由無しごとを話してるだけ / ineffable husbands
@otohitoe_
いつもと変わらない曇り空の昼下がり、二人は公園のベンチにいた。
行きつけのレストランが月替わりで提供している季節の限定メニューが来月はどんな内容になるかを予想しあって遊んでいると、突然目の前を歩いていた二人組から破裂音がして、アジラフェルとクロウリーは全く同じ表情と所作で二人のほうを見上げた。見たところ男女のカップルのようだが、状況的に音の出処は男の頬らしかった。
クロウリーはあの音に似ていたな、と思ったがなかなか名前が出てこない。ああなんていったか、木の板をぶつけて鳴らす打楽器だ。あれにそっくりな実に爽快な音だった。
その何とかいう打楽器によく似た音を鳴らした奏者はカップルの前に立つ別の若い女性だった。それから数拍置いて、ひどい喧騒が天使と悪魔を包んだ。聞き耳を立てて推測する隙もない。痴話喧嘩らしいということだけわかる。
「…痴話喧嘩のようだね」
「そうだな」
「ああ、浮気なんだって」
「そのようだ」
「男性の隣にいるのが浮気のお相手かな」
「男の中ではそっちこそ本命で、今強烈な平手打ちをお見舞いしたほうこそ浮気相手だったりしてな」
「ふむ…」
「もしくは両方とも遊びで、他にも相手がいるかもしれない」
「それはちょっと欲深すぎるな」
アジラフェルとクロウリーはぼそぼそと低い声で密談した。場所を移そうにもそれが起こっているのが少しでも足を伸ばせば踏まれそうなほどの距離で、立ち上がるのさえ憚られる。
萎びたニンジンのような表情でその場にただ立ち尽くす男を他所に、喧々諤々と罵り合う二人の女。
彼女達がベンチの中央に頭を寄せて何事かを話しながら見上げてくる二人の紳士に気付いたのはまさにキャットファイトのゴングが鳴る直前だった。
「「何見てんのよ!!!」」
ぴったり息の合った怒声を浴びせられたアジラフェルとクロウリーは面食らって顔を見合わせた。わざわざ眼前にやって来て諍い始めたのは彼女達のほうだったのに。
肩を竦め、立ち上がって歩き出すクロウリーにアジラフェルも倣い、彼の愛車に向かっているのであろう背を追った。
「すごい剣幕だったね」
「八つ当たりもいいとこだ。見てるぶんには面白くはあったがな」
「まあね…」
こんなことを面白がるなとお小言が返ってくるとばかり予想していたクロウリーは、アジラフェルの意外な反応に思わず顔を見た。
「まあね?」
「え…あ、いや、可笑しく思ったわけじゃないよ。ただ、あの平手打ちをお見舞いした彼女の行動は彼を愛するがゆえのことだと思うから…」
後ろ手を組んだアジラフェルは少し俯きながらもごもごと答えた。
何か思うところがありつつも、自身はそう信じているのだというのがひしひしと伝わる。クロウリーはその“思うところ”をアジラフェルに代わって言ってやることにした。
「いくら愛があったって殴るのはいただけないんじゃないか?」
「裏切られた悲しみと怒りが強いのは、やっぱりそれだけの愛があったということだし。きみの言う通り、暴力は良くないことだけどね」
何もああいう怒りが純粋な愛情のみから生まれるわけではないが、とクロウリーは思ったが、言ったところで説明が面倒だしアジラフェルが理解してくれるかわからなかったため言わないでおいた。
どうもアジラフェルは、愛ってものには種類があることや、中にはお互いの破滅を導くようなそれもあるのだということをいまいち理解していない節がある。もっと核心にあるような、根源的で、まだ精錬されていない原石のようなそれを信仰しているのだ。
「そういうもんかね」
恋人との間にあった愛が執着に変わり、心を翳らせる原因になっていたコーヒーショップの店主を思い起こしたクロウリーだったが、やはり口にすることはなく、公園の脇に停めてあったベントレーに二人は同時に乗り込んだ。
「これからどうする?」
「行きたいところか、見たいものは?」
「ううん、そうだな…」
「たまにはただドライブするってのも悪くないかもな」
「いいね」
クロウリーは行き先を考えるよりも前にアクセルを踏み込み、隣の天使にお小言を言われない程度の速度で街を抜けてゆく。
今日はせっかく雲が少ないから景色の良い場所がいい。それと人が少ないところ。そのあと行ったことのない店で夕食にしよう。ホテルを取って、朝まで飲んだくれるのもいい。ゆっくり朝食をとって、それから書店に戻る。明日は書店の定休日ではないけれど、朝っぱらから古本を漁りにくる酔狂な客なんていないに等しい、つまりいない。よし、決まり。
クロウリーがこれからのプランを立てている間、アジラフェルはまだ公園での出来事を思い返していた。なかなか見られるものではない…しかも目と鼻の先の距離で…体験に、ほんの少し高揚しているようだった。不思議なことに、あの場にはやっぱり愛が漂っていた。浮気をしたと思われるあの男性からでさえ。
愛はあたかかい日差しのようなものでもあり、身を突き刺すような氷柱にも成り得るということはアジラフェルも知っていた。
アジラフェルは、我々の間に確かにあるそれも、時には変化をするのだろうか。と、ふと思った。
「クロウリー、変なことを訊いてもいい?」
「なんだ」
「ただの例え話なんだけど」
「言ってみろ」
「もしわたしが浮気したらきみはどうする?」
予想の斜め上をいく“変なこと”にクロウリーはすぐには言葉が出ず、ゆっくりと大きく息を吸って、それからハンドルを握りなおした。
「…おれ達の“浮気”ってなんだ?」
「…さあ?」
「じゃあ想像できない。そもそもそれに当てはまるようなことが無いだろ」
「でもわたしにとってきみは特別で唯一無二の親友だし、きみにとってもわたしもそうだろ?似たようなことくらいは起こりうると思う」
「例えば?おまえはおれに浮気だと思うようなことがあるのか?それか、過去にあったか」
「…ううん」
アジラフェルが考え始めたのをクロウリーは意外に思った。まさかあるのか?思い当たることが。少なくともクロウリー自身には全く無い。というか、あるはずがない。
「おい…あのな、おれが自分で望んでおまえ以外のやつと食事をしたり目的もなく隣を歩いたりすることはない。おれがおまえとすることのほとんどは、おまえ以外とはしない。知ってるだろ?」
「知ってる」
「考えるだけ無駄だ」
「でも、ちょっと嫌かもな、って思うことくらいはある。わたしには」
クロウリーはぎくりとした。痛くもない腹を探られて言い訳に備えるためではない。そんなことはまずありえないのに、アジラフェルは何か好ましく思わなかったことがあるのだろうか、という驚きと、一種の不安からだった。
「あるのか?」
「強いて言うなら、って程度だよ」
「言ってくれ」
「例えば…ここにわたし以外を座らせるとか」
「ここって?」
「ここ。この車の助手席のこと」
アジラフェルは運転中のクロウリーがしっかり自分のほうを向いて喋っているのも構わず、ここ、と真下の膝を指さした。確かにそこはアジラフェルのあまり多くはない定位置のひとつだ。
ゆっくりと前を向きなおしたクロウリーは静かに息を吐き、何と返そうか少し考えた。取り敢えずほっとした気持ちではあった。先に確認しておいた通り、クロウリーが自ら望んで行うことのほとんどはアジラフェルとの間にしか無い。これが事実だ。食事をするのも散歩をするのもドライブをするのも、ただ会話を交わすのだって、クロウリーが本当にしたいのはいつだってアジラフェルただ一人だった。
「おれの意思に関係なく勝手に乗ってこられるのはノーカウントだよな?」
「そうだね」
「誰かさんに変な女を乗せてやれと言われたこともあったな」
「後ろはいい。この席のことだ」
「嫌なのか?」
確認するようなクロウリーの問いに、今度はアジラフェルが返答に詰まる。
「おれがそこにおまえ以外を乗せるのが、おまえは嫌か?」
「嫌っていうか…嫌というほどでもないけれど…いや、嫌なのかな。ただ、ここに他の誰かが座るのなら、わたしは自分の席が無くなったような…そんな気分になるんだと思う」
「ふうん」
アジラフェルの返答はクロウリーを満足させるには充分で、クロウリーは閉ざした唇に僅かに力を込めた。
助手席を勝手にアジラフェルのものにされているというのはなんだか気分が良かったのだ。
「きみは?わたしが何をしたら浮気だと思う?」
「浮気ってのは悪いことだよな」
「そうだね」
「じゃあおまえはしないだろ」
「ちゃんと考えて。はっきりと名前は付かなくとも、きみ以外の誰かとわたしの間で起こったら嫌だと思う行為のひとつくらいはあるだろう?」
尤もらしいことを言ってはいるが、アジラフェルの真意は「自分が言ったんだからそっちも言うべき」だ。
正直、クロウリーにはアジラフェルのすることで好ましくないと思うことはそれなりにある。ただどれが“浮気”に当てはまるのかはわからない。
悩むクロウリーの言葉をアジラフェルは静かに待っている。何でもいいから挙げないとこの追求からは逃れられないらしかった。
「…強いて言うならだぞ」
「わかってる」
「おれ以外のやつがおまえの書店にある馬の置物をサングラス掛けにすること」
苦し紛れに捻り出したように聞こえたかもしれないが、嘘ではなかった。
クロウリーが購入したわけでも贈ったものでもなく、正真正銘アジラフェル所有のオブジェだし、「おれはこれを自分のサングラスを掛けるのに使うぞ」と宣言したことも無ければ、そもそもただの置物で眼鏡どころか何かを掛ける用途も無く、そしてクロウリーが馬という生き物を特別好んでいるわけでもない。
たぶんアジラフェルの言っていることと本質は同じなのだと思う。自分の席を誰かに奪われるような、そんな気持ちになる。
けれど、クロウリーは言ってからすぐに後悔した。なんてみみっちくて…いや…狭量で…違うな…子供じみて…も違う気がする。とにかく言わなきゃよかったな、と思った。舌打ちするのを堪えて喉の奥からシューッ…と息を吐く。
「そんなやつはいないだろうけどな」
居心地の悪い気持ちになりながら、クロウリーはアジラフェルに何か言われる前に取り繕うようにそう言い捨てた。
「いなかったと思う…ええと、置物にサングラスを掛けるだけ?」
「想像したらなんか嫌なんだ」
「まあ、きみが嫌ならそれは禁止にする。明日からそこに“サングラスを掛ける行為は禁止”ってプレートを置くようにするよ」
「はは、そりゃいい」
アジラフェルの斜め上の提案が愉快で、クロウリーは笑った。
「頭に“許された者以外”っていうのも付けておいたほうがいいかな」
「間違っちゃいないがその響きはあんまり好きじゃないな。何も付けなくていい」
「そう…」
アジラフェルは窓の外へ視線を移しながら、呟くように返した。見慣れた景色はどんどん遠ざかり、擦れ違うのは車ばかりで道行く人の影は無い。
「決してきみの嫌がる気持ちを否定するわけじゃないが、そんなこと?とは思ってしまうな」
「だから強いて言うならって言ったろ。大体、おまえはそもそも浮気性だし」
「聞き捨てならない」
「認めたくないだろうが真実だ」
「きみはつい今しがた「浮気ってのは悪いことだよな」とわざわざ確認しておいて、更に「じゃあおまえはしないだろ」と太鼓判を押しておいて、「そもそも」?「おまえは浮気性」?説明を求めるね」
「説明も何も、普段自分がしてることを思い返してみりゃいい。おまえは誰彼構わず「お茶でもいかが?」なんて優しく笑って自分のテリトリーに招き入れるだろ」
「誰彼構わずだなんてことはない。誤解してると思う」
「いいや違うね。誤解なんかじゃない。おまえはそういうやつなんだ。自分はどんな奴でも店に入れてやっておいて、なのにおれが自分の車の助手席に誰かを座らせると嫌なんだろ?」
「………」
クロウリーがあまりにもきっぱり言い切るので、アジラフェルは一旦受けとめて考えてみることにした。
…確かにそうかもしれない。
今クロウリーに嫌だと言われてそうしようと受け入れてはいるが、書店にやって来た客に我が物顔でサングラスを置かれることに関してはやっぱり何とも思わない。
自分はクロウリーの愛車の助手席に誰も座ってほしくないと思っているし、クロウリーがそうしないと言ってくれるのは当然だという感覚すらあるくせに。
「まあ…浮気性ってのは語弊があるかもしれないが、おれの視点での話だから敢えてそう言った。でも思い出してみろ、おまえの親切心をカモにしたり、時には特別なものと受け取って勝手に期待して執着して付き纏ってきた人間のことを。一度や二度じゃなかったろ」
「な…無かったとは言わないけれど。そんなに多くは…」
「親切にも程々ってもんがある。でもおまえは人間に対して分け隔ても際限もない。踏み込みすぎる。おまえはそれが天使の性質だと思ってるのかもしれないが、少なくとも他の天使どもとは比べるまでもないからおまえ自身の性分だ。実際救われた人間も多いだろうよ。美点と言ってもいいかもな。はた迷惑なお節介に終わるだけのときもあるが」
「…えっと…ありがとう?」
「褒めてないぞ」
「そう聞こえる」
「あっそ。おまえがそう受け取ったならそれでもいいさ」
「でも、それできみが嫌な思いをするのなら嬉しくない…」
膝の上で居心地悪そうに指を組みなおすアジラフェルに、クロウリーはふんと小さく鼻を鳴らした。
「褒めてないとは言ったが、別に責めてるわけでもない。おれも同じだ。誰かがそこに乗ることも、特別な席だと思ったこともない。勝手に乗り込んでくる奴だっているしな。そりゃ座ってたらうれしいのはおまえだが」
やはりきっぱりとした口調で言うクロウリーに、「そ、そう…」と何故かアジラフェルのほうが照れてしまう。
「あの、クロウリー。きみから言わせれば浮気性ってことになるのかもしれないけど…浮気じゃないよ。だって」
「特別なのはおれだけだからか?」
「うん」
「特別だから、書店の変な置物をサングラス掛けにもできるしな」
「ふふ…」
思わず笑ってクロウリーのほうを見ると、クロウリーも口の端を上げて応えた。
「ここをわたしの席だと言っていい?」
「とっくにそうなんだろ?」
「きみにもそう言ってほしい」
「そこはおまえの席だよ、アジラフェル。これでいいか?」
「うん」
アジラフェルはクロウリーの手を握りたかったが、さすがに弁えて留めておいた。ああこの葛藤も、特別な自分だけのものだろうなと思うとそれも嬉しかった。もどかしさが嬉しいなんて初めてのことかもしれない。
「あのサングラス掛けもきみのものだよ」
「どーも」
「もしわたしが約束を忘れて誰かに使わせてたら頬を引っ叩いてもいいよ」
「するわけないだろ、そんなこと」
「まあ、そうだね。戻ったらすぐプレートを置くつもりだし」
「本気で言ってたのか?」
「もちろん。今夜にでも作るつもりだ」
クロウリーがこのまま向かう先で朝まで飲んだくれようとしている計画をまだ知らないアジラフェルは胸を張って答えた。
「きみへの愛を形として証明できるんだ。それってすごくうれしいことじゃないか?」
「ただの例え話ってこと忘れてないか?おまえは浮気性だが、浮気はしない」
「もちろんしない」
「時々おれのことを蔑ろにはするが」
「しない」
「そうだな。今のは冗談だよ」
「なにか含みがあるね」
「おれもそこにプレートを置いたほうがいいか?」
今度は悪戯っぽく言うクロウリーの横顔を見ると一瞬こちらを向いて、それからやっぱり二人で笑った。
クロウリーが笑ってくれると安心する。いつも不安を感じているわけではないけれど、ゆるされたような気持ちになるのだ。自分がではなく、クロウリーの心を。
ふっと辺りが暗くなったのに気付き、アジラフェルは空を見上げた。濃い雨雲の下に入ったらしい。フロントガラスに雨粒がぶつかるとん…とん…という小気味の好い音も聞こえだした。進む先を見てみれば、確かに雲は厚いものの既にその終わりも見えている。すぐに通り抜けそうだ。
さっきまでは比較的明るかった窓の外の様相はすっかり変わり、建物に代わって緑が増えた。朝でも夜でもどんな季節でも、アジラフェルはここで過ごした記憶を持っている。この前は運転席からの景色も知った。クロウリーはこんなふうに道の先やすれ違う車を見ていたんだなと何度となく思ったものだ。
それでもやっぱりアジラフェルが座りたいのはこの席だ。
いつかクロウリーにもこの席の眺めを教えてあげられたらいいなと思う。おそらくだが、ここから見る景色は知らないだろうから。
走るベントレーが窓につたわせる雨粒は彗星のように見えること。道行く人と意外と目が合うこと。
夜の間や、こんなふうに天気の陰っているときは、窓に反射するきみの横顔がよく見えること。そして外を見ているふりをしてそれを見つめるわたしのこと。その時間が心から大好きなこと。
誰にも知られたくないな…と思ったとき、突然それがすとんと腑に落ちた。
「…ああ。わかった」
見つめていた綺麗な横顔が揺らぎ、アジラフェルの呟きに反応してちらりと一瞥する。少しもったいないような気もするけれど、今日はこれをひとつ教えてあげよう。
「他の誰かに代わられたくないということは、それがすごく好きってことだ。きみがあの像にサングラスを置くというのは単にそれが好きってことではないだろう」
「まだその話か?」
「きみはわたしの書店の中で自由に振る舞うことと、わたしにそれを許されていることが好きなんだ」
「そうなのかもな」
「わたしもね、クロウリー」
クロウリーの適当な返事など意にも介さない。どうせ真面目に答えてくれる気など無さそうだし、伝えると決めたら早く教えたかった。
「ここに座って外を眺めていたら、時折ふと、窓の向こうではなくてそこに反射した自分ときみが映っていることに気付く。わかるだろ?夜の暗いうちはほとんどずっとだ」
「ああ」
「きみが大事にしている車にわたしは乗っていて、そしてそれが当たり前みたいに、隣で運転をしているきみも映る。すごく嬉しい気持ちになる。胸がぎゅっとなる。たまらなく愛おしくなるんだ、きみが。きみがわたしがここにいるのを許してくれていることが嬉しい」
「…そりゃ口説き文句か?」
「さっききみが言ってくれたのはこういうことだろ」
「随分とロマンチストだな、天使様」
クロウリーは無愛想にそう言い捨てた。
アジラフェルは少しも気にならなかった。伝えたかったことが言えた満足感しかなく、これから自分が窓を見つめる度にクロウリーは少しはそわそわしたりするのだろうか…とこっそり微笑んでいた。フロントガラスに薄らと反射した自分の姿を見つめる、サングラス越しの黄色い瞳には気付かずに。
それからしばらく黙っていたクロウリーが、突然、はっと何か思いついたように息を吸った。
「スラップスティックだ」
「何?」
アジラフェルは少し驚いて、考えるよりも先にクロウリーに顔を向けた。突拍子も無さ過ぎてなんと言ったのかさえ聞き取れなかった。
「スラップスティック。楽器だよ。二枚の薄い木の板を蝶番か何かで留めて、打ち付けて鳴らすんだ」
「…なるほど」
何のことだかさっぱりわからなかったが、しみじみと納得しているクロウリーの様子に合わせてアジラフェルももっともらしく頷いておいた。
楽器について何か引っ掛かりそうな話題が無かったか思い返してみるものの、公園での出来事などすっかり記憶の端に追いやっていたアジラフェルには見当もつかなかった。
この話はそこで終わった。