さめしし。お泊りの後の朝、なかなか起きられない先生のお話。
@5_bluedaisy
たとえ十分前に寝ついたばかりだとしても、呼び出し音が鳴れば飛び起きる。
当直でも、オンコールでも、覚醒したその瞬間から全開で脳が働く必要がある。電話の向こうでマヌケが喋る臨床情報を頭に叩き込みながら、眼鏡を掛け直して立ち上がる。そして足早に出て行く。モニターの警告音が鳴り響く病棟へ、あるいは救急車の赤い光が迫る夜間外来へ。
私は、医者なのだから。そんなのは当然のことで。
だから「寝起きが悪い」などという現象は、世のマヌケ共には蔓延していても私にはあり得ない。必要があれば目は覚めるものだし、日々の時間を有効に使うためにも、起きると決めた時間には速やかに起き上がるべきだ。二度寝なんて怠けたことは、以ての外。
そう、思っていた。
——獅子神と、夜を共にするようになるまでは。
「起きたか、村雨先生」
呼ばれて、ぼんやりと目を開けた。
薄青色の瞳が、優しげに私を見つめている。カーテンを透かして差し込む光で、まだ乱れた跡の残る金の前髪がうっすらと輝いていた。
「……ししがみ」
名前を呼んでみたが、かすれた声しか出なかった。
ひどく喉が渇いている。
「あ、すまねぇ。冷房、強すぎたか? 水飲むか?」
「頼む」
獅子神は頷くと、サイドテーブルに置いてあった水のペットボトルを開けて、渡してくれた。
ベッドに右肘をついて、上体を半分起こす。左手で慎重にボトルを受け取って、口をつけた。
こくこく、と流れ込んでくる水の冷たさが心地よい。先に起きて、わざわざ冷蔵庫から持ってきてくれていたのだろうか。
「ありがとう」
私は半分ほどを飲み干すと、礼を言ってボトルを獅子神に返した。受け取った獅子神は、自分もそのまま二口ほど水を飲んでから、律儀に蓋を閉めてペットボトルを置いた。
「今、何時だ?」
「七時ちょっと前、ってとこだな」
特に時計に目をやることもなく、獅子神が答える。
「まだ十分早ぇし、今日は休みなんだろ。寝てていーぞ」
「あなたは、起きている」
「そりゃ、朝メシ作るからな」
事もなげにそう答えた獅子神を、私はぼんやりと見上げた。
夏の朝の眩しい陽光が、カーテンの向こうから室内をうす明るく照らし出している。その中に立つ獅子神は、下着にTシャツを被っただけの格好で、薄い布地の奥に鍛えられた大胸筋と、今はささやかに鎮座する乳頭の輪郭が見てとれた。
心拍も呼吸も落ち着いているし、佇む姿勢も美しい。いつも通りの獅子神で、まったくタフなものだと思わざるを得なかった。
昨夜愛を交わしている最中には、私の愛撫の一つひとつに声を上ずらせ、かすれる声で喘ぎ、最後にはろくに舌も回らないほどに蕩けて、しなやかな身体をがくがくと震わせて果てていたというのに。今見る獅子神は全くの正常で、体の疲労も回復しきっている。かたや私のほうは肌触りの良いタオルケットに埋もれたまま、気怠さに身を任せて獅子神を眺めるばかりだ。
一緒に起きて、獅子神が食事を作るところを見ていたいのに。熟達した手際の良い動作、真剣な目つきを傍らから堪能して、時折私の視線に気づいて狼狽する様子に、優しく微笑み返してやりたいのに。
幸福にまみれて疲弊した体が、まだ休息を求めている。
私の意志が、届かない。
「……村雨? まだ眠いのか?」
獅子神がベッドに腰掛けて、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
綺麗なその瞳を見つめていたいと思うのに、まぶたが重い。視界がぼんやりと狭まって、獅子神の顔が霞んでしまう。
「どうやら……そのようだ」
「だから、無理せず寝てろって。朝メシ出来たら起こすからさ」
獅子神の手が、くしゃりと私の頭を撫でた。
「和食と洋食、どっちがいい」
「……洋食だな」
「オッケー、じゃあ甘ーいフレンチトーストにするか。ふわっふわのやつな。そんで卵には、厚切りベーコン焼いてつけてやる。三枚でいいか? あ、でもサラダも出すからな? ちゃんと野菜も食えよ?」
すらすらと述べ立てた獅子神に、私は微笑んでみせた。
「あなたは、よくわかっている」
「……まぁ、コレに関しちゃぁ、な」
獅子神は照れたように視線を外して、紅くなった自分の頬をぽりぽりと掻いた。
それからちょっと迷って、私の方を向く。まだ閉じられたままのカーテンの向こうに広がっている空、今日もよく晴れているであろうその青空と同じ色の瞳が、微かに揺れて私を見つめた。
薄いTシャツの中で、獅子神の右肩の筋がわずかに収縮する。短く爪が整えられた指先も伸展しかけたが、すぐ不自然に止まってしまった。
——衝動と、ためらいの現れ。
いつもながら分かりやすくて、可愛らしい。
「獅子神」
名前を呼び、肯定の意を込めて見つめ返すと、獅子神が一瞬うろたえて、それから軽く苦笑する。
そして逞しい上体を屈めてきて、私の額にそっとキスをした。
「……唇でも、よかったのだが。なぜ遠慮した?」
ためしに尋ねてみると、獅子神の頬がぼっ、と赤みを増した。
「あのな、そしたらお前、絶対舌入れてくるだろーが。んで盛り上がっちまったら、後に引けなくなるだろ⁉」
「私はそれで構わないが」
「構うだろ。そんなに眠そうにしてンのに。激務続きのお医者サマは、休める時にちゃんと休んどけって」
獅子神はもう一度、今度はいささか荒めに私の頭を撫でると、ベッドから立ち上がろうとした。
離れかけたその手を、私は掴まえる。
「村雨?」
「……獅子神」
指を絡めながら、彼の瞳を見つめた。
快活さも、怯えも、優しさも、強さも。いつも全てを映し出している美しい瞳。決して楽ではなかった幼少期を背負い、あの賭場で生き延びながら、なお真っ当な正しさを手放さず、自然に周囲の人々を惹きつける。
私が、決して持ち得ないもの。
だからこそ——
「そばに、居てほしい」
「え⁈」
包んだ指が手の中でびくりと揺れて、獅子神の驚きがダイレクトに伝わってきた。
「少しでいい……たぶん、すぐ眠る。それまでの間」
「……珍しいな、お前がそんな素直なの。なんか」
「かわいい、は言わなくてもいいぞ」
「だから、心読むなって」
獅子神は可笑しそうに口元を歪めると、ベッドに座り直した。絡めていた私の手を握って、今度は唇に触れるだけのキスを落としてくれる。
「心配すんなって。ちゃんと居るし、朝メシも作るからさ」
「ん……」
「ゆっくりな。おやすみ、村雨」
「ありがとう、獅子神」
応えながら目を閉じた。
繋いだ手から、じわりと温もりが伝わってくる。獅子神の体温、脈拍、呼吸。そして、それだけではない何かが。
その何かは私の血液に溶けこみ、体中を巡っていく。どんな薬よりも確実に、こわばっていた私の芯をほぐし、安らぎで包み、自分では気がつけなかった傷を癒してくれる。雨水が土に染み込むように、自然に、深いところまで。
こんなにも穏やかで、満ち足りた気持ちになれるならば。
二度寝というのも、悪くない。
「村雨……寝たのか?」
まだだ、と答えてやろうとしたが、もう体が重すぎて、口元もまぶたも動かなかった。頭の後ろのほうから奈落の底へ引っ張られて、意識が沈んでいく。
そっと私の手を離した獅子神が、一度優しく手の甲を撫でて、立ち上がった。静かに扉を開けて、寝室を出ていく。
次に私が目覚めるのは、彼が私の名を呼ぶ時だ。部屋に入ってきた獅子神は、カーテンを開け、私を揺り起こすだろう。そして眩しさに目を細める私を軽くからかいながら、新しい一日へと誘うだろう。香しい朝食の匂いを纏って、いつもの笑顔で。
すぐに訪れるそんな光景を思い浮かべながら、短い、二度目の眠りに落ちた。