ちがお前に理解できるか?」
託生には裕明の気持ちが少しわかるような気がする。義一から交際開始のメッセージが来るたび、遂に……、と落胆したし、別れたと知れば交際相手には申し訳ないがホッとしたりもした。義一が気になり出したのは比較的最近だが、自覚してからはメッセージが来るたびドキドキしてもいた。義一ならばフェイドアウトではなく、好きな人が出来ただとか、婚約したとはっきり伝えると思ったからだ。
「義一は自分の気持ちがまだ託生さんにあることを伝えるために連絡をしていたのだろうが、待つだけの託生さんの気持ちを考えたことがあるか?いくら人を信じられない託生さんでも人の子。新たな出会いがる。もしかしたら、出会いを不意にさせていたりとは思わなかったか」
「本当に気に入ってるんだな」
義一がボソリ、と呟く。
「私に出来なかったことを実行しているんだ。尊敬するのは当然」
裕明が託生を尊敬するなんて信じられないが、人は誰でも自分が成し得なかったことをしている人を一目おくことは理解できる。少なくとも義一が成人するまで手は出さないという託生の信条を理解し、その上受け入れてくれている。
「……ということで託生さん」
「はい」
真っ直ぐに裕明に目を向ける。裕明が託生と義一の交際を認めてくれた今、ホッと安堵したいのは山々だが、裕明に名指しで指名されて肩がピクっと揺れる。
「この後、2人で1杯どうですか?」
有難い申し出だ。先程は内容的に話し出せなかったが、千葉の病院を紹介してもらった礼も言いたい。千葉の病院には託生だけでなく、壱佳も世話になったし、掛かり付け医にしてもらった礼も言いたかった。
未成年の壱佳と義一が一緒の場合は飲酒しない託生だが、2人で、と明言されているので断る理由はない。
「ならオレもっ」
「お前は未成年だろう。お酒は二十歳になってから。……でしたよね、託生さん」
「なんで今だけ未成年主張するんだよ」
義一が掌を額に当て、天を仰ぐ。
「葉山も下がっていい。島岡、義一を連れ出せ」
「失礼します」
いち早く席を立ったのは尚人だ。椅子から立ち上がり、壱佳の腕を引いて部屋から出て行く。最後まで部屋の隅に立っていた島岡も義一の脇に立ち、行きましょう、と促す。
「託生さんはお酒はお強い方ですか?」
「いえ、あまり強くないです」
「頂き物ですが結構美味いんですよ」
裕明が椅子から立ち上がり、バーカウンターの方に行くのに従い、託生も立ち上がって裕明の後を追った。
尚人の後をついて行く壱佳に続いて、義一も島岡に促されて部屋を出た。
「父さんに話があるんだけど」
部屋から出るなり、廊下で壱佳が尚人に言う。
「僕もある。義一さんの耳にも入れた方がいいと判断した」
エレベーターは何事もなく乗れたが、今日も託生は電車酔いした筈だ。ピークは当に過ぎたが、飲酒は勧められない。
「島岡、先生の様子には気を配ってくれ」
「承知しました」
島岡は心得ている筈だが、念には念を入れて注意しておく。
「元々、託生には1泊させて、明日の朝、僕が送って行くつもりだったんです。墓参りもあるので」
ならば、多少の深酒もできる。尚人の言葉に安心した義一は島岡の側を離れて尚人に近付く。
「義一さんをよろしくお願い致します」
部下の尚人に頭を下げる島岡を置いて、尚人を先頭にして壱佳と義一は後を追う。尚人はエレベーターで1階下まで行き、廊下を進む。やがて803と表示された部屋に着くと、スーツの内ポケットからカードキーを出し解錠する。
真っ先に部屋に入ったのは壱佳だった。尚人が譲ってくれたので義一が続き、尚人が入室して扉を閉める。
「何か飲みます?」
裕明が義一と託生の関係を認めてくれた今、尚人とも家族(仮)だと思う。家族同士、敬語を使うのは間違っている。少なくとも義一は尚人とも砕けた関係でいたかった。
「尚人さん、敬語は止めませんか?呼び名も義一さん、ではなく呼び捨てで」
「流石に社長のご子息を呼び捨てには……。では、昔のように義一くん、で。お願いします」
尚人が軽く頭を下げて義一に頼む。
義一がFグループ本社の秘書室にいる尚人の元に足繁く通っていた頃、尚人は義一を義一くん、と呼んでいた。他の秘書室にいた社員も同じ呼び方だったので気になったことはなかったが、義一が高校を卒業して大学に入学すると呼び名が一斉に義一くんから義一さんに変わった。その頃には裕明に命じられた仕事に赴いていた義一は、周りから義一さんと呼ばれていたのもあって深く追求することなく義一さん呼びが定着していった。
「流石に呼び捨ては厳しいか」
「はい、すみません」
義一も無理を言っているのはわかる。義一と付き合っている託生でさえ義一くんなのだから、尚人が呼び捨てするのはかなり難しい。
「わかりました。尚人さん、これからよろしくお願い致します」
義一と託生の交際を裕明は認めたが、尚人は一切口を出していない。尚人の立場上、相手が社長の息子だった場合、反対するのは難しいこともわかっている。表に出さないだけで2人の関係に反対なのかもしれないが、今は自分が裕明の息子だったことを有り難く思う。
裕明のスイートで出されたコーヒーには1口も口をつけなかった。親子といえども緊張はしていたので喉が渇いていた。
「コーヒーをお願いします」
「僕、アイスティー」
「義一くんはホット?それともアイス?」
「どちらでも」
尚人がヤカンに火を掛け、義一のコーヒーと壱佳の紅茶をセットする。
「冷蔵庫にケーキがあるよ」
最初から尚人は壱佳と義一を招く予定だったようだ。
尚人の部屋は主室と寝室が扉1枚で隔てられるが、今寝室の扉は開いている。寝室にはシングルベッドが2つしかなく、3人のうち1人はソファで寝ることになる。いくら義一と託生の関係が認められたといっても家族水入らずの時間を邪魔することはできない。
あまい誘惑に抗えない壱佳が部屋に備え付けの冷蔵庫を開けてケーキの箱を取り出す。箱をバーカウンターの上で開けた壱佳がウワっ、と感嘆の声を上げた。義一もバーカウンターに近寄り壱佳の前の箱を覗くと、銀座の老舗洋菓子店のケーキが箱いっぱいに詰まっていた。あまいものに目がない壱佳にはこれ以上ないご褒美だ。
「義一くんはどれにする?」
「オレはもういい。さっき食ったばっかじゃん」
義一と壱佳はケーキバイキングのケーキを食べた。確かに時間的に食べられないことはないが、尚人から話があるようなので食べるとしたら全てが終わった後だ。
「でも、1つは残しといてくれ。後で食うかもしれん」
「わかった。好きなの取っていい?」
「どうぞ」
やったっ、と歓声を上げた壱佳はアップルパイを。義一は本当に腹に入れば何でもいいので尚人の分を壱佳に選ばせる。ケーキ皿に載せてソファテーブルに運んでいる間に尚人がホットコーヒーとアイスティーを淹れ、ソファテーブルに運ぶ。
「いっただっきまーす」
掌を合わせてから真っ先に壱佳が選んだアップルパイにフォークを刺す。壱佳があまいものに目がないのは知っているが、1番好きなものは知らない。アップルパイを美味しそうに食べる壱佳を尚人が眩しいものでも見るように目を眇めて見る。もしかしたらこのケーキは尚人が購入したものかもしれない。
「アップルパイに何か思い入れがあるんですか?」
義一が聞くと壱佳は不思議そうな顔で尚人を見、尚人は照れ臭そうに頭をかいた。
「学生時代、妻がよく焼いてくれたんです」
「母さんが?」
「甘い生クリームが添えてあって……。林檎もちょっと砂糖が多めなのに生クリームで更に胃がもたれる。甘党の僕でも甘いと感じたので託生は早々にギブアップで……。でも、ケーキではアップルパイが1番好きなんです」
「ごめんっ!口付けちゃったけど親子だから良いよね?」
慌てた壱佳が残りのアップルパイの載ったケーキ皿を尚人の前に押し出す。
「壱佳がアップルパイを好きなの、託生から聞いて知ってて買って来たんだ。壱佳が食べていいよ」
尚人の前に出されたアップルパイの皿を壱佳の前に押し戻す。
「本当に?いいの?」
壱佳の亡き母、かなえがアップルパイを焼いていたという話は壱佳には初耳かもしれない。かなえが亡くなったのは壱佳が2歳の時だから、母親のアップルパイの味は知らない。
「それで、僕に話って?」
尚人から戻ってきたアップルパイをゴクン、と飲み込んだ後、アイスティーで喉を潤した壱佳が答える。
「ずっと前なんだけど、電話でたぁくんに恋焦がれてるのは義一くんだけじゃない、って言ってたでしょ?」
「ああ、そうだね」
「僕は章三先生だと思ってたんだけど、この間、彼女とデキ婚して」
「そうなんだ。おめでとうって伝えといて」
尚人に動揺した素振りはない。壱佳が見当違いの人物を上げたからか。
「もしかして、片瀬健吾さんですか?」
託生から聞いていた幼馴染の名前を上げると尚人の表情が強張った。
つい先程、託生の口から階段から突き落とした犯人は健吾だと打ち明けられたばかりだ。託生を信じていない訳ではないが実際、健吾の口から真偽の程を聞かなければ真実はわからないが、恐らく尚人は健吾が犯人だと思っている。表情が強張るのは当然だった。
「ちょっと待ってて」
尚人が席を立ち、ライティングデスクの上からファイルを何冊か取って来て義一と壱佳に1冊ずつ渡した。ファイルの1ページ目には健吾の学歴・職歴が書かれている。
職歴のトップに上がった社名に目を留める。
「ヤマハって楽器とか作ってる方の?」
「健吾くんは本社勤め。今は下っ端だが、叔父が専務だから、もしかしたらトップに上り詰めるかもしれない」
「父さん、健吾くんなんて呼ばないで。たぁくんに怪我をさせた張本人だよ?!」
「ごめんごめん。昔の名残で」
託生と健吾は幼馴染だ。当然、家族同士も交流があり、尚人は健吾を健吾くんと呼んでいたのだろう。
「壱佳。なんでヤマハで勤めるようになったか経緯を知ってるだろう」
うん、と頷いた壱佳がフォークを皿の端に置く。アイスティーを飲んでから託生がヤマハで勤めることになった経緯を話し出す。
「義一くんも知っての通り、喘息で保育園を辞めたでしょ?」
「ああ」
託生が入院して1度は見舞いに行って元気そうなのを確認した。その後、保育園のバスハイクに壱佳の保護者として参加した託生の体調は悪化し、集中治療室を出るまでに2ヶ月を要した。
「春を待って職探しを始めたんだけど、最初のうちはお祈りが続いたんだ。それからマンションのポストにヤマハの募集チラシが入って応募。1週間くらい経って採用の通知が来たんだ」
お祈りとは今回はご縁がなかった云々の所謂不採用通知のことだ。ファイルのページを捲ると随分前から健吾が託生を調べていたことがわかる。そのページには健吾が依頼したと思われる調査会社の社名と報告内容がプリントされている。このことから託生が職を探していたことも知っていたと仮定できる。
「片瀬さんは託生先生を調べていたんですね」
「そういうこと。調査会社の話によると、高校時代からほぼ継続して依頼があった。チラシも片瀬が仕組んだことで、何でも屋に託生のマンションに狙いを絞ってチラシを投函させていた」
「何で父さんが知ってたの?」
「さっき話しただろう。社長は託生を見守ってた。だから、片瀬が調査会社に託生の動向を調べさせているのも知っているし、何でも屋にチラシを投函させたのも知っている」
「じゃあ、オレと先生がキスしてたのも……」
「託生は隠し事ができないからね」
尚人は自分のファイルの1番最後のページを捲り、写真を数枚抜き出す。望遠レンズで撮ったらしいその写真には義一と託生のキスシーンが写っていて、その時の託生の驚きの表情までわかった。
「先生が告白しなかったら親父はこれを出してたんでしょうね」
「それはない。言っただろう?社長は託生を見守ってた。僕も託生のプレゼンをしたことがあるからかなり託生に詳しい。想定内ってこと」
裕明が託生の存在を知ったのは義一が5歳の頃で、それ以前の調査内容はファイルに書かれていること以上はわからない。そこまで一息に言った尚人はアイスティーを飲み、自分のファイルに目を通す。
「今回の来日で調査会社に行って来た」
よくそんな時間があったものだと感心する。時間は作るものだとわかっているが、現実問題、なかなか思うようにいかないものだ。
「さっき、橘さ……、橘の話が出たけど……」
ジロっ、と壱佳に睨まれた尚人が咄嗟に言い直す。託生を傷付けた健吾と託生を振ったゆかりに対して壱佳は厳しい態度を取る。
「彼女の思惑はわかりませんが、託生先生に彼女と対面する気はありません」
「だろうね。言ってみれば父親を殺した相手だ」
雅美はゆかりが静岡訪問の日に倒れた。偶然で片付けるには、ドタキャンしたゆかりを激しく激怒していたというから、倒れた一因ではあるだろう。
「今回わかったことは、橘の二股の相手が片瀬の大学時代の先輩だったことだ。名前は清水俊明」
「世の中ってこんなに狭いもんなの?」
「片瀬は清水さんに橘を紹介していたんだ。橘は結婚・妊娠・出産を経て清水さんと離婚。家を出た後の消息は不明」
「子供は誰が?」
「清水さんのご両親が育ている」
ゆかりには呆れるばかりだし、清水も自分の子供を親に押し付けて何をやっているんだか。
「清水さんは働いていないんですか?」
義一の問いに尚人は深く溜息をつき、最初はね、と呟いた。
「託生の彼女を横取りしたんだ。橘も僕自身会ったことはなかったけど、託生が選んだ人なら祝福する気でいたし、妊娠までしたんだから清水さんと幸せになってほしいと思った。2人には勿論、最初は恨みがましい気持ちだったよ」
尚人が日本で会ったのは調査会社の人間だが、10年以上前に調査に当たった人間かはわからない。今回来日して、調査会社の上の人間と話をするうちに、尚人の気持ちを覆すようなことがあったらしい。
「橘は離婚前からホストに嵌ってたみたいで……。託生と付き合ってた頃から金遣いは荒かったんだけど、どうやら家のお金に手を出してたみたいなんだ。生活に困窮した清水さんは会社に内緒で土方のアルバイトをして凌いでた。でも、バイト中の事故で足が不自由になって、怪我がきっかけで会社にもバレてクビ」
「身体が不自由なら新しい仕事先も……」
そう、と尚人が頷く。
清水に悪気はなかっただろうが、雅美が介護が必要な身体になった一因ではある。金の問題にはならないが、一言謝罪はすべきだ。
「清水さんはゆかりがたぁくんの彼女だって知ってて近付いたの?」
「付き合ってる相手がいることは知っていたようだ。けれど、二股をかけることで訴えられる世の中じゃないから軽い気持ちだったんだろう」
「でも、清水さんも気の毒ですね」
「ねぇ。片瀬は清水さんに何かしてるの?援助とか。同じ大学だったんでしょ?」
「清水さんと片瀬はただの先輩後輩で、友人でもなんでもない知り合い程度の関係らしい」
友人でもない人に二股を持ち掛けられて乗る清水も悪い。友人ではないから清水とゆかりが離婚して家を出ても探し出さないし、清水が金に困っていても援助しない。……となると、託生が健吾の会社に入れたのは謝罪のつもりか。
「橘を探し出して清水さんには慰謝料やら養育費を払わせるし、託生が橘に会いたくないなら僕が話をしよう。敢えて静岡に来る日に託生を振った理由も聞きたいし。抑も、託生に怪我をさせた片瀬が何故、清水さんに橘を会わせたのか」
健吾が託生を階段から突き落としたのは進学先が分かれるかもしれないと告げた後だ。託生を突き落とす際、片瀬は残念だよ、と言ったそうだ。
「尚人さんの目から見て、片瀬さんと先生の仲は良かったんですか?」
「当時僕自身は高校生で、東京で一人暮らししてたんですけど、事件当日は久しぶりに実家に帰ったんです。でも、家に帰っても誰もおらず、母から父への置き手紙があって、それで事件を知った。病院に着いて母から2人が喧嘩したとか聞いていませんでしたし、事実事件前日まで片瀬はウチに遊びに来ていたそうで、2人の仲が悪かったなんて想像も付きませんでしたし、学校の先生から片瀬が託生を突き落としたと聞いても信じられませんでした」
「尚人さんご自身は託生先生から何と?」
「足を滑らせた、と。片瀬の名前は出ませんでした」
部活で放課後、グラウンドにいた健吾を託生はいつも教室の窓から見ていた。青春していると義一は感じた。
「やっぱり片瀬はたぁくんが好きだったんだよ」
義一も健吾の気持ちを疑ったが、それなら何故、ゆかりと清水を引き合わせたのだろうか。ファイルの報告内容をじっくり見るが記載はない。
「問題はその先。託生にヤマハを続けさせるか」
「でも、辞めても調査会社を使われてしまうんじゃ、何も変わらない」
最終的に託生と片瀬を会わせて話し合いの場を設けなければならない。託生はいらないと言うかもしれないが、このままでいたら一生健吾に人生を覗き見られる生活を送ることになってしまう。
「話は変わるけど壱佳」
「何?」
「ここに託生はいないから正直な気持ちを聞かせてくれ。義一くんと託生が付き合うこと、どう思ってる?」
尚人も壱佳の気持ちに気付いているようだ。壱佳が初恋を成就させようとアメリカにいる尚人に相談していた可能性が高いが、なんだか託生が除け者にされているようで不憫にも思う。
「羨ましいなって思うよ。たぁくんと僕が家族じゃなかったら……って、タラレバばかり考えてた」
考えてた、ということは今は違うということだ。今、壱佳は義一と託生の関係をどう思っているのだろう。
「羨ましいけど、僕の希望はただ1つ。たぁくんが幸せになることだから、たぁくんが義一くんを選んだなら影ながら応援するだけ」
壱佳は託生の為に車の免許を取り、将来就く職業も決めた。父親として一言言いたい気持ちになるのはわかるが、尚人は託生の兄だ。身体の弱い弟と自分の息子。どちらの幸せを願うのだろうか。
「では、託生と義一くんが同棲するという話が出たら?」
今現在、託生にその気はないが1度、壱佳には反対されている。その際、義一と託生が同棲するならば、壱佳もその家に住むと宣言した。
「勿論、一緒に住むよ。だって、義一くんは何年か海外に行くんだろ?その間、たぁくんの身体が心配だもん」
壱佳の説は一理ある。今はつくばの研究所で働いて時間は掛かるけれど、託生が有事の際には駆け付けられる距離にいるが、いつ裕明から海外勤務を言い渡されるか義一には見当も付かない。
「確かに……。義一くん、社長からは?」
「まだなんとも。ただ、将来は起業を勧められるんじゃないかと思ってます」
ついさっきまでどんな会社を作りたいのか見当も付かない状態だったが、託生が動物保護の活動をしていると聞いて指針が出来た。
弱肉強食とよく言うが、強いものは己の力で道を切り開いて進んで行くことができる。反対に弱者は他人の手助けなしでは生きていくことも儘ならない状態のものが多い。託生の身体が心配なので直接動物に触れることはないが、動物だけでなく世界中のあらゆる弱者を助けていきたい。
「プランは出来上がってる?」
「いえ、今考えが纏まった感じなので……。でも先ず、先生の動物の保護活動を手伝います」
「まだやってたのか。危険しかないから僕は反対なんだが」
尚人が渋い顔をして腕組みする。
「僕が責任を持ってたぁくんを動物から隔離してるから大丈夫」
「でも、託生が、触りたがるだろう」
ウっ、と壱佳が怯む。
壱佳より動物好きと判明した託生は、たとえ自分の身体に悪影響を及ぼすとわかっていても周りの反対を押し切って動物に触れたがる、根っからの動物好きだ。
「隣の家の……、桃ちゃんだったか。託生に恋した。あの子もいるし、今のマンションを引き払おうと思ってるんだが」
今、託生がマンションを引っ越すと、託生が世話になっている同じ保護活動をしている人たちや、動物病院の白井との話し合いができなくなる。篠崎の姉との商談もあるので、引っ越すとしてももう少し先が好ましい。
「今度、動物保護のNPOの方と商談があるんですが……」
「相手は調査済みですか?」
「いえ、下のカフェテリアのボーイのお姉さんでまだ詳しいことは」
「託生を動物に絶対に近付けないと約束して下さい」
「勿論です」
託生と動物は天敵同士だ。けれど、託生は動物好きだし、動物の方も何故か託生に1番に懐くという。もし、託生が動物嫌いであれば自然と動物の方も託生に近寄らなくなるが、残念なことに託生は無類の動物好きだ。壱佳はわからないと言ったが、動物好きな託生は自然と動物に好かれる。たとえ、そこに喘息という弊害があったとしても……