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或る箱庭

全体公開 或る話 6940文字
2024-09-05 18:03:09

いつでも羽の下にあるという話 / アジクロ

Posted by @otohitoe_



という小さな唸り声が発せられていたのはアジラフェルが気付くよりももっと前からかもしれなかった。
とにかくそれを聞いたアジラフェルはすぐにベッドに近寄り、こちらに背を向けて眠っているクロウリーの顔を覗き込んだ。額には汗が浮かんでいる。

「クロウリー」

ベッドに乗り上げて肩を抱き、仰向けにするように引き寄せる。それでもまだ目覚めないクロウリーの顔を撫で、もう一度はっきりと「クロウリー」と呼び掛けた。
険しく寄せた眉はそのままに、ほとんど黄色しか見えない目が覗く。
額に張り付く前髪を指先でそっと払ってやると、クロウリーはどこかたどたどしく瞬きをした。アジラフェルのことは認識できているらしい様子に少し安堵する。

「大丈夫?」
………
「すごい汗だ。ちょっと待ってて」

眉間にキスをして、アジラフェルはぱたぱたとキッチンへ急ぐ。
水を注いだグラスと洗い立てのタオルを持って寝室に戻るとクロウリーは体を起こしており、クロウリーのために最近導入された枕と元からあったクッションとを背凭れに座っていた。目は、もういつもの瞳に戻っていた。

「アジラフェル」
「水を、クロウリー」
「大丈夫だ。なんでもない」
「持って」

否応なしにグラスを持たせ、アジラフェルは隣に腰を下ろす。ひと口含んだだけですぐに返されたグラスを受け取ってデスクに置き、次に汗ばむ顔をタオルで包んでやる。クロウリーは黙って受け入れていた。

「嫌な夢を見た?ごめん、気付くのが遅くなって」
「なんでもないって
「顔が真っ青だよ」

もっと早く気付いてやれればよかった。クロウリーが夜に眠るとき、アジラフェルはベッドの隣に置いたデスクで過ごすのが何となく慣例になっており、この夜も普段通りクロウリーが静かな寝息を立て始めたのを確認してから今朝買ったばかりの児童向けの小説を読んでいた。ハルマゲドン騒動の折に思いがけずジャスト・ウィリアムシリーズがコレクションに並んだのがきっかけで、時折こういった児童書も楽しむようになっていた。文字は大きく行間は広く、易しい言葉で綴られた物語はどこを読んでも漂う愛があたたかい。時には、それまでのアジラフェルのイメージ通り少々センセーショナルな描写もあったが。
この優しい気持ちでクロウリーの傍にいたならきっと彼も安らげることだろうと、何となく勝手に思っていた。大きな間違いだったらしい。
アジラフェルはクロウリーの体を抱き寄せて、肩から腕を力強く撫でた。そうしているうちに初めは強張っていた肩も次第に力が抜け、預けられる重さが加わってゆくにつれてアジラフェルもほっとした。

「わたしの夢?」
「いいや」

シーツの上にだらりと投げ出された手を掬い取って自分の膝に乗せ、冷え切った指先を掌に包んで温める。

「おまえとは全然関係ない昔のことだ。昔すごく嫌だった記憶で
「それじゃあ、ここにいてもいい?」
「うん」

クロウリーはアジラフェルの肩にぐりぐりとこめかみを押し当て、深く息を吸い、それからゆっくり吐き出した。アジラフェルの体温が仄かに移った親指が指先を弱々しく撫でる。まるでこちらのほうが労わられているようだ。いつもと変わらない、いじらしい優しさだった。
アジラフェルもクロウリーの柔らかい髪に頬を擦り寄せ、鼻腔を擽る彼の香りをこっそりと喫した。

「わたしはきみの気持ちを少しは軽くすることができる?」
「もうできてる」
「ここにいるのはわたしがしたくてしていることだから、きみがわたしにしてほしいことはあるか知りたい」
わからない。試してみてくれ」
「じゃあ、まずキスから」
「ん

すい、と顎先に指を添えて持ち上げ、唇に触れるだけのキスをする。丸めた指の背で頬を撫でるとくすぐったそうな吐息がクロウリーから漏れた。

「どう?」
「かなりいい」
「もっとしてもいい?」
「うん

シフォンケーキのようにやわらかい唇を、上も下も端から端までゆったりと食んで堪能する。頬に鼻先が触れるのが可愛くて心地好い。
肩を抱く手につい力が入り、口づけがほんの少しだけ深くなる。

「アジラフェル」
「うん」
「アジラフェル
「クロウリー、抱きしめさせて」

アジラフェルがそう言うと、クロウリーはちゅっとはっきりとリップ音を鳴らしてから顔を上げ、両腕でアジラフェルの体に抱き縋った。アジラフェルも抱き返してそれに応えると今度は膝に乗り上げてきた。アジラフェルは自分にできることがあるのも、クロウリーがそれを求めてくれるのも嬉しく思った。
うなじから背中、腰までをゆったりと撫で、反対の手を折り曲げられた足にそっと這わせる。昼間の装いと比べれば随分ゆったりしたパジャマのズボンの裾は足首を覗かせており、丸い踵が天井を向いていた。触れるとやはり少し冷たかったが、これくらいならいつも通りの範疇だ。

「きみは足の指も可愛い。つやつやの宝石みたいで」
「自分の話か?」
「いいや。きみの足。自分で見てみたらいい、意外としっかり見たことないだろ」
「ある
「へえ」
「おまえは寝ないから靴もめったに脱ぐことないし、必要もないし、だからあんまり見たことないんだ」
「最近観察したよ」
「観察?」
「きみの体を見たり触れたりするようになって、自分のも気になって比べてみたんだ」
恥ずかしいやつ」

クロウリーは顔を上げ、アジラフェルの両肩を肘掛けのようにして伏し目がちに覗き込む。アジラフェルは何も言わず、同じようにただ見つめ返した。蕩けるような甘い眼差しが注がれて目の奥がじんわりとあたたかくなる。愛に色があるとしたらこの瞳の色であってほしい。そんなばかばかしいことを考えてしまうほど、愛おしくて困ってしまう。真っ直ぐに向けられるクロウリーの気持ちにどう応えたらいいのか、その方法のバリエーションをアジラフェルはまだあまり持っていない。
なのに、クロウリーは上手かった。眼差しだけでなく触れ方や体温、呼吸ひとつであっさりとそれをやってのける。アジラフェルがそうであるように、クロウリーだって誰かを特別に愛するということにかけてはアジラフェルただ一人へのものしか知らないはずなのに。

「クロウリー」

結局、沈黙を破ったのはアジラフェルのほうだった。

「顔色が良くなった」
「そうか」
「わたしのおかげかな?」

わざとらしく首を傾げたアジラフェルに、クロウリーも眉を上げて「そうだな」と大袈裟に頷いてみせ、それからふっと笑って口づけてくれた。

「自惚れていい?」
「だめだ」
「どうして」
「だめだ、おまえは調子に乗ると面倒だから」
「めんど悪しざまに言いすぎじゃないか?」
「怒ったか?」
「怒ってはいないけど」
「けど、謝るべきか?」
「きみが謝りたければ」
「謝ってほしい?」
「謝罪の気持ちがあるならまず出てこない台詞だね」

お互いの唇を啄みあう合間、くすくすと実のない話を重ねる。クロウリーを強張らせていた緊張はすっかり消え、おとなしくアジラフェルに身を委ねていた。

「眠ろう。今度はきっと素敵な夢を見るよ」

そう腰を撫でると、クロウリーの柔らかかった目元が不意にじわりと真摯さを帯びた。
クロウリーの眼差しは大抵の場合わかりやすく雄弁だった。だからサングラスで隠しているのかも。

「アジラフェル」
「ん?」
「一番容易くおれをどん底に突き落とせるのはおまえだが」

突拍子もない話だった。そんなことしない、といつもならすぐに言葉を挟むところをアジラフェルはぐっと堪えた。が、せっかく堪えてもそれをクロウリーが汲み取れないはずもなく、「おまえはしない」とアジラフェルが飲み込んだ言葉に勝手に答えてくれた。
それに一旦は胸を撫で下ろしたものの、わかっていてなおそんなことを言うクロウリーのことをアジラフェルはまだわからなかった。なにせクロウリーは速すぎるのだ。

「おまえはおれの弱みなんだ。おれはおまえのことをどうしても放ってはおけないし無視できない。何があっても助けてやりたい。けど、その弱みが時々自分からおれを困らせてくることもある。たったひと言でおれの全てを封じるし、おまえのためにそれまで緻密な計算を重ねて積み立ててきた計画でも全部投げ捨てたこともある。信じろと言われればどんなに荒唐無稽な言い分でも信じた」
ええとごめん、なんて言ったらいいのかわからないけど」
「それでも構わないって話だ、アジラフェル。別にいい。いいんだ、おれは。そんなのはどうだって」
「いや、きっときみの言うことは尤もなんだと思う。今ならよくわかるよ」
「おまえがいたから耐えられたこともある。たくさんな」

クロウリーはアジラフェルの言葉を遮るように話を続けた。そんなことは本題ではないと言わんばかりに。
あまりにも真に迫るその濡れた瞳に、アジラフェルは思わず息をのんだ。身を貫いて動けなくするような、そんな美しさだった。

「おまえが地球にいて、一緒に飯を食って、どうでもいい話をしてくれるおかげで耐えられたんだ」
「クロウリー
「なあ、もう嘘でもおれのことを嫌いだとか友達じゃないとか言ってくれるなよ。おれにはおまえだけでよくて、それが叶っちまった今、そのおまえがおれから離れるなら、もう今度は耐えられないかもしれないおれはもう、」
「どこにも行かない」

今度はアジラフェルがクロウリーの言葉を強い口調で遮った。

「どこにも行かない。きみが好きだよ、クロウリー」

焦点を合わせるのが難しくなるほど顔を寄せ、目にはクロウリーだけを映した。そうすることで自分にも同じだけの信実があることを伝えたかった。
伝わったかどうかはわからないが、クロウリーは目を細め、知ってる、と囁くように答えた。それで充分だった。

本当はわたしの夢を見たんじゃないか?」
「違う。それは本当に違う

首を揺らしてきっぱり否定するクロウリーに嘘はなさそうではあった。

「よく夢を見るの?」
「いや。ごくたまにしか」
「たまにしか見ないのに嫌なのを引いたのか。今夜はついてなかったね」
「そうだななあ、夢の話はもうやめよう」
「ああ、ごめん
「また気が沈んできた」
「キスしよう」
「ん」

愚図る子供のようなせりふで眉尻を下げてみせるクロウリーを、アジラフェルも宥めるふりで再び唇を重ねた。
体の隙間を埋めるように背を抱く力を強めると、すると引かれたクロウリーの手がアジラフェルのタイに触れ、きっちりと結んでいたリボンがただの紐に帰す。長い指先はそのままウエストコートのボタンにも伸びた。ボタンや時計が押し付けられて痛かったのかもしれない。

「さっき言ったこと全部忘れてくれ」
「全部?」
「全部」
「わかった」
「忘れたか?」
「何を?」

できるだけきょとんとして尋ね返すと、クロウリーは小さく、よし、と呟いてから、「なんでもない」と肯いた。
望まれるままにタイもウエストコートも脱いで足元に遣り、抱きしめなおそうとしたアジラフェルの胸元をクロウリーの指はまだ探っていた。シャツのボタンも上から順に外していくクロウリーの意図がわからず、そっと顔を見上げる。

「ええと
「肌に触れたいだけだ。そういうんじゃない」
「なら、きみも肌を出したほうがいい」

アジラフェルもクロウリーに倣って黒いパジャマのボタンを外し始めたものの当然遅れを取り、まだ最後のふたつほどを残しているのにも構わずクロウリーはアジラフェルのシャツの中に両腕を差し入れた。
ひとまずそれに応えることにして、クロウリーに覆い被さるように体をベッドに横たわらせると、何故か怪訝な表情がアジラフェルを見上げていた。

「なんで押し倒すんだ?」
「あれなんか癖で」
「ふ

癖、とクロウリーが顎を上げて復唱する。

「癖な」
「何か言いたげだね」
「いいや?」
「おいで」
「うん」

小さな頭の下に腕を差し入れると、クロウリーは上側になった左半身だけ袖を引き抜き、再びアジラフェルの背に回した。喉に擦り寄るやわらかい感触、ふふと小さく笑う声。触れあう肌の間で混じる体温が手放せないほど心地好い。

「きょう
「ん?」
「今日いや、夜が明けたら何曜になる?」
「何か予定が?」
「定休日じゃないよな?下におりるとき、起こしてくれ」
「気にしなくていい。きみが起きるまでこうしてる」

腰のあたりでぐちゃぐちゃに丸まっていたシーツを引き上げ、クロウリーの体を包みながら頭の頂に口づける。約束の証のつもりだった。
クロウリーがすっかり自分の腕のなかにいるというのは気分が良く、行儀よくまとまった両脚を自分の脚の間に捕らえるとアジラフェルはいよいよ満足した。何日でも店を閉めていてもいいと本当に思った。

「ほんとにか?」
「ああ」
「ふうん

クロウリーは適当にも思えるような返事をしたあと、ひとつ大きく深呼吸をして、それからぱったり静かになった。好きなだけあって眠ろうと思えば易々と寝入ることができるらしい。
耳を澄ませば微かに聞こえる深く穏やかな寝息、胴に乗る腕や背に回る手から力が抜けていくことがアジラフェルにも安らぎを与えた。

クロウリー。
きみが安らぐ場所でありたい。嵐吹く夜でも、いつでも廂のもとにあることを忘れないでいてほしい。あの日からずっと、わたしにとってきみがそうであるように。












「クロウリー、起きて」

耳元で呼ぶ声に、クロウリーははっとして目を開けた。よく知った天使の顔だ。

「ごめん、今朝早くから一時間おきに誰かが訪ねてきてるみたいで、そのあと電話が五分鳴り続けて、今また誰かがドアをノックしているようなんだ。だからちょっとだけ行ってくるね。ほんとにちょっとだけ」
……ああ

眠りの淵から引っ張り上げられたばかりの頭では何ひとつ理解できなかったが取り敢えず返事だけはしておいて、アジラフェルの「ごめんね、すぐ戻るよ」と言いながらのキスを受け入れる。
アジラフェルは落ち着かない様子でベッドから下りて寝室から消えていった。ぱたぱたと階下へ急ぐ足音がここまで響いている。

クロウリーは唇に残るキスの余韻を味わいながらシーツに潜り、アジラフェルに言われたことを思い返す。何やら長々と言い訳のような説明をされたが、とにかく来客があったというようなことを言っていたと思う。
外は明るく、もうすっかり午後の陽射しだった。店を開ける時間はとっくに過ぎているだろう。
アジラフェルが今対応しているであろう訪問者。古書店の客にしては急ぎの様子だったからおそらく違う。きっとまたご近所付き合い絡みの問題だ。それにしたってアジラフェルが定休日でもない日のこんな時間まで一緒に横になっているだなんて。まさかアジラフェルも眠っていたわけじゃあるまいと冴えてきた思考に、ふと違和感が邪魔をする。
探ってみると、シーツの中の自分の体だった。何故か左半身だけ袖を脱いでいる。それもボタンの下の方は留まったままという奇妙な状態で。いくら寝相が悪くてもこんなことにはならないだろうと困惑したが、すぐにああそうだ、そういえば夜中にそんなこともあったと思い出した。うなされていたところをアジラフェルに起こされて、それで、なんかいろいろ喋ったんだ。そうだ、そうだったと甦る記憶の最後のほう、アジラフェルがしてくれた力強い約束を思い出す。

確かに、おれが起きるまで抱いていてくれたな。
決して約束が破られたわけではないが、守られたとも言い難いんじゃないか?でもまあ、なんともあの天使らしいことじゃないか。
クロウリーは慌ただしく起こされたことなど気にならないほどそれが愉快で、留まっていたボタンも全て外して脱ぎ捨ててしまい、大きく仰向けに寝転んだ。

ふと、そういえば眠る前にアジラフェルのシャツのボタンを全て外したことを思い出す。まさかあの格好のまま応対してたりしないよな、と若干の期待を込めた想像が働く。まさかな。

それほど待たずして、アジラフェルは寝室へ戻ってきた。まず確認するのは当然シャツのボタンだ。一番上のボタンまでぴっちりと留まってある。さすがに気付いたかと判断しかけたもののアジラフェルは神妙な面持ちで、クロウリーは自分の想像が杞憂にはならなかったことを覚り、くつくつと笑った。

失敗した」
「だろうな」

気まずそうな声色がいっそう可笑しい。訪問者だってかわいそうだ。いつでも品行方正な古書店の店主が、昼もとっくに過ぎたこの時間に、シャツを開けっ広げた格好で慌てて出てきたんだからな。

「客がどんな顔をしてたのか、教えてくれよ。アジラフェル」

クロウリーは手を伸ばし、アジラフェルをベッドに誘なった。









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