酔っ払いの話 / ineffable husbands
@otohitoe_
硬すぎず柔らかすぎない小綺麗なソファの上、いつも以上に歪んだ身の預け方をしたクロウリーが、グラスに注いだばかりのスコッチウイスキーを大きく呷った。
アジラフェルもそれに合わせて自分のグラスに唇を付けはするものの、せいぜい舐める程度でクロウリーほど口に含みはしなかった。というのも、なんだか今日のクロウリーは機嫌が良くて、普段よりも酔いが深いようだったからだ。
クロウリーのことを肝心なところは誤魔化して隠すばかりで信用ならないと信じているアジラフェルがうきうきとした心持ちになるのは当然だった。つまりアジラフェルは日頃のクロウリーの態度には多少なりと不満を抱いているということだった。もっと彼の本質に触れたいと願っているのに、それが叶わないためだ。
もう少し本質の部分を言えば、友達だと先に口にしたのはクロウリーのほうなのに、それでいて全く歩み寄らせる気配の無いことにこそ不満があった。
「それできみは、久し振りに火星に行ってみたわけだ」
「あそこがどうなろうと今更知ったこっちゃないが、だってちょっとは気になるだろ。あっちこっちから立て続けに変な機械を飛ばして…思ったよりは悪くなかったがな。持って帰ろうとしてるのは相変わらず石ころとか砂とか、そんなもんだし」
久し振りに書店に姿を現したと思ったら、クロウリーは少し前に火星へ向けて飛ばされていた探査機が到着したというニュースを聞いて、どんなものかとこっそり観察しに行っていたらしい。
アジラフェルは「それで?」と腕を伸ばしてクロウリーのグラスを琥珀色で満たしながら続きを促す。昔のこと…特に彼がまだ堕天するより前のこと…をあまり語りたがらないクロウリーに乗ってもらうには、まずアルコールは欠かせなかった。
「あっちから見た地球は相変わらず眩しくて…火星には何にも無い。例の変な機械は一生懸命うろうろしながら石ころ拾ってるみたいだった。地球に戻ってくるのは、…あー…」
「十年くらいあとかな」
「そう、確かそうだった。何十年もかけて石ころ拾いに行って、また何十年もかけてそいつを調べるんだろうな。笑える」
「何かを知りたい気持ちは誰にも抑えられないものだから」
「ふむ…おまえが言うと説得力がある」
「特に、星や月は美しくて、宇宙は神秘的な魅力があるし」
「人間が知りたがるのも無理はない?」
「そういうこと」
「ふん」
クロウリーは鼻で笑いながらグラスを傾ける。
アジラフェルはクロウリーが星の話をするのを聞くのが好きだった。彼がしてくる悪さ自慢を受け入れることはできないが、彼の作った星々の話なら、アジラフェルは両手を広げて褒め讃えることができるからだ。
「星は本当に不思議だ。行ってみればただの更地のようなのに、離れてみるとあんなに綺麗で」
「ああ」
「実に計算されている。それぞれ違う個性もあるし」
「んん」
「それに…本当にとても素敵だ」
クロウリーはその通りだというように頷いて、またグラスを傾ける。
もっと何か言いたいのに他に言い様がなく、アジラフェルはアルコールに浸蝕され始めている頭で考えあぐねた。
無理矢理にお世辞を言いたいのではない。アジラフェルは星々を本当に素敵だと思っているために、それを讃えるためには「まるで夜空に輝く星々のようだ」と言うほかなかった。だからいつも、素敵だね、としか言えない。せっかく大っぴらに褒めることができる数少ない彼の“功績”なのに。
天使は嘘を吐かない、ということを賛辞の裏付けとしたいのだが、アジラフェルは時に嘘を吐くこともあることをクロウリーにだけはとっくに知られてしまっているから、ただただ真摯に熱を込めた眼差しを向けることしかできない。
(…ああ違う。わたしが時に、本当にどうしようもない場合には、ごく稀に嘘を吐くことはあるいは神もご存じだった)
もしもこの世界に『悪魔の創った芸術作品に送る非常に正確な賞賛辞典』という本があるのなら、どんな大きな対価を払ってでも求めただろう。
アジラフェルは本を読むことが当然好きだし、どんな難解な含みも汲んで読み解くことができるのに、クロウリーに対してだけは本当に伝えたい言葉を選び取ることにいつも難儀していた。そんなもの本人はこれっぽっちも求めていないのはわかっていたが、アジラフェルにとってクロウリーに対する課題のひとつだった。
「ついでに月にも寄ってきた」
「へえ!いいね」
「他の星や惑星と変わらない。近付いてみればただのでかい石の塊だ」
「ただの石が、ここから見ると輝くように設計したのはきみだろう?」
「どうだったかな」
「初めて宇宙に行って実際の月や星を見た人はきっと驚いたことだろうね」
「初めて宇宙へ行ったのは蝿だ」
クロウリーは顎を高く上げ、天井をまっすぐに見上げながら思い出したように呟いた。
少し話が逸れたなとアジラフェルは思ったが何も言わなかった。クロウリーが酔っていることはわかっているし、その続きを聞きたいと思ったからだ。
「おれはベルゼブブにばれやしないかものすごく心配だった…あの頃は人間が地球から出られるようになったらどんな反応をするのか興味もあったし、失敗しなければいいと思っていたからな。なんだってよりにもよって蝿だったんだろうな…あいつは生物史上最も贅沢で幸運で、それから…幸運な蝿だ」
「それは知らなかったかも。犬を打ち上げたのは知っているけど」
「ああ、あれな…」
「わたしは実は、あれは少し酷いんじゃないかなと思ったんだ。犬を狭い檻に閉じ込めて宇宙へ飛ばすだなんて。それもたったひとりで」
「異論なし」
「厳しい訓練を耐えて試験に合格したんだっけ?」
「犬がか?」
「そう」
「ああ、そうだ。それでわかったことは何だ?“大気圏を突入したあとどうやら少しくらいは生きていられるらしい”ってことだ。打ち上げられたそいつは実際にはあっさり死んじまったのに。全く馬鹿馬鹿しいよな、どうせなら人間を飛ばせば良かったんだ。そのほうがずっと良い。ノートと鉛筆でも持たせてな。そんで地上のやつらのためにきっちりレポートを書き残すんだ、“地球は眩しい”ってな」
クロウリーは饒舌に喋ったあと、くっくっと喉を鳴らして笑った。彼らも一生懸命だったんだからそんな皮肉を言ってはいけないよ、と嗜めるところなのかもしれないが、アジラフェルはまったくその通りだと思ったため黙ってグラスを舐めた。
「犬というのは嘘で、本当は人間だったのかも」
「そうかもしれない」
「きみがその場にいたら、彼女を助けた?」
「彼女?」
「犬のことだよ」
「おれは悪魔だぞ。助けたりなんかしない。地上のあたたかい場所に飛ばして、任務を失敗させはしたかもな。それまで受けた訓練もせっかく合格した試験とやらも全部水の泡にしてやる」
「それは…」
いい案だね、という言葉はやはり飲み込んで、微笑むだけにしておいた。それを察したクロウリーは金色の瞳を悪戯っぽく輝かせ、グラスを持った長い腕をアジラフェルに伸ばして「犬に」と低い声で乾杯を誘った。アジラフェルも「忠実で健気な彼女に」と返し、グラスを鳴らした。
「大体、おれはあんまり好きじゃないんだ。人間が宇宙へ出るのは。地球やおれの作った星の周りにごみばかり増やすから…そのうちまとめて降らせてやろうかな…」
「なるべく人のいない場所に頼むよ」
「いいや、捨てた本人のところに落とす。そうすべきだろ。それか拾いに行かせるのもいいな。そんで反省文も書かせてやる。あんなに美しい場所に、どうしてごみを撒けるんだか…」
「今度、宇宙飛行士に紛れて一緒に宇宙へ出たら?」
「嫌だね。あんな狭っ苦しい船で楽しむもんじゃない、宇宙旅行ってのは」
「今度わたしを案内してほしいな、クロウリー」
提案したのはアジラフェルのほうだったが、クロウリーは片方の口の端をほんのり上げて頬杖をつき、どこか楽しげにアジラフェルを見つめた。
期待を孕んだようなその眼差しにアジラフェルは嬉しくなって言葉を続けた。
「宇宙船じゃ見られない景色を見せてくれるんだろうな」
「もちろん」
「宇宙旅行をするならきみ以上の適任者はいないと思う」
「そうさ、おれなら…」
「ベントレーに乗って、優雅に快適に案内してくれるんだろうね」
「そうさ!」
クロウリーは勢いよく立ち上がった。もうだいぶアルコールが効いているらしい。
「………」
そして立ち上がった勢いで、次に何を言おうとしたのか、いやそれどころかきっと何の話をしていたのかも忘れてしまって、今それを思い出そうとしているところなのだろう。そんな表情をしていた。
「つまりきみが言いたいのは」
「おれが言いたいのは…つまり…要するにだ…」
「わたしにどうしても伝えることがあったわけだ」
「ああそう…つまりそういう…」
「きみは今幸福の中にあるということだろう」
「そう…そう、おれは今…幸福の…」
悪魔の嫌がりそうな言い方で揶揄ってみたかっただけに過ぎないたったひとつの冗談だったが、アジラフェルの思っていた以上の熱量の「はあ!?」というクロウリーの声が書店内に響いた。
「なんだって?幸福!?おれは悪魔だぞ!」
「それはそうだけど」
「悪魔はそんなぬくぬくしたところにいるはずない」
「でもきみは特別な悪魔だから」
「はあ?」
「だから幸福の中にあったって構わないだろう。一時的かもしれないが、きみは地獄の束縛から逃れて、無理に悪魔然としていなくてもいいんだし。一緒に宇宙旅行ができたらきっとすごく楽しいと思わないか?」
「旅行は行くがこれとは別の話だ、アジラフェル」
「そう?」
「幸福の中になんかあってたまるか、おれは、おれはだ、」
「好ましく思う相手と旅行の計画を立てるというのは、間違いなく幸福なことのうちに入ると思う」
「…好ましく思う相手だって?」
「きみはわたしを好きだろ」
アジラフェルはグラスを傾け、少しだけスコッチを口に含みながらきっぱりと断言した。クロウリーは一瞬面食らったように眉間に皺を寄せて口を歪ませ、「そう、だから、いや、けどな、だからだよ」と反論するような口調とは裏腹にアジラフェルへの好意を認めた。
「だったらおまえだってそうでなくっちゃおかしい」
「わたしだってきみを好きだから旅行は楽しみだし、今幸せだよ」
「いや、違う。間違えた。そうじゃない。そこじゃなくて、おれが地獄から離れて悪魔でなくなったのなら、おまえだって天国から離れて天使じゃない何者かに…」
そこまで言って、クロウリーは時が止まったかのようにぴたりと停止した。数呼吸分の時間、呼び掛けようかアジラフェルが迷っているうちにクロウリーは「いや」と主張の撤回に移った。
「いや、違うな。いい。やっぱりおまえはそのままでいい。おまえがそのままってことは、おれもそのままってことだ。そうだな、それがいい。結局のところ、それがやっぱり一番しっくりくるんだ」
「勝手に解決するんじゃないクロウリー」
「おれが解決したんじゃない。元から、解決してあったんだ。別に最初から何の問題もないことだった」
「きみ、本当に酔ってるな…」
支離滅裂になりつつあるクロウリーの話をしばらく楽しんでいたアジラフェルだったが、アルコールを少し抜いたらどうか提案すべきか迷い始めた。今夜のクロウリーはいつも以上に饒舌で、降って湧いた宇宙旅行という魅力的な話ももっと続けたかった。
「酔ってない。いや、酔ってたって関係ないね。これははっきりしてる。紛れもない事実だ」
「どの話?」
「何であったって、おれはおまえがいればそれでいいんだ」
…なんというか、それはすごくシンプルでストレートな愛の告白ではないか?
もうクロウリーの頭からは宇宙旅行の話なんてどこかへいってしまっているらしかった。
「つまり…今きみは幸せってこと?」
「………」
クロウリーは口を薄く開いたまま、アジラフェルを見つめて固まっていた。
答えに迷っているのか言葉を選んでいるのか、そのどちらでもあったが、もっとシンプルな話だった。酔ったクロウリーが墓穴を掘った。それだけのことだった。
「クロウリー」
「…今日は帰る」
「えっ!?」
ゴン!と勢いよくグラスを置いたクロウリーはくるりと踵を返し、ふらふらと左右に揺れながらも足早にドアへ向かい、そのまま本当に出て行ってしまった。
「旅行は…?」
扉が閉まる直前に独り言のつもりでアジラフェルが呟くと、クロウリーは扉から半身だけ戻った。
「旅行は行く」
それだけ言い残して再び消えかけるクロウリーに、
「サングラス」
と今度ははっきりと告げると、クロウリーは無言のまま書店内に戻ってきて、きっと睨み据えるように目線を向けながらサングラスを掛け、そして今度こそ本当に帰って行った。
いつも通り黒色で統一された服装もあってクロウリーの姿は闇にすぐに溶け込み、そのうち、ぱっと明かりが灯ったのと同時に大きなエンジン音。
「………」
ベントレーの音が遠く離れて聞こえなくなってからアジラフェルはゆっくりと立ち上がり、クロウリーがひと口ほど残していったスコッチを漫然とした所作で飲み干した。
「…きみは本当に、頑固で素直じゃない」
悪態にはそぐわない、満足げな微笑みだった。