ドーナツ食う岩主を書いたら、なんかこうなりました。
@Yuko_Blue
「はい、これ」
短い言葉と共に差し出された箱に、岩井はやや顎を上げて相手を見上げた。
箱を捧げ持つ両腕を視線で辿れば、見慣れた顔がある。未成年だった頃とそれほど代わり映えのない眼鏡と前髪は、いつも通りだ。
「なんだそりゃ」
「カロリー」
「頼んでねぇぞ。しかも多すぎねぇか」
何度数えても三箱ある。それなりの大きさの箱である。カロリーと言うからには食物であることは疑いようもなく、今この場には消費要員は二人しかいない。声音と言い方からして、確実にハイカロリーな何かであることは察せられた。
「食べ比べしようと思ったら、いつの間にか増えてた」
「お前、『食べ比べ』っつー発想の時点で気付いてただろうが。白々しい」
「でも余ったら余ったで、明日食べればいいし。薫も食べるだろうし」
「そりゃまあそうだけどよ」
言いくるめられた感が若干あるが、文句を言っても始まらない。軽く嘆息し、商品と道具類で散らかっていた作業台を片付ければ、無表情だった暁がフワッと唇をほころばせた。機嫌のいい猫のようだ。順番に箱を並べ、カパカパと丁寧に蓋が開けられると、バックヤードに漂う火薬とオイルの埃の匂いの隙間に、甘い匂いが薄く漂った。
「……おい、暁」
「なに?」
「お前、年齢差っつーもんを考えたことあるか?」
「あんまりない」
「だよなぁ……」
箱の中身は、砂糖と油と小麦粉の塊だった。
ドーナツである。
一箱に十個ほど入っている。単純計算で三十個だ。仮に今この場に息子がいたとしても、一人ノルマ十個はどう考えても岩井には厳しすぎる。甘いものは嫌いではないが、見ているだけで食傷気味になりそうだ。
無言で暁を見れば、猫のようだった微笑がもっと柔らかくなった。
「先に好きなの選んでいいよ」
声すらも、しっとりとして柔らかい。
(……ああ、またか)
瞬間的に理解し、岩井はなんとも言えない気持ちになった。
時々、暁はこういうことをする。
やることは多岐に渡るが、総じて「親が子供にしそうなこと」をするのだ。ついこの間も、なんの前触れもなく「今日は弁当作ったから外で食べよう」と井の頭公園の雑木林に連れ出された。遠足よろしくレジャーシートの上で、差し出された弁当はやたらとファンシーなキャラ弁だった。器用なものである。
自分自身の生まれも育ちも、とうに過ぎ去った過去でしかない。世間から見れば悲惨と言えるものかもしれないが、岩井としては特段どうとも思っていない。けれど、暁はそうではないらしい。どういう感情からくるものかはさっぱりわからないが、こちらを小学生かなにかのように扱ってくることがある。
それを感じ取るときはいつも、何やらくすぐったいような、腹の奥がざわつくような、奇妙な感覚に陥る。
今もそうだ。決して不快ではないのに、眉間に皺が寄ってしまう。
「選べっつったってなぁ……」
「食べ比べだから、一箱から一個は選んで」
「最低三個食えってことか」
「三個くらいなら余裕だろ」
お前にとってはそうだろうよ、という言葉は一応飲み込んだ。若さの暴力には対抗するだけ無駄だ。
正直なところ種類などどれでもいいのだが、色とりどりのドーナツから目についたものを選んで取り上げた。チョコレートがかかっているもの、穴の空いていないもの、砂糖だけの素朴なものを一つずつ。紙ナプキンの上に乗せられたそれらは、いかにも子供が好きそうな見た目をしていた。
「はい、コーヒー」
「淹れてきたのか?」
「ここの近くで買ってきたやつ。ルブランで淹れてきたら賞味期限切れになるから」
「なんだ、お前のコーヒーの方が旨ぇのにな」
「……そういう不意打ちずるいんだけど」
「ただの感想だろうが」
「滅多に言わないくせに」
「ありがたみが増すだろ」
「そうだけど!」
もう立派な青年ではあるのに、たまに幼い雰囲気を出すほうが余程ずるいと岩井は思うが、これも口には出さない。暁はこれで策士なところがある。あまり大っぴらに弱点を晒すのは危険だ。これまでの付き合いで、大概のことはほぼ知られているとしてもだ。
少しむくれた白い頬に軽く笑いながら口にした菓子は、思った通りの甘さだった。
身の詰まった生地とチョコレート、パンに似た食感の中には生クリーム、最後は素朴な柔らかな味わい。
共にしばらく無言でもぐもぐと食べ、合間にコーヒーを流し込み、ノルマの三個は存外早く姿を消した。
意外に旨い。
思い返せばドーナツなど、これまで自分で食べたことはあまりなかった。息子が幼い頃に買ってやったかどうかも定かではない。子供には菓子を与えておけばいい、という認識はあるにはあったが、買うとなると大抵日持ちのするものばかりだった。
恐らくは、無意識に保存が効くものを選んでいたのだろう。そういう人生だったのだから。
「案外イケるもんだな」
「ならよかった。たまに無性に食べたくなるんだよな、ドーナツ」
岩井よりも先にノルマを食べ終わり、更に二個も余計に平らげた暁が、コーヒーを一口飲んで、ふ、と息を吐いた。
「どれが一番美味かった?」
「あァ? そうだな……もう一つ食えそうなのは、砂糖のやつだ。他のは一個で充分だ。甘すぎる」
「……ならよかった」
眼鏡の奥の黒い瞳が、嬉しそうに煌めいた。やや得意げに、ふふんと笑う。
「それ、俺が作ったやつ」
「マジかよ。普通に店売りのモンに見えるぞ。ご丁寧に箱にまで入れやがって」
「先にバレたら意味ないし。先入観があったら食べ比べにならない」
「お前、ホントいろいろ器用だよなァ」
「高校時代に、各方面で鍛えられた結果」
確かに、怪盗には器用さは必要だろう。どこでどんな仕事をしていたかはわからないが、死んだかと思ったことならある。今でも時々、こいつ急に死んだりしないよな、と不意に心配になることもある。自分でもよくわからないくらい、存外に傷が深いらしい。
最近は危なっかしさは薄れつつあるが、どうにも目の届くところにいないと何やら落ち着かない心地がするのだ。
当の本人はこちらの心情なと露知らず、得意満面である。
「気に入ったなら、また今度作ってくる」
「作るなら、うちでやれよ」
「うち?」
「コーヒーも、うちで淹れりゃいい」
「……え」
「お前が来るなら、引っ越ししてもいいかもな」
つい先程まで笑んでいた唇が、半開きになった。それから意味もなく開閉し、かなり珍しいことに狼狽え始めた。大きくて真ん丸な瞳がレンズの向こう側でうろうろと泳ぎ、最終的に妙に強い視線が岩井の両目に当てられた。これまたどういう感情からくるのかまったくわからないが、微妙に斬り付けられそうな雰囲気すら感じる。
「……そういう不意打ち、ずるすぎるだろ」
「お前をやり込めるにゃ不意打ちぐらいしか手札がねぇだろうが。で、返事は?」
パイプ椅子から暁が立ち上がった。手に持っていたコーヒーの容器を作業台の上に置き、上から見下ろし威圧してくるのを、岩井は面白く眺めた。獲物に襲いかかるような顔つきのくせに、頬がほんのりと色づいているのが殊更にかわいく見える。
(俺も、割といかれてんだよな、コイツに)
やや乱暴に胸ぐらを掴まれる。間近に迫ったキレイな顔は、つい数秒前とは違っていた。まるで、初めてキスをしたときのような初々しい淫らさに、岩井は少しだけ笑った。
「そんなの、断るわけない」
小さな呟きは濡れて、微かな苦さをまといながら、さきほど食べたどのドーナツよりも甘く口の中を満たしていった。