なんでもない朝の話 / アジクロ
@otohitoe_
「クロウリー」
穏やかな声が低く名前を呼んでいる。
「クロウリー。朝だよ」
頬を包むように優しく撫でている掌の感触。眠っているのを起こしたいらしいが、その体温も声色も言葉とは反対にまるで子守歌のような心地好さだった。
「クロウリー…」
「………」
「…起きてるね」
親指に柔らかく目尻を撫でられて、反射的に瞼が動いてしまったせいで目を覚ましていたのがばれてしまう。それから部屋がぱっと明るさを増す。アジラフェルがカーテンを開けたらしい。
「まぶしい…」
「朝になったら起こせって言ったのはきみだろ」
シーツに潜り込もうとするのを制するように、アジラフェルはやっぱり優しく体を寄せる。
「わたしの大好きなレモンキャンディを見せて」
ロマンス映画に出てくるような甘く気取った科白にクロウリーはふっと笑ってしまいながら、望み通り薄らと目を開けてやった。
「おはよう、クロウリー」
「んん」
「夜眠って朝起きるのって人間みたいだ」
「おまえだって、夜は休んで、昼は店で働いてる…同じだろ…」
「コーヒーを淹れようか。お茶のほうがいい?」
「コーヒー…」
「ますます人間っぽい」
「何だっていいが、もう少しこうしてようぜ…」
それも人間っぽいだろ、と続けながら、クロウリーはアジラフェルの膝に乗り上げるようにして上体を乗せベッドに引き留めた。さっきはあんなに眩しかったのに、ちらと見遣ればカーテンは半分しか開いていない。本当に起こす気があったのかどうかはクロウリーにもわからなかった。
「でももう店を開ける時間だ」
「こんな朝っぱらから客なんて来ない。少しくらいだらだらしたって平気だ」
「貴重な本を抱えた客がいつ売りに来るかなんてわからないだろ。取り敢えず開けるだけ開けておかないと」
「それにおれはまだ眠い」
「怠惰なこと言って…」
「知らなかったのか?怠惰は悪魔の基本だ」
「きみが起こしてくれって言うからそうしたのに。朝起きたかったんじゃないの?」
「目が覚めたときにおまえがいるとうれしいんだよ」
自然と肩に置かれていた手に指を絡ませるのも、甘やかな気持ちもありつつアジラフェルをここに留まらせるクロウリーの作戦のひとつだった。駆け引きと言うには勝負自体があまりに一方的すぎる。結局最後はいつもアジラフェルの御心ひとつなのだから、本当は作戦も勝負もあったものではないのだが。
「夜眠る前に見たおまえが、朝起きても同じようにここにいるのがおれにとってどれだけ良いことか想像くらいできるだろ。…今の“良いこと”ってのは善行って意味じゃないぞ。わかってると思うが」
「わかってる」
「おれがうれしいとおまえもうれしいだろ?」
「勿論そうだよ」
「おまえと一緒に朝寝坊するのはうれしい。ものすごく」
「………」
アジラフェルはきゅっと口を結んで黙りはしたものの、太腿に頬を擦り寄せたのがやりすぎだったのか、外で聞こえた車のクラクション音が現実に引き戻させたのか、とにかくわざとらしい咳払いをひとつして、捕まえていなかったほうの手でクロウリーの指をそっと解いて下ろさせた。
「とにかく、言われた通り起こしたよ。わたしは下に降りるからね。まだ寝たいなら好きなだけ」
「なあ、アジラフェル」
「………」
「な…」
「そのかわいそうな顔するのやめて…」
「起きないとは言ってないんだから、置いていくなよ…」
「全然起きる気配が無いんだけど」
「起きる、ほんとに起きる。でももうちょっといちゃついてくれたっていいだろ?なあ」
「もうちょっと?」
「あと30分だけ」
「………」
「20分」
「………」
「15分…」
「……もう」
眉尻を下げて子犬のような眼差しで見上げるクロウリーに、アジラフェルは脱力しながら大きく息を吐いた。クロウリーが意図的にやっていることはアジラフェルにもわかっているが、わかっているからこそ悩ましい。勿論クロウリーもそこまでを承知のうえだった。
「10分ね」
「15分で決まったはずだろ!」
「今おはようのキスをして10分だらだらするのと、15分だらだらできるけどおはようのキスはそのあとだったらどっちを選ぶ?」
「…今する」
「いい子だね」
「あ?」
「賢明って言いたかった」
「英語も学び直すべきだな、おまえ」
アジラフェルは「英語“も”」のところに引っ掛かっていた様子ではあったが、上体を起こして首を伸ばしてみせるときちんと頬に手を添えて朝のキスをしてくれた。
「おはよう、マイディア」
「おはよう、働き者の天使さん」
「ありがとう」
「皮肉だよ」
「わかってる。…さて、それじゃ」
「んあっ…!?」
勝ち取った10分を何倍にしてやろうかうきうきとしていた気持ちは一瞬で真っ白になる。アジラフェルはクロウリーの体を包んでいたシーツごと肩に担ぎ上げ、今まさに寝室を出ようとしていた。
一瞬の混乱を経て、クロウリーは脚をばたつかせる。が、シーツに包まれている身ではもぞもぞと鈍く蠢くことしか叶わなかった。
「おまえ!アジラフェル!天使のくせに!」
「くせに?」
「騙したな、10分の約束だろ!」
「ベッドでとは言ってない。下のソファでだってだらだらはできる」
そんなの屁理屈だ、戻れ馬鹿、天使のくせにこんなのずるいぞ、と思いつくままに悪態を吐くものの内心は既に駄目元で、階段を降り始めたところでもうすっかり観念してしまうことにした。
「くそ…おれの心を弄びやがって…」
クロウリーはぱちんと指を鳴らしてシーツをベッドの上に戻し、自身もいつものスタイリッシュな装いに整える。
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。ちゃんと10分きみとだらだらするよ」
「おれはベッドでいちゃつきたかったんだ」
「休日にしよう」
「おまえは休日におれを起こさない」
「次の休日は起こすってば」
とん、とん、といつもと少しも変わらない軽い靴音に合わせて揺らされながら、クロウリーは頬杖を突くしぐさで
「おればっかり好きみたいだ」
とぽつり呟いた。
ちょうど最後の一段だったその足音は一瞬止まって、それから「ああ…」という溜め息のような声がアジラフェルから漏れた。
ソファに預けられるはずだった体は先に腰掛けたアジラフェルの膝の上に下ろされ、クロウリーは当然のような所作でアジラフェルの肩に両腕を掛ける。
ブラインドは下りたままだが寝室よりもずっと明るい書店内で、陽光を吸って光る白いふわふわの前髪はコットンキャンディのように甘そうだった。これをたっぷり味わうのなら、やっぱりベッドの上が最適なのに。
「クロウリー、きみ…どうやったらそんなに可愛いことが言えるんだ?」
「ひどいやつだな、おまえは」
「どうして」
「おれは悲しんでるのに、それを可愛いだなんて言ってのけるのがひどくなかったら何なんだ」
首を傾けて青い瞳を覗き込めば、アジラフェルは口元だけで微笑む。
クロウリーは知っている。アジラフェルはこんなふうに、クロウリーにわがままを言われて頭を悩ませるのが好きなのだ。店なんて開けても閉めても本当はどっちだっていいくせに、天使の立場にかこつけて、悪魔のクロウリーがわざと困らせてくるのを喜んでいる。そのためにわざとひどいことを言ったりやったりするのではないかと思うほど。まあ残念ながらそうではないのだが、それでも今アジラフェルが楽しんでいるのは間違いなかった。
「おれが可愛いんならもっとそれらしく扱ってくれ」
「わかったよ。きみを欺くような真似して悪かった。どうしたらいい?」
「このまま抱いててくれ。おれの気の済むまで」
「それじゃ寝室から連れ出してきた意味がなくなってしまう」
「おれを自分の上に乗せたのはおまえだろ。諦めろ。おれは動かないからな」
「そうとも、きみを担いできたのはわたしだ。だから退かすことだって簡単にできる」
「アジラフェル、あんまり虐めすぎると本当に不貞腐れるぞ。おれが怒って出て行ってもいいのか?」
「それはだめ」
「じゃ、決まりだな」
「うーん…」
「困ってるか?」
「困ってる」
「そりゃいい」
クロウリーは明るい声で機嫌よく笑った。
天使を思いっきり困らせて仕事を放棄させたうえに、ただのソファ扱いができるなんて。
ああ、なんて楽しい悪魔の生き方。