夜遊びをする話 / ineffable husbands
@otohitoe_
誰もいない夜の海辺に二人は降り立った。
辺りには月と星以外の灯りは無く、二つの影は深い闇に溶け込みながらゆっくりと歩き始めた。
「ああ、いい気持ちだ」
アルコールで程よく火照った頬を潮風が撫でてゆく。
冬の気配が漂い始めた海は静かで、波の音と砂を踏みしめる足音がアジラフェルとクロウリーの耳を楽しませる。
「おまえほど夜遊びの似合う天使もいないだろうな」
「食後の散歩を楽しむことを夜遊びとは言わない」
「天使は食事をとらないし、酔いざましの散歩もしない」
アジラフェルは何も言えなくなり、むっと僅かに唇を噛んで膨れてみせたが、クロウリーは笑って首を傾げるだけだった。
「それで、さっきの話の続きだけれど」
「どの話だ?」
「言語だよ。何か新しく学ぼうかと思ったんだけど。フランス語を習得したときのように、特別な力は無しでね。それで思いついたんだが…」
「習得。習得ね」
「…何か言いたげだな、クロウリー」
「別に。ただまあ、ひとつ言えるのは、言語ってのはアップデートを繰り返していくものなんだぜってことだな」
「わかっている」
「そうだよな悪い、おまえは古風なものが好きなんだったな」
「………」
持って回ったような、少し意地悪な言い方をするクロウリーはいつも通りではあったが、普段よりもそれが過ぎるように感じたアジラフェルは隣の黒い影をほんの少しだけ見上げた。
「きみ、もしかしてさっききみにも恥をかかせたことを根に持ってる?」
「さっき?」
「わたしが、その…ある勘違いをしてしまった男女のことだよ」
「ああ、おまえにぶつかった“親子”のことか」
アジラフェルは気まずそうに咳払いをした。
ここに来る前、あるパブの前でアジラフェルはある男女とほんの少しぶつかり、軽く言葉を交わしたその二人の年齢差と親しげに腕を組む様子から「親子水入らず、良い夜を」というようなことを言ったのだが、隣にいたクロウリーが声を上げて笑い出し、“親子”は顔をひどく顰めたため、何かまずいことを言ったのだと理解したアジラフェルは足早にその場から離れた…ということがあった。
「あれは“勤務中”のナイトクラブの女とその客だった。馴染みの客なんだろうな、確かに親しげだった。だからおまえが親子と見間違えても無理はないさ」
「う…」
「気にするなって。おれは面白かった。恥をかかされただなんて思っちゃいない」
「そう…まあ、きみが面白がってくれるだけ救いがある。彼らには失礼なことをしたけれど」
クロウリーはくつくつと笑いながらサングラスを外して胸ポケットに掛けた。それが本当に可笑しがっている様子だったため、アジラフェルはほっとしたような、腹立たしいような、複雑な気持ちで後ろ手を組んだ。
「それで?話の続きをしてくれよ、天使様。今度は中国語でも身につけるか?」
「…それも魅力的だけど、学ぶんじゃなくて、つくるのはどうかなって」
「つくる?言語を?」
「そう」
それは昨晩、アジラフェルがふと目についた過去の日記を何気なく手に取ってぱらぱらと読み返していたときのこと。些細な言葉選びの誤りからクロウリーと口論になった日のことを書いたページを見つけて、今後こんな必要の無かった諍いはあるべきではないなと改めて自分を戒めると共に、もっとクロウリーと言葉を交わして、お互い深く理解しあえていたら起こらないだろう…と空想遊びを始めたときに思いついたばかりのことだった。
「わたしたちだけの言語を創るんだ。どう?」
「それは…全部に新しい名前を付けるのか?例えば“本”とか、“ココア”とか」
「そうとも。そうだな…本はトペリァクスス、ココアはマゥロソとか」
「骨が折れそうだ」
「でもきっと楽しい。わたしたちは時間ならたっぷり持っているから」
「まあ、それはそうだ」
「よく使う言葉とか、身近にあるものから名付けていくんだ。覚えやすいし、馴染みやすい」
「じゃあ、おれはまずウイスキーに付けよう。…待て、そいつだけに付けられていた名前はどうする?例えばウイスキーの“スコッチ”とか、スコッチの“シーバスリーガル”とか」
「固有名詞か。うーん、そうだな…それで言うなら、まずは“ウイスキー”にだけ名付けよう。いっぺんに全部変えると覚えづらいだろうし」
「なるほど」
意外にもクロウリーはすんなりとアジラフェルの提案を受け入れて思案し始め、歩く速さを緩やかに落とした。
「おれ達が浮かんだ単語が既に在る単語だったときはどうする?」
「そのままでもいいと思うけど…同じ言語の中にもあるし。太陽と息子とか…」
「ふむ」
「そうだ、この世界には無い音を交ぜてみるっていうのはどう?シ―ィガサ――ヴとか、―――ュ――ラとか」
アジラフェルは地球には無い音を交えてでたらめな言葉を紡いでみた。名案だと思ったが、クロウリーはアジラフェルを見つめてふっと微笑んだ。
「変かな」
「いや。でも、歌みたいだ」
クロウリーの眼差しは優しかった。向けられた金色の瞳に確かに愛を感じ、アジラフェルはばれないようにはにかんだ。
手を握ろうか迷っているうちにクロウリーはその場にしゃがみ、「文字は?」と砂浜を指で適当に引っ掻いた。
「文字か」
「そうだ。絵じゃないぞ。ただの線で出来てるくせに、文字ってのは案外難しい」
アジラフェルもクロウリーの隣にしゃがみ、傍らに落ちていた小さな石で線を紡いでみた。クロウリーの言う通り、案外難しい。かなりの想像力を要する作業だった。
アジラフェルが砂に跡をつけては消してを繰り返している間、クロウリーは近くをうろうろと歩き回り、手頃な細い木の枝を拾って戻った頃には既に砂の上にいくつかの文字のようなものが出来上がっているようだった。
「ああ、いいね。ありがとう」
「ん」
クロウリーから木の枝を受け取り、出来たばかりの文字を丸く囲む。
「この丸で囲んだ単語はもう決めたんだ」
「ふーん。この虫の這ったようなのはなんて書いてあるんだ?」
「そうじゃない。これは軌道を表しているんだ」
「軌道?」
「そう。あ、ええと、正しくはないというか、すべてに当てはまるものではないけど」
「…わかった。「星」だ」
クロウリーが最初にそれに目を付けたことは何よりの賛辞で、アジラフェルは絶対に忘れないようにしようとその新しい文字を心に焼き付けた。今日の日記にもきっと書こう。少しずつ紙に書き溜めて、いつか二人だけの辞書を作ろう。
どこにも無いわたし達だけの文字だから、タイプライターにも頼れない。二人で書いて、ゆっくり作ろう。
なんて楽しみなんだろう、とアジラフェルはその辞書を腕に抱くのを想像すると、今から既に、本当に胸が躍った。
「当たり。読み方はカルケナ」
「それじゃあこっちは…「海」か?この辺のうねうねした線が波を表している」
「さすがだ、クロウリー。読み方はウルハャモ」
「一度パターンがわかれば伝わるもんだな。文字らしく出来てるじゃないか」
クロウリーに素直に褒められてアジラフェルは得意になった。
アルファベットに似た仕組みだけ拝借して、文字の組み合わせで音を表す規則を決めた。それから二人は誰も聞いたことのない音を次々に生み出した。
最初にクロウリーが歌みたいだと表現した通り、アジラフェルの唇からもクロウリーの喉からも楽器のような音が奏でられた。クロウリーの生む音は冷たい美しさがあり、アジラフェルの生む音は陽だまりのような親しみがあった。
手の届く範囲いっぱいに文字を書き、空白が無くなったら二人で少し移動する。まだまだキャンバスは埋まりそうにない。
「次は…そうだな…」
クロウリーはそこに、二人の新しい文字で“アジラフェル”と書いた。
「わたしの名前?」
「いいや。今創った言葉だ。どこかの世界にもある単語かもしれないし、もしかしたらおまえの名前を由来にした単語かもしれない」
「ふうん…読み方は?なんて読む?」
「“アジラフェル”」
「そのままじゃないか!」
クロウリーは声も無く肩を揺らして笑っていた。恐らく予想していた通りの反応が返ってきたのが可笑しかったのだろう。アジラフェルはそれも含めて唇を尖らせてみせた。
「わたし達の名前も変えるのか?」
「いいや。単に同じ音の単語なだけだ。意味は…」
「待って、意味はわたしが決める」
アジラフェルはクロウリーの腕に手の甲で触れて制し、そうだな…と少し考え、咳払いをしてからその言葉に意味を与えた。
「ええとまず、愛に満ちていて、賢く、知には貪欲で、神聖で、正しく、なんでもよく噛んでよく食べ、お酒もよく飲ん…いや、ほどほどで」
「そりゃいいな」
「それから、タータンチェックがとても似合う天使のことだ!」
「じゃあやっぱり、おまえのことだな。アジラフェル」
「あっ…」
クロウリーはその“アジラフェル”の文字をざっと丸で囲んで立ち上がり、またまっさらな砂浜のほうへ向かって数歩進んだ。
「少しだけ変えよう。愛に満ちていて、賢く、健やかで、ちょっとばかり残念な欠点はあるがそこが魅力のひとつでもある人物を指す言葉だ」
「…最後のはちょっと不服だが…まあ、きみがそう定めたのなら」
クロウリーが生んだ“アジラフェル”という単語を、アジラフェルは二、三度復唱した。
アジラフェル、アジラフェル…何度も口にし、聞いてきた自分の名前が、ほんの少しだけ新鮮なものに感じた。
「…うん。良い言葉だね。“アジラフェル”」
「どうもありがとう、まるで“アジラフェル”のような天使様」
クロウリーは悪戯っぽく笑って、木の枝を持っていないほうの手をポケットに突っ込んだ。
「お礼にわたしもきみの名と同じ響きの言葉に意味を与えよう」
「スタイリッシュなやつを頼むぜ」
「もう思いついてある」
「不安だな」
アジラフェルは“アジラフェル”の隣にクロウリーという文字を書いた。クロウリー。良い調べだ。わたしが一番口にしたくなる響き。わたしがきみの名前と同じ言葉に新しく意味を与えるのなら、これしかないと思う。
「“クロウリー”の意味は?」
「愛」
クロウリー、と口に出しながら、“アジラフェル”と同じように丸で囲む。これは復唱しなくとも絶対に忘れない。それに持たせた意味がシンプルだからではない。アジラフェルにとってはこの文字が生まれるよりずっと前から確かな真実だったからだ。
「“愛”だよ。きみがわたしの名に新しい意味をつけたとき、わたしならきみの名にこの意味を持たせるな、ってすぐ浮かんだ」
「当てつけだな」
「本心だよ」
「最近チープな恋愛映画でも観たのか?」
「良い案だと思うんだけどな…」
ペン代わりの枝を置いてアジラフェルも立ち上がり、クロウリーに歩み寄ってその顔をじっと見据えた。
「“クロウリー”」
「う…」
「わたしのクロウリー。…うん、やっぱりすごくしっくりくる」
アジラフェルは今度は迷わずクロウリーの手を握った。クロウリーの手は枝を落とし、びく、と一瞬身構えたようだったが少しも拒まなかった。
「…今のはどっちの“クロウリー”だ?」
「どちらでも同じことだよ」
「…おまえはしてやったと思ってるんだろうがな」
「そんなことは思っていない。ちゃんと誠心誠意、真心を込めてこの意味を与えた」
「おれが愛を伝えるときに困るとは思わないのか?」
「…きみが?」
「“クロウリー”はおれの名でもあるんだぞ。自分の名前を口にしながら愛を囁くやつなんていない」
「…ふむ」
一理あるな、とアジラフェルは思った。思ったが、その程度だった。
「わたしがわかればいいんじゃないか?」
握られたままのクロウリーの手にお返しを促すように前後に揺らし、顎を上げて尋ねる。片眉だけを上げてみせたクロウリーの握られた指先は僅かに蠢いた。
愛の名を持つわたしの悪魔。迷う必要なんてないのに。
「きみが愛を囁く相手はわたししかいないんだし」
やはり返答は無かったが、アジラフェルは満足だった。今のところは。
「ねえクロウリー。すごく楽しいから、書店で飲みなおしながらもう少し続けない?そろそろ書き留めるのが大変になってきそうだ」
「…まあ…いいだろう」
クロウリーは首を傾けてアジラフェルの提案を受け入れ、遠い街明かりに向かって歩みを進めた。そのどさくさに、自分でも気付かないうちに握り返したというふうを装った手を繋いだまま。遠い遠い街明かりに向かって。
「しばらくは退屈しそうにないね。忙しいくらいだ」
「おまえはな。おれは明日には飽きてるかも」
「そう言いながら、きみはきっと付き合ってくれるんだよね」
「どうかな」
「ね、クロウリー」
「…改名してやる」
「ふふふ」
「本気だからな」
「わかったよ、また別の意味を考えるよ…」
砂浜に記された世界で二人しか知る者のいない言葉たちはそれからしばらくの間残っていたが、日が昇り、顔を出した太陽の光が白からあたたかい色にすっかり変わりきった頃、とうとう潮に飲まれて跡形も無く消えた。