@otohitoe_
「髪を伸ばす予定はないの?」
スマートフォンにばかり構っているクロウリーへのささやかな抗議のつもりで、うなじの短い髪の毛先を撫でる。アジラフェルがこの後頭部を見つめ始めてから一時間以上は経った。
ベッドの広さにはまるで頓着せずまっすぐコンパクトに横たわるクロウリーが何をやっているのかというとなんとゲームだ。スマホの。人間が人間向けに作ったただのゲーム。いつでもできる、何なら暇潰し用に作られたはずの、本当にただのゲーム。
クロウリーは世の中にごまんとあるような至って普通で平凡で凡庸で月並みのタイルマッチパズルを何故だかいたく好んでいて、これをやり出すと下手したら日は暮れるし夜も明ける。
まあそれは言い過ぎにしても、大抵の場合アジラフェルのことなど放っておかれる。これの何がそんなに面白いのかアジラフェルにはさっぱりわからなかった。
「急になんだ?」
返事をしてくれるだけましだと思うことにして、折り曲げた右腕を頭に敷いたまま首を少し伸ばすと、頭越しに横向きに持ったスマートフォンの左半分だけが見える。可愛いのかすら判断しづらい動物の絵がクロウリーの指先で消されてゆく。これの何がそんなに夢中にさせるのか、アジラフェルにはやっぱり本当にわからない。
「前はちょくちょく変えてたよね」
「長いとちょっと面倒なんだよ。仕事の邪魔だから結う必要があるし、結ったら結ったで動いてると緩むから、作業の多いときは日に何度もやり直さないといけないし」
「そういう手間がなかったら伸ばす?」
「伸ばしてほしいのか?」
くっと仰け反るようなリアクションでほんの少し近付く距離、たったこれだけのことで嬉しくなってしまい体を寄せて抱きしめる。こっそり頭にキスもした。
「そういうわけじゃないけど。ロングヘアのきみには随分長いこと会ってないなって」
髭を蓄えていた時期もあったが、髪型の変化が少なくなったのと同様、片方の瞳の色が変わったあたりからはそれもぱったり見なくなった。
「んん…どう思う?」
「似合うかって意味?」
「そう」
「わたしに訊いても仕方ないと思う」
「どういう意味だ?」
「何だって最高に似合うよとしか言わないから」
「自分で言うな」
「本心だけどね」
「だろうな」
「ふふふ…」
アジラフェルはクロウリーのこういうところが大好きだった。自分に愛されていることを知っているところ。
「今日から少しずつ違和感のない速さで伸ばしたら、ちょうど夏には結べるようになりそうだね」
前に回した手で平べったいお腹を撫でながら、この辺りまで伸ばすにはどれくらいかかるのだろうとぼんやり考える。入浴も大変だろうな。たっぷりの長い髪は洗うのも乾かすのもひと苦労だろう。呼んでくれれば毎日でも喜んで世話するけど。手入れだけじゃなくセットだって任せてほしい。誰より上手く扱ってみせる自信がある。
遠い昔、ウェーブがかった長髪を靡かせていた天使の姿を思い起こす。真っ白のシーツに映えるのは間違いない。いや、シーツは黒でもいいな。ゴールドもいい。グリーンも…ああ、グリーンだな。深いグリーン。これがいい。その上にあの美しい柳髪を散らして、ひと筋残らず毛先まで愛でたい。彼自身を飾るのも良い。御簾の隙間を覗くように、その合間から高貴でしなやかな背に口づけたい。ああ、それができたなら…
「そうだな…」
邪な気配を察知したわけではないだろうが、クロウリーの呟きはアジラフェルのシミュレーションを阻害し意識を現実に引き戻した。
「今度一日だけ長くしておいてやる」
「え、本当?」
「一日だけだぞ。人に見せられないから、ここかおれの家からは出ない」
「割といつも通りだね」
「それか、知り合いがいないくらい遠い場所に行くか」
「ああ、それもいいな…」
このうきうきとした気持ちを覚られないよう、今日のところはまだ短いままの髪に鼻先を埋める。花に似てほのかに甘い、いつもと変わらないアジラフェルの世界で一番好きな香り。けれど実は場所によって微妙に違いがあることも判明している。髪はよく晴れた冬の朝のニュアンス。うなじは春の昼下がり。他の場所は今は割愛。
香りよりも味のほうが詳しい指先は、相変わらず無機質な機械の板をぺたぺたと可愛がっている。我ながら清々しいほど悪魔だな、見てたら機械にまで妬けそうだ。
「それ、音も出るんだろ?出していいのに」
「いつも音出してやってないから別にいい」
「うまくいったら鳴き声がするとかないの?」
「そういうのはない。普通の効果音が鳴る」
「ふうん…」
聞けば聞くほど不可解さが増す。せめて鳴る音が可愛いとか気持ちいいみたいな感想が返ってくればまだ少しは理解しようもあっただろう。
「でも、そうだな。鳴き声がしたらいいよな。…いや、難しいのもいるかも。魚とか。サメって鳴くのか?」
「え…どうだろう」
サメ。確かにクロウリーの指の先にサメの絵もある。左右に出っ張った妙な形の頭をしていて、その先端に目が付いてるやつ。言葉にすると奇妙すぎる。なんだこの生き物。絵だって全然可愛くない。ウサギとかパンダとかはわかる。イルカなんかもまあわかる。なんだそのサメの絵。サメって括りでももっと色々いるだろうに、よりにもよってなんでそれなんだ。
これだったら絶対自分のほうが可愛い。絶対、わたしのほうが可愛い。いくらつついてくれてもいい。消えないからつつき放題だし。
決してその不満をぶつけるわけではないが、薄い耳朶の裏側や首筋に擽るように唇を触れさせる。
「んん…アジラフェル、くすぐったい」
「キス好きだろ」
「好きなのは口にするやつだ」
「じゃこっち向いてくれる?」
「ん…」
クロウリーは考えるように小さく唸った。唇をきゅっと引き結んだ顔をしていると思う。どうせまた適当にあしらわれるだろうと思っていたこともあり、悩む余地があるらしい反応を見せられるとどうしても期待を抱いてしまう。無駄だとわかっていてもどうしようもない。
「今ちょっと忙しい…」
「言うと思った」
「んふ、こらやめろ、アジラフェル」
想定の範囲内どころかど真ん中の返答だった。悲しくも裏切られなかった期待にわざとらしく怒ってうなじに噛み付く。クロウリーが擽ったさにくすくすと笑って身じろいだその隙に曲げていた右腕を伸ばして滑り込ませると、クロウリーもよく心得ているらしく従順に頭を乗せてすっぽりと腕の中に収まった。ついでに、ちょうどいい具合に届いたスマートフォンを抜き取る。
「あ、」
「持っててあげる」
「いいけど、動かすなよ」
クロウリーは警戒しているのか、スマホを持つアジラフェルの手を包みベッドとの間を隔たった。
せっかく持ってやったというのに結局さっきとほとんど変わらない。クッションに上体を乗り上げているぶん、アジラフェルからは左半分しか見えなかった画面がよく見えるようにはなったが。
綺麗に整えられた爪の先が、とんとんとん、とテンポ良く三回画面をつつく。ずーっとこれの繰り返し。
「今の何?アンモナイト?」
「たぶん」
「選出がちょっと、なんていうか…ニッチだな」
「今そういう面なんだ。海エリア」
「大体はデフォルメされてて可愛いけど、だいぶ絵柄が違うのがちらほらいるの気にならない?イルカに比べて、その…何?赤黒くて丸いやつとか」
「アンコウ」
「虫みたいなのもいるし」
「トビウオ…」
クロウリーは肩を揺らしてくつくつと笑った。
「アジラフェル、退屈なんだろ」
「退屈とまではいかない。まだね。今のところ返事もちゃんと返ってくるし」
「本でも読んでろよ」
「やだよ。せっかくきみといるのに」
「ゲームしてるおれでもか?」
「そうだよ」
ちゅっと舌打ちにも似たリップ音をこめかみのあたりで大きく鳴らす。別にこの程度のことで腹を立てたりなんかしないけれど、相手をしてもらえると喜ぶ存在がすぐ真後ろにいることだけは忘れないでおいてほしい。
「全然構ってくれないし、振り向きすらしてくれないきみでも、他のことをするくらいならこうして抱かせてもらってるほうが絶対に良い。今世界で一番の幸福がこれだと知ってる」
「これが世界で一番?」
思いがけず振り向かれて胸がきゅんとときめく。急に視界に飛び込んできた顔が可愛くてびっくりした。自分がちょろすぎて呆れる。でもすごい多幸感だ。
「きみが振り向いてくれたから二番になった」
大真面目にそう言うとクロウリーは可笑しそうに目尻を細め、首を伸ばしてキスまでしてくれた。もうしばらくは無視されててもいいやとすら思っていたアジラフェルはまたもや驚かされた。
「クロウリー」
「三番目になったろ」
「うん…」
「ふ」
「あ…四番目になった」
「え?」
「うわ…どんどん順番が変わっていく」
「なんだ?何もしてない」
「でもほんとは全部一番なんだ。どれもすっごく幸せ」
「なんのことを言ってる?全然わからない、アジラフェル」
「ああそれも好き、可愛い」
「おまえ適当なこと言ってるだろ」
クロウリーは笑いながら仰向けに寝転んだ。
スマホを手放さなかった手も今やアジラフェルの右手にただ敷かれているだけで、もうほとんどアジラフェルの勝利と言ってもよさそうだった。あとはうまく気を逸らしてこいつを遠ざけるか、クッションの山の下にでも押し込んでしまえばこっちのものだ。
「嘘じゃない。ほんとにすごく幸せなんだ」
「あんまり悪魔がそういうこと口にするな」
「伝えたいから仕方ないだろ」
「伝わってるから大丈夫だ。ていうか、そっちもちょっと抑えたほうがいいぞ」
「そんなに出てる?」
「いつも溢れてる。だだ漏れだ。心配になるくらいに」
「それが理由で堕ちたんだけどね」
「そうなんだろうが…」
クロウリーは言葉尻をほんのり濁し、ばつの悪そうに片頬を歪めた。きみが気まずそうにする理由なんてないんだけどな…と思いながらその頬を解すように撫でる。天使にとっては忌避したい話題だろうが、アジラフェルからすれば極めてカジュアルな話に過ぎない。何たって自分自身の大きなアイデンティティである。人間の言うところの物心がついたようなものだ。天使のことを赤ん坊のようだと言っているわけではないが、まあ部分的には似たようなものだろう。
「おまえが悪魔だって忘れそうになるよ」
「試してみる?」
「試す?」
「キスを。天使様」
指の背を薄い唇に当て、そっと撫でて祝福をねだる。意図はすぐに伝わったらしく、クロウリーは大きい目を更に少し丸くして、思案するように視線を彷徨わせた。
「…あんまり気乗りしない」
「やってみて」
「………」
その逡巡も当然だったが、もう一度唇を撫でて促すと観念したらしく、クロウリーは指先を緩く交差させるように絡めながらアジラフェルの手を取った。そしてこの隙にスマートフォンをこっそりクッションの奥へ押し込む。アジラフェルがクロウリーを完全に奪い返した瞬間だった。
クロウリーの目が閉ざされ、呼吸ふたつ分ほどの短い祈り。そしていよいよ手の甲に唇が触れたその瞬間、じり、と皮膚の焼ける感覚。クロウリーはすぐさま顔を離したが、アジラフェルの肌には火傷のような痕がありありと残っていた。
「しっかり悪魔だったね」
「残念か?」
「ちっとも」
生まれたばかりの痕をまじまじと見つめるクロウリーの唇は当然何事も無く、自分が悪魔であることの証明以上に、クロウリーが天使であることを強く感じて嬉しくなった。
「痛かったろ。ごめん」
「わたしが頼んだんだからきみが気にすることはない」
「ちょっと祈りすぎたか…」
「どうせならきみの唇の形になればよかったのに」
「そうならなくてよかった。どれくらいで治る?」
「全然かからないよ。これくらいなら一日か二日で消える」
「ただキスしただけなのにな…」
「まあね」
じんじんと疼くような痛みも危険な遊びの余韻でしかなく、次第に治まっていくのに名残り惜しささえあった。
クロウリーは傷口の上にそっと唇を当てた。何の祝福でもない、ただ愛が満ちただけのいつものキスだった。ふに、ふに…と何度も丁寧に、上書きをするように。そんなふうにする必要はないんだけれど。
「おれからキスされたり、触られたりするのが怖くなったりしないのか?」
「当たり前すぎて答えるのも憚られるけど、なるわけがない」
訊かれると思った通りのことを訊かれ、わかりきった答えを伝えた。それはクロウリーにとっても同じだったろうけれど、わかっていてもわざわざ尋ね、わざわざ答えることの大切さを二人とも知っていた。
不意に、緩く絡んでいた指がきゅっと強く結ばれて引き寄せられたかと思うと手首の内側に口づけられる。直後、弱い電流のようなちりっとした痛み。
「クロウリー」
手を捉えたままに体を起こしたクロウリー。若干の嫌な予感。
アジラフェルを組み敷くように覆い被さったクロウリーは当然のように唇を重ねてきた。これは何事も無くいつも通りのキスだった。けれど次に首筋に当てられると、こっちはアジラフェルの予感した通りにまた慣れない熱が走った。
「うわ、」
クロウリーは何も言わないまま、頬や耳、胸元に淡々と口づけを繰り返す。時折祝福を織り交ぜて。
拒むわけにもいかず、悪戯と呼ぶにはちょっと強暴すぎるかもしれない襲撃をアジラフェルはただ受け入れるしかなかった。もちろんクロウリーに言った言葉は嘘ではない。祝福のキスはアジラフェルが望んでしてもらったことだし、痕が唇の形に残ればよかったのにと言ったのも、残る痛みの余韻を楽しんだのも本当だった。ただこう、ムードもなくぽんぽんと連発されれば戸惑うのは当然だろう。
対するクロウリーはアジラフェルの困惑などまるで気にする様子もなく、シャツの裾を捲ったかと思うと広い腹部のあちこちに唇を当てがった。
お互い慣れてきたのかそれほど痛みはないけれど、皮膚の薄いところを責められれば体は多少大袈裟に反応してしまう。
そのうちぱっと体を起こしたクロウリーは、何事も無かったような涼やかな顔で唇に噛みついてきた。これは、いつも通りのやわらかくてあたたかい普通のキスだった。
「怖くなったか?」
「なるわけないって言ったろ」
「…ふうん」
クロウリーは何故か面白くなさそうに鼻を鳴らし、アジラフェルの体を肘置きにするように隣に座した。
アジラフェルが捕まったままの左手を持ち上げて見てみると、甲ほどではないが赤い痕がしっかり残っている。人に見られるのはあまり望ましくない感じの痕だった。
「キスマークみたいだろ」
「自分じゃ消せないからまさにそれだな。わたしのお腹どうなってる?」
「三か所だけ痕が残った」
ひとつはここ、と繋いでいないほうの人差し指が脇腹のあたりをつついた。
「きみ、時々荒っぽいことをするんだから」
「もうしないほうがいい?」
「それはそれで惜しいけど…」
言い終わらないうちに、身を乗り上げてきたクロウリーに唇を食べられる。
「…んっ、」
…ここでそれは予想外だった。
「痛かったか?」
「ちょっとぴりっとはしたけど、全然」
アジラフェルの返答にクロウリーはにやりと笑った。舌なめずりでもしそうな、まるで捕食者の笑みだった。
「加減がわかってきた」
俄かに妙な艶っぽさを漂わせた眼差しで、クロウリーはゆっくりとアジラフェルの体を跨いで伸し掛かった。当然、さっきのキス以上に予想していない状況だった。妙な扉を開けてしまったのだとしたらどうしよう。
…まあ、でも、
「お手柔らかに頼むよ…」
こんな展開も、今はクッションに埋もれているあいつからの勝利の代償と思えば安いものだろう。