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或る悪事

全体公開 或る話 14668文字
2024-09-05 18:04:24

悪いことをしようとする話 / アジクロ

Posted by @otohitoe_



「迷ってるのか?」
「うーん
「どうせすぐ平らげるんだから今迷ってるやつ全部頼め。すぐに腐るようなもんでもない」
「だから最初に“絶対二枚にする”って決めたんだよ」

スマートフォンに映し出されたデリバリーピザのメニュー表を慎重にスクロールするアジラフェルの後ろで、クロウリーは大きく溜め息を吐いた。

「時間がかかりそうだな」
「先に部屋に戻ってもいいよ」
「いやだ」

バスタブの中で前に回った手がぎゅっとアジラフェルの胴に巻き付き、肩に細い顎が乗せられる。平素はひんやりとしている肌が温かくて心地好い。

ふふ」
「なんだ?」
「きみの家の浴室で、デリバリーのメニューを見るなんて想像したこともなかったなと思って」
「そんなのおれだってそうだ」
「そう?きみなら想像くらいはしてそうだ」
「してない

このまま眠ってしまってもおかしくなさそうな蕩けた声に、アジラフェルは再び笑いを零した。
クロウリーの家のものはもちろん自宅以外のバスタブに入るのは初めてだったアジラフェルは、その広さと快適さに密かに感動していた。二人でも余裕で入っていられるし脚だって思いっきり伸ばせる。ようやく使い始めたばかりの自宅のものも新調すべきか考え始めているくらいだった。

今はこうしてクロウリーと一緒にバスタブで寛いでいるアジラフェルだが、クロウリーのフラットを訪れたのは当然このためだったわけではない。
この日の昼下がりに掛かってきた、クロウリーからの一本の電話がきっかけだった。

『しばらくそっちには行かない』

あまりにも一方的な連絡だった。

「何かあったの?」

大体来るときはいつも突然で、訪問前にわざわざ連絡をくれることのほうが稀なのに、わざわざそう言われれば気になるのは当然だった。

『何も無い。ただしばらく行かないってだけだ。じゃあな』
「待って!」

受話器の向こうは無音。切られたかな、と思っていると数呼吸置いてから『待ってるんだが』と声がしてアジラフェルはほっと胸を撫で下ろす。

「きみ、いま自分の家?」
『ああ』
「何も無いなら黙って来なければいいだけじゃないか。しばらくってどれくらい?三日?」
『わからない。三日程度かもしれないし、一週間か、一か月か、それ以上かも』
「絶対に何かあったね」
『無い。今度こそ切るぞ。じゃあな』
「今からそっちへ行く!」

アジラフェルは受話器に耳を預けたまましばらく待っていたが、クロウリーの言葉通り今度は本当に通話は切れているらしかった。
最後に咄嗟に口をついて出た言葉がクロウリーに届いているかは怪しかったが、それでも言ったものは言ったのだからとすぐに外出の支度に取り掛かった。支度といっても、ジャケットを外出用のものに着替え、帽子、それからボストンバッグを携えるだけだが。バッグの中身は久しく変えていない。確かこの前入れたショートブレッドとキャンディがまだ残っていたし、紅茶缶、それに幾つかの本も入ってあったはずだ。
クロウリーの住むフラットまでは書店からそう遠くはなく、アジラフェルはその足で赴くことにした。

アジラフェルの書店に比べれば随分冷たい雰囲気のドアの前に立ち、呼び鈴を鳴らす。正直会ってくれるかはわからなかったが、アジラフェルはそのドアの前で何日だって待っていてもよかった。
反応こそ無かったものの試しに回してみたドアノブの鍵は開いていて、アジラフェルはそろりと蛇の巣に侵入する。勿論、ドアの施錠はしっかりとしておいた。
あの声の調子ならきっと寝室にいるだろうと真っ直ぐに向かうと、やはり広いベッドの中心にちょうど人間一人分くらいの膨らみ。真っ黒のシーツから何も纏っていない肩口が露出している。

「クロウリー」

そっと近寄って顔を覗くと、クロウリーの恨めしげな眼差しと視線がかち合う。

「本当に来た
「やっぱり聞こえてたね」
「訪ねて来てくれたとこ悪いが、おれは寝るんだ」
「しばらく来ない理由はそれ?」
「そうだ」
「寝るからしばらく来ないって電話してきたの?」
「そうだって」
「わざわざそんなこと言うなんておかしい。普段なら何も言わないじゃないか。黙って来なければいい話なのに、前以て電話をくれるだなんて」
………

クロウリーは思案するように視線をぐるりと逸らし、それから、「本当にそうか?」と溜め息まじりに言った。

「ここのところはずっとおまえと一緒に過ごしてたろ。間を置かずしょっちゅう入り浸りになってた。それが急に来なくなったら、おまえが
「びっくりするんじゃないかって?」
………
わたしが、心配すると思った?」
………
「それはそうだね確かにそうだ。心配すると思う

アジラフェルはさっきクロウリーに言った「黙って来なければいい」という発言は誤りであると理解した。もし本当にクロウリーが何も告げずに急に来なくなったとしたら、きっと不安に思ったことだろう。朝も夜もなく傍にいるのがすっかり当たり前になっていたのに。
帽子と鞄を床に置いてベッドの端にゆっくりと腰掛け、シーツの外に出ていたクロウリーの手にそっと自分のそれを重ねる。

「きみは相変わらず速すぎる」
そうかもしれないが、そうじゃなくても、おまえだって遅いんだ」
「だから事前にわたしに電話をくれたんだね。でも、きみも言葉が少なすぎると思う。心配させたくないって素直に言ってくれたらよかったのに」
「言ったらおまえは来なかったか?」
「言っても言わなくても来ていた。きみだって本当はわかってたろ」
………

クロウリーは掌を返し、握り返した指の背を撫でながら「かもな」と答えた。

「それで、どうしてそんなに長く眠ろうとしてるんだ?冬眠でもする?冬眠するときっていつも裸で寝るの?」
「冬眠なんかしないし別にいつも裸で寝てるわけじゃない、言っておくが下着は穿いてる。はあこの際正直に言うが、調子が良くないんだよ」
「調子?」
「人間でいうならなんだろうな。なんていうんだったか不良不定不定愁訴
え?調子って体調のこと?きみの?」
「まあ、そうだ」

アジラフェルはベッドに乗り上げてクロウリーの顔をよりいっそう深く覗き込んだ。体調不良だって?悪魔が?そんなの聞いたことがない。
人間とほとんど変わらない肉体を持っているアジラフェルも病気になるようなことなどまずない。悪魔の体にはあるのか?親交のある悪魔なんてクロウリーしかいないが、これまでの長い付き合いで彼からそんなことを言われたのは初めてだった。

「えっと近くに教会でも建った?いや、それじゃわたしのところにいたほうがいいからわたしのところにいるのが良くなかった?この前買い取った聖書のせいかな
「違う。おまえは少しも関係ない。おまえの書店も、その聖書も」

クロウリーはほとんど俯せに近かった体を返し、アジラフェルを真上に見上げる。顔色はいつもとほとんど変わりないように見えるものの、眼差しにも声にも確かにどこか覇気がない。

「最近はずっとおまえと過ごしてたって言ったろ。それだよ。おまえと一緒にいると、おれは何にも悪いことをしない。お利口にしてるだろ」
それで?」
「終わり」
「は?」
「悪いことをしないから、調子が良くないんだよ。なんていうか、とにかくこう、いまいち
「いまいち?」
良くない。上手く言えないが」

悪魔にとって悪事を働くということは呼吸をするのと変わらない。しばらく悪いことをしないとなんだか体がむずむずして、気分が苛立ったり何もやる気が起こらなくなったり、悪魔にとって“いいこと”がない。地獄と縁を切ったクロウリーも悪魔という存在である以上当然それが変わることはない。
ここ最近は、家の鍵の滑りを悪くして抜けづらくするとか、自転車のタイヤの空気を入れるかどうか悩ましい絶妙な匙加減で抜くとか、擦れ違う若者という若者の鞄に入っているモバイルバッテリーやワイヤレスイヤホンのバッテリー残量をすっかり空にするとか、子供の悪戯レベルの些細な悪事をちまちまと働いてはいたもののそんなものでは追いつかなくなったらしい。ほんの少し前まではむしゃくしゃする度に面白いアイディアが湯水のように思い浮かんだのに、ここ最近はさっぱりだった。何も思い付かないし、なんだかそんな気も起こらないというか、アジラフェルと過ごす時間以外のことをあまり憶えていない。
というようなことを、クロウリーはぽつぽつと回りくどい言い方で語った。

「だから、惰眠を貪るっていう過ごし方をしようと思っただけだ。しばらく寝りゃ調子も戻る。たぶんな」
「たぶんって」
「まったく不便だよ、奇跡だってろくに使えやしないし。悪魔祓いにとっては絶好の機会だろうな」
「物騒なことを言わないで
「なにが物騒なもんか。おれには天使様の加護があるんだぜ」
「一人で眠るつもりだったくせに」
「でも今おまえはここにいる」
「結果論だ」
「何が悪い?物事が残すのは結果だけだ。それにおまえも自分で言っただろ、どの道ここには来てたって」
「きみ本当に調子が悪いの?」
「ふふ

眉を顰めたアジラフェルにクロウリーは笑って返した。それから、「見せてやろうか」と言うのと同時に空いているほうの指をぱちんと鳴らす。壁のクローゼットの扉が軽快に開いた。

「これだけ」
「何が?」
「奇跡もろくに使えないって言ったろ。おれができるのはせいぜい扉の開け閉めくらいだよ。天気を変えたり、人間の記憶をいじくったり、冷めたココアを温めなおすこともできない」
「そんな不安だろう、クロウリー」
「寝るんだから関係ない話さ。よかったなアジラフェル、今ならおれの車の色だって好きに変え放題だぞ」
「わたしに悪いことをするというのは?」
「なん何だって?」
「本当に眠るだけで良くなるとは思えないし、かと言って例えきみでも悪事を働くことをみすみす容認はできないしけど、わたしにするのなら構わない」
おれに、おまえに悪さをしろって言ってるのか?」
「よっぽど酷い悪さじゃなければ」
「そんなことするわけないだろ」
「それを信用してるから、いいよって言ってる」

クロウリーの長く筋張った指を撫でる。天使のアジラフェルには悪事なんてひとつも思いつかないし、“悪”と付くあらゆるものを受け入れるべきではないのだろうが、クロウリーが自分にと思うと、嫌な気持ちも、罪悪感すらちっとも湧いてこない。自分に罪の意識が無い事実に怯えていた頃もあった。ふたりが悪魔であり天使であることは弱点なのだと。
そんな時期も今では懐かしさすらある。お互いが違う存在であることに怯える必要なんて全くなかったのだ。むしろ自分がクロウリーと違う天使だからこそできることがあると早く気付くべきだった。
大体、一人として存在を同じくする者などいるわけがないのだ。悪魔は悪事を働く者であり、天使は赦しを与える者ではあっても、天使は天使でみんな違うし、よく知っているわけではないが悪魔だって全員違う。と思う。その中で、クロウリーはアジラフェルのたったひとりの特別な悪魔だということだ。クロウリーはアジラフェルの愛する悪魔で、アジラフェルもきっと間違いなくクロウリーの大事な天使なのだ。たったそれだけのこと。

クロウリーは撫でられている自分の指先を少しの間見つめたあと、何かを決めたようなもしくは諦めたような息をひとつ吐いて、ぽつりと「クローゼット」と呟いた。

「え?」
「今、おれが開けたクローゼットに」
「何か取ってくる?」
「おまえのパジャマがあるから」
……うん?」
「それ着て、おれの隣に来てくれ」

アジラフェルはクローゼットへ向けた視線を二度ほどクロウリーと往復させたあと、おずおずと近付いて中を窺ってみる。ここにわざわざ仕舞われているということはこのどれもが悪魔的な力によるものではなく人の手で作られた物質なのだろう。クロウリーらしく黒で統一された衣服が並んでいるが、扉の裏側に、確かに一着だけ上下とも限りなく白色に近いアイボリーのパジャマが隠されるようにハンガーに掛けられてあった。

わたしのパジャマ?」

振り向いて確認してみてもクロウリーはアジラフェルを見据えたまま黙っている。この問いに答える気はないらしい。

ええとじゃあ、着るけど」
………
「そんなに見られてるとやりづらい」
「なんだよ今更」
「ふーんだったらきみも、」
「わかったよ。ほら、これでいいだろ」

アジラフェルが言い終わらないうちに、クロウリーはシーツを引き上げて頭ごと潜り込んだ。
仕方なく着ているものを空いているハンガーに掛け、入れ替わりでパジャマを手に取る。
なんだか良くないことをしているような気持ちだった。クロウリーから自分への悪事、という話で了承したはずなのだが。
ふと、隣には同じ型と思われる黒色のパジャマも掛かっていることに気付く。サイズ的にも恐らくクロウリー自身のものだろう。それに、今ろくに奇跡を使えないということは、これらは以前からここに在ったということだ。わざわざ人間の店で色違いを買ったのか?

(一体いつから)

こんなの用意していたんだろう。
クロウリーのパジャマでアイボリーは絶対にない。間違いなく最初からアジラフェルのものとして購入したはずで、つまりそのうちアジラフェルをここに招く計画がクロウリーにはあったということだ。
訊いたら答えてくれるだろうかと、ボタンを留めながらちらりとベッドの膨らみを見遣る。クロウリーはシーツに潜ったまま、おとなしく待っている。

クロウリー」
「終わったか?」
「うん」

先程と同じようにベッドの端に腰を下ろしながら肯くと、クロウリーはシーツからそろりと目を出した。

「感想は?」
「わたしが言うの?うーんなんていうか、慣れなくて落ち着かない」
「楽だろ」
「まあ、そうかも」
「なかなか似合ってるじゃないか。これでおれの悪行ポイントにプラス1ってとこだな」
「本当にこんなのがポイントになる?」
「ばっちりだ。あとで鏡を見てみろよ。堕落に片足突っ込んだ天使様って感じだ」
「とっても良いカラーだけど、柄があっても良かったな。タータンチェックとか」
「わかってると思うが、それはただの布だ。人間が作ったごくごく普通の」
「うん。どこかのお店で買ってくれたんだよね?」
「おれがタータンのパジャマなんて、恥ずかしくて買えるわけないだろ」

恥ずかしくて買えるわけない、だって。
可愛らしいマジパン細工の人形が乗ったクリームたっぷりのケーキをお土産に持ってきてくれたり、パラソルの付いたカクテルを臆面もなく代わりに頼んでくれたりするくせに?
やめられると寂しいから黙っておくけど。

「でも、きみと色違いのお揃いっていうのはすごく気に入った。一緒に並んでいた同じ型の黒色のやつ、あれはきみのだろ?」
「ああまあ、そう
「ありがとう、クロウリー」
「礼を言うな」
「そうだった」

うっかりクロウリーの悪行の一環であるということを忘れて、いつも通り普通にお礼を言ってしまった。ここは叱らなければならないところだ。

「こんな素敵なもので聖賢たる天使を釣ろうとしたって無駄だ、惰眠に誘なう狡賢くて健気な悪魔め。その手には乗らないぞ」

お礼は言葉にはせず目頭へのキスで代わりにして、アジラフェルは戒めの言葉を連ねた。クロウリーは何か言いたげだったが口を噤み、促すように両手をアジラフェルの腕に這わせた。

「来いよ。アジラフェル」
「きみも着ればいいのに。せっかくお揃いなんだし」
「いいから。また今度な」

誘なわれるままにクロウリーの隣に寝そべり、同じ一枚のシーツを共有する。さすがに長年睡眠を嗜んでいるだけあって書店にある寝具とは手触りがまるで違う。肌を滑る感触はアジラフェルの知るどの布よりも心地好いかもしれない。アジラフェルは寝具の買い替えを真剣に検討することにした。勿論クロウリーのためだが、今はアジラフェルに縁の無いものでもないし。
アジラフェルは内心ほくそ笑んだ。クロウリーのためにできることがあるというのは何よりアジラフェルの心を満たす知恵だった。

(あ)

アジラフェルを真っ直ぐ見つめるクロウリーの双眸に、じわと愛が滲む。アジラフェルはこれを知っている。胸の奥がくすぐったくなるような心持ちにさせてくれるこの表情。目は口ほどに物を言うというがまさにそれだ。口数が減る代わりに眼差しは切なくなるほど甘やかになる。
そんなクロウリーの眼差しが、急にぴりっと温度を下げた。アジラフェルに走る若干の嫌な予感。そう、あろうことかつい先日この話を酔っ払ってうっかり話してしまったのだ。

『きみがわたしを好きだなと思っているとき、わたしにもちゃんと伝わっている。きみの愛は、まるで頬を撫でられているような、やわらかいブラシで髪を梳かれているような、何とも言えない心地好さがある。今まで知らなかった幸福がわたしの全身を包むんだ。ああ、きみにも愛が感じられたらな。わたしもきっときみに同じことをしてあげられるのに

と、丁寧に説明して聞かせたのだ。
クロウリーは押し黙って聞いていたが、冷静になったあとなら嫌でもわかる。あれは本人が知らない知らないままでよかった事実を赤裸々に、懇々と教えられて羞恥で何も言えなくなっていたのだ。この眼差しを向けられていたいのなら明かすべきではなかったのに。

アジラフェル」
「うん?」
「うしろ向け」
「うーん
「早く」

ああ絶対あれのせいだ。
アジラフェルは心底後悔しながら、しぶしぶクロウリーに背を向けた。
見えなくなるまでの厳めしい表情とは裏腹に、クロウリーはすぐさまぴたりと張り付いてアジラフェルを抱きすくめた。前に回ってきた手を握っても厭う素振りもなくむしろきゅっと握り返してくれる。
これはこれで全く悪くはないのだけれど。

「クロウリー」
「ん
「電話をくれてありがとう。きみが眠る前に来れてよかった」
「だから、礼を言うなって」
「本当に予想してなかった?電話を聞いたわたしがすぐ訪ねてくること」
「してない」
「期待も?」
「もうその話はやめろ
「怖くなかった?満足に奇跡も使えない状態で一人でいること」
「べつに
「わたしは怖いよ。こんなきみを一人にしておくのは」

強がりを言っているだけかもしれない無力な悪魔の手を、アジラフェルは労わるように撫でた。

「電話をもらってから心配したし、きみのことは本当に気の毒に思ってるけど、ごめん、わたしのせいじゃなくて良かったって思ってる
………
「本当に良かったって心から思うよ。わたしのすることがというか、わたしといることがきみに悪影響を与えるんだとしたら、どうすればいいのかわからないから」
アジラフェル」
「うん」
「ここに来たとき言ってたよな。最近買い取った聖書のせいかって」
「ああ、うん」
「おれがもしそうだって言ったら、おまえ、それ捨てるのか?」
クロウリー、そんなことを訊かないでくれ」
「怒るなよ。ただの例え話だろ
「敢えて答えるけど、手放すに決まってるだろう。当然だ。きみはわたしが一瞬でも悩むと思ったのか?きみを害するものをわたしが良しとすると思われているのは心外なんだけど」
………、」
「例え話だとしてもちょっと酷いと思うよ
そうか」
「そうか、じゃない」
「わかった、悪かったよ」
「もしきみにとって何か良くない影響を受けていて、その原因がわたしにあるのなら絶対に言って。なんかきみ、我慢するか一人で解決しようとしそうだから」
「言うよ」
「絶対言って。約束して」
「言うって。約束もする
「そっちを向いてもいい?」
「だめだ」

首の真後ろにやわらかいものが触れる。どさくさに紛れて振り向こうとしたアジラフェルをおとなしくさせる、見透かしたようなキスだった。ちょっと怒ったふりをした程度では折れてはくれなさそうだ。

「おまえも試しに善いことするのをやめてみろよ。おれみたいになるかもしれないぜ」
「そんなことできるかな?別にしようと思って善いことをしてるわけじゃないし」
「おれだってそうさ」

ただ押し当てるだけの優しいキスのあと、クロウリーは腕の力を強めてますます体をアジラフェルに寄せた。

「眠る?」
「なあ」
「ん?」
「おまえが、おれを心配して訪ねてきたのはそのうれしかった」
「それこそ当然だろう、そんなの
「何故?」
「何故って
「どうしておまえがおれを心配したり、訪ねて来るのが当然なんだ?」

うなじに触れたままのクロウリーの唇が低く尋ねる。
アジラフェルはクロウリーがそれを言ってほしいのだと察した。眠りにつく前のおまじないのようなそれを。
アジラフェルは前に回されているクロウリーの手を顔へ引き寄せ、祈るような心持ちで指先に口づけをした。

「きみを愛してるから。おやすみ、クロウリー」

言い終わるのとほとんど同時にクロウリーは頭を持ち上げて、改めてアジラフェルの首筋にキスをした。二度、三度と極めてゆったりと、丁寧に。それを返事の代わりにしたらしかった。
クロウリーが再び背後でベッドを沈ませたあとも首筋に残る余韻は熱を持ち続け、体の内側を巡る血のようにじわじわと全身に広がってゆく。
ぴったり三呼吸したのち、アジラフェルは漫然と体を起こしてクロウリーに覆い被さった。アジラフェルが思い描いていた通り、クロウリーは真っ直ぐにアジラフェルを見上げていた。あの蕩けるような眼差しで。

「クロウリー」
「うん」
「せっかくきみが用意してくれていたパジャマだけど、脱ぐことになってもいい?」

そう口に上せて、今のはちょっと天使的にまずい言い方だったかもとちらと思った。
きっとクロウリーにとっては安っぽすぎる文句だっただろうし、アジラフェルがそんな言葉を吐いたことに少しは驚いてもいいものだが、クロウリーは少しの動揺も揶揄する素振りも見せなかった。
アジラフェルの頬をゆったりと撫でた指先が、そのまま、つと首筋まで滑る。

「似合ってる」
「きみの見立てだ」
いいぜ。脱いでも」
「クロウリー」
「ん、っ」

勢いに任せて唇に噛みつくアジラフェルの顔を、クロウリーもまた逃すまいとするように両手で掴んで貪った。
キスの合間の息継ぎももう慣れたもので、瞳を閉じ込める白い瞼、繊細な睫毛をいとおしい気持ちで見つめる余裕だってあった。しかしその余裕のおかげで、アジラフェルははたと留まった。

「あ
「んどうした、?」
「きみ今、体の調子が良くないんだった。ごめん、やっぱりなし。ゆっくり休んで」
「アジラフェル」

クロウリーはこの上なく険しく眉を寄せてアジラフェルを睥睨した。思わず怖気づきそうなほどの、まるで悪魔のような表情だった。これはクロウリーにはつまらないと怒られるタイプのジョークだが。

「問題ない」
「でも
「いいからやめるな。続けてくれ」
「本当?」
「抱いてくれたほうが助かる」

そう言われた瞬間、アジラフェルははっと合点がいった。その表情からクロウリーも覚ったのか、本性を現すようににやりと口角を上げた。

「まさかきみ、」
「しばらくの間おまえをベッドに縛りつけてやる。おれの体から離れさせないぞ、アジラフェル。真面目な古書店の主人を堕落に誘って店をサボらせてやる。ああ、なんて悪くていい響きなんだろうな」
「最初からそのつもりだったのか?」
「それこそまさか。おれは本当に眠るつもりだった。おまえが来なければ今頃とっくに夢の中だ。でもおまえは来た。なあおれ達、やっぱり上手く出来てるよな

クロウリーは笑みを湛えたまま顔を寄せ、アジラフェルの唇に再び噛みつこうとしたが、アジラフェルは首を引いて届かせなかった。

待った。これで悪行ポイントが稼げるっていうのはおかしい。だって先週もしてるのに」
「アジラフェル」
「先週って言っても五日前とかそれくらいだ。なのにきみは弱ってるんだから、セックスが解決に繋がるとは考えにくくないか?」
「アジラフェル」

クロウリーはこの日二度目のしかめっ面を作った。前にある事柄について「数えるな」と怒られたことはあるが、もしかして日付けや日数もその対象なのだろうか。だとしてもやはり数えるのを辞めるつもりはないが。

「あとで考えよう。そんなことは」
「そんなことって、」
「そんなことだよ、アジラフェル。ほら、いいから脱げ脱げ」

ブレーキを踏むアジラフェルなどお構いなしに、クロウリーは限りなく白に近いパジャマのボタンを上から順に手際よくぷちぷちと外していった。

「なあ、特別好きな相手と夜のうちにセックスをするのは悪いことか?」
「違うと思う」
「じゃ、特別好きな相手だが仕事をサボって昼間っからセックスに耽ることは?」
たぶん、良くないと思う」
「そうだろ?」

留めるものがなくなって開け放たれたアジラフェルの上体に細い腕が伸び、しっとりとした掌が背に触れる。

「クロウリー
「おれのためだと思って、愛し合ってくれよ。アジラフェル」

抗いがたい誘い文句に、アジラフェルは諦めの溜め息を吐いてまんまと再びキスを落とした。

「は、」

艶めかしい吐息に耳を擽られながら、アジラフェルは既に裸同然の体を掌いっぱいで撫でた。上質な寝具は素肌にますます心地好いけれど、何故かクロウリーの肌のほうがずっと気持ちいい。それにやっぱり相変わらずすごく綺麗だ。いつまでだって触れていたい。
この頃アジラフェルの胸の奥に燻るような感覚がある。クロウリーに何をしたいか、どう触れたいか、そのイメージが夜を重ねるごとに明確にできるようになっていくからだと思う。
夜に眺める川の水面のような、反射しそうなほどの漆黒を背景にした光景は、視界でどう切り取っても美しく映えた。赤い髪も白い肌も長い手足もまるで飾られた芸術品のように。

「黒い服装を見慣れてるからかなきみは黒色のシーツによく映える」

力無く曝け出された肢体を見下ろしながら譫言のように呟くと、クロウリーはふと笑った。

「違う。おれは黒が似合うんだ

アジラフェルは心底納得した。
白もとっても似合っているけどね、のひと言は飲み込んで。

実は二人がクロウリーのフラットで過ごしている間、珍しいことにアジラフェルの書店に古書の鑑定依頼の電話と来訪が二件と一件、故人の蔵書の引き取り依頼の電話もあったのだが、アジラフェルがそれを知ったのは随分あとになってからだった。アジラフェルが携帯電話を持っていれば、あるいはこんなことも起こらなかっただろう。











「いったん休憩にしない?」

頬を撫でるアジラフェルにそう提案されたのは、空もすっかり暗くなりきっている時間だった。

「ん、ン

クロウリーは息を整える合間で肯いた。
ほどよい疲労感でふわふわ浮いてるみたいな感覚も、体中に残る愛された余韻もただ心地好い。

「シーツを綺麗にして、お風呂に入るのはどう?」
ああ、そうだなそれがいいかもな

あまり見たくないし考えたくないベッドの状態はアジラフェルに何とかしてもらうことにする。

「アジラフェル起こしてくれ
「うん」

ゆるく手を伸ばしつつ、両足はアジラフェルの腰を捉えながら強請ると、アジラフェルはクロウリーの体を軽々と抱き起こして自分の太腿の上に座らせた。
クロウリーはしてほしかったことが百パーセント叶えられたことに満足した。

「おまえ、なにか食うか?」
「あーなるほど、うーん、そうだな。そういえばもう半日何も食べてない」
「ピザでも頼むか」
「ああ!デリバリーだね?随分前に一度頼んだっきりだ」
「決まりだな。先に風呂だ」

アジラフェルの肩を支えにして膝から離れ、ゆっくりとベッドから足を下ろす。

「一緒に入るだろ?」

振り向いて尋ねると、アジラフェルは「うん」と微笑んでクロウリーのあとに続いた。
バスタブの中でクロウリーが逆上せそうなほどたっぷり時間をかけて選び抜いたピザが到着のチャイムを鳴らしたのは、二人がちょうどバスルームから出てきたときだった。だから言ったんだ、いちゃつきすぎだって。オーダーしたんだったらさっさと出ないとあっという間に来るぞって。だからいい加減キスしてる場合じゃないぞって。そんなとこにまでするんじゃないって。さっき散々しただろって。これ“いったん休憩”なんだろ、またこのあとベッドで続きをするんだろって。だから早く出ないとだめだって、おれは言ったんだからな。

急いでバスローブを羽織り、受け取りに向かおうとしたクロウリーを何故かアジラフェルが制止する。

「わたしが受け取ってくる」
「いいよ別に」
「いいから」

ぱちんという軽い音と共にアジラフェルもクロウリーと同じバスローブを身に纏った。ただし色はやっぱり白。
アジラフェルが受け取ったって本当は構わなかったクロウリーだったが、何か理由がありそうな雰囲気に眉を顰める。反射的に反発してしまうのはクロウリーの性分だった。

「ここはおれの部屋だ」
「だからだよ」
「はあ?」
「たぶんだけどちょっと刺激が強いと思う。彼らの精神力は思ってるよりも脆いことが多いのは知ってるだろ」
「なんの話だよ」
「きみを目当てに呼んでもないのに来るようになったら困るだろって話」
………、」
「家を知られるということの怖さがやっと本当に理解できた気がする

言いながらすたすたと玄関に向かうアジラフェルをクロウリーはおとなしく見送った。アジラフェルの考えはさっぱりわからないがだってここは悪魔の棲み処だぞ、心配するなら人間のほうだろあいつがそうしたいという気持ちは嬉しいことのようだと感じた。
クロウリーはワインとグラスを取るついでに、ぱちんと指をひとつ鳴らしておいた。

アジラフェルはそれほど間もなく戻ってきたが、何やら怪訝な顔をしている。満足できる結果を得られたと覚ったクロウリーは心の内でにんまりと笑った。

「どうした?」

ほくほくとした気持ちを押し殺してできるだけ自然に問いかけると、アジラフェルがドアを開けた途端デリバリーピザの配達員はピザを落とさんばかりに驚き、狼狽え、怯えた様子で慌ててここを立ち去ったのだと言う。
それもそうだろう。きっとその配達員には、アジラフェルの姿が過去に観た中で最も怖れたホラー映画の登場人物に見えていたのだから。
クロウリーの悪魔的ないたずらはどうやら完璧に上手くいったようだ。ということは、既に調子は戻りつつあるらしい。

「こっちだ。ベッドで食おう」
「ベッドで?」
「それが作法だよ」
「デリバリーピザに作法なんて無いだろ」
「見たことあるだろ?ベッドでピザやアイスを食ってるわんぱくなティーンを。今日はとことん悪い子になってもらわなきゃな」

おれのために、と付け加えてやったのはアジラフェルへの情けだった。調子が戻ってきたこともありすっかり気分が良くなったクロウリーは、零れることも恐れずワインを注ぎながらベッドへ寝そべる。
枕の間にボトルを挟んで隣をぽんぽんと叩くと、誘われた天使は小さく溜め息を吐いておずおずとベッドへ乗り上げた。手にはしっかりLサイズのピザを二箱持って。そのちぐはぐさが可笑しいったらないんだが、本人は至って真面目に“悪魔のために仕方なく”と思っているのだ。そのピザはどちらも自分の腹に収める心積もりでいるくせに。ああ、可笑しい。

空のままのグラスを受け取ったアジラフェルは丁寧にベッドサイドへ置き、苦労して手に入れた本の表紙を持ち上げるときと同じ所作で、膝の上のピザの箱を開けた。ばからしくて笑える。だってデリバリーピザだぞ。ひとくち齧るまでにどれだけワインが進むことか。ほんとかわいいなおまえは。

「おいしい」
「よかったな」
「デリバリーピザを侮ってたよ。想像よりもずっとおいしいしボリューミーだ。しっかり温かいままなのもすごい」
「一度頼んだことがあるって言ってなかったか?」
「あのときはこんなものかって思ったはずなんだけど。あんまり質が良くなかったんだね。たまたまはずれを引いただけだったのかも」

アジラフェルは淀みのない所作で次々とピザを体の中へ容れてしまう。あっという間に空になった一箱目をベッドの下へ置き、二箱目を同じ所作で大事そうに開く。さっきのは茄子やオリーブが乗っているのが見えたが、今度は極めてオーソドックスなマルゲリータらしい。
まるで綿菓子でも食べているかのようにするすると飲み込まれていくのが何だか惜しくなる。お行儀悪くベッドでジャンキーな食事をとる天使をもっとじっくり見ていたい。
不意に思いついて、ピザの箱を向こう側の脚に追いやり、空いたほうの小高い太腿に頭を乗せてごろりと仰向けに寝転がってみる。

「わ、危ないよ」
「お構いなく」

僅かに眉を顰めて戸惑っていたアジラフェルだったが、すぐに箱の中へ手が伸びた。
当然といえば当然だが、こんな角度からアジラフェルの食事風景を見るのは初めてだった。
なかなか悪くない景色だ。ああ、最初からこうしていればよかった。残りのピザはもう半分を切っている。

「きみは本当にわたしの前ではあまり物を食べないね。たまにはひと切れくらい食べる?」
「いいや」
「おいしいよ」

クロウリーはまた次を取ろうとするアジラフェルの手首を掴み、その指先を口に含んだ。

「わっ、こら」
「これで十分だ」
「もう味がする?」
「バジルの香りだ。それとトマト。酒が進むな」
「調子が戻ったみたいだね」

困ったように微笑みながらも新しいひと切れを手に取るアジラフェル。やはり淀みなく口の中へ運ばれ、端からゆっくりと消えてゆく。
最初からこうしていればよかった、とクロウリーはもう一度強く思った。

「それ食い終わったらまたその指貸してくれ」
「いやだよ。また舐める気だろ」
「肴にするんだ。頼むよアジラフェル

真下からまっすぐに見上げながら、すりと指先で腕を撫でてねだる。ピザを口へ運ぶ所作も噛み砕く動きも緩慢になり、困惑がびしびし伝わってくる。その姿もまた他のものでは代えがたい佳肴だった。

クロウリー」
「うん?」
「誘ってる?」
「うん」

横目に見下ろしてくるアジラフェルから目を逸らさないまま、我ながら器用に残り僅かだったグラスの赤を飲み干す。心なしかじとっとした眼差しのアジラフェルは、ピザの箱の蓋を静かに閉めた。記憶が正しければ、もう二切れは残っているはずだが。
クロウリーは口の端を上げ、体を起こした。

「乗ってくれるのか?」
「そんな誘い方をされたら断れない」

頬を撫でるアジラフェルの掌が後頭部へ滑り、引き寄せられるまま唇を差し出す。バジルとトマト、それからチーズにオリーブ。たまにはこういうキスも面白みがあっていいかもな。

「最初からこっちを肴にすりゃよかった

べろりと下唇を舐めながら笑って言うと、アジラフェルも目を伏せ、柔らかい微笑みを浮かべた。

「きみの唇からはワインの香りがするよ」

クロウリーは何故だかその台詞に今夜一番興奮した。まるでおれがこれから食べられるみたいだ、と。

アジラフェルは贈られたばかりのパジャマをその日のうちに二度も脱いだ。









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